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日高敏隆先生の周辺から”異端”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


日高敏隆の口説き文句

日高敏隆の口説き文句

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

過日、拝読した


日高先生の70年代の対談集


企画などの後方支援をされていた方からの証言。


日高先生との良いリレーションシップを窺がわせる。


先生が読んでいた本やその頃執筆されていた本の事


などにもお詳しい。


当時の反響などが分かり貴重かつ、面白かった。


雑誌「アニマ」の時代


澤近十九一(聞き手・小長谷有紀


澤近▼

60年代は公害問題が噴出した時代でした。

日本の自然は相当に壊れていましたから、「アニマ」を自然保護の雑誌にしようという意見もあった。

結局、今西さんが「(自然保護は)「アニマ」がやらなくてもよろし!」ということで、自然保護を直接お題目にすることはやめました。

結果としては良かったと思います。

自然保護について触れていないのに、「アニマ」は自然保護の雑誌と捉えられていた。


もうひとつがやっかいで、「アニマ」ではどのレベルの動物を扱うのか、という問題です。

個体レベルで扱うのか、種なのか、群れ、社会レベルなのか、結構まじめに議論しました。

そして種社会を中心にすることでまとまり、個体以下のレベルはやらない、という雰囲気だったのです。

その当時は、分子生物学全盛の時代で、分子生物学でなければ生物学にあらず、という雰囲気だったのです。

ですから、その反動として個体のレベル以下を扱おうとするのは、還元主義批判などを通じて、ある程度、理解できる時代の流れだった。

ところがそういう流れに対して、日高さんはかなり強く異をとなえたんです。


小長谷▼

安直なホーリズム(全体論)に安直に流れてはいけないと?


澤近▼

生物を理解する上で行動学や生態学だけで解決できることは少ない。

解剖学も必要だし、生理学も、分子生物学も欠かせないのだ。

というのが、日高さんの主張だった。


小長谷▼

階層性で捉える。


澤近▼

そうなんです。

日高さんが69年に訳したケストラーの『機械の中の幽霊』で、階層性の問題が扱われています。

あの本は日高さんにとって、重要な位置を占めています。

あの本の翻訳は大変だったと晩年になっても言ってましたね。


小長谷▼

「アニマ」の編集にかなり口を出した。


澤近▼

いえ。そういうことは全くありません。

逆に、編集部のほうが先生を無視できなくなったというのが正しいと思います。

「アニマ」が創刊されてからは、カメラマンも研究者もとどのつまり、動物たちをいかに生き生きと表現するかというテーマに取り組んだわけです。

そのために必要だったのが動物行動学。

日高さんが翻訳した本が、注目された。

スタートは、『動物のことば』にあると思いますが、多くの人が手に取ったのは、『ソロモンの指輪』ですね。

なにしろ、70年代になって、次々に話題作をあらわした。

裸のサル』、ローレンツの『攻撃』、ホールの『かくれた次元』、エヴァンスの『虫の惑星』などが、とても多くの人に読まれました。

他にも日高さんが勧めてくれたのは、ヴィックラーの『擬態』、トムソンの『生物のかたち』。

これらの本に描かれた視点を、カメラマンも研究者も取り入れたわけです。

動物行動学のブームが起き、「アニマ」の読者層も広がりました。


小長谷▼

澤近さんが編集長になってからの先生との関係は何か変わりましたか。


澤近▼

変わりましたね。

「若い研究者に原稿を書いてもらえ」「他の分野の人に書いてもらいなさい」

その一点張り。


小長谷▼

ご自分を売り込むことは?


澤近▼

全くなし。


小長谷▼

その頃、日高さんが連載対談をされましたね。

あれは私も面白く読ませていただきました。


澤近▼

日高さんは70年代に、具体的な動物の面白い本以外に、社会学の視点を含んだ翻訳本を出しています。

ローレンツの『文明化した人間の8つの大罪』、ユクスキュルの『生物から見た世界』、アイブル=アイベスフェルトの『愛と憎しみ』。ヴィックラーの『十戒の生物学』。

これらの本は動物行動学以外の人に多く読まれた。

日高さんも動物学以外の人たちとの接点の大切さを感じていました。

それを背景にして、「動物の目で見る文化」の連載対談がはじまりました。

山下洋輔さんに始まり、南沙織さんにおわる対談でした。

すごく反響があって、単行本になった時には載るべき書評欄にはほとんど載った。


小長谷▼

あの人選は誰がされたのですか。


澤近▼

ほとんど日高さんです。


日高先生との対談があったらさぞ含蓄やら


滋味ありのものすごいものになったろうなの


最高峰は自分なら、圧倒的に養老先生ですが


養老先生は高校生くらいの頃から


虫仲間のシンポジウムみたいので


海外の学者の通訳をされていたという


7歳上の日高先生を存じ上げておられたようで。


見栄えのする人だったとおっしゃる。


虫仲間でアウトローな教育者という


共通点は多そうだなと想像されるのです。


感覚で学べ


ーー『大学は何をするところか』読み直し


養老孟司(聞き手・小長谷有紀)


対象と方法


から抜粋


養老▼

虫を始めると切りがない。

日高さんもチョウが好きでしたが、一番面白いのはこの本にもあるチョウのサナギの保護色。

緑色のところに置けば緑色、茶色なら茶色になる。

それは僕らは子どもの頃から知っていましたが、なぜそうなるかという話をするとやたらにややこしい。

世間の人は単純だと思ってるけれども冗談じゃない

単純なのはお前の頭で、単純なことしか理解できないんです。

だから何か事件が起こるとすぐナイフを売るなとか、一段階でしか考えない

自然を扱っていると一段階では済まないことがよくわかります

そういう複雑さに耐えられなくなって来ている。

インターネットがそうでしょう。

世間がああいうものだと思われたら一番困る。


小長谷▼

実は複雑だということを知るチャンスが奪われているのですね。


養老▼

だから解剖をさせる。

頭で理解しようとしても、ややこしくて理解できないことがわかればいい。

工学系統と生物系統は全く違うんです。

工学系統は、限定された条件の中で、再現可能だとまず言っている。

藤井直敬という理研の若い研究者が、自分の研究の前提として書いていることの一つが「脳は2度と同じ状態をとらない」。

これを物理の学会に出したら即却下です。

2度と同じ状態を取らないものが、なぜ科学の対象になるのか。

実験の再現性がないわけでしょう。

でも実際はそうです。


小長谷▼

そうすると、科学自体ももうそろそろ変わっていかないのでしょうか。


養老▼

当然変わるんです。

古い科学の前提では、僕のように脳科学をやろうと思ってもできなかった。

例えば脳機能の研究でも、もともと脳にある機能なのか、それとも実験条件下で出来か調べようがない。

それはノーベル賞をもらったような仕事でもそうで、ヒューベル(David Hunter Hubel)とウィーセル(Torsten Nils Wiesel )の有名な仕事ですが、網膜の情報処理の研究で、ネコに麻酔して体を固定して網膜に光を当てると、実に論理的にきれいな結果が出る。

だからノーベル賞になるのですが、もしかしてその論理性はネコの網膜が持つ論理性ではなく、実験しているヒューベルとウィーセルが持っている論理性なのではないのか。

それは絶対に否定できない。

乗り越えられないところなんです。


小長谷▼

科学自体の枠組みを変えていかないと


養老▼

だから日高さんとか僕の話になるわけで、そういう常識で普通の学会に出ると干される


小長谷▼

そういう干される人が何人か出ると、科学自体の再検討も起こるでしょうか。


養老▼

それはまた言いにくいところがあって、前線で鉄砲を撃っている兵隊を後ろから撃つなと。

「この戦争は何のためにやっているんだ」とか言えないでしょう。

そこが難しい。だから象牙の塔だった。


解剖学をやればいい医者になるという保証はないけれど、最低の読み書きそろばんみたいなものです。

そういう体験は必要でしょう、それは国家試験の結果によく出ているでしょう、というのが僕の言いたいことなんです。

医療の現場では、無論理かつ無秩序にやってくる患者さんの病気をどう整理するかというノウハウを医者が自分なりに作っている。

それは完全に意識化はできない。

だから最後は、意識の問題になってきて、そこは日高さんと僕がたぶん違ったと思います。


意識とは、どんな自然科学でも使っている顕微鏡みたいなもので、解像力とかいったその道具の性質を知らなければ使えない。

だから科学にとって一番大事なのは意識の研究です。

意識は科学的に定義できない、だから科学では扱えない、というのが短絡的な科学主義者の意見だけれど、そうではないんです。

理屈があろうがなかろうが、現に意識という現象があるのは誰でも知っている。

その意識が学問を作っていて、性質を具体的に調べることがいる。

それが科学でしょう。


小長谷▼

意識という課題に対して、日高先生の場合は「幻想」と名づけて、行動から見ていらしたような気がします。


養老▼

一方、僕は解剖学だから。

Olgyがつく学問は沢山あって、医学で典型的なのは眼科学(Ophthalmology)、皮膚科学(Dermatolgy)など、つまり「扱う対象」です。

解剖は対象ではない。

方法です。


小長谷▼

解剖はolgyではないんですか。


養老▼

Anatomyです。tomyは切るという意味で、対象は決まっていないんです。

カエルだろうが人間だろうが解剖は解剖。

極端な話、僕がいつも言うのは永田町を解剖してもいいんだろうと。

それは方法論ということです。


小長谷▼

先生の場合は方法も二刀流。解剖学と博物学。切るぞと集めるぞのセットで。


養老▼

同じなんです。

もともとあるものは仕方がない。

どうでも何でも必要があればやるということです。

対象を調べるためには方法を身につけなければならない。

イギリスの有名な科学者はたいてい機械だって自分で作っています。

方法をまず見つける。

パスツールは、自然発生説を否定するのに、首の長いフラスコを作っただけじゃないですか。


小長谷▼

日高先生も道具を結構自作しておられた。


養老▼

この本に書かれているモンシロチョウの羽の紫外線反射率の測定の話が典型ですね。

光学の専門家は紫外線を当てて見ていた。

太陽光線を当ててどれくらい反射するか見て欲しいのに、通じていない。

生きものは自然状態の中で生きているのであって、実験条件の中に置いたら、それは「そういうもの」になってしまうんです。

だから僕は昔から実験が嫌いで、実験するくらいなら外に行く。


小長谷▼

観察型になる。


養老▼

そうすると学問じゃないと言われる。

そこから狂っちゃうんです。

早い話が論文にならない。


頭の回転が高速な養老先生。


返す方も相応に拮抗した知性がないと


対談として成立しないですよなあ。


それにしても日本での学会の話が


日本の社会そのもので興味深い。


はみ出ると干される。


それを指摘できない象牙の塔。


評価軸から外されると出世できないのが


普通なんだけど、お二人ともかなり


高い地位に鎮座されて好んでではないかもだけど


この二人ならば普通の評価軸では評価できない位


ハイレベルな仕事っぷりだったのでしょうな。


要は「あの人いないと困るわー」と周り中が


言うならばもう誰も文句言えないわけで。


この書の他の人の原稿にあったけれど


日高先生の講義はその頃、多忙を極めて


いつも休講だった、とあるのはその証かと。


休講だらけでも教師として成立してしまう


ってすごいな。どういう年間のカリキュラム


だったのだろうかと余計なお世話。


松岡正剛さんのコラムでも日高先生の凄さがわかる。


話を本に戻し、この書は日高敏隆愛が


横溢していて爽快な感じがした。


アウトロー烈伝みたいです。


先生は23ヶ国語も操れたらしい…


どういう頭をしているのだろう。


若いころ生活が苦しくて翻訳のバイトしてたって


以前読んだ本にあったけど、生活苦なら


勉強もする気がしないだろうと思うのだが。


”普通”じゃないんだろうな。


余談だけど、養老先生の本好きは有名だけど


翻訳本を選ぶ際、日高先生が手がけたものは


一つの指針となりお世話になったと


どこかで書かれてましたが、


我身に振り返りそういう読み方って確かにあるなと。


好きな海外の作家の翻訳者とか


その翻訳者の解説なんか、かなり読みますし


時には本文そっちのけだったりして。


共通言語、文化、習慣に接している方が


分かりやすいってのはあるからだろうからね、と


のどの風邪が治ってきた寒い冬のはじめです。


 


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