2冊の柴谷篤弘博士の書から”態度”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
あなたにとって科学とは何か―市民のための科学批判 (1977年)
- 出版社/メーカー:
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
まえがき から抜粋
この本では、まえの本と違って「反科学」ないしは「反科学論」の表現を、ほとんど排除しております。
そのひとつの理由は、わたしの反科学論とはかならずしも同じでない反科学論というのが日本では盛んであるというようなことが書かれたり、一般にわたしの意図が誤解されているということを言って下さる方々があったりして、この表現にこだわることは有益ではないと判断したからであります。
すべてのものがすみやかに風化してゆく消費社会では、たとえ同じ立場を守るためにさえ、われわれは、全速力で変わってゆかねばならないのかもしれません。
これは、わたしの好きな、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の中で、赤の女王(チェスにみたてたはなしなのです)がアリスに語ることばと関連しており、動物の進化における、「赤の女王説」というようなものも出されているくらいです。
いずれにせよ、反科学論は、とうとうたる世相に食いものにされつつあるようで、自衛上、私は、前の本の書名が『反科学=論』ではなくて、『反=科学論』の含みをもつものであることを、ここに改めていってみたくなっております。
しかし今回新たに書いた本では、科学批判という表現をとりました。
これとてもすでに「反科学ないし科学批判」という表現があらわれており、同様風化しきるまでには長くかからぬかもしれません。
赤の女王の説くところにしたがい、つぎに進出すべき立場の呼び名を、今から用意しておく必要があるようです。
柴谷先生の何かと闘っておられる姿は
ものすごくロックと通底する気が勝手にする。
体制とか権力とかへの態度というか。
この頃何冊か拝読させていただき
そのことがわかってきた。
いや、もっとわからなくなっているのかも
しれない。
原稿を書いてから、すでにいくらか時間がたち、その間多くの方々から意義ふかい意見が発表されています。
いまとなっては、この本でわたしの書いたことの大部分は、日本でもどなたかがすでに書かれた内容に過ぎないようです。
人間のもつ遺伝的制約にもかかわらず、そのなかで多様性があらわれ、しかも個々の人間の創造的可能性の限界は、
考えていいとする、この本でのわたしの主張は、構造主義の哲学とも矛盾するところがないようです。
それやこれやを今になって考えてみると、この本で書いたことは、まだまだ不十分であったという気がします。
ある期間、他の業務はすべて投げうって、この本に集中できたら、もっと整った、正確な本が書けただろうという悔いに似たものが、絶えず心にかげりをつくります。
しかし、これこそが、学者の立場であって、生活し行動する市民の立場ではないこともまたきわめて明らかであります。
さまざまの立場・状況のもので努力しておられる、既知・未知の市民のかたがたから、この本をきっかけにして、今後も色々学んでゆく機会に恵まれることを願ってやみません。
1977年4月3日 シドニーにて
注 の説明文から引用
学問的な本には、注をつけるのがしきたりです。
その多くは、文献の引用であり、それには二つの意味があります。
ひとつは、自分自身の手によって、知識を生み出したのではなく、他の人の書いたものを利用して記述をすすめる場合、その出典を明らかにして、誰がもともとどのようにしてその知識を手に入れたのか、また元の本の引用・紹介が正しく行われているかを、読者が必要に応じて検討することができるようにする、ということです。
別な意味からは、そのことによって、人類史のなかで、その知識の樹立が、誰の功績に帰すものかを、公平に示そうということにもなります。
しかし転じて、二つには、著者がいかにたくさんの文献を読みこなし、学が深いかを、読者に誇示することによって、著者の学問的権威らしいものを打ち立て、数多くの文献に接しえない読者による批判と協同を心理的に困難にし、学問と学者を神秘化しようといったしきたりをも批判してゆくべきでしょう。
この本では、その意味で、表に出典に関するただし書きをつけた以外は、本文には、注はいっさいつけず、そんなことを気にせず、読者にわたしの思想を追っていただくことにしました。
しかし、この本を材料として、いっそう深く、自身の考えをすすめたい、と思われる方々のためには、わたしがどのような著者と著書・論文に負うているかを示すことが必要であろうと思われますので、いくつかのただし書きとともに、これを付録の形で、ここに注としてまとめておきます。
すごく誠実だ。
”注”に対しても著者が文責を負って
かつ丁寧な説明もされているなんてのは
学者さんの本にしては珍しいことでは
ないのだろうか。
そもそも今まで学者さんの本を
意識して読んでなかったから
自分が感じるだけなのかもしれないが
柴谷先生の文章の覚悟と巧妙に仕掛けられた
トラップは深く、拮抗しうる知性を持たないと
わからないみたいな気がする。
恐龍が飛んだ日: 尺度不変性と自己相似 (ちくま文庫 よ 6-4)
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1995/12/01
- メディア: 文庫
第4章 真理は一つではない
反論が多いほど有効
から全文引用
養老▼
柴谷先生の書かれたものを読むと急に腹が立つことがありまして、たとえば『今西進化論批判』(1981)の中で、キリンの首はなぜ長い、ゾウの鼻はなぜ長い、というのは、発生の問題だと断言されるのですが、そこでカッとなる。
わたしもですから、この本の書評の確か結論のところで、要するに柴谷氏の言い分は、自分を発生学者としてみてほしいという事の言い換え
だろう、という解釈をした、と書いておいたのです。
柴谷▼
なるべく刺激的というか、反論が多く出るような形で出した方が有効である。
少なくとも、欧米ではその方が有効だと思われているのですが、日本ではどうかわからない。
養老▼
やっぱり有効だと思うんですよ、わたしは。
おかげでこちらも考えますので。
柴谷▼
僕はそうだと思うんですよ、それは。
そういうものであると思うんです。
私自身がまた文句をいわれるとものすごく進歩するのであって、私のように体制の中ではかけはなれて周辺部にいる人間は、本の形にしないと、十分に人の話を聞けないです。
養老▼
確かに、極端なことをやるかいうかしないといけないみたいで。
柴谷▼
でも、私はこれは仮に極端な言い方をしてみせているんだぞ、ということを、自分では意識しているのだけれども、読む方は本気にとる、
仮にこう考えればこうなんじゃないか、これはどういうふうにしたらいいんだろう、ということをいっているんだけれども。
養老さんはそういうふうにとってくださった、最後の発生学の立場からわざといってるんだと。
養老▼
しかし、それはやっぱり頭を冷やした後の話でありまして(笑)。
柴谷▼
カッと怒らせるところが実は狙いなのであって。
養老▼
読んだ時はまずカッと怒るんです。
柴谷▼
その時は、必ず怒った状況を克服するので、相手の方には進歩があるはずである(笑)。
私自身がそうなものですから、刺激的なことで反論されると、得をしました。
アップデイトされ続ける柴谷博士の言説。
だからといって、読んでてくだびれて
退屈ってわけではまったくなく爽快
なのは、面白いと感じる感性が響くからなのだろう。
時代を帯びているため、見過ごされがちな気が
若干したり、自分自身もその全てをキャッチ
できてないとは思うのだけれども
昨今は響きまくりな柴谷先生の言説。
難解なものが多い気がするのだけれども
この書に関していうととても平易で読みやすく
今までで一等、装丁が洒脱。お洒落です。
装丁デザインした人もすごいと感じて
またまた主題と離れてた解釈をするんじゃないよ
といっても元から大した情報処理できない頭なんじゃ!
と思った夜勤に向かうバスの中での読書でした。