若松英輔先生の書から”詩と心”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
NHK「100分de名著」に
指南役で出演されておられた若松先生。
そこでの語り口が印象的で本書を読んでみた。
あとがき から抜粋
福永武彦に『意中の文士たち』、『意中の画家たち』と題する著作がある。
題名通り、この作家が真に愛した文学者、画家たちをめぐってつむがれた文章が収められている。
作品もさながら、作者自身が書いた文字が印刷さらた函入りの本は、そのたたずまいが「意中」とは何かを無言のまま語っている。
この本にならって、本書も『意中の人たち』という題下に世に送りたいと考えていた。
もちろん、本書で十分にふれ得なかった「意中の人」はいる。
結局、書名を改めたのは、「意中」という言葉が、福永の時代のように生きた意味を伝えなくなっているということもあるが、何よりも、作成の最終段階になって、本書の主眼が明らかになったからでもあった。
この本で浮かび上がらせたいと願ったのは、私がこれまで、誰に影響を受けたかということよりも、折々に出会った言葉のちからをめぐる事実だった。
言葉との邂逅は、ふとした会話の中であったとしても、人生を変えるに十分な出来事になる。
そして、どこからともなく選ばれてきた言葉はしばしば、人が心と呼ぶ場所よりも、さらに深い場所に届いて、人生を支えるものになり得る、ということだった。
言葉のみが何かを語るのではなく、語られた言葉が、浮かび上がらせる沈黙の意味を深める。
こうした出来事は確かにあるし、本書で取り上げた人々からはそうした沈黙を通じて学んだ。
改めていうまでもないようなことでもあるが、分かち合われた言葉は記録に残るが、湧出した沈黙は文字にはならず、それを受け取った者の魂で生き続けるだけだ。
記録に残らないということと存在しないことは同じではない。
だが、現代人は、この厳粛な事実を忘れていることがある。
言葉を支えているのは沈黙であり、人生を深いところから包み込むのもまた、沈黙だと福永は感じていたのだろう。
さらにいえば、彼にとって文学とは言葉に導かれながら、沈黙の意味を感じることですらあっただろう。
「匂う」という言葉が、嗅覚に限定されるようになったのは、現代のことで、この言葉は本居宣長の歌に「朝日が匂う」という表現があるように光が醸し出す気配を示す言葉だった。
福永武彦にふれながら宣長に言及するつもりはなかったが、この二人はともに『古事記』をめぐって、それぞれにとって重要な仕事があるから、読み重ねていくと、意外な発見があるのかもしれない。
2022年8月 若松英輔
特定のジャンルということはなく
若松先生の興味のある人物を中心に
先生の言葉を紡がれておられていて
自分も興味のある人が何人かおられた。
中でも吉本隆明さんは最初に読んでしまった。
2008年吉本邸にお伺いされた時のこと
最初の会話が唐突感がすごく面白くて
夜勤の休憩中だったが爆笑してしまったが
ここではそれはカットするとして。
詩人はなぜ、思想家になったのかーーー吉本隆明の態度
から抜粋
自分だけが悟ることをの望まない、むしろ、隣人と共に苦悩の道にあることを希うこと、それが「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」に描かれている菩薩の道だった。
悟りと呼ばれる場所から遠く離れた親鸞は菩薩の道を歩く者だった。
吉本にとって親鸞は、いわゆる宗教者ではない。
むしろ、狭義の「宗教」という枠を壊そうとした先行者だった。
ある時期まで、宗教を語る吉本隆明の言葉に強い抵抗を感じていた。
内心には鋭い反発すらあった。
この人物は思想家としては現代日本を代表することは論を俟(ま)たないが宗教の問題は別だ。
信仰を持たない人が宗教を語るときに陥りがちなところに、彼もまた陥っているに過ぎないと思っていた。
だが、この時の対話で誤認していたのはこちらだったことを痛いほどに知らされたのだった。
彼は「宗教」を至高の価値のようには認識していない。
勝手にそう思い込んでいたのはこちらだった。
宗教もまた、人間の作った不完全な営みの一つであることを、彼はけっして忘れない。
宗教的経験もまた、思想的経験がそうだったように、人間の精神を蹂躙(じゅうりん)し、大きく誤らせる。
他を愛することを説くはずの宗教が、現代ではもっとも根深い争いの種子になっていることから彼は目を離さない。
経験が人間を深化させることを、彼は信じていないのではない。
しかし、そのために宗教の門をくぐらなければならないという説に彼は同意しない。
人生の出来事と呼ぶべき事象はあらゆるところで起こっている。
それを特定の領域にのみ生起するかのような議論に与(くみ)することがないだけだ。
詩とはなにか。
それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すことである。
(「詩とはなにか」『吉本隆明全集6』)
詩とは「ほんとうのこと」に言葉という姿を与えることであり、そこで発せられたものは全世界を凍りつかせる力をもつ、というのである。
比喩ではない。
彼は文字通りこうした言葉の響きを信じた。
吉本は、世界を土台から刷新することができるのは、言葉であることを深く自覚していた現代日本では稀有な思想家だった。
語らざるものからの手紙ーーー石牟礼道子(いしむれみちこ)
石牟礼道子の代表作は『苦海浄土』である。
しかし、読み通すのは簡単ではない。
難解だからではなく、問題があまりに厳粛であり、人間という存在の業の深さを思い知らされるからだ。
石牟礼道子の世界へは随筆から入るのがよい。
なかでも『花びら供養』の冒頭に置かれた「花の文をーー寄る辺なき魂の祈り」をすすめたい。
この一文で石牟礼は、水俣病が原因で亡くなったきよ子という女性にふれる。
石牟礼は生前の彼女を知らない。
その母から話を聞いているだけなのだが、そこに生起しているのは、生者と生者の出会いとは別種な重みをもった邂逅(かいこう)なのである。
きよ子の母は、娘が生きる姿を切々と石牟礼に語る。
思うように身体を動かすことも語ることもできなくなったきよ子が体現したものを、畏怖の心情とともに証言者のように吐露する。
桜が咲いている春の日のことだった。
母は用事があって家を留守にしていた。
戻ってみるときよ子がいない。
彼女は自由にならない身体で縁側から転げ落ちるように庭先に這い出て、もう充分に動かなくなった指で舞い落ちる花びらを拾おうとしていたのである。
母が慌ててかけよると、きよ子は曲がった指で花びらを地面ににじりつけ、肘からは血を流していた。
そのときの様子を母はこう続けている。
「あなた」と記されているのは石牟礼である。
「おかしゃん、はなば」ちゅうて、花びらば指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。
それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば1枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。
花の供養に。
ここでの「花びら」は、個々の人間に宿っているいのちの輝きでもある。
また、「きよ子」は、苦しみを生きたひとりの女性でありながら同時に、語ることを奪われた人の象徴になっている。
「生きがい」の哲学の淵源ーー神谷美恵子
から抜粋
神谷美恵子は医師であり、『生きがいについて』や『こころの旅』などを書いた著述家であり、ローマの五賢帝の一人マルクス・アウレリウスの『自省録』などを訳した優れた翻訳家でもあった。
20世紀フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーと交流し、いち早く紹介した現代思想家でもあった。
そして彼女は、家庭人としては、妻であり、母親だった。
また、若き日から彼女はすでに、超越的世界を探求する真摯な求道者だったことも見過ごしてはならない。
その思いは詩に結実している。
その軌跡は未発表の詩を含む新編刺繍『うつわの歌 新版』に詳しい。
優れた思想家の主著は、その哲学だけでなく、生涯をも浮き彫りにする。
彼女の代名詞にすらなった『生きがいについて』も例外ではなかった。
この本を神谷は次の一節から始めている。
平穏無事なくらしに恵まれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかもしれないが、よのなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。
ああ今日もまた1日を生きていかなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。
「生きがい」を感じるのは「自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき」だと神谷は書いている。
「生きがい」の発見は、願望の成就とは異なる。
人が、何かのために自己の営みを注ぎ込むときに起こる出来事だと神谷はいう。
また、「人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない」とも書いている。
この本は発刊から48年経った今でも、新しい読者の手に取られている。
20世紀日本を代表する著作の一つだといってよい。
だが、今日私たちがこの本を読むとき、そこに刻まれている叡智が、愛生園に暮らす人々の生涯から生まれていることを忘れてはならない。
生命のつながりーー中村桂子
から抜粋
中村桂子が「生命」というとき、ある個体が生きていることを意味するだけではない。
むしろ、個を超え、種を超え、さらには時代を超えて受け継いできた躍動するエネルギーを指す。
さらに「生命誌」と彼女が書くとき、無数の生きる営みによって編まれた、そして、編まれ続けている、「いのち」の歴史を刻んだ見えない「書物」が浮かび上がってくる。
『生きる 17歳の生命誌』と題する本書は、これまでの彼女の仕事をまとめた選集の一冊である。
本書では、詩人まど・みちおの作品にふれながら、作者が科学の真髄を語るという独創的な作品がある。
犬は呼吸し、人も呼吸する。
しかし、ロボットは呼吸しない。
もちろんどんなに優れたシステムも同じである。
彼女はこれから人生という航海に旅立とうとする17歳の若者たちに向けてこう語る。
普段空気を吸っているときに、このようにつながりを感じることはあまりないでしょう。
でもマドさんの詩とそれを裏付ける科学的事実を知った今では、空気を通してあらゆるところにいる生きものとつながっているのだ、という気持ちを忘れないでいただきたいのです。
人と自然という視座は、現実を反映していない。
自然の中で生きている人を感じ直さなくてはならない。
「生命」は孤立していないことをもう一度認識し直さねばならない場所に、私たちはいるのではないだろうか。
吉本隆明さんは詩人という印象はあまりなく
ご健在の時は思想家・評論家の活動をされていた。
他の方達の文章もそれを引いている若松先生の
文章も流れるような筆致で良質な詩に触れたような。
とはいえ”詩”がなんなのか分かっていないけれど。
余談だけれど”詩”には興味はもちろんあるのだけど
なかなか手が出ないのはなぜかと問うてみるが、
たいした理由なぞはないのだけど
平易にみえて難解なイメージがあるからのような。
知的すぎて近寄れないような。
メロディがある「歌」の方が圧倒的に馴染みがあって
「詩」は後からついてくるみたいに思っているのか
というのはどうでもいい10月、寒くなり
家で読書というのが良い季節になってきましたな。