①日高先生とローレンツ博士の対談から”成熟”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
一昨日の休日に昔の雑誌『アニマ』1976年3月号を
神保町で入手する。
お目当ては、特集の「アリ」ではなくて、
幻の対談でございました。
ローレンツ人間と動物を語る
コンラート・ローレンツ博士が昨年の11月に来日された。
1973年度のノーベル賞者である博士は、動物行動学者で
あるとともに、医学者としても哲学者としても著名である。
博士の業績を数多く紹介している京都大学・日高敏隆教授との
対談は、ローレンツ博士自らが撮影した、
動物の行動についての映像の説明から始められた。
EC(エンサイクロぺディア・シネマトグラフィカ)の
設立にローレンツ博士が、自分の研究に
使っていた映像を提供したことから話は始まり、
動物の攻撃性についてを映像をもとに
日高先生に説明されている。
これは映像あるとないでは大きな違いで、
雑誌では写真で説明されているのだけど。
NHKクロニクル様是非とも、
アーカイブ配信いただきたいのでございます。
動物のモラル、人間のモラル から抜粋
日高▼
この間、ジョセフ・ミーカーの『悲劇的態度』を読んだのですが、じつに面白かった。
先生はあの本の序文を書かれていますね。
悲劇的なものを崇拝する態度が自然破壊の根源だという、ミーカーの指摘にはぼくもまったく共鳴します。
ローレンツ▼
全くその通りです。
ジェセフ・ミーカーによれば、悲劇的態度とは恐るべき自己の過大評価、おごりだと言います。
「そんなことをするくらいなら、私は死を選ぶ」
こうした自分の誇りに対する罪という意識は、軍人で言えば将校や武士の態度です。
動物はそんな態度はとりませんし、私だって決してそんな態度はとりません。
それは生か?名誉ある死か?という価値観の問題で、動物の行動にはないものです。
日高▼
さきほどから話されてきた闘争のしかたのきまり、その他、動物の社会行動にみられるきまりのようなものは、ある見方をすれば動物におけるモラルというか、道徳といえますね。
先生は以前、それを「モラルに類した行動様式」とよばれましたが…。
ローレンツ▼
全くそのとおりです。
それはいずれにせよ競争が必要だという道徳だといえます。
競争や自然淘汰は目的ではなく手段です。
したがって、相手を傷つけたり殺したりせずに、競争ができるような闘いかたを学ばねばなりません。
もちろん人間の政治の場合もこれは必要条件ですが、それが実現するのはむずかしいでしょう。
日高▼
人間のモラルとか道徳律といったものを、動物におけるそのようなモラルから演繹(えんえき)することができるでしょうか?
ローレンツ▼
いいえ、できません。
人間の道徳は内省、つまり、自分の行為の結果を自ら問いかける能力にもとづいています。
それはもちろん動物にはないものです。
動物の愛他的行動とは、他の家族を利するものをいうのですが、それはつねに系統発生的、本能的なものです。
しかし、人間の社会的行動のうちにも同じような具合にプログラミングされたものがあります。
それはまったく本能的なものです。
もし、子供が水に落ちるのを見たら、私は何一つ考えたりせずに、やにわに水に飛び込むでしょう。
ですから私は、人間の愛他的行動、正常な愛他的行動も、そのきわめて多くが本能的なものだと確信しています。
人間はそれを認めたがらないだけです。
人間は自分の行動がすべて理性に支配されていると信じたがります。
知能的、理性的には動物は大部分の人々が考えている以上にわれわれと違っています。
とくに、動物の好きな人々が考えている以上に…。
けれど感情的には、彼らは私たちとたいへんよく似ています。
人間と動物の類似性は感情的なものにあるのです。
「愛他的」という表現は時代的なものなのだろうか。
弟子のドーキンス博士ならば「利己的」なのだろう。
ドーキンス博士のローレンツ博士から
受けた影響力やいかに、と思いつつ
ドーキンス博士の自伝、以前読んだ時は
全くのスルーだったのでもう一度読んでみたい
と思った。
どこまで本能か から抜粋
日高▼
先生は『攻撃』の中で、こんなことを言っておられますね。
「人間がまったく理性的に生きたとしたら、きっと天使に近いものになるだろうとカントはいった。しかし、それは正しくない。もし人間がまったく理性的に生きたらば、おそらく天使とは正反対のものになるだろう」と…。
ローレンツ▼
正確にはカントはそういっていません。
道徳とは自分の本能的傾向に逆らってなされた行為であると考えました。
けれどこれはまちがっています。
この点では私はカントと考えが違います。
しかし、私が自分の自然の傾向に逆らって行った行為は、そうでない行為よりもっと道徳的なものだということはおそらく正しいでしょう。
自分の自然の傾向に逆らって何かを行うのは道徳的なことです。
例えば、戦場で友人が傷つき、私が生命の危険をおかしながら弾丸をくぐって彼を連れて帰ったとします。
カント流のいいかたでは、これは道徳ではありません。
私はそれをせずにはいられなかったからです。
けれど、もしそれがまったく知らない男であったのに、私が同じことをしたら、カントはそれを道徳と呼ぶでしょう。
あなたが自分なり、他の個人なりの行為を判断し、評価する時には、おそらく自然の傾向に逆らってなされた行為をより高く評価するでしょう。
しかし、人類についていうのなら、自然的な傾向からそのような愛他的行動をとる人のほうが、「自分はそんなことはしたくないけれど、名誉のためにはやらねばならぬ」と思ってやった人よりも、いい人だというのは確かです。
友情から危険をおかしてくれる人は親友です。
彼はそうせねばならぬと教わったから、してくれる理性的な冷たい心の持ち主よりも、私を愛しており、私の心に近いからです。
日高▼
先生の考えによれば、人間の行動は学習されたものだといわれるけれど、実際にはほとんと全てが本能的というか生得(せいとく)的なものだというのですね。
ローレンツ▼
アメリカの古い心理学者、ウィリアムス・マクドウガルが、たしか次のようにいっていたと思います。
「人間には質的に違った感情がいろいろあるが、人間はそれと同じ数だけの本能を持っている」と。
これはまったく正しいと私は思います。
もちろん学習されるものは、文化によって違いますし、われわれが心を動かされ、熱中する対象も違っています。
ある人は戦争に熱中し、戦争に出てゆくのでしょうが、われわれはおよそ反対です。
ある人は煽動に熱中します。
そして私はチャールズ・ダーウィンに熱中します。
対象は違いますが、感情の基盤となる本能は同じです。
それが人間の人間たるところです。
日高▼
確かに人間は学習もしますが、学習するということ、学習できるということ自体が生得的なものなのですね。
ローレンツ▼
まさにそうなのです。
その逆に考えるのはまちがっていますし、ナンセンスです。
なぜなら、もしたくさんの細胞を含んだ脳が人間に遺伝的に備わっていなかったら、人間は何一つ学習できないからです。
われわれの文法的言語の能力の座は右利きの人では左側の側頭葉にありますが、もしわれわれに語彙を教えてくれる文化がなかったら、この器官は宝のもちぐされ同然になってしまいます。
そしてチョムスキーがはっきり示しているように、われわれが学習するのは言語でも文法でもなく、ある言語の語彙なのです。
日高▼
行動の発現、あるいは学習の可能性が、成熟に依存する場合も多いですね。
生得的にはそなわっているが、あるところまで成熟しないと現れてこないというように…。
ローレンツ▼
行動様式の多く、学習能力さえも、きわめてゆっくりと成熟してきます。
もちろん練習や訓練によって、この成熟を早めることはできます。
けれど、私は高校時代、数学がまったく不得手でした。
とくに、微分、積分には苦労しました。
ところが3年後、妻が試験を受けることになって、私が彼女の勉強を手伝った時、驚いたことに、実にスラスラと解けるのです。
ですから、たった三年の違いで、ちょっと前にできなかったものが、非常にやさしく学習できるということもしばしばあるのです。
日高▼
人間にはいくら教わってもダメで、自分で体験してみなければわからないというものもありますね。
あれはどういうことですか?
たとえば、ぼくはいつも冗談に言うのですが、小説をいくら読んでも恋愛はうまくならない…。
ローレンツ▼
まったく(笑)。
多くの学習にとって、それに特異的な時期というものがあるのだと思います。
そして、人間の神経系は能力一杯に使わねばなりません。
さもないと、筋肉と同じように萎縮してしまいます。
使わなければ退化してしまうのです。
脳についても同じなのです。
目の網膜、もっとやさしい言葉はなかったですかね。
目の光を感じる膜のことです。
日高▼
やっぱり網膜でしょう。
ローレンツ▼
他の言葉はないですね。
とにかくその網膜についてこんなことが知られています。
いささか残酷な実験ですが、チンパンジーの赤ん坊をまったくの暗闇の中で数ヶ月育てると、もはや光に感じなくなってしまいます。
ものを手にとることができず、そこらのものにつきあたります。
このことからある人々は、空間的にものを見ること、空間的な定位は、学習しなければできないといっています。
ところがよく調べてみたら、このかわいそうな赤ん坊ザルは、網膜が完全にだめになっていたのです。
完全に退化して、網膜らしきものすらありませんでした。
ある時期に学習されねばならぬ多くのことについても、きっと同じことが言えると思います。
「老犬には新しい芸を仕込めない」というのですが、人間にもあてはまるでしょう。
日高▼
ある経験や学習をしても、それが生きてこないということがありますね。
ローレンツ▼
そうです。
それが学習というプロセスの特徴です。
狭い意味での真の条件反応は消し去ることができるものです。
私の心理学の先生であるカール・ピューラーは、「学習とはふたたび忘れ得るもの」と定義しています。
動物からの視点で人間を考察するってのは
今では珍しいことではないのだろうけど
ローレンツ博士の現役の頃では
ダーウィンの時代ほどではないにせよ
今とかなり異なるのだろうなと。
されていて、日高先生が若い頃ラジオ出演し
質疑応答になった時、学校の先生が税金で
蝶の研究なぞ、役に立たないことをしていて
どういう了見なのかと問われていたようで
そんな時代だったのかと半世紀前の
興味深いエピソードが。
日高先生のその時の回答も書かれていたが、
それがまた先生らしくて素敵だったのだけど
村上先生曰く、日高先生はローレンツ直系の人だ、
というような記述があり、
なるほどなあ、と感嘆してしまった。
それにしてもこの対談、通訳を通さず
ドイツ語なのか英語なのかわからないけれど
拮抗する知性で渡り合えるのは日高先生を置いて
他にはないだろうなあとシビレまくった
夜勤明けの朦朧とした昼下がりでございました。
あ、雑誌は日本語で掲載されていて映像を
みてないので単に自分の想像でございますこと
謹んで付記させていただく所存です。