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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録(2006年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

  • 作者: NHK「東海村臨界事故」取材班
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/09/28
  • メディア: 文庫

1999年に起きた


東海村臨界事故


ドキュメントの書籍。


NHK「東海村臨界事故」取材班が


纏められた。


忘れてはならない事件だと思った。


文中の大内・篠原さんは


被曝して亡くなられた技術者、


前川さんは、当時


東京大学医学部附属病院で


治療にあたられた


主担当医のことを指す。


 


最終章の


「折り鶴 未来」から抜粋


事故から一年あまりたった2000年10月11日、茨城県警察本部の捜査本部はJCOの事故当時の所長ら6人を逮捕した。

捜査本部は、JCOが臨界の危険性を作業員に指導しないまま、バケツを使ってウラン溶液を扱う違法な作業をつづけさせるなど、国から許可を受けていないずさんな作業を重ねていたとした。

そのうえで、六人がそれぞれの立場で尽くすべき安全教育や監督を怠ったため、臨界事故が発生し、大内と篠原を死亡させたとして、業務上過失致死の疑いで逮捕したのだ。

国内の原子力施設で起きた事故で逮捕者が出たのは初めてだった。

六人は起訴され、大内の死から一年が過ぎた。

そのころ、前川の元に、大内の妻から手紙が届いた。

無事一周忌の法要をすませたことや、大内の実家を出て息子と二人で暮らすようになったことなどを報告したあと、手紙には、こう綴られていた。


「事故以来、ずっと思うことは、自分勝手と言われるかもしれませんが、例え、あの事故を教訓に、二度と同じような不幸な事故が起きない安全な日々が訪れたとしても、逝ってしまった人達は戻って来ることはありません。

逝ってしまった人達に”今度”はありません。

とても悲観的な考えなのかもしれませんが、原子力というものに、どうしても拘らなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。

所詮、人間のすることだから……という不信感は消えません。

それならば、原子力に携わる人たちが自分自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません。」


解説 柳田邦男 から抜粋


1999年9月30日に起きた東海村臨界事故では、ウラン燃料の加工作業をしていた大内久氏と篠原理人(まさと)氏の二人の技術者が大量の中性子線をあびて死亡した。

二人とも現代医学の最先端の知識と技術を動員した治療を受けたが、大内氏は83日目に、篠原氏は211日目に最期を迎えた。

本書は、岩本裕記者を中心とするNHK取材班が、大内氏に焦点をあてて治療と闘病の経過を追ったドキュメントだ。


他にもいくつか、同じ問題を扱った書があるものの


取材報告に力点を置いているため、この書との


異なる点を指摘。


しかし、高線量の中性子線被曝をした作業員が身体の臓器・組織・機能にどのようなダメージを受け、それに対し東京大学医学部附属病院に集まった前川和彦教授(当時)を中心とする最高の医療班が、どのように苦闘したかについて詳細に追加取材をした記録はなかった。

そこに焦点を絞った点に、岩本記者達の取材記の意義がある。


2001年NHKでも放送されたようだが


配信はされていない。


そのため、現時点ではこの書籍以上に


詳細をつかむのは


難しいのかもしれないため、ぜひNHKで


配信を検討してほしいと思った。


 


当初、大内さんは会話もでき、


前川医師も救えるとお感じになったと。


しかしその後、


前例のない中で懸命な


職員の対応、


刻々と変わりゆく状態、


ご家族の献身な励ましが続くが、


それでも、命尽きてしまう。


 


亡くなる前、重症患者用の


ローリングベッドという


定期的に自動で体の向きを


変更できるものにされ


傾いた時に転げ落ちないよう


身体が固定化されている様子を


ご家族が


「お父さんロボットみたいになっちゃって」


と、こぼしたという。


 


これは、誰が、どこが、なにが、


悪いのか、という問題なのだろうか。


義憤にかられて頭がうまく回らない。


 


亡くなった後の大内さんの奥様や


看護婦さん達の言葉が


悲しすぎてまともに読めなかった。


病み上がりには無理な本です。


 


余談だけど、


映画「チャイナ・シンドローム」(1979年)


を先日観たのだけど


あれも複雑な原因とでもいうか


事故になりそうで食い止めたという事象を


たまたま居合わせたメディアと


原発の現場と経営側が翻弄される裏で


本当の問題は手抜き工事で


それを所長だけが知ってしまったこと


さらにそれがまかり通る通る社会


とでもいうか。


 


こういうことを”人間の性”と一言で


片付けるにはあまりにも忍びない。


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デンマーク流「幸せの国」のつくりかた:銭本隆行著(2012年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


デンマーク流「幸せの国」のつくりかた

デンマーク流「幸せの国」のつくりかた

  • 作者: 銭本 隆行
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 単行本

書籍の帯から抜粋


 


■幸福度調査(2011年) 


■デンマーク1位・日本90位


■医療費無料・待機児童ゼロ・失業手当2年間分


■悩みは余暇の使い方・主体性、共生の精神


 そして民主主義


 


著者は1968年生まれ、デンマークの


国民高等学校にて、デンマークの事情を


日本に伝えて来られることに尽力。


 


デンマークってアンデルセン、


北欧という括りだと、


良い労働環境・社会福祉、


そして生活に根ざした


デザイン感性の質の高さ


という認識だった。


 


はじめに から抜粋


デンマークでは、子どもや障害者、高齢者という社会の中で弱者と呼ばれる人たちが、社会の競争原理からしっかり守られ、ゆっくりと幸せに暮らしている。

社会で働いている大人も、挫折したり、不慮の事故に遭っても十分な保障を受けられる。

そもそも弱者とは、社会にとってお金がかかる”厄介者”である。

しかし、だれもが”厄介者”になる可能性はあるのである


こうした人たちが幸せに暮らせるようなセーフティーネットが存在していることは、社会の成熟度を示すものではなかろうか。


デンマークの幸せぶりを裏付けるように、2006年と2008年のふたつの異なる幸福度調査でこの国は連続して世界1位に輝いている。


ちなみに、2022年では、


フィンランドが1位だけど、デンマークは2位。


日本は探すのがめんどくさい54位だった。


1章 童話の国の姿


風力に重点~原発なし~ から抜粋


デンマークには過去にも現在も原発はない。

それは国民の積極的な運動が大きな役割を果たしている。

1973年からのオイルショックを受けて、1976年には原発15基を国内に設置しようという計画が持ち上がった。

オイルショック時までは、日本と同様に、国内で使われる一次エネルギー(自然界で存在する形のままで使われるエネルギー)の自給率はわずか2%程度。

さらに石油の90%以上を中東からの輸入に頼っていたため、依存度を下げようという狙いだった。

これに対し、市民が立ち上がった。

OOA(Organisationen til Oplysning om Atomkraft:原子力情報機構)という環境NGOが結成され、草の根から反対運動を展開していった。

OOAが作成したロゴマークは、日本語も含め45か国語に翻訳され、現在でも世界で使われている。


1975年にコペンハーゲンの対岸わずか20キロのスウェーデン・バーセベックで原発の稼働が開始してデンマーク人の心がさかなでられ、1979年米国スリーマイル島原発事故で原発の危険性に対する関心が世界的に高まり、OOAの運動は後押しされていった。

その結果、1985年にデンマーク国会は、原子力を今後利用しないことを決定した。


原発の代わりにどこから電力を得るのか。

石油火力発電の石炭火力への転換、発電に伴う排熱を利用したコ・ジェネレーションシステムの普及、消費を抑えるエネルギー税、炭素税の導入とさまざまな施策を打ってきた。

デンマークの西の海域にある北海油田の開発にも1980年代から本格的に力を入れた。

その結果、1997年にはなんとエネルギー自給率が100%に達した。

デンマークは現在、隠れた”産油国”なのである。

さらに、風力やバイオマスガスなどの再生可能エネルギーにも力を入れている。


未来の理想として、化石エネルギー、つまり石油や天然ガス、石炭からの100%自立を目指している。


フレキシュリティー ~理想的な労働力循環~ から抜粋


「フレシキュリティー」「フレキシビリティー(柔軟性)」「セキュリティー(安定、保障)」を組み合わせた造語だが、主に北欧の労働政策を語るときによく使われる。

 

 ①柔軟な労働市場

 ②手厚い失業手当

 ③職業訓練の充実


この三者の関係は「黄金の三角形(トライアングル)」とも呼ばれ、企業活動の促進と社会福祉の充実を組み合わせた成功例として世界に知られている。

公共部門の大きさや原油自給率100%によるお金の内部循環構造、さらに国際競争力がある企業と企業活動を促進する政策が相まって、デンマークは福祉国家を維持できるとされている。


2章 ゆりかごから墓場まで 


待機リストなし


~子供手当あり~ から抜粋


デンマークでは学校に上がってからの教育費は、義務教育が終わった後の高校、大学も含めて無料である。

しかし、就学までの保育料は有料である。

義務教育とは異なり、あくまで育児支援であり、親が預けずに面倒をみる場合もあるためにさまざまな措置が施されている。


日本では保育所や幼稚園へ入園できない待機リストの存在が問題となっているが、デンマークでは保育所や保育ママ、幼稚園の待機リストは、コペンハーゲンのような都会のよほど人口過密な場所以外は存在しない。

それでも施設さえ選ばなければすぐにでも入れる。


ボールを間に落とさない~国民にソーシャルワーカー~ から抜粋


デンマーク人が感じる、幸福、とはなにか。

哲学的な話はさておき、幸福と感じる重要な条件として、生活に不安がない、ということがいえるだろう。

生活の不安はどこから来るかといえば、いざというとき、助けを得られるかどうかにかかっている。


デンマークの市には必ず、さまざまな問題を抱える市民に対応するソーシャルワーカーが存在する。

国民一人ひとりにそれぞれのソーシャルワーカーがいるといってもよい。


一人にひとり、ソーシャルワーカーが


いるというのは心強い。


生活相談の専門家がいるなんて。


余談だけど


大昔、スコットランドにある


B&Bに夫婦で宿泊した。


奥さんが日本人だったというのが


取り持つ縁だったのだけど、その際


旦那さんのご職業をそっと尋ねたら


「まだ日本にはない仕事なの、


”ソーシャルワーカー”という」


と仰り、自分も知らなかった記憶がある。


「ソーシャル」って言葉自体


今なら断片を頻繁にニュースで聞くが


約20年前、自分は「ソーシャルダンス」


くらいしか知らなくて、


なんのことを言っているのか、後でわかった。


でもその時それを聞きながら、


それは社会に必要な仕事だなあ


でも今の日本だと社会が認めるのだろうか


報酬はどうなるのだろうかなあ


などと頭をよぎったことを思い出した。


 


介護費無料


~可能なかぎり在宅~ から抜粋


年金に次いで老後の心配となるのは、いざという場合の介護負担である。

日本では介護保険制度の下、要介護認定を受けた者に介護サービスが行われている。

しかしデンマークでは、要介護度、というランク付けはない。

介護サービスを必要とする者が、高齢者にかぎらず、障害などでないがしかの理由がある者も含めて、市に申請。

市で審査され、認められれば住居内の掃除という簡単なものから24時間ケアまで、必要に応じたサービスが本人負担なしで行われる。

これらのサービスも年金同様、保険という形態で徴収されるもではなく、すべて税金から無料でまかなわれる。

したがって、サービスを受けるのに財布と相談する必要はない。


4章 第二の人生・デンマークの成人 


くじによる徴兵制度


~充実した”便宜”~ から抜粋


18歳になれば、特に男子には大きな役割が課せられる。

デンマークには徴兵制度があり、18歳から60歳までの成人男子は、心身ともに健康であれば祖国を守るための兵役の義務があると憲法で定められている。

だが、全員が兵役に服するわけではない。


信条や宗教などの理由で、兵役を忌避することも可能。

その場合は、センターに出頭し、他の者と同様にくじを引き、当たれば社会施設などでの活動に従事することになる。

志願兵制度に慣れた現在の日本人からすれば、「徴兵」と聞くだけでアレルギーを感じるかもしれない。

デンマーク人は、特別に好意的というわけでもないが、特別に否定的でもないという受け止め方だ。


ストレスは余暇から


~余暇は人生の大部分~ から抜粋


知人の女性は

「夫が毎日15時過ぎに帰ってくるのがストレス。もうちょっと家にいない時間を増やしてほしい」と愚痴をこぼす。

デンマーク人にとって、生活の3分の2ぐらいの時間が、自分が自由にできる時間となる。

仕事とは、余暇の合間にやるもの、なのである。


5章 第三の人生・デンマークの高齢者


高齢者3原則


~人道面と経済性~ から抜粋


充実したデンマークの高齢者福祉。

しかし、ただやみくもにサービスを手厚くさせてきたわけではなく、デンマークの文化に根ざし、かつ費用も考慮したうえでの3つの原則がそこにはある。


①継続性

②自己資源の活用

③自己決定


3原則は、1982年に設けられた高齢者福祉審議委員会の答申に盛り込まれている。増大する高齢者福祉部門の支出を抑え、かつ質を落とさないためにはどうするかという視点から打ち出されたのだった。


人道面と経済性のふたつの視点が考慮され、可能な限り在宅の原則、は促進されてきた。

ちなみにこのふたつの視点は、高齢者福祉にかぎらず、デンマークの社会政策を語るうえで重要だ。

常にふたつの視点を考慮したうえでサービスは決定されていく。

可能なかぎり在宅、を支えるため、デンマークは在宅ケアの充実には力を入れてきた。

在宅ケアは大きくいって、実務ケア、個人ケアに分かれる。

実務ケアとは、掃除、買い物、洗濯などの代行である。

個人ケアとは、おむつの交換や服の着替え、飲食介助など。

在宅ケアは、必要性があると認められれば、回数に限度はなく1日に何回でも受けることは可能。

原則、自己負担はなく無償で提供される。


8章 日本にいま必要なもの


3つの姿勢


~主体的な国民へ~ から抜粋


デンマークと日本を比べたときに、何が異なるのだろう。

たしかに制度は異なる。

しかし、その制度を利用する国民の姿勢そのものに大きな違いを感じる。

国民そのものが制度を支えている。

ただの客体ではなく主体なのである。


日本人が”主体的国民”となるためのヒントを、これまでみてきたデンマークから得たい。

それはデンマーク人のだれもが持つ以下の3つの姿勢である。


「自己決定」「連帯意識」「民主主義」


「自己決定」とは、読んで字の如く、自分で決定するということである。

日本人は自分でものごとを決めているだろうか?たとえば、多くの外国人が日本人を評して、「おとなしい」「いうことを聞いてくれる」。

しかし、これらは裏を返せば、「意見をいわない」「自分の考えを持たない」と消極的な意味も含まれる。

「連帯意識」とは、他人との協同である。

自己主張が強いデンマーク人は、この意識を強く持っている。

考え方や背景が違えど、「同じ人間」ということで、手をお互いに差し伸べ合う。

妬み、嫉み、お互いの足の引っ張り合い、が常態の日本とは大きく異なる。

「民主主義」とは、政治システムの話ではない。

簡単にいえば、「徹底的に話し合ってものごとを決める」という姿勢である。

これはデンマーク人に徹底的に浸透している。

デンマーク人と話していると、1時間に1回は絶対に、「デモクラシー(民主主義)」という言葉がついて出てくるほどだ。


規則よりも対話


~常識をもとに~ から抜粋


「民主主義」が真に機能するには、「自己決定」と「連帯意識」の原則は欠かせない。

これら3つの姿勢こそが、デンマークをデンマークたらしめている不可欠要素なのである。


不断の努力


~悪い点は即座に直す~ から抜粋


ある国のやり方が別の国に完全に適用できるなんてことは絶対にない。

歴史、伝統、文化、慣習……。

それぞれにお国事情があるのだから、それらを無視して異国のものを適用しようなんて、それこそ”ナンセンス”である。

だが、どんな事情があろうとも、ひとつだけいえることがある。

「悪いことは改める」

この姿勢がなければ、世の中はよくはならない。

日本人は「悪いことは改める」という行為がかなり苦手な国民だと感じる。

歴史、伝統、文化、習慣に縛られ、ときに社会が硬直化する。


デンマークではコロコロとよく制度や仕組みが変わる。

朝令暮改、のようなものも多く、少々目まぐるしい。

だがデンマーク人はこういう。

「たしかにコロコロなんてよくない。だけど、そのときどきに仕組みを変えていくことは大切だから仕方ない」

世の中の変化に対し、常に対応しようとする柔軟な姿勢をデンマーク人は持っている。

こうした姿勢の必要性は、日本国憲法12条でもうたわれている。

「自由や権利は国民の不断の努力で保持」

ものごとは一度為されればそれで終わりではない。

完成されたあと、その状態を保つにはたゆまぬ努力が必要なのである。


著者は幸福度一位に対するコメントの返答で


「調査ではそうなんだろうけど、


実際にはいろんな問題もあるのさ」


と答えておられるようだ。


実際そうなのだろう。


学校は自由度が高くて規律がないため


徴兵で生活態度をあらためていると


感じている層も多いとか。


ドラック問題、アルコール過剰摂取が


若者中心にたえないとか。


でも、ご自身も書かれているように


問題点・対応策などその全てを


参考・適用するのではなく


「悪いことは改める」ことが


大切なのだろう。良いところは真似る。


さらにそれができない阻害要因は…


というのを改善するよう動けていかんと。


それは、既得権益なのか、古い因襲なのか


世代交代されないよう


しがみついている人の事なのか…


これ、ほぼ同じことを言っているような。


言えてるほど出来てもいないのだけどね。


自戒の意味も込めて。


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認知症になる僕たちへ:和田行男著(2008年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


認知症になる僕たちへ

認知症になる僕たちへ

  • 作者: 和田 行男
  • 出版社/メーカー: 中央法規出版
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: 単行本

著者は福祉の世界へ30代で転身され、

特別養護老人ホームなどで経験を積み


99年グループホームの施設長に。


後にNHK「プロフェッショナル(16年6月)」


にて独特な介護技術が紹介される。


最近はEテレの介護の番組で


指南役を務められていた。


お年寄りのことを「婆さん」と呼ぶのは


親しみを込めて、と言うのは有名な話。


生きること放棄 から抜粋


ある人が骨折して入院。

自宅に戻れる前に老人保健施設にやってきた。

施設での訓練が功を奏して歩けるようにまで快復したが、完全な状態ではない。

家族は自宅に戻る前に、トイレに連れていくのが大変だから紙パンツに慣らしてほしいと言うが、本人は絶対に嫌だと拒んだため、家族と本人と施設側で話し合って失禁パンツで折り合いをつけ自宅に戻ることになった。


退所後自宅に戻ってから、またその後再入院した時も、


別人のようになってしまい家族や職員に


手を振りかざしコミュニケーションを拒否され、


食事も摂らなくなり、点滴も拒んでしまわれる。


職員たちは「なんでやろ」と思案し、改めて原点に立ち戻って本人の話を聞くことが大事ではないかといろいろと試みた結果、

「どうせ家族は俺のことを見捨てたんだろ」

と胸の内を語ってくれたのだ。

彼はこの日の告白以来心を開き始め、

「○○が食べたい」

と言ってくれるようになった。


どこまで探っても本当のことはわからないし、

「だろうとか、そうじゃないか」

程度のところにしか行き着けないが、人が生きていくことを下支えしているのは、知的な能力や身体の能力だけでなく”こころ”があること、そのこころを取り巻く環境があること、その環境の一員に自分がいることを忘れずに支援していきたいものである。


「認知症」という言葉になって


良かったと感じることが


時折あり、語りやすくなっていると。


暗い側面のあったこの言葉の元が


かえたことで社会に開かれたっていう


ネーミングの妙というのは確かにある。


「痴呆」「ボケ」というのは、


非公式の場では今もたまに使われるけど。


「認知症」という名称変更の検討段階で、


政府機関と意見を交換されてきた和田さん。


「認知症」という名を創って


世に広めた一人と和田さんのことを


称しても言い過ぎではないのでは


ないだろうか。


安心して”認知症”になれる?


ばかげたことをする人 その「扱い」から抜粋


厚生労働省は「痴呆」という呼称を変更する検討委員会を立ち上げ。

2004年12月に「認知症」へと変更する結論を出し、全国の行政など関係機関に通知した。

僕はこの検討委員会第一回目の会議に参考人として呼ばれ、痴呆呼称が変更されることについての賛成の立場から意見を述べさせてもらった。

介護保険制度により事業化されている痴呆対応型共同生活介護(一般的にはグループホームと呼ばれている)は、認知症対応型共同生活介護となった。

医療の世界では痴呆という呼称は残され、アルツハイマー型痴呆などはそのままになっている。

今後医学会で議論されていくことだろう。(2007年当時)

現に統合失調症の前が精神分裂病で、その前が早発性痴呆ということを考えれば、未来が見えてくる。

僕は、痴呆は二つの意味を持つ言葉であると言い続けてきた。

 

ひとつは、痴呆とは

「原因疾患により脳が器質的に変化し、そのことによって知的能力が衰退し生活に障害をきたした状態」

というような医学的な意味で、人によって違った言い回しはするが、痴呆の病態を現したものだ。

これは言い方は間違っているが、専門書や行政パンフレットなどでお目にかかることが多い言葉の意味である。

もうひとつは、

「ばかげたことをする人」

という意味である。


痴呆老人とは

「ばかげたことをする年老いた人」

ということである。

ちなみに最近注目されている若年性認知症は、認知症へと呼称変更されていなければ、老人ではないので”痴呆老人”とはならず、”痴呆人”と呼ばれていたことだろう。

と指摘してのはおそらく僕だけである(エヘン)。

呼称が変わった当時は

「認知症って呼称についてどう思うか」

とか

「認知症という呼び方は正確ではないと思うがどうか」

とよく質問されたが、

「認知症という呼称がどうかよりも、痴呆=ばかげたことをする人という呼称が人の前にどかっと居座る(痴呆老人)ことがなくなることに意味があるんやで」

と答え、合わせてもっと重要なことは、呼ばれ方もさることながら

「ばかげたことをする人扱い」

されているところに根源の問題があると指摘してきた。


認知症のことを知っている専門職が

「ばかげたことをする人扱い」

「問題行動扱い」

するくらいだから、一般の人が認知症に対して誤解や偏見視するのは無理もない。

専門職が施設に閉じ込めることに抵抗がないくらいだから、市民が

「何をしでかすかわからないから」

という理由で婆さんを施設から外に出すなと言うのもわかるし、施設の建設に反対するのもわかる。

またもうひとつの代表格が

「できない人扱い」だ。

 

生活行為のほとんどのことを取り上げてしまう社会福祉制度や専門職たち。

言葉だけでは

「尊厳」「生活」「自立」「本位」

などが多用され心地よくはなっているが、生活の主体性は奪われたままの姿が目立つ。

どこに行っても受動的な姿の婆さんだらけである。

痴呆が認知症に呼称変更されたことで、誰もが語りやすくなってきたように思う。

それはとても良かったことであり、素直に”痴呆老人”が社会的に抹殺されたことを喜んでいるが、まだまだ社会的にも僕ら専門職にも課題がいっぱい残っている。

みんなと知恵を出し合って、認知症になっても

「人として最期まで生きていける社会」

にして生きたと本気で思っている。

思うところで・できることから、「扱い」はやめよう。


先月読んだ


フランスのイヴ・ジネストさんを思い出す。


生存機能を奪ってしまう日本の施設での


介護の支援方法。


日本の介護はやりすぎ支援で結果的に


高齢者には良くない、とは指摘されるところ。


「年寄り扱いするんじゃないよ!」と


言うのは別の国の介護の書籍でも


指摘しているところだった。


とはいえ、現状日本でのやり方というのも


行政・事業会社によって異なり


現場の浸透を考慮するに今の運用を


ドラスティックに変えることは


ままならないだろうけど、でも


意識するというのは大切だと思う。


看取りシステム ひとで・なし


から抜粋


日本には医療保険制度があります。

これは、いつ、どこで、どんな形で壊れても、修理をする仕組みをつくっていけるということです。

だから東京に住んでいる僕が北海道に行って壊れても、沖縄へ行って壊れても、修理することができるわけで、必要な時に必要な分だけ適正な医療が提供されることが保障されているという信頼の中で、僕らは税金や保険料を払っているわけです。

ところがそれが、この国では歪んでいます。

自宅に住んでいる場合なら受けられる医療が、グループホームや特別養護老人ホームに入居すると、システムが同じように使えない状況になっています。

訪問介護を例にとると、医師が必要と判断し自宅で受けていた訪問看護が、グループホームに移り住むと受けられなくなる。

今回の医療連携体制加算なんていうのは”まがいもの”で、本人にとって必要に応じて受けられる仕組みになっているわけではありません。

選択肢もありません。

医療連携体制が制度化されたから良しということではなく、まだ発展途上にあると良いと思っています。

 

人が壊れる存在である以上、住む場所が自宅であろうと、グループホームであろうと、必要に応じて医療が受けられるようにするべきです。

また、医療機関側にも適切な医療を必要な分だけ提供しているという信頼性を高めていってほしいし、私たちグループホームの側も、この人にはこれが必要だということをきちんとマネジメントできるようになることが必要だと思います。


生活支援に"死は織り込み済み”が基本 から抜粋

 

これからのシステムとして「看取り加算」とか「重度加算」とか、いろいろと言われていますが、その考え方には欠陥があると思います。

看取りや重度といわれる状態になってから加算をつけるということは、事業者にとっては見取りや重度の状態をつくるほど収入が増えるという仕組みになってしまうからです。


人が生きることを支える事業なら、見取りの状態にならないために金を使うべきであり、生きるということ(生活)の中に”死”を組み込んだ形で考えていくことが大切なのではないでしょうか。


看取りは想いだけで語ってはならない から抜粋


看取りは想いだけでは語ってはいけないし、そこだけを抜き取って考えられるものでもありません。


必要不可欠なバックアップとしての医療を含めて、その人がそこで生きていくことをどう支えられるかということを、国づくりとして、社会づくりとして考えて、切り拓いていく必要があるのではないでしょうか。


和田さんとNHKのディレクターで上梓されていた


 


 ダメ出し認知症ケア(2015年):和田行男・小宮英美共著


 


という書籍が、和田さんを知ったきっかけで


介護業界のこと、本音や建前など


お二人の反権力っぽい性格が露呈されてて


興味深く拝読。


福祉・介護系の一般書はほぼ初めてだったが


いまだに忘れられない。


 


今日紹介させていただいた書籍は


元がブログからで、今も継続されていて


たまに拝見しております。


 


本は上梓されてから、15年も経つので


制度やシステムや処遇など


変更されてて、良い方向にも行っている


ところも多々あると思うけど、


まだまだ改善が遅れているように


感じておりまして、他国の福祉状況などが


気になります今日この頃なのでした。


 


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柳澤桂子 いのちのことば(2006年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


柳澤桂子 いのちのことば

柳澤桂子 いのちのことば

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/12/15
  • メディア: 単行本


「心の章 


 宇宙の真実に目覚め、野の花のように生きる」


  から抜粋


宗教書、哲学書、文学書などを乱読するうちに、

何かから解き放たれていく自分を感じた。

人間であることの悲しみが薄らいだわけではない。

本を読むことによって、

むしろその悲しみは動かしがたいものになっていった。

しかし、そのほんとうの悲しみを知ってしまったのは、

私だけではないということに気づいたのである。


現実の世界(リアリティー)は一元的なものであり、

本来、自己も非自己もない。

にもかかわらず、

私たちは強い自我を発動して生きることを強いられる。

このように、ものごとを二元的に見るために、執着が起こり、

絶え間のない我欲と満たされる

煩悶(はんもん)に苦しめられるのである。


人間のからだは、遺伝子の強い支配のもとに置かれていますが、

人類が創り出した文化は、

遺伝子の支配をあまり受けません。

私たちは現在の文化をすべて受け入れるわけにはいきませんが、

よく見極めたうえで、

私たちの利益になるものは受け入れていく方がよいでしょう。


不幸と思おうが、幸福と思おうが、

私次第です。

こういうことに気づいてみると、

生きていることがずっと楽になりました。

それを教えてくれた車椅子に、

私は深く感謝しています。


私たちは、36億年かけてつくられた

生態系の中でしか生きられない生物である。

人類の存続を願うことは、

地球上の生態系の保全を願うことである。

DNA環境の保全を願うことである。


心から科学を愛するなら、

科学が一部の人々の私利私欲のために

利用されることを絶対に許せないであろう。

人間の精神の所産としての科学を、

文化としての科学を愛することこそ、

いま私たちに求められていることではなかろうか。


「老いの章


 安らかな死を迎えるために」


  から抜粋


私は年を取って

よかったと思っています。

けれども、ここまで来るためには、

たいへんな苦労を致しました。

再び若返りたいなどとは、

けっして思いません。


あくせくと自分のために働くのではなく、

ゆったりとくつろいで、

周囲のひとにさりげない気配りをできるひとを

私は美しいと感じる。音楽にたとえるなら、

ドヴォルザークの「森の静けさ」のようなひとに憧れる。


行動に移せるものは、できるだけ早く行動に移し、

行動によって解決できないものは、

次の機会が訪れるまで心の隅にしまっておくことにする。

行動はひとを能動的に積極的にしてくれるし、

それによって問題が解決できればそれだけで心が軽くなる。


すぐに実行に移せることと、

どうにもならないものがあります。

実行に移せるものから実行します。

実行できないものはしばらく忘れているようにします。


人間は偉大なりと誇ることもできるかもしれないが、

私は、生物の進化の速度と人間の技術の進歩の速さに

異常な差のあることに恐怖の念を抱く。

人間が生物である以上、

この差が大きすぎるということは、

かならず大きな問題を引き起こすだろう。


この世に存在するという意識が

以前ほど鋭くなく、

ぼんやりとしてきました。

こうして次第に

あの世とこの世との境界が

曖昧になり、

安らかにこの世を去ることが

できるのでしょう。


今日は良い天気な関東地方。


熱も下がってきたので


布団を干して来週からの


仕事復帰に準備していきたい。


 


仕事して、本が読めて


音楽が聴けて


愛する家族がいて、食事して


家があって、健康があって


これ以上のことって


ほぼ、ないよなあ。


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近代化と世間:阿部謹也著(2006年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

「世間」という語は


最近よく見聞きして気になっていた。


どうも言葉の内容のまま


というように一筋縄では


いかないようです。



近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 (朝日文庫)

近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 (朝日文庫)

  • 作者: 阿部謹也
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/11/07
  • メディア: 文庫


まえがき から抜粋


この50年の間に私は単にヨーロッパ史を受け身で研究してきたわけではない。

現在の私から見てもヨーロッパ史の展開に大きな誤りがあったことが明らかな時期もきわめてしばしば目にしてきた。

特に学問上の問題である。

ヨーロッパの学問は第三章で明らかにするようにキリスト教と「聖書」を背景として進められてきた。

そこでは人間がこの世の主人であり、動植物はその人間に仕えるべき存在として位置付けられてきた。

ここにキリスト教を背景とするヨーロッパ史の大きな難点の一つがある。


さらにフッサールが繰り返し指摘しているようにガリレオからデカルトへ、そして現代の自然科学に至る道は生活世界を無視してきたという大きな誤りを犯してきた。

そのために自然科学は常に国家と結びつき、軍事力の基礎を提供してきたのである。

それに対して人文社会諸科学はほとんど抑える術を持たなかった。


このようなヨーロッパの学問の結果、私たち人類は今未曾有の困難に直面している。

人類滅亡の危機に立たされているのである。

核爆弾だけでなく、環境問題や地球温暖化の危機なども含まれている。

人々は皆このような事実を知ってはいる。

しかし

「私たちに何が出来るのだろうか」

とあきらめて日々の暮らしにいそしんでいるのが実情である。

特にアメリカを中心とする大国が核爆弾を多数抱え込んだまま、他国の原子力保持に猛反対している。

アメリカがまず核を放棄するべきなのであるがそのようなことは現実的ではないとして多くの人があきらめた結果、第二次大戦のときの日本と同じ状況が世界的規模で繰り返されている。


私はそのような中でヨーロッパ史を学んできたが、ヨーロッパの歴史を否定的に捉えるのではなく、まだ若かった私が見て日本よりも進んでいると思えた点を集中的に研究してきた。


第一章 西欧社会の特性


個人の成立と自然からの脱却 から抜粋


まず個人の成立から説明してゆきたい。

通常西欧社会について語る人は古代から語り起こすことが多い。

古代ギリシャ・ローマにすでに個人(ペルソナ)が存在していたというのである。

しかしギリシャ人やローマ人にとってペルソナあるいはプロソボンとは芝居などの仮面のことであって、演劇の仮面から人格という意味へ移行してゆく際にはかなり複雑な過程があった。

ロシアの歴史家アーロン・グレーヴィッチは芝居の仮面から内面的統一性をもつ人格への移行はキリスト教のもとで進行したといっている。

6世紀初頭にボエティウスは人格を定義し、

「合理的な性格をもち、分割することのできない個体」

としている。

ところが古代末期の地中海世界においては個人の概念は全く違っていた。

地中海世界の人々は天空界信仰とでもいうべき信仰を持っていたといわれる。

地球は月の下で世界の底にあり、瓶の底に溜まった澱(おり)のようなものだという。

宇宙の表面を一筋の溝が貫いていて、人間は死ぬと霊魂は地上の澱からなる肉体を捨てて、この溝を越えて天空界に登ってゆく。

天の川の星々の中で人々をじらすかのように地上を見下ろしている明るく透明な光の中に、自分の特質と調和した場所を見出すのである。


小宇宙としての共同体 から抜粋


病気も大宇宙から村や人間に襲いかかってくるものと考えられていたから、例えば患部を自然石でこすり、石の周りを病人が回ったりして、病を大宇宙のものである自然石に戻すという方法がとられることがあった。

このような場合、その石には病が潜んでいるから近づいてはならず、他人が知らずにその石に触れると同じ病にかかると信じられていた。

雨だれの落ちるところに置かれている石がしばしばこのような治療に用いられたが、この場合には患部につけた石を元の場所に戻しておくか、水をかけて洗う。

雨だれの落ちる場所は家の内と外との境界であり、特殊な意味を持つ場所であったからであり、雨つまり水によって清められるのである。


第二章 日本の世間


日本の個人 から抜粋


ヨーロッパ史研究の中でさまざまな問いに出会う度に私は日本ではどうなのかを常に自問してきた。

具体的な例を挙げれば、ドイツで自動車の運転免許を取ったときのことである。

ドイツでは非優先の道路から優先道路に出る時には絶対に一時停止しなければならない。

優先道路を走っている場合には左右に気を配る必要はあるが、スピードを落とさずに走ることが出来る。

日本ではそのような場合事故が起こればどちらにも責任があるとされる。

したがって優先道路を走っているメリットはほとんどないことになる。

このようにドイツでは責任と義務の関係が明白である。


私はこの12年の間人工透析をしているが、ドイツでも何度もしたことがある。

透析に対する態度には日本とドイツとでは決定的に違いがある。

日本の病院では水が増えていると患者は何か悪いことをしたような気にさせられる。

医者も看護師もどうしてこんなに増えたのかと詰問調でたずねる。

私がドイツで初めて透析したのは10年ほど前のことだが、NHKのカメラマンなど全部で七人ほどの旅だったし、ドイツを知っているのは私だけだったから、着いた日にはレストランに案内して皆で食事をした。

当然ビールを飲む。私も付き合った。

そのため日本では絶対に増えなかったのに、かなり水が増えてしまった。

私は医師に

「ドイツでは空気が乾いているので」

とつい弁解らしきことを言った。すると医師は

「飲むのはあなたの権利ですからそんなお気遣いはなく」

と言った。

私は驚いてしまった。

日本ではどんな医師でもいわない言葉である。

彼は「水が増えればその分透析時間を増やせば良いのですから」

という。

ある患者はベッドでバナナを2本食べていた。

私が驚いていると医師は

「あれも彼女の権利ですから」

という。

その結果どのような合併症が起ころうと責任は彼女にあるというわけである。


当然透析前に十分に教育してあるからそれを承知で飲んだり、食べたりする。

人はその結果を自分で負うことになるというわけである。

医師の態度としては冷たいと思われるかもしれないが、ここにもドイツと日本の決定的な違いがある。

個人の意思が何よりも尊重されている点である。

しかしその大前提を知っておかなければならない。

ドイツでは透析は最大2年間くらいで終わるのである。

その間に臓器移植の可能性が出てくるから一生透析をする必要はないのである。


日本でもし移植が出来るようなってもドイツのように個人の自由は保障されないだろう。

日本では医師は皆患者を幼稚な存在とみなし、細かな点まで指図しなければならないと考えているのに対し、ドイツでは医師は患者を一人前の人格を持った存在として敬意をもって遇しているからである。

透析に関する日本の医師と患者の知識の不足も否めない。


私の経験では、あるとき都立病院でヘルニアの手術をすることになった。

手術の前日に外科医が来て明日の手術は中止したいという。

透析患者は出血をすると危険だからというのである。

私はあきれて別の病院に行き、何の支障もなく手術を終えることができた。

医師の不勉強は否めない。

しかしこのような事情からも日本とドイツの個人のあり方には決定的な違いがあることが解る。


今まで述べてきたことから明らかなように、日本には個人が敬意を持って遇される場がない。

個人がいないとさえいえるのである。

それでは日本の社会はどうなっているのだろうか。

日本の社会は明治以後に欧米化したといわれている。

欧米化とは近代化という意味である。

近代化によって日本の社会は国の制度のあり方から、司法や行政、郵政や交通、教育や軍事にいたるまで急速に改革された。

服装も変わった。

近代化は全面的に行われたが、それが出来なかった分野があった。

人間関係である。


親子関係や主従関係などの人間関係には明治政府は手をつけることが出来なかった。

その結果近代的な官庁や会社の中に古い人間関係が生き残ることになった。

明治10年(1877)に英語のソサイエティが社会という言葉に翻訳され、明治17年にインディヴィデュアルが個人という言葉に訳された。

しかし訳語ができても社会の内容も個人の内容も現在にいたるまで全く実質をもたなかった。

西欧では個人という言葉が生まれてから9世紀もの闘争を経てようやく個人は実質的な権利を手に入れたのである。

日本で個人と社会の訳語が出来てもその内容は全く異なったものだった。

なぜなら日本では古代からこの世を

「世間」

とみなす考え方が支配してきたからである。

その意味は

「壊されていくもの」

というもので、この世は不完全なものであるということであった。

この「世間」という言葉は現世だけでなく、あの世も含む広い概念であった。

日本ではこの言葉はかなり俗化され、無常な世という意味で用いられることが多かった。


自画像の欠如 から抜粋


個人という概念がなかったことは明治以前には日本には自画像というジャンルがなかったことにも示されている。

明治以降、東京美術学校(現・東京藝術大学)が西洋画家の卒業生に自画像を描かせることを定めてから、自画像が描かれ始めたのである。

それ以前の日本人は「世間」という集団の中で生きており、そこに価値が置かれていたから、自己を描く必要がなかったのである。

明治以前の自画像のほとんどは雪舟、白隠、良寛などであり、その多くが禅宗の僧侶のものである。


「世間」の中の時間


「世間」の中では時間はほとんど止まったままなのである。

ただ日々が過ぎてゆくだけなのである。

たしかに時間の経過に違いはない。

しかし時間は何かの目的をもって流れているのではなく、動植物の生長と老衰と同じように経過してゆくに過ぎない

私たちの日々の暮らしを考えてみよう

毎日を健康に過ごし、家族に大過ないことを望んで暮らしている私たちはそれ以上のことを将来に期待しているだろうか

ほとんどの人たちはそれ以上のことを望んでいないのであり、それだけでも大変なことなのである

それが出来ないために毎年3万人以上の人たちが自ら死を選んでいるのである。

「世間」の中で暮らしている人は皆ほとんど同じであり、それ以上の目的を持つ人の場合はせいぜい地位か財産を求め、時には名誉や好色欲の満足を求めているに過ぎない。

政治家たちも同じであって、彼らがときに外交の舞台に出る場合でも、「世間」の中の付き合いの方法を応用しているに過ぎない。

したがって世界から取り残されてしまうのである。

宗教家といわれる人たちも同様である。

特に仏教教団は「世間」を維持する中心的な役割を果たしてきた。

明治以降の政府の近代化政策に対しても自らの存続のために多少の改革を行なって時の流れに従ってきたに過ぎない。


「世間」の中にはすでに述べたように欧米のような個人はいない

したがってキリスト教のような直線的な時間意識もほとんど見られない。

いわば「世間」には歴史がないのである。

欧米のキリスト教徒は計り知れない時間の果てに最後の審判を期待しているから、それまでの時間を計ろうとしてきたフィオーレのヨアヒムなどの試みがそれである。

こうして歴史哲学が始まる萌芽が生まれたのである。


「世間」には時間概念がなく、


歴史としてアーカイブされないって


すごい話だ。


もしそうだとして今もそれが


抜けきれたないとしたなら


グローバルな歩調合わせなど


出来なそうだよなあ、と。


こうして自国ファーストとか


ポピュリズムに


繋がっていくのだろうか。


そうならないように気をつけたい。


西洋を少しでも知っている


東洋の自分であればと考える。


体調不備の為今は考えるだけ。


 


第三章 歴史意識の東西


「世間」と時間 から抜粋


「世間」に関してもうひとつ注目しておく必要があります。

それは「世間」が本来否定されるべきものとして位置づけられてきたという事情です。

日本の仏教においては長い間、死後の生活に重心が置かれていました。

この世は穢土(えど)として生きる価値がない場所と見られてきたのです。

その結果日本には長い間自分たちが生きている社会を客観的に見る姿勢が生まれませんでした。

この世、「世間」は情緒的に捉えられてきたのです。

「世間」を「うつせみ」や「むなしいもの」「無常」と見るような見方は古代から中世を経て近代に至るまで共通しており、人々の基本的な社会観を規定しているものでした。

そのような「世間」の中で生きていた人々は「世間」の外に目を向けることはほとんどありませんでした。


解説 養老孟司(解剖学者・東京大学名誉教授)から抜粋


『近代化と世間』は阿部さんの最後のお仕事である。

私は阿部さんの死をじつに残念だと思った一人である。


阿部さんは最後に結論の一つとして、いわばだしぬけに

欧米の自然諸科学の現状を仏教の視点から見直すこと」と書く。

さすがによく見ておられたなあ、と思う。

でも多くの読者にはピンと来ないかもしれない。

具体的に何をいっているのか、説明が欠けているからである。

でもそれは大切なことである。

なぜなら、読者はそこから出発して、あらためて自分の頭で考えざるを得ないからである。

この短い文章は、阿部さんが将来を考えて行なった予言の一つといってもいいであろう。

それはやがて実現するはずだと、私は思っているのである。


欧米の価値観に合わせるのって


無理があるし、明治以降その綻びが


見えにくい形で現れてきているのかと。


もちろん日本だけではない話。


西欧と東欧の比較も深った。


日本に住んでいると違いすらわからない。


余談だけれど


養老先生ご指摘の阿部先生の結論に


ピンときてるのか、きてないのか


よくわからないのだけど


なんとなくわかるような。


「良いところを真似て、適応・運営」


「ダメならば、変更」


「良くても常に様子見、考えろ」


ってことかと。


普通のことだとも思うけれど。


だとして、最後のが面倒くさい。


一回フィックスしたら、人って


変えたくなくなるものですからね。


なので、一人でなくチームで


役割分担すればいいのではないかと


体調不良の寝床で感じ入る


今日この頃です。


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好奇心の赴くままに ドーキンス自伝 I : 私が科学者になるまで:リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳(2014年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I: 私が科学者になるまで

好奇心の赴くままに ドーキンス自伝I: 私が科学者になるまで

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2014/05/23
  • メディア: 単行本

何冊か著者の書籍を


読んできてプロフィールも気になったので


読んでみた。


あくまで反骨精神の成り立ちを。


科学的なところではないため


悪しからず。


最終章 来し方を振り返る


利己的な遺伝子』の出版は、私の人生の前半生の終わりを記すものだから、ここは立ち止まって、振り返ってみるのにふさわしい場所である。

私はたびたび、アフリカで過ごした子供時代が生物学者になるように導いたのではないかと尋ねられる。

そうですと答えたいところだが、確信がない。

初期の歴史における何か特定の変更によって、人の一生の進路が変わったかどうか、どうしたらわかるというのだ?

私には、普通に目につくと予想されるあらゆる野生植物の名前を言うことができる訓練を受けた父と母がいたーーーそしてふたりともつねに、実在の世界について子供の好奇心を満たそうとしたがった。

これは私の人生にとって重要だったか?

イエス、まちがいなくそうだった。

私が八歳のときに家族はイギリスに渡った。

もしこれがなかったらどうだったろう?

11歳のとき、私はマールボロ校ではなく、オーンドル高に行かされた。

この気まぐれな変化が私の将来を決定しただろうか?

どちらも男子校だった。

心理学者なら、もし私が男女共学の学校に行っていれば、社会的にも順応した人物になっていただろうと言うかもしれない。

私はオックスフォード大学になんとかもぐりこんだ。

たぶんぎりぎりで通ったのだろうが、もし落ちていたらどうなっていただろう。

もし、ニコ・ティンバーゲンの個別指導を受けなかったとしたらどうだっただろう?

まちがいなく、私の人生は異なったものになっていたことだろう。

おそらく、私は本など書いたりしなかっただろう。

しかしひょっとしたら、人生には、何か磁石ののように人や物事を引き戻すものがあって、一時的な逸脱があったとしても、一つの道筋に収斂(しゅうれん)していくという傾向があるかもしれない。

生化学者として、そのときにはもう少し分子的な方向への傾斜が強くなっているとしても、最終的に私は『利己的な遺伝子』に至る道に戻っていったかもしれない。

ひょっとしたら、その道の引力は、私の十数冊の著作すべてについて、(今度も生化学へ傾斜した)変形版を書くように導いたかもしれない。

正直、それはどうかなという気持ちだが、「その道に戻っていく」という考え方全体は、興味がないわけではない。

それについては……まあ……いずれ戻るつもりである。


長々書いてきて最終章で、最も気になることに触れ


ひらりとかわすような。


そんな簡単に人の影響なんてわからないものだ


と言っているような気もする。


オックスフォード大学に行くまでは


普通の学生さんのような印象だった。


幼少期に戦争がありそこを除くと


ネーン川沿いの学校 から抜粋


私はオーンドル高に確固たる国教会信徒として入学し、初年度には数回、聖餐式に出席さえした。

私は朝早く起き、クロウタドリやツグミの鳴き声を聞きながら、陽光を浴びた教会の庭を通り抜けて歩くのを楽しみにし、そのあとの朝食を待つ心地よい空腹感に浸った。

詩人のアルフレッド・ノイズ(1880~1958)は、次のように書いている。

「たとえもし私が宗教の根本的な実在性になんらかの疑問を持ったとしても、つねに一つの記憶ーー早朝の聖餐式から帰ってきた時の父の顔に浮かんだ輝きーー

でそれを払拭することができるだろう」。

それは大人にとっては、見事なほど馬鹿馬鹿しい論法だが、14歳だった私にはそれで十分だった。


私が、以前の不信へ戻るまでにそれほど時間がかからなかったと言えるのは嬉しい。

最初に不信を植え付けられたのは九歳ごろで、キリスト教が唯一の宗教ではなく、他の宗教と互いに矛盾があることを母から教わったときだった。

さまざまな宗教がすべて正しいということはありえない。

それなら、なぜそのなかの一つだけを信じるのか、たまたま私が、そのように育てられるべく生まれたというだけのことで。

オーンドル校では、聖餐式に通った短い期間の後は、私はキリスト教に特異的なあらゆることを信じるのを止め、さらには、特定の宗教すべてを軽蔑するようにさえなった。

とりわけ、私たちはみな「惨めな罪人」ですと全生徒が声を揃えてつぶやく「総告白」の偽善が頭にきた。


反骨精神のようなものは、


ロックの世界にも


パブリック・スクールとか


ミッション・スクールとか


教会に通っているうちに


それは育まれた、っていうのは


よく聞く話だけど。        


でもまあ、その後の下地は、


この頃、できたのだろうな。


訳者あとがき


パブリック・スクールの寮生活についての記述は、心地よいとはいいがたいが、経験者でなければわからないことが書かれていて、イギリス映画やテレビドラマの学園生活の場面をみる時の見方が変わるかもしれない。

総じてドーキンスは科学者らしく、誇張することも隠蔽することもなく、自分自身を客観視しながら、きわめて率直に事実だけを語っている。

生徒間のイジメに遭遇して、自分がそれをなぜ止めることができなかったのかという自問も含めて、若かりし頃の自分の心の中を見つめ、人格における不連続性という考えを提示しているのは興味深い。

これまで、私が知らなかったことで、もっとも強い感銘を受けたのは、オックスフォード大学院生時代にドーキンスが指導を受けたマイク・カレンのことである。

自らの睡眠時間を削ってでも、若い研究者への助言にエネルギーを注ぎ、いっさいの見返りを要求してこなかった。

現在の学者の世界(とりわけアメリカや日本)では、自身の功績や栄誉に拘泥しないこういう人間の存在を許さないだろう。

学者の功績が論文数、ことにインパクト係数の高い雑誌にどれだけ名を連ねるかで評価され、それが学者の身分と研究費の獲得に直結するから、マイクのような利他的な研究者は生き残ることができないはずだ。

逆に言えば、自分がいっさい手を下さず(極端な場合には、その実験の詳細を十分に理解できないまま)、若い研究者が成し遂げた研究論文に老教授がなを連ねるという悪習の中から、今回のSTAP細胞スキャンダルのようなものが出てくるのは、必然と言えるだろう。


もう一つ意外な発見は、エルビス・プレスリーの熱狂的なファンだったということだ。


私の年代の周辺では、ビートルズの方がずっと大きな影響力があったように記憶しているのだが、同じ英国人なのに一言の言及がない。

思うに、大学生になって、少し背伸びして紳士ぶるために、音楽の趣味もポピュラー音楽からクラシック音楽に変わり、ビートルズの登場したのがそれより少し後の時期だったという事情が理由なのかもしれない。


彼が一時期ひどい吃音に悩まされていたというのもはじめて詳しく知った。(どこかでチラリと書いていたような気もするが)。

文筆における能弁からはまったく想像がつかない。


自由なアフリカを離れ英国の祖父母たちの厳格な躾に従わなければならなかった時期の生活が大きなストレス要因だったようだが、ドーキンスが何不自由ない恵まれた生活を贈った優等生だと思っている人(私自身もいくぶんかそう思っていたのだが)には、この事実を知ることで、彼の剛速球のような論理展開の底にある弱者への共感やどこか冷めた感じは、理解しやすくなるだろう。

また、両親を含めてまわりにナチュラリストになるべきお膳立てが揃っていたのにナチュラリストにならなかったことは、よく知られているが、パブリック・スクール時代の夏休みに、父親の農作業を手伝い、一介の農民として汗水垂らした経験があったというのも初耳で、そういう意味でのフィールド体験があることを知ったのも意外だった。


オックスフォードで師事されてた


マイク・カレンさんとは


稀なる邂逅と言えるものだったろう。


2001年に亡くなった時、ドーキンス氏が


述べている弔辞も途中で挿入されていて


訳者あとがきにも触れられているような


人柄と尊敬の念が表れている。


所でドーキンスさん


ナチュラリストではなかったのだね。


それから自説では


宗教とは決別していても、


実生活では特定の宗教は


お持ちなのではないかなあ、なんて。


別にあってもいいのだけど。


というかこの人は捉えどころのない


かつ、簡単には手の内を見せない


生粋の英国紳士って感じがする。


余談だけど、エルビスはあっても


ビートルズは不思議なくらい記述がないと。


ドーキンス氏1941年生まれだと


ジョン・レノンの1つ下。


ビートルズとほぼ同世代となると、


ビートルズのアウトプットが


実は何なのかがおおよそ


わかってしまったのではないかな、


故に積極的に聴いてなかったのかな、


と勝手な推測。


それとこれまた勝手なイメージだけど、


ドーキンス氏にはキング・エルビスの方が


似合っている気がする。


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進化論のウォレスを二冊から考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

ダーウィンの徒花ともいえるような


ウォレスさんについて、


なぜか気になるこの頃、二冊読んでみた。


 



渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝

渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2020/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合


2001年1月20日上智大学における最終講義


ウォレスという人 から抜粋


ウォレスの生涯を簡単に申し上げますと、ダーウィンより約20歳くらい若い人でありますが、ウェールズのモンマスシャー ーー今はグウェントというのだと思いますがーー に生まれました。

割と豊かな家に生まれました。

お父さんは職業のない、何もしないで食えるような家でした。

そこの八人兄弟の七番目に生まれました。

ところがお父さんは出版などに手を出しまして、すってんてんになってしまいます。

それで彼は学校に入りましたけれども、授業料を払うことができずに、日本の学歴で言えば中学一年くらいになった時に、その学校の下級生を教えることで授業料を免除してもらったりしております。


ウォレスにはもう一人のお兄さん(ウィリアム兄)がいて、測量士をやっておりました。

当時は測量が非常に盛んだったようです。


そこで、その測量をするお兄さんにつきまして、約五年間を測量しながら勉強しています。

お兄さんはお兄さんで、教育のある、非常な勉強家で、当時の新しい学問をよくやる人でしたので、その影響下で一生懸命勉強しています。

上は天文学から、下は地質学。

これは測量にも必要なことであります。

それから数学。

このようなことをやって、今で言えば高校一年から大学2年くらいまでの間、毎日ずっと測量をやって歩きました。

そのかたわら生物学、特に植物を勉強して、大英博物館の植物の項目をほとんど頭に入れるほどよくやったようです。

それから二年間くらい、今後は学校の先生をレスターでやります。


そこの住み込みの教師になって子供たちを教えるのですが、その間にいろいろな、私から見て将来非常に重要なものを勉強するのです。

その時に数学を学んでいます。

それで微分を終わりまして、積分くらいに入りました。


それからもっと面白いのは、フレノロジーという骨相学です。

骨相学と、メスメリズムという催眠術。

それを実際体験するのです。

骨相学というのは、頭の格好を撫でまして、その人の性格はこうこう、それから将来どっちの方に向いている骨相であるかというのを書いてもらったのです。

その書いてもらったのを彼はずっと持っていましたが、晩年見ますと、ほとんど90%当たっている。


骨相学というのは、その後忘れられている学問でありますが、今から考えてみても非常に進んだ学問でありました。

というのは、脳の各部分が全部機能が違うのだということに初めて気がついた医者たちが骨相学者だったのです。

それまでは脳というのは一つしかなくて、脳のこの部分はこっちのこの機能をしているなんていうことは考えなかった。

それは骨相学から始まるのです。

そして、その骨相の見方が非常に重要なのは、頭蓋の大きところにある能力が発達しているのですが、単にその部分が大きいだけではだめなのです。

他のところの微妙なバランスを見て発達していると言わなければだめなので、そのへんは非常に難しいところなのです。

しかし、それさえ訓練した人がやると、ほとんど神秘的なほどよく当たることを彼は実際体験しております。


それから骨相を見ながら催眠をかけますと、ものすごく良くかかるということを彼はやり始めるわけです。


そのようなことをやっている25歳前後に、ベーツという、これまた学校に行かない男で、昆虫採集ばっかりやっている男と知り合いになります。

それでものすごく刺激を受けまして、今までは主として植物に興味があったのが、昆虫まで採集し始めるのです。


当時は脳は一つの機能という


認識のされ方という件。


そんな時代だったのですねえ。


その後、ベーツとウォレスは


マレー諸島に行くことになる。


半分仕事が目的だったよう。


生物を採集・剥製にして


師事していた教授に


送っていたようで。


遠方から送られる生物は当時も


貴重だっただろうと想像に難くない。


ウォレスとダーウィン から抜粋


そのようなことをやって、2年目にサラワク(今のブルネイ)に行きました。


その時、彼はこういうことに気がついたのです。

あらゆる種は、その種の前の種と極めて似ていて必ず同時に存在している、と。

地質学的にも、実際見て回ったところでも、ということを発見して論文を書き、それをダーウィンに送りました。

ダーウィンはこれを見てびっくりするわけです。

ダーウィンはそれからすぐに手紙を書きます。

自分も二十何年間かやってきた、と。

100パーセントあなたの言っていることに賛成だ、などという手紙を書きますけれども、ウォレスの発見はダーウィンがそれまで20年間やったかは別として思いつかなかった原理なのです。

どういうことかと言いますと、ウォレスが説明したのはこういうことなのです。

一つの種から変種ができる。

変種ができて、その変種からまた変種ができる。

こうして無限にいけば、最終的には別の種になるのではないかという仮説を立てるわけです。

この「無限」という概念が非常に重要で、大空を見て、

「あ、無限に高い」

という無限は、単なる無限なのですが、だんだん積み重なって無限に行ったらどうなるのかという無限は、微分からしか出ないのです。


微分のこうした問題を私は非常に印象深く覚えています。


円の面積の問題です。

4分の1出せばいいわけです。

この出し方を、ていねいに当時の教科ではやったのです。

円の面積は出しようがありませんから、半分割って四角にすればいいのです。

そうしてその中に作るこの四角の数を増やしていけばいいわけです。

これをずっと足していく式をつくれば、無限級数の式になります。

無限級数の式は、日本でも関考和ニュートンの数年前に発見したと言われています。


ダーウィンは積分をやらなかったのです。

微分もやりませんでした。

ウォレスはやっていました。

ただ、習った理論などはおそらく忘れていたと思います。


種も少しづつ変わって、同じように変わっていけば、AからAダッシュへという無限級数です。

するとBになるのではなかろうか。

このことを生物学の本職の人は「分岐の法則」というのですが、この分岐の法則にはダーウィンは気がつかなったのです。


分岐の法則、知らなかったのかなあ。


そうは思えないのだよなあ。


有名な系統樹は書いてたので、ダーウィン


わかってたのではないかなあ。


微分・積分からの考察は不遜ながらも渡辺先生の


フライングではないのかと訝しく思ったり。


それは置いておいて、ウォレスについてここまで


調べている書籍は他にないのではないか。


最初の章は一人称で書かれててその頃


日本の歴史ではどういうことがあったかとかあるしで


日本で読まれるべき人物と思っておられたのだろう。


上記はその章からは引かず第二章の


講演から引かせていただいております。


 


次は渡部・養老両先生の対談から。



日本人ならこう考える

日本人ならこう考える

  • 作者: 渡部 昇一 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2009/03/11
  • メディア: 単行本


第三章「弱肉強食」はもう古いーー進化論で読み解く現代社会


細胞そのものは作り出せない から抜粋


■養老

「生命の起源」といってしまうとよくわからなくなるので、私は「システムの起源」と考えた方が良いと思っています。

「システム」とは、複数の構成要素を持っていて、しかも同じものがある程度継続するものですね。

では「生命システムの起源」は何か。

ルドルフ・カール・ウィルヒョーというドイツの生物学者が

「すべての細胞は細胞からできた」

といいましたが、このテーゼはいまも崩れていません。

つまり人間は、いまだに「細胞そのもの」をつくりだすのに成功していないのです。

既存の細胞というシステムからしか、細胞は作れていない。


■渡部

ウォレスのおもしろいところは、人間の脳の発達に当てはまらないということを証明するために、心霊術や超心理を研究するんですね。

それこそ虫の小さな差を調べて新種を発見していくような綿密さで、当時流行のスピリチュアリズムを全部検証して、最後にはインチキができないように自分の家でも心霊術を行う。

その結論は「霊媒さえよければ、でる」(笑)。

そんなことを書いたものだから、さまざまな重大な発見をしたのに、自然科学の世界からはほとんど葬られた存在になってしまいました。


生物は「システム」と「情報」から抜粋


■養老

人間の脳の発達に進化論が当てはまるか否か。

それを考えるには、生物のあり方を

「システム」と「情報」にわけるとわかりやすいと思います。

生物学の歴史に大きな足跡を残したダーウィンやメンデル、ヘッケルなどは、ある意味ではみんな同じ穴の狢(むじな)で、何をしたかといえば、生き物を「情報化」したのです。

たとえばメンデルは、エンドウ豆の緑色のものと黄色のものを

「A(ラージエー)」と「a(スモールエー)」

というように書き分けました。

生物の形式を一個の情報で捉えたわけです。


これを記号化したのがメンデルの功績であって、遺伝をその記号の組み合わせで説明したのは、いってみれば付録みたいなもの。

つまり、われわれが生物を見るときにはアナログで見てしまいますが、そうではなしに、生物の形式を一個の情報として捉えて、アルファベット化したのです。

アルファベット化というのは、「情報」の基本ですね。

ダーウィンがいった「自然選択説」というのは、生存競争の結果、環境に適応しないものは滅びるということですが、じつはこれは「情報」の原則なのです。

僕が何をいったって、周りの人が聞いてくれなければ、その情報は生き延びない。

新聞に何を書こうがテレビで何をしゃべろうが、みんなの頭に残らなければ生き残れない。

じつは情報くらい自然選択に関わるものはないんです。

ダーウィンがいったことは、じつは生物を「情報」として見たときに典型的に見えてくるものにほかならない。


そして、

「固体発生は系統発生を短縮して繰り返す」

という生物発生原則を主張したヘッケルの考え方は、学者が論文を書くのと一緒(笑)。

どういうことかというと、それまでの学者が何をやってきたかということを短く要約して説明して、そのあとに自分の結果を付け加える。

生物も、受精卵から個体へと生育する過程で、祖先たちがやってきたことを短く要約して、そのあとに新しく何かがちょっと付け加えられると進化が起こる。

つまり、この三つの業績というのは、情報に関する経験則を生物の原理として主張したものなのです。

その発想が、そのまま遺伝子にも当てはめられます。

つまり遺伝子というのは明らかに記号であって、ATGCという四つの記号で全部書ける。

それでたとえば、リチャード・ドーキンスという人は『利己的な遺伝子』という本を書いて、

「われわれ個体は、遺伝子を運んでいく乗り物だ」

という表現をしました。これは非常に売れましたね。

しかし、ドーキンスが完全に忘れてしまっていることが一つある。

それは先ほど紹介したウィルヒョーですよ。

じつは進化の始まりからずっと存在しているのは、細胞という「システム」でもあるのです。


■渡部

遺伝子というものにとらわれて、細胞を無視したということですね。


■養老

別の言い方をすれば、「情報」を中心に考えて、「システム」を無視したということです。

生物を情報としてみ始めたのは19世紀のヨーロッパからで、それがダーウィンでありメンデルであり、ヘッケルだったのです。


「情報」と「システム」という構図や、


メンデルは記号化したのが最大の功績、


というのは養老先生ならではの表現だなあ。


これは何度も反芻しないとわかりませんよ。


ウォレスについていうと、奥本先生もおっしゃっている


本当に人格が高いと感じる。


ダーウィンに対して感謝していて、


「種の起源」に自分の論説が多くあったとしても


個人で発表したら埋もれてだろうし、何よりも


ダーウィンを尊敬していて、だから


今の自分もあるみたいな。


それは本当にそうなのではないかと。


ダーウィンに消された男』(1997年)なんて


書籍もあったりで、


渡辺先生の書籍はこれも含まれての自伝に


なっているようだけど


自分はそこはあんまり興味ないかなあと。


それよりも、晩年のウォレス、スピリチュアルに


傾いて浮かばれなかったというのは


何となく知ってたけど


渡辺先生の本によると若い頃からの


「フレノロジー(骨相学)」


「メスメリズム(催眠術・動物磁気説)」が


発端だったようで。


今は廃れてしまったけれど、


将来どうなるかわかりませんよ。


新たな脳との連携機能とか


何かが発見されたりして。


そうなると、ウォレスさんは早すぎたって


評価になるんだろうなと。


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引き算の美学 もの言わぬ国の文化力:黛まどか著(2012年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

  • 作者: 黛 まどか
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2012/02/25
  • メディア: 単行本

若い頃に著者の別の書籍を


読んだ記憶があるが


俳句はわからないなあ、と


感じたが今回読んでみて


深さが沁みてきました。


 


はじめに


引き算、省略、余白の文化 から抜粋


十年ほど前、熊野に行った。

ちょうどしし座流星群の大出現があった直後だった。

地元のある町長がこんなことをいった。

「流星を見ようと外に出たら、こんな田舎でも外灯が明るくて星が見えないのです。

その時、ハッと気がついたんです。

私たちは戦後日本を豊かにするため、日本列島の隅々にまで電灯を灯そうと必死で働いてきました。

そして今はどこでも一晩中電灯が灯るようになりました。

しかしその結果日本には闇がなくなってしまった。

星さえも満足に見られない。

それが本当の豊かさでしょうか。

闇がなければ夢も見られない。

これからは自分たちが灯してきた電灯の一つ一つを、消していく努力をする時代ではないでしょうか」。


より便利に、より速く、より豊かにと利便性や快適さを追求し続けた結果、世の中には物が溢れている。

過剰なサービスや包装、アナウンスなどに私たちは慣れ、その欲求は止まるところを知らない。

気がついたら日本は世界一快適で過保護な国になっていた。

あらゆるものが饒舌なのだ。

つまり足し算に邁進してきたのが現代社会だ。

一方で、俳句を含め、日本の伝統文化の多くは引き算の美学の上に成立する。

言わないこと、省略することによって育まれる余白の豊饒を、私たちは忘れてはいないか。

物欲は次の物欲を生むだけで、決して充足感を与えてくれない。


コロナ禍前の書籍なので、


新たに気がついた人たちも


多いと思う、欲望については。


事足りるのであれば


多くを欲しがるのは疑問、


そもそも何でそんなに欲しいのさ、


みたいな。


でも慣れてしまうのかもしれんねえ。


自分も古本屋さんのハシゴとか


してしまっているし。


100円単位なら良いだろうみたいな。


いや、金額の問題ではない、こういうのは。


第三章 型と余白


意味を求めない から抜粋


フランス滞在中の秋、パリ日本文化会館で小栗康平監督の映画の特集が催された。

「泥の河」以来小栗映画のファンだった私は、毎日のように会館に足を運び、すべての作品を二度づつ見る幸運に恵まれた。

開催中は小栗監督も渡仏されていて、幾度か登壇して映画について話してくださった。

印象的だったのは「埋もれ木」の上映前の言葉だった。

「意味を考えないでともかく感じてください」。

ストーリーを説明しようとしない。

圧倒的な自然と素朴な人々の暮らしが淡々と描かれている。

場面は夢の中の出来事のように展開し、物語を超えた世界へと観客を導いた。

私は論理や経緯の説明をせずに、黙って心理の断片を差し出すような小栗映画に、俳句に共通するものを感じた。

休憩時間に直接監督とお話しする機会を得、私がヨーロッパで俳句を発信する活動をしていることを話すと、監督はこうおっしゃった。

「ロジカルな言語の人たちに、俳句を語るのは大変でしょう。論理よりむしろ感覚の方が大事なのにね」。


第五章 俳句の力


老いの句 から抜粋


 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり  安住敦


「雪の降る町を」(内村直也作詞・中村喜直作曲)という歌がある。

作者が大好きな歌で人生の折々に口ずさんだ歌だ。

にもかかわらず今歌おうとして歌詞が出てこない。

「忘れたり」とさらりと言った後に、老いを自覚した自嘲と寂しさが広がる。


 甚平を着て今にして見ゆるもの  能村登四郎


甚平とは気楽な部屋着である。

甚平を着て飄々と晩年にある作者。

社会の少し外から眺めて、若い時には見えていなかったものが、今にして見えてくる。

飄逸放下の姿が彷彿とする。

 

 飄逸=世事を気にせず、明るく世間ばなれした趣があること。

 放下=投げ捨てること。


「人生は楽しくなくてはならない。無闇に悲しがったり寂しがったりする感情を私は好まない。

俳句も生きる喜びの大きな一環であると思っている。」

『長谷川双魚の世界』


今よりもっと過酷な時代を生きた先輩たちのこのような言葉は重く胸に響く。

人生に起こる一つ一つのことをいたずらに嘆き、思い悩んでも詮無いことだし、ましてや人を恨んだり、憎んだり、羨んだりするのは時間の無駄だ。

何があっても平気なふりをして、少し強がって、笑って、前を向いて歩いていくしかない。

そんな諦念と覚悟のうちに、明日への道は切り拓かれるのだと思う。

そして俳句は、生きる喜びへの足がかりとして、いつも身近に存在する。

俳句には、負を正に転ずる向日性(こうじつせい)がある。

「言いおおさない」からこその転換である。

「言いおおさない」とは、何かに委ねることであり、何かとは、自然あるいは自然に宿る神々である。

”委ねる”とは、共有することであり、信じることでもある。

委ねた後には、自ずと安寧が訪れる。

私たちが日々の暮らしの中で季節の挨拶を交わし、着物や料理を映し、深呼吸するように、日常の折々で俳句を詠むのは、自然にたいする挨拶である。

自然という大いなる存在に身を任せ、脱力してゆくことで、やがて一筋の光が差す。

短い言葉で言い切ることと自然を詠むことは、”委ねる”ということでつながっている。

そしてその”委ねる”という行為こそが、日本人の美徳の源である。


あとがき から抜粋


私は一実作者であり、研究者ではない。

俳句を通して感じたことを縷々と書き綴ってきたが、あくまでも実際に私が見聞したものも即して考えたことに過ぎない。

また、引用が多くなったが、他国や他分野の人たちが、日本文化や俳句の魅力について客観的に述べていることを、紙幅が許す限り紹介したと思った。

しかし、書き進めるうちに、これまで気がつかなかった俳句に秘められた新たな可能性を見出すことができた。

余白を察し、言葉と周辺にあるもの、実態の背後にあるもの、見えないものを感受すること。

自己と自然を一体化し、ひともとのすみれと同じ身の丈となり、自然や他の命を尊ぶこと。

このような俳句精神や理念は、今世界が抱えている諸問題(紛争、環境問題など)の解決の糸口にもなり得るのではないかという思いに至った。


俳句ってなかなか縁遠い世界


なのだけど、


少し興味湧いてきたのは


歳のせいもあるのだろうなあと。


でも、五七五の中で表すのって


本当に難しそうだ。


と、考えてはいけないのだろうな。


余談だけど、俳句というと


ジョン・レノンさんを思い出す。


松尾芭蕉の句を気に入られたようで


できたのが「LOVE」だったとか。


短い言葉で表す達人どうしの


共鳴だったのかなあと。


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医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い:中村哲・蓮岡修(2001年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

  • 作者: 中村 哲
  • 出版社/メーカー: 石風社
  • 発売日: 2001/10/20
  • メディア: 単行本

井上ひさし先生の紹介本を


読んでみました。


アフガニスタンの状況と同時に重要だと


感じたのが西欧化した近代との軋轢で。


2001年発行なので、


この時点ではまだ同時多発テロは


起きていなかった。


まえがき から抜粋


これは2000年6月から始まったアフガニスタン大旱魃(かんばつ)に対するPMS (ペシャワール会医療サービス)の、一年間の苦闘の記録である。

2000年夏から、ユーラシア大陸の中央部は未曾有の大旱魃に見舞われた。

この恐るべき自然の復讐とも云うべき世紀の大災害は、ほとんど伝えられていない。

規模の大きさだけでなく、それは地球環境の激変の兆しであった。

にもかかわらず、時たま小さな記事で取り扱われただけである。

その範囲は、アフガニスタン全域、パキスタン西部、イラン・イラク北部、タジキスタン、ウズベキスタン、モンゴル、中国西部、北朝鮮、北部インドと広大な地域にわたり、六千万人が被災した。

中でもアフガニスタンが最も甚だしく、千二百万人が被害を受け、四百万人が飢餓に直面、餓死寸前の者百万人と見積られた(WHO、2000年6月報告)。

これによって、アフガニスタンは、戦乱と旱魃という二重三重の困難に直面した。

加えて、2001年2月に「国連制裁」が発動され、状況はさらに悪化している。


東西冷戦時代は「熱い冷戦」の舞台となり、アフガン戦争(1979~92)が勃発、六百万人の難民と推定二百万人の死者を出した。

その余韻はなお内戦の継承として続いている。

1996年以降、新興の軍事・宗教勢力、タリバン(イスラム神学生)が国土統一を進め、現在9割を支配下に治めている。

タリバン政権は保守的なイスラム的習慣法を全土に徹底し、それまでの無政府状態を忽ち収拾、社会不安を一掃した。

これは殆ど下層民と農民が歓迎したが、西欧化した都市上流階級は国外へ逃亡した。

国際社会は「非民主的なテロリストの国」としてタリバン政権を認めず、一握りの反タリバン軍閥に膨大な武器支援をしているため、内乱は長引き、国土復興が著しく遅れている。

これに加えての旱魃はアフガニスタン国家の解体へと発展し、近隣諸国にもその混乱が及ぶ可能性が十分にある。


さて、われわれは名のとおり医療団体であるが、この未曾有の大旱魃に遭遇して早急な水源確保の対策を迫られた。

それまでと同様、「アフガニスタン」は殆ど情報世界から遮断された密室であった。

かろうじてWHO(世界保健機構)、ユニセフ(国連児童基金)などの国連機関が2000年5月頃から警告を発して続けていたものの、まともな国際的対応は皆無であったと言ってよい。

私たちは、赤痢の大流行で幼い命が次々と奪われるのをアフガン国内のPMS診療所で目撃し、問題が旱魃による飲料水の不足によることを知った。

問題は赤痢以前であった。

飢饉で栄養失調になった上、半砂漠化して飲料水まで欠乏すれば、コレラ・赤痢などの腸管感染症で容易に落命するのである。

旱魃地帯では農民たちが続々と村を捨て、流民化していた。

医師たる私がいうべきことでなかろうが、

「病気は後で治せる。ともかく生きのびておれ!」

という状態であった。

何はさておき、飲み水を確保して住民の生存を保障することが急務であった。


われわれは数字に麻痺している。

「百万人が餓死」

などと、報告書では簡単に言えるが、実際の修羅場を目前にすれば、生やさしいものではない。

それに診療地域が無人化すれば、医療も何もなかろう。

ペシャワール会=PMS全体の撤退に発展する可能性も出てきた。

私たちとしては現地活動の死命を制する事態と見て、過去最大の活動を旱魃対策においたのである。


2001年8月末現在、作業地600ヶ所、うち512ヶ所の水源が利用可能、約二十万人以上の難民化を防止するという一大事業となった。

所によっては、戦乱と渇水で一旦無人化した地域を再び緑化し、一万数千名を帰村させるという奇跡さえ現出したのである。

作業地はなおも拡大している。

2001年3月からは、国連制裁と対決するタリバンを恐れ諸外国の団体が次々撤退し始めた。

私たちは情報の密室の中で行われた「国連制裁」に意を唱え、避難民が集中する首都カブールに、二月から五つの診療所を新たに開いた。

この間、職員の殉職者二名、負傷者五名、半ば孤立無縁の絶望的な戦いを続けている。


だが、現在進行するアフガニスタンの事態は、やがて自分たちにもふりかかる厄災の前哨戦である。

今、知られざるアフガニスタンの現実と人々の動きを伝えることは、無駄ではなかろう。

国際政治や環境・経済問題にとどまらず、大きくは人間と自然のかかわりから人類の文明に至るまで、様々な意味で、示唆を与えるものが含まれているからである。


仏跡破壊のあった地でも医療所を


開設するため奔走している際に、


タリバン兵士から拘束され、


日本人と説明すると釈放されたという


記録もされている。


医師として診療所開設だけでなく、


井戸も、緑化も、継続した支援をしていく姿が


頭が下がるという言葉だけでは全く足りない。


それ以上に日本人である自分に


響いた言葉を引かせていただきます。


第十章 憂鬱の日本 


平和日本の憂鬱 から抜粋


2001年3月28日、一応の見通しをつけた私は、日本での懸案を片付けるために一旦帰国した。

旱魃の危機を訴え、現地救援の財政を安定させることが主な目的であったが、この一年間というもの殆ど勤務先を空け、まっとうな奉公なしに食わせてもらってきたという後ろめたさが、重い精神的負担となっていた。

なんとか後願の憂いを断ちたかったのである。

だが、私を待っていた報道関係者の関心は、一部を除くと殆どがバーミヤンの仏跡破壊問題に集中していた。

たまにタリバン政権を揺さぶっているという政治的動きが伝えられただけである。

まるで抜き身のままいきなり帰ってきた自分が、背景から浮き立つ時代錯誤の人間のようであったが。

別に意味で日本社会も甘くはなかったのである。

日本全体が一種の閉塞感に悩んでいた。

しかし、私が帰国して感じたのは、あふれるモノに囲まれながら、いつも何かに追いまくられ、生産と消費を強要されるあわただしい世界であった。

確かに澱んだような閉塞感で往時の活気はなかったが、私には不平や不満の理由がよく解らなかったのである。

「飢えや渇きもなく、十分に食えて、家族が共に居れる。それだけでも幸せだと思えないのか」

というのが実感であった。

生死の狭間から突然日本社会に身をさらす者は、名状しがたい抵抗と違和感を抱くだろう。

美しい街路には商品があふれ、デフレであっても決して生活が逼迫しているとは見えない。

餓えた失業者の群れが溢れている訳でもない。

携帯電話を下げた若者、パソコンの大流行、奇抜なファッションで身を飾る一群の世代の姿は、異様であった。

「この国の人々は何が不満で、不幸な顔をしているのだろう」

と思った。

しかし、そんなことを述べたら、偏屈者として嫌われるだけだ。

私も年をとったのか、無用な論議に口を挟むのが億劫になっていた。

あの飢餓・旱魃・戦火について、いかに説明を尽くしてもわかるまい。

仏跡破壊やタリバンについてもそうであった。

沈黙にしかざるはない。

まるでガラス越しに見るように日本人の生活のさまを見ていた。


平和こそ日本の国是 から抜粋

折りから政権の交代劇で、森内閣から小泉内閣が誕生した。

支持率85%、驚異的だと報道されたが、ガラス越しの私は素直になれなかった。

国民の不満のカタルシスとして登場したのだろうが、「日本国民の不満」とは何であったのか。

平和憲法の改正が俎上に上がるに及んで、その軽率に複雑な思いがした。

確かに平和は座して得られる消極的なものではない。

しかし、戦後、米国の武力で支えられた「非戦争状態」が、本当に「平和」であったとはいえないのだ。

朝鮮戦争を想起せずとも、日本経済は他国の戦争で成長し、我々を成金に押し上げた。

日本開闢以来、今ほど日本人が物質的豊かさを享受した時代があっただろうか。


日本国憲法は世界に冠たるものである。

それはもう昔ほど精彩を放っていないかも知れぬ。

だが国民が真剣にこれを遵守しようとしたことがあったろうか。

それは何やら、バーミヤンの仏像と二重写しに見えた。


仏像破壊についても言いたいことがあった。

「偶像崇拝」で世界が堕落しているのは事実なのだ。

「偶像」とは人間が拝跪(はいき)すべきでないものの意である。

アフガニスタンの旱魃が地球温暖化現象の一つであれば、まさに人間の欲望の総和が、「経済成長」の名の下で膨大な生産体制を生み出した結末であった。

さらに、打ち続く内乱は、世界戦略という大国の思惑と人間の支配欲によるものである。

そして、世界秩序もまた、国際分業化した貴族国家のきらびやかな生活を守る秩序以外のものではなかろう。

かくて、富と武器への拝跪・信仰こそが「偶像破壊」であり、世界を破壊してきたと言えるのである。

この意味において、タリバンの行動ーー偶像破壊を非難する資格が日本にあると思えなかった。

平和憲法は世界の範たる理想である。

これを敢えて壊(こぼ)つはタリバンに百倍する蛮行に他ならない。

だが、これを単なる遺跡として守るだけであってもならぬ。

それは日本国民を鼓舞する道義的力の源泉でなくてはならない。

それが憲法というものであり、国家の礎である。

祖先と先輩たちが、血と汗を流し、幾多の試行錯誤を経て獲得した成果を、

「古くさい非現実的な精神主義」

と嘲笑し、日本の魂を売り渡してはならない。

戦争以上の努力を傾けて平和を守れ、と言いたかったのである。


仏跡破壊を批判することは簡単だ。


そうしなければならない裏を読んでほしい。


と自分には聞こえる。


小泉政権が、軍事連携を米国と始めた頃


最終的に戦争加担に舵を切ろうとした時期。


小泉さんは忖度政治の一部を破壊した事は


高く評価されるべきと思うけれども。


忖度政治こそ、日本古来の文化じゃい


というのはもはや、伝統的ともいえず


古い価値観としか言わざるを得ない。


中村さんに話を戻し


過酷なアフガンで従事されていたからこそ


日本人には見えないものが見えていた。


地球温暖化の視点から経済成長への疑問、


さらに平和憲法の重要性を説かれておられる。


今読むと中村医師の遺言のようにも響く。


命、そして水が確保されることが最優先と


痛烈な日本・西欧への批判・提言。


西欧の没落 から抜粋


「人権侵害」を掲げる欧米諸国のタリバン非難は、日本国民の中にも多くの賛同者を得ていた。

しかし、その多くは、ブルカ(女性のかぶりもの)を性差別だと排撃したり、伝統的な習慣法を野蛮だと避難するものであった。

先に述べたように、米国による女性救済策、「アフガン人女性の亡命を助ける計画」は、ごく一握りの西欧化した上流階級の女性だけに恩恵が与えられた。

これは、グローバルな「国際的階級分化」である。

途上国の富裕層が西欧化し、先進国国民と隔たりがなくなったとき、彼らはいとも簡単に祖国を捨てて逃げ出すことができる。

そして彼らの声のみが、徒(いたずら)に大きく、世界に説得力を以って伝えられたのである。

外電によるとパリでは、「反タリバン・キャンペーン」がヒステリックな様相を帯び、市中の女性の銅像にブルカを被せるなど、挑発的なものであった。

だが私に言わせれば、汗して働き、社会を底辺から支える殆どの農村女性の権利は考慮されなかったのだ。

露骨には言わぬが、「意識の低いやつらは措いておけ」ということなのだろう。

逃げ場もなく、あの旱魃の最中で、水運びに明け暮れ、死にかけた我が子を抱きしめて修羅場をさまよう女たちの声は届くべくもなかった。

いや、女だけではない。

一般民衆の声は総て届かなかった。

第一、外国人と触れる機会がないのである。

世界のジャーナリズムが聞いたのは、ごく一部の、西欧化してアフガン人とは呼べない人々の声であった。

極めつけは、或るNGOで働く西欧人が、

「そんなに飲料水がないなら、コカコーラかワインでも飲んだらどうか」

と述べたことである。


この無知は責めを負わなくてはならぬ。

フランス革命時代。王妃マリー・アントワネットが、飢えて蜂起した人民に対し、

「パンがないなら、お菓子を食べればよいのに」

と言ったのに同様である。


これに対し、他ならぬパリの西欧人権主義の先駆者たちはなんと述べたか。


「自由と財産の権利は大切である。だが、人権のうち第一のものは生存する権利である。

自由と財産は人間生存に必要である。殺人的な貧欲と、責任なき放埒に濫用されるべきではない」

(ロベス・ピエール)


そして、これが「自由・平等・博愛」を掲げる西欧的な人権思想の核であり、この西欧の良心こそが、その帝国主義的な圧制や搾取にもかかわらず、全世界の被抑圧者に希望を与え、真に西欧文明を偉大ならしめたのである。

西欧民主主義の源流はまた、決して徒らな人間中心ではなく、反自然的な富の増大が人間の変質をもたらすと予言して、警鐘を鳴らし続けていた。

フランス革命がその忠実な使徒であろうとした思想、民主主義と人権の提唱者たちは、「自然に帰れ」と叫んだのである。

ここに東洋思想と大きな隔たりはない。

おそらく、西欧キリスト教世界における文明への反省の基礎は、十字架に臨んだ基督が

「この苦き杯を去らせたまえ。しかし、我が思いではなく汝(天)の望む如く」

と祈った、人としての謙虚さの自覚に由来する。

それは実現の困難なものであろうとも、この基礎に立つ人権思想が理想として掲げられる限り、人々の普遍的精神に訴え、これを鼓舞してきたのである。

同時に、自然を忘れた技術文明の傲慢、人為と欲望の逸脱を戒めるものであった。

そして皮肉にも、この逸脱こそ西欧近代の誇張を支えるものであった。


しかし今、進行する事態を見るとき、西欧世界の「人権」は、女性の胸をはだける権利とか、ブルカを着用せぬ自由だとか、ちっぽけなプライバシーだとか、矮小でみみっちいものとなり、少しも感動を誘わない。

世界戦略の小手先の小道具に変質し、その出発点から外れてきているように思われる。

それはまさに、西欧の自己否定である。

真に西欧文明を偉大ならしめた精神自体が、既に内部で腐食したのである。

有名な『西欧の没落』が書かれたのは1世紀前であったが、今やそれは決定的に、誰の目にも明らかになりつつあると言って過言ではない。

過去の「アフガニスタン」の出来事を見るとき、私は自信をもって、そう述べよう。

西欧近代を押し上げてきた活力は、その膨張の要因自身によって幕を閉じようとしている。


日本がとるべき道は、百年の大計に立って、「国際貴族との没落の共有」を断固として退けることである。

そのためには決して目先の景気回復や国際的発言力などに惑わされてはならない。

日本には独自の道がある。

それによって、西欧の良心をも継承し、弛緩した国民のモラルを回復することができよう。

平和は戦争以上に忍耐と努力が要るであろう。

混乱と苦痛のない改革はあり得ない。

しかし、それが国家民族の防衛であり、世界の中で課せられた使命であり、戦争で逝った幾百万、幾千万の犠牲の鎮魂である。


周知の通り、201912月アフガニスタンで


武装勢力に銃撃暗殺されてしまった。


享年73歳。


犯人はしばらく見つからず、現行政府が


調査にはあまり乗り気じゃないと


ニュースで見たけれど、212月の報道だと


誘拐するつもりが、と


 


中村先生は養老先生と昔対談されていて


その時に話されていたかは不明だけど


養老先生の書籍にも引かれていたのが


中村先生はいつかアフガニスタンで


命を落とすだろうと思っていた、と言われる。


仲間も殉職されてるし、タリバンに拘束も


経験しているしで、急死に一生を得る体験が


幾つもおありだったのだろう。


この本はそんな危険を乗り越えてでも


アフガンの人たちへと共に歩むという


思いや覚悟などを窺い知ることができるし


大変立派な人格であることもわかった。


それでも、なお、何でそこまで…


というのを禁じ得ないものは、残った。


そうまでしてやり遂げたいという使命感


なのだろうけれど。


しかしもし自分も中村さんのような立場で


幼い子供たちが亡くなっていくのを


目の前で見たとしたら


日本人の誇りを強く感じているとしたら


世界が悪くなっていくのを


黙っていられないとしたら


なぞ、考えないわけにはいかない書籍だった。


近代西欧化され、平和憲法に守られてきた


我が身であることを複雑な感情をもちつつ


拝読させていただいた次第です。


日本は、


アフガニスタンは、


世界は、


本当に惜しい人を亡くした。


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空飛ぶ円盤:C.G. ユング著・松代洋一(1993年)他一冊 [’23年以前の”新旧の価値観”]


空飛ぶ円盤 (ちくま学芸文庫)

空飛ぶ円盤 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/05/01
  • メディア: 文庫

初出はよくわからないけど

ユングさん最後の書ってことなので


1960年ごろなのかあと。


はじめに から抜粋


同時代の出来事について、その意味するところを正確に見きわめるのはむずかしい。

判断が主観的なものを一歩も出ない恐れが多分にある。

だから私がいま、現代のある出来事について、いかにもそれが重要に思えるからといって、辛抱づよく聞いて下さる人たちに私見を述べようとする大胆さは、十分承知している。

出来事というのは、世界の隅々から寄せられるあの円い物体にまつわる噂である。

それは対流圏も成層圏も駆け抜けて、

「ソーサー、皿、スクープ、ディスク、UFO (未確認飛行物体)」

などと、呼ばれている。

そのような物体の噂ないしは実在は、いまも言うように私にはきわめて重大なことと思われてならない。


軽率のそしりを受けぬよう、隠さずにいっておくが、こうした考え方は、およそ尋常でないばかりか、あの占星家や世界革命家の脳裡に去来する雲か幻のたぐいに危険なくらい近づいているのである。

私は、これまで営々としてきずいてきた自分の真率さや信用や科学的判断力に対する世の評判を賭してまで、あえて危険をおかそうというのである。

読者に請け合ってもよろしいが、けっして気軽な気持ちでできることではない。

率直に申し上げて、この度の出来事に用意のないままに驚愕し、わけも分からずに疑惑にとらわれている人たちの上が、私には思いやられるのである。

予想される変化が、いかなる心理的効果をもたらすかを見定めて、それを表現しようとした人は、菅見のかぎりではまだない。

ここで力の及ぶかぎりのことをするのが、私の義務だと思うゆえんである。

このありがたくない課題を果たすにあたって、私ののみが、刻むべき石の硬さに突きはずれたりしないよう願っている。


なんだかよく分からないのだけど、


でもものすごい覚悟で書きます的なのはわかる。


60年代でも、トンデモ話になりかねないってことかな。


UFOを心理学者が取り上げるってことは


内容の是非に関わらず。


噂としてのUFO から抜粋


UFOについて伝えられる事柄は、およそ信じたいばかりでなく、物理学の一般的な前提に真向から挑戦するようなものであるから、人がこれに拒否的な反応を示し、その存在を否定しようとするのももっともなことといえる。

そんなものは幻覚か空想か、デマにすぎない(パイロットにせよ管制官にせよ)そんな報告をする人間は頭がおかしいのではないかーー。

都合の悪いことに、話はアメリカという”前代未聞”やサイエンス・フィクションが大好きな国から始まった。


このごく当然な反応に従って、われわれもまず、UFOについての報告を単なる噂と仮定して、この噂という心理的な産物から分析的な方法で立証できるかぎりの結論を引き出してみよう。

こうした懐疑的な立場から見ると、UFOはまず、世界中で広く語られる説話の一種と見なすことが出来るが、これが世間一般の風評と異なる点は、それが幻視として現れること、あるいは幻視によっておそらくは生み出され、支えられているということである。

私はこの比較的稀な変種を幻視の噂と呼ぶことにするが、これは集団幻視ときわめて近い関係にある。


普通の噂が広まり、尾鰭をつけていくには、どこにでもある好奇心とセンセーショナリズムがあればたりるが、幻視の噂の場合には、つねに異常な情動が前提になければならない。

幻視や錯覚にまで高まるのはそれだけ強い興奮状態があるからで、その源もひときわ深いのである。

UFOの発端になったのは、第二次大戦の終わり頃、スウェーデン上空に見られた不思議な飛行物体で、これはソ連の発明にかかるものとみなされていた。

次いで、連合軍の爆撃機に伴ってドイツを襲ったとされる「フー・ファイター」、つまり光の戦闘機に関する報道である。

そしてその後に、アメリカにおける「空飛ぶ円盤」の目撃というスリリングな事件が起こった。

UFOの地上基地を発見したり、その物理的な特性を説明したりすることができないため、やがて地球の外から来たものだと想像されるようになる。


第二次大戦勃発の直前、ニュージャージーに起こった大パニックの心理はこの創造に関連している。

火星人のニューヨーク襲来をテーマにしたH・G・ウェルズの小説をラジオドラマとして放送したところ、現実に「大恐慌」が起こり、無数の自動車事故が続出した。

明らかに、目睫(もくしょう)の 間(かん)に迫った戦争に対する潜在的な情緒不安定が、この放送劇によって爆発したのである。


噂の伝えるところでは、UFOは通常レンズ状か長楕円ないしは葉巻型で、さまざまな色の光を放ったり金属的に輝いたりしている。

その運動は、静止状態から時速一万5千キロの高速に及び、その加速は時に、人間でも乗っていようものならたちまち死んでしまうくらいの急激である。

航跡は稲妻状で、重量のある物体にはとても考えられない。


つまり昆虫の飛翔の航跡さながらに、UFOは興味を惹く対象の上空に突然止まったり、もっと長時間静止していたり、あるいは好奇心に駆られたようにその上を旋回したりしたあげく、突如また矢のように飛び去って、新しい対象を求めてジグザグに飛び回るのである。

したがって、UFOが流星や気温の反転によって生ずる蜃気楼と混合されることはあり得ない。

空港や核分裂に関係ある工業施設に関心を示しているといわれるが、南極やサハラ砂漠やヒマラヤにも現れるのだから、それも確かとはいえない。

好んでアメリカに飛来するかのようだが、最近の報道ではヨーロッパや極東にも頻繁にやってきている。

彼らがいったい何を探し、あるいは偵察しようとしているのかは誰にもわからない。


UFOが着陸するのを見たと称する目撃者の物語もいくつかある。

この宇宙からの客は、もちろん英語を話すのだが、人類の幸福を気づかう機械的な天使とでもいった美化された姿であったり、ありあまる知能を収める大頭をもった小人であったり、あるいはキツネザルのように毛むくじゃらで、ケヅメと甲羅を持った昆虫みたいな小怪物であったりする。

はては、アダムスキー氏のように、UFOに乗って短時間で月を一周してきたと称する「目撃者」まで出てきた。

彼は、月の裏側には大気と水と森林や住居があるという、驚くべき報告をもたらしている。

そのくせ地球には荒寥たる半面を向けているという月のとんでもない気まぐれには、一向頓着する様子もない。

おまけに、エドガー・ジーヴァース氏のような善意の教養人までが、この物理的な非常識をうのみにする始末である。


現代という機械文明と合理主義の時代になってはじめて、それは全世界的な集団的な噂となった。

キリスト暦(西暦)最初の一千年紀の終わりに広く流布した、世界の終末という大きな幻想は、純粋に形而上学的な根拠によるものだったから、合理性を装うために、UFOを必要とすることはなかった。

「天の裁き」が、当時の世界観に見合ったのである。

しかし現代の世論は、形而上学的な裁定という仮設を求めたりはしそうもない。

それならいまごろは、諸方で神父たちが天上に現れた前兆について説教をしていることだろう。

われわれの世界観はその種のことを期待していない。

われわれはむしろ、心理的な障害はあるのではないかと考えるだろう。

ことに先の大戦以来、われわれの精神状態はいささかあやしくなっているからでもあって、それを思えば、事態はいよいよ不確実さを増してくる。


この現象を心理的性格の問題に向かうことにしよう。


噂の中心をなす証言を検討してみたい。

それはこうである。

大気圏に昼間あるいは夜間、従来の流星現象とはまったく違う物体がみられる。

流星でもなく、恒星の見誤りでもない。

蜃気楼でも、雲の一変形でもない。

渡り鳥や気球や球電とも違う。

ましてや酩酊や熱に浮かされての妄想でもなく、証人のうそでもない。

原則として、それは一見燃えているか多彩な火のような光を放つ物体で、円型か皿状または球状、まれには葉巻型、つまり円筒状であり、大きさはまちまちである。

ときに人間の眼に見えないことがあるが、そのかわりレーダー上に点となって現れる。

この円型というのが、まさに無意識が好んで夢や幻視などに現出させる形態なのである。

この場合のそれは、ひとつの思想を眼に見える形で現したシンボルと見なして良い。

その思想はまだ意識的に考えられているわけではなく、潜在的に、つまり見えない形で無意識の中にあって、意識化の過程を経てはじめて眼に見えるものになるのである。


この見える形はしかし、無意識の意味内容をただ近似的に表現したものに過ぎないから、実地にその意味内容を「完全に」把握するためには、補足的な解釈を加える必要がある。


その際、どうしても誤謬が生じやすいが、それは「結果が教える(eventus docet)」の原則に従って、つまり異なる人間の見た一連の夢をつき合わせて、そこに共通する文脈を読み取ることによって正さなければならない。

噂に現れる形にも、この夢解釈の原理が適応できる。


目撃された円い物体(円盤状であれ球状であれ)にこの原理を応用してみると、深層心理学に通じた人にはすでに馴染みの、全体性のシンボル「曼荼羅」(サンスクリット語で円環の意)ときわめて似通っていることがすぐにわかる。


それは垣をめぐらし、「囲いこむ」魔除けの環であったり、石器時代のいわゆる「太陽の輪」であったりもする。

あるいは、呪術の円、あるいは錬金術でいう小宇宙(ミクロコスモス)、あるいは魂の全体を包み、秩序づける近代的なシンボルとして現れる。


無意識、集団的幻視、ユング節炸裂でございます。


当たり前か、本人なんだから。


アダムスキーさんも一刀両断。


「曼荼羅」に到達するのは予想外だったような。


知人からインドのお土産で玄関にはる


曼荼羅が印刷された布をいただいた事あるけど。


この後、夢、絵画、歴史の中に見られる


UFOの考察とつづきエピローグに


なるのだけど、ここでなんか


人格が変わってしまうってのは


周知の事実なのか。


自分だけの幻想の中の理解なのか。


エピローグ から抜粋


本稿をほとんど書き上げたところで、一冊の小さな本が私の手に入った。

オルフェオ・M・アンジェルッチの『円盤の秘密』で、これについてはどうしても触れておきたい。


テレパシーでアンジェルッチは啓示を受ける。


「径は開かれるであろう、オルフェオよ」


「われわれは地上の住人をひとりひとり見ているのだ。

人間の狭い見方で見ているのではない。

おまえの星の住人は、何世紀も前から観察下におかれている。

だがいま改めて再調査されているのだ。

おまえたちの世の中のあらゆる進歩を、われわれは記録している。

われわれはおまえたちが自身を知るよりもよく、おまえたちを知っている。

どんな個人も、男も女も子どもも、われわれのクリスタル盤記録装置によって、生命統計に記録されている。

われわれにとってはおまえたちひとりひとりが、おまえたち自身にとってよりも重要なのだ。

なぜならおまえたちは、自分の存在の真の秘密を意識していないからだ……われわれはかつての地球との友星関係のために、地球の住民に同胞のような感情を抱いている。

おまえたちのうちに、われわれの古き時代をさかのぼってみることができ、われわれの旧世界のある様相を再構成してみることができる。

理解と共感をもって、成長の苦しい道を歩むおまえたちの世界をわれわれは見ているのだ。

どうか、ただ兄のようにわれわれを思ってほしい」


思いっきり、横尾忠則さんの世界だし


アダムスキーさんも同じようなことを


仰っているじゃないですか。


なぜ、書き始めとエピローグでこんなに


人格が変わってしまうような


言説になったのかはよくわからんです。


訳者あとがきにあったのは、この書籍は


80歳超えて畢生の大仕事の後に


軽いタッチで書かれたものであること、


受け取り側もあまり本気にする人が


いない想定だったのかなあ。


だからって「オルフェオよ」からの


メッセージの本を最後に持ってくるなぞ


あまりにも跳んでる言説だろう。


横尾さんを多く読んでる私でさえも異和を感じた。


だからこそ、という説もあるが。


訳者あとがき<誤解の中のユング>


現代の地球物理学が、古磁気気学や海洋低地学の成果を結集して、驚くべきスピードでウェーゲナーの大陸移動説を証明してしまったように、心の内部についても、学問の分野を超えたところで解明の機運が高まってきているように感じられる。

そしてプレート・テクトニクスの理論さえ常識となった今日から振り返れば、ほんの数十年前、われわれは地球についていったい何を知っていたというのだろう。


そうしてみれば、われわれは真のユング理解は、フォン・フランツの言うようにまだ三十年を俟たねばならないのであろうか。

いや、地球物理学による「世界の変動帯」の発見が、大きな地殻の変動期にちょうど間に合ったように、そしてレイチェル・カーソンの警告に始まる生態学の成果が、地球規模の環境問題に辛うじて間に合ったように、われわれのユング理解も、ある未知の何事かに間に合わせねばならない。


深い、人類への警告。


ユングというビッグネーム最後の


大仕事っって捉えるべきだとすると


UFOの存在とか、そういうのは、


まあ、いいか。


いや、そこは看過できないのだよなあ自分として。


以下は余談なのだけど


内田樹先生からの書籍を引かせてくださいませ。


人生相談本です。雑誌「QR JAPAN」での


連載を纏めたもののよう。


内田樹の生存戦略(2016年)


2013.December

■相談

UFOはほんとうにいるのでしょうか?


に対して、


人間の知性や想像力の及びもつかない領域はある。から抜粋


■返信

います。僕、見たから。


東京・尾山台上空に浮かんでいました。


そのうち動き出した。

僕のすぐ上空にいたのが、いきなり尾山台駅上空に移動した。

不思議な移動の仕方でした。

加速度運動じゃないから。

いきなり「ぴゅん」と移動して、また「ぴゅん」と戻ってきた。

ああ、これは僕が知っている地上のいかなる物体とも違う原理で作動しているなということはわかりました。


僕はなんだか怖くなってきました

(なんとなくUFOの乗員と意思疎通ができそうな気がしたのです。

というのは

「じっとしていちゃUFOかどうかわからないから、飛んで見せてくれないかな」

と心で思ったと同時に、そのぴかぴか物体は尾山台駅の方に飛んでいって、すぐに

「ほら、飛んだでしょ」

という感じでまた最初の場所に戻ってきたからです……)。

UFOに

「お、こいつとは意思疎通ができそうだ」

と思われて、拉致されたりしたらたまらないじゃないですか。

(これから合気道の稽古だってあるし)。


これはねえ、自分も似たようなことに


遭遇し、感じたのです。


80年代後半のある日、静岡県にて、


祖父母の家があったのだけど、


正月休みに帰省した時、


寒い夜空のもと山を見ながら歯磨きしてて


その頃すでに横尾忠則さんを読んでたから


「UFO、愛、UFO」と念じてたのですが、


するとしばらくして一瞬「ひゅん」と


何かが一直線に流れた。確か二つくらい。


で、あれ?流れ星か?と思ったのだけど


「もう一度」と念じたら2−3分後だったか


「ひゅんひゅんひゅん」とZ型の航空軌跡で


何かが光りながら流れた。時間にして0.5秒位。


その時あれは地球のものではないという事と


我々のような感情は通じないのかもしれない


と思い、怖くなったことを思い出した。


もう少し丁寧に記したい気もするのだけど


今日は夜勤でそろそろ準備しないとならず


こちらにて失礼します。


 


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「移行期的混乱」以後 :平川克美著(2017年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「移行期的混乱」以後

「移行期的混乱」以後

  • 作者: 平川克美
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版

「移行期的混乱」以後 ──家族の崩壊と再生」が


正式書名。短くタイトルにさせていただいとります。


解説はまた内田先生でお得です。


表紙の袖部分から抜粋


「経済成長神話」の終焉を宣言し、大反響を読んだ『移行期的混乱』から7年後の続編にして、グローバリズム至上主義、経済成長必須論に対する射程の長い反証。

解説・内田樹


第一章 人口減少の意味を探る


恣意的な記憶 から抜粋


最近つくづく思うことがある。

歴史であれ、現在起きている事柄であれ、人は誰でも、自分が見たいことだけを選択的に見ており、覚えていたいことだけを選択的に覚えているということだ。

それは、自分の経験に照らし合わせてみればすぐに分かる。

わたしの場合、かつて観た映画の中に、確かにあったはずのシーンが、映画を見直してみたら見当たらないということが何度かあった。


記憶とは過去の残像であると同時に、過去の再生であり、過去の再生には現在が必要なのだ。

そして、過去の出来事の断片を拾い集めて、自分の物語を作るとき、誰もが、自分の欲望のバイアスのかかった物語を作ってしまうのだ。

それが、「自分の固有の物語」であるということは、同じ一つの出来事に対して、その参加者の人数分だけの「固有の物語」が紡ぎ出されるというわけである。


この手の差異は、過去の出来事の物語的再生の時にだけ生じるとは限らない。

同じ時間、同じ場所で、同じ一つのモノを観ていたとしても、参加者の精神に映し出されたものが同じだとは限らない。

同じ一つの対象を、まったく異なった作品に仕上げる二人の画家を思い浮かべてみれば良いだろう。

かれらは、それぞれ自らの目に忠実な作品を仕上げたのである。

ゴッホも、ルノアールも、セザンヌも南フランスのサント・ヴィクトワール山を描いている。

当然ながら、それぞれは、まったく異なった絵である。

かれらは、自己の表現の違いや、手法の違いによって異なった風景を描いたのかもしれないが、見えていたものがはじめから違っていたのだともいえる。


およそ見たり、聴いたり、感じたりすることには、必ず欲望というバイアスがかかっている。

しかし、誰も自分の欲望に対しては無自覚なのである。

この見えない欲望について知ることができれば、今までは信じ込んでいたわたしたちの体験に対して、おそらくは正しい修正を加えることができる。


欲望による現実の修正を矯正するための唯一の方法は、その欲望がなんであるのかについて、一段高い見晴らしの良い高所からこれを眺めてみることだ。

登山の途中には、勾配の地面と目の前の草しか見えないが、頂上にたてば、山の形が視野に入る。

その時初めて、自分が歩いていた斜面が、どのような形状をしていたのかが理解できるというわけである。


株式会社というシステムについて考えるとき、その創成期の時代背景をもう一度確認しておく必要がある。

株式会社というアイデア、つまりは経営と資本が分離した利益共同体というシステムを最初に思いついたひとびとが現れたのは、17世紀後半のイギリスやオランダにおいてであった。


17世紀も終わろうとする頃、ロンドンのエクスチェンジアレイにあるパブには株の仲買人たち(ジョバー)が集まっては、資金調達の方法について語り合っていた。

遠隔地貿易における、安全な航海を実現するためには、天候や潮流の異変に耐えられるように船を加工し、積み荷を大量に確保し、人を雇い入れるための大きな資金が必要だった。


しかし、その資金調達システムには、詐欺的な行為がつきまとい、またバブル発生の要因ともなった。

次々に設立された株式会社には、取り込み詐欺や違法取引などのスキャンダルがつきまとったという。

はじめ93社あった株式会社は、数年後には20社しか残らなかったのである。


これは今にも当てはまるような気もします。


ちょっと極端な受け取り方だけど。


詐欺というには大仰かもしれんけど。


どんな仕事、会社にも、暗い部分があり


それはここで言われる「株式会社」の発祥から


継続され、今を生きる近代社会に暮らす


我々に関与せざるを得ない、と思ったり。


だからと言ってネガティブな感情のままでいたり


これで良いのだ、とは全くもって


思っておりませんが。


人口減少は問題なのか から抜粋


戦後75年間の経済成長段階の思考であった「成長戦略」「選択と集中」「企業利益の最大化」「効率化による生産性向上」といった観念から離れなければ、有史以来の人口減少社会がどういうものになるのかについての、正しいイメージを持つことはできないであろう。

中世のヨーロッパにも、江戸時代の日本も、「成長戦略」もなければ「企業利益の最大化」という概念もなかった。

そこにあったのは、「存続」してゆくことへの工夫であり、ひとびとにとっては生き延びてゆくことが第一義的な課題だった。

そのためには、今日と同じ日が、明日も訪れてくれることが重要なことだった。

わたしが言いたいことは、「成長」は普遍的な価値でもなければ、唯一の選択肢でもないということである。


当たり前のことだが、成長しながら成熟することはできない。

成長は子どもの特権であり、国家で言うならば発展途上段階特有の現象だということだ。

産業に関しても同じことが言える。

得意分野の効率最大化をしながら、同時に雇用の充実や公平な再配分はできない。

なぜなら効率最大化とは、人的資源の選択と集中ということであり、当然のことながら産業全体における公平な再分配とは相性が悪い。

社会保障についても同じである。

老人に対する福祉政策を充実させながら、競争原理に基づいた生産性の拡大を目論むことはできないのだ。

つまりは、ブレーキとアクセルを同時に効かすことはできない。

にもかかわらず、現在の経済政策や、福祉政策を見ていると、まるでブレーキを踏みながら同時にアクセルを全開にしているような光景が目に付く。

これもまた、経済成長への志向と、福祉充実への志向を同時に実現しようとするために起きる倒錯である。

倒錯的な政策を続ければ、社会は混乱し、分断されることになる。

向こう何十年かは、こういった移行期的な混乱が続くほかはない。


前著『移行期的混乱』において、わたしは、超長期的な人口動態において、驚くべきことが二つあると書いた。

ひとつは、もちろん急激な人口減少が今の日本に起きているという単純な事実である。

しかし、そのこと以上に重要なことは、日本は歴史が始まって以来、このようなドラスティックかつ長期的な人口減少を、一度も経験してこなかったということである。

わたしは、もし驚くべきことがあるとすれば、後者の、歴史始まって以来のことが起きているということであると書いた。

このことは、世界の先進国における長期的人口動態を観察しても、同じことが言える。

長期的な人口の推移と将来推計:内閣府HP 平成26年2月14日

つまり、人類はその進化と成長に過程で、はじめて自然人口減少の時代に直面している。


本当に女性は子どもを産まなくなったのか から抜粋

わたしたちは、外形的な出生率低下、総人口の減少という現象をとらえて、「女性が子どもを産まなくなった」と結論してしまうのだが、果たしてそれは本当なのだろうか。

驚くべきことだが、結論から述べれば、女性は子どもを産まなくなっていない。

たとえば、30~34歳の女性の出産状況を、年代別に比較してみればそのことはすぐにわかる。

左図(母の年齢別出生者数推移 5歳階級)は、母親の年齢を5歳ごとに分けて、それぞれの年齢ゾーンの母親が何人の子どもを産んでいるかを示した表である。


なんと、30~34歳という年齢ゾーンだけ見れば、出生率は上昇しているのである。

差し当たり、このことから確認できるのは、少子化という現象は、30~34歳という年齢ゾーンに入っている女性には起きていないということだ。


ところが、年齢ゾーン25歳~29歳を見ると、昭和60年(1985年)から平成22年(2010年)までの25年間で、かなり激しい少子化傾向が現れる。


つまり、少子化とは、30歳以下の若い女性において起きている現象であり、その原因は、30歳以下の女性の非婚化、言い換えるなら晩婚化が、その原因だということなのである。


しかし、なぜ結婚年齢が上昇したのか、その理由は単純でもなければ、易しくもない。


エマニュエル・ドットの慧眼(けいがん)から抜粋


(『帝国移行』エマニュエル・ドット/石崎晴己訳)

人間が、より正確に言うなら、女性が読み書きを身につけると、受胎調整が始まる。

現在の世界は人口学的移行の最終段階にあり、2030年に識字化の全般化が想定されている。


(『アラブ革命はなぜ起きたか』エマニュエル・ドット/石崎晴己訳)

息子は文字が読めるけれど父親は読めない、そういう瞬間がやって来ます。

それは権威関係の破綻を引き起こします。

しかも家族の中だけでなく、暗に社会全体のレベルでそうなるのです。

もちろん、父系で、女性の立場が男性に比べて極めて低いアラブ社会の場合には、それ(出生率)は決定的に重要です。


ドットの人口動態と社会変動との間の相関分析には、意表と突かれる。

国民国家が低開発の状態から抜け出し、開発途上を経て、安定期に至る国家成長の結果として、社会の変質が起き、それが人口減少を起こすという人口減少の「必然」が語られていたからである。


わたしはここにこそ、日本における人口減少という現象を説明するヒントが隠されていると思う。

それは、あくまでも直感に過ぎないのだが、この直感を論理的に説明するためには、日本の歴史、とりわけ、経済と、家族がどのような歴史を辿って来たのかを考証してゆく必要がある。

経済の歴史については、前著『移行期的混乱』の中で行ってきたが、家族・生活の問題に関してはまだ十分に説明しきれているとは言えなかった。

本書では、これ以降この家族と、さらに、集団的意識変化の問題を中心に考えていきたいと思う。


ドット氏には興味あって本もあるのだけど未読ですが


慧眼をお持ちなのは、これだけでもよくわかります。


たまにメディア等でお見かけいたしますが、


すごい人すね。


「価値観」の新旧交代劇というのは、


どこの世界・時代でもあるのだろうな。


我が国では大塚家具のような家族経営が


そうだったような。


もっと身近だと程度の差こそあれど


家族間においてもそうなのだろうな。


 


書籍に戻りまして、江戸時代の人口の増減から


明治から昭和、近代までの論考が続かれます。


第二章 家族の変質と人口増減


「個人思想」なき時代の個人 から抜粋


西欧型の個人主義思想からみれば、このイエの思想は前近代的な君主制の思想そのものであり、受け入れがたいものであったのは当然だろう。

君主制の打破から生まれてきた民主主義は、イエの思想とは本来的に相容れないのである。


イエの思想を、国家経営にまで拡張した天皇制国家主義は、ファシズムと同じ構造を持っていた。

第二次世界大戦とは、家父長たる独裁者による人知政治と、個人の尊厳に基礎を置く共和制民主主義政治という二つの相反するイデオロギーの正当性の争いであった。

だからこそ、戦勝側であるGHQは、ファシズムと同じ構造を持つイエ制度を、まず最初に、解体させる必要があったのだ。

そのためには、イエ制度の頂点にある天皇制を解体する必要があったはずである。

しかし、天皇制を解体すれば、日本人を統合していた、共同幻想はずたずたにされ、敗戦国日本は無秩序状態に陥る危険性もあった。

日本の無条件降伏を阻止しようとした、軍部によるクーデタ未遂事件(宮城事件)のことも、GHQの頭の中にあっただろう。

GHQは、天皇制を、明治憲法下のそれとは違う形で、日本にソフトランディングさせること、同時に、それまでに日本人にとっては夢想さえしていなかった個人主義的な価値観を導き入れることに腐心した。

日本国憲法のGHQ草案には、いくつかの相矛盾した問題に対して、現実的に適応しつついかに日本を無害化し、西欧的な価値観である民主主義を根付かせていくのかという、ニューディーラーたちの苦心が読み取れる。


憲法9条にある戦力の放棄の文言は、現在からみれば多分に理想主義的ではあったが、日本という敵に武装解除させなければならないという政治的意味合いの濃いものであったはずだ。


ただ、憲法9条が多分に政治的な文脈の中で書かれたのに対して、24条はより文化的・社会的な問題として、日本の特殊性、後進性に対してくさびを打ち込む狙いがあった。

「婚姻は両生の合意にのみ基づいて成立」するとは、単に結婚に関する条項である以上に、個人の尊重、つまりは人権という概念を日本人に教えるための条項であったからである。

もちろん、それだけでは人権意識が日本人の間に浸透するわけではなかっただろう。

ただ、この条項によって、日本人は「個人」が社会の最小の、侵すべからず単位であることを、初めて知らされた。

このことの意味は小さくない。

公の言葉として、個人の尊厳がこのように語られたことなど、それ以前の日本の歴史のなかではなかったのだ。


その後、日本に個人の尊厳が浸透するには


時間がかかったこと、


近代化して恩恵はある程度受けたこと


アメリカで結婚式を挙げる元社員の


式に同席し、新郎の親御さんの両親から窺える


アメリカ家族の崩壊を目の当たりにされたこと


(家族写真を撮る際のエピソードが何ともはや)


からの、


第6章 既得権益保守のために、孤立化へ向かう世界


ところで、わたしは「競争社会」を否定しているのではない。

重要なことは、競争社会というものが成立するのは、社会が拡大再生産を続けている限りにおいてだということである。

人口が減少し、総需要が減退し、総生産が下降するような縮小均衡における競争の敗者は、生存の危機に陥ってしまうだろうし、格差は社会の安定を維持できないほどに悲惨なものになるからだ。

社会不安の増大は、結局のところ社会秩序を破壊してしまうことになる。

こう考えても良いだろう。

競争が安定的に機能するのは、誰かがより多く獲得し、誰かたより少なく獲得できうる限りであり、共同体のフルメンバーが生存可能であるという条件が整っている限りにおいてである。

経済インフラが右肩上がりなら、そういうことは起こりうるし、生産性も上がるかもしれない。

しかし、もし、社会のリソース全体が縮小し、誰かがより多く獲得することが、もう一方の他者の生存を脅かすことになれば、これまでの競争原理そのものの変更が必要になる。

わたしたちが今見ている光景は、競争原理から次の原理へと移行するその混乱そのものなのである。

そして、次の原理とは何なのかについて、わたしたちは実際のところ何も明確なヴィジョンを持っているわけではない。

ただ、全てのシステムが、移行の途中であるということだけは、確かなことのように思えるのである。


わたしたちがいまできるのは、移行期の先にあるであろう、あいまいなヴィジョンを提示することではないのかもしれない。

さしあたり、現在進行中の移行の様相がどのようなものなのかについて曇りのない目で観察し、そこに言葉を与えていくことだろう。

そのような日常的な観察と、省察を積み重ねることで、あり得るかもしれない未来というものが少しづつその輪郭を表すことになるはずである。


あとがき から抜粋


私事になるが、5年ほど前に、早期の肺がんらしきものが見つかり、経過観察していたのだが、病巣がやや成長しているということだったので、思い切って手術することにした。


手術は4時間半かかったそうだが、全身麻酔のわたしにはもちろん、その時間の自覚がない。

気がついたら、全てが終わっており、痛みだけが残った。

医学の進歩は凄まじいもので、肺の三分の一を切除したのに、手術後5日目には退院ということになった。

ゲラを読み返して、気づいたことがある。

わたしがここに書いたことが、この国に実現されるとき、つまりは人口が5000万人ほどになった日本にわたしは、いないということである。

それは100年後の話だからである。

そのとき、この国は極東の模範的な福祉国家になっているのか。

あるいは世界の金融センターとして世界経済を牽引しているのか、あるいは世界は全く別のところに行ってしまっているのか。


手術後に、手元にもどったゲラのように、100年後の日本の、わたしの遠い知己の手元に、この原稿が届くのを想像することほどわくわくすることはない。

もちろん、そんなことは、ありえないことは承知している。

しかし、本書によって、こんなことを考えていた人間がいた痕跡だけは残ることになる。

この原稿と、これに先立って発表した『移行期的混乱』は、わたしにとっては、自身の存在証明のような重要な意味を持っていることだけは、ここに記しておきたいと思う。


解説 「第三の共同体」について


内田樹 から抜粋


本書の主題である人口問題・晩婚化「問題」は平川君の専門分野である。

エマニュエル・ドットはともかくも、鬼頭宏とか速水融になると、わたしは名前も知らない人たちである。

そういう人たちの書き物をこつこつと読んで、噛み砕いて、その学知のエッセンスを伝えてくれる平川君の努力をわたしは多とするものである、

この分野においては、彼がわたしの「メンター」である。

多くの日本人読者にとってもそれは変わらないと思う。

彼以外に「こんな話」を書く人はいない。


家族に代わる共同体が必要で、


平川さん曰く、それができるだろうかに対し


内田さんはできる、ということが若干冗舌に


お書きになられている。


しかしこの二人の関係性は、


なかなか魅力的なものがある。


価値観が大きくずれないで、小学生時代から


老いと言われる時期まで過ごす関係性って


素敵だと思うからだ。


大体そういうのって、環境が異なり疎遠になるとか


仲違いとかしてしまって、いなくなるものだから。


関係性だけが魅力なのではなく、個人として


年齢にあったステージの変えかたとでもいうか


それが揃っているのが素晴らしい。


語彙力・時間不足でうまく言えないけれど。


平川さんの書籍に戻って、「あとがき」読むと


前作と今作が最重要であると認識を示され


それは2022年の現在でも不変だろうなと思った。


そして100年後でも不変だろうなと勝手に感じた。


そのほか、気になった点として


デマゴーグの出現としてヨーロッパの動向とか


毎日新聞でエマニュエル・ドット氏が


 「日本が直面している最大の課題は人口減少と老化だ。


  意識革命をして出生率を高めないと30~40年後に


  突然災いがやってくる」


について、新聞編集者が補足・総括してる件


平川さんはそれは読者のミスリードを


誘うだろ的な解釈とか。


少子化と一言で言っても本質は見えてこないぜ


それで「異次元の少子化対策」ったって


解決できねえぜってのが聞こえてきそうだなとか。


(って書いてありませんよ、勝手に思っただけで)


余談だけど「異次元」ってのも


なんだかなあ、


ってのは個人的に言いたいだけだけど。


(今風ってことで古風な自分には


馴染めずで自分の感性がすでに


埴谷さん化してると言わざるを得ない。)


さらに余談だけど、平川さん経営の隣町珈琲で


新年会に、内田さん参加したら


養老先生もいらしたと内田さんのブログ


みなさん体調にはお気をつけて過ごしましょう!


って誰に言ってるんだよ。


あえていうなら自分にかも。


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移行期的混乱―経済成長神話の終わり:平川克美著(2013年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

  • 作者: 平川 克美
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/01/01
  • メディア: 文庫

文庫版だと、内田樹、高橋源一郎さんが

解説という平川さんからの豪華リレーで


ございます。凄いメンツだよな、これは。


それぞれ含蓄のある文章で深いとしか言いようがない。


まえがき から抜粋


ヒカカワの書くものには、明確な答えもなければ具体的な処方というものもないというご批判をいただくことがあるが、はなから答えのないものだけを選択的に取り出して論じているのだから仕方がない。

それが、わたしにとっての書くということの意味なのであり、本書においても事情は同じである。

いつも「書かれなかった最終の一行」というものが、わたしが書き続けられる動機でもあるのだ。

その最終の一行はこういうものだ。

「さあ、ではわたし(たち)はどうしたらいいんだろう」


別の書籍でも平川さんおっしゃってたけど


昨今売れている書籍って、即効性を求める


刺激的なものが多いと編集者に告げられたと。


そういう視座からすると平川さんの本は


そういうのとは異なるし


それを求めても答えはないので、


一緒に考えるしかないだろうな。


それは書籍を売るという視点からすると


今の時代にそぐわないものなのかも。


戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長の時代を経て、ひとびとの暮らしは便利になり、街の景観は一変したが、その変化を速度に合わせるように、次々と新しい問題が発生し、希望は徐々にしぼんでいき、代わって困惑が拡大しているようにも思える。

わたしたちが抱えている今日的問題、たとえば人口の減少、経済の停滞、企業倫理の崩壊、倒産や自殺の増加、格差の拡大といったことは、これまでも様々な対策が考えられてきたはずであり、わたしたちのだれも、このような問題が持ち上がることなど望んでこなかったはずである。

にもかかわらず、これらの問題は社会が発展すればするほど、解決されるどころか拡大してゆくようにさえ見える。


人間とは、まことに自分たちが意図していることとは違うことを実現してしまう動物なのだと思う。

いや、社会とは個人個人の思惑や行動の集合によって形成されるものだが、その結果はつねに個人の思惑や行動を裏切るように発展していくものなのだ。


ややこしい言い方で申し訳ない。

しかしほとんどの問題には短期的で合理的でクリスプな解決策があるが、同時にほとんどの問題にはその解決策が生み出す発想そのもののうちにすでに孕まれているということを言いたいのである。


2008年の秋にアメリカでリーマン・ブラザースが破綻し、金融危機が瞬く間に世界に広がったとき、多くの評論家や政治家が「これは百年に一度の危機である」と言っていた。

だからそれに対処するためにあらゆる金融対策を可及的すみやかに実行してゆかなければならないとも言っていた。

そしてできるだけ早期に経済を回復し、成長軌道を取り戻す必要があるとも言っていたと思う。


現在わたしたちが目にしている問題の多くは、文明の進展、技術の進歩、民主主義の発展、生活の変化というものが複合してもたらす、長い時間の堆積の結果として現れる現象と、急激に広がるグローバリゼーションの結果が、アマルガムのように溶着されて時代の表層に浮き出てきたものだろう。


第二章 「義」のために働いた日本人


青い鳥の時代 から抜粋


経済状況を見ていると、1959年から経済成長率は10パーセントを超えるような急激な成長を見せる。

池田勇人の内閣が誕生するのが、60年であり、そのキャッチフレーズこそが所得倍増であった。

国民的関心が、アンポから所得倍増へ切り替わったのがこの時期であり、政治的、イデオロギー的な価値観が、旺盛な経済が作る消費的な価値観にとって代わられた。


先に引用した、日本の高度経済成長を企図したひとびとの運命を描いた沢木耕太郎の『危機の宰相(2008年)』の中で、沢木は、高度経済成長がやがて終わること、そのときにはまったく異なった社会が訪れるだろうということを、同書の主人公のひとりであり、高度経済成長の理論的支柱であった池田内閣の参謀である下村治に言わせている。


「日本経済は高度成長からゼロ成長に押し出されてしまったのです。

それに適応しなくてはならなくなってしまった。

しかし、ゼロ成長だからといって悲観ばかりしている必要はありません。

経済がゼロ成長に適応してしまえば、不況も何もない静かな状態が生まれてくることになる。

ところが、いまは高度成長に身構えていたものをゼロ成長に対応できるように変えなければならない。

そこに混乱が起こる原因があるんです。

ゼロ成長を生きるためには、これまで高度成長に備えていたものを切り捨てなくてはなりません。

たとえば膨大にある設備投資関連の産業は整理されていくことになるでしょう。

しかし、その代わりに、これまで設備投資に向けられていた資源と能力が解放されることになります。

今後は、それを生かして、生活水準の充実や環境条件の設備に使うことができるようになります。

もちろん、そこに至るまでには過渡期的なプロセスがあるはずですから、それが苦しみとなって続くということになるのでしょうか……」


第3章 消費時代の幕開け


週休二日制という革命 から抜粋


高度経済成長期以前の日本人にとって余暇とは何かということは、まさに盆と正月というハレの日に、親戚一同が集まって酒を酌み交わすといった儀礼の中以外に、うまく想像することのできないものであり、日々の糧を稼ぎ出すことの対極にあるのは「なまけ」であり、「あそび」でしかなかったのである。

その日本人の労働意識、余暇に対する意識が決定的に転換したのが1980年代であった。

週休二日制の導入はその象徴的な出来事である。


この「労働日」の変化について、当時の知識人のなかで、もっとも鋭敏な認識を示したのが、吉本隆明であった。

1985年に埴谷雄高との間で交わされた「コム・デ・ギャルソン論争」のなかに、当時の吉本の面目躍如たる思想性を見ることができる。


埴谷雄高にとっては、この消費の時代が前面に押し出した風景は、かれじしんが単独で切り開いてきた思想と乖離を広げるだけのものでしかなかったともいえるだろう。

しかし、インターネットにせよ、携帯電話にせよ、あるいはコンビニエンスストアにせよ、時代を変化させるものたちは、必ず軽佻浮薄(けいちょうふはく)な意匠を伴って登場する。

吉本隆明が批判したのは、埴谷がおのれの美意識が必然化した「遁世観(とんせいかん)」を、思想めかして、当時の風俗の光景を独占資本による収奪であると語ったその、思想の立ち位置であった。

もし、埴谷が

「俺はちゃらちゃらした風俗には馴染めない。そんなものは俺は嫌いなんだ」

といえば、この論争は起こらなかっただろう。

しかし、埴谷はこれを美意識の問題ではなく、政治的=党派的=倫理的な問題として断裁しようとした。

このような問題の無意識的なすり替えを吉本は「擬似倫理」と言って罵倒したのだ。


当時の日本人のほとんど誰もが、この週休二日制をただの時代の流れの中で一つの現象としてとらえ、ほとんどそのことの意味に注意を払うことがなかった。

あるいは、単に生活の余裕の拡大、人間性の回復、消費文化の拡大といった旧来の思考の延長でこの週休二日制をとらえていた。

しかし、吉本隆明は、おそらくは『資本論』第一巻、第五編「絶対的余剰価値と相対的余剰価値の生産」のなかでの、マルクスの労働日に関する徹底した考察を背景にして、この週休二日制こそは「革命」的な転轍点になるという炯眼(けいがん)を持ちえたのである。


自分が働き出した頃だから、30年余前。


休みは「日曜日」だけ、


「土曜日」が休みになったのは2〜3年後。


確かに「時代の流れ」としか思ってなかった。


バブル終焉期とはいえ、豊かになった証で


時代は変わった程度の認識しかなかった。


とはいえ、小さなデザイン会社ゆえ


毎日徹夜の連続だったけれども。


あれはほんとに”平成”だったのだろうか


と今にして思ったり。


余談だけど、平川さんの分析として


「コム・デ・ギャルソン論争」、


思想にせずにぶっちゃければ論争なぞ


ならなかっただろうという件。


埴谷さん的には「こんなん嫌だ」とは


言えなかったのだろうな、大思想家だもの。


でも面白くて腑に落ちてしまいました。


大概の喧嘩ってこういう見栄とか


自尊心のキープっぷりからくる


ボタンのかけ違いななのだろうな。


第5章 移行期的混乱 経済合理性の及ばない時代へ


経済成長という病 から抜粋


経団連をはじめとする財界が「政府に成長戦略がないのが問題」といい、自民党が「民主党には成長戦略がない」といい、民主党が「わが党の成長戦略」というように口を揃えるが、成長戦略がないことが日本の喫緊の課題かどうかを吟味する発言はない。

「日本には成長戦略がないのが問題」ということに対して、私はこう言いたいと思う。

問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだと。


むすびにかえて から抜粋


本書の執筆中、わたしは母親を亡くした。享年82であった。


以後、わたしは85歳の老いた父親と二人暮らしをすることにした。

これまで、会社の仕事にかまけて日常は妻にまかせっぱなしだったわたしの生活が、これを境に一変した。

会社を終えると、実家の近所のスーパーで食材を買い込み、夕食の支度をし、父親と差し向かいで夕食を食べる。

時間を見つけて洗濯、アイロンかけ、風呂の掃除などをする、主婦がやっていることを、すべて自分がやらなくてはならなくなったのである。


85歳の老人と還暦の男の生活にとって、しなくてはならないことといえば、何はともあれ食うことである。

それ以外に生産的なことは何もない。

それでも、毎日毎日よくこれほどゴミがでるなと思うほど、多くのゴミを排出しながら生活している。

人間の生活にとって根本的なことは、食って、寝て、排出して、また食って、寝てという繰り返しである。

こんなことに意味があるのかなどとは思わない。

それが生きるということであり、もしこの生活が続いていくのなら、それはある意味でわたしが待ち望んでいたことでもある。

この繰り返しには、ゴールというものがない。

この繰り返しには、進歩という観念もまたないのである。


介護の日々は「俺に似た人」という


作品に昇華されておられますけど


それは読んでて辛かった。


あまりにもリアルすぎて。


平川さんの詩的な捉え方を感じられる


貴重なドキュメンタリーだというのは


分かったのだけど。


解説 僕たちの「移行」と「混乱」について


内田樹 から抜粋


何年かビジネスをしてきて、平川君も僕もそのことを理解した。

その教訓は深く身に染みている。

それからあと、二人はそれぞれに違う仕事をしてきたが、

「ものをぐるぐる回すために必要なものは何か?」

という問いから関心が離れたことはたぶん一度もない。

平川君はその問いをビジネスの実践と研究の中で、僕は同じことを教育実践と武道修業を通じて考えてきた。

そして、現段階でふたりがたどりついた暫定的な結論もよく似ている。

それはひとことで言えば

「金のない奴はオレんとこへ来い」

ということである。

別に「オレ」が大金持ちだからそういうことが言えるわけではない。

実は「オレもない」のである。


不思議なもので、こうやってぐるぐる回っていると、金はないのだが、なんとか生きて行けるのである。

ぐるぐる回ることによって何かが生成したからである。


「わらしべ長者」という話がある。


交換を続けているうちにとうとう男は長者さまになりましたという話である。


平川君も僕も相変わらずの「交易の旅」を続けている。

僕らが手にしているのは

「わらしべにアブを縛り付けたもの」

のような、なんだかその用途も有用性も知れないものである。

でも、どこかの子供が

「これ、欲しい!」と言い出して、ミカンと交換できるかもしれない。

レヴィ=ストロースによれば、そういうものを手にしている人間がひとりごつ言葉がある。

こんなものでも何かの役にたつかもしれない(Ça peut toujours servir)」

というのはそれである。

これも「金のない奴はオレんとこへ来い」

と並んで、僕たちがたどりついた経済活動についての「根源的な真理」の一つである。


市場規模がどうであろうと、平均株価がいくらであろうと、為替ルートがどうであろうと、そんなことは副次的指標に過ぎない。

ものが「ぐるぐる回っている」限り、人間は交易をしている。

交易をしている限り、人間はそのために必要な制度を考案し、そのために必要な人間的資質を必ず育むはずだ。

平川君はたぶんそういうふうに考えていると思う。

この本もまた彼にとっての「わらしべ」であると僕は思っている。

誰かが「欲しい」と思ってくれたときに、その書物はそれ以外のどの書物も持つことがなかった輝きを獲得する。


解説 時代が語る時の声 


高橋源一郎 から抜粋


平川さんは

「旋盤工として働きながら、すぐれた小説やルポルタージュを発表してきた小関智弘」さんについて、語っている箇所の最後にこう書いている。


「わたしは『昨晩もよなべだったよ』という何度も聞かされた父親の言葉を思い出す。

『それが、働くことと、生きることが同義であるようなひとびとなのですね』と、わたしは以前、小関さんから頂いたお手紙の中に書かれていた言葉を口にした。

それに対するこたえとして小関さんはひとつのエピソードを語ってくれた。

それは、ある時、池上本門寺の近くのテーラーに背広を作りに行ったときの話である。

テーラーの親父が、一通り採寸をすませた後で『あなた、ひょっとして旋盤工ですか』と言ったのだという。

『旋盤工は右肩が下がるんですよ。足もふんばるので、ガニまたになっちゃってね』

小関さんも凄ければ、この洋服屋もまた凄い。

わたしの父親は、右手の人差し指と中指は第一関節のところで切断されている。

左手の中指も同様である。

プレス屋にとっては指を落とすことはほとんど、勲章のようなものであったのかもしれない」


わたしは、ここに「平川さんも凄い」と付け加えたい。

この本の中では、わたしたちの「時代」の運命が語られている。

それは「客観的に」ではなく、まるで「時代」自身が自分の運命を語っているように、である。


高橋さんも凄い。って凄いのループですな。


平川さんの造語という「移行期的混乱」は


この時点(2013年)ではまだ、


東日本大震災、安倍政権、不祥事続きの企業


などが主眼なのだけど、


今現在、コロナ禍やウクライナ戦争を経て


どのように変節しているのか、興味深い。


それと、株式会社とか資本主義の終焉から


ご自分の身に照らし合わされ考察の様が


なんとも説得力炸裂で、


多くのエコノミストと異なる。たぶん。


 


余談として平川さんのご経歴で


翻訳会社のいち社長から


何故にここ10年位での圧倒的な


質と量の作家になられたのか。


その仕事っぷりってほんとに凄い。


何がそうさせているのだろうかなと


ラジオデイズで超有意義な


「交易の旅」があったからなのか


介護の日々で人生に直面したからなのか


と、まったく余計なお世話を


夜勤明けでひと眠り後、頭が痛くて


もしや感染してしまったのかなどと


不安にうち震えながらの


感想を持つ次第でございました。


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