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『方丈記』から”進化論”に到達、なのか? [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

方丈記・無名抄新解 (要所研究シリーズ)


方丈記・無名抄新解 (要所研究シリーズ)

  • 作者: 稲村徳
  • 出版社/メーカー: 新塔社
  • 発売日: 1969/03/10
  • メディア: 単行本

 方丈記のことなど


田宮虎彦(昭和32年6月)


から抜粋


ゆく川の流れは絶えずして、しかしもとの水にあらず。

よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつむすびて、ひさしくとどまることなし…と書きはじめられている方丈記の無常感は、私たち日本人が母の胎内から受け継いできているものだ。

それは、方丈記が書かれた800年前から、今に至るまで、かわることなくつづき、国民性の一つとして、日本人の心の中に溶けこんでしまっている。

私は、少年時代に、中学校の教科書で、この有名な文章をはじめて読んだのであったが、その時、たちまちその魅力に魅せられてしまった。

しかし、よく考えてみると、中学生ほどの年齢で、この無常感の真実の意味がわかっていようはずがない。


無常感はもともと仏教から生まれたものだと思う。

それが、思索で鍛錬された理性として、私たちの心にあるというのではなしに、理性以外のものとして心の中に生きていて、私についていえば、その理性以外のもので、方丈記の無常感を受け入れたといってもよいのである。


これは、もちろん私ばかりのことではなく、日本人のすべてについていえることだ。

それ故、方丈記のみならず、ほとんど時を同じくして書かれた、祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり…にはじまる平家物語が、ひろく深く人々にうけいれられ、国民の文学となり得たわけである。


だが、この無常感は、いつごろから、それほどつよく私たち日本人の心をゆりうごかしはじめたのであろう。

「もののあわれ」という言葉は、源氏物語の頃からあるようだ。

だが、「もののあわれ」は無常感ほど深い悲しみや苦しみを持っていないように思われる。

語感には遊びの感じさえある。

もちろん「もののあわれ」と無常感とにはつながるものがあるだろう。

しかし、無常感が「もののあわれ」をはなれて、悲しみや苦しみを、その中にひそめたのは、やはり、方丈記・平家物語の時期であったと思う。


考えてみると、方丈記や平家物語の書かれた頃は、世は混乱の極にあった。

新旧勢力の交替期であった。

戦乱に戦乱があいつでいた。

ほろびゆくものは、崖肌をころがり落ちるように無惨にほろび去っていった。

権力は朝廷から鎌倉武家にうつっていっただけだったが、それにつながって生きていた人たち、あるいは権力には関わりはないながらも二つの権力の交代の下にふみにじられた無辜(むこ)の民たちは、ひとときも心の休まる時がなかっただろうと思われる。

その苦しみは、私たち自身も10年前の戦争とそれにつづく敗戦後の混乱期につぶさになめた。


方丈記は、精密なカメラがうつしだすように、それに苦しめられた人々のありようを描いてみせてくれている。

800年の歳月が過ぎ去っているにもかかわらず、それが10年前に私たちが経験したと同じ悲しみや苦しみであるように切実さを私たちに感じさせるのである。


無常感は、そうした人々の異常な悲しみや苦しみを己の中にすいとることによって、「もののあわれ」の遊びからはなれてしまったのだ。

そして、一度、遊びを離れては、もう2度と遊びにはかえられない。

人生は悲しみや苦しみに満ちている。

よし生きてゆく悲しみ苦しみを度外視しても、よどみにうかぶうたかたのように、あとかたもなく消えていく人の生の終わり、死は避けようもない。

その死と結びついて、無常感は人の心を未来永劫にゆすぶりつづけて来たのである。


方丈記を書いた長明は鴨社の社司であった。

父祖あいついだその社司に自分も補せられんことを願って許されず、世を捨てたといわれる。

新旧勢力の交替に、その運命を翻弄されている一人の歌人がここにいるわけだ。

平家物語の作者は誰ともわからぬらしいが、おそらく長明と同じような落魄(らくはく)歌人たちの一人であっただろう。


つまり、方丈記も平家物語も、ほろびの美しさをうたうことによってのみ、自己の存在をあきらかにすることの出来た人たちの著作だったわけである。

時はまさに濁悪の末世。

無常感が、美しいよわよわしい陰気な花をさかせたのは当然である。

それから100年がすぎ、長明とほとんど同じ経歴を持つ兼好によって徒然草が描かれたのだが、この二つを隔てる100年という歳月が、同じく無常感を基調としながら、徒然草をはるかに知性のかかった書としていることは、知識人の運命というものを知る上に何か示唆を与えるようにも思われる。


日本の文学とか文化とか国民性などが


”もののあわれ”を誘い、”無常感”に


到達するというような。


”もののあわれ”と比べ遊びがないのが


”無常感”というのがなかなかすごい。


さすが作家は違う。


”ほろびの美”となると退廃とか耽美を


想像してしまうのだけど。


自分はそこまでネガティブな要素を


感じておらずに、恬淡とした境地


だったのではなかろうかという気がする。


無意識にはネガティブなものからの


発想だったのかもしれないけれども。


ドライな文章の印象を受けるのは確かだけど。


それにしても何かから受ける印象って


受け手の感性・知性にかなり左右されるのは


どんなものにも共通なのだろうなあと。


自分はもうネガなものを積極的に


受け取りたくはない年齢でもありまして


そういうのが似合うのって人にもよるし


年齢とかでは線引きできないものなのだろうが。


じゃなにで分けるのかと言ったら


”氏と育ち”というか”遺伝と環境”によるような。


あれ、話がなんだか進化論に達してしまったよ


とおそるべし”方丈記”なのでございました。


 


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