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三島・石原慎太郎さんから伝統と新しきを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

今年2月、元政治家・作家の石原慎太郎さんが


亡くなったのは記憶に新しい。


ご冥福をお祈りいたします。


政治家になる前は、若かったし新しい価値そのもののような存在で


三島由紀夫さんからも注目された『太陽の季節』。


自分は好きな小説ではなく、そもそも最後まで読めませんでしたけど。


政治家になってから、本当に物議を醸した


昭和の父権で突き進む、ある意味強いリーダーだった気がする。


弟の裕次郎さんは、父親たちの時代のオピニオンリーダーで


父の若い頃の写真を見ると裕次郎カットしていた。


兄弟で日本のカルチャーを引っ張っていたのだろうな。


裕次郎さんでいえば、自分の頃はもう


太陽にほえろ」「大都会」で大御所扱いだった。


余談だけど「西部警察」は申し上げにくいけど


自分の感覚としては二番煎じで嫌いであまり観なかった。


 


話を慎太郎さんに戻しますと


政治家になってから三島由紀夫と仲違いしてしまい


一説には三島さんは政治を目指して先を越されたとか。


政治思想の違いも当然あったろうけど


新聞上で果たし合いをされていたのを読んだことがある。


リアルタイムでじゃないよ、全集とかで。


 


三島さんも、石原さんも、共通するのは


デビュー時に、当時の伝統的な価値観のある文壇から


理解されなかった、新しい価値の人たちだったってところかなと。


 


話変わって、生物学者の池田清彦先生の


10年以上前の書籍で石原さんを評されていた随筆があった。


 



そこは自分で考えてくれ

そこは自分で考えてくれ

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2009/03/12
  • メディア: 単行本


時は北京オリンピック(2008年)の時期、当時福田首相だった日本で、


選手たちを鼓舞する催しがあったようで。


暴走する正義 から抜粋


福田首相は、オリンピックの出場選手に

「せいぜい頑張ってください」

と言ったと伝えられる。

それを聞いた東京都知事の石原慎太郎が、せいぜいとは何事だと怒ったという。

「せいぜい」の本来の意味は「力の及ぶ限り」ということなのだけれども、石原はこの本来の意味を知らなかったらしい。

道理でヘタな小説しか書けないわけだ

もっとも福田が本来の意味で使ったかどうか。わたしは知らない。


さすが忖度のない人だけど、では池田さんのいう


うまい小説家というのは誰なのだろうか気になる。


 



バカにならない読書術 (朝日新書 72)

バカにならない読書術 (朝日新書 72)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/12
  • メディア: 新書


「勝手にノーベル文学賞」というテーマで養老先生と鼎談から抜粋


■池田

僕の「勝手にノーベル賞」は、三島由紀夫の『金閣寺』。

彼ももらうもらわないで騒がれたけど、受賞に値する作家だった。


『金閣寺』は古典的名作になり得え、世界的評価も高そうだし


そもそも比類するものがないような高みのものなんだけど。


ちなみに池田先生「鴎外VS漱石」というテーマでは


吉岡忍さんが、読み継がれているのは単に教科書に


載っているからだけじゃないだろう、を受けての


■池田

漱石の文章はいま読んでも違和感がないからだよ。

『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』は、江戸っ子の話し言葉をもとにして作ったもの。

それがいまでも読めるということは、漱石の作った文体が、結局その後の日本語になったということだよ。

その影響を受けた芥川龍之介なども同様の文体で書き継いできたものだから、その源流の漱石の作品はスッと読める。

それに比べると、鴎外の初期の作品は読めないよ。


と話されて、両者からのお薦め本を3冊


  森鴎外「かのように」

  夏目漱石「夢十夜」

  森鴎外「渋江抽斎」


余談だけど、


 太宰治の三作

 『晩年』『斜陽』『津軽』


でもって、話をまた石原慎太郎さんに戻す。


完全なる遊戯』(1958年/昭和33年)という小説について、


三島由紀夫さんが最後の対談でコメント。


対談相手は文芸評論家の古林尚さん。


全共闘の若者の話からの流れで。


■古林

石原慎太郎が『完全なる遊戯』を出した時、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、10年か20年先には問題になるだろう、と書いていたように記憶してますが…。

■三島

あれは今でも新しい作品です。

白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃の彼は書いていますね。

ぼくはよく書いていると思います。

ところが文壇はもうメチャクチャにけなしたんですね。

なんにもわからなかったんだと思いますよ。

あの当時、みんな、危機感を持っていなかった。

そして自由だ解放だなんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間を解放することが人間性を解放することだと思っていた。

僕はそれは大きな間違いだと思う。

人間性をそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるか分からない。

つまり現実に起こる解放というものは全部相対的なもので、スウェーデンであろうがどこの国であろうが、ルスト・モルト(快楽殺人)というものは許されない、人間が社会生活を営む以上は。

そういう相対的な解放の中では、セックスというものは絶対者に到達しない。

したがってパラドキシカルに言えば、戒律がないときには絶対に到達できない。

だからカソリックというのはすごいですよ。

あれはもっともエロティックな宗教です。


最後の方は、石原慎太郎と話が飛躍してしまってるけど、


三島さんも小説家として石原さんは最後まで評価されていたようだ。


スウェーデンが引き合いに出されてるのは、ちと分からない。


多分重いテーマのものだろうことは想像できるけど。


 


『完全なる遊戯』は自分はなんか心に引っかかって、


戦後短編をまとめたものをだいぶ前に買ってあって


今思うとヘヴィな時期に読んでみた。


だからってわけでもなかろうが、かなり衝撃的で、


発表時は昭和30年代だろ、これは反発食うわと思った。


これ読んだ時は自分も50歳過ぎてたから


当時の文壇の人たちに近い気持ちだったのだろう。


でも、僭越ながら思うのだけど


本当はそれこそが文学の役割で


いわゆる作品が優れた「批評」になっていた頃の


「時代」だったのかな、なんて。


 


余談だけど、「伝統的な価値観」って良い表現だよね。


「古い価値観」っていうと波風立つでしょ。


悪意のある意味で使ってなかったとしても。


これ、先日夜勤の休憩中にテレビ観てたら、


大リーガーの大谷翔平との対立した概念風に


NHKの番組で言ってて、思わず膝を打ったよ。


って表現が古いね、自分も。


伝統的な価値観に染まり始めている証拠だよ、これは。


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