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③ドーキンス博士『遺伝子の川』から”やんごとなき”を感じる [’23年以前の”新旧の価値観”]


文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 文庫

全般的に難しいような、でも

読んでしまうといった書籍でございました。

もう少し遺伝子の勉強をしてから

読み直したい。

4 神の効用関数 から抜粋


さて、ここで「リヴァース・エンジニアリング」と「効用関数」という二つの専門用語を紹介しようと思う。

この部分はダニエル・デネットの卓越した本『ダーウィンの危険な思想』の影響を受けている。

リヴァース・エンジニアリングとは以下のような仕組みの推論方法である。

エンジニアがどうにも理解できない人工的な産物と直面したとする。

そこで、それが何かの目的のために設計されたものだという作業仮説を立てる。

そして、それがどんな問題の解決にすぐれているものかを理解する目的で、それを分解して分析する。

「もし、私がこれこれのことをする機械をつくりたかったとしたら、こんなふうにつくっただろうか?あるいは別のこれこれのことをするために設計された機械だと考えた方が分かるだろうか?」


たとえば、計算尺はつい最近までエンジニアという名誉ある職業のお守りだったが、エレクトロニクス時代のいまでは、青銅器時代の遺跡のように古色蒼然としたものになっている。

未来の考古学者は計算尺を発見して何だろうと思い、まっすぐな線を引いたり、パンにバターを塗るのに手ごろだと思うかもしれない。

そのいずれかが本来の用途だったと考えるのは仮定の節約という条件を侵害することになる。

単に先のまっすぐなナイフあるいはバターナイフなら、物差しの真ん中に滑り板などは必要なかったはずだ。


さらに、計算線の間隔を調べれば、偶然にしてはあまりにも細部まで注意深く処理された対数尺であることが分かるだろう。

電算機以前には、この形式が掛け算と割り算を迅速にするための精妙な仕組みだったことが、考古学者にもだんだんわかってくるだろう。

知的かつ経済的な設計という仮定のもとにリヴァース・エンジニアリングすることで、計算尺の謎は解決するはずである。


「効用関数」は、エンジニアリングではなく、経済学者の専門用語である。

それは「最大化するもの」という意味である。

経済企画にたずさわる人びとや社会工学者は何かを最大化しようと努力する点で、建築家や本物のエンジニアに似ている。

功利主義者は「最大多数の最大幸福」(ついでながら、このキャッチフレーズは実際以上に知的な響きがする)を最大化しようとする。

このスローガンのもとに、功利主義者は短期的な幸福を犠牲にしても長期的な安定を多少とも優先させるかもしれないし、しかも功利主義者たちのあいだでも、「幸福」なるものを計るのに、財政的な富、職業上の満足感、文化的な達成度、あるいは個人的な人間関係のどれを尺度とするかで意見が分かれる。


また、公共の福祉を犠牲にして公然と自らの幸福を最大化する人もいて、彼らは自分のエゴイズムを体裁のよいものにするために、個人が自助努力をすれば全体の幸福が最大化するという哲学をふりまわす。


個々の人間の生涯の行動をじっくりと観察すれば、彼らの効用関数をリヴァース・エンジニアリングすることができるだろう。

ある国の政府の行動をリヴァース・エンジニアリングしてみれば、最大化されているのは雇用と全国民の福祉だという結論になるかもしれない。

別の国では効用関数は大統領の権力の維持とか特定の支配者一族の幸福、あるいはスルタンのハーレムの大きさ、中東の安定つまり石油価格の維持ということになるかもしれない。


つまり、想像できる効用関数は一つとは限らないということである。

個人や企業や政府が何を最大化しようとしているかは、かならずしも明らかではない。

だが、何かを最大化しようとしていると考えてもさしつかえないだろう。

何となれば、ホモ・サピエンスは目的にがんじがらめにとりつかれている種だからである。

たとえ効用関数が多くの入力からなる加重和だったり複雑な関数だということになっても、この原理は有効である。


ここで生物体に戻ってその効用関数を導きだしてみよう。

たくさんの効用関数がありうるが、意味深いことに、それらのすべてが最終的には一つに収斂していくことが明らかになるだろう。

この作業を劇的に示すよい方法は、生物が神というエンジニアによってつくられたと仮定して、リヴァース・エンジニアリングすることによって、神が何を最大化しようとしたのかをさぐってみることである。

神の効用関数は何だったのだろうか?


チーターはどう見ても何かのためにすばらしく設計されたように見え、リヴァース・エンジニアリングしてその効用関数を見つけだすのも難しくはなさそうである。


確か無神論でおられるのに


神とか設計とかってのも


アイロニーとして使っておられるのだろうか。


人間は自分が作れないものを見ると


神を出したくなるのだ、というのは


手塚治虫さんが以前ナスカの地上絵を見た時


同じようなことを仰ってた気がする。


話戻ってドーキンスさんって単なる直感だけど


”神”を信じているような気もしてきたな。


自論の考察とは別次元で。まだまだ読みが浅いのか。


やんごとなき空想でした。


もし自然がやさしいのであれば、せめて芋虫が生きたまま食われる前に麻酔ぐらいの小さな譲歩をするだろう。

だが、自然は親切でもないし、不親切でもないのだ。

苦痛に反対でも賛成でもない。

いずれにしろ、自然はDNAの生存に影響をおよぼさないかぎり苦しみには関心がない。


DNAは何も知らず、何も気にかけない。

DNAはただ存在するのみであり、われわれはそれが奏でる音楽に合わせて踊っているのである。


訳者あとがき(95年版)に


垂水先生書かれているけど


”利己的な遺伝子”という語が勝手解釈のもと


一人歩きしすぎて浮気なども遺伝子のせい


というような言説にまで発展してしまい


ドーキンス博士の本意ではないと。


90年代にはそういう勝ち組論が流行りましたので


なんとなく分からなくもないのだけど


ビジネススキームに巻き込まれてるなあと。


ドーキンス博士の言葉を借りるなら


ネッカーキューブのような言説は


やんごとなき展開として迷惑極まりないと


長谷川眞里子博士も指摘されてた。


柳澤桂子先生は遺伝子には個人の


生死の情報までも書かれているとか。


深すぎるため、それは一旦おいておいて


時を経て20年してからの垂水先生のあとがきが


遺伝子という狭義な世界だけに留まっていない


ドーキンス博士のただいま現在を思い


しびれました。


文庫版あとがき から抜粋


この本の原著および日本語訳が出版されたのは、1995年だから、今から20年近く前ということになる。


いまやドーキンスも70歳をとうに越え同い年の好敵手だったスティーヴン・ジェイ・グールドも鬼籍に入った。


これだけの年月を隔てていながらも、今回、文庫化にあたって読み直してみて、その鮮やかなレトリックと、内容が全く古びていないことに改めて感心した。

もちろん、本書が書かれた時点ではヒトゲノム計画は始まったばかりで、その後の華々しい成果はまだ知られていなかった。

それゆえ、本書で取り上げられている具体的な事例は最新のものとはいえないが、その論旨はいささかも変更を必要としない


むしろ、その後の研究はさらに補強証拠を積み重ねていると言える。

分子遺伝学の最新の発展については、多数の啓蒙書が出版されている。

そうした最新情報を取り込んだドーキンス自身の著作としては『祖先の物語』や『進化の存在証明』があるので、関心がある人は読んでいただきたい。

ゲノム解析の成果によって、動物の系統樹が劇的に書き改められたことや、遺伝子発現の複雑なメカニズムがしだいに明らかになっていることがわかるはずだ。


利己的な遺伝子』そのものは世界的な大ベストセラーとなり、初版出版から40年近くなる現在でも売れつづけていて、古典として確固たる地位を築いている。

しかし、その本意をどれだけ理解されているかについてはおおいに疑問がある。

彼の狙いはダーウィンの進化論をより現代的な視点、つまり個体や群(グループ)の進化ではなく、遺伝子の進化として論じることを目指すものだった。


ドーキンスはダーウィンの進化論を現代的な知見にもとづいて装いを新たにしたネオダーウィン主義として、世間に向かってひろめようとしていたのである。


しかし残念なことに、「利己的な遺伝子」という言葉がこれだけひろく認知されるようになったにもかかわらず、科学者のあいだはともかく、大衆のあいだでは、ダーウィンが提唱し、ドーキンスがより先鋭的な形でひろめようとした進化のメカニズムはかならずしも受け入れられていない。


とくにアメリカではそうで、各種の世論調査では国民の7割近くが、聖書の記述を信じて創造説を奉じ、進化論を認めていない。

したがって、いまなお進化論の唱道が必要なのである。

ドーキンスは『利己的な遺伝子』以来、この『遺伝子の川』を含めて、多数の著作を通じて、叫び続けている訳だが、一向に事態が改善される気配がない。

今なお同じ叫びが意義を失わず、ドーキンスの言論が古びないのは、状況が本質的に変わっていないことの裏返しでもある


文庫化にあたって、原則として訳文はいじらず、不適切な表現や明らかな誤記を訂正するにとどめたが、表記はいくつか変更した。

なかでも大きな変更はディジタルをデジタルに変えたことある。

発音表記としてはディジタルが正しく、文科省のディジタル技術検定などのような公式名称も残っていれば、電子情報学ではディジタル信号処理といった表記がいまでも使われている

しかし、近年ではほとんどの媒体でデジタルが使われ、デジカメといった短縮表現さえ流布している。

いってみれば、ディジタルは日本語ミームとしてデジタルとの生存競争で圧倒的に打ち負かされてしまっているのだ。

そこで、文庫化を機会に、敗北を認めてデジタルに変更することにし、それに連動して「ディジタル・リヴァー」も「デジタルの川」に変えた。


90年代半ばは”デジタル”ではなく”ディジタル”だった。


垂水先生ご指摘のように、発音的には


正しいはずなのに一般的に多く流通し


現在では”ディジタル”は駆逐されてしまった体で。


全くの余談だけど、この書の最終ページに広告で


”草思社サイエンス・マスターズ全22巻”とあり


「以下続刊(仮題)」の中に


『生命の歴史と進化/スティーヴン・ジェイ・グールド』


というのが掲載されていて期待を膨らますも


その7年後(2002年)に出た同シリーズの


リー・スモーリン博士の『量子宇宙への3つの道』を


持っておりますが、その続巻広告にはこう書かれてます。


お知らせ

続巻に予定しておりましたスティーヴン・ジェイ・グールド氏の『生命の歴史と進化』(仮題)は、去る2002年5月20日著者急逝のため、取りやめといたします。


残念だなあ、同シリーズで両雄の書籍を


読んでみたかったなあと


やんごとなき思いがよぎったのは


自分だけではなかろうという気がしつつ


今日は早番での仕事のため瞼が


重くなってまいりました。


 


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②ドーキンス博士『遺伝子の川』から”デジタル”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 文庫

文章を引きながら気がついた事。


ドーキンス博士の論説の書は、


一部を抜き出すってのは相当困難で


前後が関連しまくりのため長くなってしまう。


さらに無駄がなくて洗練されてて、かつ


ものすごく戦略的に書いているのが分かる


と言ったら語弊あるか。浅学な自分では。


この書の翻訳の仕事はかなり大変だよ、なんて


いらぬお節介でございました。


1 デジタルの川 から抜粋


ここで、川の比喩(メタファー)についてとくに注意しなければならない重要な点がある。

あらゆる哺乳類の川の分岐を考えるときーーたとえばハイイロリスにつながる川にひき比べてーーとかくミシシッピ川とミズーリ川といった大河を想像したくなる。

哺乳類の流れはいずれ分岐を繰り返してすべての哺乳類ーーヒメトガリネズミからゾウにいたるまで、地下のモグラから樹冠にすむサルにいたるまでーーをつくりだす宿命にある。


哺乳類の川は何千という重要な主要水路のもとなのだから、とどろき流れる堂々とした奔流ではないわけがあろうか?

だが、こうしたイメージは見当違いもはなはだしい。

現代のすべての哺乳類の先祖がそれ以外の動物の先祖と別れる時、その出来事はほかの分化と同様、大がかりなものではなかった。


たとえそのころに博物学者が居合わせたとしても、その出来事には気づかれずに終わっただろう。

分岐したばかりの川は水のしたたりのようなもので、そこに住む夜行性の小動物とその「いとこ」(後述するようにより広い意味での)にあたる非哺乳類とのちがいはほとんどなく、アカリスとハイイロリスの違いと同じ程度のものだったろう。


それより以前に、脊椎動物、軟体動物、甲殻類、昆虫、体節動物、扁形動物、クラゲなど、全ての主要な動物分類群の祖先が分かれていったときにも、やはりドラマらしいものはなかったと思われる。


一方の集団が軟体動物を、もう一方が脊椎動物を次々と生んでいくなどとは、誰にも考えられなかっただろう。

二本のDNAの川は分かれたばかりで小さな流れにすぎず、二つのグループの動物たちがほとんど見分けがつかなかった。


動物学者はこうしたことを熟知しているのだが、軟体動物と脊椎動物のような本当に大きな動物群について考察しているようなとき、ふとそれを忘れることがある。


動物学者がそのような考えちがいをしたくなる理由は、彼らが、動物界の大きな分岐の一つ一つに、何か非常に独特なものーードイツ語で「バウプラン(Bauplan)」と呼ばれるものーーが準備されているといった畏敬に近い信念の中で育てられてきたからである。


この言葉は「青写真」という意味にすぎないが、それは専門用語として認められるようになってきており、私は英語の単語のように語形変化させることにする。


専門的な意味では、バウプランはしばしばファンダメンタル・ボディ・プラン(基本的体制)と訳される。

「ファンダメンタル」という単語(つまり、気取ってドイツ語由来の言葉を使うことで知的な深みを出そうとしている点は同じ)が害をなしている。

それがもとで動物学者たちはひどい間違いをおかすことになるのである。


たとえば、一人の動物学者は、カンブリア紀(約六億年から五億年前)の進化は、のちの進化とはまったく種類の異なる過程だったにちがいないと示唆している。


だが、動物界の主要なバウプランは共通の起源から徐々に漸進的に分岐したのである。


実の話、進化がどの程度まで漸進的だったか、あるいは「飛躍的」だったかについてはさかんに議論されて、わずかながら意見の不一致がある。

とはいえ、誰も、本当に誰一人として、進化が一足飛びにすべての新しいバウプランをつくりだしたほど飛躍的だったとは考えてはいない。


先に引用した動物学者が書いたのは、1958年だった。

今日では、明確に彼の立場をとる動物学者はほとんどいないのだが、おりにふれてそれとなく彼の立場を取る学者はいる。

そして、主要な動物群は偶発的な地理的隔離のあいだに祖先の個体群が分岐したのではなく、あたかもゼウスの頭からアテーナーが生まれたように自然発生的に、そして完全なかたちであらわれたかのごとく語るのである。


スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ワールドーーバージェス頁岩(けつがん)と生物進化の物語』はカンブリア紀の動物相をみごとに解説したものだが、読者がこれを参照されるときには、これらの点に留意されるのがよいだろう。


いずれにせよ、分子生物学の研究によって、大きな動物群同士は以前考えられていたよりもはるかに近しいことがわかった。

遺伝暗号は辞書のように読めるもので、そのなかでは一つの言語の64の単語(4つのアルファベットのうちの3つを組み合わせたトリプレットが64個)が別の言語の21の単語(20のアミノ酸と終止マーク)に対応する。

同じ64対21という対応がもう一度起こる確率は、10の24乗回に一度少ない。

それにも関わらず、観察されるすべての動物、植物、細菌の遺伝暗号は、実際、文字通り同一である。


地上の生きものはたしかに唯一の祖先から出た子孫なのである


それに疑問をはさむ人はいないだろうが、いまや遺伝暗号そのものだけでなく遺伝情報の詳細な配列が調べられるようになって、たとえば昆虫と脊椎動物の驚くほど密接な類似が明らかになってきた。


昆虫の体節構造には非常に複雑な遺伝的メカニズムが対応しているが、哺乳類にも恐ろしいほどこれによく似た遺伝機構の部品が発見されているのである。

分子的な観点からすると、すべての動物はたがいにかなり近い親戚であり、植物とさえも親戚なのだ。

遠い「いとこ」を見つけたかったら、バクテリアを調べなければならないし、その場合でも遺伝暗号そのものはわれわれのそれとまったく同じである。


そのような精確な計算が、バウプランの解剖学に基づいてではなく、遺伝暗号に基づくことで可能になる理由は、遺伝暗号が厳密にデジタルだからであり、デジタルなら正確に数えることができるからである。


遺伝子の川はデジタルの川であり、私はここでこの工学用語が何を意味するかを説明しなくてはなるまい。


ここから”デジタル”と”アナログ”について


CDとかレコード、コンピュータや電話通信などを


例にとられての説明なのですが


わかるところとわからないところとあり


本当に”デジタル”なのよ遺伝暗号は、という説明が。


自分のキャパでは無理なのか、とか。


幼いころに、私は母から人間の神経細胞が体の電話線なのだと教えられた。

だが、それらはアナログ式だろうか、それともデジタル式なのだろうか?

その答えは、奇妙にそれらが入り混じったもの、ということになる。

神経細胞は電線には似ていない。

それは細長い管で、その管を化学変化の波動が伝わってゆく。

地面の上でシューシューと音をたてる導火線のようだが、導火線とはちがって、神経細胞はまもなく元の状態に戻り、少し休息したあとまたシューシューと動きはじめる。

振幅の最大値ーー火薬の温度ーーは神経を走るあいだに変動するかもしれないが、これは関係ない。

コードはそれを無視する。

化学的パルスがそこにあるか、あるいはないかのいずれかであって、デジタル式電話の異なる二つの電位と同じことである。

この程度に神経系はデジタルなのである。

だが、神経インパルスはむりやりバイト、つまり二進法数字の集まりへとまとめられることはない。

それらが集まって個別の暗号数字になることもない。

そのかわりに、メッセージの強さ(音の強さ、光の明度、たぶん感情的な苦しみまでも)がインパルスの速度として記号化される。

これはエンジニアたちにパルス周波数変調として知られており、パルス符号変調が採用されるまでは彼らに重宝がられていた。


パルス速度はアナログ的数量だが、パルスそのものはデジタルである。

それらはそこにあるかないかのいずれかであって、中間というものがない。


そして、神経系がこれから得る恩恵は、ほかのデジタル・システムが受けているものと同じである。

神経細胞の働く仕組みのために、増幅器と同じものが、1000マイルごとではなく、1ミリメートルごとにーー脊髄から指先までに800個のブースター局がーーある。


もし神経インパルスの絶対エネルギー量ーー火薬の衝撃波の強さーーが問題ならば、メッセージはキリンの首はもちろん、ヒトの腕の長さを伝わるあいだに、認識できないほど歪められてしまうだろう。

増幅されるたびごとに、各段階で偶発的なエラーが入ってくるだろう。


それはちょうどテープレコーダのテープからテープへと800回もダビングしたときに起こるのと同じだし、あるいはゼロックスで複写したものをまたゼロックスにかけるのと同じだと言ってもよい。


このあと、1953年に二重らせん構造を


発見したノーベル賞ホルダーの


ワトソンとクリックに話は及ばれる。


ワトソンとクリック以後、われわれは遺伝子そのものが微小な内部構造に関するかぎり、純粋にデジタルな情報の細長い連鎖をなしていることを知っている。


遺伝暗号はコンピュータのような二進法暗号でもないし、一部の電話方式のように8個の電位レベルの暗号でもなく、4個の記号をもつ四進法暗号である。

遺伝子の機械語は奇妙なほどコンピュータ言語と似ている。


われわれの遺伝子システムは、地球上のあらゆる生命に普遍的なシステムだが、徹底的にデジタルである

逐語的な正確さで新約聖書のすべてを暗号化して、ヒトゲノムのうちで現在は「無用な」DNAーーつまり、少なくとも普通のかたちでは身体が使っていないDNAーーが占める部分に書き込むこともできる。


身体のすべての細胞には膨大なデータを入れたテープ46本に相当する情報が含まれていて、同時に動く無数の読み取りヘッドを介してデジタル文字をよどみなく読み取っていくのである。

すべての細胞のなかで、これらのテープーー染色体ーーには同じ情報が含まれているのだが、細胞によって異なる種類の読み取りヘッドがデータベースの中から自分たちの専門用途に沿って異なる部分を探し出す。


だからこそ、筋肉の細胞は肝臓の細胞とは異なるのである。

精神につき動かされた生命力もなければ、どきどきと脈打ち、上下にゆれて群がる、原形質の神秘なゼリーなどもない。

生命はデジタルな情報のバイト、バイト、バイトにすぎないのだ。


そう言われれば、そうなのかなあ。


遺伝子の塩基配列のことでしょう?


そこまではわかるような気もするけど


デジタルなのかなあ、とか。


デジタル=ロボットとかを想定してしまうが


そうではないってのはわかるのだけども。


でも”機械論”のようにも書いているから


結局はロボットみたいなものなのか。


人間の神秘というのはいずれ科学で


すべて説明つくっていう利根川博士に


行き着いてしまうのだけども。


だとしても”質の高い宗教は必要”と説かれる


柳澤桂子先生の言葉も浮かぶのだよなあ。


関連しているのか、これらのことは。


みんな本当に納得されて読んでいるのだろうか


みたいなことを思ってしまったり。


グールドさんとの論争もなかなか興味深い


進化の分岐は左程ドラスティックじゃないよってのも


分かるのだけど、”デジタル”ってのにつまづいて


ここがひっかかると先に行けないのだよなあ。


とはいえドーキンス博士の書は疑問ながらも


ついつい読んでしまうっていうのが特徴でして


表現とか洒落てるし、ざっくりいうと西洋の


知識とか文化を浴びせかけてくるので


なんか読んでしまうのは心地良いからなのだろうな。


ドーキンス博士の存在自体が”ミーム”そのもので。


余談だけどこの前テレビで星野源さんがトーク中に


”ミーム”って使っててドーキンス博士のいうのと


少し違うようだけど調べると語源は同じようで


それは新しいのか古いのか、はたまた


そういうレベルでの捉え方のものでははないのか


とか考えてたら疲れてきたので明日は仕事早いしで


夕食の準備をしないとって思っている


ところでございました。


 


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①ドーキンス博士『遺伝子の川』の”つかみ”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

文庫 遺伝子の川 (草思社文庫)

  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2014/04/02
  • メディア: 文庫
この書の購入動機は著者にあるのは
論を俟たないですけれど、
この書にした理由はこだわりはなく
古本屋さんで見つけたからなのでした。

また一つの川がエデンから流れ出て園を潤した。

『創世記』(2・10)


まえがき から抜粋


自然、それはゲームの通り名か。

何十億、何千億、何万億もの粒子が

あちらこちらで、彼方こなたで、ぶつかりあう

無限につづくビリヤード・ゲーム

ピート・ハイン


ピート・ハインが描いているのは古典的な意味での原初の物理的世界だ。

しかし、原子のビリヤードの玉が何かのはずみに、一見どうということもなさそうなある特性を持つ物体を作り出すとき、宇宙にはきわめて重大な変化が起こる。

その特性とは自己複製の能力である。

つまり、その物体は自己を取り巻く物質を利用して、自らとそっくりな複製をつくることができるのだが、それにはコピーするときに起こりがちな些細な欠陥の写しまでも含まれるのである


宇宙のどこにせよ、この類まれな出来事のあとに続くのが、ダーウィンの言う自然淘汰(自然選択)であり、それによってこの惑星に、生命と呼ばれるおどろおどろしい狂騒劇が生じる


これほど多くの事実がこれほどわずかな仮定で説明されたことはいまだかつてなかった。

ダーウィンの理論はこの上ないほどの説得力をもっているだけではない。

この説明のむだのなさには、引き締まった優雅さ、世界中の創世神話の中でも、最も忘れがたいものにもまさる詩的な美しさが備わっている。


私が本書を執筆する目的の一つは、ダーウィンの生命観に関する現代のわれわれの理解が、霊的といっていいほどすばらしいものであることを認識してもらうことである。


ミトコンドリア(エヴァ)には、その名の由来となった神話の主人公以上に詩的な雰囲気がある。


私のもう一つの目的は「生存の仕方」が「DNA暗号で書かれたテキストを未来に伝える仕方」と同義であることを読者に納得のいくように解き明かすことである。

私のいう「川」とは、地質学的な時間を流れながら分岐していくDNAの川であり、個々の種の遺伝子によるゲームを閉じ込めている険しい川の土手という比喩は、説明のための工夫として驚くほど説得力に富み、便利である


とにかく、私のこれまでの著書はすべて、ひたすらダーウィンの原理がもつ無限といえるほどの力ーー原始の自己複製の結果が発現するだけの時間があればいつ、どこでも放出される力ーーを探求して、くわしく説明しようとするものだった。


本書『遺伝子の川』も、この使命に沿うとともに、それまでささやかだった原子のビリヤード・ゲームに複製という現象が注ぎ込まれたとき、その結果として起こる間接的な影響の物語を地球大気圏外で起こるクライマックスまで導こうというものである。


ダーウィンのことはやはり


リスペクトの対象なのですな。


遺伝子のコピーで個体の継承ではないのよ


ってのは相変わらずというか通貫される


言説でございます。


でも”霊的”な”すばらしさ”ってのは


どういうことなのだろか。


それとこの後に出てくるが”デジタル”という


ドーキンス先生の定義はなにかが興味深い。


昨今ちまたに溢れている”デジタル”とは


異なるのか、同じなのか。


1 デジタルの川 から抜粋


すべての生物がすべての遺伝子を、祖先と同世代で失敗した者からではなく、子孫を残した祖先から受けついでいる以上、あらゆる生物は成功する遺伝子を持つ傾向がある。

彼らは祖先になるのに必要なもの、つまり生き残って繁殖するのに必要なものをもっていることになる。

だからこそ、生物が受け継ぐ遺伝子はおおむね、うまく設計された機械ーーまるで祖先になるために奮励努力しているかのごとく活発に働く身体ーーをつくりあげる性質をもっている。

だからこそ、鳥はあれほど上手に飛び、魚はいかにもすいすいと泳ぎ、猿は木登りが得意で、ウイルスは広がるのがうまいのだ。


われわれが人生を愛し、セックスを好み、子供を可愛がるのも、それゆえである。

それはわれわれすべてがただ一人の例外もなく、成功した先祖から途切れることなしに受け継がれてきたすべての遺伝子をもっているからにほかならない。

一言でいうと、それがダーウィン主義なのである。

もちろん、ダーウィンはもっとはるかに多くのことを言っているし、今日ではさらに多くにことがいえる

本書がここで終わりにならないのもそのためである。


とはいえ、いま述べた一節には、無理からぬとはいえきわめて有害な誤解を招く余地がある。

祖先が成功したのであれば、彼らが子孫に受け渡した遺伝子は、結果として祖先が自分の親から受け継いだ遺伝子に比べてよりすぐれたものになってしまっていると考えたくなる。

成功にかかわった何かが彼らの遺伝子に影響を与えたからこそ、その子孫たちはあれほどに飛翔や水泳、求愛が上手なのだ、と。


これは間違い、大間違いである


遺伝子は使うことで改善されるものではない。

それらはただ伝えられるだけで、ごくまれな偶然のエラーを別とすれば、まったく変わらないのだ。

成功がすぐれた遺伝子をつくるのではない。

すぐれた遺伝子が成功するのであって、個体が生きているあいだに何をしようと、それは遺伝子に何の影響も与えない

すぐれた遺伝子をもって生まれてきた個体は、大人になって首尾よく祖先になる可能性がきわめて高い。

したがって、すぐれた遺伝子は劣った遺伝子よりも後代に伝えられる可能性は高くなる。

各世代はフィルターであり、。篩(ふるい)なのである。

すぐれた遺伝子は篩の目から次の世代へ落ちてゆく。

劣った遺伝子は若死にするか、繁殖しないで死ぬ身体のなかで終わりを迎える。

劣った遺伝子も一世代か二世代ぐらいは篩を通り抜ける可能性があるが、それはおそらくたまたま運に恵まれて、すぐれた遺伝子と同じ身体を共有したからである。

ところが、1000世代もの篩を一つまた一つとつづけ様に通り抜けていくには、運以上のものがなくてはならない。

1000世代にもわたってうまく通り抜けつづけた遺伝子は、たぶんすぐれた遺伝子だろう。


それは真実ではあるが、一つ明らかな例外があって、混乱をきたさないように、まずその点をはっきりさせておきたい。

個体のなかには間違いなく不妊でいながら、自分たちの遺伝子を将来の世代に伝えるのを手伝うようにつくられているらしく見えるものがある。

アリやシロアリのワーカー(働き蟻・働き蜂)たちは不妊である。

彼らは自分が祖先になるためではなく、普通は姉妹や兄弟といった近縁で繁殖力のあるものを祖先にするために働く


ここで理解しておかなければならない事が二つある。

第一に、どんな種類の動物でも姉妹や兄弟は同一遺伝子のコピーを共有する確率が高いこと第二に、たとえば個々のシロアリが繁殖個体になるか不妊のワーカーになるかを決定するのは環境であって遺伝子ではないということである。


すべてのシロアリは、ある環境条件によっては不妊のワーカーに、また別の環境条件でによっては繁殖個体になりうる遺伝子をもっている。

繁殖個体は不妊のワーカーの世話を受けながら、不妊ワーカーと同じ遺伝子のコピーを子孫に伝えるのだ。

逆にいうと、不妊のワーカーたちは遺伝子の影響を受けてせっせと働くが、その遺伝子のコピーが繁殖個体の体内に収まっているのである。


ワーカーが持つこの遺伝子のコピーは、繁殖個体が持つ自らのコピーが世代の篩を通り抜けるのを助けようと努力しているのである。


シロアリのワーカーは雄雌ともありうるが、アリやハチ、スズメバチの場合、ワーカーはすべて雌である。しかし、それ以外の点では原理はまったく同じだ。

彼らほど顕著ではないにしても、この原理はある程度まで姉や兄たちが幼いものの世話をする(ヘルパーと呼ばれる)数種の鳥や哺乳類をはじめとするほかの動物たちにもあてはまる。

要するに、遺伝子は自らの宿る体が祖先になるのを手助けするだけでなく、近縁者の体が祖先になるのを手伝うことによって、世代の篩を通り抜けおおせることができるのである。


この本の表題でいう「川」はDNAの川であり、空間ではなく時間を流れる。

それは骨や組織の川ではなく、情報の川である。


体をつくるための抽象的な指令の川であって、体そのものの川ではない。

情報は体を通り抜けながら体に影響をおよぼすが、その際に体から影響を受けることはない。

この川は流れていくあいだに成功した体の経験や業績の影響を受けないだけではない。

見たところ、この川の汚染源としてはるかに強い可能性を持つと思われる性の影響すら受けないのである。


あなたの細胞の一つ一つのなかで、母親の遺伝子の半分が父親の遺伝子の半分と肩を擦り合わせている。


だが、遺伝子そのものは混じりあうことはない。

混じりあうのは遺伝子の影響だけである。


父親の遺伝子と母親の遺伝子が混じりあうことはなく、それぞれ独立に組み換えられる。

あなたのなかの特定の遺伝子は母親から伝わったか父親から伝わったかのどちらかである。

それはまた、あなたの四人の祖父母の一人から、ただ一人から伝わったものであり、八人の曾祖父母の一人から、ただ一人だけから伝わったもの、というぐあいに祖先へさかのぼっていく。


深い。さすがドーキンス先生。


混じりあうのは遺伝子の影響だけ、


篩を通り抜けるのものあるってのは


隔世遺伝のことも含めてのことなのかなあ。


それにしても要諦だけを抜粋、のつもりだとして


ここまででなんとまだ15ページ。


最初に感じたなぜ”デジタル”なのか


すらもたどり着けない。


”川”というメタファーは


どうしても『方丈記』を浮かべてしまうのだけど


ドーキンスさんの場合は、


遺伝という情報というのに重きを置かれて


でもゆく川の流れの無常感は共通するような。


(鴨長明の時代に遺伝子があるわけないからね)


この書、決して疲れはしないし


軽妙洒脱なタッチなんだけど


含まれている情報があまりにも膨大すぎて


なっかなか読めないのが難点。


しかし、それが面白くてエキサイティングなのは


それがドーキンス先生なのだろうなと思うし


古本で100円で買ったんだから


がたがた御託並べてんじゃねえよと


夜勤明け、急に寒くなった雨スタートな


せっかくの休日、読書といきますか


と思っております秋の早朝でございます。


あ、でも同じ書でハードカバー版も持ってます。


Amazonで300円だけど。


垂水先生の文庫版あとがきが気になって


100円のも買っちゃいましたけど。


(そんなんだから本が増えるんだよ!)


 


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柳澤桂子先生の書から”再生”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる

いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2005/09/02
  • メディア: 単行本

帯にあるコピーから抜粋

傑作『生きて死ぬ智慧』に結晶した体験と

思索のすべてがここにあります。(黒田杏子・俳人)


はじめに から抜粋


燃え上がる暮色に思う一日(ひとひ)

我を生かせし遥かなるもの


私が半生の体験で見出した信仰心のイメージは、般若心経に記されている「空」という考え方にきわめて近い。


生きて死ぬ智慧』に結晶している般若心経の現代詩訳は、一通の手紙からはじまった。

その手紙は、私のまったく知らない編集者からのもので、般若心経を現代の詞章に作業に近いがいかに私が適任者であるかが熱心に説かれていた。


般若心経の日本語訳としては、中村元氏と紀野一義氏のものが1番よいとされているが、それでも難解で、理解できない。


般若心経については、私自身特に専門的に勉強したわけではないので、まったくの素人の翻訳である。

けれども、中村先生や紀野先生の本はよく研究させていただいたので、その真髄は把握しているつもりである。


私が科学者であるために、仏教界の方々が訳されたものとまったくちがう訳をして、お叱りを受けるのではないかと思いつつ、科学者の訳もあってもいいのではないかと開き直ることにした。

私なりの般若心経の科学的解釈と現代日本語訳は、私の宗教観の核心に触れる作業でもあったのだから。


私の個人史については、個々の時期や事件のことはこれまでの著書のいくつかでくわしく書いたことがある。

しかし、私の半生を貫いて宗教観を述べた個人史”通史”といえるものは、本書がはじめてである。


科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。


宗教も科学とおなじように、人間の脳の中の営みである。


いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。


「空」の感覚は、雑誌『ダビンチ』で過日


養老先生が星野源さんとの対談で


ハイな状態は「無」ではなく「空」なのだと


ご指摘されていたような。


それだけでなく、養老先生別の書で


ご自身の考え方を「お経そのものじゃないか」


と書いておられた。


脳がつくりあげた現代文明の脳化社会。


科学があきらかに、というのは利根川博士も。


近しいものを感じるのは偶然か必然か。


苦しみの一夜が明けて戸を操れば

盛りだくさんの春にとまどう


12 こころにリアリティー(真実)を取り戻そう


から抜粋


私たちは、ものごとを自己と非自己として、二元的に見る。

自分があり、対象物がある。

爬虫類以上になると、生命の進化の過程で、自己と非自己を区別できることが、生殖や生き残り競争に有利であったために、このような能力をもつものが生き残ってきたのではなかろうか


しかし、現実の世界(リアリティー)は一元的なものであり、本来、自己も非自己もない。

にもかかわらず、私たちは強い自我を発動して生きることを強いられる。

このように、ものごとを二元的に見るために、執着が起こり、絶え間のない我欲と満たされざる煩悶(はんもん)に苦しめられるのである。


私たちは、自己と非自己のある錯覚の世界に生きている


人間の知性を象徴する言葉というものも、元来、二元的なものである。

自己と他者を区別しないことには言語は成立しない

自己以外の外部世界を一つ一つ認識する手段として、言葉なしには生きられない。


つまり、私たちは一元的な現実の世界に生きていながら、頭の中では二元的な見方にとらわれ、非現実=いわばテレビやパソコン画面のようなヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)を生きているのである。

存在のあり方が根底から自己分裂してしまい、私たちの認識そのものに我執の苦しみが胚胎(はいたい=物事の起こる原因を含みもつこと)している


リアリティーを喪失し、我執・我欲に溺れ自分が自分ではなくなり、自分が自分そのものをわからなくなってしまう。


だから、リアリティーを取り戻すための第一歩は、「自分が自分ではなくなっていること」への気づきから始めなくてはならない。


そして、非二元的な世界、つまり原初のリアリティーをはっきりと感じられるようになるためには、我執で織り上げられた「三次過程」の認識にまで到達する必要がある

それは決して不可能なことではないのである。


生きるか死ぬかの瀬戸際にたち


孤独という最悪の病にもさらされてきた


柳澤先生でしか現せない境地なのだけれど


それは誰しもが可能な領域とご指摘される。


すでに書いたように、私は歩けなかったので電動車椅子を使っていた。

電動車椅子で通りを通ると、見知らぬ人の多くが挨拶をしてくれる。

私は喜んで挨拶を返していたが、ある日、私と同年くらいのご婦人から

「たいへんでいらっしゃいますね」

と声をかけられた。


その瞬間、「私は、憐(あわ)れまれているのかしら

という考えが頭をよぎった。

それまで考えたこともなかったのに、その日は妙にそれにこだわった。


少し車椅子を進めてから、私は道端に止まって、考え込んだ。

しかし、いくらも経たないうちに、私は、かつての神秘体験に近い恍惚感に包まれた。


「憐れまれている」などといういやな気持ちは、私があそこにいたから出てきたので、私がいなければ、この気持ちも存在しないのだ。

あのご婦人は、かわいそうな人に優しい言葉をかけて、心地よかったであろう。

私がいなければ、その心地よさしか存在しなかったのである。


…言葉で書いてしまえばこれだけのことであるが、私は身震いするほどの感動を味わった。

これこそ自我を滅するということにちがいない。


このように考えていくと、自我さえなければ、苦しみも悲しみも存在しない

それを作り出しているのは私自身であるということが、こころの底から体感できた。


これは私にとって大きな体験であった。

それ以降、私には自分が不幸であるとか、人を恨むとかいう気持ちがなくなった


おそらく修行を積まれた僧侶の世界では、自我を滅するということは、こんな生やさしいことではないであろう。

けれども、さしあたって、私にはこれで十分であった。


私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。

もはや何かに頼らなければ生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らず、神の前に、神とともに生きるのである。


宗教学では、このように信仰が進化するという考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。

私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうると信じている。


しかし、アリエティウィルバーが述べているように、私たちは「一次課程」の認識にもどるのではない。

「二次過程」の認識を超越して、よりスピリチュアル(霊的)な精神作用を生み出す「三次過程」の認識に進化しなければならない。


そんな”神なき時代”において、「悟り」という至高体験を得られる境地にたどり着くためには、私たち自身の力で、自らのこころを耕し続けるしかない。

たとえば、読書をし、思索を深め、音楽や絵画などの優れた芸術作品に数多く触れることも大切だろう。


ーーたとえば、あなたが散歩中であらゆる雑念やストレスから解放されているとき、なにげなく野の花を目にして、その清らかでつつましい美しさに感動したことはないだろうか?


そこには、すくなくとも私たちを苦しめる我欲は働いていない。

たとえば仏教が煩悩五欲と見なす食欲・色欲・睡眠欲・金銭欲・名誉欲などが、野の花の清らかさに感動を誘うことはあまりない。

この感動は、私たちが芸術作品に触れたときに触発される情感と同質のものである。


始末するもののみ多き老いた身に

紅葉の一葉静かに落ちるる


17 その後ーーあとがきにかえて


から抜粋


家の中でも車椅子で移動する無理の利かない身体である。

原稿をかくことも身体に悪いことがわかってから、仕事をやめることにした。


友人や知人の訪問も疲れるので、すべてお断りしている。

けれども、親しい友人と差し向かいで談笑できる日の来ることが、心の底からの願いである。


たいへん不思議なことであるが、これまで、私が書くべきことは自然と湧き出て、私の前に差し出されてきた。

私から探したことは一度もない。

私の仕事は終わった。


ラヴェンダーの野に寝てみたい

その次は波打ち際を歩いてみたい

柳澤桂子


この書を最後の仕事と決めておられたのですね。


病床からのカンバックであり


仕事への再生の記録であり、これでラスト


あとは穏やかに過ごされたかったはず。


しかし、不幸にもというと語弊あるが


この後も精力的に書かざるを得ない事態に


ご存知のように東日本大震災に端を発した


原発事故だったというのは周知の事実で。


これらを踏まえての”私が書かなければ”という


”深くて重い思い”を表現できる言葉を


見つけることができるほうが


おかしいくらいでございますよ。


最後に参考文献をあげておられるので


引かせていただきます。


柳澤先生の言葉こそ「三次過程」に必要なものだ


と自分は強く感じます。


 


【参考文献】


癒されて生きる 女性科学者の心の旅路

「いのち」とはなにか

愛をこめ いのちを見つめてーー書簡集 病床からガンの友へ

生命の秘密

認められぬ病 現代医療への根元的問い

ボンへッファー獄中書簡集「抵抗と信従」増補新版

アートマン・プロジェクト 精神発達のトランスパーソナル理論

般若心経・金剛般若経

歎異抄講話

神の慰めの書

脳の進化

ブッタの言葉

無意識の心理


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夏目琢史先生の書から”ヒトの弱さ”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


アジールの日本史

アジールの日本史

  • 作者: 夏目 琢史
  • 出版社/メーカー: 同成社
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本

この書へのきっかけは


記憶になくて恐縮ですが多分


”アジール”という単語に惹かれたのと


記憶違いでなければ内田樹先生がどこかで


言っておられたような。


違ってたら陳謝でございます。


はじめに から抜粋


苦しめられた人びとが行き着く先のことをアジールという。

アジールに入れば、世間を跋扈(ばっこ)するさまざまな俗権力の一切が干渉できない。

たとえ犯罪者であっても、ひとたびアジールに入り込めば、その罪は許されてしまうという。

このような場は古い時代の夢物語ではない。

我々の先祖は常にこのようなアジールをめざし、そしてそれをつくりあげるために戦ってきたのである。


古今東西さまざまな文献や資料を目にしていく中で、これまで一般的に言われてきたのとは違うあることに気づいた。

それは、アジールが決して古い時代の原始的な遺物ではなく、人間が社会的動物として生きるために創出したきわめて近代的・文明的な装置である、ということだ。


昨今の経済・金融危機に際して、時にはネットカフェやファーストフード店がアジールとなったり、お寺が再びアジールとしての機能を発揮したりしているのが何よりもそれを物語ってくれている。


具体的な話で考えてみよう。

日露戦争後のポーツマス条約締結の際、賠償金が得られなかったことに激怒した日本国民が暴徒と化し、交番などに焼き討ちをかける事件が起きた。

日比谷焼き討ち事件である。

これをみたアメリカの新聞社は次のように報じたという。


日本は異教徒の国であるが、たとえ宗教が異なっていても、神に祈りを捧げる神聖な場所を焼き払い破壊するのは人間ではないことを示す何よりの証拠である。

日本人は戦争中、見事な秩序と団結で輝かしい勝利を得た。

彼等は人道と文明のために戦い、講和条約の締結にもそれを感じさせた。

しかし、東京騒動は、日本人が常に口にしていた人道と文明のためという言葉が偽りであることを明らかにした。

彼等は黄色い野蛮人に過ぎない。

(平間洋一『日英同盟』PHP新書、2000年)


ここから気がつく通り、他の宗教の権威を認めようとしたり、他者に対する慈悲を心がけたりする心理構造は、野蛮というよりもむしろ文明的なものである。

実際、「聖的・呪術的なアジール」などといわれるものは、物理的暴力や俗権力の介入に対して場当たり的で脆弱なものだった。

それよりも、よりはっきりとした形のアジールが歴史の中でしだいに形成されてきているのである。


「未曾有」の時代といわれる昨今の危機は、たしかに深刻なものであるが、歴史上にはさらに過酷な時代があった。

その時々に応じて人間はどのように対応したのか。

アジール創出へ向かう力とそれを押し戻す力との拮抗の歴史を検証し、あらたな意味でのアジールを形成するにはどうしたらよいのか、そうしたことを考えてみたい。


第一部 アジールとは何か


第1章 アジールの定義


第1節 アジールをめぐる研究史の概観 から抜粋


「アジール」という言葉は、いまや、歴史学や宗教学という学問の枠を超え、それこそさまざまな研究者や評論家によって論じられている。


このアジールという言葉に脚光を浴びせた、その流行の一つの起点となったのは、1970年代に日本の中世史家・網野善彦が発表した『無縁・公界・楽』である。

この著書の絶大な影響をもとに文学・心理学・政治学・社会学・日本史学・西洋史学・民俗学等のそれぞれの学問領域でアジールは語られることになった。


このような潮流は、たしかに当初は、丸山真男がかつて指摘したようなアカデミックの「タコツボ型」に対するアンチテーゼ(「共通の基盤」)という側面を持っていた。

しかし、アジールという概念のそもそもの曖昧さからそれぞれの研究者によって多様な理解が生まれてしまい、結果的には研究の息詰まりを招いてしまったように思われる。

その証拠に今日ではアジールを積極的に論じようとする研究者はほとんどみられなくなってしまった。


第2章 日本中世はアジールの時代なのか?


から抜粋


日本の中世は、一般的に、アジールが広汎にみられた時代だと認識されている。

このような「常識」が、戦前には平泉澄、戦後では網野善彦によって創り出されてきたということはよく知られているが、はたしてこのような見方がほんとうに正しかったのであろうか。


なるほど日本中世の研究書の中には、「アジール」という用語を引用したものが現在でもかなり多くあり、一見すると西洋の中世と同様にアジールが認められていた社会のような印象を受ける。

しかし、それらを具体的にみていくと、実はほとんどが抽象的な引用であって、史料的な裏づけがなされているものはほとんどみられない。


比較的研究の多くみられる「都市のアジール」についても、挙げられている史料は戦国期のものがほとんどであり、日本中世=アジール隆盛の時代という単純な理解は成立しないのではないか。

もちろん中世にアジール的な事例があまりみられないことについて、史料の相対的な少なさや書き手側の階層的な制約などがあることを考えなくてはならないが、それにしてもその量はあまりにも少なく、むしろ逆にアジールを否定するような史料が多いことに気づく。


結論から述べて仕舞えば、筆者は日本の中世にアジールが広汎にみられたという見解には否定的であり、西洋中世にみられたアジールは日本中世においてはごく限られた場合にしか機能していなかったと考える。


すごいです。


調べっぷりや分析力、網野先生への懐疑など


なかなかできることではないですよ。


若いからできることなのかも。


網野先生について、先日読んだ


平川克美さんの書にもあったので、


他の本があったと思い探したが


見つからずだった。またの機会に。


さらにすごいのが「あとがき」でした。


あとがき から抜粋


本書における筆者の関心の第一は”生きる”とは何か、もっと言えば”幸せに生きていくにはどうすればよいのか”ということにあった。

最後の章で、近代社会におけるアジールを「想像力」や「縁切り信仰」に結びつけたことに対して、読者の中には「単なる妄想にすぎないのではないか」「幼稚ではないか」といった疑問や批判をもった方もおられるかもしれない。

しかし決して逃れられない苦痛や不幸に、いざ立たされたとき、人は自分の心の「想像力」(夢や可能性)に希望の光を見出し、神頼みをすることで心の安堵や自分のめざす目標を再認識することができる

これは苦しみから逃れる唯一のアジールにほかならなく、単なる逃避や逸脱として考えるいはあまりに寂しいものではないだろうか。

これが筆者のアジール論の帰結である。

最初、筆者はアジールを「犯罪者がそこに入った場合、その罪が問えなくなる空間」として捉えた。

しかし、近代社会のなかではもうこの概念は成立しえない

「そこに入れば苦しみを逃れられる空間」、これこそがまさしく近代のアジールであった。


自分も普段は神仏を意識はしないものの


ここぞという時に、願掛けの意味を込めて


近くの神社仏閣にお参りに行ったりして


人間って弱いよなあ、すがりつくしか出来ないのかあ


と心底感じた事が、それが”アジール”だったのか。


それにしても歴史が古い、というか


人間の持っている性(さが)とか業(ごう)


みたいなものなのかもしれないと思うと


古いとかの話ではないのかもしれない。


話を書に戻させて頂きまして


この”あとがき”の帰結が興味深いのは、


最初の仮説を最後に変えてみせるところで、


これを素にさらに進化しそうな感じでして。


しかしこれを2007年頃か、卒論で出されちゃあ


正直、ビビるよ先生は、多分。


この書籍、図書館で借りてしまったのだけど


新書にして出してほしい、増補・改訂版として。


さらに網野先生や阿部謹也先生も併読すると


理解が深まりそうで、”中世”には左程でも


ないのだけど”世間”とか”社会”とかいった”秩序”の中で


家族と仕事しながら暮らしていると


どうしても関わらざるを得ないテーマであるため


夏目先生のあらたな書を読みたいと思わせる


秋の休日の夜、虫の声が聞きながらでございます。


 


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若松英輔先生の書から”詩と心”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


言葉を植えた人

言葉を植えた人

  • 作者: 若松 英輔
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2022/09/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

NHK「100分de名著」に


指南役で出演されておられた若松先生。


そこでの語り口が印象的で本書を読んでみた。


あとがき から抜粋


福永武彦に『意中の文士たち』、『意中の画家たち』と題する著作がある。

題名通り、この作家が真に愛した文学者、画家たちをめぐってつむがれた文章が収められている。

作品もさながら、作者自身が書いた文字が印刷さらた函入りの本は、そのたたずまいが「意中」とは何かを無言のまま語っている。


この本にならって、本書も『意中の人たち』という題下に世に送りたいと考えていた。

もちろん、本書で十分にふれ得なかった「意中の人」はいる。


結局、書名を改めたのは、「意中」という言葉が、福永の時代のように生きた意味を伝えなくなっているということもあるが、何よりも、作成の最終段階になって、本書の主眼が明らかになったからでもあった。

この本で浮かび上がらせたいと願ったのは、私がこれまで、誰に影響を受けたかということよりも、折々に出会った言葉のちからをめぐる事実だった。


言葉との邂逅は、ふとした会話の中であったとしても、人生を変えるに十分な出来事になる。

そして、どこからともなく選ばれてきた言葉はしばしば、人が心と呼ぶ場所よりも、さらに深い場所に届いて、人生を支えるものになり得る、ということだった。


言葉のみが何かを語るのではなく、語られた言葉が、浮かび上がらせる沈黙の意味を深める。

こうした出来事は確かにあるし、本書で取り上げた人々からはそうした沈黙を通じて学んだ。

改めていうまでもないようなことでもあるが、分かち合われた言葉は記録に残るが、湧出した沈黙は文字にはならず、それを受け取った者の魂で生き続けるだけだ。

記録に残らないということと存在しないことは同じではない。

だが、現代人は、この厳粛な事実を忘れていることがある。


言葉を支えているのは沈黙であり、人生を深いところから包み込むのもまた、沈黙だと福永は感じていたのだろう。

さらにいえば、彼にとって文学とは言葉に導かれながら、沈黙の意味を感じることですらあっただろう。


「匂う」という言葉が、嗅覚に限定されるようになったのは、現代のことで、この言葉は本居宣長の歌に「朝日が匂う」という表現があるように光が醸し出す気配を示す言葉だった。

福永武彦にふれながら宣長に言及するつもりはなかったが、この二人はともに『古事記』をめぐって、それぞれにとって重要な仕事があるから、読み重ねていくと、意外な発見があるのかもしれない。


2022年8月 若松英輔


特定のジャンルということはなく


若松先生の興味のある人物を中心に


先生の言葉を紡がれておられていて


自分も興味のある人が何人かおられた。


中でも吉本隆明さんは最初に読んでしまった。


2008年吉本邸にお伺いされた時のこと


最初の会話が唐突感がすごく面白くて


夜勤の休憩中だったが爆笑してしまったが


ここではそれはカットするとして。


詩人はなぜ、思想家になったのかーーー吉本隆明の態度


から抜粋


自分だけが悟ることをの望まない、むしろ、隣人と共に苦悩の道にあることを希うこと、それが「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」に描かれている菩薩の道だった。

悟りと呼ばれる場所から遠く離れた親鸞は菩薩の道を歩く者だった。

吉本にとって親鸞は、いわゆる宗教者ではない。

むしろ、狭義の「宗教」という枠を壊そうとした先行者だった。


ある時期まで、宗教を語る吉本隆明の言葉に強い抵抗を感じていた。

内心には鋭い反発すらあった。

この人物は思想家としては現代日本を代表することは論を俟(ま)たないが宗教の問題は別だ。

信仰を持たない人が宗教を語るときに陥りがちなところに、彼もまた陥っているに過ぎないと思っていた。


だが、この時の対話で誤認していたのはこちらだったことを痛いほどに知らされたのだった。

彼は「宗教」を至高の価値のようには認識していない。

勝手にそう思い込んでいたのはこちらだった。

宗教もまた、人間の作った不完全な営みの一つであることを、彼はけっして忘れない。

宗教的経験もまた、思想的経験がそうだったように、人間の精神を蹂躙(じゅうりん)し、大きく誤らせる。

他を愛することを説くはずの宗教が、現代ではもっとも根深い争いの種子になっていることから彼は目を離さない。


経験が人間を深化させることを、彼は信じていないのではない。

しかし、そのために宗教の門をくぐらなければならないという説に彼は同意しない。

人生の出来事と呼ぶべき事象はあらゆるところで起こっている。

それを特定の領域にのみ生起するかのような議論に与(くみ)することがないだけだ。


詩とはなにか。

それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すことである。

(「詩とはなにか」『吉本隆明全集6』)


詩とは「ほんとうのこと」に言葉という姿を与えることであり、そこで発せられたものは全世界を凍りつかせる力をもつ、というのである。

比喩ではない。

彼は文字通りこうした言葉の響きを信じた。

吉本は、世界を土台から刷新することができるのは、言葉であることを深く自覚していた現代日本では稀有な思想家だった。


語らざるものからの手紙ーーー石牟礼道子(いしむれみちこ)


石牟礼道子の代表作は『苦海浄土』である。

しかし、読み通すのは簡単ではない。

難解だからではなく、問題があまりに厳粛であり、人間という存在の業の深さを思い知らされるからだ。


石牟礼道子の世界へは随筆から入るのがよい。

なかでも『花びら供養』の冒頭に置かれた「花の文をーー寄る辺なき魂の祈り」をすすめたい。


この一文で石牟礼は、水俣病が原因で亡くなったきよ子という女性にふれる。

石牟礼は生前の彼女を知らない。

その母から話を聞いているだけなのだが、そこに生起しているのは、生者と生者の出会いとは別種な重みをもった邂逅(かいこう)なのである。


きよ子の母は、娘が生きる姿を切々と石牟礼に語る。

思うように身体を動かすことも語ることもできなくなったきよ子が体現したものを、畏怖の心情とともに証言者のように吐露する。


桜が咲いている春の日のことだった。

母は用事があって家を留守にしていた。

戻ってみるときよ子がいない。

彼女は自由にならない身体で縁側から転げ落ちるように庭先に這い出て、もう充分に動かなくなった指で舞い落ちる花びらを拾おうとしていたのである。

母が慌ててかけよると、きよ子は曲がった指で花びらを地面ににじりつけ、肘からは血を流していた。

そのときの様子を母はこう続けている。

「あなた」と記されているのは石牟礼である。


「おかしゃん、はなば」ちゅうて、花びらば指すとですもんね。

花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。

何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。

それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。

いや、世間の方々に。

桜の時期に、花びらば1枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。

花の供養に。


ここでの「花びら」は、個々の人間に宿っているいのちの輝きでもある。

また、「きよ子」は、苦しみを生きたひとりの女性でありながら同時に、語ることを奪われた人の象徴になっている。


「生きがい」の哲学の淵源ーー神谷美恵子


から抜粋


神谷美恵子は医師であり、『生きがいについて』や『こころの旅』などを書いた著述家であり、ローマの五賢帝の一人マルクス・アウレリウスの『自省録』などを訳した優れた翻訳家でもあった。

20世紀フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーと交流し、いち早く紹介した現代思想家でもあった。

そして彼女は、家庭人としては、妻であり、母親だった。


また、若き日から彼女はすでに、超越的世界を探求する真摯な求道者だったことも見過ごしてはならない。

その思いは詩に結実している。

その軌跡は未発表の詩を含む新編刺繍『うつわの歌 新版』に詳しい。


優れた思想家の主著は、その哲学だけでなく、生涯をも浮き彫りにする。

彼女の代名詞にすらなった『生きがいについて』も例外ではなかった。


この本を神谷は次の一節から始めている。


平穏無事なくらしに恵まれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかもしれないが、よのなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。

ああ今日もまた1日を生きていかなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。


「生きがい」を感じるのは「自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき」だと神谷は書いている。

「生きがい」の発見は、願望の成就とは異なる。

人が、何かのために自己の営みを注ぎ込むときに起こる出来事だと神谷はいう。

また、「人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない」とも書いている。


この本は発刊から48年経った今でも、新しい読者の手に取られている。

20世紀日本を代表する著作の一つだといってよい。

だが、今日私たちがこの本を読むとき、そこに刻まれている叡智が、愛生園に暮らす人々の生涯から生まれていることを忘れてはならない。


生命のつながりーー中村桂子


から抜粋


中村桂子が「生命」というとき、ある個体が生きていることを意味するだけではない。

むしろ、個を超え、種を超え、さらには時代を超えて受け継いできた躍動するエネルギーを指す。

さらに「生命誌」と彼女が書くとき、無数の生きる営みによって編まれた、そして、編まれ続けている、「いのち」の歴史を刻んだ見えない「書物」が浮かび上がってくる。


生きる 17歳の生命誌』と題する本書は、これまでの彼女の仕事をまとめた選集の一冊である。


本書では、詩人まど・みちおの作品にふれながら、作者が科学の真髄を語るという独創的な作品がある。


犬は呼吸し、人も呼吸する。

しかし、ロボットは呼吸しない。

もちろんどんなに優れたシステムも同じである。

彼女はこれから人生という航海に旅立とうとする17歳の若者たちに向けてこう語る。


普段空気を吸っているときに、このようにつながりを感じることはあまりないでしょう。

でもマドさんの詩とそれを裏付ける科学的事実を知った今では、空気を通してあらゆるところにいる生きものとつながっているのだ、という気持ちを忘れないでいただきたいのです。


人と自然という視座は、現実を反映していない。

自然の中で生きている人を感じ直さなくてはならない。

「生命」は孤立していないことをもう一度認識し直さねばならない場所に、私たちはいるのではないだろうか。


吉本隆明さんは詩人という印象はあまりなく


ご健在の時は思想家・評論家の活動をされていた。


他の方達の文章もそれを引いている若松先生の


文章も流れるような筆致で良質な詩に触れたような。


とはいえ”詩”がなんなのか分かっていないけれど。


余談だけれど”詩”には興味はもちろんあるのだけど


なかなか手が出ないのはなぜかと問うてみるが、


たいした理由なぞはないのだけど


平易にみえて難解なイメージがあるからのような。


知的すぎて近寄れないような。


メロディがある「歌」の方が圧倒的に馴染みがあって


「詩」は後からついてくるみたいに思っているのか


というのはどうでもいい10月、寒くなり


家で読書というのが良い季節になってきましたな。


 


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池内了先生の2冊から”科学とモラル”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


科学者と戦争 (岩波新書)

科学者と戦争 (岩波新書)

  • 作者: 池内 了
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/06/22
  • メディア: 新書

過日読んだ書の源泉のような


2冊を読んでみた。


はじめにーーー軍学共同が急進展する日本


から抜粋


日本が集団的自衛権の行使を可能とし、同盟国の支援のために海外に自衛隊を送って武力を行使する道を開いた現在、自衛隊は堂々たる軍隊になったというべきだろう。

安倍晋三首相が自衛隊を「わが軍」と呼んで名実ともに軍隊であることを世界に誇示したが、世界各国も日本国軍隊と認知していることは確かである。

したがって、自衛隊およびそれを管理・運営する防衛省を「軍」と呼び、防衛省と大学や研究機関の研究者(「学」)との共同研究を「軍学共同」と呼びことに異論はないであろう。

本書は、政治の保守化・軍事化と軌を一つにして軍学共同が急展開する日本の現状をレポートしたものである。


第4章 軍事化した科学の末路


軍事技術の限界 から抜粋


軍事研究は、結局は戦争に勝つため、あるいは「抑止力」として敵を怯ませ、攻めてこないようにするための技術開発である。

だから、省エネルギー・省資源とか環境への影響といった観点は無視されてしまう


一般に、科学の法則は一つだが、それを技術化する方法は複数ありうる。

そのため、新技術は特許を通じて一般公開され、その特許を参照することから、より合理的な別の方式が考え出され、より洗練された技術に育っていく。

たとえば、性能が良い、エネルギーや資源の消費が少ない、安全で扱いやすい、といったさまざまな面で最善の方式が探され提供されていく。

民生品はこのような過程を経て、市場で生き残ってきた製品といえる。

これが技術的合理性といわれる。


ところが軍事開発となると、投入するコストやエネルギーは問題ではなく、運用のための追加コストや環境倫理は無視され、ひたすらパフォーマンスとして何が可能になるかだけしか眼中になくなってしまう。

そして、たまたま成功した一つの技術方式だけに精力が注がれ、それより良い方式を工夫することがなくなり、技術レベルはそこで止まってしまうのだ。

あるいは行き詰まっても軍事研究であるため秘密のままだから新しい試みがなされず、可能性を秘めた別方式の技術があっても立ち枯れてしまうことにもなる。


おわりに から抜粋


社会に責任を持つ科学者 から抜粋


原爆の開発という事態に衝撃を受けた朝永振一郎は、科学者は科学のことだけを考えるだけではいけない。

科学の内実を市民に知らせ、市民が間違いのない選択をする手伝いをしなければならない、それが核時代の科学者の倫理であるとして、


科学者の任務は、法則の発見で終わるものでなく、それの善悪両面の影響の評価と、その結論を人々に知らせ、それをどう使うのかの決定を行うとき、判断の誤りをなからしめるところまで及ばねばならぬことになる。」(「平和時代を創造するために」)


また、加藤周一は、軍産学共同への批判として、

「自分の知識とか頭脳を権力を強化するために使うというのは、人民に対する一種の裏切り」(「教養の再生のために」)と述べている。


また、彼は「戦争を批判するのに役立たない教養であったら、それは紙くずと同じではないのか」とも言っている。


最後に、ガンジーが残した、

 

 人格なき学問、人間性が欠けた学術にどんな意味があろうか

 

という言葉を記しておこう。

常に肝に銘じておきたい言葉である。


科学者と軍事研究 (岩波新書)

科学者と軍事研究 (岩波新書)

  • 作者: 池内 了
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 新書

まえがき から抜粋


前著の『科学者と戦争』を出して以来、一年半経った。


本書では、2015年に発足した「安全保障技術研究推進制度」を中心とする軍学共同の、その後の2年間足らずの間の状況を報告するとともに、より広く進展している日本の科学の軍事化の状況、日本学術会議の議論や「声明」の発出の経過、イノベーションばかりを強調する日本の科学技術政策の現状、などをまとめる。


さらに軍学共同を拒む大学がある一方、受け入れようとする大学が存在する(今後、増えていく可能性がある)ことも含め、大学(特に国立大学)の置かれた実情について報告する。


今大学は、国家から求められる厳しい競争環境の下で、国民の公共財としての知の生産と継承を行う「知の共同体」から経済倫理に隷属してもっぱら知を消費財として商品化する「知の企業体」と化しつつある


その背後には「大学改革」と言う名の行政からの「改革」の押し付けがあり、端的には大学の財政逼迫の問題として現れている。

そこに付け込んで「軍学共同」が大学に入りつつあり、また産学官連携に軍学共同が合体して軍産学複合体形成が大きく進む情勢である。


そもそも、このように軍学共同が急進展するきっかけになったのは、2013年12月17日になされた安倍内閣の、今後の総合的安全保障戦略を宣言した三つの閣議決定である。


その三つとは、


国家安全保障戦略


平成26年以降に係る防衛計画の大綱


中期防衛力整備計画


で「積極的平和主義」のもとでの軍拡路線を


展開されていた、と。


素朴な疑問だけど、当時安倍さんは何をしようと


企んでおられたのだろうか、そして


なにゆえそこまで駆り立てられていたのだろうか。


その原動力、発芽はどこにあったのか。


検証する意味はそれなりにある気がする。


価値はあまり認められないかもしれないけれど。


第1章 安全保障技術研究推進制度について から抜粋


前著『科学者と戦争』では、防衛装備庁が創設した「安全保障技術推進制度」の2016年度の公算段階まで述べた。

現在ではすでに2017年度の採択結果が発表されているが、以下ではまず2016年度の応募・採択状況を取りまとめ、2015年度からどのように変化したかを振り返る。

その後、2017年度の結果を議論する。

というのは、2017年度の応募・採択状況は、過去2年間の実績とは大きく異なっており、別個に論じた方が良いと判断したためである。


実際、最初の2年間の結果は多くの点で示唆的であり、装備庁の隠された意図が見えるし、また私たちの運動との関連も議論できるからだ。


「私たちの運動」とは、池内先生が立ち上げた


軍学共同反対連絡会」のことのよう。


この後、いかに当時の日本の時の政府が


都合の良いように新法律を制定し乱立、


茶番劇を繰り返してきたかは、ご存知の通り。


秘密保護法」は2013年で今思うと


これらの伏線だったのでしょうなあ。


多くの大学研究が軍事利用されていく、


それも研究費欲しさに、研究力競争のために、


研究者のモラルをすり抜け、だからこそ研究者よ、


原点に帰り、正しい感性を、と、


超端的にいうとおおよそそんなことを指摘されるよう


読み取れるのだけど、浅学ゆえ全然違ってたら陳謝。


余談だけど”大学改革”って、2015年ごろのラジオで


内田樹先生が神戸の学校で教鞭取られてた頃


独立行政法人の手続きが超面倒くさくて、


ビジネス化するんじゃねえ、


国家の教育への見当違いも


甚だしいぞって仰ってたのと、


(こんな雑な言い方してませんよ念のため)


間接的に関係がありそうな気が。


第4章 科学者の軍事研究推進論


自衛という意識 から抜粋


つまり、武装開発は止まることがない

そして、結局核兵器の開発にまで及ぶのである。

「核兵器開発を誘われたら断りますよ」と現在の時点では言えるかもしれないが、核兵器こそ祖国防衛の命運を握っているとか、敵の攻撃を抑止できるのは核兵器しかないと言われて、開発費と人員と資材と秘密を守る約束が与えられれば、それを拒否できるだろうか。

さらに、「核兵器の保有・使用は、現在の憲法の範囲では許容される」との閣議決定があることを押さえておく必要がある。


核兵器開発は国家として禁止しているわけではないのである。

だから、いったんタガが外れると核兵器開発へ傾れ込んでいくのは必然だろう。


ある大学の教員にこの話をしていると、「突き詰めて考えると、結局、池内さんが言うように非武装論にならざるを得ないのですね」と言い、いささか残念そうであった。


「あなたが一気に非武装論者になる必要はなく、自衛隊の存在を主張しても別に構わない。しかし、なぜ自衛隊を存続させたいのか、しっかり考える必要がある。災害の救助で非常にお世話になっていることが理由なら「戦地復興隊」として道路や橋や港の修理・整備に当たればいい。

いずれも丸腰でやれることだし、それに限るのではどうだろう?」


国民の多くは災害救助を行う自衛隊を見て、自衛隊の存在を当然視し、自衛隊によって国が守られているとの意識が強く刷り込まれている。


北朝鮮が盛んにミサイルを発射してアメリカ(や日本や韓国)を挑発しており、政府は「Jアラート」を発して地方自治体にミサイル落下の防衛措置をとるよう要請している。


今の状況は、政府が北朝鮮のミサイルや核実験の恐怖を煽って国民を怖がわせ、それによって軍事力を増強する圧力にしようという魂胆であることは確かだろう。

国家が危険な状況にあること(国難)を振り撒き、軍事化路線を強めるという昔から繰り返されてきた策動に乗せられてはならない。


あとがき から抜粋


しかし、ツラツラ考えているうちに、安倍晋三が首相になって以来、「日本再興戦略」とか「総合戦略」などと称する文章を乱発していることに気が付いた。


おそらく、ほとんどの人は、これら「XX戦略」と仰々しく書かれた文章を見ておられないと思われるのだが、実際に安倍首相はそれに従って政治や経済の方針を立てているようなのだ。


そこで私は、「政府はこんなことを考えて予算を立てて既成事実を積み上げていますよ」ということを人々に知らせる必要があると考え、それらの中で科学に関わる部分を拾い出してみることにしたのである。


「軍事力」という国家が一番に頼りにする暴力装置にたいして、「科学者の軍事研究反対」として対抗するのはまさに「蝙蝠の斧」のようなものなのだが、私たち「軍学共同反対連絡会」の面々は意気軒昂である。


2017年12月池内了


ヘヴィーな書籍だった。


歩きながら、勤務前のコンビニ駐車場、


勤務中休憩時間、病院待合室などで拝読。


今までどのくらいの国費が軍研究に流れているか


どのような技術が国に採択されそれを


開発した科学者と大学名のここ数年のリストもあり


また、古代ギリシアから始まる科学者と


軍事利用の蜜月関係等を丁寧に書かれておられる。


推測、仮説もそこには入るのだろうが


鋭い分析力もさながら、今警鐘せねばという


想いが伝わる。


その他、科学のナチスの軍事利用と


”悪法も法”であるとの当時の認識


(全ての科学者が、じゃないですよ)


良識とは、そもそもなにを指すのか、


米国の軍事の力の入れよう、


それに呼応する世界、そして日本など。


ここのところ”科学”をいろんな視点で


わかる範囲で吸収して考察してきた


遅れてきた”科学勉強人”の一人ですが


これまた深い書に出会った感覚。


余談だけれど、池内了(さとる)先生は


池内紀(おさむ)先生とご兄弟だったのですね。


紀先生はかねてより拝読させていただき


その最初は”つげ義春全集”の解説経由で


紀先生の温泉本を手にとったという、


普通は”ドイツ”とか”学問”からの流れで


存じ上げるものだろうと思いますため


自分はイレギュラーなのだろうけれども


昨日Webでその弟さんと知って、


これまた奇縁だなあと、


思ったことは全くどうでもいい、


夜勤明けの早朝読書


秋も深まり足元が寒いと思った次第でした。


 


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武者利光先生の書から”1/fゆらぎ”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


ゆらぎの発想―1/fゆらぎの謎にせまる

ゆらぎの発想―1/fゆらぎの謎にせまる

  • 作者: 武者 利光
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 1994/03/01
  • メディア: 単行本


著者の名前は多分、柳澤桂子先生の本にあり


歩きながら、いわば”ゆらぎ”ながら


拝読させていただきました。


まえがき から抜粋


「1/fゆらぎ」の研究を私が始めたのは30年ほど前です。

その時は単に、半導体や水晶時計の究極的なノイズの原因を物理学的な観点から究明するつもりでしたが、この1/fゆらぎは宇宙的なスケールでさまざまなところに現れてくることがわかり、興味と好奇心の赴くままにいろいろな対象を自分の研究領域に取り込んでしまいました。


途中で自分の研究のあり方を振り返ってみて、こんなに手を広げると”虻蜂(あぶはち)取らず”になるのではないかと考え、意識的に研究の縮小を始めましたが、一度広がったものはなかなか小さくはなりません。


しかし、不思議なことに最近になって、この広がった研究の尾ひれが、結局は1匹の魚の尾ひれであることがわかってきました。


1992年に東京工業大学を定年で退職してから設立した「能機能研究所」は、今年(1994年)の2月に株式会社となり、ベンチャー企業として新しく出発しました。

この研究所で、われわれの喜怒哀楽などの感性やある種の思考状態などを、脳波の特徴抽出から識別するシステムを解発することに成功しましたので、私がこれまでに経験から推測していた「1/fゆらぎ」と生体の快適感との関係を、客観的に計測できるようになりました。


また、十数年にわたって行ってきたレーダーの信号処理の研究成果が、脳波の信号処理に生かされることになりました。


過去の自分の研究の足取りをみると、偶然と思えるような人との出会いが、要所要所で研究の流れを決める決定的な役割を果たしています。


「偶然とはなんなのか」と考え込んでしまいます。


われわれの知識不足が、ある現象を「偶然」であると思わせているだけで、すべてはそうなるべくしてそうなったのでしょう。


ゆらぎは、半導体や水晶時計のような物理学的な世界の現象にとどまらずに、われわれの日常生活におけるものの考え方として、非常に重要であることが次第にわかってきました。


第1章 ゆらぎを追いかけてーー不思議な1/fゆらぎ


「ゆらぎ」って何ですか? から抜粋


自然界に存在するもので、じっと静止しているものはありません。

時間の経過とともに必ず変化します。

それが目に見るほどの変化ではなくても、完全に静止しているものは「ない」と言ってもよいでしょう。

そして、その動きは、厳密に言うとすベて不規則な動きを含んでいます。


人間の目には見えなくても、変化するものはいろいろあります。

たとえば人の感情や気持です。

「気持ちがゆらぐ」とか「心がゆらいでいる」という表現は、日常的に使われる言い方だと思います。


ものの変化、そして、その変化が不規則な様子、それが「ゆらぎ」です。


はっきり定義するのが、難しいのですが、予測できない変化と言ったらよいと思います。

予測は規則性があるからできるので、少し難しく言えば、決定論的な予測からのズレを含むような時間的または空間的な変化ということです。


物理学の世界ではこうした変化のことを「揺動」とも言います。

しかし「ヨウドウ」と言われて、何のことかわかる人はほとんどいないでしょう。

そこで、物が不規則な動きをする総称として、私は物理の世界でも「ゆらぎ」という、いわば話し言葉を使うことにしています。


第1章 ゆらぎを追いかけて


1/fのfって、何なのですか? から抜粋


1/fゆらぎのfというのは、振動数、または周波数です。

英語で言えばfrequencyです。

その頭文字をとっているのです。


音楽で言えば、音の周波数で音の高さが決まります。

メロディーには、ゆっくり変化する部分と速く変化する部分が混ざっているのですが、その変化のしかたを分析して、変化する速さを表す場合にも、別な意味で「周波数」が用いられます。

つまり、ある現象の時間的変化の性質を分析して得られる、成分の周波数を意味しているのです。


第2章 万物はゆらいでいる


時間もゆらいでいると言えるのですか? から抜粋


時間というのは、二つの現象が起こった時刻と時刻の間隔です。

現在、時間の基準は、原子の構造で決まる発振現象の周期によって定められています。

これは、原子の構造は不変であるという前提に立って、そう決めているのです。

ですから時間に関しては、世界のどこで測っても同じになります。


これに対して時刻は、天文現象で決められている別の概念です。

つまり、特定な星が真上を通過する瞬間によって、時刻を決めています。

一年は、太陽の回りを一度回る1公転が基準となっています。


天文学的に見ると、365日では完全に太陽の回りを一周できません。

差が出てきます。

この差を修正するために、閨年という1日長い年を設け、さらに細かく、秒単位での修正も行っています。

ただし、地球が太陽の回りを一周する時間や地球が一回自転する時間は、徐々に変化しています。


地球は安定した自転をしているように思えますが、地球の回転軸はたえず微妙にゆらいでいます。


第3章 暮らしの中のゆらぎ


電車に乗っていると眠くなるのは、なぜですか? から抜粋


電車に乗る前に、今日はこの本を読もう、あるいは参考になる論文を読もうと、以前はよく思っていました。

しかし、あのコトコトコットンというゆれ方の影響なのか、どうしても眠くなってきて、読んでいるはずの本の内容が、まったく頭に入りません。


電車の中で睡魔が襲ってくるのは、不思議な現象です。

とくに、難しい本を読もうとする場合はダメです。


電車がゆれるのは、レール面の高さのゆらぎが原因で、これは、「水準狂い」と呼ばれています。

レールの面が左右で違うのは、地面の影響です。


ゆらぎはゆとりであり、人間らしさにも通じます。

朝日新聞にこんな記事が出ていました。

『「舞姫」を書いた森鴎外がドイツから帰ってきてから、都市計画の諮問(しもん)を受けた。

ヨーロッパの都市のように、高さもそろえて石造りの街にすべきだろうか、というものだが、鴎外は「バラバラでいい」と答えた。「人間が住むのだから、人間らしくあればいい」というのだ』。


街によって、印象や美観が違うのは、この「美しい乱れ」の構造を持っているのか、いないのかということに影響される部分が大きいのではないでしょうか。


第4章 人体の構造と心の動き 


話し方の上手、下手にも1/fゆらぎが関係するのですか? から抜粋


話し上手な人は、間の取り方が非常に上手なようです。


話術の上手、下手とはどういうものかと思い、東京・上野にあった講談の定席である本牧亭が店じまいする直前に、講談を聞きに行ったことがあります。

そこでも、間の取り方の上手さを痛切に感じました。


講談や落語には「枕」があります。

枕とは、本題に入る前に、自分の言葉で話す世間話のようなものですが、芸の若い前座の人の場合、枕と本題の調子がガラッと違うのです。


これが真打ちとなると、枕も本題も、まったく同じ口調でしゃべります。

さすがに真打は、普段の言葉でしゃべる話が、もう芸になっているのでしょう。


話し方の上手な方の声の強弱変動のしかたを分析してみると、ここにも「1/fゆらぎ」が顔を出しました。


第5章 心地よい音楽の世界ーー古今東西から


自然の音を騒音とはあまり感じませんが、なぜですか?


今から10数年以上前になりますが、大学の研究室の遠足と称して、奥多摩に行ったことがあります。

当時、私の研究室では1/fゆらぎの音を調べていました。

発振器で1/fゆらぎを電気信号として出してスピーカーを鳴らすと、滝壺に「ドウドウ」と水が落下して轟きわたるような感じがします。

ぜひ一度、実際の滝壺の音を調べてみたいと思い、録音設備一式を車に積んで奥多摩に行くことにしました。


研究室に帰って、早速、音の分析にとりかかりました。

期待に胸をワクワクさせながら、まず滝壺の音を分析してみました。

すると意外なことに、滝壺の音は1/fゆらぎではなかったのです。


しかし、ついでに録音した小川の「ちょろちょろ」という音響振動の振動数が「1/fゆらぎ」を示したのです。

まったく意外な収穫でした。


この後、冨田勲氏と対談で、


人工的に自然の音を再現したことが


作品化されていると記されている。


初期のモーグ・シンセサイザーで”回転むら”が


あるのを、そのままにしたのを作品にしたのが


富田氏のデビューLP「月の光」だという。


第6章 あそびのゆらぎと環境


生き方のゆらぎはいつごろから注目されているのですか? から抜粋


ある時、アメリカの本屋で、『ファイブ・リングス』という本が店頭に積んであるのを見ました。


なんだ、「五輪書」のことかと、すぐにわかりました。


私は日本に帰ってから、この五輪書を読んでみました。

その水の巻の「兵法心持の事」に書かれている次の文を読んで、愕然となりました。


『兵法の道におゐて、心のもちやうは、常に心(平常心)に替わる事なかれ。

常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして(広い観点から真実を見て)、きつくひつぱらず(緊張せず)、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其のゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々(よくよく)吟味すべし。

静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は躰につれず(とらわれず)、躰は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心のたらぬ事なくして、心を少しもあまらせず、うへの心(外見)はよはくとも、そこの心(心底)をつよく、心を人に見分けられざるやうにして、云々』


生涯、師と仰ぐ人を持たず、相手の剣の前で死を賭けて、いわば独学で武蔵が体得した兵法の極意は「ゆらぎ」だったのです。

「ゆらぎ」という表現を用いて、それに積極的な意味を見いだしていたのは、少なくとも宮本武蔵まで遡らなくてはならないことを私は発見したのです。


そうとも言えないこともないですが、


そうなのかなあ?というのが正直な感想で。


岡本太郎さんが縄文式土器を上野博物館で観て


「これだ!」という天啓を受けたのに


少し似ているような…。


水をかけているわけではありません。


失礼しました。


人間の進化にもゆらぎの影響がありますか?


から抜粋


生物が進化する仕組みをダーウィン流に考えてみると、環境の変化に応じて、生物はその遺伝的な形質(形や性質)を変えていくという風に見えます。

突然変異などで、遺伝子の構造がたえず親から子へゆらいでいるために、その中で環境によりよく適合するものが現れるのでしょう。

ここでは何が原因で突然変異が起こるかということより、突然変異がたえず起こっているという事実が重要です。


「ゆらぎ」なくしては生物の進化はありえないし、ゆらぎ方によっては、それが自然選択の結果、消滅する道へもつながるということです。


興味深い”ゆらぎ”、それも”1/fゆらぎ”。


最後に著者の人生の流れが披露されていて


ハーバード大学とか利根川博士で有名なMIT


にもおられたご様子で、時代がただいま現在ならば


TEDで講演とかされていたかもしれない。


脳機能の会社は現在もWebサイトもありますが


これを株式会社化って難しくないのだろうか?


とは要らぬおせっかい、余計なお世話であるが


ますますのご健勝をお祈りしつつ、


間も無く夕飯の支度を手伝おうと考えている


連休終わりの悲しい夕暮れ時でございます。


 


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望月衣塑子氏の書から”国家・組織・個人”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


武器輸出と日本企業 (角川新書)

武器輸出と日本企業 (角川新書)

  • 作者: 望月 衣塑子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2016/07/10
  • メディア: 新書


はじめに 


日本で初めての武器展示会 から抜粋


2015年5月13日から3日間にわたり、海上防衛についての大型の武器展示会「MAST Asia 2015」が開催された。

国内では初めての武器の展示会で、後援は防衛省、外務省、経済産業省だ。


武器といってもすぐに軍事に結びつくものだけとは限らない。

実際、政府や防衛省は武器ではなく、「防衛装備品」という言葉を使っている。

富士通が展示していたのは、大容量の高速無線通信ネットワークを可能にする半導体ガリウムナイトライドのパネルだ。

「軍事だけでなく、広く海洋安全のために国際社会で使えるものを」と、開発したという。


展示会の来場者数の3795人は、当初の予想を倍近く上回った。

反響を受け、主催者であるイギリスの民間企業マスト・コミュニケーションは、2017年6月に千葉県の幕張メッセで2回目を開催することに決めた。


1回目の展示会では見送られていた商談ブースを設けることなども検討している。


武器輸出、47年ぶりの大転換


から抜粋


一般にいわれている「武器輸出三原則」は、1967年、佐藤栄作首相が国会答弁で表明したものだ。

具体的には次の三項である。


①共産圏諸国への武器輸出は認められない

②国連決議により武器等の輸出が禁止されている国への武器輸出は認められない

③国際紛争の当事国または、その恐れのある国への武器輸出は認められない


さらに76年2月、三木武夫首相が「武器輸出についての政府の統一見解」を発表する。


①三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない

②三原則対象地域以外の地域については、武器の輸出を慎む

③武器製造の関連設備の輸出については、武器に準じて取り扱う


これらを合わせて「武器輸出三原則等」といわれてきた。

以後、その時々で例外規定が設けられてきたが、基本的に政府は武器輸出へ慎重な姿勢をとってきた。

一方で、自民党防衛族や経済団体連合会(2002年に日本経営者団体連盟と統合し、日本経済団体連合会に名称を変更)に属する多くの防衛企業は、武器輸出の解禁を強く要望し、ことあるごとに武器輸出三原則の見直しは俎上に載せられてきた。

そして、2014年4月、第二次安倍晋三内閣の下で事実上の解禁となったのである。


武器輸出の解禁が、安倍首相により急速に進められたという論調もあるが、それは一面的な見方だろう。

政財官が一体となった地ならしは着々と進められてきており、09年〜12年の民主党政権下も例外ではなかった

11年12月、野田佳彦政権の藤村修官房長官談話によって、武器輸出を大幅緩和する方針が決定。

民主党政権はその直後に崩壊し、新たに誕生した第二次安倍政権が一定の条件の下で武器を原則輸出できる、「防衛装備移転三原則」を閣議決定したのだった。


①国連安全保障理事会の決議などに違反する国や紛争当事国には輸出しない

②輸出を認める場合を限定し、厳格審査する

③輸出は目的外使用や第三国移転について適正管理が確保される場合に限る


この原則では、従来の三原則での「紛争当事国になる恐れのある国」は禁輸の対象から外された。

イスラエルや中東諸国への輸出も事実上制限がかからず、紛争に加担する可能性は高まったといえるだろう。

また従来の三原則にあった「国際紛争の助長回避」という基本理念は明記されなかった。


新三原則が制定され、防衛装備庁も発足したことで、武器輸出に向けた国内の環境はある程度整ったといえる。


この書では、MAST Asia 2015の出展企業の


売り上げベスト10がリスト化されている。


三菱重工、川崎重工、NEC、ANAホールディングス


三菱電機、IHI、富士通、東芝、コマツ、三井造船。


これらはWebでも調べようと思えばあるのだろうけど


この書で取り上げることに著者の努力が窺えます。


企業倫理というかコンプライアンス、ガバナンスが


問われるのは言うに及ばず。


第2章 さまよう企業人たち


海外から熱視線を注ぐ日本の電子技術 から抜粋


ベトナム戦争の末期には、アメリカ軍がソニーの開発したビデオカメラをスマート爆弾の誘導部に装着。

レーザー誘導兵器に利用された。

爆撃機から投下後の落下状況がスクリーンに映し出され、誘導係が目標物まで導くやり方だった。

これにより、アメリカ軍は北爆で多大な成果を上げた。


このソニーの製品の使われ方を武器輸出と


絡めるのはちと無理があるように思うのだけど。


これをいったらキリがないですよ、


電子機器とか半導体とか自動車企業とかであれば。


かといって見過ごせるものでもないと思うのは


もし自分と直接関係している人の作った製品が


戦争に使われているとしたら、ってことで。


つまるところ経済優先にしてしまう何かが問題で


国家や組織や個人の倫理や感性が問われる。


科学とか技術とか、


本当に難しい問題を孕んでいます。


あとがき から抜粋


それまでは事件などを扱う社会部に所属していた私が、2011年、一人目の出産明けに配属されたのは、社会部でなく畑の違う経済部。

しかも担当は原発問題で混乱を極めていた経済産業省だった。


戦後初の東大総長(15代)の南原繁が記した『南原繁 教育改革・大学改革論集』に出会った。

南原は、戦後、東大が掲げてきた軍事研究禁止の原則において象徴的な存在の一人だ。


国の政治に何か重大な変化や転換が起きるときには、その前兆として現れるのが、まず教育と学問への干渉と圧迫である。

われわれは、満州事変以来の苦い経験によって、それを言うのである。」


「大切なことは政治が教育を支配し、変更するのではなく、教育こそいずれの政党の政治からも中立し、むしろ政治の変わらざる指針となるべきものと考える。

…いまの時代に必要なものは、実に真理と正義を愛する真に自由の人間の育成であり、そういう人間が我が国家社会を支え、その担い手になってこそ、祖国をしてふたたびゆるぎない民主主義と文化的平和国家たらしめることができる


戦後70年、日本は憲法9条を国是とし、武力の放棄、交戦権の否認を掲げた。

それらを捨て、これからを担う子どもにとって戦争や武器を身近でありふれたものにしようとしている。

この状況を黙って見過ごすわけにはいかない。


時を経てただいま現在、岸田政権、


三原則をどのようにしようとしているか。


東京新聞の記事を見る限り


継続しているとしか思えない。


東京新聞ってところがミソですな、余談だけど。


この書に何箇所か出てくるけれど


国の中枢に近い人たちほど


武器輸出はお国や国民を守るためとおっしゃる。


それを受ける”下請け”という言葉は好きではないが


の、人たちほど「本当はやりたくない」と。


この著書自身も、報道の方で活躍したいが、


出産ブランクを経ての経済部に回されたと。


どなたかが旧ツイッター、現Xでの著者のつぶやきで


戦闘機の名前が違っていると指摘されていたけど


軍事ライターじゃないから、そんなこともあるだろと。


そんなん知らんよ、仕事なんだから正確性を、と


寛容と呼べない社会。


なにか、様々なこととリンクする窮屈な社会構造。


よくある話としてしまえばそれまでだけど。


余談だけど南原三原則に出てくる”満州事変”って


遠い昔、自分の亡祖父も鉄道人員で


かり出されたといっていたのを思い出す。


いろんなことを考えさせられた書でございました。


 


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2冊の”南方熊楠”書から利己的な解釈を疑う [’23年以前の”新旧の価値観”]


詳注・現代語訳『履歴書』: 南方熊楠のマンダラ的自伝

詳注・現代語訳『履歴書』: 南方熊楠のマンダラ的自伝

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2017/04/27
  • メディア: Kindle版


この本、章立てになってないのでわかりにくいのだけど


最初の方、67ページから抜粋。


亡父は無学の人でありましたが、一代で家を興したばかりではありません。

寡言篤行(かげんとっこう=口数少なく誠実)の人で、地方の官庁から当時は世間でも珍しかった賞辞を一生に三度も受けたのです。 

死に臨んだとき、高野山に人を遣って土砂加持*を行なわせたのですが、僧たちは生存の望みが絶えたと申します。

また緒方惟準氏**を大阪から迎えて診察させましたが、これまた絶望との見立てでありました。  


編集部注

  *土砂加持(どしゃかじ)とは、真言密教で行われる土砂による祈祷。土砂に向って光明真言を誦し、これを病人に授けて病を癒し、また遺体や墓の上にまいて亡者の罪を滅ぼすというもの。  

**緒方惟準(おがたこれよし)は、1843年生、1909年没。適塾の緒方洪庵の次男で、緒方家を継いだ。

オランダ留学を経て、典楽寮医師、医学所取締を務めた。緒方病院院長。


そのときは天理教が流行りだしたときで、誰もが、

「天理教徒に踊らせて平癒した」

だの、

「誰それは天理王を拝したから健康だ」

などと言います。

出入りの者に天理教の信者がいて、

「試しに天理教師を招き、祈り踊らせてみてはどうですか」

と言いました。

亡父は苦笑して、

「生きる者は必ず死ぬというのが天理だ。どんなに命が惜しいからといって、人が死のうとするときに、その枕元に歌ったり踊ったりする者を招いて命が延びるなどという理屈があるものか。死というものだけは、誰も避けることは出来ぬ

と言って、一同に今生の別れを告げて亡くなられたということです。


かつてアテネのペリクレス*は文武両道の偉人で、その一生涯をかけてアテネ文化の興隆に貢献し、ひいては西洋文明の基礎を築いたと申します。

しかしながら、この人が死ぬ間際に、つまらないお守りなどを身に付けたので、それを見た人が理由を尋ねたところ、

「自分は、こんな物が病気に効かないことは重々承知している。だが、人が言うような効能が万に一つもあるのならば、これを身に付けて命が助かりたい、と思って身に付けているのだ」

と言ったとか。

偉い人の割には、ずいぶん悟りが悪かったと見えます。


編集部注 

*ペリクレス(Periklēs)は、紀元前五世紀頃のアテネの政治家。

ペルシア戦争後の古代アテネの民主化を完成させ、黄金時代を築いた。

しかし、アテネの勢力拡大はスパルタとの対立を招くこととなり、前四三一年にはペロポネソス戦争が勃発。

籠城中のアテネには疫病が流行し、ペリクレス自身もそれに罹って亡くなった。


死ねば死にきり、ということを


体現される発芽とでもいうか。


わざわざ引いているのは


亡くなったお父様の影響が濃いとの証かと。


生物学者にして合理主義っていう勝手な印象が強い。


かと思えば、幽霊の実存というのもおかしいが


霊魂が回路が高次になれば見えていたという。


南方曼荼羅を理解するには重要な


視座があると指摘する中沢先生の論考から。



南方熊楠―奇想天外の巨人

南方熊楠―奇想天外の巨人

  • 作者: 荒俣 宏
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: ペーパーバック


ヘリオガバルス論理学 中沢新一


3 から抜粋


しかし、そのことを考えるためには、南方熊楠がかかえていた、もう一つのテーマについてすこしだけ触れておく必要がある。

それは霊魂の問題だ。

南方自身が書いているように、粘菌の生態を観察しつづけながら、彼は生死の現象と、霊魂の問題とについて、深く思考をめぐらせていたのである。

南方が幽霊をよく見る人だった、ということは、よく知られている。

海外に遊学しているあいだは、彼のまえに幽霊はめったにあらわれることはなかった。

そのために、彼は当時のイギリスで大流行していた降霊術の会や、いわゆるオカルティズムにたいしては、わりあいと批判的だった。


ところが、日本にもどり落ち着き場所を失って、那智の山中に籠り始めてからは、彼のまえに、たびたび幽霊があらわれるようになったのである。

彼はそれを、自分の「脳力」が高まった証拠だ、と考えていたが、じっさい彼は那智への隠棲時代をとおして、特殊な空間知覚の能力を獲得するようになっていたのだった。


それからは、夜はパラサイコロジー関係の書物をヨーロッパからとり寄せて、熱心に研究するようになったようだ。

霊魂が存在する、ということを前提にしたとき、生命や空間の構造についての合理的な理解の仕方は、どのようにかわっていかなくてはならないか。

熊楠にとって、霊魂の問題は、さけてとおることのできない、大きなテーマとなっていたのである。


このことは、有名な『履歴書』をはじめとして、いろいろな書簡のなかで、語られている。


熊楠は幽霊とよばれている現象が、たんなる幻覚や異常心理からつくられるものではなく、純粋な空間現象のひとつである、と考えていたようである。(「高次元ミナカタ物質」『新潮』1990年8月号)

つまり、それは実在の一形態であり、それを私たちの知覚がとらえることができるかどうかは、まったくこちらがわの「脳力」のたかまりによることなのだ、というのだ。


南方熊楠がその生涯につよくひかれていたもののリストをつくってみたら、さぞかしおもしろいことだろう。

粘菌、隠花植物、神話的思考、野蛮な風習や土俗、霊魂と幽霊、宗教の比較、セクソロジー、猥談、男色ふたなり半陰陽)…どのひとつをとってみても、粘菌的ではないか

現実の世界のなかに顕在化されると、あいまいで猥雑で非合理、しかし、それをつつみこみ、展開する内蔵秩序のもとにとらえれば、あざやかな生命の全体運動が描かれるようになる、そういうものばかりだ。


中沢先生の論考は素晴らしいです。が、


この論考の主旨とはズレますが


日本に戻って霊魂を感じたって所が


熊楠さんに対してなんとなく


信じきれないのだよなあ。


世界をまたぐと存在が普遍ではないという事で。


別の話だが漫画家で作家の


ヤマザキマリさんが日本の幽霊話を


イタリアで話したら一笑に付されてしまい


まったく相手にされなかった、てのとか


そうはいっても欧米って悪魔のいる


キリスト教の国だしなあ、とか。


それも吉本隆明先生が論考された”共同幻想”の


ようなもなんじゃないのか、とか。


熊楠さんの『履歴書』も全部読んでないから


わからないことが多い。(読んでから云え!)


霊には自分は興味がないものだから、


深くキャッチできないのか。


話を戻して『履歴書』は読んだ所まででいうと


全体の表現力はなんか凄いと感じるのと


古今東西の文献などの引用っぷりが


相当な読書量を物語っている。


蔵書量も凄いと荒俣宏先生が驚かれていた。


10カ国語以上の言語を操れたとAmazonの


著者プロフにあったけど、だとして


世界中の書を原書で読みまくっていたのかも。


普通の人、っていう”普通”の定義も


面倒くさいのでそこは端折るが、


”普通”の人が見えているものと


明らかに世界が異なるのだろうなと感じるし


巨大きすぎて自分のキャパでは到底


受け取れない感じがした。


人間以上のなにかとでもいうのか


生物、自然、地球、宇宙、とか連想されて


どこまでも拡張されてしまってこのテーマは


避けたい、他に読みたい本があるから


ってのも正直あるけど、まあいいや


夜勤明け、頭ぼーっとしてるので


食事してお風呂洗わないと


先週サボったからやべえ


とドメスティックな悩みが尽きない


秋の早朝でした。


 


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