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石坂公成先生の書から”フェアネス”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

我々の歩いて来た道―ある免疫学者の回想


我々の歩いて来た道―ある免疫学者の回想

  • 作者: 石坂 公成
  • 出版社/メーカー: MOKU出版
  • 発売日: 2000/07/01
  • メディア: 単行本

第1章 少年時代から結婚まで

私の生い立ち


から抜粋


人間には祖先がある。

ヒトの遺伝子が全部解読されても、私がなぜ石坂家に生まれたのかはわからない。

それは運命というものである。


石坂家はもともと埼玉県熊谷周辺の地主で、先祖は源氏の流れを汲む家系である。

祖父の義雄は8人兄弟の末っ子であった。


父弘毅(こうき)は、義雄の長男である。

のちに東芝社長・経団連会長になった泰三は三男であった。

祖父母には8人の子供がいたから暮らしは貧しかったが、子供たちには幼い頃から「四書五経」や『資治通鑑(しじつがん)』を素読(そどく)させるなど、教育熱心な家庭であった。

叔父の話によると、祖母・ことは、大変よくできた人だったそうで、針仕事をしながら父や叔父が素読するのを聞いて、間違いを指摘したということである。

父は子供の頃に読んだ漢籍の一部を大切にしていた。

私も漢籍がいっぱい入っていた大きなつづらが納戸の棚の上に並べてあったのを覚えている。


小学校の3年生か4年生の頃だったと思うが、ある日、風呂場で父が私にたずねた。

「おまえ、世に中に出て、一番大切なことはどういうことか知っているか?」

私は「もっと勉強しなければいけない」などと言われるだろうと考え

「勉強するということですか?」と答えたのだが、父は、

「勉強するのも大事だが、世の中に出ると”着眼”ということが大切だ。

”着眼”というのは、目の付け所ということだ。

今のおまえにはわからないだろうけれども、どういうことに目をつけるか、何が大切かがわからないと、いくら努力しても効果がない。

よく覚えておきなさい。」


二つ目は、やはり小学校時代に、私が膝を擦りむいて帰って来た時のことである。

私がちょっとした怪我をするのは日常茶飯事だったが、あまり頻繁なので、母が気にして父に頼んで注意してもらったのだと思う。

父は私を呼んで坐らせた。

父や母と話をする場合は、立ってものを言うなどということは許されず、いつも正座であったが、膝が痛いくらいでは足を投げ出すことは許されなかった。

父は、

「『身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝(こう)の始めなり

という言葉がある。おまえが暴れて怪我をするのは勝手だけれど、怪我をすれば親は心配するものなのだから、それを頭に入れておきなさい」

と言った。

話はそれで終わらないで、

身を立て道を行い、名を後世に揚(あ)げ、以(も)って父母を顕(あらわ)すは孝の終わりなり

まで教えてくれた。


お父様の授けてくれた格言


厳格な雰囲気がすこぶるいたします。


格言自体も格調高くて、近寄れない雰囲気がする。


内容は何となくしかわからないけれど…。


でも親の言葉とか行動とかは子供にとって


影響甚大なのは、僭越ながらすごく伝わります。


子供たちの中では、男である私だけが特別な存在であった。

家というものが重んじられていた時代で、両親は私が跡取りであることを意識していたと思う。

ただし、私が将来何をするかについては、自由な考え方だったようである。

自分が自分のしたいことができなかったので、自分の息子にはやりたいことをやらせてやりたいというのが父の念願だったように思う。


余命2ヶ月の東大生


から抜粋


東京大学医学部に入学したのは昭和19(1944)年の9月で、終戦の1年前だった。


昭和20年に入ると、空襲が頻繁になった。


学校から突然、勤労奉仕に行くように言われ、我々は高崎の郊外に連れていかれて、麦刈りと田植えを手伝わされた。


当時は誰が考えても、日本が敗戦を迎えることは時間の問題であった。

日本が降伏するということは考えられないことだったので、我々は米軍が数ヶ月以内に本土に上陸してくるであろうと思っていた。


我々は二人ずつ高崎郊外の農家に泊まり、昼は専ら畑仕事をしていたが、時々近所の家で働いている同級生と会った時に話題になったのは、

「我々があと1ヶ月で死ぬのなら、それまでに何がしたいか?」

ということだった。


誰も死ぬことを怖れてはいなかった。

中学の同級生の中には特攻隊で戦死した人もいたし、高校時代を一緒に過ごした文科系の学生は学徒出陣で戦地に行っていたから、我々が戦うのは当然と考えていたのである。

同級生の中には、「映画が見たい」「女の子と遊びたい」と言って笑っていた人もあったが、私は

「明るい光の下で本を読ませて欲しい」

と思った。


そういう生活を強いられていた我々にとって、8月15日の終戦は全く予期しないことであった。


終戦までは自分の国を守るために死ぬことは当然だと思っていた。

特攻隊で死んでしまった中学や高校の同級生もいたから、死ぬことに抵抗感はなく、次は自分の番だと思っていた。

しかし、99パーセントは死ぬと思っていたのに、終戦によって急に生きることになると、自分が今後どうするべきかわからなかった。


この体験は、それから先の私の人生に大きな影響を与えた。

終戦当時は、日本が存立しうるか否かさえ定かではなかった。

どのような世の中になっても、医者が必要なことは確かであるが、日本にとって、将来、研究者や学者が必要になるかどうかさえもわからなかった。

しかし、自分が当然死ぬ運命にあったことを考えると、生きられるのなら、せめて自分のしたいことに自分の人生を賭けてみたいという願望が強かったのも確かである。


私と東大医学部で同期だった人たちの中から基礎医学に進んだ人が10人以上いたのは、そのためではないかと思う。

あとになって当時の日本の状態を考えると、常識のある人から見れば、我々がいかに世間知らずで無謀だと言われても仕方ないが、我々が戦争の体験から得た人生観は現在の人の常識を超えていたものだと思う。


基礎医学に進む、ということが何を示されているのか


分かりかねるモノを知らない初老なのでございますが


なかなかそちらにはいかないってことなのかと。


なんでだろう。一旦置いておこう。


なぜならば、”あとがき”で少しだけわかるから。


あとがきから抜粋


私が日本の方にわかっていただきたかったことの一つは、”自然科学者というものがどんなものか?”ということである。

日本では、よい大学を出て、多くの専門知識を持っていれば、一人前の研究者になれると信じている人が多いようだが、そんなことは科学者にとって大きな要因ではない。

基本的には、科学者には自由がある。

それはこの職業の最大の魅力なのだが、職業である以上は、何らかのかたちで世の中のためにならなければならない。

私は日本政府が考えているような、科学技術の経済効果のことを言っているのではない

学問の進歩に貢献することのほうが基礎の研究者にとっては大切なことである。


しかし、自分が”これは大切なことだ”と考えてやったことでも、結果的には他の研究者の役に立たないことが多い。

その意味では我々の職業は報われない商売である。

医師や弁護士なら、多かれ少なかれ世の中のためになるのだが、基礎研究者の仕事は、何の役にも立たないことがある。

下手をすると自分の娯楽になってしまい、職業として成り立たなくなる。

この点は、過去50年間気になっていたことだった。


我々の仕事は、自分の得た結果を他の人が利用してくれなければ意味がないのだが、若い日本のエリートの中には、自分の得た結果をなるべく自分のものだけにしておいて、他の人には利用させたがらない人がいる。

これは、日本のエリート教育の欠陥によるものと思う。

どんな職業でも同じことだと思うが、科学者が、”自分さえよければよい”という態度を取ると、科学の進歩は社会に貢献するどころか弊害を招くことがある。


私が科学者としての経験を書いた理由の一つは、若い方にも”科学者というものはどうあるべきか?”ということを考えてもらいたかったからである。


本当にフェアネス、公正な人物である


と言わざるを得ない。


読書というか、本は素晴らしいと思う。


なぜなら実際に会ったら、思っていたのと


異なり話してもまるで理解できないなんてことも


あり得るだけに余計そう思ったりして。


余計な感想は置いといて


この本は石坂先生が日本・アメリカでの


研究奮闘記が刻まれているけれど


泥臭くなく飄々とされている。


それと”私”よりも”我々”が多く使われていて


時に同級生、同僚、仲間、そして言わずもがなの


奥様との愛あふれる交流が描かれる。


奥様とのことは特に晩年の手紙のやり取りが


涙なくては読めない素晴らしいパートナーシップ


なのだけど、それは先日の方が濃密なので


ここでは、石坂先生の成り立ちと、


日本の科学者への思いをピックアップさせて


いただきつつ、若い科学者には絶対に


読んで欲しいとサイエンスにはあまり縁のない


自分が力説してもなあ、とうなだれつつも


花粉の強い朝、休日のためそろそろ風呂と


トイレ掃除してきます。


 


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