池田先生の3冊から「権力」について考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
池田先生がオーストラリアに行かれて
物理的に日本から離れたことで
自由に書き飛ばしたとされる
93年から94年の書籍をまず2冊。
怖すぎる筆致で、足早に駆け抜けたい。
腰を痛めて、落ち気味のフィジカルと
メンタルの相関と歳を
痛感している年末なのでなおさら。
でも看過できないのでこの機会に、
苦手分野の「権力」について。
書名の『科学は錯覚である』は私がつけた。
『科学は錯覚ではなく真理である』と思っている人も多いかも知れぬ。
もちろん私に言わせれば、それはそう思っている人が『科学は真理である』と錯覚しているだけである。
科学はある種の錯認であるというのは、科学に対する悪口ではない。
それは唯一無二の科学の根拠である。
第一章 エイズが世界にもたらすもの から抜粋
国家権力が主導して、自動車運転をやめましょう、というキャンペーンをしたという話は聞いたことがない。
なぜか。
それは交通事故の死者数は、好コントロール装置たる国家権力の完全なる制御下にあるからである。
それに対し、現在の所エイズの感染者数や死者数を制御するすべを国家も科学技術も持っていない。
好コントロール装置としての権力が、個人の道徳心に訴える以外になすすべがない所に、エイズという病の意味がある。
別言すれば、制御不能性こそエイズが我々の社会に問うている最大の意味であるように私には思われる。
昔の人にとって、人生は一寸先は闇であった。
好コントロール装置である国家権力と科学技術は、一寸先どころではなく、三十年先まで明るくしてくれた。
その結果人々は予測可能な人生を歩むことになった。
未来が予測可能であるとは、すなわち、未来は実は未来ではなく現在ということである。
それは人々に安逸と平穏を約束したが、人々から強烈な生の喜びを奪ってしまった。
生きているということは、その本質において、予測不可能が孕むものだからである。
第三章 宗教と科学ーー構造主義宗教論の冒険/死は救いである から抜粋
生物が生きることは、不平等と不公平を丸ごと背負い込むことである。
従って生きている間は、不平等と不公平から逃れることはできない。
私はあらゆる不平等と不公平を肯定するために、このことを言っているのではない。
人為的な不公平はなくした方がよいに決まっている。
ただ、生物であることから発した不平等は、原理的になくせない故に、生きるためにはこれを肯定する他はないと主張しているだけだ。
人が病気になったり、死んだりするのは因果応報でも、神仏に選ばれたわけでも何でもなく、単に人間もまた生物であることから発した必然にすぎぬ。
身もふたも、取り付く島もない。
曰く言い難し。
この論説には恐ろしいものがある、
現実というか事実だとしても。
虫屋の状況論/死刑反対論者は権力の操り人形である から抜粋
湾岸戦争のときに、戦争は完全に制御されたシミュレーション・ゲームであるかのように演出され、あからさまな個人の死は隠蔽された。
あるいは、日本では交通事故により、年間に約一万人の人が亡くなるが、権力が車の使用を禁止さえすれば、もしくは極端に高額な税金をかけさえすれば、交通事故の死者をずっと減らすことができる。
国家権力により暗黙裡に計画された死でありさえすれば、権力はけっして個人の殺害を忌避しないことを意味しているのである。
日本人に憲法はムリである/誰も憲法を守っていないし守るるつもりもない から抜粋
巷では官民挙げておエライさんは、口を開けば国際貢献を叫んでいるが、話を聞いていると、なんらかの理念の下に国際貢献をすべきだと言っている人はほとんどいない。
国際貢献をしないと日本は世界の孤児になる、と彼らは口を開けば言っているが、孤児になるとなぜいけないのか。
それは単に会社がもうからなくなる(と思っている)からにすぎない。
重要なのは国際貢献という中身などではなく、国際貢献というかけ声である。
私はそのことを別に非難しているわけではないが。
日本に憲法が存在する理由もこれと一緒である。
そもそも明治憲法(大日本帝国憲法)が作られたわけは、憲法がないと日本は近代国家だと認めてもらえず、世界の孤児になると思ったからである。
当時の国民は憲法の中身も知らず、憲法ができたといってただ喜んでいる、とどこかの国の新聞に皮肉られたが、その情況は実は今もって不変のままである。
重要なのは憲法が存在することであって、それを守ることではない。
これが日本の不文律である。
重要なのは国際貢献という錦の御旗であってその中身ではない、という話と、これはまったく同型である。
ついでに言えば、日本において生きるために最重要なことは、不文律を守ることであって、成文法を守ることではないのである。
繰り返しになるが、なぜこういうことになるかというと、日本に生息する好コントロール装置としての権力は法治国家という形式を望んではいないからである。
もちろん権力はあなたや私の頭の中にあるのであって、それ以外のところにあるわけではない。
あとがき から抜粋
オーストラリアにいたときは、シドニーのオーストラリア博物館に昆虫の標本と文献を調べに行く以外は、虫採りと釣り三昧の生活をしていた。
日本語の本はほとんど読まなかった。
もちろん英語の本もほとんど読まなかった。
体を動かして虫ばかり採っていると、体はどんどん健康になったが、頭はどんどん空っぽになり、それに比例して心はどんどん過激になった。
オーストラリア滞在中に書いたエッセイを読み返してみると、そのことがよくわかる。
もっともそれは頭が空っぽになったせいというよりも、日本にいる他人を気にしなかったせいかもしれない。
上記2冊には、最近の池田先生のような
”ユーモア”がほとんどなくて容赦なく
”怖さ”のようなものと”若さ”を感じた。
ほっこりするものとして、
虫採りしか興味のない池田先生と
観光したい奥様と駆け引きしながら出掛けた
題名「飛べないクワガタ」のくらいしか
なかったような。
それから「あとがき」にもございますが
体を動かしての健康と、そこに自分はない頭も使い、
バランスよく、フレキシブルに、
ってのが理想だと思っておりまして
そうありたいと常に最近思う次第です。
さらに養老・奥本先生加わっての鼎談でございます。
第四部「虫屋」の正体/ファーブルは分類がきらい から抜粋
■養老
昆虫をやっている人はある種の権力関係に敏感な人たちがという気がしてね。
それぞれのグループの専門家というのが必ずいて、彼らはなぜ専門家なのかと考えると、そこにはただの興味だけじゃなくて、やっぱり権力行為みたいなのが働いているんじゃないか。
■奥本
「俺が唾をつけた」という感覚があるんでしょうね。
■養老
そういうことと関係があるんじゃないかなという気がします。
逆に専門のことだけをやっていれば世間の人から見たらあまり害がないというか…。
世間という言葉自体がそうでしょう。
西洋でいえば社会ですよね。
それは必ず政治と結びついている。
人間がそういう意思みたいなものを持っているということを前提とすると、権力ーーというと外国語の翻訳だから、あまり日本語の文脈にピタッとこないんで、しょうがないから「人を思うようにする気持ち」といってるんだけどーー人を思うようにしたいという気持ちは、社会を作る以上は誰にでもある。
それが非常に明白な形で、固定して出されているのが政治制度であって、ある意味で政治制度というのは害がないわけです。
みんなに見えるわけですから。
ところが、その制度自体が気にいらないというやつが必ずいるわけで、反体制というのは実はその政治制度の枠組みの中に込みになってるわけ。
それとはぜんぜん違う枠組みで人を思うようにしようと思うやつが、こういう虫屋の世界に集まってくる面があるんじゃないのかな。
そもそも学問というのがそうだという気がする。
■奥本
まったく学者はみんなそうで、自分の専門領域に他人が口を出すと嫌な顔をする。
■養老
人を説得するというのは、要るするに「根本的に思うようにしよう」という面を持ってるわけでね。
■池田
同じものを分類してる人たちは、必ず仲が悪くなりますよね。
たとえば同じカミキリムシで、同じところの虫を分類し合っていると、だいたい仲が悪くなってくる。
■奥本
それで最後には、「俺のいうことを信じなさい」の浴びせかけになっちゃうんですよね(笑)。
■池田
そう。それにさっき養老さんが言ったように、妥協しなくてもかまわない世界だからトコトン行くわけですよ。
政治は、具体的な問題がからんでくるから、どっちにしても妥協しなきゃならないでしょう?
僕は養老さんが今言った「権力」というのを「好コントロール装置」と呼んでいるんですけれども、好コントロール装置が、とにかく妥協しないで突っ走れば戦争するしかないわけで、戦争にならないようにするかぎりはどこかで妥協をするわけですよ。
権力を放置すると、暴走して
戦争に走ってしまうこともある
という論理展開は、なんか納得してしまう。
監視システムが機能しない昨今、個人とか
市民レベルでの草の根運動からの
ボトムアップで少しづつ良い世の中に
なるよう善処しないとって感じた
雨降りの朝でございます。