養老先生の対談から豊穣で先鋭な感性を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
日本人は「階層性」がわからない
から抜粋
▼養老
僕はある時、日本人が一番考えていないのは階層性だということに気づきました。
およそ日本人は階層性の概念を持ちません。
その原因は日本語の構造からも説明されます。
日本語には英語で言うところのwho,whom,whose,where,thatなどに導かれるような関係節がありません。
一つの文章の中に、主・従がないので、階層性を作ることが感覚化しないという説があります。
▼藻谷
確かに階層性は感覚化していませんね。
中学の時に英語の授業で、関係代名詞を「・・・するところの」と訳す、というのを最初に聞いた時に、多くの日本人がそうでしょうが、私も何を言っているのかよく分かりませんでした。
その後訓練を重ねまして、関係節を使えるようになったわけですが、つまり脳内に日本語の八百万の体系と、西洋的なピラミッド体系が、両方成立したことになります。
▼養老
最近は、翻訳するときに、関係節をあまり重視せずに、短文で切って訳してしまいます。
原文とは肌合いが違ってしまいますが、仕方がありません。
▼藻谷それで思い出すのが、日本人は戦略と戦術を混同しがちだという話です。
経営の世界ではストラテジー(戦略)とタクティクス(戦術)の違いは重要です。
さらにその上位にゴール(目標)があり、下位にはテクノロジー(技術)がある。
ところが日本では、経営者でもこの区別ができていない人が多い。
階層性がない言語を話していると、戦略と戦術の違いは理解できないのかもしれません。
▼養老
できの悪い大学院生に英語で論文を書かせる時に、僕が一番注意したのは、概念や文章構造の階層性です。
日本語で考えてそれを英語にすると、往々にして無茶苦茶な文章になってしまうわけですが、階層の混同・混乱が原因だと思います。
たとえば、食べ物と果物とでは、概念の階層性が、少しですが違います。
ただ日本語では、それを混同していても違和感がありません。
「日本語は論理的ではない」と言われたりしますが、僕は理由の一つはここにあると思う。
しかし、日本語では、一つの文章の中で階層性が混同されていても、論理性が失われないのです。
▼藻谷
一つの文章の中で階層性が混同されていても、論理性が失われないのが日本語。
一種のメタな論理性があるということですね。
そういう言葉を使っていると、何にでも順位をつける思考法にはついていけない。
他方で、先行詞に対して別の言葉を従属させる関係詞を持つ印欧語を常用していると、万物に階層性を持たせるようになる。
すべての階層の上にある、万物が従属する何ものかがあるはずだ、と自然に考えるようになるわけですね。
▼養老
中学生くらいの数学で、AイコールB(A=B)のところでつまずく子どもがいます。
AとBは違うのに、なぜイコールなのかと。
「Aイコール」とやるなら、そのイコールの先はAではないかと(A=A)。
口に出して言わないまでも、違和感を持つ子どもはいます。
これなんかも、ひょっとすると、階層性に対する意識が関係しているかもしれない。
AとBは本来違うものだけれども、それぞれの中に従属しているものによっては、同じになりうるという概念操作ができない。
だが逆に、AイコールBがわかるというか、それに違和感を覚えないのは、感覚や感受性が弱いからともいえる。
AとBという明かに違うものを等号で結んであるわけだから。
▼藻谷
僕はAイコールBに違和感を覚えないほうでしたので、いま、そこでつまずく人がいると聞いて驚きました。
確かに「2A」を「Aが2個」ではなくて、「2」と「A」だとか、「二列目のA」と見なすことも可能です。
▼養老
NHKが正しい発音というのをやっていますが、考えてみると不思議です。
声紋は指紋と同じように個人ですべて違うので、正しい発音とは一体どういうものなのか、結局、ほとんどの人が聞き取れる発音を正しい発音と見なすしかありません。
つまり、正しい発音というのは、統計的なものなのですね。
だから文脈によっては、ほとんど聞き取れないことでもきちんとわかるということが起こります。
正しい文字も同じことで、実は正しい文字という絶対的なものを示すことはできません。
つまり、読めれば正しいわけです。
でも、教育の現場では、おそらくそういうふうには教えていない。
▼藻谷
AとBは違うんだから、AイコールBはおかしいという子どもが、学校教育の成果として、だんだんAイコールBが納得できる脳に近付いていくわけですね。
いいことなのか、残念なことなのか。
▼養老
脳化というのは、一つは階層を登っていくということです。
▼藻谷
ただそのことによって、少なくとも石油を活用した製造技術では、日本は欧米に追いつき、追い越した面もある。
他方で階層化を拒否する感性というのも残している。
これに中国語というまた別種の言語構造の集団が加わって、世界はますます複雑化していくのでしょう。
「日本はひどい」と「日本はすごい」
から抜粋
▼藻谷
そのように八百万の存在に階層をつけず受け入れてきたはずの日本ですが、最近急速に自然に冷たい、というか無関心になってきている感じがあります。
▼養老
僕は、都市化のためだと思っています。
▼藻谷
都市化によって、脳の中に閉じ籠る人が増えたということですね。
それに、インターネット環境が日本の隅々まで浸透したため、どこもかしこも「都市化」してしまったと言えるかもしれない。
つまり、田舎に住んでいても、脳の中に閉じこもることができるようになった。
私は参加もしないし、読みもしませんが、TwitterやSNSでずっと議論をしている人がいますよね。
限定されたインプットしかしない人たちが、机の前でああでもないこうでもないと考えて議論しても、生産的でもなければ、創造的でもない。
そういう人たちは、お互いの妄想を再確認して安心しているのでしょうか。
▼養老
寝る前に書いた原稿みたいなものじゃないですか。
▼藻谷
寝る前に書いた原稿!
それも酒を飲みながら。
確かに翌朝読んでみるとどうしようもない。
ネット上に溢れている情報は、寝る前に書いた原稿のようなもの。
その通りですね。
ネットには…、日本は…、中国は…、アメリカは…、世界は…、と主語が大きい文章を書きたがる人が多いのですが、肝心のファクトの収集・分析を怠っているものが多いから、議論も、コミュニケーションも成り立たない。
結局、ほとんど根拠のない、「日本はひどい」という話と「日本はすごい」という話の繰り返しです。
▼養老
ただ、「都市化」は近代になって始まったことではありません。
人間の歴史は、都市化の歴史と言えます。
平安朝の貴族は完全に脳化、つまり、都市化していました。
『更級日記』を見てもよくわかる。
著者の菅原孝標(たかすえ)の娘は、父の任地である上総の国に暮らしていますたが、京都に行きたくて仕方がない。
仏様まで彫らせ、それに額をすりつけて懇願します。
念願叶って、京に上る途中、武蔵国、つまりいまの東京を通っていくのですが、
「風情を感じられるような景色がない。蘆(あし)や萩ばかりが背より高く繁っていて、同行の馬に乗った人たちが持っている弓の先さえ見えない」、
なんて書いてあります。
▼藻谷
自分が田舎育ちなのに、本で読んで得た世界観は「田舎はひどい、都はすごい」ですか。
そのように平安貴族は脳化していたわけですが、戦国時代には、食い詰めて、都でも郊外で農業したり、田舎に行かざるをえなくなった人たちがいた。
帰農して領主になった人もいる。
現代日本でも、石油がなくなり、原発もだめということになれば、都市住民も田舎に住まざるをえなくなるかもしれない。
あるいは石油はあるけれど、人口が減りすぎて空き地だらけになり、都市の中だけれども農業をするか、という話が増えていくことでしょう。
▼養老
やはり、これからの日本人はある程度田舎に回帰していくのではないでしょうか。
「更級日記」の一部を
脳化・都市化の象徴という読み方をされるとは
養老先生って本当に博識で感性が先鋭だよなあ。
もし先生がお若くて経済・政界に
携わっておられたらなあと思ってしまうが
しかしそうならないのが世の常で
それは”まえがき”を読むと痛切にわかる。
この本を企画された方の”あとがき”によると
「教育論」を語ってもらう予定だったとのこと。
かなり趣旨が変わってしまい
少し時間経過した本だけど、自分は面白かったし
コロナ・戦争勃発を経る前の「教育論」は
様変わりしていて、つまらないものに
なったのではなかろうかとも。
とはいえ、教育とは無縁ではなく
養老先生の”まえがき”がそれ以上に深淵で
そこに”教育”への提言が含まれているのは
先生のご配慮なのかもしれない。
それにしても藻谷さんというのは養老先生の
極論を”開いて”さしあげる役割もされていて
内田樹先生と似ているなあ、と思った。
余談だけど自分にできることを考える。
賢人の知恵から良いと感じるエッセンスを
少しづつ享受いただき考え、
少しでも社会を良くしていければなあ、と
子を持つ身分として
気候変動の灼熱の夏、蝉の大合唱が遠く聞こえる
脳化・都市化してしまった我が身を思い
深く感じ入るのございました。長いよ、締めが。