ローレンツ博士の書から”優しい眼差し”を感じる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
まえがき から抜粋
この本はいわゆる科学的な本ではない。
打ち明けていえば、ひとえにこの本は動物たちを観察しているときに私が味わう喜びから生まれたものである。
それはそれでまったく正しいことだと思うけれど、じつはこれはこの本に限ったことではない。
というのは、私の学問的な仕事もまた、その根本ではやはり同じ喜びから発しているからだ。
科学者が新しい、思いもかけぬ発見をなしうるのは、いかなる先入観からも解放された観察によってのみなのである。
最初に述べたように、この本は科学の本ではない。
私たちの科学的研究の一種の副産物である。
この一言からも、ありのままの客観的真実は、それが自然に関するものである限り、じつに美しいものでありうることがわかる。
そしてもう一つ、この本は私が書きはじめる前にすでにできあがっていたも同然であった。
つまり、そのプランはごく細部にいたるまで、はじめから写真によってきまっていたのである。
今では残念にもほとんど忘れられてしまっているドイツの詩人フリッツ・フォン・オスティニは、今世紀への変わり目に画家ハンス・ペラルによってつくられた子ども向けの楽しいメルヘンの絵本に、こんな文を書いた:この本の絵を描いたのは詩人で、物語を歌ったのは画家である。
この本の本文と写真の関係は、まさにこれと同じである。
あとがき から抜粋
この本に書いたのは、シュビレ・カラスが編集した写真集の解説であり、事実上これらの写真がどのようにして撮られたかという報告といってもよい。
本書にもられた内容は写真そのものによって語られている。
それでは、この物語はだれのために書かれたのか。
この物語を吸収し、それが伝える情報を理解してくれることを私たちが願い、また信じている相手は、いったいだれなのか。
今日、人間はあまりに文明化しすぎ、自然から疎外されている。
大部分の人々は日常生活の中で生命のない人工物以外のものに接する機会をめったにもたず、生物を理解したり彼らとかかわりを持ったりする能力を失ってしまっている。
私たちをとりまき、私たちの生活を可能にしてくれている自然界に対して、人類全体が蛮行を働いているのは、一つにはこのような能力の喪失のせいである。
人間と地球上のほかの生物とのあいだの失われた接触をとりもどそうとすることは、価値のある重要な仕事である。
要するに、このようなかけに成功するか失敗するかによって、人類が地球上のほかの生物とともに滅びるか否かが決まるのである。
一日中、けんめいに働いた人々、ふつうはストレスにさらされがちな彼らは、たとえ正しいものであろうと、危険を警告する本(レイチェル・カーソン、オルダス・ハックスリー、メドウ・グループその他の人々が書いたもの)を読みたがらない。
だれだって働いた後に贖罪的説教をききたくはないし、石油節減や省エネルギー、浪費の削減といったことは喜ばれない。
そのうえ困ったことに、人間はよいことをするのを重荷だと思い込む習性がある。
だが人間は、疲れているときに美しさを感じとることができる。
薬屋が苦い丸薬を砂糖でつつむように、美を介することによって、自然から疎外されている働きすぎの人々に、自然界の生物を守り保存する義務の観念を植え付けることができるのではないだろうか。
ハイイロガンは、多数の都市大衆にそうしたアピールを伝えるうってつけのメッセンジャーだと、私たちは考えている。
比較的なじみ深いさまざまな動物のうちで、その行動がハイイロガン以上に人の心をとらえる動物は一種しかいない。
それはイヌである。
動物たちは道徳的責任という観念をもっていない。
彼らがおこなうことはすべて、自然の習性の産物であり、自分の家族や社会を害するかもしれないという予測によって彼らの行動が左右されることはない。
しかし動物は、自然の習性によって、ほとんどすべての場合、あたかも彼らが信頼できる予測の感覚にもとづいて行動しているかのように、確実に正しい結末に到達しうるようになっている。
動物には道徳的責任感というものは必要がない。
自然状態では、自然の習性が彼らを正しいものへと導くからである。
じつは人間にも同じような自然の習性がたくさんある。
だが文明人は理性的、道徳的な考え方により、例えば自然の習性にしたがって子どもたちを扱うのを妨げられることが多い。
子どもたちが行儀よくふるまい、かわいいと思えるのに、彼らを抱きしめてキスしてやることができない。
かと思えば、彼らがいたずらをしても、思いきりひっぱたいてやることを自制してしまっている。
それはいうまでもなく、いわゆる反権威主義的教育なるものにもとづく、とんでもないナンセンスなのである。
理性的・道徳的な考え方が文明人を過(よぎ)らせているもう一つの分野は、私たちの働くペースである。
勤勉は明らかに美徳であり、同様に怠惰(たいだ)は悪徳である。
だが、義務感につき動かされて、自分の健康を損なわずにできる以上の仕事をするようになると、他の種類のゆきすぎと同じく、勤勉は悲しむべき悪徳になるのだ。
なので、ハイイロガンたちの生態を見て学ぶべき、
”くつろぎ方”や”休み方””ひなの休息の声と眠りの声”は
”なによりも美しい、なによりも効果的な子守唄”、
決定的な写真でクローズしている書でございました。
”あとがき”での”重要な仕事”について
時代遅れのお爺さんの戯言ととるか、否か、
自分なぞ圧倒的に後者と感じ入るのでございます。
オーバーガンスルバッハによせて
日高敏隆
から抜粋
1980年5月、ぼくはアルム渓谷を訪れた。
この本の舞台であるオーバーガンスルバッハのガンたちとその研究を見るためだった。
ウィーン郊外のアルテンベルクにある壮大な自宅から、ローレンツは真っ赤なベンツを猛烈なスピードで馳って、ぼくをまずグリュウナウへ連れていってくれた。
グリュウナウ・イム・アルムタール(アルム渓谷のグリュウナウ)は、鄙びた美しい町だった。
ローレンツが常宿にしている旅館には、カストナー夫妻と美しい娘リージーが、甲斐甲斐しく働いていた。
古びた木製のテーブルの上には、かわいらしい民族衣装ディルンドルを着たリージーが毎朝庭から摘んでくる愛くるしい野の花が、小さな花瓶にあふれるほど飾ってある。
何という美しいところだろうとぼくは思った。
アウインガーホーフの研究所には、クラウス・カラスの研究しているビーバーが飼われていた。
少し離れたところには、ミヒャイル・マルティースのイノシシの親子が何組もいて、その子どもたちは楽しそうに遊びまわっていた。
いかめしい感じのヒュットマイヤー氏にも会った。
彼の案内で、家に飼われているオオヤマネコにも会わせてもらった。
あらためてこの本をひもといてゆくと、すべてがこの本に描かれているとおりであった。
朝霧も夕焼けも雨も。
ほんとうに懐かしい思いである。
初版が’84年なので、日高先生が訪れてから
4年くらいしか経っていないのに
かなり懐かしがっておられる印象。
ローレンツ博士に対する郷愁なのか
グリュウナウへ想いがそうさせるのか。
はたまたご自分の人生への思慕もあるのか。
ちなみにローレンツ博士は、’89年に85歳で
亡くなっているので
この時点ではまだご存命だったはず。
日高先生は当時54歳。
という、この本の主テーマとは思えない事に
目がいってしまう自分はやはり
ひと味違う”アホの極み”なのかもしれないが
この書は自然への”優しい眼差し”が
ひしひし感じられる書でございました。
ローレンツ博士、緑のシャツが
えらくかっこいいです!