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平川克美さんの書から”有縁と無縁”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学


21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

  • 作者: 平川克美
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2018/01/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 


久しぶりに平川さんの書を拝読。


思えば、昨今の読書欲のチャクラが


全開なのは平川さんから始まったのだ


ということを思い出した。


まえがき から抜粋


一年前に、会社を一つ畳んだ。

そのために、会社が借り受けていた銀行やら政策金融公庫からの借金を一括返済せねばならず、家を売り、定期預金を解約し、借り入れ全額を返済し、結局、全財産を失った。


同じころ、肺がんの宣告を受け、入院、手術で、右肺の三分の一を失った。

もう失うものがあまり残っていない。

まあ、とにかく還暦をすぎて何年も経て、そんな状態に陥ったわけである。


そのことに対して、特段の後悔も、もちろん満足もない。


人間というものは、こうやって、すこしずつ持てるものを失っていって、最後には空身であっち側へ行くというのが理想なのかもしれないとも思う。

ひとの生涯というものは、意思だけではどうにもならない。


自分で意識して生活を変えたわけでもないのだが、金が無くなり、体力がなくなれば自然と生活も変化する。

で、どのように変化したのかといえば、1日の変化が少なくなるように、変化したのである。

これを、流動性の喪失というらしい。


1 生きるための負債ーーー人間関係の基本モデル


貨幣とは、非同期的交換のための道具である


から抜粋


現代のほとんどの等価交換は、貨幣と商品の交換という形式をとっています。

しかし、もし、交換物が使用価値という尺度によって計算されるのならば、この交換はどんなに大雑把に見ても等価交換とはいえないでしょう。


一方は何かの役に立つ商品であり、一方は何の役にも立たないただの紙切れなのですから。

では、いったい何が交換されたのでしょうか。


交換が成立するのは、貨幣というものは、それを受け取ったときに交換した商品と同じ価値のものを、いつでも、どこの市場でも買い戻すことができることが約束されているからです(あるいはそう信じられている)。


ですから、この交換(貨幣と商品の交換)で行われたことは、本来の交換(等価物の交換)の延期の契約だというべきなのです。

いつまで延期するかは、貨幣を受け取った側の裁量で決まります。


すこし別の譬(たと)えでお話しします。


インターネットの草創期に、わたしは、インターネット評論家のような仕事をしていたことがあるのです。

(今のわたしからは、想像もできないでしょうが、モザイクというインターネットブラウザが出現したころ、シリコンバレーのエンジニアたちと頻繁に交流することがありました。会議を開いたり、勉強会をしたり、インターネットの未来について論じ合う機会がありました。それで、講演も頼まれてやったのです。乏しい知識とその場限りのはったりでね)。


もう、場所も、相手の名前も忘れてしまったのですが、あるカンファレンスで、インターネットエンジニアがわたしに言った言葉だけは今でも、覚えています。


「ヒラカワ、インターネットがすごいのは、ブラウザじゃないんだ。メールなんだよ。これがどんなにすごいことかお前にわかるか」


そのときに彼が言った言葉がasyuchronous communicationというものでした。

翻訳すると、非同期コミュニケーションです。


わたしは何がすごいのかよくわかりませんでした。

かれの自慢気な態度もちょっと気に入らなくて、そんなに頻繁にお手紙をやりとりしてどうするんだよ、ヤギさんじゃあるまいし、という気持ちだったのです。


当初は、わたしも、まあ、電子メールも、これは電子的に置き換えただけじゃないかと考えていたのです。


ところが、かれは、これはそうした手紙とはまったく違うものだというのです。

インターネットがない時代には、同じ場所で対面して話をするか、郵便ポストの前で何日も待たなくてはならなかったけれど、電子メールでは、いつでも、どこでも、読みたいときに相手の手紙を読むことができるし、読みたくなければゴミ箱に捨てることもできる。


この電子メールの出現によって、非同期的なコミュニケーションが可能になったのだということなのです。

コミュニケーションの実行日を自由にずらすことができる


もうお分かりかもしれませんが、貨幣というものの大きな特徴も、この非同期性にあるということが言いたいのです。

貨幣交換とは、非同期的交換であり、貨幣の出現によって、同じ場所に交換物を持参して、対面で相手の品物を吟味しながら交換するなんていう面倒がなくなったのです。


電子メールの出現によって、社会のコミュニケーションが爆発的に増加したのと同じように、貨幣の出現によって、社会のモノの交換は爆発的に増加することになりました。

非同期的交換を可能にしたことこそ、貨幣というものの大きな功績であり、ある場合には害悪でもあるのです。


もっともやっかいなのは、貨幣以前は、交換物は腐ったり、劣化したりしたので、賞味期限がありました

それらの交換物は、消費した時点でなくなりますし、保存には限りがあります。

しかし、貨幣のもうひとつのNatureは、それが腐らず、劣化しないというところにあります。

それゆえ、ひとは、貨幣を安心して保存するということを覚えることになるのです。


すなわち、これが財の退蔵であり、資本蓄積のはじまりだったのです。


貨幣、競争社会、責任について、とか


政府、政治、モラルについて、とか


社長というかドンには2タイプいて、


①自分の金儲けのことしか考えてない派と


②まとめて面倒みよう派がいて、これを


”①合理的選択論者”と”②贈与交換論者”とされ


後者は失敗する典型だという様々な対比等々


興味深すぎて、矢継ぎ早に貼りすぎて


ポストイットがなくなってしまった。


Twitterや株式会社の公共性や、


「無縁」と「有縁」からの


ディザースター・キャピタリズム(災害便乗型資本主義)、


日本は世界一100年以上続く企業が存在するが


非上場で顧客第一の経営者の哲学があるところで


株主利益などに左右されず信頼蓄積型だから等


一回読んで済ますにはもったいなさすぎる。


エスキモーの文化が”交換”ではなく


”贈与”が常識という生活習慣や


世俗にまみれてないご友人の画家さんとの


世間意識のズレっぷりのエピソード類。


それを噛み砕く豊富な読書遍歴からの分析力。


元翻訳会社社長であられたから


グローバル感覚も注入されつつ


大学講師でもあり、内田樹先生テイストもあり


難解なことでも平易に読ませる筆(談話)力。


でも、すみません”楕円幻想論”のくだりが


自分にはまだよくわかりませんで…。


初版は2018年ということなので


コロナ禍をくぐっての平川さんの


社会論というか言説を読みたいと思うのだが


そこにはご興味がすでになさそうな


昨今の新刊状況のご様子のようで。


それはそれで、読んでみたいのだけど


部屋中に山積みになっている読んでいない


大量の本たちに顔向けできないため


そちらを優先したいと思っている


秋も深まる夜なのでした。


 


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養老先生関連の2冊から”母親”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


からだの見方 (ちくま文庫)

からだの見方 (ちくま文庫)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/12/01
  • メディア: 文庫


解説から本文を考察できることもあり


よく最初に読んでしまいます。


場合によっては、それだけ読んで本文は


拾い読みで終えてしまったり。


内田春菊さんはこの頃、『ファザーファッカー』で


名を馳せていた頃で。自分もその頃若かったから


かなり衝撃的な内容だったと記憶してます。


インザネームオブ解説 内田春菊 から抜粋


まずお名前が覚えやすいのが良い。

育ち盛りの若者に限らず、あの有名居酒屋チェーンののれんをくぐったことがある人は少なくないはずだ。

それからあの髪の毛の多さ。

今でもあんなに多いんだから思春期にはさぞかし髪型に困られたことと想像される。

あれだけ頭をつかってる人があんなに豊かだと、薄くなっているほうは立場がない。

さぞかしねたまれていることだろう。


そしてあの芸術とも言えるあの早口。

人と違う時間軸で生きているのかもしれないと思わせるほどだ。

養老さんの脳こそが他の解剖学者に狙われているに違いない。

あのローテンションの早口のまま真顔で冗談をおっしゃるので、初対面の人間はほとんど笑うきっかけを逃す(と思う)。

これから養老さんと対談する予定のある人は<笑>と書いたプラカードを持っていって、これは冗談だと気づいたら急いで出すといいかもしれない。


最近、マザコンもいいものだと思うようになった。

漫画の業界では言えば、あの時代に医師の資格を持ちながら漫画家を職業に選ぶことの出来た手塚治虫さんを一番支えたのはお母様ではなかったか。

養老さんのお母様は開業医でいらっしゃるそうだ。


2度目の結婚で生まれた養老さんは、他のご兄弟とは一人だけお父様が違うという。

それも、養老さんを残してお亡くなりになったと聞く。


養老さんはご自分が子供のころぜんそく持ちだったことを「まあ育て方が悪いんですね」とおっしゃっていたが、息子を一人残して夫に死なれたらただでさえ可愛い末っ子を冷静に育てるのはかなり難しい。


養老さんは一見ぶあいそだが、しばらくするとチャーミングなのがよくわかる。


お母様がどんなに養老さんを愛したかがオーラが出ているのだ。

私は手塚治虫さんとはついにお話しする機会がなかったが、それに近い空気を出しておられたのではないかという気がする。


養老さんと対談したことを誰かれかまわず自慢していたら、頼みもしないのに養老さんのお母様の著書を送ってくれた人がいた。

まだお母様の書かれた部分は読んでいないが、そこに寄せた養老さんの文章を読んで転げ回ってしまった。

これこそマザコンを克服した息子の書いた文章だ。

子どもを産むと人生には面白いことが増える。


子どもを愛情持って育てるとってことですよね。


だとすると同意だし、パパの立場でも


何かのレベルみたいなのが上がる気がするので


面白いことは確かでございます。


正確にはものの見方が”深く”なる、か。


正確性を追求しなくても全然いいんですが。


そしてまたもや勝手な推測だが養老さんは恋に弱いと思う。

回りから見ても絶対わからないだろうが、きっとしょっちゅう恋しているはずだ。

あのいつもの表情を変えないままで、たとえば大学で相手とすれ違うと高校生みたいにどきどきしているに違いない。


それから、ああなんでこんな気持ちになるんだ、これはいったい脳の中でどんなことが起こってこうなるのだと思いながら解剖したりしているのだ。

きっとそうだ。

でなければあんなに髪の毛が多いはずはない。


だから女性のみなさんは養老さんがどんなに冷静な顔で自分のかばんからプラスティネーションの贓物などを取り出しても、けして無理して「素晴らしいですね」などと言わず、きゃーっと叫んで養老さんに抱きつくのが礼儀だ。

みんながそうして養老さんを予定より長生きさせるべきだ。

私もそうする。


最後の件は言い得て妙な気がして


つまり、この頃の養老先生は


子どもみたいだということだろう。


今はご病気もされ、違うかもしれないが。


三島由紀夫さんも学生さんから、小説家なのに


ボディビルやヤクザ役で映画出演等を揶揄され


「なぜ嫌われるようなことを率先してやるんだ」


と聞かれて


「あえて嫌われることをやる、それがダンディズム」


と笑いながら答えている音声がございましたが


養老先生が臓物をとり出す心境はそれに


近いのではなかろうか。


 


内田春菊さんに話もどし、米原万里さんが


養老先生の印象を語ってらしたのを思い出した


それと、笑い転げた初版のまえがきは


自分はほとんど覚えてないのだけど


昨日のフィールドワーク(古書店巡り)で


購入した文庫本には養老先生の解説が


ございました。



ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

ひとりでは生きられない ある女医の95年 (集英社文庫)

  • 作者: 養老 静江
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: 文庫

解説 養老孟司 から抜粋


この本が最初に出版されたとき、母は存命中だった。

単行本初版の「まえがき」に、「こういう文章は、母親が死んでから、書くものであろう」とのっけから書いてしまった。

20年前に母は死んだので、今後は解説を書けという。

余計なことを書かなきゃよかった


親のことは知っているようで、知らない。

子を知ること、親に如(し)かずというが、親を知ること、子に如かずとは聞かない。

だから客観的な解説など、できるはずがない。

以前、九州の叔父の家を訪ねたことがある。

「お前のお父さんとお母さんの恋文がミカン箱いっぱい残っているが、持っていくか」と言われた。

冗談じゃない。そのまま逃げかえってきた


亡くなって20年というと、ぼちぼち母親を客観化出来そうだが、そうはいかない。

なぜって、その人が亡くなると、考える機会も無くなるからである。

母の思い出は固定してしまって、断片的な光景がときどき出てくるけれども、意味がわからない。

まことに「去る者は日々に疎し」である。


要するに親は親であって、それはどうしようもない。

良いも悪いもないし、受け入れるしか仕方がない。

母親が私の人生に与えた影響は大きいが、だからといって、どうこういうこともない


思えば、変な親だったかもしれない。

明治生まれの女医だから、教育には熱心だった。

でも私に何か教えたこともない。

自分で教える暇がなかったのかもしれない。

小学校から家庭教師をつけられた。

でも学校の勉強ではない。

家庭教師をしてくれたのは、義兄の旧制高校の同級生で、東洋史の専門家だったから、『十八史略』の白文を読まされただけである。

小学生にそんなものを読ませやがって

漢文なら四書五経が普通だろうが


えっと。養老先生って元東大教授でしたよね。


ならずものじゃないですよね?


母の人生は母のもので、私はそのほんの一部にすぎない。

私が50歳を超えて、医学部の教授をしていても、「お前がいちばん心配だ」といっていた。

どこか、母親bの価値観に合わない生き方をしていたからであろう。

こちらは小さい頃からそういう言われ方に慣れているから、なんとも思わなかった。

「また言っている」と思っただけである。


ただ母が死ぬ前年に私がオーストラリアで虫を採るというテレビの番組に出たのを見て、

「子どもの頃と同じ顔をしていたから安心した」といった。

親というのは、そういうものらしい。

たしかに現役の間は、私も多少は無理をして生きていたのである。


お前が幸せなら、それでいいんだよ。

子どもに向かって本音でそれをいう母親だった

だから私が無理をしているのを見ると、イヤだったのであろう。

でもまあ、世間で生きていれば、多少の無理は仕方がない。

そういえば、つい最近、大学の同級生が死んだ。

最後の電話が「お前も無理をするなよ」だった。

父親の遺言も「十できるものなら、六か七にしておけ」だったと母親がいっていたのを思い出す。

やっぱり人生、無理はいけないんでしょうなあ


母親とはそういうものなのだろうね。


子ども時代の面影が消えてたら心配でしょう。


それを消し去るのが大人になると勘違い


しがちですからね、子供というのは。


母との関係性っていつまでも


釈迦の掌という構造ですな。


自分も母を亡くして早13年だけど


同じような気がするなあ、と。


この書自体は過日投稿したが本当に良書です。


しかしこの解説、最後の一文は明らかに不要です。


あれ、これ池田清彦先生にも同じことを


書いた記憶が


お二人はかなり似ているんでしょうなあ。


余談でかつ僭越で、これは自分で


いうべきことではないかもしれないが、


かくいう自分も、”同類”なのだろうなと、


偏差値はまるで似ていないのが残念至極な


残暑厳しい秋の休日、図書館へ行こうと


目論んでいるところです。


 


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