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周辺から阿部謹也先生のお人柄に触れる [’23年以前の”新旧の価値観”]

阿部謹也最初の授業・最後の授業―附・追悼の記録


阿部謹也最初の授業・最後の授業―附・追悼の記録

  • 出版社/メーカー: 日本エディタースクール出版部
  • 発売日: 2008/9/1
  • メディア: 単行本

授業内容に興味があって入手したものの


授業・講義よりも「附・追悼の記録」の


方がなかなか読ませられた書でございます。


 


追悼の記録


■深読み


先生の言葉(2006年12月号「群像」) から抜粋


安斎雅之(作家)


先日、先生が死んだ。

先生とは、私の大学時代の恩師、阿部謹也氏のことである。

享年71歳。

先生は日本を代表する歴史学者の一人として有名だが、私にとってはまさに人生の師匠と言うべき存在であった。

ハーメルンの笛吹き男』『「世間」とは何か』など、その著作は数多いが、私が先生から受け取った重要な言葉のほとんどは、活字からではなく、もっぱら先生とのたわいもない雑談においてであった。

学校や喫茶店など様々な場面で受け取った言葉は、今も私の心に奇妙な引っ掛かりを残している。

軽い冗談の一言も弟子からすると、そのひとつひとつが深い意味の塊のように思えた。


かの内田樹先生曰く、師とは、わけのわからない謎を投げかけることによって、常に弟子をリードする存在である。

弟子がその言葉を勝手に深読みし、大いに誤解することによってのみ、師はより偉大な師となっていくのだ。

まったく、先生の言葉ほど深読みして楽しいことはない。


ある飲み会の時、先生は、出た刺身を食べてしみじみとこう言った。

「魚を獲って暮らす人は幸せだ」

それを聞いた弟子の我々は、飲み会が終わってから延々とその言葉の解釈について議論した。

「漁師になりたいということかね」

「いや、歴史的にもっと漁師に注目しろと言っているのだ」

「いやいや、所詮、学者などというのは虚業だと言うことだ」

「違う、キリスト教的見地から人間の営みを考えろということだ!」

「えー、単純にこの刺身おいしいねっていうことじゃないの?」

「(一同)違う!」


■ドイツ、オーストラリア旅物語 第21回


生と死の世界11 (「波」2006年12月号)から抜粋


赤川次郎(作家)


私はあるカルチャースクールで阿部さんの講座があるのを知って、何回か通った。

そしてその数年後に、雑誌「世界」で受け持っていた連載対談の相手に「阿部さんをぜひ」とお願いして、お目にかかることができた。

もちろん阿部さんは「三毛猫ホームズ」の作者のことなぞ知るわけもない。

お会いして、

カルチャースクールでお話を伺いました

と言うと、阿部さんは、

だからああいうのはいやなんだよな、誰が聞きに来てるか分からないんだから

と、苦笑されていた

私に阿部さんの学説を紹介することなどできないが、対談の後、雑談をしていて、

うちの子はあまり僕の本を読みません

と言うと、阿部さんは、

うちなんか絶対に読みませんよ!

と、強い口調で言っていた。

小説と研究書では違うだろうが、温厚な印象ではあっても、お宅では結構気難しいのかな、と思ったことを憶えている。

学究肌という人ではなく、中世の研究が今の日本の世の中にどう活きるか、常に考えていたと思う。


学問の世界にあって、阿部謹也さんは、一種「異端」であったかもしれない。

もちろん、これは一素人の漠然とした印象でしかないけれども。

もともと、阿部さんがヨーロッパに関心を持ったきっかけは、子供のころ、家が貧しくてカトリックの修道院の施設で暮らしたという経験から来ている。

阿部さんはそこで、聖職者や修道女の、表向きの顔とは別の生々しい感情や個性に触れて、キリスト教についても懐疑的な目を養ったようである。

対談のときも、ヨーロッパの文化がキリスト教文明そのものと思っていた私は、阿部さんが、キリスト教が本来のヨーロッパの文化を変えてしまった、といった意味のことを言われるのを聞いて、ハッとした。


阿部さんは、「きれいごと」の歴史よりも、むしろどの時代にあっても存在した「差別された人々」に強く関心を寄せた

今は「ロマ」と呼ばれるジプシーや、死刑執行人、皮革(ひかく)業者などの、市民社会の外にいる人々にこそ、真の庶民の歴史がある、と考えておられたのだろう。

ともかく、私はそれまでドイツ文学の中で読んでいた「放浪学生」や「職人」たちの具体的な映像を、阿部さんの著作から得たのである。

ヘッセの諸作に見る、「さすらう」ことの意味。

それを日々の日常生活という形で教えてくれた阿部さんの著書を、またいつかゆっくりと読み返してみたいものだ。


■編集部の手帖


阿部謹也さんのもとから離れなかったもの(毎日新聞2006年10月8日)


松家仁之(新潮社)


『ハーメルンの笛吹き男』(1974年)や『中世の窓から』(1981年)など、ヨーロッパ中世に生きた人々の世界を描く著作は、歴史の表舞台には現れない仕立屋や石工、靴職人、桶職人、そして、子どもたちや寡婦など庶民の世界をあざやかに蘇らせた、無類の面白さと新鮮な驚きに溢れるものでした。

世界史に名を残す歴史的人物や事件の評価は、時代の流れとともに大きく変わる場合があります。

しかし、阿部謹也さんの著作が描き出した無名の人々の世界は、今後、新たな発見が加えられることがあるにしても、180度評価が覆ることはないだろう、と感じられるものでした。

そこには人間の普遍的な何かが、生身の人間の息吹をともなって描き出されていたのです。


歴史の全体像とは、大きな事件の羅列だけでは成り立ち得ないものだということを、阿部謹也さんの著作は私たちに伝えました。

そしてこの普遍性は、「歴史とは何か」を根本的にとらえ直すことにもつながる批判的視点を含んでいました。

阿部謹也さんの後年の大きな研究テーマとなった「世間」論の土台は、すでにここでしっかりと築かれていたのです。


■書評


阿部謹也著『歴史家の自画像』(日本エディタースクール出版部)


遠い時代の生活感覚探る から抜粋


竹内洋(関西大学教授)


(読売新聞2006年12月10日)


歴史小説や時代小説は、あくまで現代人を描いているのである。

そこには「われわれが知らない人間は出てこない」。

だから時代小説や歴史小説は「現代小説」なのだ。

歴史小説や時代小説は、たしかに人間を描いてはいるが、必ずしも中世や江戸時代の人間そのものを描いているわけではない。

だとすれば、歴史家は、考え方が現代人とは違う遠い時代の人間を再現することをこそしなければならない。

現在とはまったくといっていいほど異なる

風景や音や匂いのなかでの人々の生活感覚をすくいだすことによって、いまの社会人や人間を相対化できるからである。

著者の社会史研究はまさにそういうものだった。


■最初の読者から


遺書のような 阿部晨子


(「一冊の本」朝日新聞者社2007年1月号)から抜粋


近代化と世間』の校正をしていた夫は、赤ペンで、数行書き加えました。

2006年9月4日の午後のことです。

その日の夜、阿部謹也は、急逝しました。

そのため、この本の三校のゲラは私が見ることになり、

この本の中には僕のこれまでの仕事が、全て入っている。総決算みたいなもの」

と夫が話していたのを思い出したのでした。


ゲラを見ていて、さらに思い出すことがあります。

トインビーが75歳の時に書いた文章を読んでいた夫は、

「トインビーは西欧文明が嫌いだと言っている。その理由は、西欧文明がヒットラーやムッソリーニ、原爆を生み出し、2度の世界大戦を起こしたからだという。そして、トインビー自身は、西欧の人間として、ヒットラーにも原爆にも責任を感じている」

と言いました。

「トインビーは昔日本へ来たことがあったわね。イギリス人なのに、ヒットラーや原爆に責任を感じているとは偉い。自分の国がしたことに責任を感じていない人も大勢いるのに」

というように私は答えました。

夫は、人類の未来、地球の現状を憂うる気持ちを強めていました。

人類の危機が、ここまで来た原因はキリスト教にある。人間がこの世の主人であり、動植物はその人間に仕えるためにあるというキリスト教のもとで自然科学が進み、西欧文明が栄え、自然破壊、地球の温暖化などの危機が迫ってきている

それなのに危機を感じても、人々は自分は何もできないと諦めて、日々の暮らしにいそしんでいる」。

西欧文明を批判する夫は、「山川草木国土悉皆(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という仏教の方へ気持ちを寄せていたようです。

しかし最後まで、「自分は無宗教だ」と言っていましたので、葬儀は無宗教にしました。


夫は親鸞の呪術の否定、世間の否定という生き方を高く評価していました。

「親鸞は来世を語らなかった。往相(おうそう)とは、死後のことではなく、この世で、一定の理解に到達すること。還相も勿論、いかに生きるかという中にある」

というように理解していたようです。

最後まで如何に生きるかを考えていたのでした。


奥様しか書くことのできない文章で


先生をとてもよく


表されているのだろうなあと。


自分はよく知っても読んでも


いないのだけど。


最後の書は、数ヶ月前読んでみたけれど


そこまで深いものだったとは全く気づけず。


解説の養老先生は流石に指摘されておられたけど。


最後はこれまたならでは


ご子息の文章でございます。


大変ユニークでした。


記憶の断片を訪ねて 阿部道生


から抜粋


記憶に残る父との対話は、そのほとんどが幼少期に集中している。

中学以降の自分は漠然とした気持ちとして、

父と正面きった喧嘩をしてはいけない

と感じており、結局のところ対話らしい対話も晩年まであまり話さなかったような気がする。

自分も父も、はっきり言ってしまえば世で言うところの「喧嘩好き」の部類に入るはずなので、この感覚は不思議なものではあった。


ご子息は、先生は


いろいろ口うるさく助言してくるものの


礎は小樽で過ごした少年時代にあり


「基本的根幹の部分が父との関わりと


共に形成されていったことに気づ」かされ


意義深く、今は感謝されていると


いうようなことが記される。


 


阿部先生の家族ってのもなかなか


大変だろうなあ、と。


これだけ世界を渡り歩かされ、


知の巨人である一家の大黒柱


財政面では労はなかったかもしれないが


メンタル面でのプレッシャーはいかほどか。


 


とはいえ、なんとなく感じるのだけど


先生の言っていることから、


そこはかとなく感じるのが


”自分であれ”、っていうのが根底にありそうなので


支障ないかもしれないが、って他人が


とやかくいうことじゃないす、すみません。


 


最初のくだりで喧嘩好きってあるけれど


阿部先生のイメージは温厚で喧嘩好きには


見えないのだけど違う面もあったのかもしれない。


誰でも家族に見せる顔というのは


パブリックとは異なるだろうが。


 


一言だけ追加、ご子息によると先生は


捻くれていた、とのこと。


シンパシーを感じるわけだよ、やっぱりなあ、と


思った土曜日、昼ごはん作らないと。


 


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