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「絆」を築くケア技法 ユマニチュード: 人のケアから関係性のケアへ :大島寿美子/イヴ・ジネスト /本田美和子著(2019年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「絆」を築くケア技法 ユマニチュード: 人のケアから関係性のケアへ

「絆」を築くケア技法 ユマニチュード: 人のケアから関係性のケアへ

  • 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: 単行本

腰痛で休んでいる間、読んでいた書籍。

2022年、最後の本でした。


勤務前、コンビニの駐車場でも


読んだりしてたってのは


どうでもいいことでした。


序文 本田美和子


から抜粋


私は米国で老年医療を学び、帰国してからも臨床医として働いてきましたが、脆弱な状況にある高齢の患者さんに私たちが届けたい医療を受け取ってもらうことの難しさを日々感じていました。

とりわけ認知機能が低下している方々への対応には、医療・介護従事者のみならず、ご家族も社会も新たな取り組みが必要となる時代になってきたことを痛感する中で、フランスにこれまでとは異なるやりかたでとても穏やかに受け入れてもらえる技法があることを知り、2011年の秋にフランスに見学に行きました。

そこで見たものは

「ケアする人とは何か」「人とは何か」を考え

「あなたのことを大切に思っています」

というメッセージを相手が理解できる形で届けるために、複数のコミュニケーションの要素を組み合わせて同時に実践する、というケア技法「ユニマチュード」でした。


第一章 自律を保証するケア~フランスのユニマチュード認証施設の取り組み


から抜粋


壁際に置かれている機械をジネスト氏が見つけた。

立位補助機だ。

ジネスト氏が使い方を実演する。

椅子に座った状態で背中に柔らかなクッション付きのベルトを回す。

足を台の上に乗せ、膝を板状のパッドにつける。

ベルトをハンドルに取り付け、ハンドルを握ってもらう。

スイッチを入れるとハンドルが斜め上に上がり、身体が伸びて立てる仕組みだ。

背中のベルトに寄りかかることができるので、膝の力が弱い人でも立位を保持できる。

「これで立って保清ができます」とジネスト氏。

「これがあるおかげで職員の負担軽減にも役立っています」と施設長が言う。


「立位補助機」のある施設は、


そうそうないのではなかろうか。


知ってる施設という狭い範囲なのだけど。


ここでも格差社会は否定できない


現実なのだろうか。


だとしても、この技術で


ご利用者や患者の健康を維持向上でき


家族の負担も減るのであれば


これから多く受け入れられるのは


必定なのだろうなと感じた。


一同が驚いたのは夜間の排泄のケアについての説明だ。

看護部長のソフィーさんが言った。

「夜におむつ替えはありません」。

ジネスト氏が続ける。

「ユニマチュードでは寝ている人を特別な時以外は起こしません」。

おむつを替えるために起こすということはない。

夜間のおむつ替えをしないことでコストも安くなる。

入居者一人当たりのおむつ代は国平均の約半分に抑えられているという。


ジネスト氏によると、以前にこの施設を視察したカナダの施設の関係者が驚いていたという。

カナダの高齢者より若々しく元気に見えたからだそうだ。

「年齢が若いからではと言われたが、年齢はフランスの方が高かった。

どちらもアルツハイマー型認知症で認知機能もほぼ同じなのに、カナダの施設の関係者には軽度に見えた。

状況は同じでもケアの方法でこんなに違うんです。」

ジネスト氏によると、フランスでは行動障害のある認知症の高齢者は、平均すると約3年間施設で暮らし、そのうち2年間は寝たきりである事も多い。

しかし、ユニマチュードのケアを取り入れている施設では、4年間穏やかに暮らすことができ、寝たきりになるのは亡くなる前のおよそ一週間だけだという。

ジネスト氏はこうもいう。

「重度の認知症の高齢者に経管栄養を行う施設も多い。しかし見てください、ここに鼻からチューブを入れている人はいますか?一人もいないでしょう」。

言われてみれば確かに鼻からチューブを入れている人はいない。

施設は明るくきれいで、出会った入居者は穏やかに暮らしを楽しんでいるように見えた。

「そういえば大きな声を出したり、怒ったりしている人もいなかったなあ」。

ケアの仕方にもよるものだとジネスト氏は言うが本当なのだろうか。

ユニマチュードを宣伝したいからそう言っているんじゃないだろうか。

うがった考えも頭に浮かんでくる。


そういう側面ももちろんあるだろうと思う。


ジネスト氏は研究所を構え、


運営していかないとならないようなので。


とはいえ、動機は何なのか気になるところ。


それは、若い頃に端を発しているようで


ビギナーズラックとでもいうべき、


余計な知識がないから


発見しうることだったのかも、というエピソードが。


第二章 互いを認め合うケア~ユニマチュードの哲学と技術


それは驚きから始まった から抜粋


ユニマチュード誕生のルーツとなる印象的な逸話がある。

今から40年前、創始者であるジネスト、マレスコッティ両氏がまだ20代の頃の話だ。

二人は体育学の専門家として、看護師を対象に腰痛予防教育をする仕事をしていた。

ある日、ジネスト氏は、身体の大きな男性患者のケアに立ち会うことになる。

脳血管障害で半身麻痺の男性。

ベッド上の清拭、着替え、車椅子の移乗が日課だが、移乗の介助で看護師が腰痛を起こしており、見本を見せてほしいと頼まれていた。

目を閉じたまま、話をする事もない男性。

看護師たちが手際よく清拭を行っていく。

看護師も患者に話しかけることはない。

着替えが終わった。

次はベッドから車椅子への移乗だ。

実はジネスト氏にとってこれが初めてのケア体験だった。

男性の状態が見るからに重篤そうだったため、正直言ってどのようにすればいいかわからない。

混乱の中で思わず出たのが次の言葉だった。

「車椅子に座っていただきたいのですが、起き上がれますか」。

すると男性は目を開け、ジネスト氏の手を取って自分で起き上がりベッドの端に座った。

そして誘導に従ってジネスト氏の身体をつかみ、車椅子に自分で乗ったのである。

驚いたのは看護師たちだ。

というのも男性はケアの最中に自ら動こうとしたことがまったくなかったからである。

「私たちがやるときまったく反応がないのになんで?」。

しかし、ジネスト氏はむしろ彼女たちの反応に驚いたという。

なぜなら、看護師たちは、動けるかどうかを本人に尋ねていなかったからだ。

この体験からジネスト氏に生まれたのは、患者ができることまでケアをする側がやってしまっているのではないかという疑問だった。


第三章 点から面へ~日本でのユニマチュードの広がり


ユニマチュード、学校へ から抜粋


2019年4月。

北海道のある大学の看護学科の一年生約90名にジネスト氏が話しかけた。

「患者さんのことを大事にしたいと思いますか?」

学生たちがうなずく。

「人の尊厳は大切だと思いますか?」

学生がうなずく。

「日本は民主主義ですか?」

「イエス」と声が上がった。

「ありがとう。民主主義って何ですか?」

学生たちが真剣な眼差しでジネスト氏を見つめている。

ジネスト氏が黒板にこう書いた。

「DEMOS CRATOS」

「これが語源です。DEMOSは人々ということです。みなさんと私。

CRATOSは権力です。人々が力を持っているということなんです。

2500年前のギリシャの哲学者が民主主義という概念を作った。

哲学から生まれた。

でも王様や皇帝がいる国では民主主義はなかった。

1789年にフランス革命が起き、人権という新しい概念が生まれました。

人権は大事でしょうか?

もちろんです。

私たちの社会ではとても重要な基礎概念です。」


フランスならではの発想なのかもしれない、この技術。


人権、尊厳。あと普通に、自由、平等、博愛。


これにも色々な言説ありますけど、


それはひとまず置いといて。


フランスというか、ヨーロッパならではなのかな。


イヴ・ジネスト氏インタビュー から抜粋


技法にユマニチュード(Humanitude)と名づけたのはなぜですか?

ジネスト■

ユニマチュードという言葉は特別な意味を持っています。

それは「人類」とも「人間性」とも違います。

ユニマチュードとは、人間と良い関係性を結ぶための科学と哲学です。

ユニマチュードという語を最初に知ったのはスイス人の作家が書いたエッセイのタイトルとしてでしたが、その語に私たちは独自の定義を与えました。

「ude」で終わる語は深くて重要だという意味が付け加わります。

例えば、sole(たったひとり)にudeが加わるとsolitude(孤独)、fin(終わり)にudeが加わるとfinitude(有限性)になります。

Humanitudeは、人(Human)の後にudeがついていることで、深遠な気持ちが加わるのです。

人間らしくあること、あるいは人間らしさを取り戻すこと、が意味になります。


「ヒューマニチュード」が正しくは、なのだね。


日本語にない発語で、「ユニ」になってしまうのかね。


どうでもいいことだけど。


おわりに 大島寿美子 から抜粋


ユニマチュードについては興味を持っていたものの、技術については何も知らなかった。

インストラクターが入居者に関わる様子を見学したが、何が起きているのかよくわからず、

「魔法」のように劇的に変わる瞬間もなかった。

だが、不思議なエネルギーを感じた。

ふと頭に浮かんだ言葉が、「いま、ここ」だった。

昨年1年間、フランスの施設を視察し、10週間のインストラクター研修に参加し、日本での研究や実践の現場を取材して、あの時の感じは、今この瞬間に「良い関係を結ぼう」とするエネルギーだったのだとようやくわかった。

私は、ケアの技術は、ユニマチュードしか知らない。

インストラクター研修では、それがかえって良い結果をもたらした。

他を知らなかったために、先入観や価値観が邪魔しなかったのが幸いした。

私に取っては未知の参与観察のフィールドだった。

毎日が発見の連続で、他の研修生の現場の話からも学ぶことが多かった。

ケアをする人たちの苦労や努力を知ることができた。

なにより、実習先の病院や施設でケアさせてもらった経験は強烈で、いまもその感覚ははっきりと身体に残っている。

それは、ユニマチュードの技術を見て、話し、触れたからこその経験だったと思う。

特に私は、ケアをする人とケアを受ける人の関係に注目していた。

言い換えると、援助者と非援助者の関係がどのように変わるのかに注目して、フランスで行われているユニマチュードの実践を観察し、ユニマチュードの理論と実技を学び、ユニマチュードを活用した教育や研究の現場を見てきた。

その点から見たユニマチュードの魅力は、援助者と被援助者という非対称の関係に生じている緊張を具体的なコミュニケーション技術で解消できることにある。


いろんな仕事にも通じるのだろうけど


患者・ご利用者との「良き関係性」というのは


「良い仕事」を育むのには必須だからね。


あと「エネルギー」というか「熱量」かね。


暑苦しくない程度で、実力から来るような


恬淡としたもので。


ユニマチュードについて感じたことは


「技術」とか「技法」というよりも、


ジネスト氏いうように「科学」と「哲学」なのかな。


実証実験からの検証でエビデンスを残し


2019年から日本でも学会が設立されているようで。


発行年から考えるとそのプロモーションなのだろうね。


正直に言ってしまうとフランスには


30年前、2−3日旅行した程度で何ともはや


あまり良い印象のない自分なのだけれど


営利目的ではない、こうした高い志を持った


技術、技法、哲学によって


一人でも救われることを切に願う次第です。


それよりも、早く風呂入って寝ないと!


ブログ書いている場合じゃない。


明日、仕事でした。


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そのうちなんとかなるだろう:内田樹著(2019年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


そのうちなんとかなるだろう

そのうちなんとかなるだろう

  • 作者: 内田樹
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2019/07/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


帯にあるコピーから抜粋。


 

直感に従って生きてきた思想家の

悔いなき半生記

 

いじめが原因で小学校「登校拒否」

受験勉強が嫌で「日比谷高校中退」

親の小言が聞きたくなくて「家出」

大検取って東大入るも「大学院3浪」

8年間で32大学の教員公募に「不合格」

男として全否定された「離婚」

仕事より家庭を優先して「父子家庭12年…」


これらのことを事前に知っていたら、


内田先生の書籍を手にする人は


こんなにいただろうか、


とは要らぬお節介である。


自分はなんか、いろいろな謎が解けて


内田先生の他の書籍を本腰入れて


読もうと思った。


腰痛が治ってきた今だから。


 


紆余曲折、いろいろあってシングルで子育てを


引っ越しした赴任先、神戸で教鞭をとる中


周りの方達の配慮から、週2日勤務以外


合気道の練習だけという恵まれた生活となり


娘さんとの時間に多くを割いたご様子。


 


第2章 場当たり人生いよいよ始まる


仕事で成功することを求めない から抜粋


すべてにおいて家事育児を最優先することにしました。

家事育児のせいで、研究時間が削られた。子供のせいで自己実現が阻害された

というふうな考え方は絶対にしない

朝晩きちんと栄養バランスのとれたおいしいご飯を作って、家をきれいに掃除して、服を洗濯して、布団をちゃんと干して、取り込んだ洗濯物にきれいにアイロンかけして、服のほころびは繕って…ということができたら

「自分に満点を与える」

ことにしました。

家事育児仕事が終わって少しでも時間が残っていたら、それは

贈り物

だと思ってありがたく受け取る

その

「贈り物としての余暇」

に本を読んで、翻訳をして、論文を書く。


うわー、耳が痛い!痛いですよ!


研究者じゃないけど自分は。


これは妻に絶対、読ませられない。


こんなパパ、素敵すぎる。


申し訳ございません!


 


空き時間は天からの贈り物 から抜粋


それから数年したら、今度は大学の管理職という年回りになりました。

2005年に教務部長に選ばれた時も

「しばらく研究は諦める」

決意をしました。

自分が赴任してきたときに、先輩たちから

「若いときは思い切り研究しなさい。学務はわれわれ年長者がやる」

と言われました。

その代わり、僕らが彼らの年齢になったら、今度は若い人たちの研究を支援しなければならない。

こういう仕事は順送りです。

僕と娘が二人で「することがない」生活を送れたのは、諸先輩方が裏で大学を運営するという面倒な仕事をこなしてくれていたからです。

今度は僕がその仕事をする番になった。

教務部長として出勤した初日に課長から

「出なければならない委員会のリスト」

を渡されました。

「いくつあるの?」

と聞いたら

「47です」

と言われました。

気が遠くなりそうでした。

研究棟に僕の研究室がありましたけれど、打ち合わせのためにいちいち教務課と往復するのが面倒だったので、教務課の奥にあった教務部長室に身の回りのものだけ持って引っ越ししました。

毎日教務の仕事と授業のために出勤する。

会議と会議の合間、授業と授業の合間にたまたま空き時間があったら、その時間を天からの「贈り物」と思って、そこで本を読み、原稿を書く。

そこで本が読めたり、原稿が書けたりしたら、それは

「ボーナス」

だと思う。

育児の時に僕が採用したルールがそのままです。

こうしたほうが精神衛生上、楽なんです。


あらゆる仕事には、

「誰の分担でもないけれど、誰かがしなければいけない仕事」

というものが必ず発生します。

誰の分担でもないのだから、やらずに済ますことはできます。

でも、誰もそれを引き受けないと、いずれ取り返しのつかないことになる。

そういう場合は、

「これは本当は誰がやるべき仕事なんだ」

ということについて厳密な議論をするよりは、誰かが

「あ、オレがやっときます」

と言って、さっさと済ませてしまえば、何も面倒なことは起こらない。

家事もそうです。

どう公平に分担すべきかについて長く気鬱なネゴシエーションをする暇があったら、

「あ、オレがやっときます」

で済ませた方が話が早い。

ですから、最初から

「家事は全部オレの担当」

と内心決めておいた方がメンタル面では気楽なのです。

相手に期待せず、押しつけず、全部自分でやる。

だから、相手がしてくれたら

「ああ、ありがたい」

と感謝する気持ちになれる。


このブログでも何度もご紹介させていただいている


ラジオデイズ」で


アゲイン10周年記念鼎談(2017年)


を昨夜聴いた。


武蔵小山にあったLive Cafe Again10周年の為


店主と内田さん、平川克美さん三人は


高校時代からの友人で大学を経て


社会人となり仕事仲間という戦友。


自分は10年以上前から、このメンツに


大瀧詠一さんを加えた「大瀧詠一的」を何度も拝聴。


何度も聞く理由は、「大瀧詠一」さんが


大きな理由でもあり続けるだろうけれど


もっと大きな理由はこの三人だったのだと


確信した。


この三人はとにかく類をみないような面白さで


でも、それはどこにでもいる、戦友だからなのだ


ということだった気がする。


 


あとがき から抜粋


そういえば、僕よりちょっと年長だと、椎名誠さんの『哀愁の町に霧が降るのだ』がありますよね。

これは1950年代末の「時代の空気」についてのとても貴重な記録だったと思います。(これに類するものを僕は他に知りません)。

本書も椎名さんより少し年下の人間が書いた60年代終わり頃の『哀愁の町』のようなものと思って読んでいただけたらうれしいです。


「自分らしさ」という言葉があまり好きじゃないのですが、それでもやはり「自分らしさ」というのはあると思います。

ただ、それはまなじりを決して「自分らしく生きるぞ」と力んで創り出したり、「自分探しの旅」に出かけて発見するようなものじゃない。

ふつうに「なんとなくやりたいこと」をやり、「なんとなくやりたくないこと」を避けて過ごしてきたら、晩年に至って、「結局、どの道を行っても、いまの自分と瓜二つの人間になっていたんだろうなあ」という感慨を抱く…というかたちで身に浸みるものではないかと思います。


「あなたがほんとうになりたいもの」、それが「自分らしい自分」「本来の自分」です。

心と直感はそれがなんであるかを「なぜか(somehow)」知っている。

だから、それに従う。

ただし、心と直感に従うには勇気が要る

僕が我が半生を振り返って言えることは、僕は他のことはともかく

「心と直感に従う勇気」については不足と感じたことがなかったということです。

これだけは胸を張って申し上げられます。

恐怖心を感じて「やりたいこと」を断念したことも、功利的な計算に基づいて

「やりたくないこと」を我慢してやったこともありません。

僕がやったことは全部「なんだかんだ言いながら、やりたかったこと」であり、僕がやらなかったことは「やっぱり、やりたくなかったこと」です。


こうありたいし、なんか、


かなり近いのではないかという


僭越で恐縮ながら、


そんな気がする、自分自身も。


 


紆余曲折、人に歴史あり、


何もない人ってそうそういないし


それはつまらないものだとも思う。


 


2010年に亡くなった母親に生前病室にて


「どういう人生が幸せなのかねえ」


と聞いたら、こう答えた。


「そうねえ…なにもないのがいいのではないかねえ」


 


きっとそんなことはありえないって


ことも知っての回答だったのだな、と


なぜか内田先生の書籍を読んで


思い出し、考えてしまった。


今月命日があったので家族で墓参りしたのも


影響したのかもしれないな。


 


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なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門:岡田斗司夫・福井健策共著(2011年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門

なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門

  • 出版社/メーカー: CCCメディアハウス
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: Kindle版

内田樹さんの書籍に、岡田さんの個人情報に対する

考え方のことで紹介されていたので


題名で関係ありそうな書籍を選んで読んでみた。


福井さんは著作権を生業とされている


ニューヨーク州弁護士でお二人の対談。


 


chapter 02


著作権は敵か?味方か?/プラトンとアリストテレスとダイエット から抜粋


■岡田

話がちょっとずれてしまうのですが、前にプラトンとアリストテレスの論争という寓話を読んだことがあります。

この寓話にはおかしなことが書いてあって、プラトンが人の意見を文字として記そうとしたら、これにアリストテレスが反対するというのです。(※1)

実際にそういう論争があったかどうかではなく、あくまで寓話なんですけどね。

プラトン側は、意見は文字にして紙なり粘土板なりに記すことで、客観性を持った実在になり、それが情報として流通できるようになるという。

これこそが意見であり、それを戦わせるのが議論であるべきだという。

アリストテレス側は、そんな風にしてしまうと、最初に意見を述べた人の人格や重み、言葉のニュアンスといった要素がすべて消え失せてしまう、そう反対したそうです。

 

※1 プラトンとアリストテレス

=古代ギリシアの哲学者プラトンの主張は実在しているのは完全な「イデア」であり、人間が感知できる現象界はイデア界の似像だというものである。

これに対して、プラトンの弟子のアリストテレスは、感覚で捉えることのできる個別のものこそが実在であると説いた。

普遍的なものが存在するかどうかという。

「普遍論争」は中世スコラ哲学の主要なテーマともなっていく。

 

■福井

なるほど。

 

■岡田

なぜこんな話をしたかというと、自分の意見が一人歩きするという経験をしたことがあるからです。

僕は以前に『いつまでもデブと思うなよ』というダイエット本を書いたのですが、この中でメガマック(※2)のエピソードを取り上げました。

メガマックをものすごく食べたくなった僕は、自分自身をコントロールするために、メガマックを8つに分け、ひとつだけを食べて残りをぽーんと捨てたんですよ。

 

※2 メガマック=

マクドナルドが販売していた巨大ハンバーガーのシリーズ。

日本国内では、2006年に首都圏で試験販売を開始。

ひとつのハンバーガーに4枚ものパテが入っており、750キロカロリー以上ある。

現在はメニューにはないが、2011年5月~6月に限定発売された。

 

■福井

うわ。

 

■岡田

これをやると心はすごく痛むんだけど、なんとかメガマックを味わいつつ完食するのだけは我慢できた、そういう達成感を得ることができたんです。

 

■福井

はは(笑)。


■岡田

だけど、「メガマックを8つに分け、そのうちひとつだけを食べて残りをぽーんと捨てた」という箇所だけ読んだら、「メガマックを切って捨てたら痩せると、岡田斗司夫は言っている」、そういう風に読むこともできてしまうわけです。

現にツイッター上でそうやってツイートしてる人も少なからずいるんですよ。

「岡田斗司夫はメガマックの4分の3を捨てれば痩せると言っている」

「それは、バカだろ」

そんなやり取りも行われていたりする。

僕の書いた本から、該当箇所だけを抜き出して引用し、「岡田斗司夫はこう言っている」というのは間違い無いでしょう。

けれど、ツイッターの140文字制限の中で、前後の文脈抜きにそこだけ引用されると意味が変わってきてしまう。

こういう言い方が正しいかどうかはわからないけれど、アリストテレスにしてみたら「僕はそんなつもりで言ったんじゃないよ!」と文句を言いたくなってしまう(笑)。

 

■福井

ふーむ、すごく庶民的なアリストテレスですね。

 

■岡田

自分が発表した意見を他人が自由に利用してもいいと言われると、「おいおいちょっと待って、僕の意見の使い方は僕にコントロールさせてよ」という気持ちになるんですよ。


■福井

意見を表明した人が使い方までコントロールしたいという欲求は、まさに著作権の基本権の基本的思考に関わってきます。

 

現在の著作権は、独占コントロール権を軸として構築されます。

著作物をどう利用するかについていえば、クリエイターがほぼ独占的にコントロールして、影響を及ぼせるようになっているんです。

先ほどの寓話でいえば、アリストテレス的な、「人格の発露としての情報」という意識がより強いということになります。

こちらが、大陸法的(※3)な著作権の考え方だといえるでしょう。

大陸的な考え方では、著作物はクリエイターの人格を体現したものです。

儲かるとか儲からないとかではなく、著作物はその人の分身なんだと。

だから、他人が著作物を勝手に使うことはできない。

言ってみれば、天賦人説(※4)の立場ですね。

これに対して、先ほどの寓話のプラトンの視点だと、表に出て流通している情報は、ある程度著作者からは独立した存在に聞こえる。

世に出てしまった作品は、もはや情報として独立しており、クリエイターとは別個の存在であると。

そうなったら情報は、できるだけ自由に流通するようにしてやろう

だとすると、これが英米法的(※5)な考え方だということになるでしょう。

 

※3 大陸法的

=西ヨーロッパで発展した法体系のこと。

日本でも明治維新の際に採用されている。

大陸法はローマ法の伝統を受け継いでおり、成分法を中心としている。

 

※4 天賦人説

=人は生まれながらにして、自由・平等を追求する権利があるという考え方。

ジャン=ルソーをはじめとする18世紀の思想家が主張した。

天賦人権説は、フランス革命やアメリカ独立戦争にも大きな影響を与えている。

 

※5 英米法的

=英国や米国で発展した法体系のこと。

 大陸法と比較すると、判例を中心にした慣習法である点が大きく異なる。

 

■岡田

つまり、アリストテレス的な大陸法はクリエーターの人格を中心した考え方、一方の英米法は著作権をこの社会においていかに有効に使うかに重きを置いているということでしょうか?

 

■福井

そうとも言えますね。


プラトンとアリストテレスの寓話が面白い。


プラトンが”アナログ”で、
アリストテレスが”デジタル”なのか?


(どちらも”アナログ”だろう…)


”自然”と”都会”、”身体”と”脳”、とでも


比較できそうな気もする。


違うかもしれないけど。


それにしても、何千年たっても寓話とはいえ、


現代に継承される古代ギリシア哲学って


やっぱりなんかあるのだろうね、魅了される理由が。


 


chapter 04


クリエーターという職業


創作で食えなくてもいい から抜粋


■編集部

クリエーターに関連してくる仕組みでいえば、岡田さんはベーシック・インカム(※)も支持されていますね。

 

 ※ベーシック・インカム

 =国民一人一人に対し、毎月決まった額のお金を給付する仕組み。

 負の所得税と言われることもある。

 ベーシックインカムが社会に与える影響について、

未来改造のススメ 脱「お金」時代の幸福論』などを参照のこと。

 

■岡田

僕が著作権という仕組み自体を諦めた方が良いと主張するのも、ベーシック・インカムの場合とよく似ています。

今の法律だと、所得税や還付金、生活保護に子供手当と制度が複雑になり過ぎているでしょう?

これほど複雑な制度を維持するために大変なコストがかかっているわけですよ。

だったら、ベーシック・インカム賛成派の人たちがいうように、全ての社会保障をやめて、ベーシック・インカムに一本化した方がいいんじゃないか。

そうした方が国としたら、運営コストが下がっていいんじゃないか。

僕がベーシック・インカムを面白がる理由の一つはこれです。

コンテンツについても、著作権自体を諦めてしまった方が、あらゆる面でのコストを劇的に減らせるんじゃないかなと考えています。


日々の暮らしが保証されれば、


著作権は放棄しても良いという


クリエーターが沢山いるのでは?


そうすれば継続して新作ができるという


循環が成り立つのではなかろうか。


旧共産圏のアニメーションは生活保障あればこそ、


という指摘を福井弁護士はされる。


ただ、問題もあるので簡単には


いかないだろうが、とも。


 


僕たちが欲しいのはコンテンツではない から抜粋


■岡田

ユーザーが求めているのはコンテンツではないと思うんですよ。

 

■編集部

一体どういうことでしょう?

 

■岡田

大阪芸術大学の教え子の一人に、ビジュアル系バンドの追っかけをやっている女の子がいます。

このバンドはアルバムもろくに出さないんです。

下手だから(笑)。

 

■福井

ストレートな理由ですね(笑)。

 

■岡田

下手なだけでなく、お金がないということもあるんですよ。

でも、新曲のアルバムは出ないのに、ベストアルバムはしょっちゅう出ているんです。

 

■福井

誰かが勝手に出しているということですか?

 

■岡田

いえ、ちゃんと自分達で出しています。

要するに、手持ちの曲が全部で50曲くらいしかなくて、それを「順列・組み合わせ」で適用にまとめ直してはベストアルバムに仕立てているということなんです。

 

■編集部

ファンは怒らないんですか?

 

■岡田

彼女たちはベストアルバムを買って、そのビジュアル系バンドを支えるしかないんです。

なぜかというと、それがファンというものだから。

つまり、彼女たちが本当にお金を出したいのは、そのバンドが作るコンテンツに対してじゃない。

自分たちが好きなバンドを支えているという喜びに対してお金を払っているんです。

 

■福井

コンテンツに対してではない?

 

■岡田

ありません。

 

■福井

前述の寓話で言うなら、アリストテレス的な生身の実在、あるいは臨在感(神などがそこに実在するという感覚)に対してお金を払っていると言ってもいいかもしれません。

 

■岡田

みんな、コンテンツに対してお金を払っていると思っているけど、それは言い訳に過ぎません。

お金を払う対象は、崇拝の対象となる人自身です。

そうでなければ、コンサートでステッカーなんて売れるわけがありません。

みんなステッカーマニアじゃないんだし(笑)。


人はライブ体験にお金を払う から抜粋


■福井

私は著作権が大好きというある種の変態(笑)ですが、法律自体が好きなわけではありません。

情報は一体誰のものなのかとか、情報流通のあり方を考えるのが好きなのです。

コンテンツホルダーによっては、著作権それ自体が目的化してしまっていることも往々にしてありますけれどね。

多くのクリエーターは、自分が好きなものを作って暮らしていければ満足する。

そうして作ったコンテンツが、誰かの心を揺さぶったり、自分の作品を好きになってくれたりすれば最高だと思っている。

それこそ彼らがコンテンツを作る目的でもあります。

そのためのツールとして、著作権法があるわけだし、もし今の著作権が機能しているのであれば切り捨てればいい。

ただし、先に述べた通り、今の著作権法を闇雲に崩そうとしても、一筋縄でいく相手ではありません。

それなりの代案がなければ無責任です。

「この流れを止めれない」とか「現行の著作権法はどん詰まりだ」と言うだけでなく、説得力のあるオルタナティブな方法を提示できれば、クリエーターやコンテンツホルダーの支持も得られると思うんですよ。

その前提として、今はコンテンツのマネタイズができなくなっている、少なくともネット・デジタルの世界では稼げていないという状況をきちんとみんなが認識しなければなりません。


昨今の音楽業界のレコード(CD)、


書籍(雑誌含む)の売上の衰退に


反比例してライブなどイベントでの収益が


(微)増加していることに触れ


■福井

ライブ会場で買えるものと同じグッズがその辺りのコンビニでもっと安く売っていたとしても、そんなに売れないでしょう。

それは、コンテンツそのものじゃなく、臨在感を買おうとしているからと言うことですね。

私から見ても、今後はそうしたマネタイズの方法しか残らないのではないか、そう思うこともあります。


「モノ(物)」から「コト(体験)」消費って


言われてから久しいけど


最近だともっと進歩(進化じゃないよ)してて


「トキ消費」「イミ消費」だそうな。


さらに「臨在感」というのは気がついていたようで


気がつかなかったような。


ライブ行ったらパンフレット買いたくなるものなあ。


過日、古書店で同じもの売ってても、


なんか違うなあと思ったのは


おそらくそれだったのだろうな。


コンビニで安く売ってたら買わないと思うし


残念と感じるだろうね。


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ヒトはどこまで進化するのか:エドワード・O・ウィルソン著/長谷川眞理子解説/小林由香利訳(2016年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


ヒトはどこまで進化するのか

ヒトはどこまで進化するのか

  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2016/06/28
  • メディア: 単行本

存じ上げない学者さんの書籍だったけれど


解説の方の文章に惹かれて、ざざっと拝読。


ウィルソンさんは、残念ながら昨年の12月に


亡くなられてしまわれたようです。


I 人間が存在する意味

歴史学は先史学を抜きにしてはほとんど意味をなさず、先史学は生物学を抜きにしてはほとんど意味をなさない。先史学と生物学の知識は急速に増加し、その結果、人類がいかにして誕生し、なぜ私たちのような種がこの地球に存在するのかに光が当たっている。


II 知の統合

自然科学と人文科学という学問の二大分野は、人間の描き方こそ大きく異なっているが、いずれも創造的思考という同じ源から生まれてきた。


III アザーワールド

人間の存在の意味を理解するには人類という種を対局的に捉えるのが一番だ。そのためには、人類を想像しうる他の生命体と比較し、太陽系外に存在するかもしれない生命体とさえ推論によって比較するべきである。


IV 心の偶像

人間の知性の弱点をフランシス・ベーコンが指摘したことは最初の啓蒙主義の主要な功績のひとつである。現在は、それを科学的説明によって定義し直すことが可能だ。


V 人間の未来

テクノサイエンスの時代に自由は新たな意味を獲得している。子供から大人の世界に足を踏み入れようとしている人間と同じように、私たちの選択肢はこれまでよりはるかに広がっているが、その分、リスクと責任も増している。


解説


長谷川眞理子(行動生態学)


人生の意味と自然科学 から抜粋


私たちには両親がいます。

その両親にも両親がいます。

というふうにどんどん先祖にさかのぼっていきましょう。

一方、アフリカの森に住んでいる一頭のチンパンジーにも両親がいます。

その両親にも両親がいます。

というふうにどんどん先祖をさかのぼっていくと、およそ600万年さかのぼったところで、祖先どうしが同じ生き物になります。

それが私たちの共通祖先です。

同じように、庭先にいる一羽のスズメにも両親がいます。

その両親にも両親がいます。

というふうにどんどんさかのぼっていき、二億数千万年さかのぼると、やはり祖先どうしが同じ生き物になります。

というふうにさかのぼっていくと、大腸菌も硫黄細菌も、人間も、スズメもイチョウも、すべての生物は三八億年ほど前の共通祖先にいきつく、ということなのです。

これは素晴らしいことだと思いませんか?


ウィルソンは、1975年の『社会生物学』執筆当時はもちろんのこと、ごく最近まで、血縁選択にそった議論をしてきたのですが、なぜか最近、この理論をひどく攻撃しています。


そのような注意点はありますが、本書には、それも含めて、かなり斬新で挑発的な考えがちりばめられています。

ここから出発していろいろな考えが生まれ、皆さんで議論に花を咲かせていただければと思います。

今の日本は、考えの違う人どうしが真剣に議論し合うという雰囲気が薄くなってきていると思います。

まるで、同じ考えですよとうなずきあうことだけが「和」であるかのように思われていないでしょうか?

でも、それは違います。

多様な考えの人たちが多様な議論を展開し、そして、基本的に他者に寛容であること、それこそが、よりよく、より強い社会を作る原動力だと思います。


ウィルソンは、もうずいぶん年をとっていますが、本書は、ウィルソンから若者への挑戦かもしれません。これを受けて、未来は若者が切り開くものです。


まったくそのとおり、異論はございませんが


蛇足ながら付け加えるとすると、


中高年もまだまだ


尽力させていただきたく存じます。


最後に訳者のあとがきから抜粋。


長年にわたり生物学の研究に打ち込んできたウィルソンは、自らの知識と経験を基に、人間による自然破壊・生物多様性の崩壊が急速に進む現状に警鐘を鳴らしています。

自然科学と人文科学の統合を呼びかけている点や同族意識をあおる宗教の危険性を指摘している点も、国立大学の人文系学部の縮小などという話がでてくる日本の風潮や、世界各地で宗教がらみのテロや内戦が相次いでいる現状を思うと、大いにうなずけるものがあります。


がちがちの文系でアナログ人間の訳者が、「包括適応度」だの「真社会性」だのといった専門用語にひるみながらも本書の翻訳を引き受けた背景には、そうしたメッセージへの共感もありました。

ところどころまぶされた、そこはかとないユーモアの隠し味も含めて、著者の意図がすんなり伝わるような訳を心がけましたが、いかがでしょうか。


そういうことか、ET(地球外生命体)の論考を


かなり多くのページに費やされているのは、って思ったり。


いや、その方面は好きではあるんですけどね、自分は。


この訳者あとがきを読み、さらに著者の雰囲気が伝わり


もう一度読んでみたくなる本でちょっと難しかった。


余談だけど、ウィルソンさんも昆虫好きなご様子で


学者さんって昆虫好きな人多いですなあ。


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池田先生の3冊から「権力」について考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

池田先生がオーストラリアに行かれて


物理的に日本から離れたことで


自由に書き飛ばしたとされる


93年から94年の書籍をまず2冊。


怖すぎる筆致で、足早に駆け抜けたい。


腰を痛めて、落ち気味のフィジカルと


メンタルの相関と歳を


痛感している年末なのでなおさら。


でも看過できないのでこの機会に、


苦手分野の「権力」について。



科学は錯覚である

科学は錯覚である

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: JICC出版局
  • 発売日: 1993
  • メディア: 単行本

はじめに から抜粋

書名の『科学は錯覚である』は私がつけた。

『科学は錯覚ではなく真理である』と思っている人も多いかも知れぬ。

もちろん私に言わせれば、それはそう思っている人が『科学は真理である』と錯覚しているだけである。

科学はある種の錯認であるというのは、科学に対する悪口ではない。

それは唯一無二の科学の根拠である。


第一章 エイズが世界にもたらすもの から抜粋


国家権力が主導して、自動車運転をやめましょう、というキャンペーンをしたという話は聞いたことがない。

なぜか。

それは交通事故の死者数は、好コントロール装置たる国家権力の完全なる制御下にあるからである。

それに対し、現在の所エイズの感染者数や死者数を制御するすべを国家も科学技術も持っていない。


好コントロール装置としての権力が、個人の道徳心に訴える以外になすすべがない所に、エイズという病の意味がある。

別言すれば、制御不能性こそエイズが我々の社会に問うている最大の意味であるように私には思われる。


昔の人にとって、人生は一寸先は闇であった。

好コントロール装置である国家権力と科学技術は、一寸先どころではなく、三十年先まで明るくしてくれた。

その結果人々は予測可能な人生を歩むことになった。

未来が予測可能であるとは、すなわち、未来は実は未来ではなく現在ということである。

それは人々に安逸と平穏を約束したが、人々から強烈な生の喜びを奪ってしまった。

生きているということは、その本質において、予測不可能が孕むものだからである。


第三章 宗教と科学ーー構造主義宗教論の冒険/死は救いである から抜粋


生物が生きることは、不平等と不公平を丸ごと背負い込むことである。

従って生きている間は、不平等と不公平から逃れることはできない。

私はあらゆる不平等と不公平を肯定するために、このことを言っているのではない。

人為的な不公平はなくした方がよいに決まっている。

ただ、生物であることから発した不平等は、原理的になくせない故に、生きるためにはこれを肯定する他はないと主張しているだけだ。

人が病気になったり、死んだりするのは因果応報でも、神仏に選ばれたわけでも何でもなく、単に人間もまた生物であることから発した必然にすぎぬ。


身もふたも、取り付く島もない。


曰く言い難し。


この論説には恐ろしいものがある、


現実というか事実だとしても。



思考するクワガタ

思考するクワガタ

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1994年
  • メディア: 単行本

虫屋の状況論/死刑反対論者は権力の操り人形である から抜粋


湾岸戦争のときに、戦争は完全に制御されたシミュレーション・ゲームであるかのように演出され、あからさまな個人の死は隠蔽された。

あるいは、日本では交通事故により、年間に約一万人の人が亡くなるが、権力が車の使用を禁止さえすれば、もしくは極端に高額な税金をかけさえすれば、交通事故の死者をずっと減らすことができる。


国家権力により暗黙裡に計画された死でありさえすれば、権力はけっして個人の殺害を忌避しないことを意味しているのである。


日本人に憲法はムリである/誰も憲法を守っていないし守るるつもりもない から抜粋


巷では官民挙げておエライさんは、口を開けば国際貢献を叫んでいるが、話を聞いていると、なんらかの理念の下に国際貢献をすべきだと言っている人はほとんどいない。

国際貢献をしないと日本は世界の孤児になる、と彼らは口を開けば言っているが、孤児になるとなぜいけないのか。

それは単に会社がもうからなくなる(と思っている)からにすぎない。

重要なのは国際貢献という中身などではなく、国際貢献というかけ声である。


私はそのことを別に非難しているわけではないが。


日本に憲法が存在する理由もこれと一緒である。

そもそも明治憲法(大日本帝国憲法)が作られたわけは、憲法がないと日本は近代国家だと認めてもらえず、世界の孤児になると思ったからである。

当時の国民は憲法の中身も知らず、憲法ができたといってただ喜んでいる、とどこかの国の新聞に皮肉られたが、その情況は実は今もって不変のままである。

重要なのは憲法が存在することであって、それを守ることではない。

これが日本の不文律である。

重要なのは国際貢献という錦の御旗であってその中身ではない、という話と、これはまったく同型である。

ついでに言えば、日本において生きるために最重要なことは、不文律を守ることであって、成文法を守ることではないのである。


繰り返しになるが、なぜこういうことになるかというと、日本に生息する好コントロール装置としての権力は法治国家という形式を望んではいないからである。

もちろん権力はあなたや私の頭の中にあるのであって、それ以外のところにあるわけではない。


あとがき から抜粋


オーストラリアにいたときは、シドニーのオーストラリア博物館に昆虫の標本と文献を調べに行く以外は、虫採りと釣り三昧の生活をしていた。

日本語の本はほとんど読まなかった。

もちろん英語の本もほとんど読まなかった。

体を動かして虫ばかり採っていると、体はどんどん健康になったが、頭はどんどん空っぽになり、それに比例して心はどんどん過激になった。

オーストラリア滞在中に書いたエッセイを読み返してみると、そのことがよくわかる。

もっともそれは頭が空っぽになったせいというよりも、日本にいる他人を気にしなかったせいかもしれない。


上記2冊には、最近の池田先生のような


”ユーモア”がほとんどなくて容赦なく


”怖さ”のようなものと”若さ”を感じた。


ほっこりするものとして、


虫採りしか興味のない池田先生と


観光したい奥様と駆け引きしながら出掛けた


題名「飛べないクワガタ」のくらいしか


なかったような。


それから「あとがき」にもございますが


体を動かしての健康と、そこに自分はない頭も使い、


バランスよく、フレキシブルに、


ってのが理想だと思っておりまして


そうありたいと常に最近思う次第です。


さらに養老・奥本先生加わっての鼎談でございます。



三人寄れば虫の知恵

三人寄れば虫の知恵

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 1996年
  • メディア: 単行本


第四部「虫屋」の正体/ファーブルは分類がきらい から抜粋


■養老

昆虫をやっている人はある種の権力関係に敏感な人たちがという気がしてね。

それぞれのグループの専門家というのが必ずいて、彼らはなぜ専門家なのかと考えると、そこにはただの興味だけじゃなくて、やっぱり権力行為みたいなのが働いているんじゃないか。

 

■奥本

「俺が唾をつけた」という感覚があるんでしょうね。

 

■養老

そういうことと関係があるんじゃないかなという気がします。

逆に専門のことだけをやっていれば世間の人から見たらあまり害がないというか…。

世間という言葉自体がそうでしょう。

西洋でいえば社会ですよね。

それは必ず政治と結びついている。

人間がそういう意思みたいなものを持っているということを前提とすると、権力ーーというと外国語の翻訳だから、あまり日本語の文脈にピタッとこないんで、しょうがないから「人を思うようにする気持ち」といってるんだけどーー人を思うようにしたいという気持ちは、社会を作る以上は誰にでもある。

それが非常に明白な形で、固定して出されているのが政治制度であって、ある意味で政治制度というのは害がないわけです。

みんなに見えるわけですから。

ところが、その制度自体が気にいらないというやつが必ずいるわけで、反体制というのは実はその政治制度の枠組みの中に込みになってるわけ。

それとはぜんぜん違う枠組みで人を思うようにしようと思うやつが、こういう虫屋の世界に集まってくる面があるんじゃないのかな。

そもそも学問というのがそうだという気がする。

 

■奥本

まったく学者はみんなそうで、自分の専門領域に他人が口を出すと嫌な顔をする。

 

■養老

人を説得するというのは、要るするに「根本的に思うようにしよう」という面を持ってるわけでね。

 

■池田

同じものを分類してる人たちは、必ず仲が悪くなりますよね。

たとえば同じカミキリムシで、同じところの虫を分類し合っていると、だいたい仲が悪くなってくる。

 

■奥本

それで最後には、「俺のいうことを信じなさい」の浴びせかけになっちゃうんですよね(笑)。

 

■池田

そう。それにさっき養老さんが言ったように、妥協しなくてもかまわない世界だからトコトン行くわけですよ。

政治は、具体的な問題がからんでくるから、どっちにしても妥協しなきゃならないでしょう?

僕は養老さんが今言った「権力」というのを「好コントロール装置」と呼んでいるんですけれども、好コントロール装置が、とにかく妥協しないで突っ走れば戦争するしかないわけで、戦争にならないようにするかぎりはどこかで妥協をするわけですよ。


権力を放置すると、暴走して


戦争に走ってしまうこともある


という論理展開は、なんか納得してしまう。


監視システムが機能しない昨今、個人とか


市民レベルでの草の根運動からの


ボトムアップで少しづつ良い世の中に


なるよう善処しないとって感じた


雨降りの朝でございます。


 


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池田先生の2冊からダーウィンとウォレスを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


構造主義進化論入門 (講談社学術文庫)

構造主義進化論入門 (講談社学術文庫)

  • 作者: 池田清彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/10/24
  • メディア: Kindle版

裏表紙の紹介文から引用


リチャード・ドーキンス氏ってこういうポジションなのか?と感じた。


なぜ遺伝子操作で新生物を作れないのか?

なぜ同じ遺伝子が、ハエでは複眼を、哺乳類では単眼を出現させるのか?

ネオダーウィニズムでは説明不可能な進化現象の数々。

プラトン、ラマルク、ダーウィン、メンデル、ドーキンス…。

進化論の系譜を再検証し、生物を記号論的に環境を解釈するシステムと

定義することで、もう一つの進化論を構想する。


学術文庫版まえがき から抜粋


本書の原本が出版されたのは1997年12月であるから、それからはや13年の歳月が流れた。

当時から既にネオダーウィニズムには翳りが見えていたとはいえ、主流の人々は依然として沈みゆくパラダイムにしがみついていたので、本書に対する風当たりはずいぶん強かったのを覚えている。

今や、ネオダーウィニズムの崩壊は自明のこととなり、当時、進化はすべて突然変異と自然選択ち遺伝的浮動で説明できると言い張っていた人たちも、いつの間にか進化は突然変異、自然選択、遺伝的浮動だけでは説明できないと、ごく当然のように主張しはじめた。

集積された科学的事実を虚心に見れば、ネオダーウィニズムの教義を支えることはもはや不可能なことが誰の目にも明らかになってきたからである。

科学理論は宗教はではないので当然のことだ。

そのことに思い至れば、本書で展開した議論は10年先取りをしていたわけで、文庫化するにあたっては、明らかな事実誤認を除けば、加筆修正は最小限にとどめた。

私の立場は原理的には当時も今も変わっておらず、本書の議論は現在も立派に通用すると思う。


ただネオダーウィニズムを反証する事実はどんどん蓄積されている。

それらの知見を盛り込んだ、最新の進化論については、二冊の拙著、『38億年 生物進化の旅』及び、『進化論 その歴史から最前線まで』(仮題、近刊、新潮社)を参照して頂ければ幸甚である。


第二章 ダーウィニズムとは何か


1『種の起源』を読む


ウォーレスとダーウィン から抜粋


自然選択説を考えた人は、実はダーウィンだけではない。

アルフレッド・R・ウォーレスという人がいる。

ウォーレスは、中流階級の下くらいの出身だが、生物が好きで一時標本の採集で生計を立てていた。

1858年に、採集地のテルナテ島からダーウィンに、自然選択説について述べた手紙を書いたことで有名だ。

1997年に、ウォーレス研究家の新妻昭夫が『種の起源をもとめて』という本を出版した。

ウォーレスの後を追いかけ、マレー諸島には十回も足を運んだという。

彼の本を読むと、ウォーレスのことが細かく書かれていてひじょうに興味深い。

ウォーレスは基本的にダーウィンと似たような経験をしている。

アマゾンに行って毎日、虫を採集する。

4年間採集して、船に採集品を全部積んで帰るとき、その船が火事を起こして沈没してしまう。

船のそばをボートで漂流していたウォーレスは別の船に拾われた。

その別の船も、実は嵐が来て沈没しそうになるが、やっとの思いで祖国に帰る。

その後、ロンドンに一年いたが、今度はマレー諸島に8年の冒険を企てた。

そこでも虫や鳥やいろいろなものを数多く観察し、採集した。

マレー諸島は島だから、隣の島へ行くと、同じような種類のものでも、また微妙に相違しているのである。

それは、ダーウィンがガラパゴス島で、同じような種類でも、少しずつ違うものを見た経験とよく似ている。

そういう似た経験を積んでいるし、両者ともマルサスの『人口論』を読んでいた。


自然選択説のなかの「分岐」とは から抜粋


それまでは、種は固定的なものだとずっと考えられてきた。

生物は進化するにしても二つの種に分かれるとは考えなかった。

すなわち、分岐という概念はまったく存在しなかった。

分岐は、自然選択説が出たのではじめて出てきた概念だ。

生物が二つに分かれるという考えは、ラマルクの進化論にはまったくなかったものだ。

なぜ分岐という考えが出てくるかといえば、生物にはいろいろな変異があるからだ。

たとえば背が高いものもいれば、背の低いものもいる。

変異のなかには、環境に適したものもあれば、環境に適していないものもある。

環境に適したものは徐々に増えていき、環境に適していないものは減っていくから、環境が変化すれば、変異はある方向にずれてくる。

たとえば、今はたまたま中くらいの背のものが有利だったのが、背が高い方が有利という環境に変化すれば、その生物の集団は、背が高い方に徐々になびいていくだろう。

たとえば、たまたま同じ島が二つに分かれてしまった場合、当然二つの島の環境に変化が出てくる。

すると、変異は徐々にずれていき、お互いにそれぞれの気候などに適応して、別々の生き物になっていく可能性は排除できない。

そうすると、当然異所的な分岐が起きて、一つの種から二つの種に分かれてしまう。

そういう説を唱え出したのはウォーレスとダーウィンがはじめてで、ほかの人はだれも考えなかった。

これは本当におもしろいことだ。

それまでは種は不変だという考えがあまりにも強かったのだ。

それは実念論(イデア論)、つまりプラトニズムがひじょうに強く影響していたのである。


第三章 ネオダーウィニズムの発展


遺伝子中心の原理 から抜粋


もしオスをたくさん産む性質が遺伝的なものであれば、孫の世代になると、オスをたくさん産む性質は確実に個体群の中に広がる。

それがどんどん広がって、やがてオス・メスの比率が1対1になり、そこで安定するだろう。

反対に集団内のオスの比率が高ければ、今度はメスをたくさん産む突然変異が有利になり、ここでも1対1で安定するだろう。

今までは種をメルクマールにして、種が存続するにはどのような形質がもっとも望ましいかという議論をしていた。

しかし、ネオダーウィニズムの議論、すなわち、種や個体は滅ぶがDNAは不滅であり、遺伝子をたくさんふやすにはどうしたら良いかという遺伝子中心の原理で考えると、今までどうもあまり適応的でなく進化にとって不利と思われた形質や行動にも有利な点があることがわかってくる。

このためネオダーウィニズムは生態学者の間に一気に広がり、彼らを一時熱狂の渦に巻き込んだ。

ただし、日本では今西進化論が支配的だった。

今西進化論は種の実存性を強調する。

一方、ネオダーウィニズムによると、種はどんどん別の種に変化していく。

種は実在しない。

実態としてあるものはDNAのみである。

この議論を徹底化したのがドーキンスである。


ネオダーウィニズム、ドーキンス氏を心象よからぬご様子。


他の書籍でも池田先生、バッサリしてたな。


竹内美奈子さんの言説をもとに。


ドーキンスさんを、という感じではないけれど。


それだけ相違点があるのだろうね、自信のある自説と。


 



三人寄れば虫の知恵

三人寄れば虫の知恵

  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2023/06/25
  • メディア: 単行本


ちなみに文庫だと南伸坊さんの解説つき。(2001年)


南さんと同意見で虫がわからなくても


楽しめたし深いところあり。


 


第四部「虫屋」の正体


III ダーウィンとウォレス


虫好きだったウォレス から抜粋


■池田

ダーウィン(1809~1882)は、ファーブルとは違う感性ですね。

彼はもともと分類学者だから。

 

■奥本

ダーウィンは行動学ではなく分類学ですね。

種の起源』は、あの時代の博物論集を集大成したものですね。

しかし日本ではあの本はみんな楽しんでは読んでいないですよね。

 

■池田

おもしろいと思うところもあるけど、論理はかなりグチャグチャしてますよ。

 

■奥本

ああでもない、こうでもないばっかり言ってますからね。

 

■池田

ウォレス(1823~1913)の方が、よっぽどすっきりしてますもんね。

 

■養老

書いたものでいえば、僕もウォレスの方が好きだね。きわめて明快ですよね。

 

■奥本

ウォレスのはエッセンスですからね。

 

■池田

ダーウィンが考えていた種の多様性と、実体としての種というものには、どこか違う、矛盾しているところがあった。

 

■奥本

考えれば考えるほど、自信が持てなくなるんですよ。

 

■池田

自分でも不安なところがあったんじゃないですか。

その不安が『種の起源』の中に出てるんじゃないですか。

 

■奥本

進化論なんて、誰でもわかってる常識のようなものでしょう?

家畜を飼っている人は、優秀な親から子供をつくれば、また優秀なのができるというようなことはみんな知ってるわけだ。

遺伝学もそうですよ。

子供が親に似るとかいうことも、世界中誰でも知っていたことですから。

それをダーウィンやメンデルは理屈にしようと思ったわけです。

ダーウィンのように家柄が良くてまわりに地位の高い人がいっぱいいると、神による創造を否定する、こんな大胆な理論を正々堂々と提出しようと思ったら、これは迷って迷ってしょうがないわけですよ。

そういう点では、ダーウィンの想いは深いんじゃないかな。

ウォレスは単純明快ですよ。

 

■養老

「すべての種は近縁の種から発生する」と。

おっしゃるとおりで。(笑)

 

■池田

ウォレスは本当に虫が好きだったんでしょうね。

 

■奥本

そして、たいへん心の広い、差別意識のない人ですね。

仏教徒みたいなところがある。


ダーウィンの進化論の背景 から抜粋


■池田

ふつうの研究者は、進化なんかどうでもいいと思ってるんですよ。

それで、ダーウィンなんか関係ないっていってやっているけれども、自分のやっていることに何か理屈をつけようとなったとき、そのままでは理屈のつけようがないから、仕方なく最後になるとダーウィンを持ち出してきて、自分のやっていることとくっつける。

だけど本当は進化論となにも関係ないことをやっているんです。

 

■養老

さっき言ったように、「ただいま現在」の条件を全部揃えたら、次はわかるという考えでやっているからね。

 

■池田

生物は、最後は歴史みたいなものをどこかに入れなきゃならないけれど、いきなり入れるとそれは科学じゃないといわれるから、ダーウィンを借りてきて、くっつけるわけです。

 

■養老

とってつけたような感じですよね。

そういう意味でも、僕はダーウィンというのは、いろいろ悪口もいうんだけど、天才だなと思うね。

どこが19世紀の科学の弱点であるかを、彼は知ってたんじゃないかと思う。

無意識にでしょうけど。

 

■池田

それは無意識ですよ。

僕らはずっと後から考えるから、そういう理屈をさらにつける。


ダーウィンの真意 から抜粋


■奥本

ダーウィンもウォレスも、もとはといえば甲虫少年。

 

■養老

そこで僕が不思議なのは、そのダーウィンが種という概念をどこで壊してしまったのか、ということです。

彼が種という観念を信じていなかったことは間違いないと思う。

それなのに、『種の起源』という題をつけたからますます話が複雑になる。

中を読むと「種」という言葉だけじゃない。

「亜種」とか「変種」とか、とにかくどんどん使うわけ。

そうすると、中間なんかいくらでも出てきていいという理論になる。

甲虫をやってたのになぜそうなったのか。

 

■池田

それが不思議なんだよね。

僕はそれがダーウィンの中でジレンマになって、それで体が悪くなったんじゃないかと思う(笑)。

虫を集めていて、彼は完全に分類学者なんですよ。

分類学者というのは、いわゆる種というパターンをある程度実感として感じなければ、やってられない存在です。

にもかかわらず、『種の起源』のような、種の実在性を破壊するようなことを書いているわけだから、どこかでかなり悩んだに違いない。

 

■養老

だから僕は、『種の起源』という題は、そう単純な題じゃないと思うんだよね。

モノーの「生物の特徴は合目的性である」というのとよく似ていて、本の表題にいきなり「種」とつけたというのは、ひじょうに考えた題だったんじゃないかと思う。

要するに、種の実在を信じてる人を全部黙らせる効果がありますよね。

一応「種」と書いて、種を認めているんだからという感じを出す。

でもなかを読むといっさい本人が認めてないということが、よくわかる。

あの矛盾はいったいなんだろう。

 

■奥本

種を段階的なものとしては認めてるでしょう。

 

■養老

彼はグラジュアリズムだというのは有名な話です。

 

■池田

ダーウィンは完全に連続ですよ。

それを、ネオダーウィニズムはメンデルの理論を入れたんで、切れるようになったんです。

だから、逆に、メンデルの理論が流行ったときには

「ダーウィニズムは死んだ」といわれたわけですよ。

ネオダーウィニズムによってメンデルとダーウィンがくっついちゃったわけですよ。

 

■養老

一種の手品だよね。

 

■池田

つまりインチキです。


相変わらず、すごい物言いというか、斬りっぷりの池田先生。


なんでネオダーウィニズムをここまで面罵するのか


直接、嫌がらせを受けたことあるのかと訝しんでしまう。


研究者っていう天上人たちってそうなんすかね。


ウォレスは種という実体を信じて、


ダーウィンは信じていなかった。


なのに『種の起源』って挑戦的なタイトルだ、という言説。


問いの立て方が養老先生っぽく、


知性の幅を窺い知るなあ、なんて。


 


で、なんでしたっけ?


あっそうだった、ダーウィンとウォレスさんだった。


この二人って興味深いと言わざるを得ない。


19世紀に進化論を提唱したってのもすごいけど


生物を観察、採集するために


何年もかけて船で座礁しながらも外国に


長期間滞在って、どういうことなんだよ、って。


どういうところに泊まって、何を食べてたんだろう、


洗濯は?とかウルトラミクロな


問いをたててしまうのだよねえ。


そういう視点で進化論に興味を持つ輩が一人くらいいても


いいのではないかと思った次第です。


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「現代優生学」の脅威:池田清彦著(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「現代優生学」の脅威 (インターナショナル新書)

「現代優生学」の脅威 (インターナショナル新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
  • 発売日: 2021/04/07
  • メディア: 新書

最近、進化論系の書籍をよく読んでいて


その流れと思ったが池田先生のこの本は


そういうのとは異なり


かなりセンシティブな本だった。


まえがき から抜粋


人類史上最悪の災厄


優秀な人間の血統のみを次世代に継承し、劣ったものたちの血筋は断絶させるか、もしくは有益な人間になるように改良する。

そうすれば優れた者たちによる高度な社会が実現できるだろうーーこうした「優生学」の研究が、ナチスの優生政策に強い影響を与えたことは広く知られています。


現代の優生学


いまだ禍根を残しているとはいえ、極端な科学や思想を信奉する人々を除けば、優生学は忌まわしい過去もろとも封印されるはずの研究でした。

ところが学問としての体裁は整っていないものの、明らかに優生学的な傾向を持つ考えが、現在さまざまな領域で顕現しつつあります。

それを仮に「現代優生学」と名づけるとするならば、その広がりに大きく寄与しているものの一つが「遺伝子」の存在です。

胎児の遺伝子や染色体を検査することで、たとえば障害のある可能性が高ければ中絶するといったことも、現在では可能になりました。

こうした検査は、

「出生前に胎児の状態や疾患を調べ、最適な分娩方法や療育期間を検討する」

ことが主な目的ですが、出生前診断を受ける人の多くが

「胎児に先天的な障害がないかを調べ、障害があるようなら出産を控える」

というのが実情です。

科学の進歩がもたらす変化に倫理が追いつかない状況が、21世紀の今、静かに広がりつつあります。


第五章 無邪気な「安楽死政策」待望論


資本主義に毒された考え方 から抜粋


「役に立つ」「役に立たない」という概念自体、そもそも人間を何かの道具と捉えている証拠です。

太平洋戦争前の時代において「役に立つ人間」とは、「体が頑強で障害も病気もなく、男性は、兵隊として反抗的でなく、上官の命令通りに働く滅私奉公型の人間」のことでした。

一方、女性には「将来兵隊として役に立つ男の子を、たくさん産む」ことが求められました。

戦争が終わって高度成長期になっても、その価値観はそれほど変わりませんでした。

今度は工場で黙々と働く男性と、労働力確保のために子供をたくさん産む女性が「役に立つ人間」とされました。

LGBTの人たちのことを「生産性がない(子供を産まない)人間」と糾弾するのは、こうした考えに基づいています。

現在、世界を席巻している資本主義は、多くの労働者と消費者を必要としています。

「少子化は悪」というのは、資本主義というイデオロギーに毒された考え方ではないでしょうか。

生態学的見地からすれば、人口が少なくなれば一人当たりの資源量は増えていきます。

そうなると、個人個人の平均的な幸福度は高まってくるはずです。


本当に難しい問題をたくさん孕んでいる、


一般論としての見識はわかるものの


自分ならばどうするか。


選択肢の幅が増えることになる


科学の「進化」、ではなく「進歩」。


進化論の本を多く読んできたから、


「進化」というのは微妙です。


それは言いたいだけの、どうでも良くて


科学の「進歩」に話を戻すと、


良い悪いとは別に「倫理」の問題で、


ブログで何度も引いてしまって


大変恐縮ですが、柳澤桂子先生の言葉を思い出します。


「科学」「倫理」、質の高い「宗教」など。


話戻り、ナチスはとうの昔に消え去ったと思いきや


昨今のドイツクーデター(※)の動きなど、


ナチスと異なるものか


それとも残党の思想が燻っているか。わからない。


(※=2022年12月14日「ドイツ「クーデター計画」極右組織に根強くはびこる「陰謀論」 」)


 


池田先生、この書籍では言説が極めて


機微なるものだからか


最近のそれと比べると


文章の表情というか、硬い雰囲気が続かれる。


第七章 ”アフター・コロナ”時代の優生学


民主主義の根本を揺るがす危機 から抜粋


今回のコロナ禍では、「経済活動の再開」「感染抑制」「個人情報の保護」のどれを優先するかという対応策が、各国で大きく分かれました。

中国や韓国、台湾が大規模な封じ込めに成功しているのは、程度の差こそあれ、政府が国民の個人情報を強力に管理したからです。

「経済活動の再開」「感染抑制」を優先して、「個人情報の保護」を犠牲にしたわけですが、曲がりなりにも民主主義を掲げる国民が、それらの国を手ばなしで称賛して良いものかどうか、よく考える必要があります。

一方、アメリカ、スウェーデンのように「経済活動の再開」とともに「個人情報の保護」を優先し、「感染抑制」を犠牲にした国もありました。

オックスフォード大学の調査によると、2021年3月10日時点におけるスウェーデンの人口100万人あたりの死亡者数は1296人と、北欧諸国の中では突出しています(デンマーク411人、フィンランド140人、ノルウェー117人)。

同じ欧州のイギリス(1845人)やイタリア(1667人)、スペイン(1539人)よりは少ないですけれど、地理的・社会的な特徴が似た地域と比べると遥かに高い。

したがって、これを成功と言っていいのかは難しいと思います。

さらに言うと、ニュージーランドでは「感染抑制」「個人情報の保護」を優先した結果、経済活動が犠牲になりました。

ニュージーランドの新型コロナウィルス対策で注目を集めたのは、政府の迅速な対応でした。

ニュージーランドは、2020年3月26日から国全体で厳格なロックダウンを実施し、いったんは市中感染者を完全にゼロにすることに成功しました。

その状態を102日間も維持できたのですが、ニュージーランド統計局が2020年9月に発表した4月~6月期のGDPは、前期比11.0%減と過去最大の落ち込みでした。

「感染率がもっと低かったらどうだったのか」とか、逆に「子供を含む若年層でも重症化率が高かったら」など、いくつかのシナリオで思考実験してみても、「経済活動の再開」「感染抑制」「個人情報の保護」のいずれかが犠牲になってしまうのは避けられないと思います。


今日本は第8波なのか。


身近にきているのは気配で感じることの一つで


「ゼロコロナ」政策で混乱中の中国


(2022.11.29 中国で大規模な抗議デモ、


ゼロコロナ政策が感染抑制に失敗)


”イデオロギーの混乱”と”感染症の拡大”とは


無関係なのだろうか。


中国民の不満の爆発は何かを


象徴しているように見える。


話戻して、池田先生、あとがきでは


最近の文章の調子が復活。


いや、ここまであえて封印してきた


としか思えない。


あとがき から抜粋(ほぼ全文引用御容赦)


本書の素稿が仕上がった頃、特措法改正(新型インフルエンザ等対策特別措置法等の一部を改正する法律)の素案が出てきて、新型コロナウイルスに対する国民の不安に乗じて、強制的に国民をコントロールするチャンスが訪れた、と権力がほくそ笑んでいることがよくわかって不気味であった。

ミシェル・フーコーが「生権力」と言う言葉で指摘したように、近代以降の権力は人々の健康に積極的に介入することによって、人々の行動を制限して、権力の意向に従わせようとする傾向を持つ。

もう少し丁寧に説明すれば、権力は何であれ、おのれの意向通りに人々をコントロールしたいのだが、民主主義の世の中では、大衆からそっぽ向かれる政策を遂行することはなかなか難しく、まずは、健康・環境・安全といった人々が不安に思っているところから、コントロールを強めていこうとする傾向が強い。

とりわけ、健康・環境を錦の御旗に押し立てて、国民をコントロールする政策は大きな潮流となってきた。


健康に関しても、企業に対して従業員の健康診断を受けさせるのを義務化するなどの悪政を行ってきたが(健康診断を受けても受けなくても死亡率に差はない)、2021年2月に成立した、今回の特措法・感染症法改正(実は改悪)ではついに罰則規定まで盛り込んできた。

新型コロナで入院を拒否したり、入院先から逃亡したりした者にはこの50万円以下の過料(当初の案では1年以下の懲役も盛り込まれていたが、これは削除された)、営業時間に応じない者には30万円以下の過料、濃厚接触者が調査を拒否した場合は、30万円以下の過料といった具合である。

 

感染症の制御にはほとんど役に立たない、罰則規定を矢継ぎ早につくったのは、COVID-19を終息させることよりも罰則規定をつくることが目的だったとしか思われない。

ウイルス感染を拡大させないためには、医学的・疫学的な根拠に基づき、予防や治療を推進することが最も大事である。

罰則規定を盛り込むと、具合が悪くても入院したくないために検査を受けない人が、巷をうろつき、かえって感染者を増やしてしまう。

濃厚接触者を聞き出そうとしても、罰則規定があると、忘れたと言って答えない人が必ず一定数出てきて、かえって濃厚接触者の特定が難しくなる。

あれやこれやを考えれば、罰則規定はCOVID-19を抑制するよりも拡大させてしまう可能性の方が高い。

入院したくても入院させてもらえない状況を改善しないで、入院拒否や逃亡には罰金って、何を狙っているのだろうね。

日弁連や日本医学会連合が反対したにもかかわらず、こんなにも拙速に改正案を成立させた裏には、新型コロナで恐怖を煽って、いずれ拡大解釈を行なって、権力が隔離しておきたい人を意のままに閉じ込めておきたいとの思惑が透けて見える。

 

第七章で述べたチフスのメアリーのように、不顕性でまったくの健康体で、ウイルスが長期にわたって体から抜けないといった人が現れたら、どうするつもりかしら。

「ハンセン病違憲国賠償訴訟全国原告団協議会」の竪山事務総長が、特措法改悪に

「差別や偏見を助長する」と強く反対したのも頷ける。

 

国の政策の失敗を認めず、ハンセン病患者を蛇蝎(だかつ)のように扱ったのと同じように、COVID-19の蔓延を、あたかも患者個人や飲食店の責任であるかのような風潮をつくり出し、国のやり方に反対する国民を罪人と認定する今回の特措法改悪と同様な思想は、そのうち、知的障害者や、認知症の人権を守ろうとする人をターゲットにし始めるかもしれない。

新型コロナウイルスの蔓延を奇貨として、権力が優生学的な政策を導入することに対して、我々は最大限の警戒をしなければならないだろう。

人々の健康を守ると称して導入される政策が、実は不健康な人を排除したり見捨てたりする政策だったりしたら、洒落にもならねえよな。


最後の締めかたが最近の


池田先生ならではですなあ。


これが嫌いって人には読めないのだろうな。


言説内容の可否以前に。


自分も特別これが好きってわけではなく


ものすごい情報量と分析力に支えられて


文章全体が論理的で、何よりも面白くて


読まずにいられないという。


そういう好みって、理屈ではないからねえ。


余談だけど、本との付き合い方って


本来そういうものなのだろうと


自分にとっては、ってことで、


腰痛で休んでいるコタツからの投稿でした。


 


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進化とは何か:リチャード・ドーキンス著(2014年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


進化とは何か:ドーキンス博士の特別講義 (ハヤカワ文庫NF)

進化とは何か:ドーキンス博士の特別講義 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/12/20
  • メディア: 文庫

副題は「ドーキンス博士の特別講義:GROWING UP THE UNIVERSE」。


まえがき から抜粋


英国王立研究所(The Royal Institution of Great Britain)は1899年に設立され、1800年に現在の中央ロンドンにある威厳のある建物が建てられました。


1825年に、マイケル・ファラデー(1792~1867)は子供たちのためのクリスマスレクチャーという伝統を始め、戦時中を除いて、これは毎年続けられました。

毎年一人の科学者が講師として呼ばれ、実演(デモ)をふんだんに取り入れた一連のレクチャーを行なう。

そして聴衆である子どもたちはしばしばステージ上に呼ばれ、実験に参加する。


1966年からは、たいていの場合BBCを通じて、レクチャーがテレビで公開されるようにもなった。

テレビ時代になってからはデイビッド・アッテンボローカール・セーガンなど、多くの偉大な科学者たちがレクチャーを行なっています。

1991年、私もクリスマス・レクチャーに講師として呼ばれました。

その際、「宇宙で成長する」という題にした。

「成長する」というのは三つの意味を込めて使っています。

われわれ自身が一生の中で成長していくという意味と、生命が進化という過程を経て成長していくということ、そして人間がそれ(進化や宇宙)に対する理解を深めていくという意味です。

私の5回のレクチャーの題は以下のとおり。


1.宇宙で目を覚ます

2.デザインされた物と「デザイノイド」物体

3.「不可能な山」に登る(のちに同じ題で本を出しました)

4.紫外線の庭

5.「目的」の創造


第一章 宇宙で目を覚ます


神秘体験にはまったく何の意味もない から抜粋


「超自然現象を完全にないがしろにしてしまっていいのだろうか」

という人もいるでしょう。

「テレパシーと思えるような神秘的な経験をしたことのある人は、結構いるはず。

もう何年も会っていない人のことをある晩夢に見たら、次の日図らずも当の本人から手紙が届いたなんてこともある。なんという偶然。超常現象に違いない。ちょっと薄気味悪いくらいだ」

と。

それこそ超自然的な説明です。

もっと自然な説明はどうなるか。

まず、単なる偶然でこういうことが起こる確率はどれくらいあるか、調べる必要があります。

調べる方法はいろいろある。

ここでとても簡単な実験をしてみましょう。

コインを投げて決める実験です。

今日の聴衆の中に超能力者がいて、コインの表が出るか裏が出るかを意のままに操ることができるとする。

その超能力者が誰なのか、見つけることにします。

今コインを投げるので、このホールの左側の人たちは表が出るように念じてください。

本当に強く、表になるように、表を出すようにと。

で、ホールの右側の人たちは、全員裏が出るように念じてください。

どちら側に超能力者がいるか見るわけです。

良いですか、それでは行きます(コインを投げる)。

裏でした。

ですから、もし超能力者がいるとしたら、ホールの右側にいることになる。

右側にいる人は全員立って。

これからは消去法で行きます。

通路の左側の人たちは、表が出るように、通路の右側にいる人たちは、裏が出るようにそれぞれ念じてください。

(コインを投げる)


表です。よくやりました。

何回コインを投げたのか忘れましたが、おめでとう。(と左側の人に)。

全部で八回コインを投げたとしましょう。

そこで質問です。

彼は超能力者でしょうか。

確かに彼は八回連続して正解した。

これはなかなか大したものです。

ですが、もちろん彼は超能力者だという証拠はまったくない。

確かに彼はそのつど「表」や「裏」が出るように念じて、本当にそのとおりになった。

しかし実験のやり方を見ればわかるとおり、一回ごとにグループを分けていったので、彼が実際には(表や裏でなく)ハムエッグのことを考えていたとしても、全く同じ結果になったのです!

必ず誰かが明らかに超能力者にされることになる。


人が自分の神秘体験について新聞に書く場合、その体験というのは今やった実験のようなものなのです。タブロイド版新聞の販売部数は100万を超えているでしょうから、そのうちの一人が神秘体験を綴った場合、どうしてそういうことが起こったのか、もうお分かりでしょう。


したがって、神秘的な、気味の悪いテレパシーのような経験をしたというような話を聞いたら、必ずこの実験のことを思い出して、そうなる確率はどれくらいあるのか考えてみよう。

科学的な方法というものを頼りにし、信頼しよう。

妥当な科学的予測を信頼するのは、理にかなっているのです。


この書籍の編者で訳者の吉成真由美さんのインタビュー。


さすがにサイエンスライターだけに、という枠では収まらない


膨大な知識と個人の哲学を持ってインタビューされているのが伝わる。


 


第六章 真実を大事にする ドーキンス・インタビュー


進化


進化上の長い時間の概念 から抜粋


ーーダーウィンの提唱した、「自然選択」による進化論の概念は、シンプルでエレガントなものです。

しかし多くの人々が、特にアメリカに於いて、なかなか理解できずにいる。

一つ良い例を挙げますと、アメリカのとある小学校で、六年生が一学期間かけて進化について学習することになった。

三ヶ月間かけて、プレートテクトニクスや大量絶滅など、さまざまな進化のトピックスについて学習した後で、幅30センチ、長さ5メートルの白い巻紙と、1メートルの物差しを渡され、「進化の時間表」を作るという宿題が出たんです。

それまでに生徒たちは、白い巻紙に貼るために、進化上の動物や植物の切り抜きを山ほど集めてある。

さらにその巻紙には、各時代の大気の状態、陸や海の形状なども、時間を追って書き込むことになっている。


■ドーキンス

順序良くですね。


ーーそうです。物差しを使って。

で、最初の約4.6メートルは、地球誕生から現在までの時間表を書き込み、残り40センチはこれから地球がどう変化していくかを、これまでの学習に基づいて想像して書き入れるように指示されたのです。

(略)

そうしてはじめて、最初の4メートルはほとんどまったく空欄だということに気づくんです!


■ドーキンス

まったくそのとおりだ!(笑)


ーー人間の占めるスペースが5メートルの巻紙全体のたった4ミリにもならない。

大規模な絶滅の時期を示す線を引く際、90~95パーセントもの種が絶滅しても、地球は問題なく存在し続けてきたという事実を目の当たりにした時です。


■ドーキンス

それはすばらしい!

みごとな学習です。もう一つの上手いやり方は、子どもたちに両腕を広げさせて、まず右手の指の先を地球の始まりとし、左手の指先を現在とします。

そうすると、右手首から始まって大体左手の手首くらいまでは、色々なバクテリアが生息している時代、そして恐竜は大体左手の手のひらあたりで登場し、人間は左手の爪先くらいになります。

そして、人類の文明すなわち本を書いたりというようなことは、爪先をやすりでひとこすりして、爪から落ちた粉の分しかない!

進化を理解するうえで大きな障害となっているものに、この「深い時間の概念」というのはあると思います。

そしてもう一つは、カメラやテレビなど明らかに人間がデザインしたものに常日頃囲まれて生活しているために、何でもデザインされたものだと錯覚してしまいがちになるということです。


全て明らかに目的を持ってデザインされているように見えてしまう。

おそらくこのせいで、理解に時間がかかったのだと思います。

なぜダーウィンが出てくるまでに長い時間がかかったのか、いつも不思議でしょうがなかった。

ニュートンが出てから200年もかかっていますし、ニュートンの仕事の方がはるかに優れていて、難しいように見えるから。

でもこれはデザインの錯覚が強すぎたために、ダーウィンが見つけたような真実をそれ以前の人々が見出すことができなかったのだと思います。

そして人々は宗教がないと世界は破滅すると感じており、進化を無神論と同一視して、宗教上の理由から進化に対して敵意を抱いたことも災いした。


パラダイムシフト から抜粋


神は妄想である』の中で道徳に関する時代精神(Moral Zeitgeist)というのは、自然に変遷していくものだとおっしゃられておられます。

インターネット上で、特別なリーダーシップなしに、ある種の規律というものが自然発生していることが報告されています。

生物は、細胞性粘菌や鳥の群れ、魚の群れのように、自己組織化(self-organization)能力を備えているということの例であると言えるかと思いますが、インターネットを通じてつながることによって、人間は集団知能(collective intelligence)というものに基づいた「集団自己組織化」とでも呼べるものを生み出せるようになってきているのでしょうか。


■ドーキンス

実に魅力的な考え方です。

インターネットはまったく新しく、非常に得異なものであります。

ある意味、我々がうまくそれを扱っていること自体、驚くべきことです。

私の若いころは、誰もインターネットのイの字も思いつかなかった。

おそらく人間社会にとって、印刷技術の発明以来の画期的な出来事ではないでしょうか。

そして、ちょうどそれまでになかったようなやり方で印刷技術が人間を束ねたように、それ以上のスケールで人々がつながっていくでしょうし、大変なスピードで変化が起こっているので、次に何がくるのか予測するのは難しい。

インターネット全体で、一つの大きな生命体になるのではないかという人もいる。

それがはっきり何を意味しているのかまったく定かではありません。

しかし進化の過程を遡って、最初の神経細胞ができ始めた頃、誰かが、いずれこれらの細胞群が一体となって脳というものを生み出し、意識というものを持ち、それぞれの脳は、各々別の個体として認識されうる、というようなことを言ったとしたら、一体何を意味しているのかまったく定かではなかったでしょう。

私は私で、あなたはあなたと認識できる。

あなたは私がどのような人間か想像することはできても、本当の私がどういうものであるか実際に知ることはできないけれども、あなた自身はあなたであることがどういうものかを、よく知っている。

われわれは自己という実体がそれぞれの脳の中に存在しているという幻想を抱いている。

そしてこの幻想は、明らかに神経細胞の集団が生み出したものなのです。


インターネットの構造というか構成が、


系統樹そのものだから、


なんか親和性あると思ってたのは


自分だけではないだろうけど


このドーキンスさんの言葉は、自分にとって


なにか恐ろしいものを、若干感じる。


自分は今、若い頃に戻りたくないと


最大の理由の一つに


インターネットっていう存在があり、


しかしそれの恩恵も


こうしてうけている矛盾を


いつも感じておりまして


そんなことをいうのは


古い昭和人だからなのだろうかね。


それにしても、ドーキンスさん、


バサバサ斬っていかれるような


言説は実験に裏打ちされ、


ロジカルで爽快だけど、


そんなつもりはないのだろうけど


余計にこちらも怖さを感じて、


科学の一つの側面を


炙り出しているように思った。


蛇足だけど、キリスト教を敵に


回すような自論の展開は


現代のダーウィンみたいのようにも感じた。


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サル化する世界:内田樹著(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


サル化する世界

サル化する世界

  • 作者: 樹, 内田
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本

なんだかよくわからないまえがき から抜粋

すぐに「サルをバカにするな」とか「お前は差別主義者か」というようなリアクションがあってびっくりしました。

この本は「朝三暮四」の狙公(そこう)の飼っているサルの思考回路の特性を考究した話からはじまります。

ですから、正確に書くと「『朝三暮四』におけるサルの論理形式を内面化した人たちがいつの間にかマジョリティを形成しつつある世界について」ということになります。

でも、ちょっと長すぎるので、短くしたわけです。

現実のお猿さんたちに対して、僕は特段の差別感情も特段の愛情も抱いてはおりません。

ほんとに。

でも、このリアクションそれ自体もどうやら「サル化」の一つの徴候を著しているような気がします。


僕から皆さんへの個人的な提案は、「自分の身のほど」なんか知らなくてもいいんじゃないですかということです。

「自分らしさ」なんか別にあわてて確定することはないです。

三日前とぜんぜん違う人間になっても、それは順調に成長しているということですから、気にすることないです…というようなことです。

みなさんが罠から這い出して、深く呼吸ができて、身動きが自由になったような気がすること、それが一番大切なことです。


「身の程」は知らなくても良いけれど


「身の丈」は意識していた方が良いように思う。


自分の経験からして、なんですけどね。


「自分らしさ」は、何が「自分」なのか


考えている時間がもったいない。


「自分」を評価し決めるのは「他人」なのだから。


って、これ内田さんとか養老さんを


読んだから言ってるわけじゃあないよ。


若い頃からそう思ってたのです。


多分、思い違いなければ。


 


!時間と知性


サル化する世界ーーポピュリズムと民主主義について から抜粋


倫理的な人というのが「サル」の対義語である。

だから、ポピュリズムの対義語があるとすれば、それは「倫理」である。

私はそう思う。

たぶん、同意してくれる人はほとんどいないと思うけれど、私はそう思う。

自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」

と思い込む人たちが多数派を占め、経済政策や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしてる歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ。

「サル化」がこの先どこまで進むのかは、私にはよくわからない。

けれども、サル化がさらに亢進(こうしん)すると、「朝三暮四」を通り越して、ついには「朝七暮ゼロ」まで進んでしまう。

論理的にはそうなる。

そのときにサルたちはみんな夕方になると飢え死にしてしまうので、そのときにポピュリズムも終わるのである。

哀しい話だ。

「サルはいやだ、人間になりたい」

という人々がまた戻ってくる日が来るだろうか。

来ると良いのだが。

(2019年5月)


「自分さえ良ければいい」って品のない思想だよなあ。


でも、全く関係ないかっていうと、身に覚えないと


言い切れないような。潔白と言い切れないような。


さんざんキャリア志向の人たちとも


仕事してきて自分もそれに染まってたわけで、


でも致し方ないと思うのは


3ヶ月タームでどれだけ売り上げたか、だけで


存在価値を測る指標がないんだもの。


そこでいくら国のためなんて言ったら(思ったら)


笑われるか時代錯誤だって言われるのは


火をみるより明らかだったですよ。


でもずっと疑問に思ってたけどね、


右肩上がりの経済に幸福はあるのだろうかって。


何はともあれ自戒の意味も込めこの書籍を拝読したけど、


スッと入ってくるところ、かなりありました。


いい年してガキ なぜ日本の老人は幼稚なのか?

ーー内田樹が語る高齢者問題

編集者をつとめた『人口減少社会の未来学』の刊行にあたって、

「文春オンライン」でロングインタビューを受けた。

全三回分をここに採録する


「失われた20年」の迷走 から抜粋


92年のバブル崩壊で「金で国家主権を買い戻す」というプランが崩れ、2005年の常任理事国入りプランが水泡に帰して、経済大国としても、国際社会の中で果たすべき仕事がなくなってしまった。

 

「失われた20年」と言いますけれど、日本が中国に抜かれて42年間維持してきた世界第二位の経済大国のポジションを失ったのは2010年のことです。

バブル崩壊から20年近く、日本はそれでも世界第二位の金持ち国家だったんです。

でも、その儲けた金をどのような国家的目標のために使うべきなのかがわからなくなってしまった。

「腑抜け」のようになったビジネスマンの間から、

「自分さえ良ければそれでいい。国のことなんか知るかよ」

というタイプの「グローバリスト」が登場してきて、それがビジネスマンのデフォルトになって一層国力は衰微していった。それが今に至る流れだと思います。


経済って結局は人間が動かしているんです。

システムが自存しているわけじゃない。

生きた人がシステムに生気を供給してゆかないと、どんな経済システムもいずれ枯死してしまう。

経済システムが健全で活気あるものであるためには、その活動を通じて人間が成熟するような仕組みであること、せめてその活動を通じて国民的な希望が賦活されていることが必須なんです。


国民的な目標として何を設定するか、まことに悩ましいところです。

ダウンサイジング論や平田オリザさんの「下り坂をそろそろと下る」という新しいライフスタイルの提案は、その場しのぎの対処療法ではなく、人口減少社会の長期的なロードマップを示していると思います。

先進国中で最初に、人類史上はじめての超高齢化・超少子化社会に突入するわけですから、日本は、世界初の実験事例を提供できるんです。

人口減少社会を破綻させずにどうやってソフトランディングさせるのか。

その手立てをトップランナーとして世界に発信する機会が与えられた。

そう考えればいいと思います。

その有用な前例を示すのが日本に与えられた世界史的責務だと思います。


これから日本が闘うのは長期後退戦です。

それをどう機嫌よく闘うのか、そこがかんどころだと思います。

やりようによっては後退戦だって楽しく闘えるんです。

高い士気を保ち、世界史的使命を背中に負いながら堂々と後退戦を闘いましょうというのが僕からの提案です。

(『文春オンライン』2018年4月)


会社員だった頃、なにかと闘っている気がしたが


無力感を感じてしまうことが多く、


 


しかしそれは当たり前で、


相手が大きすぎて見えなかったからかもしれない。


そして、今、闘いすんだような気もしてるけど


実は生きている限り闘いなのかも、とか。


今は昔と比べ無力感がほぼないのは


個人のスキルで仕事をしていると思えるからかも。


それにしても内田さんの文章って深くて、


なぜかいつも戦闘的な印象がある。


だからって野蛮とかってことじゃないですよ。


元気が出るっていう意味で。尚且つ


品性はキープしつつ高みのある覚悟ある言葉に


圧倒されるなあと思わずにいられない。


養老先生も同じ括りなのだけど、口は悪く、荒くても


なんか品があるんだよなあ。


吉本隆明さん系なのかもという気もしてきた


冬の休日でした。


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何とかならない時代の幸福論:ブレイディみかこ・鴻上尚史共著(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


何とかならない時代の幸福論

何とかならない時代の幸福論

  • 作者: ブレイディみかこ・鴻上尚史
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2021/01/20
  • メディア: 単行本

ブレイディみかこさんから、ラブコールで企画実現。

鴻上さんの「ほがらか人生相談」「同調圧力」を


読んでのことのようで。


ブレイディさんは自分と同世代で若い頃に


受けたイギリス音楽が軸に生きておられるので


このお二人の対談が面白くないわけがないじゃないですか。


 


I 日本の現在地 私たちはどこへ向かっているのか


日本のバブル、「一億総中流」の時代にーー から抜粋


■鴻上

そもそも、イギリスにはどうして行かれたんですか?

 

■ブレイディ

私はもうティーンの時から音楽が…やっぱりUKロックというか、パンクが好きで。

 

■鴻上

ブレイディさんの今、着られているファッションがそうですもんね。

 

■ブレイディ

ポストパンクとかあのあたりからずっと延々、イギリスがとにかく好きなんです。

なんて言うんだろうな、「ワーキングクラス」っていう言葉を昔のロックの人たちはすごく使いましたよね。

80年代で私がティーンの頃、日本はバブルで、「一億総中流」という時代でした。

 

■鴻上

ソフト&メロウな曲が流行っていた時代ですね。

 

■ブレイディ

そんな時に、気骨あるワーキングクラスって、すごくかっこいいなと思って、私自身の父親も肉体労働者ですし、それはワーキングクラスじゃないですか。

だから本物のワーキングクラスの人々がいる国に行って、思いっきり本場の音楽を聴いてみたいって思ったんです。

高校を卒業してイギリスと日本を行ったり来たりするようになりました。

バイトしてお金を貯めてロンドンに行って、お金がなくなったら帰国して、またバイトしてお金を貯めて行って…と、その繰り返しでした。


イギリスで差別されていた地域の保育所で から抜粋


■ブレイディ

私が保育士の資格をとった頃は、イギリス人の貧しい家庭の子が主に来ていたんですけれども。

 

■鴻上

ホワイト・トラッシュ(低所得層の白人を指す侮蔑語)といわれるやつですね。

 

■ブレイディ

その頃から、託児所もすごく変わりました。

だんだん移民の方々が増えていくと、何かやっぱりそこに軋轢が生じてきて…結局移民の方が多くなってくると、白人の方がだんだん来なくなりました。顔ぶれがだんだん変わっていきましたよね。

それは『子どもたちの階級闘争ーーブロークン・ブリテンの無料託児所から』という本に書いているんですけど。

 

■鴻上

ぼくはイエローで~』を読むと、中学生同士でもう差別意識があったりするじゃないですか。

託児所レベルだと差別意識はまだ、そんなにないですか?

 

■ブレイディ

子供でも、差別意識を持っている子もいますね。

 

■鴻上

親の差別意識を刷り込まれる、ということですかね。

 

■ブレイディ

訳わからないまま口にしている子もいるけれど、でもまだ幼児同士の時の方が、まだ何か親から刷り込まれている痕跡がダイレクトに見えますよね。

 

■鴻上

幼児でも何でも意識を持たないまま親の差別的な言葉をリピートしてるのを見るのは、なかなか切ないものがありますよね。

 

■ブレイディ

だからイギリスの保育施設は、たとえば労働党が政権を持っていた時は、トニー・ブレアの一大革命で、保育の二本柱が「ダイバーシティ&インクルージョン(多様性と社会的包摂)」。

多様性推進をすごく柱に掲げていたので、そういう方面の教育は一生懸命しましたね。

その前は単なるケア。

単に子どもの面倒を見ることが保育士の仕事だと思われてたんです。

トニー・ブレアの政権は、保育を単なる「子どものケア」から「教育」に変えました。

だから0歳からカリキュラムがバッチリ作られました。

そのカリキュラムの中に、多様性推進がはっきり組み込まれています。

例えば、子どもが遊ぶ時のための、場所のセッティング。

小さなドールハウスをセッティングするとして、そこにいるのはお父さん、お母さんだけじゃいけない。

そうじゃない家庭もあるから、お父さんとお父さんにエプロンをさせて立たせておくとか。

あと必ず車椅子に乗った人形もあるんですよ。

メガネをかけたりとか、みんなちょっとづつ違う人形にしとこうねという意識。

そういうところまで気を使うという徹底ぶりはすごい。

これは日本でもやっているだろうかって考えました。

 

■鴻上

(略)

お父さんが二人エプロンをしているような人形を日本の保育園が用意したら、多分大騒ぎになるでしょうね。

だって選択的夫婦別姓でこれだけ揉めている国ですからね。


昨日もNHKニュースで、バービーちゃんの家族に


車椅子のキャラクターがいるということを(発売は2019年頃)


紹介されていたのを仕事中、チラッと見かけたけど


まだニュースバリューがあるうちは日常化してない証拠なので


定着するには時間がかかりそうな気も。


23年間、物価も賃金も上がらない日本 から抜粋


■ブレイディ

イギリスに移住してから23年って、すごい長いですよね。

でもなんかね、日本に帰ってきてもあんまり変わった感じがしないんですよ。

これはすごく珍しいと思います。

経済もそうじゃないですか。

だいたい23年間で、イギリスの物価はすごく上がっているのに、日本の物価はデフレでほとんど上がらない。

それに賃金も上がってない。

 

■鴻上

竜宮城の浦島太郎ですね。(笑)

 

■ブレイディ

そうですよね。

これほど変わってないというのは…鴻上さんがおっしゃっているように社会の人々の意識が。

何かかたくなに、変わらないでいたいのかなって。

 

■鴻上

怖いんだと思いますね。変わらなきゃいけないとはなんとなく思ってるんだけど、どこに向かっていいか分からないから、とりあえず現状を守っておこう、という意識じゃないでしょうか。


変わらない社会、日本、デフレが続く、から教育に話は移る。


■鴻上

『ぼくはイエロー~』の中で、教育が多く語られているじゃないですか。

日本も本当に直面しなきゃいけないことが、教育にもあって。

ただ「みんなで仲良くしましょう」という言葉で済ませる訳にはいかないわけです。

(略)

というのも、日本の教育は真逆に進んでいるように感じるんですよね。

最近、「もぐもぐタイム」という、給食の時間に一言も喋らないでご飯を食べるという指導が日本の小学校で広がってるんですよ。

広島から始まったんですけど、その理由が、いっぱいおしゃべりをするとたくさん残すから。

給食の時間に、はしゃいだり歩いたりする子供がいるから、一言も喋ってはいけないっていうのをやってみたら残食率が劇的に減ったということなんです。


もうなんか、イギリスの教育と真逆じゃないですか。

これに対して、もちろん抵抗している小学校の先生もいる。


給食の時間は食べることとコミュニケーションを


上達させるためにあるはずだとおっしゃっている。


残食率の軽減、フードロス、SDGs、とかに


流されそうだからねえ、昨今の世間は。


良い点悪い点の両面あると思うけど。


■ブレイディ

社交の場ですよ。

 

■鴻上

社交の、コミュニケーションが上達するための場でしょう。

その場に、沈黙が広がっているんですよ。もう怖くなるでしょう。

 

■ブレイディ

怖いですよ。どんな社会にするつもりなんでしょう。


II 社会と向き合う 表現としてのコミュニケーション


自助、共助、公助…という順番 から抜粋


■ブレイディ

菅義偉首相。

「まず自助があって、共助があって、公助だ」と言っていたのがネットで盛り上がってましたよね。

あれのまさに公助の部分が私に言わせると社会なんですよ。

自助というコンセプトは、新自由主義的で、いかにもマーガレット・サッチャー的というか、彼女は「社会なんていうのは存在しません」と言い切った人ですから。

自助が最重要なのだと本気で思っていたからこそ、新自由主義を信じた。

共助はまさに日本では、鴻上さんが言われる世間のこと。

身内で助け合えよということですよね。

 

■鴻上

そうです。だから公助よりも先に共助が来る。

自助、共助、公助っていう順番はものすごく分かりやすく日本の構造を著している。

 

■ブレイディ

そう。まずは自分でやれっていうこと。次に世間が来て、最後に社会システムという順序。

それがやっぱり日本的だなと思いましたね。

 

■鴻上

なおかつ、菅さん、絆って言葉を出しましたからね。

首相になってテレビに出演していた時、ニュースキャスターが

「自助、共助、公助ですよね」

と言ったら、

「それに絆があるんです」

と、堂々と言っていたので、驚いたんです。

ブレイディさんの『ワイルドサイドをほっつき歩け』で登場するスティーヴが、

「労働者っているのは助け合う。それが俺たちの労働者なんだ」

っていうくだりがあるでしょう。あれつまり、共助ということですよね。

 

■ブレイディ

ただね、あれが世間なのかっていうと、私まだこの共助という言葉の定義づけがすごく微妙なところだなと思っています。

実は私、アナキズム(国家や政府などの権力的支配を否定し、人間の自由を最高の価値とする思想)にも興味あるんですけど、アナキズムには相互扶助の考え方があるじゃないですか。

要するに、トマス・ホッブス(イギリスの哲学者。1588~1679)は

「人間というのは放っておけば、食うか食われるかの戦いを始めるんだ」

と言っている。

でも、ピョートル・クロポトキン(ロシアの政治思想家。1842~1921)はそうじゃなくて、

「人間は助け合う本能があるから今まで生き延びてきたんだ」

と言っているんです。

 

■鴻上

そうですね。

 

■ブレイディ

イギリスの労働党の相互扶助は、クロポトキンの方に近い気がする。

知っている人しか助けないってのは、彼らにはないものですからね。

ある種の下町的な人の良さというか、気がついたら体が動いて助けてしまっているみたいな、そういう助け合いのスピリットをアナキストたちも、大事にするんですよね。

最近亡くなったデヴィッド・グレーバーというアナキストの方がいて…アメリカの人類学者なんですけどね。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミストの教授だった方で、日本てもちょっと前に岩波から

ブルシット・ジョブ』って本が出ています。


その本に書かれていたのが、結局、この世の中にはブルシット・ジョブっている、あってもなくてもいいような仕事があると。

要するに、なくてもいい会議の前の書類を作り、なくても誰も困らない書類のための資料を集めるみたいな、オフィスワークとか管理職っていうんは、その存在を正当化しがたいほど無意味な不必要な仕事に満ちていると。

みんな長時間働くのも、何かすべきことがあるからじゃなくて、上司が見ているから帰れないとか、そういう意味のない時間を過ごしている人が増えずぎたというんです。

他人に不必要な仕事を割り当てるために存在し、無意味な仕事を作り出している中間管理職も増えていて、そういう事務の類は、ほとんどはなくていい仕事なんだと、彼は言っているんです。

まやかしの詐欺みたいな仕事だと。

 

■鴻上

なるほど。マックジョブ(低地位・低賃金・単調・重労働を指す侮蔑語)と呼ばれて労働のことじゃなくて、意味のない労働のことをブルシット・ジョブと呼ぶんですね。

 

■ブレイディ

はい、意味のない労働。

だから逆にマクドナルドで働いたり、お掃除をしたりとか、そういう仕事はこっちでは昔からシットジョブと呼ばれています。

要するに、本当にクソ(シット)みたいに安い賃金なのに大変な重労働で、人々にダイレクトに食べ物を与えたり、サービスしたりして、誰かをケアしている仕事。

たぶん、グレーバーはそれのもじりでブルシット・ジョブという言葉を作ったのでしょう。

「ブルシット」は、まやかしとか詐欺とか、嘘みたいなと言う意味も入ってくるから、あってもなくても誰も困らない。

蜃気楼のような仕事だと言う意味で。

このコロナになって、エッセンシャルワーカーとかキーワーカーって言われた人たちは、外に出て働かなきゃならなかったじゃないですか。

はっきり言えば、それこそがシットジョブだった。

低所得のゴミの収集職員だとか、介護士さんとか、保育士もそうだし。

一方でブルシットはみんなオフィスに行かなくてもオンラインで、在宅で働けた。

何が本当に社会にとって必要な仕事なのかがコロナで明らかになったよねと、グレーバーは書いていた。

だからこそ、ふだんは報われないシットジョブの人たちがヒーロー視されることになった。


なくても良い仕事、なくては困る仕事、それの粛清というか淘汰が


このコロナで、また、AIの進歩で行われるのだろうかね。


なくても生きていけるけど、人が豊かになる仕事、とかはどうなるのか、とか。


今は、日常をキープすることに全力を注いでから、後で考えよう。


政治参加する人間を育てる、英国のシチズンシップ教育 から抜粋


■ブレイディ

もう一つ言えば、歴史の授業。

学校が再開して最初に授業でやったテーマがブラック・ライヴス・マター。

奴隷商人だったエドワード・コルストンという人の銅像がアメリカのブリストルにあったんですが、あれが引き倒されて海に投げ入れられたことは、世界中でニュースになりましたよね。

あれはイギリスで大きな論争になったんですよね。

歴史的なものを壊すのはただのバンダリズム(芸術・文化の破壊行為)じゃないかという人々もいて、いや、こういう経過を経て時代は変わっていくんだ、変化を恐れるなという意見もあって、メディアや地べたでもすごい論争になったから、これについてどう思うかと最初の歴史の授業で話し合ったらしいんですよ。

ロックダウン中だから、家で親とその話をした子も多いと思うし、なかには親が話した内容なのかと思うようなすごく保守的なことを言う子もいたそうです。

いや、本当にその銅像が気に入らないんだったら、銅像が気に入らないかどうかその市で住民投票をやって、嫌がっている人が多かったら撤去すればいいんじゃないかと言う子もいたり、いろんな意見が出るわけですよ。

結局、一番多かったのが、落書きアーティストのバンクシーが確かTwitterで書いていた意見ですけど、銅像の首をロープで巻いて、みんなで引き倒している姿を模(かたど)った銅像を新たに歴史的な記念碑として作っておけばいいんじゃないかっていう意見。

そしたら、その銅像を元の場所に置きたい人もハッピーだし、ブラック・ライヴス・マターの人たちもハッピーなんじゃないかと、バンクシーは書いていたんです。

うちの息子のクラスでは、その銅像をバンクシーのツイートのようにするのもいいんだけど、銅像の側に、例えばみんなが海に沈めているような写真とか絵を張った記念碑を隣に作るとか、あるいは、銅像の脇にその時のニュース映像のまとめをエンドレスで映写する小さな建物を作ったらいいんじゃないかって言う意見も出た。

それで、これはすごいなと思ったのは、どうしてそうした方がいいのかっていう質問に、

「未来の人たちの知る権利のため」

って言った子がいるんですって。

「人間というのは、今生きている人だけじゃない。

未来に生きる人たちにも、過去に起きたこと、つまり、今この時代に何が起きているかということを知る権利がある。

だから、未来の人たちが、今イギリスで起きたこういうことを知るために、自分達は記録を残さなきゃいけない。

だから、未来の人たちの権利を守るためにそうした方がいいと思います。」

って言ったらしいんですよ。

(略)

■鴻上

そういう授業が当たり前になってきたら、公文書を改ざんすることがどれだけ愚かなことか、ということもわかるでしょう。

公開請求された文章を、真っ黒に塗りたくって公開することがどれほど愚かということもよく分かりますよね。


日本で70年以上戦争がなかった理由 から抜粋


■鴻上

日本で70年以上も戦争がなかった理由は、やっぱり戦争体験者の強い語りにあると思う。

おじいちゃんおばあちゃんも、とにかく戦争は勝っても負けてもダメなんだと、理屈を超えて次世代に伝えてきたから。

それは日本人が学んだことだと思いますね。

僕らは、民主主義は血を流して学ばなかったけど、戦争のむごさや悲惨さは、日本全土が空襲されてみんな学んだということはあると思うんですよね。

それと、コロナ禍でも日本人は学習したと思いますね。

日本人は全部政府にお任せしている意識から、コロナ禍で、自分達で考えるという訓練を突きつけられている気がすごくしているんです。

コロナは嫌なことばっかりだけど、唯一、

「日本人に自分の頭で考えること」

を突きつけてくれたと思っています。

それは、とても素敵なことです。(2020年秋)


何でもかんでも、外国の模倣が良いとは思えないけれど、


何故自国では問題なのだろう、とか、


次に進めないのはなんでだろう


とかってのは大事なことなのではないだろうか。


それには規模感とか文化とか似ている国を


参考にするのが良いと思うのだけど。


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コロナ後の世界:内田樹著(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


コロナ後の世界

コロナ後の世界

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2021/10/20
  • メディア: 単行本


コロナ後の世界(2020年) から抜粋


この後コロナが終息しても「元の世界」に戻ることはないだろう。

「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるだろう。

政治的変化について私が危惧しているのは「民主国家よりも強権的な国家の方がパンデミック対応能力が高い」という評価が定着することである。

中国は武漢の都市封鎖や「一夜城」的な病院建設というような民主国家ではまず実行できそうもない政策を遂行して、感染抑制に成功した。

逆に、アメリカではトランプ大統領が秋の大統領再選という政治的な自己都合を優先させて、初動において大きく後れをとり、感染が広がり出してからも適切な措置を怠った。

「選挙」というのは民主制の基本をなす活動だけれど、それを優先させたために、巨視的な対策を採れなかった。

この差はさしあたりコロナ禍が終息した後のアメリカの相対的な国威低下と中国の相対的な国威向上として帰結するだろう。

パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンスが逆転することはないにしても、中国のグローバル・リーダーシップがアメリカに肉薄する可能性は十分にある。

中国はそもそも新型コロナウィルスの発生源であり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的体制の脆さを露呈したが、党中央が直接現場を仕切るようになってからは一気に感染拡大を抑え込んだ。

それだけではなくて、他国の医療支援に乗り出した。

中国はマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点である。

どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できるし、在庫も十分にある。

このアドバンテージを利用して、北京は医療支援を外交的な手段血すて最大限に活用し始めた。


今後コロナ禍が終息して、この歴史的出来事を総括する段階になった時におそらく

「米中の明暗を分けたのは何か」

という問いに

「民主制は独裁制よりも危機対応能力が低かった」

という答えが導かれることを私は深く懸念している。

確かにその指摘は部分的にあたっている。

中国では、血みどろ党内闘争に勝ち残った人間しかトップになることができない。

中国では、無能な人間が14億の国民の指導者になる可能性はほとんどない。

それに対して、アメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。

アレクシス・ド・トクヴィルが看破した通り、アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親しみを感じる傾向がある。

だから、トランプのような知性にも徳性にも著しく欠けた人間が大統領に選ばれるリスクがある。


アメリカでは、無能な人物が大統領に選ばれても統治機構に致命的な傷を与えることができないように制度設計がなされている。

建国の父たちはデモクラシーの社会では

「無能な人物が指導者に選ばれるリスクが高い」

ことを見通しており、そのリスクを抑制するための制度を準備していたのである。

トクヴィルはその炯眼(けいがん)に敬意を表している。

だが、トランプのアメリカは明らかに習近平の中国よりも感染症対策で大きく遅れをとった。

パンデミックについては、アメリカン・デモクラシーよりも中国独裁制の方が成功しているように人の眼には見えるだろう。

だから、欧州や日本でも、遠からずこれを奇貨として「緊急事態に際してはトップに全権を委任して、民主制を制限すべきだ」と言い出す人が出てくるはずである。

日本の場合は、すでに自民党が2012年の改憲草案の「緊急事態条項」で行政府への権限集中を訴えているが、改憲派の人々は必ずや今回の災禍を改憲に結びつけて、私権の制限を声高に訴えるはずである。


今はアメリカ・バイデン政権なので様相は変わっている。


知性・特性は上がっているのだろうか。


中国はピンチをチャンスに変えたり、その逆だったりせわしない。


外交のカードとして注目を浴びて、したたかな戦略も感じる。


その中で日本はこのコロナで何を学んだのだろうか。


直近の日本政府、ご指摘の「改憲派の私権の制限」や


このコロナと直接関係してるのかわからないけど


北朝鮮・中国の台湾への牽制などを見据えた


防衛費増税に踏み切った岸田政権。


それを国民に負担を強いるようだが、納得できないよな。


防衛費増税自体は、賛否あるだろうけどやむを得ない


ところあるのかなと自分は思うが。


そもそもこの事案は多くの同意を得るには難しい。


これからどのようにリカバリーして国民と向き合っていくのか


総理というか与党の手腕が注視される。


しかし、政治に対する、評価とか、態度とか、


現代は誰が取り締まるのだろうか。


作家も重要な監視塔であってほしいと願うのは


自分だけではないだろう。


そしてその役目の人は、できれば


国民のメンター(先達)であってほしい。


「コロナ以降」の日本で民主主義を守るための急務は「大人」の頭数を増やすことである。

繰り返し言うように、何も国民全員が「大人」になる必要はない。

「私は子供でいたい」と言う人はそのまま子供でいてくれて構わない。

でも、せめて7%、35人のクラスならそのうち3人くらいが、道に落ちている空き缶を拾うとか、おばあさんの荷物を持ってあげるとか、赤ちゃんを抱いている女の人に電車の席を譲るとかいうことを「肩肘張らずに」できるようであってほしい。

それくらいの頭数があれば民主制はもうしばらくは大丈夫である。

そのパーセンテージを切ったら、もう先はない。


カミュの『ペスト(1947年)』を例に取られ作家のあるべき態度としてなのかな?


こうも書かれている。


猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織する。

これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされている。

今、私たちは新型コロナウィルスという『ペスト』に対抗しながら、

同時に独裁かという「ペスト」にも対抗しなければならない。

その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に

描いたものとして読むこともできる。


戦争が終わって2年後の出版。


文学が政治を監視していた時代だったという気がする。


その後、カミュはノーベル文学賞を40代で受賞しているのだね。


話全然変わって大瀧詠一さんの追悼文。


大瀧詠一さんを悼んで(2014年)


去年の暮れに7回目の収録のための日程調整のメールを平川くんが送ったとき、大滝さんから

「去年が最後のつもりだった。だからスタジオにおいで頂いたのである」と言う返事がきた。

「始まりのあるものは、いつか終わる。」と言う言葉が書き記してあったそうである。

いかにも大瀧さんらしいと思った。

僕は定期的に会えなくなったせいでがっかりするより、なんだかうれしくなってしまった。

先ほども書いた通り、大瀧さんは「あらゆるものを見ている」わけで、僕にしてみたら、そばにいてもいなくても、いるのである。


大瀧さんは僕がツイッターやブログに書いたものをずっと読んでくれていて、

「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいないだろうな…」

と思うトピックに言及すると、ほんとうに数分以内にメールがきた。

だから、ナイアガラーにとって最大の名誉は、

「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいない」

ことを自力で発見して、大瀧さんからのメール認知を得ることである。

僕は2度その栄誉に浴した。


一つは2年前。ニール・ヤングの「Till the morning comes」は僕の耳にはどう聴いても「死んだはずだよお富さん」と言う春日八郎の『お富さん』のフレーズをそのままに聞こえる。

果たしてニール・ヤングが春日八郎を聴いた可能性ってあるのだろうかとそのとき、ブログに書いた(そう思ったのは1970年のことなのだが、言葉にするまで42年逡巡がの時があったのである。)

そのときは大瀧さんからすぐにメールが来て、アーサー・ライマン・バンドの演奏するOTOMI SANの映像がYoutubeにあると教えてくれた。


もう一つは、仕事をしながらBGMにデイブ・クラーク・ファイブを流していたら、『ワイルド・ウィークエンド』のイントロ部分に聞き覚えがあった。

顔を上げて、もう一度聴いてみたら、大瀧さんが作曲した『うなずきマーチ』の冒頭のビートきよしの音程のいささか甘い独唱部分とそっくりなフレーズだった。

二つの音源をYOUTUBEで探してツイッターに貼り付けたら、大瀧さんからすぐにメールがきた。

「この二つを結び付けられたのは内田さんが地球上で最初の人です」

つまり、大瀧さんは「ワイルド・ウィークエンド」を自作の「歌枕」にカウントしていなかったのである。

それを知らされて、ちょっと残念です、と書いたら、すぐまた返事がきた。

「”残念”ではなく、本当に見事な”新解釈”なのですよ!

あの曲の元ネタは、The Rivingtonsと言うグループの「Papa -Oom-Mow」です。

それがまさか、DC5の”ワイルド・ウィークエンド”と同じになっているとは!

今日の今日まで気がつきませんでした。

確かに同じですね!

こりゃ大笑い!

DC5は何万回と聴いているのでどこかでそれがあったのかもしれません。

しかしそれにしても、ビートきよしが、マイク・スミスとは!!

これは内田さん以外に提唱できない、”超解釈”です。」

大瀧さんからもらったメールの中でこれほどうれしかったものはない。

そのとき、一瞬だけ、大瀧さんと同じ「歌枕」に立って、

同じ方向を見ているような気がした。


大瀧さんが亡くなってはや9年。


この内田さんの文章はなんか泣けてくる。


文中にもある最後のラジオデイズ(2012年)は、


福生のスタジオで録音されたもので、興味深く、


いや単純に面白くて何回も聞き込んできた。


この文章を読んでから改めて聞き直すとさらにしみじみする。


これが最後だったのか。


収録最後に内田さんが仰る「じゃ、また来年」と


いうのは叶わなかったわけで。


おかしな表現しかできないけど、”深い落語”のよう


”洒脱な大人たちの説法”とでもいうか。


ところで余談なんだけど、音楽わからない人には


なんのことか全くわかりませんよ、これ。


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形を読む:養老孟司著(2020年)他1冊 [’23年以前の”新旧の価値観”]


形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: Kindle版

副題が、「生物の形態をめぐって」。


文庫版まえがき(2019年)から抜粋


この本は私が単行書として書いた最初の本である。

正確にはいつだったか、むろん覚えていない。

ともあれ三十代の後半から四十代の初めには、ここに書いたようなことを真剣に考えていた。


少しややこしい説明をすると、この本で強調した繰り返しの問題は、新潮新書『遺言。』の主題となった。

差異と同一性の問題である。

本書『形を読む』から一昨年の『遺言。』まで、半世紀近くにわたって、同じ主題を繰り返し考えている。

でもそう思ってくれる人は少ないだろうと思う。

この本を書いたころは、まだ自分の考えが理解されるかもしれないと思っていた。

だから「真剣に」書いたのである。

いまは必ずしもそう思っていない。

それなら不真面目になったのかというと、そうではない。

近年の脳科学では、喜怒哀楽のような情動ですら、客観的な基準はないとされる。

考え、つまり思想も同じであろう。

論理的であるだけなら、コンピュータに任せればいい。

アルゴリズムに従って、きちんと解答を出してくれる。

それに対して、自分の考えを記すというのは、まさに個人的な作業であり、おそらくそれは個人の脳に依存する。

諸科学に普遍性があると信じるなら、それはそれでいい。

そう述べるしかない。

歳を経て、私自身はそうは考えなくなった、というだけのことである。


はじめに から抜粋


この本の内容すべてが、自分の独創的見解なら、それにこしたことはない。

しかし、むろんそうはいかない。

第一に、ヒトは、きわめて長い期間にわたって、生物の形を扱ってきた。

したがって、

「太陽の下に新しきことなし」

と歌った、古代ローマの詩人のことばを引くまでもなく、この分野にとくべつ新奇なことがあるとも思えない。

第二に、私もかなり年をとった。

眼鏡を外さないと、解剖すらできない。

最近、それに気がついた。

むろん老眼のためである。

当然のことながら、記憶もずいぶん悪くなった。

したがって、自分の考えが、はたして自分の独創であるのか、読書や他人の講演を聞くことによって、途中から頭に入ったものか、そこも今では、不明確になってしまった。

現在私のものである意見が、自分の意見なのか、もともと他人の意見だったのか、そこがはっきりしない。

そういうわけで、この本で議論していることは、古くから多くの学者たちが考えてきたことを、たくさん含むにちがいない。

もしそれに、私がなにか付け加えたとすれば、古言の歪曲か、余計なことだけかもしれぬ。

形態学のような古い学問では、それはそれで仕方がない、と私は考える。


学問は、時代とともに変わるように見える。

とくに現代では、その勢いは著しい。

しかし、それを扱っている人間の方は、所詮変わらない。

そうでなければ、私の観点には、むろんほとんど意味がない。


書いているうちに、こっちの考えもだんだん変わるから、なかなかできあがらない。

いじれば、いくらでもまだいじれる。

際限がない。

もういい加減にやめようと思っているうちに、とうとうできあがった。

それにしては、内容はたいしたことはない。

それは、本人の能力だから、仕方がないのである。


いやあ、文庫化され2022年現在も新書で売られているので、


すごい内容なんだと思いますよ。


軽やかで謙遜としかとれない姿勢はこの頃からだったのですなあ。


ただ一点思うのは、最近の書籍と比べ、表現とか扱う素材がハードだなと。


口幅ったいことを申し上げるとすると、この後世間に揉まれての文章と比べ


慣れておられないということかなと。どもすみません。


第二章 形態学の方法


4 方法の限界ーー馬鹿の壁 から抜粋


第一章では、自然科学とはなにかを、自然科学を中から見て考えた。

ことばや画像のような「方法」は、もちろん情報の伝達可能性にも関係している。

そこで、自然科学を、この面から考えてみよう。

自然科学の分野がこれだけ広がり、日常的になってくると、科学内部の方法の問題だけではなく、対社会、すなわち情報の伝達可能性が問題になる。

早い話が、ほとんどの人が理解しない科学は、やがて滅びるはずだからである。

自然科学を、情報の伝達という面からみれば、自然科学とは、ある特定の限定された情報群のみをあつかう作業であり、その限定条件とは、その情報が現実に対応して「検証」され、それらの情報の伝達に、本来、多義性が存在しないというものである。

解釈のしようによって、どうとでも考えられる、という法律のようなものでは困る。

自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。

あるいは、自然科学とは、無限に多様な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。


先月NHKのスイッチインタビュー「養老孟司×太刀川英輔」という番組で、


養老先生、この書籍のことを話されてたのだけど、


自分も大昔、デザインで生計立ててた時期あり、


太刀川氏の言っていた


「デザインを追求していると最終的に美しくならざるを得ない」


みたいなのはすごく納得、養老先生が引き合いに出したこの書籍も


その視座では合点いったものの、総体的に難易度高い、


自分のおつむの弱さを露呈してしまった。


第七章 機械としての構造


3 現代の機械論 から抜粋


ドーキンスに『生物=生存機械論』という書物がある。

これはいわゆる社会生物学を解説したものであるが、基本になっている考えは、遺伝子は生きのびるために、いままでありとあらゆる手練手管を使ってきた、というものである。

あらゆる環境をくぐり抜け、遺伝子は、じっさい、数十億年にわたって保存されてきたのだから、右のように表現したところで、それほど事実と食い違うとはいえない。

いまの世の中で、遺伝子にも意識があるのか、と疑問を発するナイーブな人が、そういうとも思えない。

この場合の「機械論」は、生物のある種の行動は、なんらかの前提、ここでは遺伝子の保存であるが、それをおくかぎり、まったく論理的に説明できてしまうというものである。

社会生物学は、その前提から、生物の利他行動というおかしな現象を、いとも数学的に、つまり没価値的に、証明してしまった。

もっとも、このばあい、価値は、じつは遺伝子の保存ということに集約されている。

それが、自律的な機械という、古来の生物のイメージに、なんとなく反するところが面白い。

つまり機械論としての社会生物学の変わっている点は、個体の価値を「機械」的なものに置換したこと、つまり古くから暗黙の前提だった。

「生きること」ではなく、「遺伝子の存続」のみに置き換えたところである。

したがってこうした「機械論」は、いわば目的論の変形であって、ここでいう物理化学的な機械論ではない。


機械論的な観点は、元来はマクロの、つまり目に見える構造をあつかってきたが、今世紀に入って、化学が発達するにつれ、分子の水準で大きな威力を発揮するようになった。

現在の技術なら、分子を可視化することも不可能ではない。

しかし、その解像力は、まだかなり限られている。


科学者って生物を機械としてよくとらえるなあ、


というのは利根川博士と立花隆さんの対談にもあって


最初は驚いたけど、ここでも研究されているってのは、


やはりそうなのかなあ、と非科学的な自分は半信半疑。


生物は機械なのか?と稚拙な驚きでした。


ドーキンスさんって、ウィキで見るかぎり


めちゃくちゃラジカルな感じですなあ。


第十章 形態の意味 から抜粋


なぜわれわれは、意味を発見しようとするのか。それは、おそらく、知りたいからである。

あるいは、理解したいからである。

「わかった」ときの喜びは、きわめて素朴なものだが、強烈である。

それはたぶん「中毒」をひきおこす。

アルキメデスが、裸で風呂から飛び出したという話は、「わかった」からである。

かれにとっては、それが学界未知の事実であろうと、きわめて高度の論理であろうと、そんなことは無関係だった。

かれの発見が、かれにとって、まさしく「発見」だったから、風呂から飛び出した。

たとえささやかなものでも、いったん、この種の発作を経験すると、ヒトは中毒を起こす。

動物に、こういう反応があるかどうか、私は知らない。

しかし、これだけはっきりした反応である以上、その初期的な現象は、動物にすら、おそらく存在するであろう。

ネコはネズミの出入り口を発見すると、一日中でも、そこで待っている。

私が五十年解剖学をやっているのも、たぶんそんなものであろう。


「意味」の有無って、現実ではよく使いますよね。


「これに意味あるのか?」とか、「意味のある行動」とか。


その「意味」とここで取り上げられている「意味」って


質が異なるような気がする。


「意味」には二つの種類があって、「深い」「浅い」があって、


現実生活でよく使うのは「浅い」のではないだろか。


そんなに連発するようなものでは本来ないのでは


と思いながらもいつも使っている。


それにしても、五十年学問をやられているのって単純にすごいな。


それこそ中毒ですよなあ。


この書籍、自分にとっては全然、形を読めてないので消化不良だけど


違う成果として、初期から養老節全開だったのかと思いきや


最後に「文庫化にあたり、加筆修正を行いました」とあり


最近の養老先生の筆致っぽいのはそういう理由だったのかも


っていうマニアックな納得をした次第。


余談だけど、奥付けでは、2020年第一刷でした。


(補足の追記)


養老孟司の<逆さメガネ>:養老孟司著(2003年)


エピローグ 男と女は平等か


哺乳類ではメスが基本 から抜粋


日本の女性は抑圧されている。あるとき外国人のフェミニストがそう言ったから、

「抑圧されると、人間はずいぶんと寿命が延びるんですなあ」

と申し上げました。

なにしろ女性の平均寿命が85歳、世界一じゃないんですか。

男なんか、まるで問題になりませんわな。

こんなことを書いていると、どこがフェミニストだと、叱られそうですな。

私が最初に書いた本をぜひ読んでください。

『形を読む』と言う本なんです。そこに書いたことがあります。

人間の骨でいちばん異なるのはどこか。

それは骨盤だと、たいていの人は知ってます。

世界各国の解剖の教科書を読んでも、そう書いてあります。

その通りなんですよ。

さらに理由も書いてあります。

女性の骨盤はお産に適するようにできている。

だから男と違うんだというわけです。

これは明らかな偏見ですな。

偏見ですけど、それを過激なフェミニストでも指摘しません。

どういう偏見かというと、「お産をする」ことが必然とは思ってないところです。

あなただって私だって、先祖代々、誰だって人間はお産で生まれてきたんですよ。

それならお産をする骨盤が、「正しい」骨盤じゃないですか。

お産がなけりゃ、人類は存続してこなかったんだから。

男はお産をしないで済むから、骨盤の形が変わったんですよ。

いってみりゃ、男の骨盤が「変な」骨盤なんですよ。

男の骨盤だけになっていたら、たぶん人類は滅びてますな。

でも、そう書いてある教科書は一つもありませんでした。

生物学をちょっと勉強すれば、哺乳類ではメスの形が基本だとわかります。

オスを去勢すれば、メスの形に近づくじゃないですか。

メスを去勢する、つまり卵巣を取り除いたって、さしてオスに近づきませんよ。

聖書はアダムの肋骨をとってイヴを創ったと書きましたが、これは嘘ですな。

イヴの肋骨をとってアダムを創ったんです。

神様が間違えるはずはないから、聖書を書いた人間が書き間違えたんでしょうな。


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