森岡正博先生の対談から”権力と人間”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 法蔵館
- 発売日: 1999/02/10
- メディア: 単行本
羊のクローンが成功して、それを人間に応用すべきかどうかを知識人たちが議論しはじめたその矢先に、韓国で人間のクローン実験がはやばやと行われてしまった。
人間の臓器を作り出して利用するためだったら問題はないということで正当化されそうないきおいだ。
現代文明は、われわれを、いったいどこへ向かわせようとしているのだろうか。
科学技術は、私たちひとりひとりの欲望である。
私たちひとりひとりの欲望と、管理社会のシステムと、現代科学が、複雑な相互依存の関係を作り上げているのだ。
学校のいじめと、生命の選択と、地球規模の環境問題は、根っこが同じだ。
いま起きている様々な問題を、大きな文明のうねりが巻き起こすひとつながりの出来事としてとらえてみること。
そして、現代文明が、われわれの生命をどこへ連れていこうとしているのかを、一気に見通すこと。
そのことを、徹底的に考えたい。
それがこの対話の動機だった。
NHK未来潮流という番組「生老病死の現在」の
収録の対談だったというが
相当の覚悟を持って挑まれたという
真剣勝負だったことが”あとがき”からも分かる。
あとがき(1998年冬 森岡正博)
から抜粋
しかし、これには莫大な集中力を必要とした。
1セッション撮ったあとは、ボロボロに疲れた。
それだけではなく、撮影スタッフもまたズタズタに疲れたことだろう。
シナリオはないし、いつ終わるかわからない。
収録テープの山がうずたかく重ねられていく。
集中力の限界へと全員が追いつめられる。
こんな番組を、もう作れないだろう。
未放映部分の対話記録を目ざとく発見し、出版への道を開いてくれた法藏館の中嶋廣さんには、いつもながら感謝している。
まえがきにあったのだけど、
テレビは限界があり一部しか
放映できなかったため
未放送部分を中心に対談として出版
とあるけれど未放送をどうやって
発見したのだろうか。
全くどうでもいいのかもしれないが。
柴谷篤弘
[洗脳としての科学文明]
先端を走る日本の息苦しさ
から抜粋
森岡▼
今の日本社会を覆っている何か、少なくともこの社会を覆っている独特の息苦しさみたいなものはあるわけです。
それが、一方においては教育のようなところにあらわれているし、もう一方においては生命のテクノロジーに象徴的にあらわれている。
柴谷▼
その問題は日本だけでなしに、いわゆる科学技術先進国はみな抱えている。
森岡▼
科学技術が医療の場面においてわれわれの生命にかぶさってきている独特の暗雲のようなもの、それは優生思想をサポートするようなものであったりすると思うけど、それとリンクするような形で、今、日本の教育現場でも同じような暗雲が垂れ込めているような気がするんです。
それは個別に切れている話ではなくて、何か共有している構造があると思うんです。
一つは、日本社会みたいなところでうまく人生を送っていくためには、やはり誰かが決めたプランとか、われわれ全体がなんとなく持っているある図式の中に入っていないと難しい、というような思い込みに我々が縛られていることです。
柴谷▼
その思い込みは、よその国とり日本の方が強いような感じがします。
狭い日本だから、どうしてもそうなるのかもしれない。
森岡▼
逆にいうと、これから地球も狭くなっていくわけだから、21世紀には地球が日本化していくのかもしれない。
今、日本で抱えている管理的な抑圧は、問題の先取りをしているのかもしれない。
その意味では不登校とか家庭内暴力の問題なんて、我々が先に悩み苦しんでいるのであって、日本は特殊だからローカルな問題だと捉えると具合が悪いんです。
「いじめ」はいま世界の各国で「発見」されはじめています。
柴谷▼
近代文明とか科学技術文明とか資本主義が、そういう方向へ追い込まれているようになっているという考え方ですね。
森岡▼
日本のような社会が逆説的にそこでは先端を走っていて、ある種の問題に早く直面させられている。
柴谷▼
そこはやはり近代国家や民族国家では、政府や政権が人間の生命を管理するという問題があります。
近代文明が内部的に抱え込んでいる問題、それが科学技術と資本主義の進歩によって、日本では面積が狭いためにいちばんきつく出ている。
国家は、科学技術と効率によって、生命や生殖を含めて、生きることから死ぬことまで全部管理しますというのが、ミシェル・フーコーの考え方で、10何年前に出ている話ですが、近代国家というのはそういう具合に管理をしているわけです。
森岡▼
そして、その管理が、あたかも自由社会における個々の自由な判断の集積であるというかたちをとらせているんです。
柴谷先生の書は対談も含め何冊か
拝読してきたけれど
この森岡先生の対談がいちばん
腑に落ちた気がした。
慣れてきたのかもしれないし、
森岡先生と自分が近い感性なのかも
しれないけれど。大変僭越ながら。
森岡先生や難解な柴谷先生や当時の世界が
抱えている問題などがわかりやすく
対話されている。
[老いと死を見つめ直す視点]
多田富雄
遺伝子から見た老いと死 から抜粋
森岡▼
もう一つ、「死」と同時に「老い」についても考えてみたいと思うんです。
たとえば、今まで普通に「老い」というものをどう考えてきたかというと、健康な時には速く走れたり、考える能力があったり、色々なことができるけれども、からだにガタがきたりして、だんだん今までしてきたことができなくなることを、「老い」であるというふうに見てきたと思うんです。
そうだとすると、たとえば頑張っていろいろな健康法を行ったりすれば、若い状態がいつまでも続いていくんじゃないかと頭のどこかで考えたりする。
ところが最近の科学によると、実は「老い」とはそんなに簡単なものではなくて、人間が老いていくこと自体が、実は遺伝子のなかにプログラミングされているのではないか、ということが明らかになってきました。
そうだとすると、「老い」というのは単にからだにガタがくるのではなくて、むしろ細胞は積極的に老いているということになって、これは今までの見方と180度変わるようなショッキングなことだと思います。
多田▼
老いも死も、今までは生物学の研究の範囲外だと考えられてきたと思います。
「老い」つまり老化とは、単に時間的な経過に応じて、いろいろなからだの機能が衰えていく過程で、ゴムや金属が必然的に劣化してゆくのと同じで、生物学的に扱うことは不可能と考えたのです。
それに対して発生とか成長というのは、整然と起こってくる生理的現象ですから、遺伝子がどのように発現してどんな形質が現れるのかということが、非常に詳細に解析できたわけです。
それに比べると、「老い」という現象は、人によって現れる時間が非常に違うという不規則性があります。
それから人によって異なったタイプの老いが起こる。
つまり「老い」には多様性があって、自然科学が対象にしている、規則正しい普遍的な変化とは違っているということから、自然科学の中では取り残されてきたと思います。
森岡▼
なるほど。
つまり「発生」というのは、どんな人間でも同じように育って成長していくから、自然科学でも取り扱いやすかった。
けれども「老い」は人によってそれぞれバラバラの違う道筋を通っていくから、非常に捉えにくかったということですね。
多田▼
そうです。
同じように「死」という現象について、生物学が今まで解明したことは不思議なほどに少ないのです。
死も、生物学の研究の対象ではなかったのです。
しかし、最近になって老化も死も、遺伝子レベルで決定されている部分がわかってきたんです。
たとえば細部が死ぬためにアポトーシスという現象があるんですが、それは特定の死の遺伝子が働いて、細胞が自ら死んでいくわけです。
森岡▼
細胞の自殺ですね。
多田▼
そうです。
積極的に自分を殺していくというプロセスがあることがわかってきました。
そういう遺伝子がいくつも見つかってきて、非常に原始的な多細胞生物ができた頃から、すでに死の遺伝子というものが作り出され、それが進化しつづけてきたことがわかってきたんです。
森岡▼
つまり、人間とか他の動物なんかでも、細胞が死んでいくことがあらかじめ遺伝子レベルで予定されているということですか。
多田▼
プログラムされているわけです。
森岡▼
それはあるところまで細胞が育ってきたときに初めて、そのプログラムが働いて死んでいくというイメージなんでしょうか。
多田▼
いつ死ぬのかを決めているのが何かということは、まだよくわからないんです。
しかし、細胞の分裂回数には制限があることがわかっています。
アポートシスは、私たちのからだが発生してくるときにさかんに起こる現象です。
ものすごい興味深いです。
多田先生も何冊か読んできたのだけど
森岡先生の対談がいちばんといっていいくらい
なんかわかる。とっつきやすい。
老い、死、とも、人間の本質的なテーマだからか
深く、しかし結論など出そうにないものと
感じるのは自分だけなのか
寒い朝の読書でございました。