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2人の桂子先生の本から”クローン技術”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

村上龍氏と中村桂子先生の対談にて


話し合われていた、クローンの書について


ちと読んでみた。


翻訳を担当されたのが中村桂子先生でございます。


クローン、是か非か


クローン、是か非か

  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本

ドリーの流行 ルイの逆境

スティーヴン・ジェイ・グールド から抜粋


流行ほどはかなく、移ろいやすいものはない。

これほどでたらめに動き回る標的に対し、客観的記述と分析を旨とする科学者に、いったい何ができるというのだ。

悪者がはびこるのを防ぐために昔から使われてきた忠告(「増える前に消せ」)にならって、「消える前に数字を出せ」というぐらいのところだ。


この言葉を胸に深く刻んでいたのが、チャールズ・ダーウィンの従兄弟で、頭の良いチャーミングな奇人、統計学の父でもあるフランシス・ゴールトンだ。

あるとき彼は、美人の地理的分布を測ろうと思い立った。


結果は、スコットランドにとっては迷惑千万な話だが、美人は南へ行くほど増え、不器量の割合が一番高いのがアバディーン、美女が最も多いのはロンドンだった。


振り子の揺れに左右され、現れては消える流行の中で、進化生物学者にとって最も根源的な問いであり、広い意味での政治問題の中心となっているのが、人間の能力と行動についての遺伝子対環境の議論である。

このテーマには、何世紀ものあいだ誤った二分法が浸透し、英語では二つの選択肢を並べて「生まれ(ネイチャー)か育ち(ナーチャー)か」という、いかにも語呂がいい特別な表現までできてしまった。

分別のある人なら、これを「どちらか一つ」の枠組で考えるのは無意味とわかるはずだ。


それでも政治の風向きが変わったり、科学の新発見があって、二つのうちどちらかに光を当てると、またぞろ、生まれだ、いや、育ちだ、という議論が流行する。

ヒットラー政権下の悪夢は、劣等民族という、たわけた遺伝理論で正当化されていたという事実があるからだ。

その結果、心理学に行動主義が台頭した。

ところが現在は、やはり社会的、科学的影響によって、遺伝学的な解釈が大流行だ。


困ったことに、ひとたび熱狂に巻き込まれると、一時的流行を永遠の英知とはき違えてしまいがちになる。


現在の遺伝子説への傾倒がどの程度のものか、振り子がまた反対に振れて機会を逸する前に測ってみたいというゴールトン的欲求から、極めてニュース性の高い二つの記事を取り上げよう。


クリーン羊ドリーと、出生順が人間の行動に与える影響についてフランク・サロウェイの著作である。

一見、この二つは何の関連もないようだが、実は現在の遺伝子重視の傾向に対して、深い洞察を与えてくれる共通の特徴がある。

つまり、どちらもほとんど遺伝学の用語で書かれていながら、実は環境がいかに強い影響を持つかという証拠として読んでほしいと叫んでいるのだ(少なくとも私にはそう見えた)。


ところが、この誰の目にも明らかな推断を下すもの(口にする者さえ)はいなかった。

遺伝理論の流行以外に、この怪しげな沈黙を説明するものを私は思いつかない。

もしまったく同じ情報が、「育ち」に基づく解釈が好まれた20年前に与えられていたら、間違いなく今とは反対に読まれでいただろう。

我々の世は、無知と悪に満ち、背後には闇が広がっている。

常に二つの光を輝かせているのはなかなか難しい。


ヒツジの創造 から抜粋


ベートヴェンのクローンが、ある日、彼と同じ19世紀初頭のスタイルで第十交響曲を書き始めると、誰が真剣に思うだろう。

つまり、一卵性双生児こそ、本物のクローンーーあらゆる点でドリーと母親よりも似ているーーなのだ。


かといって、それぞれの個別性を疑う人がいるだろうか。


ドリーの議論となると、この大原則が見逃されてしまうのは何故だろう。


国王殺し から抜粋


知的社会においては、流行を事実と区別する態度は最も歓迎される。

流行には常に懐疑の目を向け(特にその時の習慣が自分の嗜好に合っている時は)、常に事実を尊重せよ(「事実」に見えることが、一時的な流行に過ぎないこともあると知りながら)だ。

私は「熱い議論がなされている」二つの話題を検討してきたが、今のところ遺伝子説の流行が、重要な環境説の論点を見えにくくしており、その意味深さが十分に伝わらず、正確には理解されていないのではないかと心配だ。


初めてクローン技術で生まれたヒツジについて本当に一個の独立した存在なのかと頭を悩ませている時には、ドリーと母親よりも類似点の多いクローンーー一卵性双生児ーーが育ちの違いによって、まったく別の人格を持っているのが当たり前と思っていることを忘れているのだ。

また、出生順の影響についても、ダーウィン説を持ち出し、家庭内の地位と生態学的地位を比較しようとするだけで、これらが遺伝では説明できず、「育ち」の影響の大きさを示していることに眼を向けようとはしない。


ようこそ、ドリー。

その製造方法が永遠に制限されること、少なくとも人間に対してはそうあって欲しいと思う。

だが同時に、遺伝子重視の思考習慣が、一生を通じて環境がもたらす多様性への興味を失わせないことも願いたい。

そこには複雑にからみ合う自然の中で流す涙があり、喜びがあり、尽きることのないふしぎが満ち溢れているのだから。


初出『ナチュラル・ヒストリー』vol.106,no.5, 1997年6月号


クローニング、何が悪い


リチャード・ドーキンス から抜粋


科学と論理は共に、何が善で何が悪かという問いには答えられない(Dawkins,1998)。

殺人でさえ、科学の論理では悪であると証明できないのだ(いつだったか、ラジオのインタビューで証明しろと言われたことがあるが)。

だが科学は独断主義者に対し、その信条には矛盾があることを示す論理的な根拠や科学的事実を展開して、彼らを論破することはできる。


クローニングは、私たちの気持ちをどちらの方向へも変えられる科学的思考の力についての、ケーススタディとなる。


クローン羊ドリーに対する世間の反応はさまざまだが、クリントン大統領以下、こんなことは人間には許されないという合意はあったようだ。

クローニングしたヒト組織の培養によって得られる医学上の利点を強調していた研究者も、自分の信用を落とすことを恐れて慎重になり、熱心に、成人からドリーのようなクローンをつくることに反対を表明した。


だが、クローニングそれほどいとわしく、可能性すら考えてはいけないものだろうか。

誰でも、心のどこかで自分のクローンをつくってみたいと思ってはいないだろうか。

ダーウィンが自説を述べた時と同じように、これも殺人の告白をするくらい勇気がいるが、私はクローンを作ってみたいと思う。


その動機は、自分の死後、もう一人の自分が生きていれば世界が良くなるだろうなどという自惚れではない。

そんな幻想は持ってはいない。

純粋な好奇心だ。


繰り返すが、科学は何が善で何が悪かを教えてはくれない。

自然という本の中には、豊かな暮らしのためのルールも、社会をうまく治めるためのルールも出ていない。

だからといって他の本や教育が役に立つというわけではない。

ある種の疑問が出た場合、科学が答えられないなら宗教が答えてくれるという誤った思考をしがちである。

こと倫理や価値観が絡むと、本を読んだからといって決まった答えは出てこない。

私たちはもっと大人になり、自分たちが住みたい社会をはっきりと思い描き、それを実現するため実際的な難問を、考え抜いた上で解決していかなければならない。

民主的で自由な世の中を望むなら、誰もが納得する理由がない限り、他人の希望を妨げるべきではない。

ヒト・クローニングについても、それを求める人が出た場合、禁止を主張するにはクローニングが誰に対しどんな害があるのか、明示する責任がある。


この論文は、1997年『イヴニング・スタンダード』と『インディペンデンス』の二紙に掲載された記事に手を加えて書き直したものである。



いのちの時

いのちの時

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2002/03/01
  • メディア: 単行本

IV 美しい科学へ

遺伝子の多様性 から抜粋


20世紀末に起こったもう一つの大きなできごとは、クローン・ヒツジ・ドリーの誕生であった。

この技術を使ってヒトのクローニングもできるであろうと報じられた。

クローン人間の作成と、ヒトゲノムの解読は、自由に遺伝子を入れ替えて、「完全」な人間をつくろうという考えに拍車をかけることになった。


このニュースに嫌悪感を持ち、ただちに「ヒト・クローンの作成禁止」の法律を決めた国も多い。

しかし、科学者の中には、この嫌悪感を否定し、ヒト・クローンの作成をどんどん続けるべきだという人々もいる。

DNA二重らせん構造を発見したワトソンは、「合法であれ、非合法であれ、人間のクローニングのために広範な努力をおこなうとするならば、その機は熟している」

とアメリカの議会で証言した。


クローニングに賛成の立場をとる著名人のグループで一番大きな組織は、「国際ヒューマニスト・アカデミー」である。

この組織は、クローニングの禁止を「反合理的な選択」と呼び、クローニングの禁止を考慮しなおすようにという声明文を発表した。

この文書に署名した人々の中には、クリック、ドーキンス、社会生物学の父といわれるウイルソンなどが含まれている。


ドーキンスの「純然たる興味」からクローン人間をつくってみたいといい、「50歳若い自分の小さなコピーが見られると思うと、個人的に興味がそそられる」と述べている。

これらの科学者の動機をみると、クローン人間をつくって有名になりたいとか、ドーキンスのように、ただ単に興味があるというものまで、その思慮の浅いことに驚かされる(『クローン羊ドリー』G・コラータ著)。


私もクローンにたいする違和感をもっている。

しかし、「なぜ」と問いかけてみても論理的な答えは出てこなかった。

そして、いろいろな書物にあたってみたが、賛成論者も、けっしてたしかな理論を持っているわけではない、ということに気づいた。

論理的な反対理由を考えるのに2、3日の時間が必要であったが、私はかなり確かと思われる理論に到達できた。


私がここで主張したいことは、ヒトのクローニングの前にたくさんの動物実験をするべきだということである。

クローニングでできた個体がどのような運命をたどるかということを調べなければならない。

私たちはまだ何も知らないのに、ヒト・クローンで騒いでいる。

このようなことは、かつての生物学が健全であった時代には起こらなかったことである。


科学は美しいものである。

科学ではデータは公開され、新しい技法は、無償で、希望する人に教えられる。

このような無欲な科学の公開性が妨げられ、物欲や名誉のために科学が利用される場合には、恐ろしいものに変貌する。

科学をいつまでも美しいものにしておいてほしいと願わずにはいられない。


柳澤先生のこの言説は、2017年NHKで観た


福島智先生との対談での


「超えてはならない領域がある」に


つながるのだろうと感じた。


とはいえドーキンスさんを擁護するわけではないが


この文章だけを読む限りだけど、クローン技術を


禁止するにしてもその理由を明らかにするべき、と


結んでいるのがミソではないかと思うわけでして


確かにインパクトの大きい方の言説にしては


軽率な発言も含まれてるなあと思いますけれども。


羊のドリーは2016年までだけども


顛末が記事としてあったけれど、


それはそれで一旦置きまして


90年代時点でのこれら論争は各科学者の態度や


心持ちみたいのが窺い知れて興味が尽きない。


ルールとかも定まる前だからカオス状態で


今でいうとChat GPTというか生成AIの


各国の対応のようで。


自分なぞは科学知識ゼロなものだから


思わず感覚だけで”モラルが”と言ってしまいそうで


そう感じることは否めないのだけど、


ちょっと飛躍するがヒトの命が関わるものとして


原発と同じようにリスクが特定できないものを


作れたとしても本来は運用できない筈と思うが


科学を技術として利用する際、利権が絡むと


おかしなことになってしまうというのは


昨今の世の中として想像できてしまうなあと感じる。


そこに巻き込まれてしまうということで


なかなかに恐ろしいことだと思うが


科学者に限らず、一般の自分らにも波及している


なにかのような気がしてこれは避けられないのか


とか、遺伝子とか科学だけではなく


環境破壊とか、戦争とかも、悪い意味で


繋がっているようで非常に厄介で込み入った話だと


強く感じつつも、本日神保町古書店へ


年内最後だろうフィールドワークに朝から出かけ


夕食も済ませるとこの時間はすでに瞼が重く


思考も停止間近であるがゆえ、そろそろ


お風呂入ってこのテーマの続きは


またの機会に譲らせていただきつつも


ジョン・レノンの命日かと感じ入る冬の一日でした。


 


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