2大巨人の対談から遺伝について触れる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 黙出版
- 発売日: 2001/02/01
- メディア: 単行本
まえがき 日高敏隆 から抜粋
農工大のときには大学紛争といわれている全共闘運動があった。
ぼくも若かったから、学生とはよく話をしたりしていた。
その中で、講義がおもしろくないという話があった。
講義をおもしろくするためには、どうしたら良いか?
それは先生方もいろいろ考えていたようで、なかには学生にアンケートをとる先生もいた。
学生たちがなにを聞きたがっているかを調べ、それに応えようというのである。
しかし、その先生の講義は、最初は学生が来るのだけれども、たちまちにして減っていった。
ぼくにはその理由がよくわかるような気がした。
ぼくは一般教養の生物の担当で動物学の講義を担当していた。
そこで、どういう講義をしようかと考えた。
自分がいままで受けた講義でなにがおもしろかったかと考えてみると、自分が少し知っている話をやさしく教えてもらった話は、ぼくにはちっともおもしろくなかった。
ぼくがおもしろいと思ったのは、それまで自分がそんなことは考えたこともなかった話を聞いたときだった。
普通の講義がなぜつまらないかというと、みんなが一応知っているような話をやさしく噛み砕いてくれるから、結局飽きてしまうのである。
それをおもしろがるような人というのは、大学に来る必要はないのではないだろうか。
大学では学問をやっている。
その中で、いままで「こういうものだ」と思っていたことが、じつはそうではないということがわかって、目が開かれる。
それが大学なのではないか。
ぼくはそう思っていたから、とにかく解説的な講義をするのはやめようと思った。
人間でもある種の文化というのは非常に単純だとかいわれているけれども、やはりそういう文化を持った集団が存在している。
それは、その中でうまく辻褄があっているのである。
どの文化の価値が高いということはない。
動物だって、腔腸動物は単細胞動物より上だとか、脊椎(せきつい)動物はもっと上だとかいうことはない。
みんなそれなりに一つのパターンをもっているのである。
そういうものだとすると、これは人間の文化の型と同じように、一つの文化である。
そういう講義をしていったのである。
この講義をまとめて、本をつくった。
それが『動物という文化』である。
これを講談社学術文庫に入れるときに、解説を誰に書いてもらうかということになった。
ぼくは、阿部謹也先生にぜひお願いしたいと思った。
阿部先生は、本を読んで知っていただけだったけれども。
そのころ、中世というのは科学の世界としては暗黒時代と言われていたし、キリスト教に支配されたすさまじい世界であったとか、そんな話ばかりだった。
でも、そんな中世が何百年も続いている。
そんなにひどい暗黒時代だったら、なぜ早く終わらなかったのか?
なぜ何百年も続いたのか?
中世の人々はけっこうそれなりに楽しく生きていたのではないか。
阿部先生の本を読むと、どうもそういうふうに思える。
きっとこの先生は、動物における文化の型というぼくの考え方をわかってくださるのではないかと思った。
大学の存在価値はやはり学問をする、学問の仕方を身につける場所だというところにあるのではないか?
これがぼくのずっと思っていたことだ。
しかし、それだけなのだろうか。
最近ぼくは、動物の発達というか成長の過程のような話から、ふと、人間という動物は一体どういうふうに育ち、学習していくものなのかということが気になってきた。
石器時代、こんなに武器もない動物が一人で生きていけるわけはないので、集団をつくったであろう。
そうすると、その集団の中で生まれた子どものまわりには、年齢も性別も、キャラクターも違い、能力も違う、いろいろな人がたくさんいる。
子どもたちは、そういう人々がどういう感情をもっているか、なにをしているか、どういうときにはどうするのかということを好奇心をもって見ていて、それを学びとっていくように人間の学習のプログラムはできているのではないか。
つまり、非常に多様な人がまわりにいることが必要なのではないかと思えてきたのである。
ところがいまの世の中は、個人の尊厳やプライバシーを大切にするあまり、どんどん核家族化している。
そうすると、結局子どもたちはなにを学べるのか。
石器時代にはうまくいろいろなことが学べていたのが、この現代になったらなにも学べなくなったということではないだろうか。
大学というのは幸にして、18歳から22歳の集まりである。
その年代というのは大体の人にとってみると、ちょうど男も女もおとなになって、男と女の関係というのができてくる時期でもある。
先生もまた、若い先生から年寄りまでいるし、事務職員の人もいる。
要するに大学は、石器時代と非常によく似た状況になっているのである。
だから大学では、知識としてはなにも勉強しなくても、非常に大事なことを勉強することになるのではないか、それが大学の一つの大きな価値なのだと、いまぼくは考えている。
銭湯の文化がなくなって、
人情が廃れたというのは
田村隆一さんの詩にあったというのを
前にもブログで投稿した。
大学には行かなかったけれど、自分の経験から
専門学校では確かに自分たちの
狭いコミュニティしか交流してなかった。
いろんな年代、人たちと交流できるようになったのは
社会に出てからだった。
もっと早くに交流できれば、とは思うけれど
それができにくい社会システムに
なっているようにも思うし
内気な国民性も影響しているかと。
第三章「学び」の原点はどこにあるのか
ウグイスは「カー」と鳴けるか から抜粋
日高▼
ぼくは、「文化」というものの基盤にも遺伝的なものがあるのではないかと思っているんです。
その手始めが学習です。
たとえばウグイスが「ホーホケキョ」と鳴きます。
これは遺伝的に決まっているみたいで、ウグイスという鳥は、「ホーホケキョ」としか鳴かない。
けれども、それは学習しなければならない。
遺伝的に決まっていないのであれば、これは本能ではないということになる。
だからホーホケキョは本能ではない。
親鳥の「ホーホケキョ」の声を聞いて学習をするわけです。
ところが、変な研究をした人がいましてね。
生まれてすぐにカラスの声を聴かせたらそれを学習して「カー、カー」と鳴くウグイスができるかという、そういう類いの学習をやったんです。
さて、どうなったか?
そのウグイスのひなは、生まれて初めて聞く声なのに、カラスの声にはまったく関心を示さない。
ところが、ウグイスの声にテープを切り換えてやると、にわかに関心をもつようになる。
そしてウグイスの声を学習してしまう。
つまり、ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴くけれども、遺伝的に鳴き声まで決まっているわけではない。
では、すべて学習によって決まるのかというと、カラスの声は学習しない。
結局、「ホーホケキョを学習しなさい」ということは、どうも遺伝的に決まっているらしい。
「こういうものをお手本にしなさい」ということも決まっているらしい。
ところが遺伝的に決まっているのはそこまでですから、学習しなければ鳴くことはできない。
しかも、学習する時期も決まっていて、あまり年をとってからではいけないんですね。
それも遺伝的に決まっているらしい。
結局どういうことになるかというと、
「遺伝的に決まっているものを具体化するのが学習である」
というところに落ち着きます。
とすれば、いままでの教育論のように、
「教育とは、遺伝子DNAにインプリント(刷り込み)されていない情報を教えることである」
とは言えないことになりますね。
阿部▼
いや、それはおもしろい問題ですね。
たとえば、いまの「ホーホケキョ」というのも、カラスの声に置き換えたのではあまりにも音が違いすぎてウグイスには反応できないようになっているけれども、もし「ホーホケキョ」にいくつもの変形をつくって聞かせたらどうなるかという実験も…。
日高▼
コンピュータでやっています。
それに、音をずらすと、それを聞いたウグイスは変な音を覚えるかというと、必ずしもそうではない。
かなり本当に近い声で歌うようになります。
これは教師にとっては非常に幸せな話であると。
先生が多少おかしなことを言っても、生徒はちゃんと学んでいくということになりますからね(笑)。
遺伝子では人間はわからない から抜粋
日高▼
ぼくの親父は運動選手だったんですよ。
けれどもぼくはまったく運動ができません。
ですからそういう意味では、ぼく自身はまったくそういうにはないと思いますね。
ある遺伝子があるから、非常に特殊な病気を発病するというのはちょっと別かもしれませんけど、一般的にいえば、遺伝は個人の生活にあまり関係はない。
たとえば、両親とも理学博士という人の子どもは学校の成績が良くないですねえ(笑)。
阿部▼
(笑)…そうですか。それは、ねえ…。
日高▼
特に数学ができないとかね。
阿部▼
ごめんなさい、ちょっと余計なコメントさせていただくとね、ぼくの知人で両親とも校長先生というのがいるんですよ。
両方とも国語なんですが、これはもう、その子というのが悲劇なんだなあ。
とにかく先生は建て前で教えますよね、学校では。
日本の学校は全部そうです。
それを自分の家でもやろうとするから悲劇が起こるわけです。
今のお話では、理学博士であるということーーーこのこと自体が原因でその子ができないんですよ。
両親に理学博士をもったということがこの子の不幸なんでね(笑)。
それがたぶん勉強ができない原因で、もし両親が理学博士でなければ、この子ももう少し伸びたかもしれない(笑)。
日高▼
かもしれない、いや、そうですよ。
だから、このごろほうぼうでやっているヒトゲノムの話ーーーゲノムが全部解ければ人間がわかるなんて、そんなものでは絶対ないはずなんですね。
遺伝子というものはそういうかたちでは考えられない。
だからぼくは「遺伝的プログラム」ということをいっているんです。
「遺伝子」と「遺伝的プログラム」は根本的に違う話ですからね。
ウグイスの話と、
遺伝子と遺伝子プログラムって
実に興味深いお話でございます。
親が勉強できないからって子どももそうなるとは
限らないということは明るい希望が持てたぞ!
ここまでなら素人の私でもついていけます。
さらに話は続いて。
「死後」の話は現世の問題のあらわれ から抜粋
日高▼
さっき先生がおっしゃられた自分の思想や生き方を残したいというのは、「ミーム」という概念と関係があります。
ミームというのは、文化の情報をもち、模倣を通じて人間の脳から脳へ伝達・増殖する仮想の遺伝子のことです。
いわば実体のない「価値」の遺伝子なんですね。
イギリスの生物学者、リチャード・ドーキンスが遺伝子(Gene)という英語にかたちを合わせて、ギリシャ語で模倣を意味するミーム(Meme)という言葉をつくったんです。
あれも、ドーキンスがあんまり遺伝子の話をすると、反発があるらしいんですね。
「人間は違うぞ」ということをいわないと、イギリスではなかなか容れられないようです。
イギリスにも世間というのがあって、そういわないとイギリスの世間の中では生きていけない。
そこでミームということを考えついたんでしょう。
ところが、あの概念自身は、その後いまに至るまでちっとも発展していないんです。
最近、ミームについてある研究者が本を書いたんですが、これは「ネイチャー」という科学雑誌でコテンパンに叩かれていましたね。
要するに「航路図のない夜間飛行をしているようなものである。結局、彼女は見事に失敗した」というふうに書いてありました。
「研究者」って誰だろうな。
時期からしてこの方のことなのかもしれん。
だからいまお話しした「ミーム」というのは、自分の思想を残したいとか、作品を残したいとか、そういう遺伝的な概念の範疇の話です。
仮に残したとしたって別にその残っている状態を自分では見られないわけですが、「残っていてほしいと思う」のは、いったいなんなんだという話なんですね。
それは遺伝子ではない。
すると、遺伝的プログラムの話は、とにかく遺伝子たちがなんとかして自分たちの遺伝子を残していくのだという話になるんですが、人間の場合には、それはミームというものがくっついている。
ミームというのは、遺伝子と対立する場合もあるわけですよ。
「子どもをつくらなくてもいい。そのかわり立派な作品を残したい」
という人だっている。
これは自分のミームを残したいと思っているのであって、子どもは残したくないと思っているということなんです。
つまり、遺伝子は残したくないと思っている。
これ、対立しますでしょう?
ほかの動物にはミームなんていうものはないんですね、たぶん。
まず犬や猫にはないと思うんですよ。
猿山のボス猿にしたって、自分の名声を残したいとは思っていない。
ところが、やはり人間はなにかもっているんですね。
そうなのかなあ。人間と動物は違うのかなあ。
いや、文脈からいくと、生物の中で人間だけ
我欲が強いというか、見栄とか体裁とかが
あるってことか。
ちと、尻切れトンボ的なのですが
この後、死後や墓の東西の考え方に
話は続いていき今でいう
グローバリズムに話は及び
介護の話もこの時点でされ
最終的に学問の話に戻る。
まなびの話題にとどまらず
「人間」がテーマなので
普遍的で興味は尽きませんが、
文字数の関係や疲れてきちゃったんで
ここらあたりで締めさせていただきます。
すみません!
日高・阿部両先生の研究は
継続決定ですな、これは。