SSブログ

形を読む:養老孟司著(2020年)他1冊 [’23年以前の”新旧の価値観”]


形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

形を読む 生物の形態をめぐって (講談社学術文庫)

  • 作者: 養老孟司
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/01/10
  • メディア: Kindle版

副題が、「生物の形態をめぐって」。


文庫版まえがき(2019年)から抜粋


この本は私が単行書として書いた最初の本である。

正確にはいつだったか、むろん覚えていない。

ともあれ三十代の後半から四十代の初めには、ここに書いたようなことを真剣に考えていた。


少しややこしい説明をすると、この本で強調した繰り返しの問題は、新潮新書『遺言。』の主題となった。

差異と同一性の問題である。

本書『形を読む』から一昨年の『遺言。』まで、半世紀近くにわたって、同じ主題を繰り返し考えている。

でもそう思ってくれる人は少ないだろうと思う。

この本を書いたころは、まだ自分の考えが理解されるかもしれないと思っていた。

だから「真剣に」書いたのである。

いまは必ずしもそう思っていない。

それなら不真面目になったのかというと、そうではない。

近年の脳科学では、喜怒哀楽のような情動ですら、客観的な基準はないとされる。

考え、つまり思想も同じであろう。

論理的であるだけなら、コンピュータに任せればいい。

アルゴリズムに従って、きちんと解答を出してくれる。

それに対して、自分の考えを記すというのは、まさに個人的な作業であり、おそらくそれは個人の脳に依存する。

諸科学に普遍性があると信じるなら、それはそれでいい。

そう述べるしかない。

歳を経て、私自身はそうは考えなくなった、というだけのことである。


はじめに から抜粋


この本の内容すべてが、自分の独創的見解なら、それにこしたことはない。

しかし、むろんそうはいかない。

第一に、ヒトは、きわめて長い期間にわたって、生物の形を扱ってきた。

したがって、

「太陽の下に新しきことなし」

と歌った、古代ローマの詩人のことばを引くまでもなく、この分野にとくべつ新奇なことがあるとも思えない。

第二に、私もかなり年をとった。

眼鏡を外さないと、解剖すらできない。

最近、それに気がついた。

むろん老眼のためである。

当然のことながら、記憶もずいぶん悪くなった。

したがって、自分の考えが、はたして自分の独創であるのか、読書や他人の講演を聞くことによって、途中から頭に入ったものか、そこも今では、不明確になってしまった。

現在私のものである意見が、自分の意見なのか、もともと他人の意見だったのか、そこがはっきりしない。

そういうわけで、この本で議論していることは、古くから多くの学者たちが考えてきたことを、たくさん含むにちがいない。

もしそれに、私がなにか付け加えたとすれば、古言の歪曲か、余計なことだけかもしれぬ。

形態学のような古い学問では、それはそれで仕方がない、と私は考える。


学問は、時代とともに変わるように見える。

とくに現代では、その勢いは著しい。

しかし、それを扱っている人間の方は、所詮変わらない。

そうでなければ、私の観点には、むろんほとんど意味がない。


書いているうちに、こっちの考えもだんだん変わるから、なかなかできあがらない。

いじれば、いくらでもまだいじれる。

際限がない。

もういい加減にやめようと思っているうちに、とうとうできあがった。

それにしては、内容はたいしたことはない。

それは、本人の能力だから、仕方がないのである。


いやあ、文庫化され2022年現在も新書で売られているので、


すごい内容なんだと思いますよ。


軽やかで謙遜としかとれない姿勢はこの頃からだったのですなあ。


ただ一点思うのは、最近の書籍と比べ、表現とか扱う素材がハードだなと。


口幅ったいことを申し上げるとすると、この後世間に揉まれての文章と比べ


慣れておられないということかなと。どもすみません。


第二章 形態学の方法


4 方法の限界ーー馬鹿の壁 から抜粋


第一章では、自然科学とはなにかを、自然科学を中から見て考えた。

ことばや画像のような「方法」は、もちろん情報の伝達可能性にも関係している。

そこで、自然科学を、この面から考えてみよう。

自然科学の分野がこれだけ広がり、日常的になってくると、科学内部の方法の問題だけではなく、対社会、すなわち情報の伝達可能性が問題になる。

早い話が、ほとんどの人が理解しない科学は、やがて滅びるはずだからである。

自然科学を、情報の伝達という面からみれば、自然科学とは、ある特定の限定された情報群のみをあつかう作業であり、その限定条件とは、その情報が現実に対応して「検証」され、それらの情報の伝達に、本来、多義性が存在しないというものである。

解釈のしようによって、どうとでも考えられる、という法律のようなものでは困る。

自然科学のいわゆる客観性、つまり、いつどこでも同じ結論に達する、という性質は、一種の「強制伝達可能性」である。

あるいは、自然科学とは、無限に多様な現実から、そうした部分のみを、情報として切り出してくる作業である。


先月NHKのスイッチインタビュー「養老孟司×太刀川英輔」という番組で、


養老先生、この書籍のことを話されてたのだけど、


自分も大昔、デザインで生計立ててた時期あり、


太刀川氏の言っていた


「デザインを追求していると最終的に美しくならざるを得ない」


みたいなのはすごく納得、養老先生が引き合いに出したこの書籍も


その視座では合点いったものの、総体的に難易度高い、


自分のおつむの弱さを露呈してしまった。


第七章 機械としての構造


3 現代の機械論 から抜粋


ドーキンスに『生物=生存機械論』という書物がある。

これはいわゆる社会生物学を解説したものであるが、基本になっている考えは、遺伝子は生きのびるために、いままでありとあらゆる手練手管を使ってきた、というものである。

あらゆる環境をくぐり抜け、遺伝子は、じっさい、数十億年にわたって保存されてきたのだから、右のように表現したところで、それほど事実と食い違うとはいえない。

いまの世の中で、遺伝子にも意識があるのか、と疑問を発するナイーブな人が、そういうとも思えない。

この場合の「機械論」は、生物のある種の行動は、なんらかの前提、ここでは遺伝子の保存であるが、それをおくかぎり、まったく論理的に説明できてしまうというものである。

社会生物学は、その前提から、生物の利他行動というおかしな現象を、いとも数学的に、つまり没価値的に、証明してしまった。

もっとも、このばあい、価値は、じつは遺伝子の保存ということに集約されている。

それが、自律的な機械という、古来の生物のイメージに、なんとなく反するところが面白い。

つまり機械論としての社会生物学の変わっている点は、個体の価値を「機械」的なものに置換したこと、つまり古くから暗黙の前提だった。

「生きること」ではなく、「遺伝子の存続」のみに置き換えたところである。

したがってこうした「機械論」は、いわば目的論の変形であって、ここでいう物理化学的な機械論ではない。


機械論的な観点は、元来はマクロの、つまり目に見える構造をあつかってきたが、今世紀に入って、化学が発達するにつれ、分子の水準で大きな威力を発揮するようになった。

現在の技術なら、分子を可視化することも不可能ではない。

しかし、その解像力は、まだかなり限られている。


科学者って生物を機械としてよくとらえるなあ、


というのは利根川博士と立花隆さんの対談にもあって


最初は驚いたけど、ここでも研究されているってのは、


やはりそうなのかなあ、と非科学的な自分は半信半疑。


生物は機械なのか?と稚拙な驚きでした。


ドーキンスさんって、ウィキで見るかぎり


めちゃくちゃラジカルな感じですなあ。


第十章 形態の意味 から抜粋


なぜわれわれは、意味を発見しようとするのか。それは、おそらく、知りたいからである。

あるいは、理解したいからである。

「わかった」ときの喜びは、きわめて素朴なものだが、強烈である。

それはたぶん「中毒」をひきおこす。

アルキメデスが、裸で風呂から飛び出したという話は、「わかった」からである。

かれにとっては、それが学界未知の事実であろうと、きわめて高度の論理であろうと、そんなことは無関係だった。

かれの発見が、かれにとって、まさしく「発見」だったから、風呂から飛び出した。

たとえささやかなものでも、いったん、この種の発作を経験すると、ヒトは中毒を起こす。

動物に、こういう反応があるかどうか、私は知らない。

しかし、これだけはっきりした反応である以上、その初期的な現象は、動物にすら、おそらく存在するであろう。

ネコはネズミの出入り口を発見すると、一日中でも、そこで待っている。

私が五十年解剖学をやっているのも、たぶんそんなものであろう。


「意味」の有無って、現実ではよく使いますよね。


「これに意味あるのか?」とか、「意味のある行動」とか。


その「意味」とここで取り上げられている「意味」って


質が異なるような気がする。


「意味」には二つの種類があって、「深い」「浅い」があって、


現実生活でよく使うのは「浅い」のではないだろか。


そんなに連発するようなものでは本来ないのでは


と思いながらもいつも使っている。


それにしても、五十年学問をやられているのって単純にすごいな。


それこそ中毒ですよなあ。


この書籍、自分にとっては全然、形を読めてないので消化不良だけど


違う成果として、初期から養老節全開だったのかと思いきや


最後に「文庫化にあたり、加筆修正を行いました」とあり


最近の養老先生の筆致っぽいのはそういう理由だったのかも


っていうマニアックな納得をした次第。


余談だけど、奥付けでは、2020年第一刷でした。


(補足の追記)


養老孟司の<逆さメガネ>:養老孟司著(2003年)


エピローグ 男と女は平等か


哺乳類ではメスが基本 から抜粋


日本の女性は抑圧されている。あるとき外国人のフェミニストがそう言ったから、

「抑圧されると、人間はずいぶんと寿命が延びるんですなあ」

と申し上げました。

なにしろ女性の平均寿命が85歳、世界一じゃないんですか。

男なんか、まるで問題になりませんわな。

こんなことを書いていると、どこがフェミニストだと、叱られそうですな。

私が最初に書いた本をぜひ読んでください。

『形を読む』と言う本なんです。そこに書いたことがあります。

人間の骨でいちばん異なるのはどこか。

それは骨盤だと、たいていの人は知ってます。

世界各国の解剖の教科書を読んでも、そう書いてあります。

その通りなんですよ。

さらに理由も書いてあります。

女性の骨盤はお産に適するようにできている。

だから男と違うんだというわけです。

これは明らかな偏見ですな。

偏見ですけど、それを過激なフェミニストでも指摘しません。

どういう偏見かというと、「お産をする」ことが必然とは思ってないところです。

あなただって私だって、先祖代々、誰だって人間はお産で生まれてきたんですよ。

それならお産をする骨盤が、「正しい」骨盤じゃないですか。

お産がなけりゃ、人類は存続してこなかったんだから。

男はお産をしないで済むから、骨盤の形が変わったんですよ。

いってみりゃ、男の骨盤が「変な」骨盤なんですよ。

男の骨盤だけになっていたら、たぶん人類は滅びてますな。

でも、そう書いてある教科書は一つもありませんでした。

生物学をちょっと勉強すれば、哺乳類ではメスの形が基本だとわかります。

オスを去勢すれば、メスの形に近づくじゃないですか。

メスを去勢する、つまり卵巣を取り除いたって、さしてオスに近づきませんよ。

聖書はアダムの肋骨をとってイヴを創ったと書きましたが、これは嘘ですな。

イヴの肋骨をとってアダムを創ったんです。

神様が間違えるはずはないから、聖書を書いた人間が書き間違えたんでしょうな。


nice!(31) 
共通テーマ: