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②日高先生の対談本から”時代”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

動物の目でみる文化―日高敏隆対談集 (1978年)

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1978/04/20
  • メディア: -

 


70年代しているなあ。


テーマが、言葉が、雰囲気が。


うまくはいえませんが。


むだをする 岸本重陳


金は天下の回りもの から抜粋


岸本▼

動物の場合はどうなんですか。

個体差を識別するということはかなりあるのかしら?


日高▼

はっきり識別してる動物がずいぶんいますね。

鳥なんかのように人間が見ても区別できないものを、ちゃんと識別しているものもいます。


岸本▼

人間の場合、今までの階級社会における個体識別の重要なポイントは、経済面における貧富の差であったと思います。

その貧富の差によって、あそこの家はダメな家だからあんなのと結婚しちゃいかんというのに始まって、個体識別を非常に容易にしてたと思うんです。


日高▼

そうでしょうね。

ところで、貧富の差というのは、富が有るか無いかですよね。

動物の場合を見ていると、その富というのがよくわからないわけです。

たとえば、生態学では富の源泉というのは、太陽エネルギーしかない。

それに困ったことには、太陽エネルギーはだんだん蓄積されるのではなく、結局、宇宙空間に再び放出されるわけです。

つまり、太陽エネルギーが地球上でしばらくグルグル回っているうちに、いろんな動物が食べていく。

人間の場合でも、ーーもちろん人間も太陽エネルギーの流れの中にいるんだけどーーたとえば、金は天下の回りもの式な言い方をすると、どこからお金が入ってきて、金がひとまわりグルっとする間に食えるわけですね。

そうすると、生態学の場合と人間の場合では、どこがどう違うんだろう?

生物の場合では富が増大することはないけど、経済学の面では富が増大するわけですね。


岸本▼

実はね、「富」というものほど、経済学上、定義されてないものはないんですよ。

『資本論』にだって、その冒頭に「資本制的生産様式が支配している諸社会の富はーー」なんて書いてあるけど、その「富」というのはなにかという定義はひとつも出てない。


日高▼

たしかにそうだ。


岸本▼

だけど、客観的に見れば、経済学で「富」といっているのは、人間の生存手段でしょうね。

人間の生存手段は、生態学の立場からは順増にはなれないけれども、人間が支配下においたものと限定すれば、今まで支配下になかったものが、新しく支配下に入ってくるということで、増減を考えることができる。

そこで、富を増やすこと、生存手段を増やすことを生産というわけです。


日高▼

動物を研究している人でも、動物における生産を論じることがあるなあ。

なにしろ、人間の社会に起きていることを、動物に投影しないと気が済まない人が意外にたくさんいるんでね。

そこが実に面白いところなんだけれども…。


ばかされる 矢川澄子


ボーヴォワール から抜粋


日高▼

この頃、ボーヴォワールに関心を持つ人がなんだかまた増えているような気がするんだけど…。


矢川▼

そうかしら。


日高▼

僕の狭い印象だけなのかなあ?


矢川▼

ボーヴォワールよりもシモーヌ・ヴェーユあたりに関心を持つ人のほうがわりあい増えてきているんじゃないかしら。


日高▼

大学で学園紛争のあったときにはシモーヌ・ヴェーユが話題になったけれど、ヴェーユを口にした人はほとんど駆逐されましたね。

あとに残った人たちは、たとえボーヴォワールの名を口にしなくとも、どうも基本的にはボーヴォワール的な感覚を持っているように思います。


矢川▼

私は時代おくれだし、いわゆる女性論てのにあんまり興味がないので、彼女についてよう知らないのね。

なんだかお説教されてるみたいで、きらいなのよ。


日高▼

矢川さんが時代おくれなのでなく、ボーヴォワールがおくれていて、そのおくれる人の感覚がいまだに生きているってのが気になるんだな。


矢川▼

ボーヴォワールのような格好で生きようとしている女の人は、少なくなってるような感じがするけど。


日高▼

それがそうでもないらしいんだな。

ボーヴォワール式の考えを何かと持ち出す人というのは大抵、結婚してない人でもなく、子供を生んでない人でもない。

あるいはもっと若い人だったら、いずれはちゃんと旦那も欲しいし子供も欲しい。

そして実際にそうする人たちですね。


矢川▼

ずいぶんよくばりみたいね。

よほど体力だか生命力(バイタリティ)だかに自信があるのね。


日高▼

ある意味ではね。

で、おのれないしは女の生き方について公式な見解を求められると、男と女はそもそも平等で、まったく同じものである。

それが女になってゆくのは、社会的に女としてつくられるのだというようにバーンという(笑)。

公式にだからそういうのではなくて、本当にそう思い込んでいるらしいんだな。

だからできるだけ自分が女らしく振る舞おうとしている。


矢川▼

言えるってことはすでに救われた者のすることよね。

女であることの痛みをほんとにひっかぶって生きている人たちは、ほとんど無言ですもの。

ボーヴォワールって、健康人の日のあたる世界のことしかいってないみたいな気がするけど。


ならべる 中根千枝


カラスとネズミ から抜粋


日高▼

日本人の社会というのは、カラスの社会に似ているのかなあ。


中根▼

え!鳥のカラス?


日高▼

ええ。ローレンツの書いているカラスの話でおもしろいのがありますね。

カラスっていっても、日本にいるのとすこし違う、コクマルガラスという種類なんですけどね。

このカラスは、自分たちの群れの中では一応年長のものから順番にずっと並んでいるわけです。

これには雄雌の区別はない。

だから若いものは雄でも雌でも下になるんですが、若いものの中には、雌は雄の下につくことになっている。


中根▼

へえー。


日高▼

お互いに認知しているんですね、あれは何番だと。

いや「何番」なんてことは知らないでしょうけど。


中根▼

誰の次とか…。


日高▼

ええ。自分の次とか、下とか上とかいうのはわかっている。


中根▼

日本人だって自分はいちばん上から数えて何番かは知らないんだわ、どっちが上か下かで。

だいたいカラスと同じ(笑)。


日高▼

しかも面白いのは、同じ年齢だと雌は雄よりも常に順位が低いんです。

しかし、雌は自分より順位の低い雄とは絶対に結婚してつがいにならないし、雄は自分より順位が上の雌とつがってはならないんです。

だから、かならず雌の順位が結婚相手の雄の順位に上がるんであって、雄の順位が雌の順位に上がるということはないんです。


中根▼

ほ、ほぉー。それはすごいわね。


日高▼

だからカラス同士も大変いろいろ気をつかっているらしくて…(笑)。

つまり、自分より順位が下だった雌がいるわけでしょ。

なんだ、あんなもんかと思ってたのが、突如としてポーンと自分より順位の上の雄と婚約などされると「ははあ」って下がんなきゃいけない。


中根▼

どこかで聞くような話ね。


日高▼

そうなんですよ。

人間でも自分より若い女の子が自分の目上の人の奥さんなんかになったら、あんまり軽々しい口はきけなくなるでしょう。すごくカラス的…。


中根▼

一列に並ぶというのはカラスがそうだとすると、日本はカラスだわね。

それで、途中で順番が変わることはない?


日高▼

ほとんとないようですね。


中根▼

動物の世界というのは一列に並ぶものだけではないんでしょう?


日高▼

もちろんそうです。

ネズミなんか個体識別できないから、誰が自分より上か下かちっともわからないで、ごちゃごちゃしているんですね。

ただ、デスポット(独裁者)ができる。

「あれは偉い」というのだけは、どのネズミもわかっている。


中根▼

それはイタリア式よ(笑)。

イタリア人は完全にかなわないというものだけいうことを聞くのよ。

韓国もイタリア式ね。

それからフィリピンなんかもそうだわ。

だからマルコス大統領みたいな相当強いのがいるからまとまっているけど。

下の方はわあわあよ。


日高▼

韓国というのは割合に単一社会なんじゃないですか。


中根▼

まあ単一な方だけど、北の方はツングースが混ざっているし、南の方は倭人と似たような民族が混ざってるわね。


日高▼

日本もほぼ完全な単一社会だけど、日本の薩摩と長州なんてものではない?


中根▼

もっと違うでしょ。

だけど今はもう完全に混ざっちゃってるけどね。

でも歴史的には違うわね。


日高▼

日本以外に単一社会の国というのはないんですか。


中根▼

5000万以上の人口を持っている近代国家ではまずないわね。

2、30万ぐらいの社会だったら、結構あるけど。

ちょっと日本みたいに大きい社会ではないわねえ。


日高▼

単一性がないと「タテ社会」にならないわけでしょ?


中根▼

少なくとも、「タテ」のプリンシプルというのは、一つに統合されないと全体にあまねくゆき渡らない。

日本のようにきれいに「タテ」になるためには、やはり単一性が母体であることが重要になるといえるでしょう。

一つの社会のなかに、一つが上になり、他方が下になると階層ができるでしょう。

そうするといずれの場合も「ヨコ」の機能が強くなって「タテ」が部分的にしか機能しないし、全体としては「ヨコ」の機能が支配的になるわね。

日本列島には、北や南からいろいろな人々が入ってきて、長い間にそれが混交して日本人というものが出来上がったようですが、すでに、縄文時代から同じ文化が日本列島全体に見られるわけだから、単一性というものは相当古く、今日の我々にとって根強いものといえるわね。

たいてい国家ができてから異なる既存の集団が統合されて一つになるというケースが圧倒的に多いんだけど、日本の場合はもう奈良朝ができる前に相当な文化の単一性ができてしまっているから…。


かくどを変える 坂本正治


標本箱と三島由紀夫 から抜粋


坂本▼

分類学者はコレクターとして素養が必要だということだけど、生物学者というのはコレクターとは違うんでしょう。

知識だけをコレクトしようとしているような人もかなりいるようだけど。


日高▼

全然、違うんじゃないだろうか。

僕は昆虫学をやってることになっているけど、昆虫を収集する趣味はないし、虫についてありとあらゆる知識をできるかぎり集めようなんて趣味もないですね。

少なくとも、それが第一義ではない。

知識をコレクトしようとする人は、論文やら本やらを片っ端から集める。

僕にはそんな根性みたいなものはないな。

あくまで適当にしておく。


坂本▼

しかし、知識をコレクトしているだけの生物学者は多い。


日高▼

それは多いよ。

しかし、この問題は生物学者に限ったことではないでしょう。


坂本▼

そう。僕は三島由紀夫の文章なんか読むと、一種のコレクトマニアの標本箱を思い浮かべる。

彼の文章には日本人の美学が描かれているという人もいるけど、僕は実に薄っぺらいと思います。

標本箱にならべられたチョウと同じように、三島由紀夫の文章はできてくるプロセスが全然なくて、完成品なんですよ。


日高▼

まったく同感だね。

彼の作品をいくら読んでも、標本箱を見ているよう。

インテレクチュアルな感じはしない。


坂本▼

そうでしょ。

芸術家の中にもそれ派がいますよ。

テクニックが非常にあって、ある美しい世界を描き出す。

そしてその作品が市場価値を持って動き出すと、もうチョウのコレクションと似てくる。

純粋であるところも似てるし、あんまりインテレクチュアルじゃないところも似ている。


日高▼

なるほど。あらゆる分野にコレクターがいるわけですね。


坂本▼

いままでの高度経済成長時代というのは、特に進歩というのが信じられていたわけですね。

まあ、明治以降ずっと日本人は進歩を信じてたわけですけど。

ところが生物学というのはその進歩感に重要な役割を果たしてきたわけですね、人間はだんだん進歩していると。

野蛮人があって、文明人があって、という図式があったんです。

ところが、今それがチョウのコレクターとかなり似ているんじゃないかと。

人間は好きなものを集めて所有したがる。

ところが、好きなものは人によって違い、金を集めるもの、知識を集めるものなどがいる。

その人たちが近所迷惑も顧みず、進歩観に乗って、ただ懸命に”文明の象徴”を収集しつづけた結果が、今の日本列島だといえないこともない。

しかも、生物学から提案された進化とか進歩のイメージに忠実でない人たちが多くなってくると、進歩と調和して、シンボルだの、知識だの、お金だの、土地だのを収集していた人たちがそれぞれどのようなトータル・イメージを持つようになるのかが問題となりますね。

そこで僕が一番不思議に思うのは、生物を研究している人たちというのは、動物なら動物、植物なら植物を見るときに、どういうイメージを持って見ているのかということがわからないわけです。


日高▼

それは人によって違うんでしょうね。

たとえば、生物を研究している人が、どのくらい進歩発展の思想にのっているか、つまり、20世紀の近代主義思想にのっているか、いないかによって、生物を見るイメージも違いますね。

近代主義的な感覚の持ち主は、やはり生物に対してもそういう目を向けるからね。


坂本▼

どういう目を向けるんですか?


日高▼

やはり、生物学は進化、発展してきたものだという…。


坂本▼

いまでもそんなことを信じているわけですか。


日高▼

もちろんですよ。


坂本▼

そういう人はクジラより人間は偉いと思うわけですか。


日高▼

内心ではそう思っているんじゃないかなあ。

だからサブヒューマン・プライメイツ(subhuman primates)、つまり人間以下の霊長類なんていう言葉が、ひょいと出てくる。

そして、そのことについて、誰も対して不思議に思わない。


坂本さんというのは存じ上げませんで


WIKIで見るかぎり書籍もあまり出されてないようで


残念ですが、惹かれるものがあるような。


少し調べた感じだとかなりラディカルな印象。


イメージシンセサイザーってなんなのだろうか。


環境デザイナーとあるけれど、90年代に


「ワン・トゥ・ワン・マーケティング研究会」って


何をされようとしていたのかも気になるが。


この対談での日高先生が押され気味なのが


なんとなくすごい感じがいたします。


余談だけど、本日夜勤のためそろそろ


食事するのだけど一個レトルトカレーが


100円だった。時代も変わったものです。


 


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