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養老先生のシンポジウム本から”普遍性”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳と生命と心―第一回養老孟司シンポジウム (養老孟司シンポジウム (第1回))

脳と生命と心―第一回養老孟司シンポジウム (養老孟司シンポジウム (第1回))

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 単行本

養老孟司

世界観に開いた穴


まえがき:シンポジウムのいきさつと目的


柴谷篤弘氏の主催する構造主義シンポジウムが大阪の千里で行われたのは、もう10年以上前になる。

私もなぜかそこに出席した。

当時の生物学の常識ではあまり扱われない問題を積極的に評価したシンポジウムとして、歴史に残るものだと思っている。


とはいえこのシンポジウムは、とにかく妙な人の集まりだった。

日本側のメンバーの主だった人たちは、今回の私のシンポジウムにも名を連ねている。

要するにはっきりいうなら、集まった人たちは、学会のいわゆる常識にはまらない人たちだった。

招聘された外国人たちも、いずれも変な人たちだったと思う。

フランシスコ・ヴァレラも来たが、かれの話はいずれ脳につながる話だと思った。


柴谷氏が忙しくなったこともあり、同趣旨のシンポジウムがないのを残念に思っていた。

学会というところはどこでもそうだが、暗黙の常識という縛りがかかっている

日本ではそれに世間という枠がさらにかかっている

世間から出て暮らしている人はいないから、その縛り自体を意識化することはきわめてむずかしい


科学を疑問を追求する作業と規定するなら、学会というところはその疑問が正当であるかどうかを決めるように機能している。

私は学問上の疑問は個人のものだと思っている古いタイプの人間である。

それなら疑問を学会が正当かどうかを決めるのはおかしい。


まったく同じことが倫理にいえる。

倫理とは、取り返しのつかない決断をするときに、どういう原則をとるかという、個人的な問題である。

しかし現在の常識として、倫理は間違いなく手続きと見なされている。

倫理委員会というのが、典型的にその種の思考を示している。

あれは昔風にいうなら、倫理委員会ではない。

そもそも倫理は委員会で相談して決めるような問題ではない。

倫理委員会の実情は、ルールを策定する委員会である。

それなら倫理といわず、ルール策定委員会といえばいい。


科学の疑問もまた、基本的には個人の疑問である。

時代や文化によっては、幸福なことに、個人の疑問がそのままその文化や社会に属する人たちの一般的な疑問になりうる。

したがってそれに解答することは、社会的に有益なことだと見なされる。

しかし個人の疑問はしばしば、ただいま現在の社会にとって、かならずしも意味のある疑問とは見なされない。

疑問によっては、むしろ有害と見なされることもある。


疑問はじつは世界観に開いた穴である。

その穴に気づくと、人はかならずそれを埋めたいと思う

それが学問あるいは科学である。

既存の世界観にも、当然穴があることは、公式に認められる。

いわばその公式に開いた穴を埋める作業が、学会に正当だと認められる学問である。

しかし非公式な穴も、際限なく開いているという気がする。

そうした穴に気づいて、それを埋めようとするとき、非公式な穴については、ふつうそれをなにかで簡単に覆ってしまう。

適当な説明をとりあえずつけておく。

それがいわゆる俗説である。

あるいは問題をさまざまな方法で隠蔽する。

どことなく不安になるからである。

それを追求する作業が、公式の世界観自身を転倒させることを恐れるからであろう。


現在はマスメディアが発達している。

しかしメディアが発達したということは、語る内容が増えたことを意味しない。

いうことがないから、メディアはしばしば肝心の問題つまり非公式の穴を隠すために機能するようになる。

脳死問題が極端に大きく報道されるのは、その典型例である。

なぜそれが「大きく報道されなくてはならないか」、それについて報道関係者はまったく答えない。

「日本で初めてだから」を繰り返すばかりである。


私が平成7年に東京大学を退官したとき、パーティーの席上で柴谷氏が挨拶をしてくださった。

そのときに柴谷氏が語ったことは、日本のメディアのその種の態度についての話である。

当時はダイアナ妃の個人的行動に関する話題がメディアを賑わせていた。

英国のメディアでは、この話題はエリザベス女王亡き後の英国が、共和制に移行するか否かという問題の一部をなしている。

しかしその面を、日本のメディアはまったく報道しない。

柴谷氏はそう語ったのである。


私はメディアの悪口を言いたいのではない。

科学もまた、基本的にはメディアである。

”Publish or perish”という英語の台詞は、それをよく示している。

それならメディアと同じことが、体制的な科学、つまり正当と見なされている科学の、どこかの段階で生じていると思わなくてはならない。

それがいうなれば学会の機能である。

学問の世界にも、体制的な疑問と、反体制的な疑問がある。

この場合の反体制とは、体制に反対するという意味ではない。

体制が正統、適切、正当と見なすか否か、そういう問題である。

しかし疑問は単に疑問であって、正当性、正統性とは、本来なんの関係もない。

にもかかわらずある種の疑問は「尋ねてはいけない」のである。

ダイアナ報道はなぜあんなに大きいのか。

脳死報道はなぜあんなに大きいのか。

それを訊いてはいけない


ただしそれを放置すると、しだいにわけがわからなくなる

報道だけを読み、論文だけを読んでいると、ダイアナ問題とはなにか、脳死問題とはなにかの答えが出てこない。

いろいろなことについて、さんざんそう思ってきた。

だから素直な疑問をそれなりに考えよう

そういうつもりでシンポジウムをやりたかった

それだけのことである。


理路整然、シンプルな理由と言わんばかりだけど


この論理展開は先生ならでは、高次レベルと


言わざるを得ない。


誰しもがそこに到達できるとは思わないけれど


メディアと世間への”態度”というか、それらに対する


”疑問”とか”立ち止まり方”がなんか頷けてしまうのは


自分もそういう要素があるからなのか。


ひとつ言えることは、仮にそうだとしてもそれが


研究発表や会合など持りシンパシーを表すには


普通ならばなにかに忖度して成立するようなものを


養老先生たちならばそうならないようですな。


ただし費用その他を外部に求めると、素直な疑問を追求することがむずかしくなる。

どうしても遠慮や配慮が生じるからである。

それならなにもかも自前でやるのがいちばん簡単である。

やった結果は公表するが、元々一種の私的会合だから、なにをいおうと、別に誰からも文句をいわれる筋合いはないはずである。

さらにいえば、この国の憲法は、言論・出版の自由を確か保証していたのではないかと思う。


この書が普遍性を帯びているのは刊行から


20年以上経ていると思えないと


身体が感じる事から明らかではなかろうか。


他の論文発表者は以下で、併せて討議もされている。


・茂木健一郎

クオリアと志向性

「私」という物語ができるまで

 

・郡司ペギオ幸夫

クオリアと記号の起源

フレーム問題の肯定的意味

 

・澤口俊之

前頭前野の動的オペレーティングシステム

 

・松野幸一郎

<さすらう不都合>ということ

 

・計見一雄

精神分裂病と<肉体性を持つ言葉>

 

・池田清彦

同一性、記号、時間

 

・団まりな

物質の雑音状態


あとがき


シンポジウムの構成など


から抜粋


全員の問題意識が同じだったわけではない。

特定の主題もおいたわけではない。

しかし討議を終わってみて、私が興味を持った根本的な問題の一つはたえず変化していくものとして生物というシステムと、それ自体は変化しないという性質を持つ情報とが、どのように関係しているか、ということだった。

生命、時間、記号、伝達、そうしたものの基礎にある同一世と差異、これらはいずれもたがいに関係しあった概念でもある。

しかしそれを全体として意識化し、それぞれの専門的な議論をどこに位置付けるか、それはまだ考える余地が十分にある。

次回のシンポジウムでは、そうした点を私自身は追求してみたい。

そう思っている。

しかしもちろん、具体的な問題もたいへん面白い。

それはここに収録された論文や討論に見るとおりである。


茂木先生が世に出れたのは、


このシンポジウムのおかげだったと仰っていた。


池田先生は養老先生と深く付き合うきっかけは


このシンポジウムだと仰っていた。


養老先生の果たした役割はご本人の意識、無意識に


かかわらず多大であるといわざるを得ない、


なんてのは自分に指摘されるようなものでなし、


夜勤明け休日の本日、北野武監督『首』を拝見し、


日本の社会の縮図ってほぼ変わってないよなあ


約500年前から、とか、


これは西欧からしたら未開の野蛮人と


思われただろうなとか、


また別の視点からだけど、かなり重たいものを


突きつけましたなあ北野監督は、とか


北野監督と養老先生は似ている所多いのでは


とか思いつつ映画館からの帰り地元サイゼリアで


コーヒーをいただきながらの読書の冬本番


直前な午後でございました。


 


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