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中村桂子先生の書評本から”アート”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

生命の灯となる49冊の本


生命の灯となる49冊の本

  • 作者: 中村桂子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

あとがき から抜粋

新聞というメディアの持つ特質上、年齢・性別・職業などの別なく、幅広い方が関心をお持ちになりそうな本を選ぶように努めています。

でも、どうしても「私の関心」が基本になりますのでちょっと面倒なものもあるのはお許しいただきたいと思います。

「まえがき」にも書きましたように「生命誌」という新しい知を求め、「人間は生きもの」であるというあたりまえのことを基本とする生き方を考えていきたいのですが、その底には科学があります

「科学」はどうしても面倒な話になり、そのために専門外の方には敬遠されがちです。

でもその面倒があるからこそ本質がストンとわかるということも少なくありません。

科学がそういうものとして受け入れられるようになって欲しいと思っています。

書評という形でそのような可能性が広がらないだろうか。

そんな思いを込めて書いています。


あまり馴染みのない本ばかり


取り上げられているため興味は尽きない。


というか中村先生が取り上げる本であれば


学術書でない限り読んでみたいと


思わせていただける書評本です。


カント、宮沢賢治、鴨長明の書評も深くて流石だし


ネガティブ・ケイパビリティ」というのも、


着眼点がすごいなあと単純に思ったが


ことのほか、一冊だけ特に目に留まった。


自分の得意分野だからというわけでもないけれど。


岩田誠


ホモ ピクトル ムジカーリス


アートの進化史


神経内科医である著者は「アートとはなにか」という問いへの答えを、脳機能を基盤とする神経心理学に求めていたが、退職して孫の言葉と描画の発達を観察し、進化史で考えるようになった。

専門と日常を一体化して謎を解く科学者の有り様として興味深い。


著者は孫たち、また自身の子どもの頃の両親による記録から言語獲得過程を個人の発達の中で追う。


指示コミュニケーション能力の獲得は、アート、つまり表現へとつながっていく。

近年ゾウのお絵描きが話題だが、訓練や報酬なしで描画を楽しむのは霊長類からである。

ただそれはなぐりがきを越えない。

一方人間は、なぐりがきから始まって閉じた円などを描くようになり、2歳半ごろには自分の顔だとか風船だなどと説明するようになる。

また3歳半ごろには、複数の対象を描き、「…しているところ」という「コト」を表現するようになる。

6歳くらいになると自己中心座標だけでなく、公園全体を描くなど環境中心座標での空間表現も生まれ、これは言語獲得と並行している。

幼児に言語を教えられず絵を描けなかった少女が、言語能力と共に描く能力も得たという。


古代の洞窟画の大半がリアルな大型動物であるのは、狩りの成功への祈りというよりその場の占有権を主張する勇気の証であり、群をつくって生きる有効手段だったと著者は考える。

一方、ヴィーナス像など小さなアートには「美」の追求が見られ、美の概念を持つホモ・ピクトルを実感させる。


ついでホモ・ムジカーリスである。

近年、ネアンデルタール人も歌を持っていたと考えられ、絵画洞窟の絵の描かれている場所は音響効果が良いという調査がある

ここで歌や演奏がなされていた可能性が高い

協同での狩りにはリズム合わせが大事ということも明らかになっており、音楽や絵画は「社会的行動」と共にあるのだろう。


アートのありようは時代と共に変化してきたが、今も生活の一部としてある。

人間は自身と世界との関係を「我」と「それ」の関係として知る科学をもつ。

そして「我」と「汝(なんじ)」との関係の表現がアートであり、この二つは共に人間の本質と言ってよい。

これが著者の答えである。


アートを科学的に解き明かそうとされる


人間の本質で「我」と「汝」で


それが大いに関わるという点も興味深いのだけど


この書を書かせた岩田誠先生の


”きっかけ”が気になったので調べたら


Kindle unlimitedにあったので読んでみた。



ホモ ピクトル ムジカーリス

ホモ ピクトル ムジカーリス

  • 作者: 岩田誠
  • 出版社/メーカー: 中山書店
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: Kindle版


はじめに から抜粋


もしアートが生存のためには必要のない行為なのだとするなら、ヒトはなぜそんな行為をわざわざ営もうとするのか。

それどころか、自分の生存の可能性が失われていくことが確実な極限的な環境下でも、ヒトは、語り、詠い、唄い、描き、奏で、踊り、演じようとする。

むしろ、そういう時にこそ、ヒトはアートといえるような行為を積極的に行おうとすることが少なくない。

他の生物では見られないこのような行為を行うヒトは、その点において生物界における極めて特異な存在なのである。


生物学的常識からは不可解な、このアートという営みは一体何なのか、ヒトは何故アートというような、一見生存には不要な営みを、かくも執拗に追い求めようとするのか、それらのことは、筆者にとって長年の大きな疑問であり、数十年にわたって、筆者はそれらの問題に対する答えを模索し続けてきた。


当初筆者は、自らの専門研究領域の一つである、脳機能を基盤にした神経心理学の研究を進めて行けば、その答えが見出せるのではないかという漠然とした想いの下で、これらの問題について考えてきたが、それが見当はずれであるということに気付かされるに至ったのは、筆者の孫たちの造形行動の発達過程を、直接観察する機会が得られたからである。


なるほど、学者さんというのは


そういう視点でアートを追求するのですなあ、


と少し納得。


アートの起源というか原初の情動というような


情景が喚起されてこれまた興味深いです。


深淵なる存在への感謝を捧げていたのか


絵画だけでなく音楽との関係なども。


トランス状態になることが気分を


高揚させたのかなあとか。


自分はアートの営みが何か、よりも


なぜ求めるかについては興味があって


ぼんやりとした答えが2つあり、


”つくられたもの”というのと


”でてしまったもの”というのでございまして、


ちと分かりにくいので補足すると


前者が”意識”から、後者が”無意識”から


発想されるような気がするのだけど。


岩田先生のように”対象”ではないので


自分のいうのと次元が異なるのかもしれんけど。


岩田先生の書の凄い所は孫を調査対象としている


というのは分かるが、自分の親がつけてくれた


過去の自分の成長記録も照らし合わせての


分析ってことで、それは他には


なかなかないのではなかろうかと。


それこそ、意識(孫)・無意識(自分)みたいな。


中村先生の書評から脱線してしまったけれど、


書評って興味ある人のだと


ほぼ間違いなく面白い。


読書のありがたさを痛感させられる、


台風のような今朝方、大雨と風で家が


ガタピシ揺れて眠れなかったので


中村先生の講演動画を聞きながら過ごし


先生の”科学”愛の底知れぬ深さを感じ、


そういう一生を賭ける値打ちのある対象を


持っている人は文句なしに強いよなあ、


と思った木曜日でした。


 


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中村桂子先生の本の解説から”女性”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


あそぶ 〔12歳の生命誌〕 (中村桂子コレクション・いのち愛づる生命誌(全8巻)第5巻)

あそぶ 〔12歳の生命誌〕 (中村桂子コレクション・いのち愛づる生命誌(全8巻)第5巻)

  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2019/01/26
  • メディア: 単行本


解説


生物学と女性


養老孟司 から抜粋


中村さんを見ていて、思い出すことがありました。

バーバラ・マクリントックという婆さんです。

はじめから婆さんではなかったと思うんですが、なにしろノーベル賞をもらった時に、80歳を超えていました。

その時に知った人ですから、私にとっては初めから婆さんでした。

うちの母親の知り合いの婆さんたちと同じ。

あの人たちにも若い時があったなんて、想像もしませんでしたね。

バーバラ・マクリントックについては、優れた伝記があります。

その中で、この婆さんは「自分がトウモロコシの染色体の中に立っている」と述べています。

その実感がわかりますか。

わかるわけがないでしょうね。

でも現実って、そういうものなんですね。

この人は一生をトウモロコシの遺伝学に費やしました。

だからトウモロコシの染色体がこの人にとっての「現実」なんですよ。

それでいつの間にか、トウモロコシの染色体の中に立っていることになる。


そんなこと、お金にこだわる人を見ていてもわかるでしょう。

いまはFP、ファイナンシャル・プランナーなんて職業があって、どうやって資産を上手に運用するか、そういう相談に乗っています。

そういう人にとっては、お金は現実そのものでしょうね。

そうでなけりゃ、数字や紙きれを相手に、一生を過ごそうとは思わないでしょ。

私なんか、虫を相手に一生を過ごしてますけどね。


だから中村さんを見ていて、バーバラ・マクリントックを思い出すわけです。

中村さんは「生命誌」と言います。

良い言葉だと思いますけど、あまり広がっていません。

すべての生きものは、巨大な時間のスケールを通じて、つながりあっている。

そのつながりを中村さんは強調します。

ぜひ子どもたちにそれを実感してもらいたい。

その気持ちが、この本を読んでいると、強く伝わってきます。

生命誌が子どもたちの現実になることを訴えていると感じます。


中村さんについて考えると、もう一人、思い出してしまう生物学者がいます。

リン・マーギュリスです。

この人も女性で、ミトコンドリア細胞内共生説で著名です。

どこで中村さんとつながるかというと、「つながる」ということでつながるわけです。

生きものは祖先を共有して、みんなつながっていますよ。

中村さんはそういいます。

リン・マーギュリスは、それどころか、違う生きものが細胞の中に住んじゃっているじゃないか、と言いました。

発表当時、これは評判が悪かったんだと思います。

論文は17回、レフェリーに拒否されたという話も有名です。


私が女性を強調するのは、敵(かな)わないなあと思うからです。

バーバラ・マクリントックのトウモロコシの染色体も、リン・マーギュリスのミトコンドリア共生説も、中村さんの生命誌も、その裏にあるのは、それぞれの女性たちの現実感です。

実際に子どもを持とうが持つまいが、やはり女性は自分の中に別なヒトを抱えて生きるようにできている。

そう思うしかありません。

まさに共生です。


うーん、すごいです。養老先生は相変わらず。


中村先生とのシンパシーすごく伝わってくるし。


思い浮かぶ二人の海外の女性ってのも興味深い。


ちなみに全く存じ上げませんでした。


今日本に普通に暮らしていたら、知らんよなあ。


知ってるものなのか?


中村さんには、いくつか、大切なことを教えてもらいました。

ご本人は忘れているかもしれませんが、私はよく覚えています。

生物には二つの情報系がある、というのがその一つです。

いまでは当然の常識かもしれませんが、きちんと意識化することができたのは、中村さんが一言、教えてくれたからです。

中村さんはゲノムに興味があり、私は脳に関心がありました。

どちらも情報系としては同じでしょ、ということを、そこではっきり意識したわけです。


もう一つ、既知のことを未知の言葉で説明するのが科学だ、ということです。

これでは多分通じないでしょうね。

この本がそうですが、中村さんは子どもたちにきちんと科学を教えようとします。

私もときどきやらされますが、生来の怠け者ですから、それが面倒くさい。

あとは自分で考えろ、とか言って、放り出します。

でも中村さんは丁寧に説明をしてくれます。

そうすると若いお母さんたちが「わかりやすく教えてやってください」などと、余計な注文を付けるわけです。

だから中村さんはいう。

「水なら、子どもはだれだって知っているでしょ、でもHもOも知らないんですよ」って。

水は湯気になり、雲にもなり、氷にもなります。

子どもはどれもよく知っています。

でもHやOは全然知らない。

でも科学の世界では、水はH2Oです。

つまり「よく知っているものを、知らない言葉で説明するのが科学なんですよ」というのが、中村さんの言い分でした。


でもお母さんたちは、暗黙の前提として、知っていることを前提にして、知らないことを説明してもらおうと思っている。

それが「やさしい」説明だと思っているわけです。

だから結局、新しいことを何も学ばない。

そういうことになりますよね。


私は20年以上前に、教師を辞めました。

いま私が教師をやっていたら、パワハラで告訴されるんじゃないでしょうかね

わけのわかんないことを押し付ける、って。

赤ん坊の時に、わけのわからない世界に放り出されたことなんか、皆もう忘れているわけです。

わけがわかんないから、面白い。

そういう時代が来ないかなあ。

生まれ直すしかありませんかね。


欧米、とくにアメリカの生物学は共生を嫌うみたいです。

リン・マーギュリスの扱われ方を見ればわかります。

根本的にはダーウィンの描いた系統樹に関係するんでしょうね。

これには枝分かれはありますが、枝どうしが融合することはない。

中村さんはお釈迦様についても、この本で一言触れています。

仏教的世界では、生物が「融合」しても、なんの不思議もないんですけどね。

中村さんの言う、生きものはすべてつながっているという結論に、私は文句なしに賛成します。


養老先生の解説しか引いておりませんが


この書自体ものすごく面白くて興味深い。


いのちの不思議や尊さ、女性への応援っぷりが


本当に素敵です。イノセントな人柄が滲む。


妻や娘に薦めたいのでございます。


相手にされないかもしれないけど、パパが言うと。


本の内容ですが子ども向けだからと思うが、


ルビが振ってありかつ、平易中の平易な


丁寧なお仕事に頭が下がります。


こんな中年に下げられても困るだろうけれど。


書評もいくつか書かれていて、


手塚治虫先生の講演本を取り上げておられるが


漫画自体は手塚作品のどれがってことではないが


どこをどう読めばいいかわからないから


苦手とおっしゃる。分かる所もなくはないが


自分の頭の構造とはまるっきり異なる


高次元な知性の持ち主であることを確認し


12歳の時にこの本に出会っていたら


もう少しましな仕事ができたのではないかと


詮ないことを考え一人でもこの轍を踏まないよう


ここでご紹介させて、って三木先生に対する


吉本隆明さんの真似すんなよ、と一人ツッコミを


してみても、朝5時起きでの仕事してきた


自分程度の頭ではすでに半分以上寝ているのだもの、


と言いたくなる冬の初めの夜でございます。


 


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日高敏隆先生の書から”情報”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


生きものの流儀

生きものの流儀

  • 作者: 日高 敏隆
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/10/18
  • メディア: 単行本

5 生きる喜びと「いのち」


生きる喜び から抜粋


人間も他の生きものと同じく「生きる論理」をもっており、その倫理に従って生きている。

けれども不幸にも「死」というものを「発見」してしまったわれわれ人間の生きる論理は、死への対応という悩みの上に出来上がっているようにみえる。

そして人間はこの生きる論理の上に立ってさまざまなイリュージョンや美学を組みあげ、それによって「世界」を構築してきたように思われる。


人間は、「生きる意味」を問い、「生きがい」を求めている。

「生きる」ということについて書かれた本には、たいていこのようなことが述べられているようだ。


けれどわれわれ人間は、毎日そのように高邁なことを考えているだろうか?


職場に行けば、仕事がスムーズにはかどったらうれしい。

休み時間にかかってきた知人からのお礼の電話にひとしきり花をさかせ、いい贈り物をして良かったと、なんとなく心が温まる気持ちになる。


ほとんどが毎日このように過ぎてゆく。

そのどこに「生きがい」があり、「生きる意味」があるのだろう?


でも、われわれが何も求めていないと言ったら、それはどう考えてもうそになる。

人間は明らかに何かを求めて生きているはずなのだ。


われわれは何を求めているのだろう?


どうやらそれは、「意味」とか「価値」とかいう大袈裟なことではなさそうである。

われわれが求めているのは、おそらくもっとずっと単純なことではないだろうか?


人から髪型をひとこと褒められる、「よし、昼までに上げてしまおう」と思った仕事がちゃんと昼に仕上がった、そんな小さなことにも、われわれは「うれしさ」を感じる。

それはつまらないことにも思えるが、そのちょっとしたうれしさによって、われわれが勇気づけられているのも確かである。


そして人生を彩るもう一つの要素は、「悔しさ」ではないかと思われる。

「うれしさ」を求める気持ちを持っているからこそ、人間は無数の悔しさを積み重ねているのだが、その悔しさが、後になって振り返ると、何とも味わい深いものに感じられることがあるのだ。


人間にとって、うれしさや悔しさをまったく感じることができない日々は、感動も落胆もなく、味気のないものに感じられるだろう。

そしてそのように味気のない日が何日も続けば、自分は何のために生きているのだろうという疑いが生まれてきてもふしぎはない。


それは、そのように何ということもなさそうな、それこそとるに足らないと思われるかもしれない「うれしさ」や「悔しさ」が、じつは重大な意味と価値をもっているからである。


生きる喜びとは人類の幸福に役立つ何事かを成し遂げることでもなければ、学問の世界に名の残る立派な業績を苦労して仕上げることでもない。


その意味とか価値とは何だろうか?

少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、それは「生きる喜び」とでも呼ぶべきものなのである。


言うまでもないが、喜びとはそのような概念的なものではなく、自分が感じる気持ちそのものから生まれるものだ。


仕事の分類分けをすれば、ぼくは自然科学者と言うことになる。

曲がりなりにも科学者である以上、ぼくはこれまでにいろいろな研究をしてきた。


ではそれでどんな業績を残したか。

もちろん研究の結果は論文となって残っている。

けれど残念ながら、それらの論文の多くは日本の学会雑誌に載っており、『ネイチャー』とか『サイエンス』とかいう国際的一流雑誌に載っているわけではないから、今流行の業績評価では、あまり高い点はつかない。


しかしそれはぼくにとってあまり問題にはならない


そのような論文を書き、それが学会の雑誌に載ったことは、ぼくにとって喜びであった。

問題なのは、それらの論文にはぼくにとって何がうれしかったか、どんな喜びを求めてぼくが研究に熱中したか、どんな辛いことがあったかが何一つ書かれてないことである。

本来、論文とか報告書とかいうものはそういうものだ。


人が後世に残ると思うものには、その人のうれしさや悔しさが必ず込められているはずだが、それが実際に何であったかは記されていない。

いや記してはいけないのだ。


ぼくを研究に駆り立てていたのは、じつにつまらない「うれしさ」だった。

どこに卵を産むかわかっていない昆虫のあとをひたすら追いかけて、夜の話の中を歩き回る。


そして、何度も悔しい思いをしながら、あるとき、偶然にその虫が卵を産むところに出会う。

そのときのうれしさ!


論文にはそれは1行で記される。

「この昆虫はどこどこに卵を産む」。

それで終わり。

そしてそれは学問的には歴史に残る大発見でも何でもないのである。


ぼくは今ここで、動物学者という自分の職業について述べてきたが、同じようなことはどんな人にでもどんな職業にでもあてはまる。


人を業績で評価するという今日の風潮では、誰にでも同じようなことがおこっているのだろう。

評価の際に資料とされるのは、論文とか報告書とか、作品、製品といった、要するに情報化しうるものである。

しかし人間のしていること、感じていることは情報化できない。


それを無理して情報化しようとすると、NHKのTV番組やノーベル賞受賞者とのインタビュー記事のようなものになってしまう。


そこでは人が何かを求めて探ってゆく情熱や苦労、そしてその上での思いもかけぬ偶然の出会いとその喜びが語られる。

そういう話は本当に人々の心を打つので、これらの番組や記事は多くの人に好まれる。

このような報道が盛んになってきたのは喜ぶべきことではあるが、そこには大きな問題がある。


それはこれらで扱われるのが大きな業績に関わるものだということである。

何らかの意味での社会的認知、社会的評価があれば、そこに至る苦労やその上での喜びは報道に値するだろう。

けれど大多数の人々の「生きる喜び」は、そんな大きな業績とは関係がないのである。


京都市の青少年科学センターというところで、小学生に昆虫の話をしていると、そのことを切実に感じてしまう。


実際投影機を使ったり、現実の虫の標本を見せたりしながら、虫たちがどう生きているかをゆっくり話していくのだが、その中で子どもたちはいくつかの「発見」をする。

今さら何の発見でもないことだ。


けれどその小さな「発見」をしたことが、その子どもにとってどれだけうれしいことか、そしてその子の「人生」にとってどれだけ大きな意味のある喜びであることか!

われわれ人間にとっての「生きる喜び」は、今流行の「情報」とは異なる次元のものなのである。


日高先生の素敵な考え方や態度の塊の書だった。


やはり日高先生はこういう人だったのだなあ的な。


一方で、分子生物学とか動物行動学とか


最新の学問視点で見たとき、軋轢があったのでは


なかろうかという懸念あるけど


すでに亡くなられてしまっている方へ


余計なお世話を焼きたくなるところあり、かつ


自分が今のそれを熟知しているわけでは


もちろんないので、勘でそう感じるだけだけど。


バリバリのラボ現役学者からしたら


「日高先生はロマンチックだなあ」


と悪い意味で揶揄されるのではなかろうか。


だけどプリミティブな意味で言えばそこが


そここそが、大事なのだ、っていう気がして


ならばよくわかる、っていうこれは


昭和人としてのシンパシーなのか。


さらに思ったこととして、この随筆では


科学者の評価の”システム”というか”構造”に


疑問を投げかけておられるが、成果をあげた


科学者の領分ではなく、


成果に群がる経済しか考えてない輩のそれ


なのではなかろうか、と。


とはいえ、一理あると思うのが


小さな発見だと今のご時世、記事に


ならないのだものさあ、と。


かつて養老先生、メディアのことを講演で


指摘されていて、新聞やテレビニュースは


「今日は特別なことはありませんでした、


という日はなく絶対に作るんです」と。


話戻してそれはそれで、いったん置いておいて


今後の”情報”の進展がどうなるかは不明瞭だが


人間はそもそも情報じゃないんだよ、というのは


心に留めておきたい秋の早朝読書で本日は


古書店いきたいと目論んでいるパパなのでした。


 


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松井孝典先生の書から”宇宙と近代化”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


地球システムの崩壊 (新潮選書)

地球システムの崩壊 (新潮選書)

  • 作者: 松井孝典
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


現代とはいかなる時代か


地球システム から抜粋


現代を生きる人類は、宇宙的スケールで、”見える”存在になった。

そのことに、現代という時代の、最も本質的な特徴があると述べたが、その意味を問おうとすると必然的に、宇宙史、地球史、生命史、人類史、といった時間スケールでの分析が必要になる。


宇宙から”見える”、あるいは宇宙を認識するとはどういうことか?

それは一万年前以前の地球にはみられなかった現象である。

夜半球の地球に点々と広がる光の海、それを地球システム論的に考察すれば、地球システムを構成する要素のひとつとして、人間圏なる動物圏が存在する、という事になる。

あるいは、地球からもれ出てくる電波を観測していれば、そこに知的生命体による情報伝達の内容を発見することができる。


システムとはなにか?

複数の構成要素からなり、それぞれが相互作用する系のことである。

ここで構成要素とは、それぞれが固有の力学と特性時間をもつ、ということになるが、要するに同じものではないということだ。

同じものなら単なる多体問題の対象ということに過ぎない。

ただし、天体力学ではよく知られていることだが、二体問題は解析的に解けても、三体問題になると解けなくなるくらい、多体問題は多体問題で複雑だ。


システムの場合、その個々の構成要素間に互いの関係があり、その関係も全体、あるいはそれぞれの構成要素の、時々刻々の状態に応じて、変化する。

従って、単にそれぞれの構成要素を足し合わせれば、全体が表現できるというほど単純ではない。

複雑系と呼ばれるゆえんである。

構成要素間に関係が生まれるのは、システム全体あるいはそれぞれの構成要素に駆動力があるからだ。

すなわち、システムという場合、以上のそれぞれが特定されれば、システムが具体的に表現されることになる。


地球システムを例にして具体的に考えてみよう。

まず構成要素である。

一般には、地球を構成する物質圏を、それぞれの構成要素と考えるのが普通である。

外から順に、プラズマ圏(100キロメートル以上の上空に行くと、大気を構成する分子は電離している)、大気圏、海、大陸地殻、マントル、コアである。

それぞれが全く異なる物質からなり、従って固有の力学と特性時間をもつことは容易に想像できるだろう。

専門家以外には、大陸地殻、海洋地殻、マントルは同じ岩石と見えるかもしれない。

しかし、岩石の種類が異なり、物質圏としての挙動はそれぞれに全く異なる。

さらにいえば、マントルは上部マントルと下部マントルとに、コアは外核と内核とに分けられる。

上部マントルと下部マントルでは、それを構成する鉱物が異なる。

外核と内核では物質の状態が液体か固体かという点で異なる他に、不純物を含む鉄・ニッケル合金か、ピュアな鉄・ニッケル合金かという点でも異なる。


このほかに地球を構成する物質としては、生物とわれわれ人類がいる。

生物は地表付近に分布し、有機物から成る物質である。

たとえば土壌圏とその上の草原・森林、そこに生息する生物などを考えてみれば良い。

それらを、有機物を主とする物質圏のように定義し、それを生物圏と呼ぶことにする。

海洋中、あるいは海底地殻氷層の土壌などもそれに含めるとする。

人類に関していえば、前にも述べたように、人間圏なる構成要素が定義できる。

以上が地球システムの構成要素である。


現生人類はなぜ人間圏をつくったか から抜粋


我々とは何か?


”我々”を、物事を認識する主体だと思えば、その認識という過程に注目して、”我々”を論じることもできるだろうし、もっと単純に、単なる生物種のひとつと考えることもできる。

前者の場合に基づく議論は、いわゆる哲学的人間論と称していいだろう。

そうだとすると後者の立場に立つ議論は生物学的人間論ということになる。


月から地球を眺めるという超俯瞰的視点にたつと、全く異なる人間論が展開できる。

”我々”とは、地球システムの中に新たな構成要素として、人間圏をつくって生きる知的生命体ということになるからだ。

すでに人間圏については、すでに簡単に説明した。

農耕牧畜という生き方を地球システム論に分析して得られる概念である。

そのような視点で我々とは何かを論じる立場を私は、地球学的人間論と呼んでいる。


人類の起源は700万年前ぐらいまで遡る。

その間さまざまな人類が登場したが、人間圏をつくって生き、繁栄したのは、現生人類をおいて他にない。

現生人類はなぜ人間圏をつくったのか?

これは、地球学的人間論を考えはじめて以来、抱いてきた疑問である。

その疑問に答えらしい答えが見つかった。


それは、言い方を変えれば、数万年前までは共存した二種の人類、一方はその後爆発的に人口を増やし、繁栄したのに対し、一方はその後絶滅した、現生人類とネアンデルタール人との違いを問うものでもある。


以前、進化生物学者である長谷川眞里子氏と対談した際、この問いが話題になった。

その際、おばあさん仮説なる考え方があるのを紹介された。

現生人類だけにおばあさんが存在するというのである。

ネアンデルタール人をはじめ、他の人類には存在しない。

もちろん類人猿にも存在しない。

そもそも哺乳動物におばあさんは存在しない。

子孫を残すのが最大のレゾンデートルという生物の生き方からすれば、このことは当然である。

なお、おばあさんとはこの場合、生殖年齢を遥かに過ぎた、すなわち卵子のなくなったメスのことを意味する。

更年期障害とは、現生人類を除くと死の病であったということになる。


ここで長谷川眞理子先生ですか。


なるほどなあ、という展開で。


ヒト以外だとメスは卵子がなくなる


イコール死になるため老いがないと。


オスの場合はどうなのか?ってのも気になる。


カマキリが喰われてしまうってのは有名だけど。


あと”おばあさん仮説”はやんわり知っていたが


孫を面倒みるための存在として、


生物学者小林武彦先生が養老先生との対談やTVで


人類以外にもいるって指摘されてたけどなあ。


とはいえ、数は少なかったし人類ほど


コミット力は深くないようなのでここでの


論説がひっくり返るまでではなさそうだけど。


人間圏というシステムのユニットをどうとるか から抜粋


我々は自分の身体ですら自分の所有物のように思っている。

しかし、それは生きている間、地球から借りている(レンタルしている)に過ぎない。

我々は、地球から材料を借りて、自分のからだを構成するさまざまな臓器をつくり、その機能を使って生きている。

機能を使って生きることが重要なのであって、からだそのものが物として意味があるわけではない。

我々が生きていくのに、本当に必要としているのは物ではなく、その機能なのだ。

すべてを所有する必要などないのである。

その機能を利用することが本質なのだと認識を改める必要がある。

このような思想から、新しい共同幻想が生まれ、地球システムの中で安定した人間圏が見えてくるのではないだろうか。


松井先生独特の表現や発想が豊かで自分には新鮮。


”人間圏”や”地球システム”、地球を司る”構成要素”。


後半では”智球ダイヤグラム”というので図解される。


”智球”だよ、”地球”じゃないよ。


それと普通なら”知”と表現するところも


”智”と表現されてて、それも関係しているのかも。


さらに別の話だけど、人間は”レンタル”というのも


樹木希林さんが同じことを仰ってたなあ。


お二人とも、少し間違えば”宗教”チックになる所


ならないのですよなあ。


松井先生は”アストロバイオロジー”という視座を


お持ちだからなのかな。樹木さんはわからない。


横尾さんと友達だからか。(違うだろそれは)


と書いてて”アストロバイオロジー”が


何かよくわかってないのだけど。


それにしてもですね、


この書のタイトルがどうしても気になり


そんなに刺激的なことではないのではと。


難易度が高くて、自分だけかも知れんが。


概ね、地球とは宇宙とは、今わかっていること


フィールドワークでの知見や世界への眼差しが


主であって、”崩壊”ってのは違うのかなあと。


たしかに”近代化とはどういうことか”という章に


文明が均一化した秩序に沿ってしまって


後戻りできないくらい自然破壊・近代化される


発展途上国でのフィールドワーク記があって


遠藤周作さん、沢木耕太郎さんを引かれつつの


指摘はされておられたけれどと思いながらも


本日は休日で家族とどこか出かけるか、家の掃除か


それとも古書店巡りのフィールドワークかを


思案している秋の至福時間なのでございました。


あ、燃えるゴミ出してこなきゃ。


あと、子供がテスト期間だから掃除だわ今日は。


 


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内田樹編著から仲野先生の”平成のゲノム”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

街場の平成論


街場の平成論

  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア:単行本

内田樹先生が音頭をとり


集まった執筆者さんたちの書籍。


テーマは”平成を総括”てことで


全くの初見だったのですが


仲野徹先生の文章を読んでみた。


余談だけど表紙がポップで良いと感じた。


生命科学の未来は予測できたか?


仲野徹


ヒトゲノム解読 から抜粋


ゲノム解析が進んで、病気についてさまざまなことが詳しくわかってきた。

いまでは、比較的安価に、がんのゲノムを調べることも可能である。

がんの原因は遺伝子の変異である。

がんの発症に関係する遺伝子数個に変異が生じて細胞はがん化するのだ。

だから、がんのゲノムを調べてどの遺伝子に異常があるかを調べることにより、がんのことを詳しく知ることができる。


わかるはずだったのに、わからなかったこともある。

糖尿病や高血圧といった生活習慣病には遺伝性のあることがわかっていた。

だから、ゲノムをしらべると、どの程度そういう病気になりやすいか、かなりの確度でリスク判断ができるだろうと期待されていた。

というよりも、誰もがわかるはずだと思っていた。

しかし、これについては、少なくとも現時点ではほとんどわからなかった、というべきレベルにとどまっている。


一方で、やってみて正確にわかった、ということもある。

ヒトとチンパンジーのゲノムはわずか1.2パーセントしか違いがない、というのもそのひとつだ。

人間同士の差異はもちろん遥かに小さくて、わずか0.1パーセント程度でしかない。

もうひとつ、ゲノム解析でわかった驚くべきことは、「人種」などというものは、遺伝子レベルで見た場合、すなわち、生物学的には存在しない、ということだ。

人種という概念は生物学的なものだと思われがちだが、決してそのようなことはない。


歴史、文化、言語など、さまざまな要素が混ざり合って成立しているにすぎなかったのだ。


人類発祥の地であるアフリカの異なった地域の二人、たとえばエチオピアとスーダンの二人、のゲノムの違いは、それぞれの人と日本人との間のゲノムの違いよりも大きいのである。

個人間の違いが「人種」間の違いよりも大きいというのはありえない話だ。

したがって、背理法で、人種などというものは存在しない、ということになる。


ものすごいことを仰っているような。


最新のゲノムラボでのファクトから。


だとすると今まで考えてきたサイエンスとか


影響しないのだろうか。


いや、どう考えてもするよなあ、と素人考え。


歴史、文化、言語を、いわゆる”ミーム”と括ったとし


それしか違わないって事でしょ”ヒト”と”ヒト以外”が。


だとすると自分はこのご時世にあってると思った。


ご時世に合うとかいうものなのか分かりかねますが。


ちと一足飛びな感じ否めないけれど


”人間も自然の一部であり繋がっている”って


ことになるのではなかろうかと。


個人間のゲノムの違いは、それぞれの個人がかけがえがないものであり、その多様性が重要であることを物語っている。

一方で、人種などというものは存在しない。

さらに、チンパンジーとの違いの小ささ。

各個人によって考え方は違うだろうけれど、こういったことが常識として認識されれば、人類とはどういうものか、ということにも大きな影響をおよぼしていくはずだ。

ヒトゲノム解析は、病気といった個人の問題だけでなく、人類のあり方にも新しい考え方を投げかけたのである。


ヒトゲノム解読以降、何がわかったかについては、コリンズの『遺伝子医療革命ーーゲノム科学が私たちを変える』(NHK出版)がとてもいい。


平成という30年間は、ゲノムの解析が


大幅に解析された時代であると仲野先生のご指摘。


自分と平成30年を重ね合わせると


社会人一年目から始まって30年、


今思うと幻想の中にいたような、あっという間。


というか、まだ総括する気になれないし、


なる必要もないのだろうね市井の人間にとって。


だからこそ、こういう書はありがたい。


気づきが多かった。


余談だけど仲野先生はかのノーベル賞の


本庶佑先生のラボにおられたようで


これまた違う意味で興味深い。


それにしても、内田樹先生の編著から


ゲノムを読む事になると思わなんだなのですが


そもそもゲノムを自分が読む事自体笑止千万で


それはそれで置いといて


この書に話を戻しましてこの他の執筆陣さんたちも、


なかなかに一筋縄ではいかない方達ばかりで


でもそれは権力構造からの目線だとそうなり、


一筋縄側から見たら「え?何が」みたいな


”普通”なことなのだろうと思った秋の朝


今日は暑くなりそうというのと、


仕事遅番で内容も拘束時間帯も


ヘヴィーだよと思っている所でございます。


 


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