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柴谷篤弘先生の対談本から”レジスタンス”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ネオ・アナーキズムと科学批判: 柴谷篤弘対談集 (LIBRO TALK)

ネオ・アナーキズムと科学批判: 柴谷篤弘対談集 (LIBRO TALK)

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: リブロポート
  • 発売日: 1988/01/01
  • メディア: 単行本

まえがき

(1987年11月3日 柴谷篤弘) から抜粋


1984年末近く、私はサイエンスハウス社(東京)から『私にとって科学批判とは何か』を出版することができた。

この本は、私が1971年ごろからはじめていた科学批判が、当時ゆきついた先について論じたものであった。

そこで私は科学批判が、科学を超えた人間社会のさまざまな価値・理念と科学との間の不整合を問題にする、科学の外からの批判と、科学内部で通用する論理を用いて、科学それ自体の持つ論理的矛盾を明らかにする、科学の内部からの批判に分類できることを述べた。


そして私自身の科学批判は、まず前者から始まったが、今日では多くの人々が、その視点からの批判的活動に従事している。


1983、4年当時は、日本の科学技術はそれを無視する姿勢をあらわにしており、外からの科学批判は当面有効でないように見えた。

それに対して内からの科学批判は、批判のもう一つのゆきかたとして機能しうるのではないかと私は考え、もともと科学者である私としては、そのような分業をしてはどうかと思っていたのである。


この線は今日、批判をこえて科学のもう一つの視点を定立することを通じて、人間の位置と内実を科学として見直すことが、あるいはうまくいくのではないか、と予想できそうなところまで来たようである。

それに対して、外からの科学批判は、1984年以来いくつかの問題について強力に進められ、科学技術がそれに対して何らかの反応を示さざるを得ない局面も見え始めている、といえるようである。


科学批判に対する私の右のような視線は、科学批判を通じて私が身につけることのできた思想的背景ーーかりに私はそれをネオ・アナーキズムと呼んだーーと関係があるのではないか、と感ぜられたので、そういう角度から、前掲の本で論議をすすめた。


本が出てから、いく人かの親しい友人がたから、様々の意味で右のような私の考え方に対する批判をいただいた。

それは私自身で伺っておくにはあまりにも重要な論点を多く含み、私のおかそうとしている過ちの指摘についても明瞭なものがあると感ぜられたので、その中の三人の方に、対談をお願いして引き受けていただいた。


この本はそれらの記録であるが、独立した三つの対談ではなくて、後続するものは先行するものを一応は踏まえて進められるような手続きをとった。


そして最後には、こうして作られた三つの対談の記録を、三人の対談者に眼を通していただき、そのうえでそれぞれに短い感想を書いていただいた。

そして最後に私が、それらの感想を拝見したうえで、私自身も短いにどのを書いたわけである。


目次から


I 批判と科学

(対談者・吉岡斉)

柴谷さんの科学批判と私

ネオ・アナーキズムにふさわしいコミュニケーションとは

共同実践による共同認識か

異種実践による共同認識か

内在批判と外在批判の差異

科学批判の三つのタイプ


II パラダイムとのりこえ

ーT・クーンと弁証法ー

(対談者・桂愛景(けいよしかげ))

『アインシュタインの秘密』の秘密

科学革命と「通常科学」

クーンには弁証法がない

弁証法のイメージ

真に新しいものはのりこえである

合=理性と非合=理性

p-n接合的関係理論変化と矛盾

パラダイムの構造

内在批判と外在批判

のりこえの行く先

「相対主義」をめぐって

かりそめと本気

科学批判における内部と外部


III   科学批判の新しい立場

(対談者・江口幹)

はじめに

ある違和感

柴谷の方法の二つの側面

ネオ・アナーキズムという規定は適当か

自己発見のための批判

ネオ・アナーキズムの矮小化?

理論をどう受け取るか

理論の変革と進歩思想

理論家の役割

カストリアディスの可能性

一般の人々と専門家

外在批判と相互援助は両立するか

あるべき社会から照射する科学批判

科学批判の新しい立場


IV  対談を終えて

ネオ・アナーキズムと科学批判

(吉岡斉)

マイケル・ポラニーと創発

(桂愛景)

討論というものについて

(江口幹)

断片的な注記

(柴谷篤弘)


ネオ・アナーキズムと科学批判


吉岡斉


から抜粋


活字に直す段階で舌足らずの発言に加筆し、何とか意味が通じるように努めたが、読者に分かっていただけるか自信がない。

もし難解に感じられたのであれば読者におわびしたい。


めちゃくちゃ難解です。


自分だけだろうか。


この対談における私の主張そのものはごく単純なものである。

第一に、人間が思うままに生きる権利を尊重するというネオ・アナーキズムの基本原則を私は強く支持する。

 

第二に、相手の意見の首尾一貫性のほころびを詮索する(揚げ足を取る)というネオ・アナーキズムの実践規則は、右の基本原則と抵触する可能性が大きく、特別の場合にしか正当性を持たない

 

第三に、ネオ・アナーキズムの立場から現代科学の問題点を考えると、科学者集団が政治的・経済的権力構造と結託して、軍事的・経済的なパワーの拡大競争に役立つ情報を野放図に生産し流通させる、という科学研究の制度的体質が、大きな問題点として浮かび上がってくる


つまり現代科学において科学者と一般人との関係はネオ・アナーキスティックな関係から最も遠く隔っており、科学の進歩のインパクトを不断に被らざるを得ない一般人との対話をすっぽかしたまま科学者が、政治的・経済的な権力と結びついて勝手にパワーを行使するような状況が作られている。


ネオ・アナーキストがそれに対する批判を素通りするのはおかしいではないか。

柴谷氏が「構造主義生物学」を提唱するなどして生物学の方法論談義に熱中するのは結構あるが、それはネオ・アナーキズムの方向へ現代科学の変革という課題と、あまり関係ない作業ではないか。


右の三つの私の主張はいずれも、柴谷氏のいうネオ・アナーキズムに賛同し、それをさらに発展させたいという立場から、なされたものである。

それというのも、ネオ・アナーキズムという思想がたいへん魅力的だからである。

抑圧する者とされる者、操作する者とされる者、等などの不平等、非対称な人間関係を断固として認めないというのが、ネオ・アナーキズムの最も基本的な信条だと思うが、これは私の以前からの信条とも深いところで共鳴し合う。

それは、私自身が言語的にも身体的にも「劣った」人間としての自覚を持ち続けてきたことと無関係ではないように思う。

優劣の序列のない人間関係は実に居心地がいい。


幾つもの偶然が重なって私はいま、非対称な人間関係の「強者」の側にしばしば立たざるを得ない社会的位置(大学教師とはそういうものである)を占めているが、これはあくまでもかりそめの役割なのだという意識が絶えずつきまとっている。

中央官庁の役人や大企業や先端産業の企業のビジネスマンや技術者のほうが、田舎大学の教師と比べて段違いのパワーを、たいした権利もないのに行使しているように私には思えるが、大学教師もまた50歩100歩であることは否めない。

そうした社会的役割を担うことには一種の場違いの感覚が付きまとう。

どんな相手に対しても優劣のバランスを取ろうとすることは、ほとんど私の習性にまでなっていると、我ながら思う。


そんな私にとって、さまざまの人生に対して優劣の序列をつけること、また人生の一部である思想に対して優劣の序列をつけることほど野暮ったい行為はない


この辺りのお考えは


ものすごく同意できます。


過日ETVで「膨張と忘却 


~理の人が見た原子力政策~


という吉岡先生を特集していた。


原発のリスクにいち早く気が付かれておられた。


その番組で同僚の先生が吉岡先生はいつも


「自分は普通のことを言ってるだけなのに」


と言っていたと。


柴谷先生や吉岡先生のお考えを追求すると


どうしても権力に歯向かうことになり


不穏分子よろしく反抗勢力、レジスタンスの


思想になっていかざるを得ないのだけど


それは教員としてあるまじき態度なのだろう。


ゆえに、これら先生たちの思想は世間から


黙殺され消えていくかのように見えている


ただいま現在の日本では読み継ぐ意義は


あるのではないか、なんて。


本自体はかなり難解だったけれど


全体の印象として


三人の対談がそれぞれ関係していて


批判や批評をしているというのは


かなりめずらしい企画と思う。


相当お互いを理解して認めた上でなければ


成り立たないような気がする。


柴谷先生のいう科学というのに


興味があるのだけど、全然理解が足りず


何度も読んでしまうのは


本当は自分には必要のないものなのか


それとも今わからないだけなのか


ちょっとわかりかねますが


雪も降った明けて本日朝の地震には


気が付かなかったものの心配な


今日この頃でございます。


 


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齋藤孝先生の3冊から”孤独”を考察し損なう [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

孤独を生きる (PHP新書)


孤独を生きる (PHP新書)

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2022/06/16
  • メディア: 新書

はじめに 先人に学び、「単独者」として生きよ!

から抜粋


昨今、現代人の「孤独」が大きな問題になっている、といった言説を多く見聞きします。


とくにここ数年は、新型コロナウイルス感染症の影響もあって、家でひとりで過ごす時間が長くなったせいか、心のなかで「孤独」ならぬ「孤独感」をモンスターのように膨れ上がらせてしまった人が、少なからずおられるようです。

しかし、私は「孤独感のモンスター化」こそ「緊急事態宣言」ではないかと思います。


なぜなら本来、孤独とは、人が自らを成長させるために、絶対に必要な時間だからです。


私は過去にも『孤独のチカラ』『50歳からの孤独入門』などの著作で、孤独の効用を語ってきました。

しかし、今のこの現代ほど、孤独にまつわる勘違いがはびこっている時代はない、と感じています。


もっと言えば、皆が不安を感じているのは、孤独ではありません。

「孤独感」です。

孤独というより、何となく不安なだけなのです。


「孤独感」は気分ですから、幽霊とかお化けみたいなもの。

実体はなく、「あると思えばある、ないと思えばない」程度のものなのです。

そこをしっかり認識するだけで、ずいぶんと心持ちが違ってくるはずです。


孤独感は「教養の力」「知性の力」で払拭せよ!から抜粋


文学、和歌、哲学、宗教、音楽、戯曲、映画…洋の東西を問わず、大昔から今日に至るまで、ありとあらゆるジャンルで「孤独」ならびに「孤独感」をテーマとする世界と物語が描かれてきました。


そこには必ず、自分の孤独感と響き合う心象風景が見つかるはず。

先人たちの作品には、孤独感を癒す力があるのです。

言い換えれば孤独とは「教養」と密接な関係があり、孤独感は「知性の力」で振り払うことができるのです。



孤独のチカラ (新潮文庫)

孤独のチカラ (新潮文庫)

  • 作者: 孝, 齋藤
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/09/29
  • メディア: 文庫

プロローグから抜粋

現代人は孤独を非常に恐れる。

その反動なのか、<友人がいないと不安だ症候群>とでも言いたいほど、人とつるみたがる。

実際、「友達がいない」というと、ほとんど人格破綻者のように扱われる世の中である。


つまり私の提案は、一人の時間をリラックスして過ごそう

自分自身を癒そうという主張ではない。

もっと自分自身に向き合うような時間、もしくは自分の技量を深めていく時間を持とう。

それこそ脳を真っ赤に燃え上がらせる知的活動のひとときは、誰もが持つべき孤独なのだ。


こうした孤独は、エネルギーを要し、厳しさを伴う。

そして、気分は暗めが定石だ。

一人で明るくしていてもいいが、暗さが持つ力というものがどうしてもあるのだ。


エピローグ から抜粋


私はこれまでの人生でかなりの部分を、ひとりで過ごしてきた。


何かを成そうとすれば、単独者となって自らを鍛えていくことがどうしても必要だとわかっていたからだ。


中でも、私が精神的双子のように身近に感じていたのは、ニーチェである。

ニーチェは、『ツァトゥストラ』のような哲学的な詩をつくることでしか周りの人と繋がれなかった男だ。

他者が評価してくれる以上に自分のすごさを知っていて自画自賛のスパイラルに入り、一方では他者の無理解から精神のバランスを崩していくニーチェの思想は時代を先取りし過ぎていた。

彼は、いわば危険極まりない一陣の風である。

勢いが強過ぎるために人とすぐには交れなかった。


ーー私の著書の空気を呼吸するすべを心得ている者は、それが高山の空気、強烈な空気であることを知っている。

ひとはまずこの空気に合うように出来ていなければならぬ。

さもないと、その中で風邪をひく危険は、決して小さくない。

(ニーチェ『この人を見よ』)


要するに、ニーチェは、自分の著書を読むには、それ相当の資質を備えていなければならないと要求しているのだ。

そんな男の孤独は、ゾッとするほどひどい。


そのニーチェはツァトゥストラにこう言わせている。

”弟子たちよ、私はこれから独りになって行く。君たちも今は去るが良い、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ”。

キリスト教では隣人愛という言葉で同情や嫉妬などをごまかすが、ニーチェが『ツァトゥストラ』で幾度となく繰り返す孤独のすすめは、遠人を愛し、つるまないことなのだ。


『自分は単独者か』といまでも私は自問自答する。

それに『イエス』と答えられる限り、孤独は恐れるものではない。

自分を磨き、豊かにしてくれるかけがえのないひとときを与えてくれるからだ。

そのためには、ある時期は自分から望んで孤独とつきあい、ひとりでいることの心許なさに耐えられるだけの、強いメンタリティを育てておかなければいけない。


もちろん人は孤独なほど、何かの支えが必要だ。

その一つは遠い先人たちであり、もう一つは自分を肯定する力、自己肯定力だと私は思う。

とはいえ、自分を無闇に肯定することはなかなか出来ないだろう。

普段から自分自身の心や体とうまく付き合っておくことが大切だというのは、そのためである。


ひとりぼっちの寂しさや虚しさ、それ自体は辛いものだ。

しかし、その感覚を共有できる遠い誰かがいる

自分という応援団がいる

そう思えると、孤独への適応力はずっと増すはずだ。


この本は、私自身が孤独で苦しんだことがあるからこそ書けたと思う。

できるだけ率直に、自分の体験を多く交えながら書いたつもりだ。


孤独は取り扱いを間違うと<劇薬>になる。

そのことを知っているからこそ、切に願う。

劇薬を<良薬>とするために、ここで紹介した<孤独の技法>をぜひ身につけてほしい。

それはやがて、良き孤独を生きるヒントになるはずだ。



50歳からの孤独入門 (朝日新書)

50歳からの孤独入門 (朝日新書)

  • 作者: 齋藤 孝
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2018/09/13
  • メディア: Kindle版

おわりに から抜粋

本文では触れられなかったのですが、50歳で直面する人生の危機を乗り越える方法がもう一つあります。

「脱力」することです。

50歳になれば、世の中とはどういうものか、すでにわかっています。

これからの人生で何が起ころうとも「今まで死なずにやってきたんだから、力んで迎え撃つというほどのこともないか」と鷹揚に構えることができるはずです。


私は呼吸法の研究者で『息の人間学』『呼吸入門』といった本も出しているのですが、吐く息中心の丹田呼吸法はセロトニンを活性化させ、心の平静をもたらすと言われています。(有田秀穂『50歳から脳を整える』)


おへその下に手を当てて、吐く息とともに否定的な感情が出ていくようにイメージすると、50歳以降を生きる「脱力スタイル」を実感できます。

力が抜けて、意識がバランスよく秩序づけられた状態を「フロー」と呼びます(ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』)。

仕事をフローが生じる活動に変換すると、遊びのように生活が楽しくなります。


孤独の特効薬はなんといっても読書です。

読書は一人でやるものですから、一人の時間が多いほどありがたい。

おすすめしたいのは、自分のタイプに合う人生のモデルを見つけることです。

たとえば良寛を、50歳以降の心の師と仰いでもいいでしょう。


この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし


これはもう「孤独」というよりは、一人の時間を味わい尽くす贅沢な営みです。

人生の深い意味がわかるということが、50歳からの何よりの良さだと思います。


齋藤先生ほど、朗らかな笑顔で


つまづく事を知らなそうな先生も


あまりいなそうとは勝手なこちらの解釈。


実は誰しも”闇”を持っていると。


ちなみに遠藤ミチロウさんに似ているなあと


いつも感じている、どちらも経験から手にされた


知性の持ち主のような気がしている自分は


アホの極みなのだろう。


『孤独のチカラ』『50歳からの孤独入門』は


すでに持っていて、遠い昔、


会社員だった頃に読んでいた。


先日『孤独を生きる』を購入し


冒頭で、孤独シリーズ三部作と知って


改めて読んでみたけれど


経過が分かって興味深い。


作家さんの経過が面白くなると


今でいう”沼”でございますな。


孤独シリーズだけでなく、読書シリーズ、


教養シリーズもすでに何冊か購入・拝読


しておりまして、実践してみたり


大変僭越ながら、似ているなあ感性がと思ったり。


間違っても、教養の質とか、学びのレベルとかが


似ているってことではないですということを


慌てて付記させていただきまして


夕飯の支度をしながら、”孤独”と”孤独感”の違いを


あらためて拝読させていただきたく存じます。


 


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②多田富雄・石坂公成先生の対談から”日本社会”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

懐かしい日々の対話


懐かしい日々の対話

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 単行本


プロの科学者をつくる教育


石坂公成


遠くから眺めていた後ろ姿


から抜粋


多田▼

私が、石坂先生という名前を知ったのは、先生が1957年にアメリカのカルフォルニア工科大学へ留学され、そこで「抗原抗体結合物の生物学的活性」という論文をシリーズで出された時です。

当時私はまだ医学部の学生でしたが、

「ああ、日本人でこんなすごいことをやってる人がいるんだ」

と思って、先生の論文が出ると、いつも胸をドキドキさせながら読みました。


石坂▼

それはどうも。


多田▼

その後先生はジョンス・ホプキンス大学に移られ、1959年にいったん帰国された。

そのころ、ある学会で私は偶然に先生にお目にかかりました。

正確には1960年のアレルギー学会のシンポジウムでした。


石坂▼

遠くから眺めていた。


多田▼

背後から。

しかも先生は正式の演者ではなく、演者にいちゃもんをつけていたのです。

いちゃもんといっても、きちっとロジックが通っているから演者が答えられず、立ち往生してしまった。

僕は

「なんてすごい人だろう。こんな明晰な人がこの世にいるのか」

とびっくりしたんです。


その人が、先ほどの論文で私を感動させたあの石坂先生だったということが後で分かりまして、どうしてもこの先生に弟子入りしたいと思って、国立予防衛生研究所におられた先生のところにお邪魔するようになりました。

その後先生は、3年間だけ日本にいて再渡米され、コロラド州デンバーの小児喘息研究所というところに行かれました。


どうやってアレルギーを起こさないようにするか」を考えたい


から抜粋


多田▼

先生は幸運だったと思うんです。

一心同体で仕事ができる、共同研究者の照子夫人がそばにおられたから。


石坂▼

分業っていいますか、はっきりフィールドを分けましたから。

「きみはこれをやれ、僕はこれをやる」

というふうに。

日本では、そうしないで一人がみんなを下に使ってしまう。

ワイフをインディペンデントにしたことはそれから先、ワイフ以外の若い人たちとの間でも、非常に幸いしたと思うんです。

ある意味ではワイフはコンペディター(競合相手)でもありましたが、自分のワイフだから、彼女の仕事がうまくいくということは僕にとっては喜びなんです。

それと同じで、今度は自分のところへ来てくれた人たちが後々までうまくやっていることに対して僕はうらやむようなフィーリングはないわけです。

アメリカだって研究者の中には弟子と競争してしまってうまくいかない例はたくさんあるんですが、僕はそういう経験はない。

それは、やっぱり初めから独立した研究者であるワイフがそばにいて、それに慣れていたからだと思います。


「何が見えてくるか」が「意味論」の意味


から抜粋


石坂▼

学問が非常に進んで、インフォメーションがたくさん取れるようになると、若い人は、何かそれでみんなわかったという感じを持っている。

だけど、それは人間がアキュムレート(蓄積)した、単なる知識なわけですね。

必ずしもそれがプリンシプル(原理・原則)ではない。

やっぱろわれわれ自然科学者にとっては、あくまで自然がお手本なんです。


多田▼

そうです。

現象を記載した知識をコンピュータに蓄積するという意味では、今は途方もなく進んでいる時代かもしれません。

しかし、「生物」とか「生命」というのは、そんなことで理解できない。

私が「意味論」などと言ってるのも、そういうことなんですが、たくさんの現象の中から、「なにが見えてくるか」ということについて、考えてみたいと思ったんです。

だれもこのごろそんなこと問いかけていないんです。


石坂▼

「なにが見えてくるか」とは?


多田▼

例えば生命のルールとか、統合の原理とかです。


石坂▼

全体としてということは、だれも興味を持たない。


多田▼

ところが、自然科学、生物学は元来、

「どうして生物がこうやって生きているのか」

という、そのことをいちばん最初の疑問としていたはずです。

アリストテレス以来の疑問だった。

先生が中村(敬三)先生から受けた教育も。微細に現象を見ていくということから、何が抽出できるかを、見るということだったのではないでしょうか。


石坂▼

そうですね。


多田▼

生物学の見方は、単に生物現象を見るだけじゃなくて、社会現象を見る場合にも当てはまると思うんです。

生物としての人間が生命活動の結果として必然的に作り出すものが、社会だったり民族だったり、あるいは都市だったり国家だったりするわけですから。

そういうものを見る場合も、生物学者が培ってきた目というのは非常に大事なんじゃないかと思います。

ですから私は、先生にもっと、日本の教育、それから日本の科学の流れなどについても、ぜひ提言し続けていただきたい。


石坂▼

でもなかなか聞いてくれない。流行に沿わないからだと思いますね。


多田▼

その点、私は今は文筆業ですから、遠慮せずに書いております。


日本語の「合理化」は合理的じゃない


から抜粋


石坂▼

だいたい日本の科学者、あるいは大学の先生たちと、政治家の間ってコネクションがないみたいですね。

みんな文部省の方だけを向いていて。


多田▼

だって政治家は、ほとんど官僚出身ですし、官僚は、民間から直接科学政策にかかわるような動きが出たら困ると思っているから。

当然、規制しているわけです。


石坂▼

なるほどね。


多田▼

ですから、大学の独立法人化なんていっても、文部省管轄の財団を通してじゃないとお金が入らない。

私はそもそも高等教育なんて、もしコスト=プロフィット(経費と利益のバランス)だけの原理で行ったら、間違いだと思います。

今、それをどうしたらいいかという点についての考え方は出ていない。

それでも、経済原理が優先してしまうと、それで全てが支配されてしまうんですね。


石坂▼

経済原理だけで教育をやられては、かなわない。


多田▼

でもそれが、いまの法人化の方向ではないでしょうか。

その結果、科学研究や教育についてさえ、一種の合理化が起きる可能性がある。


石坂▼

その「合理化」ってどういうこと?

日本でいう「合理化」って、あんまり合理化じゃないと思うんだけどね。


多田▼

今度、東海村で事故が起こりましたね。

あれは一種の「合理化」のために無理な「リストラ」をやったためだと言われています。

現場では、非常に大事なものであるにもかかわらず、全体として、コスト=プロフィットの関係では無駄なものとして切り捨てていくわけです。


その結果、弱いところに負担が重なって、ああいう事故につながっていると思います。


石坂▼

僕はね、日本では建前と本音が違うということが通用している、根本的にはそういうことが問題だと思いますよ。

初めてアメリカに行った時に、なんて気が効かないんだろうと思ったんですよ。

「まあ、いいじゃないか」と思うんだけど、アメリカではそれは駄目なんです。

だけど日本に帰ってきてみると、今度は逆ですね。

あんまり気が利きすぎて、何か不安になります。

放射能をコントロールするようなことは、おそらく日本のほうがアメリカよりはるかに規定は細かくできていると思うんです。

でも守られない。

守れないぐらい細かくできてるわけでしょ。

アメリカの場合は守られてますね。


放射性物質の管理の経費は全部間接費の中に入っている。

だから政府が研究所に研究費を出す時には、間接費を出してそれらをカバーします。

間接費は直接、研究所に入りますから、研究所はそのお金で人を雇って規定どおりの管理をするわけです。

そのお金を研究費に転用することはできません。

しかも、間接費は後払いですから。


多田▼

日本は、そんな必要なものを削ってまで倹約しようと思っているんですよね。

反対に金があるところはジャブジャブある。


石坂▼

それはもう倹約してはいけないことなんです。

初めっから。

そういう考え方そのものを変えない限り、よくなりっこない。


多田▼

ですから、沈黙しているわけにはいかない。

いろいろな機会に、先生が提言してくれることは大切です。

私なども、文章できちんと書いていこうと思っています。

なかなか聞いてはくれないかもしれないけれど、それによってまた、自分の考え方が発展するということもありますから。


石坂▼

それは確かにその通りだと思います。

まあ、生きている以上は、なにか役に立たなくてはね。


東海村の事故については過日


投稿させていただいた書が思い浮かぶ。


多田富雄先生は2010年に


石坂公成先生は2018年に亡くなられている。


共に日本を代表する免疫学者。


石田先生の男女問わず、成果で人を見る


フェアネスな態度は素敵です。


政府と官僚と民間の科学の関係は


本当にやるせない。思わず苦笑した。


アカデミックな先生たちの言説で


その全てがそうではないけれど


悪い意味の忖度がなくて爽快、


でも現実を突きつけられ


暗い気持ちにもなったり。


時代は”事業仕分け”や大学の


”独立行政法人化”の頃で


小泉改革前夜、最中の頃だろうか。


あの頃、自分はよくわかってないから


既存政党を壊すというのならいいのだろう


とくらいの認識しかなかったので


なにも物申すことはできないのだけど


それではあかんかったのですね。


これから世界がどのように変節するかは


自分たち次第であると思うが下支えとして


先人たちの残してくれた言葉を手掛かりに


といっても肩肘張らずに、自分たちで考えながら


役に立つような生き方をしたいと


池田清彦先生とは真逆なことを考えさせる


書物でございました。


 


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①多田富雄先生の書から”感謝”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

懐かしい日々の対話


懐かしい日々の対話

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 単行本

あとがき から抜粋

この対談集は、私にとっては正真正銘の最後の対談の記録になる。

なぜなら、私はもはやしゃべれないからである。

私は五年前に、脳梗塞で声を失った。

訴えようとしても声は出ない。

叫ぶことも出来ない恐怖の中で、絶望に打ちひしがれていた。

初めは信じられないことだった。

前日まで冗談を言い、議論を戦わせていた舌は、もう動かない。

右麻痺だったが、幸運なことに失語症ではなかった。

言葉の意味はわかる。

かろうじて動く左手で、音声発生装置(トーキングエイド)を使って、妻に意思を伝える方法を覚えた。

やがて、初めてのパソコンのキイボードをポツリポツリたたいて、原稿書などで社会とのコミュニケーションをマスターした。


それができるようになると、嬉しくて1日7〜8時間仕事をした。

私は自分を表現することができるようになり、再び人間の仲間入りをした。


だが思い出すのは、かつての日、よき友との談論風発の対話である。

私はおしゃべりではないが、良い友達と気の利いた対話をするのは大好きであった。

だからこれまでに、2冊の対談集を出している。

(『生命へのまなざし』『生命をめぐる対話』)

いずれも版を重ねているのは、それがナンセンスではない証拠だ。


私は繰り返し、免疫学で自分が見たこと、考えたこと、そしてそこから演繹(えんえき)された生命観を語った。

そのさきは談論発風、お能のこと、身辺雑事から、私のものの見方、「スーパーシステム」にまで話は及んだ。

そんな対話はもう出来ない。

悲しいことだ。


ここに集めた対談は、全二著に漏れた対談である。

したがって発作前のこと、私がものをしゃべれた頃、つまり五年以上も前のものである。

中には故人になった友人もいる。

読み直してみると、みんな新鮮で、懐かしい。

私の、半身不随になってから編んだエッセイ集『懐かしい日々の想い』と共に、消え去り行く記憶にとどめたいと出版を依頼した。


多田先生に感謝させていただきたいくらい


この対談集の相手は興味深い10人だった。


これが多田先生の発案がなければ


埋もれてしまうところだったというのが


ため息の出る書でございます。


といっても難しくて分からないことも


多々あるのだけれど。


養老先生と米原万里さんの対談はもちろん


自分は初めて存じ上げた方が


多く興味深かった。


ゲノムが教える21世紀の生き方


村上和雄


ゲノム・サイエンスはこれからが本番


から抜粋


多田▼

ゲノム計画が完了したということは、人類にとって大変大きな成果だったと思います。

ただ、それは単にDNA配列が解読されたというだけのことです。

そこから何が現れるのか、何が理解できるようになるかはまだわかっていない。


村上▼

そうですね。

今はまだ万巻に及ぶ経典が発見されたようなもので、そこに記されている文字はどうにかわかったけれど、どんなことが書いているのかは分からないという状態です。


多田▼

おっしゃるように、いまは「大蔵経」みたいな巨大な経巻(きょうかん)を写経したような段階で、写経しただけではなぜありがたいのかは分からない。

そういう段階にあると思いますね。


村上▼

ええ。ゲノムというのはただ単にタンパク質を作るだけではなくて、生物の形を決める非常に重要な情報を持っていますからね。

一個の受精卵からどうして多くの細胞からなる個体ができるのかという肝心のメカニズムについては分からないところだらけです。

DNA配列の解読が終わったからといって済ませられる問題ではありません。

実を言えば私も最初は遺伝子の暗号解読ということに非常に意義を感じて、熱中していたんです。

でも、あるとき、遺伝子の暗号解読の技術もすごいけれど、もっとすごいことがあると気づきました。

それは、万巻の書物に相当する情報が一つのゲノムの中に書き込まれているということなんです。

DNAの指図によって、私たちの体の中では現代の分子生物学が解明できない驚異的なことが行われている。

それによって私たちは命の炎を燃やし続けているわけですが、そのメカニズムを私たちは何も知らない。

この事実をどう考えればいいのかということに思い至ったとき、私は震え上がりました。

この解明できない何かのことを、私は「サムシング・グレート」と呼んでいるのですが、「サムシング・グレート」の正体を21世紀の科学者は追いかける必要があると思います。


生命を動かす「超システム」から抜粋


村上▼

多田先生は生物の持っている不思議なシステムを「超システム」と名づけておられますが、これについて少しご説明いただけませんか。


多田▼

遺伝子が発現していって人間の形を作るところまでは非常にはっきりとしたプログラムが組まれているように思うんです。

でも、それから先、どんな人間になり、どのようにして死んでいくかということまでがプログラムされているわけではなさそうです。

では、どうやって時間軸を完成させていくのかと考えると、そこに一つのルールがあると思うんです。

生命体を作り出すときは、たくさんの遺伝子が働いて多様な細胞が生み出されます。

そしてそれらがお互いに情報交換することによって次々に新しい段階のものを作り出していきます。

つまり、自分で自分を作り出すというプロセスがあるわけです。

これは従来の工学的なシステムとは違いますね。

工学的なシステムというのは、多様な要素を目的のために組み合わせて、それが有機的に動いていくわけですけれど、生命体の場合は初めから多様な要素があるわけではなくて、多様な要素は自分で作り出してゆくのですから。

自分で作り出して、それがお互いにつながり合って自己組織化をして、最終的には全体としてうまくいくようなものを自ら作り出していく。

その過程で不要なものはどんどん死んでいく。

そういう過程があるのです。

その延長として人間の一生が作り出されるわけですから、それは設計図に従って機械を作って、その機械が動いたり壊れたりするのとは違うものと考えた方がいいと思うんです。


村上▼

普通、ゲノムは体の設計図というような言い方をしますね。

しかし、それは工学的な意味での設計図ではなくて、もう少しダイナミックなもので、変更可能なものである。

もちろん変更可能といっても、よほどの例外がない限り人間になるけれど、どんな人間になるかということに関してはかなり柔軟性があるということですね。

しかし、自己組織というのは、どうして可能なのでしょう。

自分で自分のプログラムを書きながら成長していくということなのですか?


多田▼

そうです。

別に外側から神様のようなものが光っていて、「うまくやっているか」といつも見ているわけではなくて、自分で自分のプログラムを確かめながら作り出していくというやり方ですね。

つまり、自己言及的なやり方だと思うんです。

しかも、それは単に自分の内部情報だけではなくて、外側のいろいろな環境条件による情報を受け取りながら、それを内部情報に転換して自分の生き方を決めていく、そういうやり方だと思います。

生命体以外でそんなことをやっているものはないんじゃないでしょうか。

私はそれを、通常の工学的・機械的なシステムとは違うという意味で、「超システム」呼んだわけです。


あとがき から再度抜粋


こうしたバラエティに富んだ対談者に恵まれて、楽しい時を過ごせたのも、もう遠い過去になってしまった。

今読み直すと、ああ言えばよかった、あの話をしたかった、あのことも聞きたかったと、悔やむことが多い。

でももう手遅れだ。

声を失った今は、懐かしい時となった対話の日々を、こうして一冊の本にまとめ、時の流れの手触りを、静かに眺めるしかない。

「懐かしい日々の対話」と名付けた所以である。

私は発声のリハビリを受けているが、発病後五年を過ぎた今も、会話はほとんどできない。

この10月で、冷酷なリハビリ打ち切りの制度によって訓練を打ち切られる。

もう一生しゃべれないようになる。

私のしゃべれたころの形見に、この最後の対談集を送る。


2006年9月

多田富雄


ここからただいま現在で18年経過。


遺伝子の研究も様変わりし


この前読んだりテレビで観た


クリスパー・キャス9”までは


聞いたことあるくらいだけど


大丈夫なのかな?とは言いたいだけ


ですが、でも素人ながら心配だったり。


「超(スーパー)システム」って養老先生や


中村先生との対談にも出てきてたけれど、


このご説明でさらに興味深く拝読した次第。


2006年のリハビリ制度打ち切りっていうのも


なんとなく知ってはいたけれどなあ。


この”あとがき”の締めくくりはなんとも


切なく悲しくなってくる。


この書とは異なるテーマですが、


多田先生はその運動も当事者として


旗振りをされていたようで気になる。


こうして書物として残されたことに


さらに感謝させていただきたいと思う。


 


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中村桂子先生の対談から”DNA”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人間が生きているってこういうことかしら?


人間が生きているってこういうことかしら?

  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 2022/02/09
  • メディア: 単行本

生きているとはどういうことか

いのちと時間とDNA


から抜粋


内藤▼

私も医療を学びながら、先生の疑問に通じるようなことを何度も感じていました。

先ほどのアメリカ流の科学的育児も、1人ひとりの違いは置いておいて、実験データから因果関係を特定し、こうすればこうなるとマニュアルをつくるわけですよね。

でも、現実の子育ては生活の真っ只中でやるわけですから、特定されない因果関係がいっぱいあって、赤ちゃんだけをジーっと見ているわけにも行きませんよね。


中村▼

そうね。

お乳は3時間おきにあげてくださいと言われても、「あれ、うちの子は飲まないな」ということがあり、それが現実です。

科学的な実験データがどうであれ、生きているのは目の前の子どもですから。

とても機械のようにはやれないし、それでは生きものを育てていることにはなりませんでしょ(笑)。


内藤▼

そんなふうに感じて「生きているとはどういうことか」と問いながら、ご自分の研究の立っているところを探っていくのは、大変じゃありませんか?


中村▼

人間が生きているとは何かを知りたい。でも、DNA研究は面白い。

DNAから離れずに、しかも機械論でない考え方はできないものかしらと悩んだんです。

その頃、人間の細胞に入っているDNAのすべて、これをゲノムと呼ぶのですが、その全塩基配列を調べようという「ヒトゲノム計画」が持ち上がりました。

提唱者のひとりはアメリカのがん研究のリーダーでした。

がんを遺伝子から突き止めようとしたらとても複雑で、けっきょく、人間のDNAをぜーんぶ調べなくてはならないとなったわけです。


内藤▼

「ヒトゲノム計画」は、そういうところから出てきたんですね。

ところで初歩的な質問ですが、DNAとゲノムは何が違いますか?


中村▼

それがとても大事なことなので、専門家じゃない方にもここだけはわかっていただきたいといつも思います。

科学の知識だと思わず、生きものを生きものとして見ようとする大事な基本なので。


内藤▼

ぜひ、教えてください。


中村▼

DNAはデオキシリボ核酸の略だから、モノの名前です。

これは遺伝子として大事な役割をします。

ところで、細胞に入っているすべてのDNAをゲノムとして見ると、そこには、ある生きものがその生きものになるために必要なすべての遺伝子があるだけでなく全体としてのはたらきという情報も出てきます。

つまり、DNAとか遺伝子というだけでは出てこない次元が、ゲノムという時には出てくるの。

「ヒトゲノム計画」はゲノムに目を向けたのは素晴らしいけれど、機械論的に、人間のDNAを端から端までぜーんぶ調べて書き出してしまえば、人間をつくっている部品がぜんぶわかり人間がわかるだろうという発想なわけね。すごく単純化して言えば。


でも、私はゲノムを全体して見たいと思ったの。

時間を入れて。


内藤▼

ゲノムに時間を入れる?

それはどういうことなんでしょう。


中村▼

生きものは38億年前に生まれた祖先細胞から始まり、現在の生きものはすべてそこから生まれたものということがわかっていますよね。

あなたの細胞の中にあるゲノムはご両親から半分ずつ受け継いだもの。

ご両親はそのご両親からというように祖先を辿ると生命の起源まで戻ります。

つまりあなたのゲノムは38億年前からこれまでの歴史が入っているわけね。

すべての人、すべての生きものすべての歴史と関係が書き込まれていることになるわけです。

歴史は一回だけのものでしょう。


内藤▼

ええ、いちど起きたものは変えられないし、それぞれに固有のものですね。

患者さんを診るときには、お会いしていなかった間にどうだったか、様子の変化をご家族に聞いたりしますが、経過や流れの中で見たいとわからないことがあります。

そこだけを取り出しても判断できない。

でも、機械ならば、昨日の調子はどうだったかを見る必要はありませんね。

壊れているところを直せばすみます。


中村▼

そうなの。

だから生きものは機械とは違う。

機械ならば、再現できますね。

設計図があって、同じ部品をそろえれば何度でも同じものを作れる。

そういう考え方では生きものは捉えられません。


内藤▼

確かに、その通りですね。

今ふと思ったのですが、私が在宅で患者さんを診る意味も、先生が「時間を入れる」とおっしゃったことと関係がある気がします。

患者さんの病気は病名がつくからには共通の特徴があります。

でも、病名はおなじでも病気の現れ方はさまざまですし、その人の暮らしの中でどう病気に向き合うか、何が良いかはみんな違います

でも、次々にたくさんの患者さんを診なければならない病院では、患者さんの人生を「時間」に注意を払う余裕はありません。

効率よくやるために、病気だけをいわば「マイナスの部品」として見がちなんですね。

「時間を入れる」と考えることで、医療にも新しい視点が生まれますね。


中村▼

その通りですね。

あなたの場合、人間そのものから始まってそう考えるようになったでしょう。

私は逆にDNAから始めて人間のほうへ向かって考えていこうとしたのです。

部分だけを見るのではなく、まず生きもの全体を見て、それがどう生きているかをよく見てそこから学ぼうという気持ちが大事です。

ゲノムには歴史とお互いの歴史とお互いの関係が入っているので、そこから考えれば、DNA研究という科学の力を生かしながらも生きものを知ることができると思ったの。


”DNA”はDeoxyribonucleic acid(デオキシリボ核酸)


の略称であるからモノの名前、


”ゲノム”は遺伝子(gene)と染色体(chromosome)を


合わせた言葉らしいが、自分が思う相違点って


ゲノムには実体がないということではなかろうか、


なんて生意気に思ったり。


「時間を入れる」というのはなんとなくしか


自分は分からない。


”時間”って”変化”のことだと思うのだけど


当然、”経過”というか、


”今”と”現在”と”過去”があるのは


わかるのだけれど。


そもそもが違うのだろうか。


というか”時間”ってなんだろうか。


実はものすごく深い話なのではないだろうか。


また新たなテーマにぶつかり


しかしそういうのも実はすでに


自分の中にあるものだったり


でもそれを掘り下げ微細に分解していくと


疑問の細胞まで辿り着くといった


これこそまさに自己疑問のゲノムなのでは


なかろうかと、むりくり繋げてみたが


浅学非才ゆえお里が知れてしまい、


空腹と睡魔にはやはり勝てないな、と


責任転嫁してしまう


朝5時起床での平日仕事終わりからの


投稿でございました。


 


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中村桂子先生の書から”人格への思慕”を感じる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

知の発見 「なぜ」を感じる力


知の発見 「なぜ」を感じる力

  • 作者: 中村桂子
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2015/12/01
  • メディア: 単行本

まえがき から抜粋

私は60年以上前にこの教室で勉強をし、その後大学で理学部へ進み、以来生きものの研究をしています。

高校、大学以来大勢の先生にたくさんのことを教えていただいたので、研究を続けることができたのです。

今日は私の原点になったこの教室で、後輩に私が学んだことや、それを基に自分で考えたことをお話しして、もしそれが若い人がこれからを考える役に立ったらうれしいと思っています。


実は、生きものの研究をずっとしていると、生きものたちがいろいろなことを語ってくれますので、その話を聞いてください。


ぞうさん

ぞうさん

おはなが ながいのね

 

そうよ

かあさんも ながいのよ

 

ぞうさん ぞうさん

だあれが すきなの

 

あのね 

かあさんが すきなのよ

 

まど・みちお


この歌、皆さんが小さいころ、お母さんと一緒に歌いましたでしょう。

ぞうさんは長い鼻が特徴です。

君の鼻は長いねと言われ、そうだよ、お母さんも長いんだよと答える子どものぞう。

ここで語られているのは遺伝です。

ただ、まど・みちおさんは、じつはぞうさんはいじめられているのだと言います。

ほかと違うねと言われて。

でもぞうさんは、母さんだってそうなのよといじけません。

このかわいい歌の中にも生きものの持つさまざまな意味が込められています

このような意味をこれから考えていきます。


まどさんは詩人ですが、科学を専門とする私と考え方が同じところがあるとおっしゃって、たくさんお手紙のやりとりをしました。


残念ながら、2014年に104歳で亡くなりましたが、最後の最後までお仕事をしていらして、そのお仕事をする一番の基本として次の言葉をあげています。


「世の中に『?』(クエスチョン・マーク)と『!』(エクスクラメーション・マーク)と両方があれば、ほかにはもう何もいらん」


疑問と感動、つまり、知と感動ですね。

「何もいらん」と言い切るのは難しいけれど、常に「?」と「!」を持ち続けることが本当に生きているということになるのは確かです。

「?」はふしぎがること、「!」は感動することです。


誰かに教えてもらったり、本に書いてあることを覚えたりすることは必要です。

でもそのような勉強だけが大事と思っているとすれば、それは違います。

本当に大切なのは知識ではありません。

自分でふしぎを見つけ出し、考え、新しいことを探し出す。

これが「知」です。


ところで、ふしぎを見つけ出せる場所はどこかというと自然です。

宇宙、地球、生きもの、人間など。

対象はたくさんあります。

その中で私は、生きものに注目しています。

人間も生きものの一つですから生きものを知ることは自分を知ることでもあります。

地球上には数千万種といわれる多様な生きものがいることが大事なのですが、一方であらゆる生物はDNA(ゲノム)を持つ細胞でできているという共通性があります。

そして、38億年前に生まれた祖先細胞から、すべての生物が進化してきたと考えられています。

もちろん人間もその仲間です。

生きものを知るには、この38億年間の歴史の中でさまざまな生きものが生まれてきた様子を知ることが大切なのです。


素朴な優しさが伝わる”まえがき”に続き


中村先生のステートメントのようなものを


以下に引かせていただいておりますが


「扇」というのは、中村先生の提唱される


「生命誌絵巻」にある38億年分の進化から


発生した生命たちが共存している”エリア”


のことを指されている。


ちなみに中村先生は、そのエリアから


人間は出て、ああだこうだということを


「外から目線」とおっしゃっている。


第二章「生きる」を考える


人間が人間を壊している


から抜粋


人間は扇の外にいると思っている今の社会は、金融市場原理、つまりお金の力で動いていますし、力のある国になるために科学技術を進めましょうという流れになっています。

もちろん豊かになり、便利になるという、ほかの生きものにはない人間らしい生き方は大事ですから、科学技術や金融市場原理を完全に否定するわけではありません。

けれども、人間は生きものだということを忘れて、経済や技術のことだけを考えている社会は問題です。

生命・自然を考えてほしい。

38億年も地球で続いてきた生きもののことを考えましょうということです。

私たちが大量にモノをつくったり、エネルギーを使ったりしていると、自然を壊してしまう。

これが地球環境問題になります。

人間も自然の中にいるのですから、それは私たちにとっても困ることです。


ところで、自然を壊す、環境問題というと、木が少なくなったとか川が汚れた、ごみが増えたという、外の自然だけに目がいきます。

でも、みんな自然なのです。

自然を壊すということは人間も壊すということです。

まず、人間の体が壊れるということ。

例えば、花粉症、アレルギーなど自然の変化とともに体への影響が出てくる例があります。

それから心も壊れていると思います。

あまりにも競争が激しくなる中で、心が壊れてしまう例が出ています。

競争はあってもいいのです。


しかし、社会の仕組みが競争を強く意識させるものになっているために、心が壊れる人が増えているのは問題です。


具体的にはあまりにも効率を求めすぎて時間をかけることができない。

それから人間関係を壊している。

生きものにとって、そして人間にとって、時間と関係はとても大事です。

時間をかけること、関係を大事にすること。

人間同士の関係はもちろん、ほかの生きものたちとの関係もとても大事です。

自然を壊すということはそういうものを壊します。

外の自然破壊には多くの人が気がついています。

だから、環境問題を考えましょうという声は大きくなっています。

でも自然を壊す行為は人間も壊すという感覚はあまり持たれていないのではないでしょうか。

それは怖いことです。

バランスを考えていかなければいけません。

そういうところからも人間は生きものだと考えることはとても大事だと思います。


中村先生は昔から貫徹されている。


と言っても頑固な物言いではなく


柔らかく、というところが


強みでもあり弱みなのかもしれないが


とても素敵だと思う気持ちは禁じ得ない。


井上民二先生の如くジャングルの上から


生きものの説明をされる時の中村先生の表情は


本当に嬉しそうで言葉もイキイキとされている。


古いものは捨ててしまうのではなく…


自分で、考えて、しゃべっているのが


本当によくわかる。シビレます。


あとがき から抜粋


本書は、2014年の岡山県立岡山朝日高校でピアニストの中村紘子さんとご一緒に科学と音楽で知と感動を届けるという企画に参加したことをきっかけに、その時、生徒さん方へした話と今年の夏に母校であるお茶の水女子大学附属高等学校で行った3回の話の記録をまとめたものです。


生きものとしての人間というところから生き方を考えようとしてきた私の仕事が生かせるのではないかと思い、社会もその方向に少しづつ動いているような気がしていました。

ところが、2015年の夏には平和憲法を脅かすような安保法案が生まれ、人々の働き方についても一人一人の人間を大切にするというより、経済を優先する雇用法が制定されるなど、どう考えても「生きる」ことを大切にするという社会ではなくなっていく傾向が見えてきたのです。


社会で活躍するということは、これをそのまま受け入れて働くことではないという気持ちが強くなってきた、ちょうどそのようなときに話をする機会をいただきました。


普通の女の子…権力を求めるのではなく、日常の暮らしを大切にし、おいしいものを皆んなで仲良くいただくことを楽しみ、人々やさまざまな生きものとのやり取りに心を動かす

それを基本にした上で、自分が大切と思うことについて考え、専門を決め仕事を進めていく姿を思い浮かべての「普通」です


今、一番大事なことはこれではないか。

そんな気持ちを込めました。

そうすれば女性の力が社会を変えるのではないか。

もちろんこれは、母校の後輩に向けてだけのものではありません。

男子も含めて、高校生みんなに伝えたい気持ちです。


中村先生の言葉を受け取り社会人として


これからを生きることは正直生きづらい


構造になっていると思う。


どうしても新自由主義がベースで回っているから。


それでも違和感は感じながら少しでも自分の頭で


考え行動することが大事なのだと思わせる。


若い人のみならずすみません、おじさんにも


中村先生の言葉は響いております。


というか、中村先生の言説は


響くとか響かないとかではなく、生きものとして


あたりまえのことなのかもしれない。


響いたとするならば、中村先生の人格とか


声とかが今の自分には反応してしまっているのかも


などとまるで"ロックミュージシャン"に対する


思慕であるかの如く、中村先生と真逆な存在を


思い浮かべてしまった無意味なような


思考に囚われ、相変わらずアホの極みだわ自分


と思うけれど、中村先生は素敵だなあと思った


2015年だから”コロナ禍”は含まれずだけど


それ以前の中村先生のお考えの要諦がわかる


夜勤前のバスや夜勤明けに拝読した


素晴らしいシンプルな装丁の書だったのだけど


今日はそろそろ風呂とトイレ掃除しないとって思う


休日の土曜日、地震が心配な関東地方でございます。


 


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