SSブログ

だましだまし人生を生きよう:池田清彦著(2008年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


だましだまし人生を生きよう (新潮文庫)

だましだまし人生を生きよう (新潮文庫)

  • 作者: 清彦, 池田
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/12/20
  • メディア: 文庫

進化系の話もあるけれど、


珍しく自伝的な要素で構成されてて


なぜなら、若い科学者向けという良書だった。


毎晩少しづつ読み進めて読了。


まずは、池田節のダーウィニズムへの考察。


III 構造主義生物学を始める


ネオダーウィニズムに疑問を持つ から抜粋


進化論で有名なダーウィンの立てた理論をダーウィニズムという。

ダーウィニズムはおおよそ、次のような理論枠から成っている。

 

① 生物には変異があり、変異のいくつかは遺伝する。

② 生物は生き残るよりもずっと多くの子を産む。

③ 環境に適した変異を持つ個体は、そうでない個体に比べ、生き残る確率が高い。

④ その結果、環境に適した変異を持つ個体は、世代を重ねるごとに集団中での比率を徐々に高めるに違いない

 

要するにダーウィンは、生物は多少なりとも変異を持ち、変異は遺伝するという事実を生物の多産性から、生物が進化するものであるとの結論を導いたのである。

しかし、考えてみれば、生物の変異性と多産性は生物の持つ基本的な性質であるから、ダーウィンは、生物でありさえすれば進化をする、ということを言っているにすぎないとも言える。

私の考えによれば、ダーウィンは生物と進化するものは、実はおんなじだと言った最初の人なのである。

これは大変な発見ではあったけど、進化のメカニズムの解明になっていないと、私は思ったのである。


ダーウィンの同時代(19世紀)の人にメンデルがいて、遺伝の法則で有名である。

当時メンデルは無名であったため、ダーウィンはメンデルを知らなかった。

メンデルは形質の原因は遺伝子という不変の実体であると主張した最初の人である。

遺伝子が変化すると形質が変化する。

だから生物の形の変異は、遺伝子の変異に還元できる。

メンデルの理論からはこのようなことが言える。

メンデルの理論が再発見されたのは1900年のことである。

遺伝子が変化すれば形が変わるのであれば、進化の原因は遺伝子の変異に直接結びつけられるはずだ。

ほとんどの生物学者はそう思った。

ところが、ことはそれほど単純ではなかったのだ。

遺伝子が突然変異を起こして、それで種が変化するようであれば問題はない。

こうなれば、突然変異は即、進化である。

しかし、染色体が倍化して生殖隔離が成立するオオマツヨイグサのような特別な場合を除いて、そういうことはほとんどない。


多くの場合、遺伝子の突然変異は微細な変異しか起こさない。

もとの集団との間で生殖隔離が成立せず、交配の結果、変異は集団の大海の中に拡散していってしまう。

突然変異自体は偶然生ずると想定されている。

しかし、進化は普通、単純から複雑へ、下等から高等へと進む。

この方向性はどのようにして生ずるのか。

そこで、ダーウィンの自然選択説をメンデル理論に取り入れたのが、ネオダーウィニズムである。

すなわち、ネオダーウィニズムはダーウィンの理論とメンデルの理論を合体したものである。

これは1940年代に確立して、現在もなお主流の進化理論である。

それは単純にいえば、次のようなものである。


① 生物には変異があり、変異のいくつかは遺伝子が原因である(新しい変異のいくつかは、突然変異した新しい遺伝子が原因である)。

② 生物は生き残るよりもずっと多くの子供を作る。

③ 環境に適した変異の原因となる遺伝子(を持つ個体)は、そうでないものに比べ、生き残る確率が高い。

④ その結果、環境に適した変異の原因となる遺伝子(を持つ個体)は、世代を重ねるごとに集団中での比率を徐々に高めるに違いない。


ネオダーウィニズムの理屈では、遺伝子の突然変異は偶然であり、それが集団中で優勢となるのは、自然選択の結果である。


難しい…です。ダーウィンの論では足りてないってのは何となくわかる。


これ並べてみると分かりやすいのかな、ってあくまで池田さん視座の要点の比較。


■ダーウィニズム4つの要点

 ① 生物には変異があり、変異のいくつかは遺伝する。

 ② 生物は生き残るよりもずっと多くの子を産む。

 ③ 環境に適した変異を持つ個体は、

 そうでない個体に比べ、生き残る確率が高い。

 ④ その結果、環境に適した変異を持つ個体は、

 世代を重ねるごとに集団中での比率を徐々に高めるに違いない


■ネオダーウィニズム4つの要点

 ① 生物には変異があり、変異のいくつかは遺伝子が原因である

 (新しい変異のいくつかは、突然変異した新しい遺伝子が原因である)。

 ② 生物は生き残るよりもずっと多くの子作る

 ③ 環境に適した変異の原因となる遺伝子(を持つ個体)は、

 そうでないものに比べ、生き残る確率が高い。

 ④ その結果、環境に適した変異の原因となる遺伝子(を持つ個体)は、

 世代を重ねるごとに集団中での比率を徐々に高めるに違いない。


なるほど、こうして、進化論はバージョンアップを


繰り返し精査されていくのかなーと。


間違い探しみたいだよな、②と③なんて、


見過ごしそうで、久々にdiffを使ってしまった。


ここから毛色が変わりまして、池田さんのプライベートにフォーカス。


池田さんって文章上手だし、詩みたいな感じがするなあ。


石原吉郎吉岡実田村隆一富岡多恵子が好きとの記述もあったけどね。


死ぬ前に本を書かねば! から抜粋


私はこの年の初夏に増富に虫採りに行って、自動車ごと谷に転落する事故にあった。

私は運転しながら、飛んでいる虫を目で追うことが多く、種名がわかって普通種であればそのままやり過ごし、種名が判明しない奴や、珍品らしいときは、自動車を止めて、その虫を追いかけて採ろうと考えていたのである。

このときも珍品らしそうなカミキリを、車を運転しながら目で追っていたのであるが、車を止めるべきかどうかの判断がなかなかつかない。

もっとよく見ようと思った矢先、車はゴトンと谷に向けて転落の一歩を踏み出していたのであった。

車が谷へ落ち始めるときは、実にゆっくり落ち始める。

しかし途中から加速度がつき、ピュー、ドスンと谷へ落ちた。

落ちる瞬間、私は何を思っていたか。

構造主義生物学の理論書を書いておくべきだった。

私が思ったことは、ただそれだけだった。

この話を少しあとで、当時、山梨大学の学長をされていた小出昭一郎さんにしたら、小出さんは、

「なんと学問に打ち込んでいるのだろう」と私をほめてくれた。

同じ話を女房にしたらところ、

「自分が死んだら、女房、子供はどうなるのだろう、とまず最初に考えなくてはいけません」と言われてしまった。

谷に落ちた私は、幸い命に別状はなさそうだったが、顔は切れて血だらけであり、全身アザだらけであった。


大事に至らず幸いでしたが、奥様のいうことごもっともでございます。


でも、男ってそんなもんなのかねえ。やだねえ。


自分も会社員を長くやってて洗脳されてたからなんとなくわかるような。


時は戻り、1970年代半ばくらいか。


若かりし池田先生にも幸福な新婚時代が。


そして奥様には試練が。


II 生物学者の卵だったころ


赤貧洗うがごとき新婚時代 から抜粋


私は女房の家に電話というものをめったにかけなかった。

だから女房の両親は、私という存在そのものを知らなかった。

いきなり見知らぬ男が現れて、娘をくれと言われればたいがいはびっくりする。

私は今でも、女房の母親に初めて会ったときの、彼女の唖然とした顔が忘れられない。


結婚資金なんていうものは、もちろんゼロだった。

結婚するのに資金が必要だという観念がそもそもなかった。

私はただ、この子と結婚できるというそのことだけがうれしくて、それ以外のことは要するにどうでもよかったのである。


結婚した当初は赤羽に住んでいた。

8畳一間の間借りであった。

金はなかった。若さだけがあった。

私は25歳になったばかり、女房は23歳であった。

ただ女房がそばにいるというだけで、わけもなく幸せであった。


おかずは干物一枚という日もあった。あまりの貧乏におかしくて笑ってしまった

しかし私は全然落ち込まなかった。

自分の才能は無限であり、いざとなったら何とでもなると思っていたのである。


長男は生まれたばかりで、まだ託児所では預かってくれず、私が家で面倒を見ていた。

それでも日曜日には日帰りでよく虫採りに行った。

赤ん坊の面倒を見ると言っても、私はもともといい加減で、女房ほど手が行き届かなかった。

女房はこの頃のことを振り返って、離婚することばかり考えていた、とあとで言った。


定時制高校の先生から山梨大学の専任講師へ から抜粋


七七年の秋に次男が生まれ、女房は会社を退職した。私が無理やりやめさせたと言ったほうが真実に近い。

研究と高校教師とカミキリ集めと三足のわらじをはいていた私は相変わらず家事もせず、子供の面倒も見なかった。

女房が専業主婦にならない限り、赤ん坊の世話は不可能であった。

製薬会社の研究員として、博士の学位を取ることを目指していた女房の夢を砕くのは気の毒であったが、是非もなかった。

私はわがままで、自分のやりたいことしかやらず、そのためには女房の希望などは考えないひどい夫であった。

1978年の暮れに、私にとっては、女房と結婚した次くらいにうれしい出来事があった。

私は山梨大学の専任講師として採用が決まったのである。


ひどい…、ひどすぎる。奥様の人生を何だと思っているのだ。


って、自分も振り返ると身に覚えがないこともないような。


しかも、時は70年代日本だと、そういう時代だったのかあ、なんて。


研究員といっても女性の社会進出や男女雇用機会均等法とか考慮すると


時代というのも大きく影響しているように思う。


そしてかなり時流れ、研究の傍ら、執筆活動もする


池田先生ならではのアティチュードが。


III 構造主義生物学を始める


DNAが変わっても大きな進化は起きない から抜粋


私は1993年から94年にオーストラリアに約1年間留学するが、ちょうど出発の頃、『宝島30』が創刊され、オーストラリアからほぼ毎号、この雑誌に寄稿した。

オーストラリアに在留しているという気安さも手伝って、この雑誌にはずいぶんと過激なことを書いたような気もするが、私はいつ誰とでもケンカをする気は十分であったので、罵詈雑言を書きまくって気分は爽快であった。

この頃の文章は『思考するクワガタ』(1994年)に収めてある。

『科学は錯覚である』(1993年)に比べてあまり売れなかったが、私としてはこの本のほうが面白いと思う。


こ、怖い…。ケンカ上等、売られたら買います的な。


まさにインテリヤクザ。普通じゃない。


しかし、だからこそ面白いとも言える。


それと池田先生の書籍を読んでて感じることなのだけど、


作家の井上靖さんが村上龍さんを評した「うっすらとした哀しみ」のようなのが


文章から漂っている気がするのは自分だけかね。


それにしても喧嘩も辞さないような言説を書籍で出せる土壌は


学者であることと、宝島社という忖度なしの


コラボだからできたのだろうな。


オーストラリア博物館に留学する から抜粋


池田先生、在留中に二人の子供と三人で国立公園で虫採り、二十種類以上、三千匹を超える


甲虫、カナブンやジョウカイ、タマムシを採ったときのこと。


さすがにオーストラリアの虫仲間も驚愕。


アレンもこんなことはめったにないと言ってくれた。

私にしてもこんなに虫を採ったのは空前である。

もしかしたら絶後かもしれない。

至福のときというのは確かにある。

しかし、それは一瞬である。

それはタマムシを採った私たちだけでなく、花に蝟集(いしゅう)して食や性の饗宴の限りを尽くしたタマムシたちにしても同じであろう。

数日後に、ロイヤル国立公園は大火に見舞われ、タマムシもユーカリもすべて灰燼(かいじん)に帰したのだから。

タイムスケールの違いはあるにせよ、もしかしたら、人も虫も一瞬の至福のために生きているのかもしれない。

マスとしての人間に生きる意味や目的などありはしない。

人は生まれて成長し、子供を作り、やがて老いて死ぬだけだ。

一生のうちで一瞬でも、これで死んでも悔いはないという至福の瞬間を持つことができたならば、もって冥(めい)すべきなのかもしれない。


マスで見たら、そらそうなのかもしれない。


でも人間ってどうしてもニッチというか、


ミクロでしか見れませんからね。


それは置いておいて。池田先生、オーストラリアにて


至福のときを過ごしたはずなのに、


日本で念願だった虫を採った後、養老先生が


「池田君もこれで安心して死ねるに違いない」といったのに対して


あとがき(2008年) から抜粋


冗談ではない。日本産のすべてのカミキリムシをネットインするまでは死ぬわけにはいかないのである。


何とも、欲深いお人でございます。


 


nice!(27) 
共通テーマ: