SSブログ

「バカの壁」をぶち壊せ! :養老孟司・日下公人共著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「バカの壁」をぶち壊せ!

「バカの壁」をぶち壊せ!

  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2003/09/19
  • メディア: 単行本

カバー袖に、お二人のダイジェスト的なコメントから引用。


■日下公人

マクロ経済学はアメリカの大不況の前後に生まれた経済学ですから、需要はいくらでもあったが、金がないという時代の貧乏経済学です。

供給過剰の時代となったら、マクロ経済学の理論は通用しません。

だから、「エコノミスト」と言われる人たちの予測があたらないのは当然です。

かつてケインズは、

「経済学はいずれ死ぬ。みんなが満足して欠乏がなくなってしまえば経済学はいらない。それは金利が1%になったことによってわかる」

と言っています。

だから、今、経済学は死にました。

ケインズ経済学派の人たちはみんな失業していないといけません。


■養老孟司

銀行の問題となると必ず出てくるのが「不良債権」という言葉ですが、あれは、「不良借主」のことでしょう。

債権というニュートラルなものに、不良品があるという感覚を押し付けていますけど、結局は、借金を返さないっていう奴がたくさん出てきたというだけのことです。

日本も将来を考えた改革を何かしなければいけないとしたら「参勤交代」はどうかと僕は思っています。(笑)

日本人全員が都会と田舎の二つ住所を持って、一年のうち、半分は都会に、半分は田舎という風に参勤交代をすればいいんです。


これだけでは当然足りてない、


お二人の知性が横溢しまくり


一般の常識からは見えないくらいの高さまで


跳躍されている書籍だった。


 


まえがき 日下公人 から抜粋


昔、江戸時代の人は「老後」と言わず、「老人」と言って、ご隠居さんになる日が来るのを楽しみにしたというが、私にもそんな日が突然やってきた感じの対談だった。

ロジャー・ベーコンは人が無知になる原因として、

 

 ①権威を崇拝して思考停止になる

 ②旧慣墨守で新しい刺激を受け付けなくなる

 ③大衆迎合で目立たないことを第一に心がけるようになる

 ④知ってるふりをする

 

などをあげたが、そういう人生態度を超えると面白い発想が次々と汲めども尽きぬ泉のように出てくることを養老先生は示してくれた。


「自分のことは棚にあげるクセがつくと無知になる」

というのをベーコンの法則の五番目に付け加えておきたいと思ったが、それを本書のまえがきにも書き加えるとしよう。


第一章 経済学者を決して信じてはいけない


三 数字には詳しくても、経済に詳しくない経済学者


●雑学を知識だと勘違いしているのが日本人であるーー養老孟司


から抜粋


今年にはいってから、SARS(重症急性呼吸器症候群)のことが心配だとか言っていましたが、SARSのことを理解している人はいない。


タバコの害に対する影響だってそうです。

以前、イギリスが中国の数都市で、肺がん発生率の統計を取るという疫学調査をやったところ、一番多い都市と一番少ない都市との差が四十倍くらいありました。

ということは、肺がんの理由がタバコのはずがないんです。

一般的な大気汚染の影響で肺がんが増えていることは分かっています。

大気汚染ということは、ディーゼル燃料から始まって自動車エンジンは全部問題です。

それを言えないから、タバコに罪を負わせてる。

すべての航空会社が禁煙になったのもおかしい。

禁煙を許す会社があったっていいはずです。

たけど、そう言い始めた途端に、そうした意見は潰されてしまう。

どこかに政治的な動きがあって、誰か仕掛け人がいるはずですが、メディアはいっさい報道しません。

ニクソン大統領の時の反捕鯨運動がそうです。

ベトナム戦争で枯葉剤をまいたことが問題になりそうだから、矛先を他に向けようということで、反捕鯨運動をやれという話になった。

相手はノルウェーと日本だけだから、アメリカにとって全く害がない。

たぶん、タバコも何かの目くらましだと思います。

犯人像に最も近いのは大気汚染の元凶、つまりは自動車産業、あるは石油産業でしょう。

それがあるから、僕、あえてタバコを吸っているんです。


四 マクロ経済は欲望が肥大化した「地獄の経済学」


●経済活動は脳の働きが三次元化したものであるーー養老孟司 から抜粋


実体経済というのは、それ自体が脳そのものではないかと思います。

お金の単位というものは全部「一」です。

それを脳細胞でいうと、一回の信号のやりとりです。

神経細胞が興奮すると、脳の神経細胞=ニュートラル・ネットのある部分で一瞬、パルス(電気信号)が発生して、それが次々と伝わっていきます。それが「一円」ということです。一秒間にパルスが何回発生するかでどれくらい興奮しているかがわかります。

普段考えこともないかもしれませんが、人間の体というのは、眼から入っても、耳から入っても、足から入っても、全部、神経細胞の単一のパルスに変換されています。

そうすると、それは、一回の変換ですから、一回の興奮が一円になります。

興奮は生理的プロセスですから、一回の興奮には10ミリセコンド=100分の1秒単位の時間がかかります。

頭の回転の速い人も遅い人も、この速さに違いはありませんから安心してください。

その後に不応期といって、やはり100分の1秒の休みがあって、その時間はたとえ正面から叩かれても、外部からの刺激には反応できません。

神経細胞の興奮は完全にデジタルになるわけです。

「1」と「0」です。


経済用語にキャッシュフローというものがありますが、それもまた、脳の中を、一つひとつのパルスが行ったり来たりしている動きを想像すると、お金をやり取りしているのと同じです。


基本的にお金というものがなぜ生まれたかを考えると、お金と脳に入る情報の性質を外の世界に出したものだというのが僕の意見です。

人間の脳には無駄が多いというところも似ています。

犬や猫だって結構無駄なことをしています。

逆に昆虫とかはほとんど無駄なことはしません。

脳が非常にかっちりとできているからです。

ロボットと同じです。

生き物というのは色々な原則を持っていますが、その一つがいらないものはどんどん省略してしまうことです。


人間は脳を大きくしてしまったから、脳を退化させずに使うために、しょうがないから頭の中をぐるぐると無駄に回していくことがどうしても必要になりました。

神経細胞のやり取りを頭の中だけでやるようになったのです。

常にテレビを見たり、ゲームをしたりして刺激を与えています。

これが哲学者や数学者となると、刺激がなくても自分の頭の中で刺激を作って回すことができるようになります。

経済もそれと似ています。

だって、食っていけるだけのことをして、普通に暮らせるので十分だったら、こんなに財貨はいらないはずです。

それをどんどんどんどん大きくせざるを得ないから大きくしているということでしょう。


●現代人が毒されているマクロ経済学は「地獄の経済学」ーー日下公人


から抜粋


それはアダム・スミスから始まる間違いです。

彼が経済学を作ったとき、ニーズ(必要)と言わず、ウォント(欲求)とかデザイア(欲望)といいました。

欲望は無限大です。

「必要の経済学」としていれば、「もう結構」という限界があったのが、欲望という言葉で経済学をスタートさせたので、その後に続く人は、「利益の極大化」などと言い出した。

極大化とは天井知らずということで、まさに、「地獄の経済学」になってしまいました。

無間地獄です。


「ニーズ」「ウォント」とかでドキュメントを作ってた会社員時代。


スミスさんだったのかと無知の知を知る。


そしてそれをもさえ否定される方がいるのですね。


スミス氏の言説とは時代が違うから一概に間違いとも


言えないような気も微量にありますけど。


 


第六章 日本共同体が21世紀の世界を救う


五 21世紀的「参勤交代」で苦境を乗り切ろう


●人口が減るのは若者にとってはチャンスであるーー日下公人


これから少子高齢化ですから、どんどん人口が減って、若い人たちにはチャンスです。

家は余ってくるし、電車は空いてくるし、病院も空いてくる。

今は一人っ子が多いでしょう。

一人っ子の夫婦で親が死んだら、家が二軒もらえるんです。


持ち家で、資産価値のある場所にあれば、って話だよねえ。


普通はそうじゃないこと、多いからなあ。逆に赤字の可能性も。


管理維持にもお金かかるしなあ。


これは当てはまらない人多いのでは。


シリアスにとらえず、楽観論でいなさいってことで。


 


●若者特有の近視眼的な見方を見直してみるーー養老孟司


若い人というのは、その時、その時の短いスパンでしかものを考えられないんです。

僕だって、若い頃のことを考えると、基礎医学の中でも解剖学なんてものをやっていたら、お金に縁がないというのは当然の常識でした。

この年まで働いてみてやっと、若い時の考えなんて、高が知れているということもわかる。

予想なんてつくものではありません。

歳を取ればさすがに長生きしている分だけ、多少は見えるようになるけれど、若い時は本当に近視眼的な生き方です。


●人生なんて予測がつかないから自然のままに生きるーー日下公人


70歳になったら、どんな人間でもみんな一緒になります。

学生時代に私に三倍も勉強した人だって、同じようにおじいさんです。

〇〇省で次官になって、どこかの副総裁になって、続いて総裁になったけど、行政改革のおかげで給料が3割カットされて、天下りもすぐにできなくて二年間ぶらぶらしていたと愚痴を言う。

庶民からすればとんでもない話だけど、本人にすれば、予測が外れて相当ショックだと思います。

本当に若い頃から真面目に働いてきた人です。

残業、残業を重ねていました。

人生は予測なんてつかないんです。

早めに官庁をやめて、田舎の大学で教授をやっている人の方が幸せで、長生きしているんです。

出世が目的だったのか、それとも老後の収入や精神的満足が目的だったのかは、人それぞれですが、彼の場合、予測が外れたとぼやくのであれば、賢明でなかったことになります。

「自分はバカだった」とは言いませんでしたが、「バカを見た」とはいってました。


養老先生、他の書籍でも言っていたけど、


アメリカの属州に日本はなれ


そうすれば、集団的自衛権の問題やら、


他のややこしいものもクリア、とか


イラク戦争を小泉首相、支持するっていうのは


「道義的には問題あるが…」を枕詞につければまだよかった


とか、東大時代の東大の滑稽さを強くバッシングされたり、


飢え死はやばいが、失業は別にやばくない


ホームレスは方丈記の世界のようで理想でもあるとか


日下先生、日本は原爆を持つべきだとか、


グローバルスタンダードはそもそも間違いとか


テレビ出演時、キャスターと雑談して本番になったら


キャスターが自分の言説をまとめて最初に話すから


言うことなくなった如く、マスコミはパクリが横行しすぎ


とか、驚愕かつ度肝抜きの論説がスパークする。


 


こういう日本の今とこれからを


短絡的に嘆くような輩もおられると察しますが


そことの決定的な違いがございまして


若い人に譲ろうよ、墓にお金や名誉は持っていけないんだから


でも、言いたいことは自分の経験から生きてるうち言っとこう


後のことは知らないよ、自分は生きてないんだから


でも子孫もいるからちと心配かなあ、それと


対談相手とシンパシーがシンクロするから


後世に残しておくとするか、


という感じだった。


 


自分はそういう大人に好感を持ってしまうし


まだ働いているものたちとしては


そういう大人になり、そして老い方をして


若い人とも融合するのが


理想なんではないかなあ、と


すべて支持するわけではないし


絶対うまくいくという保証はないけど、と思った。


 


それにしても、2022年も間も無く12月。


物音ひとつない静かな夜明けでございます。


nice!(48) 
共通テーマ:

④ 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版

四回目にしてやっと生物学に辿りつく。


「第一章 生命についての素朴な疑問」があまりにも


興味深かったからしょうがない。


「第二章 生物の仕組み


 三 人は一種、昆虫は三千万種ーー多様性のなぞ


 生物の多様性と進化論」から抜粋


昔の人は、自分の周りにどのぐらいの種類の生物がいるかなど、見当もつかなかったに違いない。

しかし、いろいろな生物がいるということは知っていた。

生物学者や昆虫学者といった専門家をのぞけば、現代人は生物や昆虫のことなどほとんど知らないだろうが、一万年以上前の人たちは、生態系の中で暮らしていたから、非常にたくさんの生物を知っていたのだろう。

食料確保という点からも、「これは食べられる」「これは食べられない」ということを熟知していなければならなかったはずだ。

なぜ生物の種類がこれほどたくさんあるのかは、彼らにとっても大きな疑問だったのではないだろうか。

神様が生物をたくさん創ったとするのが最も簡単な答えである。

実際のところ、キュウリがナスになったり、犬が魚になったという話は聞いたことがなく、生物の種は変わらないことが当たり前だったのである。

この考えを、「特殊創造説」といい、キリスト教ではすべてそのように考えられていたし、普通の人も種が変わるなどとは考えていなかった。

「種が変わる」という説をまがりなりにも述べたのは、アリストテレスである。

今から二千三百五十年も前の話だ。

アリストテレスは、生物は無生物からできてきたり、人間の腐ったはらわたや食物の残りかすから寄生虫ができてくるように、自然発生や異常発生を考えていた。

しかし一般的には、やはり「大きな生物は神が創った」と思われていたのである。

ところが、近代になりキリスト教会の権威が衰退するとともに、「生物は神が創ったのではない」と考える人が現れてきた。

神の創造によってではなく、生物多様性の根拠を説明しようとして生まれたのが「進化論」である。

生物がこれほど多様なのは、生物が進化することに原因がある、とするのが初期の進化論者たちの考え方だった。

初期の進化論者で最も有名なのはジャン・バティスト・ラマルクチャールズ・R・ダーウィンである。

ラマルクは、生物には自ら高等になる能力があるとして、最初に自然発生した生物が徐々に進化して、現在の人間になったと考えた。

次に自然発生した生物も、やはりどんどん進化して、人間より少し下の猿ぐらいになり、つい昨日自然発生した生物は、例えばゾウリムシになっていると考えたのである。

この理論ではゾウリムシも人間と同じぐらい時間が経てば、人間のように高等な生物になるのだろうが、では、その時人間は何になっているのだろうか(天使か何かになっているという話になってしまう)。

そのうち、パスツールが綿密な実験を行った結果、生物は少なくとも現状では自然発生をしないということがわかった。

自然発生しないのであれば、ラマルクの説は全く成り立たなくなる。

やはり生物は神が創ったのではないかという話になりかねない。

そこに登場したのがダーウィンである。

ダーウィンは現代進化論を打ち立てた人物であり、生物は種がどんどん分岐して多様化していると説いた。

進化の必然的な結果として、生物が多様化し、いくつもの種に分かれてきたと考えたのである。

ダーウィンの著書『種の起源』には、ひとつの生物種が次々と分岐して多様化する図があるが、掲載されている図はこの一点しかない。

ダーウィンが多様性の原理に進化を考えていた証拠であろう。


最近よく見かけるダーウィン、『種の起源』。


まだ類書さえ読んでいないのだけど。


ダーウィンって孤高の人物の印象で


ロックっぽい、ボブ・ディランとかニール・ヤングみたいな


気骨あふれる人相してる気がするのはどうでもいいのだけど、


環境問題から人類、とか、進化とかを知るにはまずそれを読み


その上で、なぜそれが出てきたか、なぜ否定されたかとか、に


興味が行くのは、自分の性質でもあるのだろうな。


「なぜ?」と考えるのが好きなのだろうな、極論すると。


でもそれが人間を人間たらしめることなのかとか


どこまでも「なぜ?」の連鎖を断ち切れない。


めんどくさいのでよしとする。


ダーウィンの分岐は、「ミッシングリンク」と関連しそうで


Xファイル」でも出てきてたけど


きちんとした物的証拠がないからなんだろうけど


ものすごい数の分岐から、つまんだだけ(とあえて軽々しくいうけど)


のダイジェスト版なのだろうかね。


だとすると、それに物言いをつけてくる輩もいて


それが闇社会から光社会の人たちさまざま


功利を考えている人たちなので


かなり厄介と言えるのかもしれないと感じた。


シアノバクテリアーー光合成の誕生 から抜粋 


初期の生命体は最初の何億年かは、深海で繁栄していたのだろう。

そのうち、南極と北極という地球の軸ができて磁場が発生し、その磁場により宇宙線がブロックされはじめた。

DNAやRNAは宇宙線により破壊される。

それが、地球の表面まで届く宇宙線量が減ったことにより、生物は暗い海の底から地球の表面にまで進出することができるようになった。

すると、太陽光のエネルギーを使って炭水化物を作るメカニズムの可能性が出てくる。

光のエネルギーを利用して、光エネルギーから始まるサイクリックなシステムを、うまく作り上げた生物がいたのだろう。

それが、シアノバクテリアといわれる光合成細菌の起源になった。

二十八億年ぐらい前のことだ。

光合成ができるということは非常に有利である。

今までは海の底で化学物質を利用してエネルギーを手に入れるほかなかったのが、太陽光ならばほとんど無尽蔵に、しかもどこにでもある。


先にも述べたが、酸素は「活性酸素」という意味では有害なのである。

恐らく、好熱菌のような、もともといた生物のかなりは死滅してしまったのだろう。

単純にその当時の環境を考えると、シアノバクテリアは大いなる環境破壊者だったのである。

今、人間は炭酸ガスをどんどん出して、地球生態系にとってよくない影響を与えていると思われているが、古細菌を主とする当時の生態系の生物にとってみれば、シアノバクテリアもまた、今の人間と同じような環境破壊者だったのである。


真核生物から多細胞生物へ、


海の生物、パキスタンで歩くクジラが発見された件、


それでも進化にはまだまだ謎が多いとされ、


恐竜の絶滅は1980年に巨大隕石衝突説が提唱され


当時は一笑に付されたが、


今は衝突の場所さえ特定されたという流れ、


ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の


共存、共生、絶滅の仮説、


言葉を獲得したヒト、に続いて以下。


 


第四章 病気のなぞ


遺伝子診断の是非 から抜粋


もっと科学が進歩したなら、病気の遺伝子をすべて入れ替え、あらゆる人を健康に生まれさせることができるようになるかもしれない。

しかし、今度は多様性がどんどん減っていく。

それでいいというのならかまわないが、世界も人間も面白くなくなってくるかもしれない。

このあたりは、詳しくは私と金森修との共著『遺伝子改造社会あなたはどうする』を参照されたい。

みな同じような顔で誰だかよくわからない。

頭のレベルも背の高さも同じ。

みなひたすら長生きする人ばかりが暮らしている社会……。

これはこれで悩ましい問題ではある。


あとがき から引用。


これがすこぶる面白い!


2001年に『新しい生物学の教科書』、2002年に『生命の形式ーー同一性と時間』を出版して、少し肩の荷が下りたような気分になっていたのだが、生物学にあまりなじみの無い人には、両方ともやっぱりちょっと難解かもしれない。

ということで、二つの本の長所をミックスして、おもいっきり易しくした本を作ろうということになった。

生物はすべていい加減でしかもしたたかである。

厳密にルールに従っていると、環境が激変して、ルールが環境に整合的でなくなれば滅んでしまう。

多くの生物は適当にルールを変えることにより、環境が変化してもなんとか生き延びることができるようである。

それが、生命という、しなやかでしぶとくあいまいでその場限りのシステムの特徴である。

そう書くと、何だか自分自身のことに言及しているようで、不思議な気分である。

多くの人は今でも、厳格にルールに従うこと、明示的であること、一貫性があること等などをプラスの価値だと思っているらしい。

しかし、そういうことでは、すぐに破綻してしまう、と私は思う。

厳格にはルールに従わないこと、明示的で無いこと、一貫性がないこと等などこそ、生き延びるためのプラスの価値なのである。

それは生命の歴史が証明している、と私は思う。

そう書くと、ルールに従わず意味不明でデタラメだったら、すぐに滅んでしまうだろうに、と反論されそうだ。

そこでもう少し付け加えると、ルールに従っているフリをすること、明示的なフリをすること、一貫性があるフリをすること、これが大事である。

本書を読んで、生物の基本原理を理解すると共に、生物のそういうしたたかさをも学んで頂ければ、と思う。

この本を読了されたら、是非前掲の二つの本も読んでいただければ有難い。

そうすれば、あなたも生物学の講義の一つや二つできるようになること請け合いである。

2003年8月


生物学とか進化論とかを考え始めると


宗教の成り立ちとの関係が気になり始めますな。


昨今、我が国が宗教問題で揺れているからというのも


少しはあるのか、それとは関係ないか。


池田先生くらい聡明な方であれば、


いろいろ考えるんだろうけど


自分の頭ではそこまで及ばない。


そろそろ仕事に行って参ります。


 


nice!(38) 
共通テーマ:

③ 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版

環境問題とは切り離せない人口問題 から抜粋

環境問題とは、人間の問題であり、他の生物と人間の付き合い方をどうするのかという問題でもある。

そういう意味では、自分と他の人たちとの付き合いをどうするのかということと同じといえる。

一般の人は、まずは自分が生きることが最優先ではあっても、自分がある程度うまくいっているなら、他の人がまともに生きられるように支援したり、少なくとも「まともに生きられるのであれば、まともに生きた方が良い」と考えるのが普通である。

それは。人間が生物として持っている根源的な何かーー倫理というか、共存原理というか、エールの交換のようなものである。

しかし、それもやはり衣食住が足りているという前提があってのことに過ぎない。

食うや食わずで本当に困っている人に、「倫理を守れ、道徳を守れ」というのは無理である。

「他人の食糧を取って食べてはいけない」といわれようと、食べなければ死んでしまうという状況であれば、取って食べるのは仕方がないであろう。

しかし、ある程度衣食住が足りている人ならば、他人のことを考える余裕もできる。

今、環境問題についてさかんに騒いでいるのは、全て先進国の人間たちである。


このように考えると、環境問題とは生物学上の問題というよりも、社会のグローバルな経済システムや政治システムに絡んでくる問題なのである。

アメリカの生態学者の間では、昔からよくいわれることだが、結局、環境を考えるうえで一番問題は人口問題である。

これは日本ではあまり語られない。

「人口が減ったために年金負担者が減って困る」などといわれているが、人口が減って困るとはヘンな理屈である。

グローバルに考えると、同じ資源があれば人口が少ないほうが一人当たりのゆとりは大きい。

人口が多くないと困るというのは、社会システムがどこかおかしいというほかはない。


今の日本は、「少子化はいけない」といっているわりに、就職難でどこにも就職できずに困っている学生が大勢いる。

若い世代に職を与えられないようなシステムで、少子化が困ると叫ぶのはどこかおかしい。


それでも、日本には飢えて死ぬような人はあまりいない。

しかし、アフガニスタンやアフリカの一部の国では、実際に飢えて死んでいく人がいる。

まずはいかにして人口をある程度まで減らし、どうやってすべての人たちにうまく衣食住が行き渡るような世界を作るかを考えなければならない。

世界の人口が六十億というのはどう考えても多すぎる。

農耕文化がなかった頃、つまり一万年以上前の地球の人口は、数百万人から一千万人に満たないレベルだったといわれている。

現在でも、ちょうど一万年前と同じレベルの狩猟採集生活をしている人たちの記録を見ると、寿命は短くても生態系の中で非常に優雅な暮らしをしているようだ。


狩猟採集民は、1日に3時間ほどしか働かないらしい。

山の中に植物はいくらでもあるので、人口が一定以上増えなければ、必要最小限のものだけを取れば事足りる。

採集に2時間、調理に1時間程度の時間があれば充分で、あとはやることがないからゴロゴロ遊んでいる。

雨が降れば仕事もしない。

一日十時間以上も働かされるような現代のサラリーマンに比べれば、はるかに優雅な理想的な生活である。

そのような生活がなぜできたのかといえば、それは人口が少ないからである。

農耕がなければ生態系の収容力以上の人口は養えない。

ところが、農耕という文化が起こって食糧が増えはじめると、人口も増加しはじめた。

生産性を拡大するためには人手が必要になり、人口を増やすためには食物が必要となる。

新しい農地ができれば食物が増え、その結果、人口がさらに増える。

このように農耕がはじまって以来、地球の人口はあっという間に増加していった。

人口が増えれば、環境が破壊されるのは当然である。


こういう論調だと、「戦争」や「災害」など「クラッシュ」で


人口を間引こうとするような、クライシス信奉者のように


思う方もおられるかもしれないけど、


池田先生はあくまでそうではありません。(と思う)


養老先生もだけど、「クラッシュ」は備えよ、でも冷静に、


その上で、今何をなすべきか、って言説なわけで。


いいところばかり見えすぎだろうかね。


それと、少し古い書籍だから昨今のヤングケアラー的


日本でも若い世代が食うのに困る事情は含まれてないことは


言わずもがなです。


西洋人は「野生動物を食べるのはいけないが、人間が飼育しているウシを食べたりヒツジを食べたりするのはいい」とよくいう。

これは本質的にはおかしい。

本来は、野生動物の個体数回復の範囲内で野生動物を食べるのが一番いいに決まっている。

野生動物が棲んでいた場所を潰して牧場を作り、ヒツジやウシを飼育して食べているというのは結果的に野生動物を絶滅させていることと同じだ。


いずれにせよ、野生生物を食べて人間が生活するためには、六十億という人口は多すぎる。

せいぜい六億ぐらいになれば、地球環境と人間は、うまく調和を保って生きることができるだろう。

つまり、衣食住が足りて、なおかつ環境を守っていこうとするならば、人口を抑えることが大切なのである。

 

今、バイオテクノロジーを駆使して、とにかく収量の良い作物を数多く作らないことには、地球の人口が百億になった時にみな飢えて死んでしまうと主張している人がいる。

しかし、収量が多い作物を作れば作るほど、そのぶん人口も増えるため、いつまで経っても人口増加と食物増加のイタチごっこが続く。

ある程度、人口を抑える努力をしないと、環境問題は永遠に解決しない。


これは大変面倒な問題である。

たとえば、日本国内だけというミクロ(ジャパンローカル)で見ると、もう少し人口は多い方がいいという人たちがおり、それはそれで合理的な考え方でもある。

しかし、世界全体の生態系のマクロ合理性を考えると、人口はこれ以上増やさずむしろ減らした方がいいということになる。

しかし、ミクロ合理性を考えると、自分の国の人はあまり減らしたくない。

ここに、ミクロ合理性とマクロ合理性とが背反するという問題が生じており、この問題こそが環境問題の根幹にある。


環境問題とは、人類がミクロ合理性を追求した結果、マクロ合理性が成り行かなくなったという問題である。

自分の食物が少しでも多い方がいい、自分の家系もより多い方がいい、自分の遺伝子もより多く残したいと万人が行えば、地球環境というマクロで見ると不合理にならざるを得ない。

 

生物はオートポイエックなシステムを開発した。

しかし、それはみなマクロ合理性を追求するようなシステムに収斂(しゅうれん)しており、進化の過程でマクロ合理性を追求するシステムを開発するような生物はいなかった。

何の束縛もなければ、生物はただひたすらミクロ合理性を追求し続けるのである。

ではそのミクロ合理性は何によって阻害されるのだろうか。

それを止めるのはマクロ合理性ではなく、自然環境からのしっぺ返しである。

餌が不足したり、環境が大激変するなどにより、数が減ったり、絶滅したりするのだ。


環境問題は今や最重要な政治的アイテムであり、ビジネスチャンスでもあるわけだが、だからといって人類が環境問題を解決できるかどうかはそれとは別問題なのである。


「政治的アイテム」や「ビジネスチャンス」だけで


捉えるべきでは、本当はないのだよね。


人類の存続に関わる問題なのだから。


でも、今や人はそれ抜きでは動けない。


ならば、少しでも良心のある


正しい感性を身につけた人たちが、


チームとなって良き方向に先導してほしい。


自分も無関心ではいられないので、できることからやらないとって思う。


人口を「人為的」や「クラッシュ」で減らすってのはなき方向で考え


小さく分けて、システムを作り、回すのが良いってのは


池田さんの他書籍の紹介でも引いた限りです。


 


三 心はどこにあるのか?


脳の中の現実 を引用


生物学者であれば、心は脳の何らかのメカニズムで働くのだろうと考える。

実際、脳科学は日進月歩で進歩しているため、脳のどこをブロックすれば、どんなことが起こるのかについて、今ではかなりのことが判明している。

脳をどこを破壊すれば、人間がどう変わってしまうのかさえ徐々に解明されつつあるのだ。

鉄道敷設がさかんだった頃のアメリカに、ひとつの有名な事件がある。

1848年の夏、鉄道の建設現場でダイナマイトの爆発事故が起こり、一本の鉄棒が、現場監督のフィアニス・ゲージの頭を左の頬から貫いてしまった。

普通なら即死だろう。

ところが彼は、歩いて病院に行き、手当を受け、死ななかったのである。

上から見ると、脳から下に向けて穴が空いているにもかかわらず彼は生きており、見た目からは、どこにも異常がなかった。

話すこともでき、手足も動き、歩くこともできた。

しかし、しばらくするとフィアニス・ゲージの人格がまったく変わってしまったことがわかった。

現場監督をこなすほど非常に責任感の強い優しい男だったのが、感情を喪失した獣のような人間になったという。

その結果、「あれは以前の彼じゃない」と友達が離れてゆき、職も失ってしまった。

ちなみに、彼は事故以降13年近く生き続けたのだが、晩年は自分の頭を見せ物にして生活をしていたようである。


1940-50年代にかけて、アメリカの病院などでは、精神に異常をきたした人が暴れないよう、脳の前頭葉の一部を切開して切除する「ロボトミー」と呼ばれる非人道的な手術が頻繁に行われていた。

手術例は何万にも達したという。たしかに患者は非常に従順でおとなしくなる。

ただ、やはり先のフィアニス・ゲージと同じで、親しさの感情のような人間らしい心が失われ、ロボットのようになってしまった。


脳に障害が起こると、不可思議なことがたくさん起こる例はラマンチャドランの『脳の中の幽霊』をはじめ、いくつも紹介されている。

「ファントム・リム」という幻肢現象では、切除したにもかかわらず、ないはずの手が痛くなる症状が起こる。

脳には、切除した手の感覚に対応している部分があり、そこが何らかの理由で刺激されれば、ないはずの手が痛くなることもありえる。

 

私たちの現実とは、脳の中の現実なのである。

手が痛いと感じているのは、本当は手が痛いのではなくて、脳が痛いと感じているから痛いのである。

しかし手を失ってしまうと、その手に対応していた脳の部分は、やることがなくなってしまう。


もう一つ、脳についての不思議な現象に「カプグラ・シンドローム」というものがある。

通常、人は前の記憶と次の記憶、前の時間と次の時間を関連づけることにより、目の前の現象が以前と多少違っても、そこに同一性を見つけてカテゴリーを組み立てることができる。

ところが、カプグラ・シンドロームになると、脳がこれをうまくできなくなる。

例えば、前にあったことのある人でも、別の人としか考えられなくなる。


そうした場合、個人名や容姿自体は覚えることができるので、目の前の人物が記憶している人物と似ていることはわかる。

しかし、記憶の人物と目の前の人物が同一の人間であることを脳が納得しなくなってしまうのだ。


脳によって人格が司られていて、障害により人格が


変わるってのは何となくわかるような気もする。


それから、記憶できないって件、


「カプグラ・シンドローム」だったかは不明だけど


13年前亡くなった母親が胃ガンだった時、


抗がん剤の影響なのかあと今にして思うが


見舞いに行って話をしていたら、様子がおかしくて少しして


「ごめん、(あんたが)誰かわからない」って言ってた。


それから「ロボトミー」って確か、


手塚治虫の「ブラックジャック」でそういうエピソードが


なかったっけかな。


しかし恐ろしい実験をするなあ、アメリカも。


しかもロボットみたいになるからって「ロボトミー」って。


名前が後なのか先なのかわからんけども、


はたまた、そもそもそのネーミングセンス自体


どうでもいいといえばいいのだけど、


何万人にも手術したって、恐ろしい時代としか言いようがない。


しかしさあ、今回の記事も生物学の書籍なんだから、


もっとそれによったところを注視しろよと思うけど


時間なさすぎなんだよね、全く。


今日はプラスチックのゴミを出さないといけないし。


記事投稿を三回やっても、まだ環境問題と脳の話だよ。


でも、お腹すいちゃったので、あと一回やリます、この書籍。


興味深すぎる。どうもすみません。


 


nice!(29) 
共通テーマ:

② 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版


「生物学」を知る前に、興味があるから


「環境問題」にどうしても主眼を置いてしまう。


スルーするのは忍びなさすぎる。


「二 環境は守らねばならないのか?


人間中心主義の環境問題」から抜粋


環境は守らねばならないのだろうか

普通の人ならば、誰でも「守らねばならない」と思っているだろう。

私だってそう思っている。

しかし、「なぜ守らねばならないのか」という問題は、かなり難しい

人間をはじめ、生物はすべて地球環境の中で生きており、環境が駄目になれば当然死んでしまう。

現在の生物は現在の環境に適応して生きているから、極端にいえば、酸素が今の半分くらいに減ったなら、かなりの生物は生きていけない。

しかし、地球の長い歴史から見ると、環境はどんどん変わり続けている。

環境変化のためにある生物が死んでも、また新しい生物が出現するサイクルを繰り返してきた。

地球全体を考えれば、「地球に優しく」などという標語の下で環境を守らなくても、地球自身にとっては全く関係がない。

人間が地球を温暖化させ、温度が5度や10度上がろうが、炭酸ガスが少し増えようが、地球はいっこうに困らない。

初期の地球上に最も多くいた生物は、シアノバクテリアという光合成細菌である。

まずこのシアノバクテリアが、現在の言葉で言うならば地球環境を劇的に破壊した。

 

それまでの地球は、酸素が極端に少ない星であった。

ところが、シアノバクテリアが、光エネルギーを使って水と炭酸ガスから酸素と糖類を次々と作り出していった結果、地球上にはどんどん酸素が増え、現在のような星になったと考えられる。

ある意味では、シアノバクテリアが地球環境を”破壊”しなければ、人間は現代に存在していないということになる。

この論理でいえば、人間がどんどん地球環境を破壊すれば、破壊された環境に適した生物が進化してきて、「人間が環境を変革してくれたおかげで、地球は自分たちの星になった」という事態になるかもしれない。

 

結局、人間にとっての「環境を守る」とは、「人間が一番住み良いシステムはどこにあるのか」という話にならざるを得ないのではないだろうか。


この言説は、歴史は繰り返す、なんてものじゃない、


「因果応報」みたいなものを感じる。


池田先生は、SDGsにも懐疑的なのだけど、


それ以前の話のような「デカさ」を感じる。


こういう生物学の研究、考察をされているから、


科学的根拠が曖昧な言説には否定的なんだろうなと思った。


昨夜も池田先生Twitterで、コロナで焼き太りしている


医療機関の件をつぶやいたら、


意図と違う解釈をされる輩に


まともな医療従事者を貶めてるわけじゃないよ!


とおもいっきり反撃されておられたけど。


地球の生態系に関しては、エネルギーは基本的に太陽から来る。

そして、廃熱は地球外に出してしまう。

太陽から来るエネルギーが一定に保たれている場合、太陽から来たエネルギー分の熱を地球外に出すことができれば、地球の生態系は、温度が高くもならなければ低くもならずに安定している。

太陽から来たエネルギーよりも外に出すエネルギーが少なくなると、地球はどんどん暖かくなり、逆に太陽から来たエネルギーよりも余計にエネルギーを外に出してしまえば寒くなる。

生態系と生物個体が異なる点は、生物は廃物を外に出すことができるが、生態系は熱は地球外に排出できても、物質自体は地球外に排出できないという点だ。

つまり、生態系はもともと生態系になかった物質を自らの中に取り入れてしまった場合には、これを生態系の外に出すことは難しい。

人間が水銀のような有害物質を自らの中に取り入れてしまうと、食物連鎖を通してその物質は生態系の中をぐるぐる回り、結局生態系の中からなくならない。

人間が毒物を直接摂取しなくても、それが生態系の中に取り込まなければ、人間の健康に害があるものが必ず回りまわってくるのである。


環境ホルモン、水銀、カドミウムなど、いろいろなところで騒がれている環境汚染は、すべて生態系の中に放り出された物質が、回りまわって人間の健康を害するという問題である。

人間のためには、環境はある程度は守らなければならないという話に繋がるのは当然だろう。

しかし、環境を守る根拠が結局は人間のためならば、人間が健康に生きられさえすれば、生物の多様性など関係ないという話になる。

極論すれば、人間が生きるためには、ある程度の種類の有用な植物や動物がおり、それらを分解するバクテリアさえいればよいのであって、その他の野生動物などは必要ない。

生態系はそれだけで充分機能するのである。

人間中心主義的な考え方を取れば、必ずそのような論理になってくる。

天然記念物の高山蝶などは、人間の生産性には何の価値もないのでいらない、ということにもなりかねない。


生物多様性を守ろうとの議論のひとつに、野生生物は遺伝子源であるとする考え方がある。

地球上には人間にとって何の役にも立たないように見える生物種が膨大にあるが、もしかしたらそのような生物が、将来の資源になるかもしれない。

何の役にも立たないと思っていた鳥や虫が、非常に有用な薬を作るための遺伝子源になるかもしれない。

だから、何もわからないうちは、すべての生物を守るべきだという考え方である。

しかし、その論拠だけで環境を守るのはなかなか難しい。

極端なことをいえば、遺伝子組み換え技術がどんどん進歩して、それらを使って必要なものはすべて合成できるようになれば、野生生物から薬を取る必要はなくなる。

食物についても、大きな工場の海のそばに建て、人工光合成をすれば事足りるという話になりかねない。

技術さえあれば、地球上に大量にある窒素や炭酸ガスや水をもとにして、それらを適当にミックスしてやれば、理論的には肉でも何でも作ることができるはずだ。

このように、技術さえあれば

「野生生物など単に人間の娯楽のためだけにいればよいのであって、それ以外の生物などは保護する必要はない」

という話にもなりかねないのだ。

しかし、普通の人ならば、人間が生きることが一番大事なのだが、

「ある程度以上の生活が確保できるのであれば、人間の勝手な欲望のために、他の生物を必要以上に殺す権利はあるのか」

と考えるだろう。

「環境が一番大事だ」

という人もいるかもしれない。

しかし、そう考えているのは人間である。

人間という視点をなくせば、保全とか保護とかいう主張も成り立たなくなり、ただ自然があるだけだという話になってしまう。


人間中心主義的に、

「すべては人間のためにあるのだ」

と考える理屈は通る。

しかし、普通の人は、自分の生活がおびやかされない限り、

「野生動物だっていないよりは、いるほうがいいのではないか」

と考えるだろう。

「野生生物を守るためには、人間が死んでもいい」

という環境原理主義はバカげているが、

人間がある程度幸福で、普通の人が普通に生きていける限りは、野生生物もやはりいたほうがいい

と考える人が多いと思う。

それは理屈でなく気分である。


環境問題は、あまり厳密に理屈を突き詰めると極端な話になってくる

結局、人間や生物とは何かという問題と同じように、いい加減なところで適当にやるしかないのである。


生物は、厳密に理屈通りに生きているわけではない。

いい加減なところで、矛盾したらまた適用にやろう、傷付いたらそれを適用に治そうというやり方をとっている。

人間は怪我をしても治るけれど、傷跡が残ったりして完全にはもとに戻らない。

それでも死ぬまでは適当に生きている。

環境もこれと同じで、環境問題を原理主義的に捉えるとろくなことがない。

たとえば、ある生物を天然記念物と決めたら、徹底的に守って一匹たりとも捕ってはいけない、あるいは捕った人間は死刑にしろということにもなりかねない。

人間中心原理主義の場合は、環境など守らなくても、人間が生きていければそれでいいだろうとなってしまう。

そういった極端な考え方を持つ人間同士が喧嘩をすると妥協がない

人間は大事なのだが、人間にある程度衣食住が足りているという前提のうえで環境を守るという議論をする他はないわけである。


何でも「ほどほど」で手を打たなければ「次」にいけない。


それが最適解かは、わからないけれど。


時には、後退でさえ「次」の場合もあり得ると感じた。


しかしこの書籍、200ページあるのに、


まだ30ページくらいだよ。深すぎるだろう。


「生物学」に全然辿り着いてないよ!


まったくの余談だけど、今日「靴」を買いに外出、


ついでに古本屋にも寄って14冊購入してしまい


重すぎて疲れた。


荷物の総量8キロもあったよ、PCも持ってたから。


ちなみに、「靴選び」は5分だったのに対して、


「古本選び」は4店舗合計で2時間でした。


2時間費やすというのは「ついで」なのだろうか。


 


nice!(55) 
共通テーマ:

① 初歩から学ぶ生物学:池田清彦著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

初歩から学ぶ生物学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/03/23
  • メディア: Kindle版

はじめに から抜粋


2001年に『新しい生物学の教科書』(新潮社)を上梓した。

1999年から2000年にかけて、朝日新聞社から出ていた科学雑誌「サイアス」に

「教科書にない『生物学』ーー文部省検定の裏をよむ」

と題して連載したエッセイをまとめたものだ。検定教科書をだしにして生命の原理を述べたつもりであったが、現代生物学になじみのない人には、少し難しかったようだ。

生物学を知らない人でも二日で読める、と「はじめに」に書き付けて何人かの読者の方に

「ウソをつくな」と叱られた

それで本書を作る気になった。

具体例を厳選して、なるべく単純な話で生物学の原理を理解できるようにしたつもりだ。

今度こそ、生物学を習ったことのない人でも二日で読めるに違いない。

だからと言ってレベルが低いということではない。

扱っているのは、生命論、生態学、発生学、進化論、分子生物学等など各分野のホットな話題である。


第一章 生命についての素朴な疑問


1 生きているってどんなこと? から抜粋


「生きているとは何か」「生命とは何か」という疑問は、昔から多くの人の関心事であった。

この疑問に答えることは難しい

(略)

その昔、「生きている状態」と「生きていない状態」との間には根本的な違いがあり、その違いは単純に「魂のようなもの」の有無にあると考えられていた

この考え方を「生気論」という。

プラトンは、形あるものをそのものたらしめる本質を「イデア」と呼び、それ自身としてイデアは独立して実在すると考えていた。

ヒトはヒトのイデアがとりつくことによりヒトになり、ヒトのイデアが離れれば形あるものとしてのヒトは死んでしまうと考えた。

生気論に近い考えである。

ルネサンス以降、科学が発達してくると、生物も機械などと同様に物質でできていることが次第に理解されはじめる。

この頃、デカルトが「生物といえどもすべては非常に複雑な機械である」という「機械論」を提唱した。

その後、さらに多くのことがわかってくると、「生物はやはり機械のように単純なものではない」という意識が広まり始める。

デカルトでさえ、ヒトの心は身体とは別だと考えていた。

その結果、生物についての考え方は、

①生物は本当に複雑な機械なのか、それとも機械以上のものなのか、

②機械以上のものだとしても、魂や生気のようなものを物質とは独立に想定しないと説明できないのか

という疑問に応えるかたちで発展してきた。

現代生物学はどのような立場をとっているのだろう。

端的にいえば

「生命や心や魂が存在するとしても、それ自体として独立に存在しているわけではなく、物質からできている生物に附随して存在していることは間違いない」

という立場をとっている。

そう思わなければ、科学や生物学はその存在意義を失ってしまう。

霊魂や生気が物質とは独立に存在するならば、科学者や生物学者は、物質としての生物を調べる意味がなくなるからだ。

「生物は物質からできている」

という立場をとる現代生物学は、

「物質がどのような状態で存在していると、そこに生命という現象ができてくるのか」

ーーつまり、

「生物を構成する水、タンパク質、脂質、糖質、核酸(DNA)などの複雑な要素が、どのように相関しているのか」

を解き明かし、そこから

「生きているとはどんなことか」

を一般の人が納得できるようなかたちで説明しようとしている。


一方コンピュータや自動車などの機械も物質からできている。

まず、機械と生物とは何が違うのかから考えてみなければならない。

両者には似ているところもある。

自動車でも生物でも、外部からエネルギーを取り入れ、それを何かに変換して出力するという構造になっている。

ではどこかが違うのか。

さしあたって違うところは、生物には自律性があるが、自動車には自律性がないことだ。


自律性がありさえすれば生物かというと、そうともいえない

太陽光をエネルギー源として動く機械を考えてみよう。

集光器があって、適当な制御プログラムを組み込めば、勝手に動く機械を作ることはできる。

しかし、その場合でもこの機械は、自分を構成しているものを自分で作らないが、生物は自分で作る。

もちろん、どちらも物質でできているという点では同じといえば同じだが、機械はシステムを自分以外の他社がつくり、生物はシステムそのものを自分が作る。

傷の治療を考えてみよう。

コンピュータは古くなったり壊れたりしても、自分で自分を新しくしたり修理したりすることはできない。

誰かが直してやらなければならないが、人間をはじめとする生物の場合、多少の怪我や病気であれば自分で自分を治す能力がある。

自分で自分を治すことは、システムそのものを自分で構築することができることと表裏一体なのである。


現在、人間は精巧なロボットを作ることができるようになった。

しかし、システムを作っている物質自体を変えていくような機械(つまり生物)はまだ作ることができない。

どんなに精巧なロボットを作っても、ロボットはあくまで作られたままである。

生物は、見かけはさして変わらないように見えても、体を構成しているタンパク質などは日々変化している。

人間の場合、最も変化のない部位は骨である。

死んでも骨だけは残ることを考えても、骨という物質がなかなか変化しないことはうなずける。

しかし、骨といえども生きている限り、7年くらい経つと物質すべてが入れ替わる。

骨でさえ7年なのだから、10年前の自分と今の自分は、全く違う物質でできていることになる。

皮膚や細胞をはじめ、食道や胃も日々新しくなっているのだ。


今はAIが進化して、どの程度精巧にロボット、


できるのだろうか気になるけど。


それと、「生物」「生命」を考えるとどうしても、


生命科学者の柳澤桂子さんの論説が浮かんでしまう。


人間が踏み入れて良い領域なのだろうか、とか。


それと別に思うこととして、今は異なるようだけど


「生物は機械のようなもの」と考えていた昔の科学。


だけど、ノーベル賞の利根川さん、立花隆さんとの対話で


「人間は精巧に作られた機械みたいなもの、将来全てが解き明かされる」


と仰っていたのもなんだか被っているよなあ。


同じことを言っているのか、微妙に違うのか、とか考えあぐねる。


いずれにせよ、「生き物=精巧な機械」っていうのは、


納得しにくいのだけど、人間は7年で細胞レベルが


全部入れ替わるってのは養老先生がよく仰っていたのもあり、


池田先生の説明でアグリーでございますが。


 


自己同一性の維持 から抜粋


もう少し、「生きている」とはどういうことかを考えてみよう。

人間は十年前と今とでは自己を形成する物質が全て変わってしまっている。

にもかかわらず、「自分は自分だ」と認識している。

つまり、「自己同一性」という意識を持っている。

変化しているにもかかわらず、なぜ「自己同一性」が生じるのか。

人間以外の生物も意識よりもう少し低いレベルで自己同一性を維持しているように見える。

時計ならば、多少酸化したり、古くなって傷ついたりすることはあっても、十年前と今とで時計を構成する物質は基本的には変わらないので「同じ」だと言える。

ところが、生物は自分を構成する物質をどんどん変えながら、なおかつ全体としては同じという奇妙な「空間」なのである。

しかも、自身と外との関係を不変に定めない暫定的な状態のまま、その都度内と外を確定しつつ自分自身を保っている。

本当は変わっているにもかかわらず、同一状態を保っているかのようんな”モノ”なのだ。

 

これを「オートポイエーシス」といい、ギリシャ語で「自らを作る」という意味である。

生物はあらゆる意味で自分で自分を作り、それを常に現在進行形で行っている。

自分はいつも自分なのだが、「これが自分だ」という時点がなく、明日になれば自分が変わってしまう。

それでも自分を維持する作業を続けている。

これが生物であり、その特徴の根底をなしているのが、「物質が循環する」ということなのである。


オートポイエティックな生物 から抜粋


生物は38ー35億年前に生まれて以降、その後もずっとオートポイエティックなシステムだけは絶対に手離さず、それをただひたすら空間から空間へと伝えていった。

そう考えれば、遺伝を考える上で一番重要なものはDNAというようりもそのようなシステムそのもの、つまり生きていること自体なのである。

単純にいえば、DNAが遺伝されるのではなく、オートポイエティックなシステムが遺伝されてきているのだ。

現在でも、小学校や中学校の教科書では

「父親の精子と母親の卵子が合体して、新しい生命が誕生する」

などと記載されているが、それは誤りである。

生命はすでに35億年以前に誕生しており、その生命が今もただ継承されているだけであって、精子と卵が合体したときにはじめて誕生したわけではない。

精子も卵もそれ以前に生命なのである。

「生きているとは何か」「生命とは何か」という疑問を、科学や生物学で説明しようとすると、以上のような結論を導くほかない。

それが嫌だという人は、人間には霊魂があり、死んだ後も霊魂が残るというような考えを取るしかない。

もちろん、そう考えるのは個人の自由であり、それで世の中が説明でき、自分が納得できればいいのである。

しかし、生物学の立場からは、それは違うといわざるを得ないのである。


小学校・中学校レベルでの生命の誕生には、


池田さんのいうリアルを伝えるのは早計なのではないだろうか。


確かに池田さん指摘のように「誤り」なのだろうけど。


小・中学で伝えるべきは真実とか真理よりも、


大切なことがあるのではないかなと。


だから現実見てない平等バカが増えるんだよ、って怒られそうだけど。


余談で話ずれるけど、「生命の神秘」的な流れで思い出されるのが


上記でも引いた、利根川・立花隆さんたちのテレビ対談。


二人の相違点は、


「人間には生命の神秘なんてものはない」


「いや、それがないと…」


っていうのが押し問答されてて。


自分はもし答えなければならないとしたら


どちらを取るだろうか、なんて


この本、今回だけでは終わるのはもったいなくて


継続して研究しようと思っております。


お腹すいちゃったので、これには何にも勝るものない。


その後、お風呂・トイレ掃除もしないといけないし。


失礼します。


nice!(32) 
共通テーマ:

なぜ世界は存在しないのか:マルクス・ガブリエル著・清水一浩訳(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: Kindle版

哲学を新たに考える から抜粋


この人生、この宇宙、そのほかすべて……

これはそもそも何なのだろうと、誰でもこれまでにたびたび自問したことがあろうと思います。

わたしたちはどこに存在しているのでしょうか。わたしたちはどこに存在しているのでしょうか。

わたしたちは、世界というひとつの巨大な容れ物のなかにある素粒子の集積に過ぎないのでしょうか。

それとも、わたしたちの思考・願望・希望には、それぞれに特有の実存性があるのでしょうか。

わたしたちが現に存在しているということ、もっと言えば、およそ何かが現に存在しているということそれ自体を、どのように理解すればいいのでしょうか。

そして、わたしたちの認識はどこまで拡げられるのでしょうか。

本書では、新しい哲学の原則を示してみせたいと思っています。

この哲学の出発点となる基本思想は、ごく単純なものです。

すなわち、世界は存在しない、ということです。

後ほど見るように、これは、およそ何も存在しないということではありません。

いくつかの例を挙げてみるだけでも、わたしたちの住む惑星、わたしの見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、それに月面に棲む一角獣さえもが存在しています。

世界は存在しないという原則には、それ以外のすべてのものは存在しているということが含意されているわけです。

したがって、いったん前もって、こうお約束することができます。

わたしの主張によれば、あらゆるものが存在することになるーー

ただし世界は別である、と。


世界は存在しない、だけど、する、


っていうのは何だか禅問答の如し。


日本人なら、こういうと何となく合意される


「禅問答」ってすごいよな。


マルクス・ガブリエルの哲学でさえも、


言い得て妙の世界に連れていかれる。


って、「禅問答」に凄さを感じてどうするよ。


構築主義とは、次のような想定に基づくものです。

およそ事実それ自体など存在しない。

むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだ、と。

このような思想の伝統の最も重要な証言者が、イマヌエル・カントです。

カントが主張したのは、それ自体として存在しているような世界は、わたしたちには認識できない、ということでした。

わたしたちが何を認識するのであれ、およそ認識されるものは何らかの仕方で人間の作意を加えられているほかない、というわけです。

このような議論にさいして、よく用いられる例をとってみましょう。

色彩という例です。

遅くともガリレオ・ガリレイとアイザック・ニュートン以降、色彩は現実には存在していないのではないかと疑われてきました。

このような疑いは、色彩に大きな悦びを感じるゲーテのような人の感情を大いに害するものでした。

それで、ゲーテは独自の『色彩論』を書いたほどです。

色彩の実在を疑う考え方からすれば、色彩とは、わたしたちの視覚器官に届いた光の特定の波長にすぎません。

世界それ自体は本来まったく無色であり、それなりの規模で集まって均衡状態にある何らかの粒子の群れからできているにすぎない、というわけです。

まさにこのようなテーゼが、形而上学にほかなりません。

このテーゼが主張しているのは、世界それ自体が、わたしたちにたいして現れているのとは違った存在だということだからです。

もっとも、カントはいっそう徹底的でした。

カントが主張したのは、時間・空間における粒子という想定でさえ、わたしたちにたいして世界それ自体が現れるさいのひとつの様式にすぎないということでした。

世界それ自体が現実にどう存在しているかは、わたしたちにはそもそもわからない。

私たちが認識するすべてのものは、わたしたちによって作りなされているのであって、だからこそわたしたちはそれを認識することもできているのだ、というわけです。


色彩については、自分も考察したことがあるんですけど


「赤」って他の人が見ているいる色と同じだろうか?から広がって


「光」って、とか、「コントラスト」って、とか。


ならば、物って人間って、人生って、世界って


みたいな。


若い頃なら誰でも通過する儀式なのかという気もするが


大人になるとそういう疑問など忘れてしまうのかもしれない。


それと文中のゲーテ繋がりだけど


最近、水木しげるさんの「ゲゲゲのゲーテ」を


家のトイレに置いておき


パラパラ読んでるので、この文章は自分の中で


ヒットしてフィットした。


 


世界は数多くある から抜粋


世界には、国家も、実現しなかったさまざまな可能性も、芸術作品も、それにとりわけ世界についてのわたしたちの思考も含まれているのだとすると、世界は自然科学の対象領域ないし生物学が統合したという話をわたしは知りませんし、《モナリザ》が化学実験室で分解されて説明がついたという話をわたしは知りませんし、《モナリザ》が化学実験室で分解されて説明がついたという話を聞いたことがありません。

そんなことをすれば大きな代償を払わなければなりませんし、そんなことで《モナリザ》の説明をつけようとすること自体がそもそも不条理です。


《モナリザ》は、何でかわからないけれど、


デモニッシュな魅力を讃えていて、不気味な表情、


謎に満ちた水墨画のような背景というのは


横尾忠則、村上龍氏の対談で指摘されていた。


それは置いておいて、名画というのも、印象は人それぞれで、


そう思わない人も沢山いるわけで。


そう思う人もいるわけで。


そもそも名画って本当に名画なのか、みたいな思考を哲学というのかなあ。


 


無以下 から抜粋


なぜ世界が存在しないのかを理解するためには、何かが存在するとはそもそも何を意味するのかをまず理解しておかなければなりません。

そして、およそ何かが存在すると言えるのは、その何かが世界のなかに現れるときだけです。

じっさい、世界のなかにでなければ、どこに存在するというのでしょうか。

というのも、ここで世界という言葉で理解されているのは、およそ起こりうる事象のすべてがそのなかで起こる領域、つまり全体にほかならないからです。

ところが当の世界それ自体は、世界の中に現れることがありません。

少なくとも、わたしは今までに世界それ自体というものを見たことも、感じたことも、味わったこともありません。

それに、わたしたちがその中で考えている世界と、もちろん同一ではありません。

わたしが世界について考えているとき、この思考自体が、世界のなかの非常に小さな出来事、わたしの小さな世界について考えているとき、この思考自体が、世界のなかの非常に小さな出来事、わたしの小さな世界内思考に他なりません。

この思考と並んで、他にも数えきれないほど多くの対象や出来事が存在していますーーにわか雨、歯痛、連邦首相府、等など。

(略)

わたしたちが世界の存在を信じている時に想像しているものは、叛逆的なスター哲学者スラヴォイ・ジジェクの本のタイトルがいうように、いわば「無以下」なのです。


この後「ニヒリズム」「リルケ」「トーマスマン」とか、


三島由紀夫的なキーワードが頻発するのは偶然だろうか。


「ゲーテ」然り。


それから「猿の惑星」「マトリックス


ブレア・ウィッチ・プロジェクト」など、


昨今のカルチャー(映画)なども参照されてて


芸術とかクリエイティブなことと哲学を関連づけていて


なんとなく、親近感あり、とっつきやすかった。


全体の量とか質とかに対して


まったく理解が追いつかないけど、マルクス・ガブリエル氏の


新しい哲学としての入り口として


最適な書籍なのではないかと思った。


余談だけど映画「マトリックス(1999年)」について。


20年くらい前にレンタルしたけど鑑賞を頓挫。


ブルース・リーを知っている自分としては


ワイヤーアクションとか新しい映像感覚を


なんとなく受け付けることができなかったが


さっきアマゾンプライムで初めて全部観た。


単純に面白かったというのと


哲学者とか思想家とかがこの作品を多く


引き合いに出される理由が少しわかった気がした。


どこからきてどこへ行くのか、


裏と表、夢と現実、みたいな。


違ってたらすみません。(誰に謝る?)


nice!(33) 
共通テーマ:

資本主義と民主主義の終焉――平成の政治と経済を読み解く:水野和夫・山口二郎共著(2019年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


資本主義と民主主義の終焉――平成の政治と経済を読み解く (祥伝社新書)

資本主義と民主主義の終焉――平成の政治と経済を読み解く (祥伝社新書)

  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2019/04/27
  • メディア: 新書

はじめに ー 次なる時代を読む手がかりとして 山口二郎


から抜粋


平成という時代は、民主主義を求める戦いのなかで、行きつ戻りつの時代だった。

人間は未来を見通す能力を持っていない。

過去の失敗を見て、学ぶことができれば、それだけでも賢者である。

平成が終わり、令和を迎えた今、混迷のなかで自分が何を希望し、どこで失敗し、もがき苦しんだかを総括することには意味があるだろう。

この時代は、経済の世界で20世紀の、あるいは第二次世界大戦後のパラダイムが通用しなくなる大きな転換が起こっている。

その衝撃が政治の混迷をいっそう深くしている。

そのことは日本だけではなく、アメリカでも西ヨーロッパでも共通した現象である。

政治学者と経済学者の対談から、この時代に何が終わろうとしているかを明らかにすることで、次に何を目指すべきか、手がかりが見えてくることを願っている。


民主化のうねり ー 山口二郎 から抜粋


明仁天皇が即位に際し、

「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国連の一層の世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」

と述べられています。

ご自分の立場が憲法にもとづかれていることを明言された、この「おことば」は、新時代の到来を予感させました。

(略)

元号が「平成」に変わると、政治の民主化が進みます。

昭和天皇が亡くなられて、戦争の記憶は歴史の彼方へ次第に遠ざかり、戦争を引きずる時代が終わりました。

そのことが、戦後の憲法体制と民主主義体制の正統性を、保守の側からも共有する動きにつながります。

民主化とは端的に言えば、「国のあり方は国民が決める」政治体制を形成していくことです。


昭和から平成に変わる時の


天皇陛下のお言葉に「国連」が


含まれていたというのは忘れていたというか、


若い頃だったら気にもならなかったのか覚えてなかったが


今のウクライナのような状況の時、国ではない


働きかけのできる組織が、必要だと痛感する。


今の国連がそういった機能を果しているか、


どうかは別として。


果たせてないからまだ継続なんだろうな。


この後、山口・水野さんたちの時系列に沿った見解は


戦後55年自民党体制から


民主党への政権交代、経世会の分裂、小泉政権、


同時多発テロ、リーマンショックのことなどなど


平成の三十年間を総括され、


俯瞰して分析するのは適された書籍ではあるものの


やはり自分としてはこれからどうなるかが


性急かもしれないが、気になる。


 


AI失業者への”手切金” ー 水野和夫 から抜粋


AIの急速な発達により、職場環境の激変や職を失うことが盛んに議論されています。

野村総合研究所とオックスフォード大学の共同研究によれば、2030年ごろには日本の労働人口の49%が自動化される可能性があるそうですが(「朝日新聞」2019年1月3日)私もAIによる失業、いわゆる「AI失業」は起こりうると考えています。

(略)

フランスの哲学者パスカルは「人間は考える葦である」との名言を残していますが、来るAI社会は

「もう考えなくていいよ」という人を、増やすことになるのかもしれません。

機械が筋肉労働をする場合、コンピュータ制御室にいる人間が監視していました。

しかし、AI社会では、それさえも人間はしないことになるでしょう。

AIを成長の切り札にしようと考えている人たちは、「考えない人」は社会にとって不要だと言い出しかねず、一級市民と二級市民に選別するようになるかもしれません。

かつて、その選別基準は能力や、それにもとづいた地位・財産でしたが、今後は「考えてほしい人」と「考えなくても良い人」になるわけです。

民主主義にとって大きな脅威になるのではないか、と危惧します。

このようなAI失業に備えて、リフレ派(ゆるやかなインフレが経済成長をもたらすと考える人々)を中心に「ベーシック・インカム(BI)」構築の主張がなされています。

(略)

2017年、フィンランドでは、無作為に選ばれた2000人の失業者に月額560ユーロ(約7万円)を支給する実験を行いました。

(2018年12月実験中止)

BI推進論者は、「BIは生活保護とは異なり、働いても給付が減らない」と言いますが、私に言わせれば、これは”手切金”です。

一律に支給するから、「あとは病気になろうが面倒見ないよ」ということでしょう。

これでは、ますます社会を分断させていくだけです。

何よりも、それによって消費が進み、経済が回り、国が豊かになるとはとても思えません。

「AIを導入する」というと、さも最先端であるかのように聞こえますが、非効率を全部、人間のせいにする経営者のほうがおかしいのです。

仮にそうであるなら、経営者もAIと交替したほうがいい。

そのほうが効率的ですし、AIはけっして平均的年収の200~300倍といった法外な高給を要求しませんから。

AIによって社会はどう変わり、どう対処していくか。

政治家はきちんと説明すべきです。


フィンランドの件、失敗だったと色々言われていて


構造に欠陥あり、とか、人数が少なすぎるとか。


しかしやったことのフィードバック検証は参考になるのでなかろうか。


AIは経営者をそれにしたほうがいいってのは、言い得て妙ですよなあ。


批判するつもりはないんだけど、仕事しない人が


高給取りという構図はどう考えてもおかしいから。


それはさしおいて、BIですぐに幸福という公式には


なかなかなり得ないというのは想像に難くない。


BIと言っても、これまたさまざまな意見があるものなのだな


と水野さんの言説を読んで思った。


 


おわりに ー 資本主義は終焉しても、民主主義は終わらせてはいけない 水野和夫


から抜粋


平成の時代、日本経済は他の先進国に先駆けて、ゼロインフレ。ゼロ金利、ゼロ成長の時代に突入した。

世界を見れば、先進国の成長の減速と呼応するように、グローバリゼーションが地球のすみずみに浸透していった。

「成長があらゆる怪我を治す」という近代の価値観からすれば、グローバリゼーションこそが成長の切り札だったはずだが、先進国のみならず、新興国においても成長鈍化が著しい。

リーマン・ショックが起きる前、FRBのグリーンスパン議長(当時)やアメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、グローバリゼーションは中産階級を強化する、民主主義を世界に広めるなどと言ったが、平成が終わる現在、まったく逆の現象が起きている。

「成長」政策で怪我は治るどころか、ますます事態は悪化している。

具体的には現在、世界各国の巨額の政府債務残高は膨らみ、格差拡大が貧困化を生んでいる。

むしろ「成長」政策は階級社会を招来しているし、オックスファム・レポートで明らかなように、富の集中が加速している。


ここでも、この後アダム・スミスの『諸国民の富』を


引かれていて興味深かった。


「資本主義」と「民主主義」はセットで語られてきたけれど


全く異なる「主義」なのだろうね。


「民主主義」これを終わらせてしまうことは、


何かを終わらせてしまうことになるのだろうと


胃の痛くなるような書籍だった。


この書籍から3年、コロナ禍で世間が目まぐるしく変わる昨今


アメリカがまた自国ファースト、ポピュリズム路線復活なのかと


肝を冷やしていたこの週末、選挙結果は不透明なので


肝は冷えたままなのだけど、それらは昨日コロナワクチン4回目を


打った影響なのかも、と思うことにして今日のところは寝よう。


nice!(36) 
共通テーマ:

養老先生、病院に行く:養老孟司・中川恵一共著(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


養老先生、病院へ行く

養老先生、病院へ行く

  • 出版社/メーカー: エクスナレッジ
  • 発売日: 2022/11/24
  • メディア: Kindle版

「はじめに」から抜粋


相手が中川さんでなければ、面倒臭いからヤダと企画を断るところである。

現代の医療をどう思うかと何度か訊かれたように思うけれど、その根本を考えたいとしばらくの間思っていた。

でもなんだか面倒くさくなってきた。

一番もとにあるのは、統計というものをどう考えるかという点である。

社会全体もそうだが、現代の医学は統計が優越している。

統計は数字で、数字は抽象的である。

では抽象ではないものはとは何か。

感覚に直接与えられるもの、『遺言。』を書いた時点では、その程度で話を済ませたが、その後あれこれ考えたら、感覚所与と意識の間の関係をもっと煮詰めないといけないと思うに至った。

(略)

統計に関する本を集めて、基礎からあらためて勉強しようと思ったけれども、この本にあるように、私は心筋梗塞を起こしたし、その背景にあるのは強い動脈硬化である。

それなら当然、脳動脈も十分に硬化しているに違いない。

その壊れかけた脳みそで、統計の基礎のようなややこしい問題を考えても、不十分な思考になるに決まっている。

気を取り直して頑張ってみても、脳がさらに壊れるだけのことかもしれない。

年寄りの冷や水だろう。

東大医学部の学生だったときに、脳外科の講義で、当時の清水健太郎教授が旧ソ連の医療に触れたのを、今でもよく記憶している。

「ソ連の医師は半数以上が女性である。」と教授はまず述べた。

「ゆえに、ソ連の医学は程度が低い」

今なら教授は即座にクビであろう。

(略)

我ながら、よく時代の変化に合わせて言論活動なんかしてきたよなあ、という感じである。

政治家になんかなっていたら、どこでどんな問題を起こしたか、わかったものではない。

清水教授の発言も「統計的」である。

前半は間違いなく統計そのもので、後半は尺度が明示されていないのでかなり怪しいが、「統計的」とでもいうべきであろう。

統計数字があろうがなかろうが、ヒトは「統計的」に考えるものらしい。

この辺りをきちんと考えたかったのだが、この本の対談をやっている時点では、とても間に合わなかった。


八十代半ばににして、この謙虚さっぷり、


思慮深さと好奇心の塊。


素直なのか、なんなのかわからないが、


キレ物であることは間違いない。


そう感じるのは、贔屓の引き倒しなのか、


自分は養老信者だから。


先生の「統計」に関する論述を新しい著作で読みたい。


でも、もう働かなくてもいいです、寿命とのご相談で。


(同じことをポール・マッカートニーさんにも感じます)


お身体お大事にされてください。ご家族のためにも。


 


第1章 病気はコロナだけじゃなかった


「死をさまよい、娑婆に戻ってきた」から抜粋


検査を久しぶりに古巣の東大病院で実施した後


待合室で昼は何食べようかなあ、と話しておられたところ…


(略)

中川医師がやってきました。

「養老先生、心筋梗塞です。循環器内科の医師にもう声をかけてありますから、ここを動かないでください」

と言われ、そのまま心臓カテーテル治療を受けることになりました。

(略)

カテーテル治療後は、ICU(集中治療室)で2日ほど過ごし、循環器内科の一般病棟に移りました。

カテーテル治療の前後やICUにいたときは、意識がぼんやりしていて、お地蔵さんのような幻覚も見えました。

お地蔵さんは、阿弥陀様だったのかもしれません。

病院から出るには2つの出口があります。1つは阿弥陀様から「お迎え」が来て、他界へと抜け出ます。

もう1つは、娑婆に戻ります。

現在の病院は後者の機能が大きくなっています。

前者はホスピスと呼ばれる終末医療です。

昔の病院がお寺や教会に属していたのは、この機能が大きかったからでしょう。

しかし、阿弥陀様には見放されたらしく、とりあえず私が出たのは娑婆の出口の方でした。


「いつ死んでもおかしくなかった」から抜粋


今回、主治医の中川さんは、15kgやせたと聞いて糖尿病とがんを疑ったようです。

検査の結果、体重減少の原因は糖尿病のようで、全身をくまなく調べても、がんはみつかりませんでした。

がんは年齢とともに発症率が高くなる病気です。

今までがん検診を受けたことがありませんから、82歳ならがんの2つや3つあっても不思議ではありません。

でも検査を受けなければ、病院にいかなければ、がんがあるかどうかはわかりません。

中川さんは私よりずっと若いのに、膀胱がんが判明して大きなショックを受けたと言っています。

だから私のような病院嫌いは、検査を受けない方がいいと思っていたのです。

もしも、がんが見つかっていたら、それはそれで面倒なことになります。

今回の入院で、いろんな検査をしましたが、大腸内視鏡検査では大腸ポリープが見つかりました。

がん化する可能性があると言われましたが、放置することにしました。

がんであれば、家族は放置を認めないでしょうから、放射線治療くらいはやるかもしれません。

手術はストレスが大きいので選ばないでしょう。

抗がん剤もストレスが強ければやらないと思います。

だから、担当の医者が

「がんは取れる限り取りましょう」

というタイプだと困ってしまいます。

もちろん、患者には治療法を選ぶ権利がありますが、主治医と患者で意見がずれてしまうと、ただでさえ薬ではない治療に余計なストレスがかかります。

ですから、医者選びは大事なのです。


医者選びの基準は「相性」です。

現在の医療は標準化が進んでいますから、基本的に誰が主治医になっても同じ治療が行われます。

一方、人には好き嫌いがあるので、相性が重要です。

夫婦や、教師と生徒の関係にも似ています。

もう一つ、医者選びは自分と価値観が似ているかどうかも重要です。

例えば、もう延命は望まないと思っているのに、主治医が延命を勧めたら、ストレスになってしまいます。

もう治療はここまでという私に対し、じゃあこのくらいにして、あとは様子を見ましょう、と言ってくれる医者でなくてはいけないのです。

こんな私と相性や価値観の似た医者というのはあまりいないのですが、中川さんはその期待に応えてくれたと思います。

大変お世話になりました。


「相性」と「価値観」が合う人って、


養老先生のそれに見合う人は


なかなかおられないだろう。


でも、その二つって重要だってのはわかる気がする。


しかし、そもそもお医者さんとその2点を確認する機会って


診察以外ではなかなかないのが一般の人の場合。


こういう書籍などで実例を読みながら、良い判断の参考に


っていう読み方をさせていただきました。


 


「差異を無視する統計データ」から抜粋


私はタバコを吸っていますが、喫煙者はがんになりやすいというデータがあります。

57歳のときに肺がんが疑われたことがありますが、当時はタバコを吸っていたので、検査の結果が出るまで、その可能性はあると覚悟していました。

結局、肺がんではありませんでした。

がんになる要因は一つではありません。

発症する現実の仕組みは複雑です。

にもかかわらず、がんを予防するためには複雑化を取り払い、単純化して因果関係を絞り込んでいるように思われます。

統計で得られたデータというのは、そのように使うことも可能ですから、場合によっては、原因は1つに特定することもできます。

人間を喫煙者と非喫煙者に分けて、どちらががんの発症率が高いかどうかを調べるとします。

その結果、タバコを吸う人の方ががんになる確率が高いことがわかります。

これによって、喫煙とがんの因果関係が「実証」されるわけです。

 

統計というのは、個々の症例の差異を平均化して、数字として取り出せるところに着目してデータ化します。

逆にいえば、統計においては、差異は「ないもの」として無視しなければなりません。

差異というのはノイズです。

先ほど、「現実の身体とはノイズだらけ」と言いましたが、統計を重視する医療の中にいると、データから読み取れる自分が本当の自分で、自分の身長はノイズであるということになってしまうのです。

本来、医療は身体を持った人間をケアし、キュア(治療)する営みです。

それなのに、患者の身体がノイズだというのは、おかしなことです。

統計は事実を抽象化して、その意味を論じるための手段にすぎません。

統計そのものに罪があるわけではありませんが、要は使い方の問題なのです。


その昔、Webサイトのログデータを分析・考察し


改善に繋げる仕事をしてたので


この論説は似ているような気がして、耳が痛かった。


多くのデータを平均化して、出た差異(ノイズ)は


いったん無視しないと先に進めないのです。


「進めない」ってのは抽象的な物言いだけど


それはお金にならないことを意味していた。


何かを提案する企業としては


それでは、極論すると立ち行かなくなるので


何とかそこに意味を与えていた、昔の仕事っぷり。


なので、医療もそうなのかなあ、なんて


勝手に思ってしまうのだけど。


相手(患者)にとって、それは幸福とはいえないのでは


ないだろうか、みたいな。


これもデジタル(脳化社会)の弊害なのだろうなと。


 


「都市の中には意味のあるものしかない」から抜粋


統計は「意味を論じるための手段」といいましたが、意味はもともとあるものではありません

都市に住んでいると、すべてのものに意味があるように思われます

それは周囲に意味のあるものしか置かないからです。

例えば、都市のマンションの中に住んでいるとします。

部屋の中のテレビやテーブルやソファー、目につくものには、すべて意味があります。

たまに何の役にも立たない無意味なものがあっても、「断捨離」とかいって片づけてしまいます。

それを日がな一日見続けていれば、世界は意味で満たされていると思って当然です。

それに慣れきってしまうと、やがて意味のない存在を許せなくなってしまうのです。

そう思うのは、すべてのものに意味がある、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で人間が暮らすようにしたからです。

都市の中では、意味のあるものしか経験することができません

 

でも現実はそうではありません

山に行って虫でも見ていれば、すべてのものに意味があるのは誤解であることがすぐにわかります。

(略)

意味というのは、感覚に直接与えられるもの(感覚所与)から、改めて脳の中で作られるものです。

都市はその典型で、道路もビルも、都市の人工物はすべて脳が考えたものを配置しています。

自分の内部にあるものが外に表れたもの。

人が作るものは、すべて脳の「投射」なのです。

都市化が進めば進むほど、周囲には人工物しかなくなり、脳が考えたものの中に人間が閉じ込められることになります。

都市化も統計化も、抽象とか、解釈とか、脳が考える営みの中で進んできたものです。

がんにかかる人がたくさんいるという事実があり、それを把握するため、個別データを取捨選択して集め、特定の手順で抽象化します。

そして抽象化されたデータは、現実の解釈に使われ、がん予防のための基礎情報になるのです。


「過去の医療には戻れない」から抜粋


未来の医療は個人に合った医療にするとか、オーダーメードの医療にするとか言われています。

ただしそれをやるには、膨大な情報量が必要です。

AI化が進んで、いずれそんな時代がくるかもしれませんが、今は過渡期というか、昔の医療と未来の医療の中間にいるわけです。

その中間にいるときは、どうすればいいのでしょうか。

新型コロナの対策では、みんなが勝手なことを言って、どういう対策をたてればいいのかははっきりしないまま1年以上も終息できずにいます

でもそんなことは、はっきりしなくて当然です。

誰かが1つの論理で決めていかなければはっきりさせることはできません

自分が医療を受けるのも同じです。

自分で決めるしかないのです。

ところが、普通の人は決めるための十分な知識を持ち合わせていません

自分で決めるために、セカンド・オピニオン(納得のいく治療法を選択することができるように担当医とは別の医療機関の医師に「第二の意見」を求めること)という制度もありますが、病気について十分な知識がなければ、結局、確率が高いほうを選ぶしかありません。


未来は未確定、誰にもわからない


面倒臭くなってきたので、また考えよう。


 


第二章 養老先生、東大病院に入院 中川恵一


「養老先生が医療の考え方を変えた?」から抜粋


今回、養老先生が大病を経験したことによって、先生の医療に対する考え方を変えたのではないかと私は思いました。

その理由の一つが、白内障手術で入院していた8月に読んでいた

ライフスパン 老いなき世界』という本の感想です。

出版社から送っていただいた発売される前の見本をいち早く読まれたようです。

(書籍は2020年9月29日発行)

(略)

この本によれば、人類は科学の力で老化を克服でき、若い身体のままで長生きできるようになる日が近づいているのだそうです。

老化の原因がわかったので、それを止める方法も解明されつつあるということで、その一部はシンクレア教授自身も実践されています。

 

養老先生は、この本にずいぶん興味をもたれたようで、私に

「中川君、老いは自然じゃなくて病気なんだよ」と言われたように記憶しています。

それを聞いて私はびっくりしました。

(略)

養老先生のお話や本によく出てくるのが、「都市と自然」という概念です。

都市というのは人工物であり、人工物は大脳が作り出したものです。

自然は変化しますが、人工物である都市は不変です。

夏でも冬でも同じ室温に調整された高層ビルの中に一日中いると、季節などのうつろいゆく自然を感じることができません。

都市は自然を排除しようとするのです。

人工物の象徴である都市を作り上げた大脳も、自然を避けようとします。

その最も忌避すべきものが「死」です。

死は自然であり、大脳も自然(身体)の一部であることを教えるからです。

この「大脳の身体性」こそが、現代社会の最大のタブーだと養老先生は言っています。

養老先生の考え方に従えば、死に近づいていく「老い」もまた自然です。

人間にとって死が避けられないように、老いもまた避けることができません。

これに対し『ライフスパン』では、老い(老化)は病気だと言っているのです。

病気であれば治療ができる。

だから若返りは可能であるという考え方です。

老いや死が自然であると言っていた養老先生が、「老いは病気」だというのは、宗旨替えとも言える発言です。

それで私は驚いたのです。


第四章 なぜ病院に行くべきなのか?


「ヘルスリテラシーが低い日本人」から抜粋


私ががん検診を勧めるのは、早期がんであれば、多くのがんは治癒できるからです。

しかし早期がんは自覚症状がありません。

逆に自覚症状が出てきてから発見されるがんの多くは進行がんです。

治癒できない確率が高くなります。

日本でのがん検診の受診率は2から3割程度です。

(略)

ヘルスリテラシーの国際比較調査によると、国・地域別のヘルスリテラシーの平均点(50点満点)では、オランダが37.1点でトップ。

アジアではコロナ対策でも優等生の台湾が34.4点と最も高かったのに対して、日本ではミャンマーやベトナムよりはるかに低い25.3点の最下位でした。

(略)

養老先生は臨床医ではありませんかが、医者(解剖学者)ですから、普通の人よりも高い医療リテラシーを持っています。

ただ医療に関わることは、自分の哲学に反することでもあるので、病院に行くというだけであれほど悩むのです。

第一章でご本人が書いていましたが「医療界の変人」です。

怖いから病院にいかないという人たちと同じように考えることはできません。


若い人たちにもがんが増えているため、


検診に行くよう警鐘を鳴らされておられる中川医師。


養老先生の宗旨替えを驚かれているけど、むしろ


自分は養老先生は本当にフレキシブルな頭だなあ、


と感嘆してしまう。


頑なに自分の哲学を守ろうとせず


他者の意見を取り込む姿勢は見習わないとって思う。


知性の高い人の特徴のような。


簡単にいうと頭の柔らかさ。


そして「あとがき」でございます。


中川医師は養老DNAを継承されていることが窺える。


「あとがき 中川恵一」から抜粋


養老先生は私が東京大学理III(駒場)から本郷に進学した1981年、解剖学部第二講座の教授に就任され、医学の基本である解剖学を教えて頂きました(実習及び講義)。

私は不良学生で、医学部の講義にはあまり出ませんでした

(解剖学習などはしっかり履修。念の為)。

今とちがって、各自が勝手に勉強しろと、いうおおらか(?)なムードがあり、講義では出席もとっていませんでした。

それでも養老先生の講義には欠かさず、出席していました。

率直に言って、他の先生方の講義と違って、面白かったからです。

当時から、今に至るまで、養老先生を尊敬しています。


こういう関係性のもとで、診療していただけるのは


ほぼ皆無だろう。幸運な関係性だと感じた。


普通はドクターと話す機会すら、なかなかないからなあ。


でも、この書籍というか養老・中川両先生が


教えてくれたことはたくさんありまして


知識をできるだけ集めて自分で判断するってこと。


医者選びは大切ってこと。


相性や価値観を合わせる前にできること、それは


まず書籍(情報)に触れることだって思った。


それが信頼に足るかの判断力も


養っておくことも重要でしょうね。


それから、この本のもう一つの魅力、


愛猫の「まる」が具合悪くなった時の


「まる」への病状の処置対応から推察される


医療への態度など、両先生の視点から


炙り出されてて興味深かった。


特に中川先生目線からは、養老先生が


「まる」にされる対処や処置がご自身のそれと


矛盾しておられると指摘されてる点。


わからなくもない論理展開なのですけど


よく考えると「まる」は


家族同然なんだろうけど


とはいえ、養老DNAを持っているわけではないし


むしろ、養老先生の方が「まる」の影響を


受けていそうだからね。


先生にしてみたら一匹の飼い猫としての


往診や処置をしたってだけで


特に矛盾ではないんだろうけど。


余談だけど、養老先生のDNAを継承している


お弟子さんって他にもたくさんいそうですよね。


ちょっと「反社会的(反骨)」で


かなり「捻くれもの」で


素晴らしく「頭脳明晰」で。


二つ目まではあるんだけど、


どう考えても三つ目が圧倒的に足りない。


自分はそのグループに入れてもらえなそうだと思った。


nice!(37) 
共通テーマ:

他人の壁:養老孟司・名越康文共著(2017年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「他人」の壁 (SB新書)

「他人」の壁 (SB新書)

  • 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
  • 発売日: 2017/07/05
  • メディア: Kindle版

第2章 誤解を無理に解く必要はない から抜粋


■名越

まあ、一般社会でもトラブルが起きたときに、その当事者がいきなりフリーハンドで出て行っても、逆に燃料を投下して火の手が大きくなるだけですからね。

そのために弁護士がいるわけで。

 

■養老

自分が正しいという主張は、学問上にとどめておいたほうが無難です。

それですら収拾がつかない大論争が起こることもあるわけだから。

でも学問上ということは抽象的なことですから、日常には関係ないですからね。

学問なんて本当のこと言うとどうでもいいんですよ。

 

■名越

先生がそれを言ってしまいますか(笑)。

まあ、真実でかつ極論でしょうけど。

 

■養老

そういうふうに考えたほうが、考え方の整理がつくでしょうという意味ですけどね。

 

■名越

わかります。だから、余計に一般の方が「誤解を解こう!」とやっきになる必要がないという意味においてですね。

 

■養老

だって、分厚い学術書なんか見ると、その厚さだけで

「ああ、これ書いた人はやっぱりわかってないな」

と、思いますよね。偉そうにいうつもりはないけど、説明が長すぎて誰が読むんだって。

そういう本ってだいたいにおいて形が決まっていてさ、最初に難しいテーマをボンと出して、その後に知識や情報だけをずらずらと書いてあるんですよ。

だけど、そんなことはもう、すでに世の中ではわかっていることなんです。

問題はそういう認識に達するまでのプロセスといいますか、そこに至るまでの時間の流れなんですよ。

そのプロセスや時間の流れの中で人が生きてもがいていたわけで、その結果としてこういう答えになりましたということ。重要なのはそこなんですけどね。

なかなかわかってもらえない。


痛快としか言いようがない。


学問なんてどうでもいい、日常に関係ない。


これは人類がコロナ禍で気がついたことなのかもしれないです。


一番大切なものは”日常生活”。


これがないと始まらない。


まだ気がついてない方も、おられると思いますし


気がついていても、人間は忘れちゃう


生き物なのかもしれないけど。


終章「違和感」を持つことで主体的に生きる から抜粋


■養老

今回、「田舎へ行け」とか「寺へ行け」と何度も言ったというのは、IT技術がいくら発達しても、人工知能の中には田舎はねえよって話なんでね。

今の時代って実はけっこう面白くて、「人はなぜ生きるのか」とか「自分は何者なんだ」みたいな、非常に青臭いテーマに戻ってきている。

経済を成長させてGDPを増やした結果、どれだけ心が成長したのか、実はほとんどしてないかもしれないという話でしょう。たまに言うんだけど、政治家が「この橋は俺が作った」って、つくったのはおまえじゃないだろうと。そうでしょう。

現代人が、できあがった今の社会を見て、「我々が築いたこの文明社会」って、築いたのは自分じゃないでしょう。

青臭いかもしれないけど、そう言った大きな問いを突きつけられている時代なんです。

その問いにしっかり向き合って答えを出さないとならないのに、みんな考えようとしないで、そっぽ向いている。

「そんなことより、もっと世の中を便利にして」

とか

「合理的に」

とか言っている。

子供に英語を教えてグローバルスタンダードな人間にするんだとかね。

それで「どうしたら幸せになれるか」とか、

「どうやったら死の不安から抜け出せるか」とか、

そう言うことだけは心配して聞いてくるでしょう。

幸せになるためにできるだけ合理的な方法を教えてくれとかね。

 

■名越

たしかに、本当の意味で原点に戻っている感じはします。

自分たちは何をやってきたのか、ようやく振り返れる時代になってきているのに、本当に振り返れるのか、肝腎なところに来ているのでしょうね。

 

■養老

だからいつもいうんだけど、人間の始まりって、ゼロコンマ2ミリの卵なんですよ。

考えたことありますかね。シーラカンスの卵。

これがヤモリやトカゲ、鳥の卵に進化してきて、それが人になる。

もともとは粒みたいな小さい卵だったくせに、これが「科学だ」とか「人工知能だ」とか生意気いうわけです。

少しは謙虚になれということです。

今回は「他人への理解」とか「気づき」とかいうことが大きなテーマらしいんだけど、結局、「気づき」の裏って違和感だと思うんですよ。

 

■名越

ええ、わかります。

違和感を持たないと「気づき」はありませんからね。

おかしいなと思ったら、心の中に捨てずに持っていると、ぱっと花が咲くことがありますから。

赤い花か、白い花かわかりませんけど。

違和感が出たら打ち消さずに、いっぺんでもいいから違和感として心の中から取り出せれば、その人の人生はきっと変わります。

 

■養老

僕自身も若い頃から絶えずやってきたことで、自分の頭の中で「これ、変じゃねえか」という違和感を持つということですよね。

だって、変だと思ったら、それは自分が変なのか、相手が変なのか、どちらかだから。

自分を変えるか、相手を変えるかでしょう。

そういう意味では、今の人たちは「相手が変だ」というほうが多いんじゃないか。

僕はそれを不寛容と言うんです。

「違和感があるぞ、変なのは俺じゃない、こいつだ」となって、相手を抹殺する。

不寛容の極みです。

だから、「あるものはしょうがないじゃないか」ということ。

「あってはならない」と寛容できなくなった瞬間、人は不寛容になるんです。

 

■名越

心に違和感を覚えたら、それを驚くのはいいけど、別に恐れて否定しなくてもいいんですよね。

違和感を「悪いものだ」と否定しているうちは、違和感を取り出したことにはならない。

僕の師匠の植島啓司さん(宗教人類学者)は、

「仏とは心の中にある違和感である」という名言を述べられています。

つまり、自分の中にある絶対に同化できない異物のような存在を、彼は「仏」と言ったんですよね。

仏って阿弥陀さんみたいに慈愛に満ちていて、無条件にいいものなんだという固定観念があるけど、恐ろしい存在でもあると思うんです。

仏罰というものもあるわけだし。

そういう意味では、この植島さんの捉え方にはちょっと打たれましたね。

すごいと思った。

だから、冒頭から「わからないくてもいい」と言っているのは、何も「モノを考える必要がない」ということではなくて、今すぐ答えが出てこなくてもいいから、とりあえず違和感を持ち続けているうちに、だんだん溶け出して、黒砂糖みたいに見えてくるかもしれない。

それがもっと溶けてきて、次第に消化していくというようなイメージですかね。それが1ヶ月先か、一年先なのか、もっとかかるかもわかりませんけど。


■名越

主体的に生きている人と、なんとなく生きている人の輝きの差みたいなことは確かにあります。

無自覚に惰性で流されて生きている人と、毎日1時間でもいいから充実した自分の時間を持つように意識した人では、1ヶ月と2ヶ月くらい変わらないけど、2年、3年経てば、おそらく取り返しのつかないくらい差がついているでしょうね。

 

■養老

しかも、これけっこう、心に負担なんですよ。

違和感を抱えながら生きるって。

ストレスになるの。

だから、この違和感を打ち消す便利な言葉が、日本語にはあるじゃないですか。

「そういうもんだ」という。

そういうもんだと思った瞬間に、思考は止まるんです。

以前、学生たちに「コップに水を入れてインクを一滴落として、時間が経つとインクが消える。

なんで消えるの」と聞いたら、しばらく黙って「そういうもんだと思ってました」って」言うわけ。

なんだよそれって。

違和感がないんだったら、もうそれ以上考える必要は無くなるんですよ。


精神とか心理とか、そして仏教との関係も示されていた。


名越先生の言葉で、欧米人が仏教に惹かれるのは、


癒しとか緩いことでなくて


「彼らが考える科学的見解の先に、


仏教の教えがあると気付いたんだと思っています。


空海の教えの中に、量子論的な考え方があるということに


気づいているのは、ドイツ人やフランス人じゃないですかね。


仏典について一番多くの論文を書いているのも、


たしか彼らじゃなかったかな。」


というのも、科学、宗教とかを考える上で興味深かった。


余談だけど、話中にある「違和感」について


「違和」が「達成」に見えて


「達成感」と読み違えていて、


それこそなんか違和感あるな、と思った。


ひと昔のビジネスマンとか、


ガッツ溢れる若者とは異なり、


「達成感」が重要みたいな言葉って、


この二人言わなそうだよね。


今の人たちも言うのかな、目標とか達成とか。


それで今もご苦労されている方いて、


気分を害されたら申し訳ありません。


他意はありませんで、感じたことを言っているだけで


それは、つまり周りに気を遣えないことを


気がつけなくなってきていて、つまり


経年劣化からくる「老い」なのだろう。


イコール忖度もなくなるのか。


でも、こればっかりは


しょうがないとしか言えないなあ。


と池田清彦先生風に締めてみました。


(何のためだよ!)


nice!(36) 
共通テーマ:

若者よ、マルクスを読もう:内田樹・石川康宏共著(2013年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)

若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2013/09/25
  • メディア: 文庫

文庫版まえがき 内田樹 から抜粋


歴史上、「マルクスのように発想し、マルクスのように推論し、マルクスのような修辞を駆使した」人は彼以外におりません。

これは誰がなんと言おうと天才の仕事です。


どのような領域においても、天才の仕事に触れる経験は、僕たちの魂にある「震え」のようなものをもたらします。


世の中にはマルクスは「政治的に正しいこと」を述べているので読むべきだというふうに考えている人がいます。(たぶんそういう人が「マルクス読み」の中で多数派でしょう)

でも、そういうかたちでの推奨は「マルクスは政治的に間違ったことを述べているから、読むべきではない」というタイプの批判とぶつかるといきなりデットロックに乗り上げてしまいます。

一方は「正しい」と言い、他方が「間違っている」という場合、常識的な若者なら「いずれ正否の結論が出るまで急いで読むこともないか」と判断します。

それがふつうです。

内容の正否について非妥協的な対立があるテクストについては、とりあえず「歴史的判定」が下るまで読まずに放っておくというのは一つの見識です。


『ノルウェイの森』に出てくる「永沢さん」という印象深い青年は「死後30年を経ていない作家の本」は原則として手に取らないということをルールにしていました。

「俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」(村上春樹『ノルウェイの森』(上)1987年57頁)


評価の定まっていないものを探すことで


本質というか本物というか


そういった何かに近づくことができる


最大の一歩だと考えてた30年前


今思うと間違ってはいなかったと思うけど


それができた所以は「若さ」だったのかなと。


評価の定まった本や音楽や、人物を


軽々しく選択することは


もしかしたら邪道で、まやかしなのでは


とか悩んだ時期も、あるっちゃああるけど


今はもうそんなこと考えてる時間はない。


風雪に耐え現代に残っているもの、


例えば古典と言われてるものたちは


自分の凡庸な何かを刺激してくれるので


もうそれだけで結構でございます。


ありがたく拝受いたいます。


ゆえにマルクス&エンゲルス、自分にとって


最高に興味がある人物たちに今、なっております。


マルクス主義(の一部)を綱領に掲げて成立した国家がソ連東欧圏をはじめとして軒並み「あれは間違っていました」とカミングアウトしてしまった現在となっては、「時の洗礼」はマルクスに「否」の判定を下したのだから読む必要はないと思う人たちの方が多いのも当然といえば当然です。


でも、僕はこれまでずいぶんたくさんマルクスを批判する人たちの説を読んできましたけれど、どうも彼らがマルクスは「読むに値しない」というときの根拠が「政治的主張」の間違いに限定されるようなので、それはちょっと違うんじゃないかと思うのです。


というのは、マルクスの政治的発言はあくまで、彼の生きていた時代のヨーロッパの政治的状況の中での、「特殊解」に過ぎないからです。

マルクスの分析が適切であったケースもあったし、それほど適切でないケースもあった。

そんなの人間にとって当たり前のことです。

すべての政治的事件についてつねに正しい解釈を下し、最良の処方を示し、未来をぴたりと予見してみせた賢者なんて人類史上一人もいません。


たしかに、マルクスは多くの誤りを犯しました。

本書の中で僕も指摘していますけれど、例えば『ユダヤ人問題によせて』や『ヘーゲル法哲学批判序説』においてマルクスが述べていることの一部については僕は同意することができません。

(僕は心情的にはマルクスやエンゲルスよりもクロポトキンに親しみを感じています)

でもそのことと「マルクスは万難を排してでも読むに値する思想家である」という僕の批判は少しも矛盾しません。


マルクスは人類史上に特記されるべき知性です。


僕が興味を持っているのはマルクスの「スタイル」、「彼以外の誰もしなかったような仕方」です。「技法」と言ってもいいし、「手さばき」と言ってもいい。


マルクスを読むというのは、何か「正しいこと」を学ぶための「勉強」ではありません。

それは天才的作曲家の音楽を聴いたり、天才的画家のタブローを見たりするのと同質の経験です。

僕たちの日常的な思考の枠組みを超えて「切迫してくるもの」に圧倒される経験です。

僕が若い人たちに「マルクスを読みなさい」とお薦めするのは「モーツァルトの音楽を聴いたことがない」とか「ゴッホの絵を見たことがない」という若者がいたら、「それは一度触れておいた方がいいよ」と告げるのと同じような意味においてです。


『共産党宣言』


書簡3 石川康宏から内田樹へ


マルクス主義以前の若いマルクス から抜粋


『ユダヤ人問題によせて』(1843年秋執筆)『ヘーゲル法哲学批判序説』(43年末から44年1月執筆)、『経済学・哲学草稿』(44年4月から8月執筆)の三つにおいては、私は「マルクス主義以前のマルクス」あるいは「マルクス主義に接近しつつあるマルクス」の書きものであり、これを「マルクス主義としてのマルクス」が書いたとは言えないと思っています。

もちろん同一の人格であるマルクスの思想的な成熟の過程に、ある年、ある月のどこかに「はい、この日から先がマルクス主義のマルクスです」とはっきりとした境界線が引けるわけではありません。

しかし、後に「マルクス主義」あるいは「科学的社会主義」という名で呼ばれるようになるマルクス等に特有の思想体系が、明確な形を取っていくその最初の現場となったのは、『ドイツ・イデオロギー』(45年11月から46年夏執筆)だったように思っています。


そこには、やはりマルクスらしい経済学はほとんど何も登場しませんが、それでも人間社会の構造と歴史を丸ごととらえる史的唯物論の基本的な構成と、それに対応する限りでの共産主義革命論が、はじめてまとまった姿で現れます。

そう考えると、(略)47年末からの執筆である「共産党宣言」も、マルクス主義者としてのマルクスにとっては、きわめて早い時期の書きものだということになるわけです。


カール・マルクスは、1818年5月5日にドイツ、ライン州のトーリアに生まれてます。

35年にギムナジウム(高校のようなものですね)を卒業し、ボン大学とベルリン大学で法学や哲学などを学び、ベルリン大学では青年ヘーゲル派と呼ばれるグループに属して、ドイツの政治や思想について大いに議論を交わしたようです。


昨今よく思うことは、ドイツという国ではなぜ、


このような論説をされる文化が育まれるのだろうか?


哲学というとドイツは筆頭に上がるのはなんでか?


ヒットラーを産み、台頭させたことと関係あるのか、ということで。


もちろんヴィクトール・フランクルも然り。


史上最年少で哲学科の大学教授に抜擢された現代の新進気鋭、


マルクス・ガブリエルさんは


カール・マルクスと同じボン大学だったとこの本で気がついた。


マルクスとエンゲルスとの出会い から抜粋

後にマルクスと生涯の友となり「同志」となるフリードリッヒ・エンゲルスは、1820年11月28日に、マルクスと同じライン州のバルメンに生まれます。

マルクスより2歳半ほど年下です。

ベルリン大学の聴講生になったエンゲルスが、半年先にベルリン大学を卒業していたマルクスの噂を学内で耳にするところから始まります。

マルクスのボン大学への就職を励ましたブルーノ・バウアーが、42年3月に教授を解任されてしまった後、エンゲルスはそれに抗議して書いた「信仰の勝利」(42年6から7月執筆)という詩にマルクスを登場させました。


 トーリア生まれの黒ん坊、芯の強い怪物だ

 彼は歩いたり、はねたりしない

 踵で跳び上がるのだ

 怒りをほとばしらせて猛りたち、

 広大な大空を、むんずとつかみ、

 地上に引きおろそうとするするかのように

 もろ腕を空中に突きのばす

 怒りのこぶしを打ちかため、

 休みことなく荒れ狂う、

 よろずの悪魔に前髪を

 とりつかれまでもしたかのように

  『マルクス=エンゲルス全集』第41巻大月書店325頁)


二人が実際に顔を合わせるのは、エンゲルスがマンチェスターへ渡る途中で、「ライン新聞」の編集部に立ち寄った、42年11月が最初のことであったようです。

しかし、この出会いは不調に終わりました。

晩年にエンゲルスはこの時のことをこう振り返っています。

「私はそこでマルクスに出会いました。

そのおりに私たちははじめてごく冷ややかなめぐり合いを持ちました。

マルクスはそのころバウアー兄弟に反対の態度をとっていました。

……私はバウアー兄弟と文通していましたので、私は彼らの同盟者とみなされる一方、マルクスは彼らからあやしまれていたようです」(エンゲルスからフランツ・メーリングへの手紙、1895年4月末『全集』第39巻411頁)


二人の関係の劇的な変化は『独仏年誌』に掲載されたエンゲルスの論文「国民経済学批評大綱」に、マルクスが強い衝撃を受けたことから始まります。

二人の終生変わらぬ交流と共同の歴史は、そこから始まるのです。


石川氏が引用した邦訳書

*『共産党宣言

 『共産党宣言 共産主義の諸原理』(服部文男訳・解説、新日本出版社)

*『ユダヤ人問題によせて』

*『ヘーゲル法哲学批判序説』

 『マルクス=エンゲルス全集第1巻』(大月書店)

*『経済学・哲学草稿』

 『マルクス パリ手稿・経済学・哲学・社会主義』(山中隆次訳、お茶の水書房)

*『ドイツ・イデオロギー』

 『(新訳)ドイツ・イデオロギー』(服部文男監訳・解説、新日本出版社)「科学的社会主義の古典選書」)


内田氏が引用した邦訳書

*『共産党宣言』

 『共産党宣言』(大内兵衞・向坂逸郎訳、岩波文庫、なお内田氏の引用は1951年初版より)

*『ユダヤ人問題によせて』

*『ヘーゲル法哲学批判序説』

 『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(城塚登訳、岩波文庫)

*『経済学・哲学草稿』

 『マルクス・コレクション I 」(中山元他訳、筑摩書房)

*『ドイツ・イデオロギー』

 『新版 ドイツ・イデオロギー』(花崎皋平訳、合同出版)


資本主義や現代の社会システムが制度疲労で


瓦解していると言われ久しいけれど


コロナ禍・戦争が継続しているリアルにおいて


新しい社会はどこに向かい、何を必要としているのか


賢人たちの言っていたことを今なら当時と違った


穏やかな本質があるのではなかろうか、


そこから新しい社会に向かうのかも。


自分も若い頃、不夜城で働き詰めで、


グローバル・キャピタリズムの餌食となり


命からがら、家族の支えあり、賢人の声ありで


生き延びてきた身としては(若干言い過ぎか)


まだまだ気になる今日この頃でございます。


様々なエリアでコミュニティを成す


プロレタリアートのみなさん、団結しましょうよ!


って穏やかなマルクス風に結んでみました。(何のために?)


nice!(38) 
共通テーマ:

コモンの再生:内田樹著(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

まえがき から抜粋


「コモン(common)」というのは形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですけれど、名詞としては、「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒地」のことです。

昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。

それを村人たちは共同で管理した。草原で牧畜したり、森の果樹をキノコを採取したり、湖を川で魚を採ったりしたのです。

ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。


コモンの価値というのは、そこが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。

そこで草を食べて育った牛の肉とか、採れた果実やキノコや、あるいは釣れた魚の市場価値を足したものがコモンの生み出す価値のすべてであるわけではありません。

それはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体を立ち上げること、それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。

わかりにくい言い方をしてすみません。ちょっと問いの立て方を変えます。

「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りをする主体とは「謎」のことでしょう?

それは「私たち」です。そうですよね?

「私たちの共有するこのコモンを、私たちでたいせつにしてゆきましょう」という言明を発することのできる主体は

「私たち」です。

つまり、コモンの価値は、「私たち」という共同主観的な存在を、もっと踏み込んで言えば共同幻想を、立ち上げることにあった。「私たち」という語に、固有の重みと手応えを与えるために装置としてのコモンは存在した。そう僕は思います。


資本主義的に考えたら、別に土地なんか共有しなくてもいいわけです。

共有しない方がいい。

共有して、共同管理するのなんて、手間暇がかかるばかりですから。

使い方についてだって、いちいち集団的な合意形成が必要です。

みんなが同意してくれないと、使い方を変えることもできない。

そういうのが面倒だという人が

「共有しているから使い勝手が悪いんだよ。

それよりは、みんなで均等に分割して、それぞれが好きに使ってもいいことにしよう」

と言い出した。


実際に英国で近代になって起きた「囲い込み(enclosure)」というのは、この「コモンの私有化」のことでした。

それが英国全土で起きた。

その結果、私有地については、土地の生産性は上がりました。まあ、そうですよね。「オレの土地」なわけですから。

必死に耕して、必死に作物を栽培し、費用対効果の高い使用法を工夫した。

資本主義はそれで正解だったんです。

でも、それと引き換えに、「私たち」と名乗る共同主観的な主体が消滅した。


もともと共同幻想だったんですから、「そんなもの」消えても別に誰も困るまいと思った。

ただ、気が付いたら、村落共同体というものが消滅してしまっていた。

みんなが自分の金儲けに夢中になっているうちに、それまで集団的に共有し、維持していた祭礼や儀式や伝統芸能や生活文化が消えてしまった。

相互扶助の仕組みもなくなった。


その後「鉄鎖の他に失うべきものを持たない」都市プロレタリアの惨状を見るに見かねたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「コモンの再生」が提言されることになりました。

それが「共同体主義」すなわち「コミュニズム」です。


共産主義」という訳語だと、僕たちにはぴんと来ません(日常生活に「共産」なんて普通名詞がありませんからね)。

けれども、マルクスたちが「コミュニズム(Communism)」という術語を選んだときに念頭にあったのは、抽象的な概念ではなく英国の「コモン」フランスやイタリアの「コミューン(Commune)」という歴史的に実在した制度だったのです。


ですからもし、最初にマルクスを訳した人たちが「コミュニズム」を「共有主義」とか「共同体主義」とか「意訳」してくれたら、それから後の日本の左翼の歴史もちょっとは相貌が違っていたかも知れません。

僕がこの本で訴えている「コモンの再生」は、思想的には「囲い込み」に対するマルクスの「万国のプロレタリア、団結せよ」というアピールと軌を一にするものです。

グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために、もう一度「私たち」を基礎づけようというのです。


ただ僕はマルクスほどスケールの大きいことを考えてはいません。

僕が再生をめざしているコモンはずいぶん小ぢんまりしたものです。

かつて村落共同体が共有した草原や森、あるいはコミューンを構成していた教会とか広場とか、その程度の規模のものです。

いわば「ご近所」共同体です。


「共産」という言葉は確かに、誤解を生みやすいかも知れない。


ご指摘のように「意訳」されてたら違っただろうな。


内田先生の言説はわかりやすいし、とっつきやすい。


それに加えて情報量の凄さに裏打ちされた文章で


人生の苦楽が滲み出てて思慮深く、かつ爽快。


全くの余談だけど、


内田先生、「赤旗新聞」にも原稿寄稿されてて没に


されたってなことが、つい最近ご本人がツイートされてて、


そういえば先生「共産党」を支持してたな、と思い


個人的に思い出されることがあった。


自分の父親が、50歳すぎた頃だったか


車に轢かれて左手、右足が機能しなかった。


横断歩道じゃないところを渡っていたらしく


保険ですごく揉めてたってのは、まあいいとして。


その後、15年くらい経過。


要介護4だったか、暮らしていたマンションの


ドアのポストに毎日のように


「赤旗」新聞が来ていたようだった。


当時父は70歳くらい。


特に共産党を支持してたわけではない。


部屋の片付けに共に行っていた妻が


推測したことは


「偶然ではなく、誰かが入れてるのでは?」だった。


そこからさらに自分が推測、赤旗勧誘の方または


共産党に共鳴されたと思われるお方が


父がいたときに、来られて


多分父も家にいたので暇だったし


日本の行く末なんかで玄関先で話し込んで


共感したんだろうなと。


弱者に寄り添う党だからなんだな、と。


話は内田先生の書籍に戻りまして、


日本の政治についての質問で、2年以上前


コロナ禍の非常事態宣言を出すのが遅れ、


欧米と異なり、最終判断を各自治体任せに


なっていた頃(20年2月)この差や危機感の違いを


内田先生、一刀両断。


「国民は市民が作った人工物である」から抜粋


日本と欧米では「国家」のとらえ方が違うからだと思います。

日本人にとって政府は「お上」ですけれど、欧米では政府は「公共」です。

「お上」は文字通り天から降臨してきたものです。

人民よりはるか前から存在し、人民が死滅しても永遠に生き続ける。


でも、ヨーロッパの近代市民社会論における国家はそういうものではありません。

ロックもホッブスも言っていることはだいたい同じで、それは国家というのは、人間が自分達の問題を解決するために手作りした「装置」に他ならないということです。


彼らの説では、古代の人々は自己利益を最大化するために互いに争っていた。

「万人の万人に対する戦い」です。


歴史的事実としてそんなことが本当にあったかどうかは知りません。

けれども、とにかく「そういう話」を採用して、近代市民社会を基礎づけた。

国家というのは市民が身銭を切って作った人工物であるということになっている。

国家のやることに文句があったら「抵抗」したり「革命」したりする権利が保障されている。

アメリカの独立宣言にも、フランスの人権宣言にもそう明記しています。

自分が手作りしたものですから、使い勝手が悪くなったら修繕して使い延ばす。

当たり前のことです。


しかし、日本人はそういう考え方をしません。

なにしろ市民革命の経験がないんですから仕方ありません。

江戸時代の「うちの殿様」が明治になって「天皇陛下」にシフトして、敗戦の後「アメリカ」にシフトしただけで、日本の市民たちは、かつて国家に抵抗したことも、革命したこともないんですから。

自分自身の私権私財を自分の意志で抑制し、供出し、公共を立ち上げたという歴史的記憶がない。


もちろん、国は社会構築的な「つくりもの」だということを看破していた賢者はいました。

福沢諭吉は、「立国は私なり、公に非ざるなり」と言い切りましたけれど、残念ながらこのような国家感は広く人々に共有されたわけではありません。

日本人にとって「お上」は民の意志や生活と無関係にそこにいて、民を睥睨(へいげい)しています。

それが日本人にとっての「自然」なんです。

自分たちの日々の活動そのものが日々「公共」を基礎づけており、為政者は自分たちのために働く「公僕」であるという意識がわれわれにはありません。

「公僕(Public servant)」という言葉だけは知っていても、その言葉からイメージするものが何もない。

とりあえず、僕はこの文字列を見ても、何も思い浮かびません。

議員や閣僚が「公僕」でない以上、市民たちが「公民(citizen)」であるはずもない。

そういう名前の社会科の教科書があるそうですが、「公民」と聞いて、「ああ、あのことか」と得心するという人がどれだけいるでしょうか。


「公民」というのは、あるときは身銭を切って政府を支える義務があり、あるときは立ち上がって政府に抗う権利があると思っている人のことですが、そういう発想そのものが僕たちにはない。


実際に安倍内閣を

「われわれが権限を委託した機関」だと

思っている人は国民の10%もいないと思います。

半分以上の国民は

気が付いたらよく知らない人が首相になっていて偉そうにしているけれど、権力者に逆らっちゃいけないんじゃないの……」とぼんやりと思っている。


他の方も指摘されておりますが、


日本の政治は資本家抜きには存在できないような


構造になってしまっているので


欧米のようにはいかないのだろう。


さらに、「お上」と「公共」の違いというのが


内田先生の言説で腑に落ちるような、なんとも言えない


残念っぷりでございます。


「あとがき」から抜粋


ほとんどが時事ネタなので、中には数年前のこともあり、「これはいったいいつの話だ?」と遠い目をするようなトピックもあったと思います。

僕は未来予測についてはわりときっぱりと「言い切る」ことにしています。

ですから、「安倍三選は九分九厘ない」とか断言しているのを読むと、ちょっと赤面します。

でも、予測が外れたからといって、そういう不都合なテクストを抹消するというのはちょっとフェアじゃないような気がして、そのまま残しました。


改ざんしねえぞ、これも自分のキャリア、引き受けるぜ、という


武道家スピリッツなのか、そういうタチなのか。


どちらもなんだろうね、かっこいいっす。


親近感湧き出ずるのは、母親の旧姓と同じだからか。(関係ねえだろ)


他にも引きたい文章がたくさん。


明治以降、日本と西欧との関わりとか、


日本の政治の低迷っぷりとか


コロナ禍、後の世界とか興味満載、


内田節炸裂な自分にとってユニークな書籍だった。


養老先生の書籍もそうだけど、


時事ネタと絡めた御大の言説って面白いし


時期外れると嘘みたいに安く売られているから、


高所得じゃない自分は本当に助かる、古書店。


この書籍も少しすれば安くなるかもしれないので、


そしたら買います。


借りててすみません。(誰に謝ってんだよ)


でも、これもコモンだよね、図書館の本って。


nice!(33) 
共通テーマ: