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ダーウィンの遺産・進化学者の系譜:渡辺政隆著(2015年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


ダーウィンの遺産――進化学者の系譜 (岩波現代全書)

ダーウィンの遺産――進化学者の系譜 (岩波現代全書)

  • 作者: 渡辺 政隆
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/11/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ダーウィンに影響を与えた人たちの

系譜ってことなのだけど

どうしてもダーウィンさんに目がいってしまうなあ。


しかし、『種の起源』(1859年)とか


生物の進化論とか


それ自体がさまざまに進化していくっていうのは


本当に興味深いとしか言いようがありません。


まえがき から抜粋


大げさな意味ではなく、ダーウィンの著作を読むと、一段落ごとに、人が一生をかけるに足るような研究テーマが眠っている。

今は亡き著名な進化生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドも、ことあるごとに『種の起源』を読みなおすのが楽しみだと繰り返し語っていた。

その一方で、ダーウィンを読んだことがないとか、今更読む必要はないという研究者も決して少なくはない。

それでも、読めば読むだけの得をするというのが、ダーウィンのすごいところなのである。

ただし、ダーウィンにも弱みはあった。

最大の弱みは、当時まだ遺伝の仕組みがわかっていなかったことである。

遺伝、すなわち子供が親に似ることは誰でもが知っていた。

ダーウィンもすべての議論をそこから始めている。

子は親の性質を遺伝するが、瓜二つというわけではなく、同じ親の子でも少しづつ違っている(遺伝的変異がある)。

このことを前提に、人が動物や植物の品種改良をしてきた手法を自然界に敷衍(ふえん)すれば、地球の長い歴史の中で生物が大きな変化を遂げてきたと考えてもおかしくない。

これが自然界の原理である。

しかし、どのような変異がいかにして生じるのかを論じることになると、遺伝の仕組みが不明だったことが大きな足かせとなった。

これが、ダーウィンの大きな弱点だった。


第一章 ダーウィンの由来


一大転機 から抜粋


それまでの航海も実り多きものではあった。

ブラジルでは熱帯林の生物多様性に歓喜した。

アルゼンチンでは巨大な古代生物の化石を発見した。

ナマケモノの親戚にあたるメガテリウム、またの名をオオナマケモノである。

パタゴニアでは新種の「ダチョウ」を発見した。

それまで知られていたレアとは別に、ネグロ川を境にその南には小型のレアが生息していたのだ。

後にそれはダーウィンレアとして新種登録されることになった。

しかし、もし南アメリカ西岸の航海が実現していなかったとしたら、ダーウィンの、創造論者から進化論者への改宗は中途半端に終わっていたかもしれない。

ダーウィンが愛読していたライエルの『地質学原理』は、過去の大規模な地殻変動について、神がかりな天変地異など想定しなくても、目の前で少しづつ進行中の自然現象で説明がつくと説いていた。

天高くそびえるアンデス山脈も、土地の隆起によって形成されたに違いないことになる。

頭では納得していた。

しかし、必ずしもその証拠を目の当たりにしていたわけではない。

1835年1月15日、ダーウィンは初めて火山の噴火を目撃した。

チリ南部、標高2660メートルのオソルノ山である。

山形が富士山に似ていることから、日系人の間ではチリ富士と呼ばれているという。

2月20日には、チリ中部の都市ヴァルディヴィアで大地震に遭遇した。

そこから北に300キロ離れた大都市コンセプシオンは激しい揺れと津波で崩壊していた。

そして海岸線が1メートルも隆起している証拠を見つけた。

ライエルは正しかったのだ!

 

ダーウィンは、1838年2月にロンドン地質学会の書記に任命された。

科学界の期待のホープとしての抜擢だが、心の中は嵐だったに違いない。

当時にあっては、進化思想は反体制派の危険思想だった。

彼はその思想を科学の理論として確立すべく、さまざまな証拠をたぐり寄せながら思索を紡いでいた。

ところが、学会で付き合っているのは、体制側のお歴々である。

晴れ舞台に颯爽とデビューした自分が、陰では反社会的な思想を構築しているという大いなる矛盾を抱えていたのだ。

ダーウィンが体調不良を訴えるようになったのはこの頃からである。

激しい動悸や胃腸の不良など、自律神経失調症を思わせる症状である。

心の平安がほしい。結婚もいいかもしれない。


ダーウィンは、結婚の損得を列挙してみた。

 

独身を通すメリットは?

好きなところに出かけられる自由ーー

社交界への顔出しよりどりみどりーー

クラブでの才人との会話ーー

親戚訪問の強制など、くだらないことに屈する必要なしーー

子どもに対する出費と心配なしーー

たぶん口げんかもなしーー

時間の浪費ーー

夜の読書ができないーー

肥満と怠惰ーー

不安と責任ーー

書籍などへの支出枠減ーー

たくさんの子供が腹が減ったとせがみでもしようものならーー

(そうはいっても過労は健康によくない)

 

結婚するメリットは?

子供ーー

(神の御心しだい)ーー

一生の連れ合い、(それプラス老いたときの友)関心を払ってくれる人ーー

愛情と遊び相手ーー

とりあえず犬よりはましーー

家庭と家事をしてくれる人ーー

音楽の魅力と女性との気軽な会話ーー

どれも健康に良いーー

しかし恐るべき時間の浪費ーー

 

ああ、一生、まるで働き蜂のように働きづくめの生活だなんてぞっとするーー

だめだ、ぜったいにーー

煙で薄汚れたロンドンの家での独りぼっちの生活ーー

ソファーに座る優しくてすてきな妻に暖かい暖炉、読書、たぶん音楽、お前にとって唯一の団らん風景ーー

そんな光景とグレート・マルバラ街の陰気な現実を比較。

 

結婚ーーけっこうーー結婚 証明終わり

 

かくして彼は、1838年11月11日にエマに結婚を申し込み、その場で承諾を得た。

エマも、それとなく予感していたのだ。


結婚するのに、こんなに書き出して整理するか、普通。


真面目すぎる。真面目な自分がいうのだから間違いない。


それにしても「犬よりまし」ってエマさん怒るだろう。


結婚の予感があったってことは、


エマさんも想定されてのこれだと思うし。


でも、他の書籍を見る限り、内助の功、大有りで


仲も良かったみたいだし


エマさんのお写真拝見するに


大変聡明でお綺麗でいらしたから、他人が


とやかくいうことじゃないんですねども。


きっと素敵な間柄だったのだろう、


「犬よりまし」にメクジラ立て時間浪費するより


有意義な時間を過ごされたのかなあ、なんて。


第二章 ダーウィン進化論の成立


進化の枝分かれ から抜粋


ダーウィンは、「なぜかくも多様な生き物がいるのか」という問いと格闘し、ついにその答えを得た。

すなわち、すべての生物は共通の祖先を持っており、少しづつ変化しながら枝分かれを繰り返してきた。

その結果、

「じつに単純なものからきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ」

(『種の起源』の結語)

との結論に達したのだ。その苦闘の跡を詳述したのが『種の起源』だった。

種の起源が枝分かれであるということについては、かなり早い時点で着想していた。

ビーグル号の航海から帰国後の翌年、1837年7月からつけ始めたノートブックB(1837年7月~1838年3月)は、ダーウィンが「転生説」を専門に扱った一連のノートブックの1冊目である。

いったん進化について本格的に取り組み始めたダーウィンは、驚くほどのスピードでその核心をつかんだ。

ノートブックBをつけ始めてから、大ざっぱではあるが紛れもない進化の系統樹を描くまで、わずか1ヶ月かそこらしかかかっていない。


余話 


脱宗教を果たした科学としての進化論 から抜粋


英国の進化学者にして優れたサイエンスライターであるリチャード・ドーキンスは、今を去る40年前の1976年に、世界的ベストセラーとなった一般向け科学書『利己的な遺伝子』を出版した。

その書の冒頭には次のような一節がある。

 

生きることには意味があるのか。

人は何のために存在するのか。

人間とは何か。

これら深刻な問いを突きつけられても、もはやわれわれは迷信に頼る必要はない。

 

ここでドーキンスが「迷信」と名指ししているのは宗教、それもキリスト教のことであり、「もはや」と言っているのは、1859年以降、かのチャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版以降のことを指している。


ではほんとうに、ダーウィン進化論は宗教に代わりうるのだろうか。

その『種の起源』の末尾には、次のような象徴的な一文がある。

 

「生命は、もろもろの力と共に数種類に吹き込まれたことを端に発し、重力の不変の法則にしたがって地球が循環する間に、じつに単純なものからきわめて美しくきわめてすばらしい生物種が際限なく発展し、なおも発展しつつあるのだ。」


大学を卒業してすぐに英国海軍艦船ビーグル号に乗船した時点でもまだ、青年ダーウィンは神による天地創造論者だった。

そのダーウィンが神に決別する上で最後の一押しをしたのが、1851年に最愛の娘アニーをわずか10歳で失ったことだとする説がある。


現在の知見から見て、アニーの命を奪った原因は結核だったと思われる。

しかし当時の医学は、治療はおろか診断さえおぼつかないレベルにあった。

アニーの突然の発病とけなげな闘病生活、そして悲しい別れは、ダーウィンの世界観を決定的に変えることになった。

最愛の無垢な魂が無慈悲にも奪い去られた瞬間、彼は神の慈悲など存在しないことを確信したのである。


悲しい出来事だけど、ここから感じたことは、


人を突き動かし、それを継続させるには


強い動機があるのだな、ということだった。


ブラックボックスから玉手箱へ から抜粋


ヒトの遺伝子をめぐる見方を一変させたのは、2001年に一区切りがついたヒトゲノムの解読プロジェクトだろう。

ヒトの遺伝子の数は、かつては少なくとも数十万と言われていた。

それが、ヒトゲノム(ヒトのDNAに組み込まれている、基本をなす遺伝情報の1セット)を詳しく調べたところ、遺伝子(タンパク質の生成をコードしている塩基配列)の数はおよそ3万個、多くてもせいぜい5万個という数値が弾き出されたのだ。

たった3万個の遺伝子で、はたして人類の複雑な機能、特に心(脳)の複雑な働きのすべてを説明できるものだろうか。

ましてや、ヒトとチンパンジーが98パーセントまで同じだとしたら、遺伝子の違いはわずか600個の違いでしかないことになる。

だとしたら、ヒトというアイデンティティはどこに求めれば良いのだろうか。


遺伝子の機能は、一個につき一つとは限らない。

なにしろ、ヒトのほぼ全ての細胞は、同一の遺伝子セット(ゲノム)をそなえており、3万個の遺伝子を擁するヒトのゲノムは、爪から心臓そして脳に至るまで、自在につくり出しているのだ。

これは、きっちりとした青写真が最初からゲノムに焼き付けられているからではなく、時と場所に応じて遺伝子の情報が階層的かつ柔軟に機能するからにほかならない。


科学と日常生活の折り合いをつけるのはやさしいことではない。

なぜなら、専門化した先端科学は門外漢の科学離れを促進する。

その一方で、口当たりの良い解説は、新たな神話を創出させかねない。

一人でも多くの人が科学との適切な付き合い方を身につけない限り、科学の研究が進むほどに、科学は闇の世界へと沈潜する定めにあるとも言える。

それはダーウィンも本意とするところではないだろう。


科学の世界のことだけではなく


日常に溢れる情報がフェイクなのかそうじゃないのかなど、


個人の感性、共同体の意識に委ねられることが多い昨今、


昨日もドイツ政府が、国家を転覆しようとしている組織を摘発


今の世の中を成敗するつもりだったというような


報道がされ全容解明が急がれているようだけど。


ダーウィンと離れてしまったけど、遺伝の仕組みが


解明されてなくて歯痒かったのかもしれないが、


進化論(がダーウィン前からあったにせよ)の


きっかけには間違いなくなったし、


フォロワーを多く生み出し継続研究していることは、


その全ては肯定できなくても


概ね良いことだったと言えるのではないだろうか。


原理主義の方達からは反発もあったろうが、


これが現実なのだろうと思う。


でもその反面、現実を知ることが良いことなのか、


という考えも一理ある。


そこで思い出すのは、柳澤桂子さんの言葉なんですよね。


何度も引用してしまうけれど


「人間には踏み込んではならない領域がある」って。


そして柳澤さんの提唱することは、


個人の感性を磨くこと。周りに伝えること。


深すぎて、身が引き締まります。


余談だけど、自分が会社員だった頃、


年間の個人目標みたいなのがあって


右肩上がりの数字主義に物申したくて


人格を磨くって書いたら、スルーされたよ。


今思えば評価のしようもないけどね、


そんなん書かれても。


だからって今更別にうらんでるわけでも、


柳澤さんと自分が同じってわけじゃないよ、


なんか言ってることと構造がちょっとだけ


似てるなって思っただけでございます。


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