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なぜ、脱成長なのか: 分断・格差・気候変動を乗り越える:ヨルゴス・カリス/著、斎藤幸平/解説(2021年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


なぜ、脱成長なのか 分断・格差・気候変動を乗り越える

なぜ、脱成長なのか 分断・格差・気候変動を乗り越える

  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2021/04/28
  • メディア: Kindle版

「付録・脱成長に関するよくある23の質問への回答


具体的にわたしに何ができるのでしょう?」


から抜粋


わたしたちの日々の行動を変えれば、炭素排出や

マテリアル・フットプリントの軽減につながります。

たとえば、買うモノは少なくして、多くを共有する。

可能な限り再使用や再生利用をする。

肉の消費量を減らす。飛行機や自動車の利用を

減らし、電車など公共機関や自転車を多く利用する。

再生可能エネルギーのプロバイダー、理想的には

協同組合の電力会社からの電力供給を受けるなど。

こうした取り組みを進めていこうという志のある人を、

選挙で選んでいくというのも、わたしたちにできる活動です。

現役の議員などに対し、成長礼賛をやめ、

第4章で挙げた5つの改革に取り組むことを要求し、

そうしないなら次の選挙で票入れないという

意思表明をしていくこともできます。

支持する政治家や政治団体の組織化や広報活動を

手伝うこともできるでしょう。

労働組合や学生自治会に参加していないのなら、

参加し、ストライキなどによって労働条件の改善や

労働時間短縮を求めていくこともできます。

気候変動への対策を要求していくこともできます。

緊縮財政、住居の立ち退き、大学の学費の値上げ、

学生ローンの取り立てに対する抗議運動など、

直接的な反対運動に参加することもできますし、

自治体に対して住民の権利や居住権、

あるいは労働者、女性、移民、清掃員の権利を

要求して行動を起こすこともできます。

街や職場で起きている闘いは、

そもそも経済成長ばかりを追求し、成長のために

大きな犠牲を要求している勢力のせいで

始まったのだということを理解するのも、

大事な行動のひとつです。

もちろん、こうした活動を一気に全

部やることなどできません。

わたしたちも、さまざまな面で過酷に

なるばかりの現実のなかで、

生活していかなければなりません。

それでもわたしたちは、他者とともに

人生の楽しみを見出していく権利があります。

パーティを開く、音楽をつくる、会話をする、

抗議運動をする……どれも、誰かと人生を

分かち合う行動です。

自分が誰かを助ける側になることもあると

心得てさえいれば、弱点を見せ、誰かの手を

借りることも、引け目に思う必要などありません。

理想通りに行動できない場合もありますが、

それも受け止めて生きていけばいいのです。

(ただし、言行不一致が多すぎると「偽善者」になることを忘れないように!)


第4章


「道を切り拓く5つの改革」


から抜粋


改革1  成長なきグリーン・ニューディール政策

改革2 所得とサービスの保障

    ユニバーサル・ベーシックインカム

    ユニバーサル・ベーシックサービス

    そしてユニバーサル・ケア・インカム

改革3 コモンズの復権

改革4 労働時間の削減

改革5 環境と平等のための公的支出


「相乗効果」 から抜粋


これら5つの政策には相乗効果がある。

法人税や富裕税の見直しを行えば、

グリーン・ニューディール政策や

ベーシックサービスの資金調達が可能になる。

ベーシックインカムや、炭素課金収入の分配で、

一部の市民において消費活動が刺激されるかも

しれないが、資源使用税や炭素課税が適切に

設定されていれば、生態系に悪影響を

およぼす活動を抑止することができる。


「日本語版解説 資本主義に亀裂を入れるために 


斎藤幸平」から抜粋


本書はギリシャ出身でバルセロナ自治大学で

教鞭を執る経済学者ヨルゴス・カリスが、バルセロナで

教える二人の研究者

(ジャコモ・ダリサならびにフェデリコ・デマリア)と、

フロリダ大学教授のスーザン・ポールソンとともに、

共著で刊行した脱成長の入門書

『The Case for Degrowth(脱成長のために)』

(Cambridge : Polity,2020)の翻訳である。

カリスは『エコロジカル・エコノミクス』の

ような学術誌に実証系の論文を掲載するのみならず、

Limits: Why Malthus Was Wrong and Why 

Environmentalists Should Care

(限界:なぜマルサスは間違っていて、

環境保護主義者はそのことに

目を向けるべきなのか)』

(Redwood city: standord Universuty

Press,2019)などの

思想史関連の著作も勢力的に刊行しており、

今、世界的に注目を浴びる新世代の脱成長論者の一人である。

(※)

※カリスのこれまでの研究内容がまとまっているものとして、

第15回地球研国家シンポジウムの日本語通訳付きの講演がある。


なぜ今、これまではあまり顧みられることなかった

「脱成長」や「ベーシックインカム」

「人々のための量的緩和政策」のような

ラディカルな提案に、

入門書が求められるほど関心が集まっているのか。

その理由を端的に言えば、主流派の

持ち駒のうちに危機的状況への

打開策が見当たらないからである。

そして、その結果、ますます事態が

深刻化しているせいなのだ。

新自由主義が世界中を席巻する中で、

緊縮財政、規制緩和、民営化、大企業や

富裕層の減税が

いたるところで推し進められてきた。ところが、

さまざまな構造改革にもかかわらず、先進国際経済は

長期停滞から抜け出せないでいる。異次元の量的緩和や

ゼロ金利政策も、実体経済を回復させることなく、

過剰なマネー供給による株高や不動産投機を

生んだだけだった。

結局、その恩恵を受けるのは一握りの富裕層ばかり。

格差はますます広がり、今や世界の上位わずか26人が

全人口の下位半分と同じだけの資産を

所有するようになっている。

一方で、庶民の暮らしはますます苦しくなっており、

トリクルダウン」は神話だったと言わざるを得ない。

もはや、新自由主義の限界や矛盾は明らかなのに、

政治家やエリートたちは、暴走する強欲資本主義に対して、

有効な解決策を提示することがまったくできていない。

彼らも大企業から多額の献金をもらっているし、

なにより、この格差を生み出した社会構造から多くの

恩恵を受けているからである。口先の綺麗事ばかりで、

問題解決に向けて断固とした態度を取らない

エスタブリッシュメント」の支配に不満を

募らせた大衆は、

排外主義的な右派ポピュリズムの支持に走り、

社会の分断は深まっている。

だが、格差問題はそれだけではない。


気候変動の破壊的影響に晒されるのは、

自分たちではほとんど二酸化炭素を出していない

低所得者層なのである。

気候変動問題は顕著であるが、

資本主義のグローバル化によって、

人類の経済活動は惑星規模に及ぶようになっている。

ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは

「人新世」(Anthropocene)という言葉を用いて、

人類の影響力の大きさを強調した。

人類は一つの地質年代を形成するほどの力を

持つようになっているのだ。

産業革命とともに始まった化石燃料の大量消費は、

鉄道、自動車、飛行機を生み出し、

人とモノの大量移動を可能にし、道路や線路の拡張に伴って、

人間の活動範囲はどんどん拡大していった。

また、ハーバー・ボッシュ法の発明に始まる化学肥料の

大量生産は食糧生産を飛躍的に増大させ、

人口爆発を引き起こした。

増え続ける人類はこれまで手付かずだった森林を住宅や

農地のために切り開き、いたるところで膨大なゴミを

生み出してきた。

こうした変化は、特に、第二次世界大戦後に

急速に進行しており、

一般に「大加速時代」(Great Acceleration)と

呼ばれる。

その帰結が現在の人新世の危機である。

もちろん、これまでも急速な経済活動の拡張によって、

格差や公害の問題が数多く生じてきた。

それでも、事態は経済成長と技術革新によって改善され、

すべてはうまくいっているように見えた。

実際、日本に暮らす私たちは経済成長の恩恵を

間違いなく受けてきたし、経済成長こそが社会の

繁栄にとって不可欠であるという考えは、

私たちの「コモンセンス」(常識・共通感覚)に

なっている。

だが、近年人類の経済活動が

「地球の限界」(Planetary Boundary)を

突破してしまったという警鐘が鳴らされるようなっている。

事実、もはや経済成長の恩恵よりも、

犠牲の方が大きくなっていると感じることが

多々あるのではないだろうか。

原発事故、気候危機、そしてコロナの

パンデミックなど、

行き過ぎた経済発展の弊害とでも呼ぶべき事態は

立て続けに起きている。

いや、それだけではない。

今や生物多様性の損失、砂漠化、

海洋プラスチックゴミ問題、窒素循環の撹乱など、

解決の見込みもないような数多くの問題が、

この惑星の未来を脅かすようになっているのである。


もちろん、新しい世界を思い浮かべることは、

容易ではない。だが、危機の時間には、

新自由主義の「コモンセンス」が揺らいでいるのは

間違いない。

だからこそ、新しい「コモンセンス」を

作り出すチャンスなのであり、その新基軸となるのが

「多くを分かち合い」、「足るを知る」脱成長

なのではないだろうか。

成長が当たり前の世界で生きてきたせいで、

脱成長の一歩を踏み出すことに、誰もが不安を感じるに

違いない。

けれども、このままの道を歩み続けても、未来はないことは

もはやはっきりしている。本書が述べるように、

変化に向けて

「必要なのは、ともに生き、ともに

体現していくことなのだ」(80頁)。

助け合う実践を、今ここから始めることで、

個人が変わり、そのうねりが大きくなれば社会は必ず変わる。

今周辺化されているコモニングの実践から学び、

社会を新たに作り上げていくことで、資本主義社会に

亀裂を入れることができるはずだ。


斎藤さんの解説のおかげで


スッキリ腑に落ちる。


自国語と感性が共通しているからか


問題意識が似ているからか。


まったくの僭越でございますが。


養老先生を追っていたら、


またまた興味深いエリアに突入してしまった。


それが人類共通の課題で、学び、実践することで


家族にも良い影響となるなら


深めていくしか選択肢はなさそうな気がする


秋の早起きタイムだった。


余談だけど、それにしても、


ジョン・レノンがイマジンを作ったのって


1972年だったか。早すぎだろう。


そして、今こそいてほしいですよ、


って、今に限らず、いつもこれ言ってるな自分。


どうでもいいけど。


いや、よくねえだろう。


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吉本隆明さん養老先生の32年前の対談 [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳という劇場 唯脳論・対話篇

脳という劇場 唯脳論・対話篇

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2005/10/01
  • メディア: 単行本

身体と言語(1990年)から抜粋

■養老

僕が日本語でもうひとつ気になっているのは擬音語です。

擬音語というか、擬音語と思えないような同じ言葉が

たくさんありますね。

「つくづく」とか「しみじみ」とか。

そういうのは、どうも英語に対応する表現がないような

気がするので、あれは何だろうなといつも不思議で。

韓国にはあるらしいんですけど。

■吉本

輪の中でいえば、副詞と感嘆詞の中間なんだと思います。

本当に微妙なものがありますね。

■養老

論理的に考えると、だんだんおかしくなるんですね。

「しみじみ」って何だ。何が「つくづく」だ。

どうして「つくづく」なんだってつくづく考えたこと

あるんですけど全然わからない(笑)。

■吉本

それから、日本語だけじゃないのかもしれないけど

やっぱり問題になってかつ興味は深くて、

まだ人が誰もやっていないなと思うことは、

いわゆる幼児言葉というのでしょうか。

乳児言葉というのでしょう

か。本当言うと、

親と自分の赤ん坊との間にしか通用しない

「アバババー」とか、よく母親が言うと、

ニコニコッとする

とかいうのがありますね。

あの「アバババー」というのは何だろう

乳児には通ずるから

笑うんだろうと思うんですが、なんで笑うんだろうとか。

音であろうが、目であろうが、

それがよく分化できてないのとか

ありますね。それがあんまり人がやっていない気がします。

■養老

それが最初から話題の価値に

結びついているような気が、

直感的にするんです。

価値観というものもそれに似たものであって、

理屈にならないんだけれども

すっと通ってしまうものですね。

■吉本

柳田國男だけが僅かにそういうことに気がついて

一生懸命やっているんですね。

養老さんのご本の中で言うと、人間的ということは

一種の実態的象徴というのを持っているか、あるいは

持とうとするかどうかという欲求にかかっているんだと

おっしゃって、それは遊びから宗教まで

みんな入ってくるわけでしょう。

それはものすごく重要なことのような気がします。

柳田國男の言っていることで面白いと思うのは、

室内で遊ぶーー女の子なんか、昔でいえばおはじきとか

お手玉とかありますね。室内で今だったらパソコンとか

ファミコンとかになるわけでしょうけれども、

そういう屋内の遊び。

それから屋外で遊ぶ鬼ごっこと

かかくれんぼというものもある。

しかしもう一つ、軒言葉とか軒遊びというのが

あると言っているんです。

それは中間を構成して、日本の遊びの中には

わりあいにどちらともつかない軒遊びみたいな、

それがあるんだということを盛んに、

どこどこの地方ではこういうのとか実例を

あげてやっているんですね。これはやっぱり、

この人はすげえ人だよなっていうふうに思っちゃいます。

遊びとか言語とかを幼児と成人のあいだで微細に

分類することは言語学者ーー社会学者もやならいですね。

そういうのは未知の分野のような気がして

しょうがないんですけれどね。

■養老

今のお話は、だんだん身体につながってくるような

気がしますね。

場の感覚から身体に移ってくるテーマだという気がします。

■吉本

人間の身体といった場合に、身体がどうしてこういう

形態なのかなということか、二本足で立っている

ということは必然だったのか偶然だったのかとか、

そういう問題がひっかかってきそうな気がするんですけど。

立ったというのは、別に根拠が

あったということじゃないわけですか。

■養老

これが一番問題になるところですね。

僕は無理矢理立たせたんじゃないかとか、

いろんなことを考えたことありますけれどもね。

仮に、生まれてすぐから親がいないで、

しかも食べ物も不自由しないし、何の不自由もない。

子供がそういう状態で勝手に育った場合に、

本当に立って歩くかというのは今だにちょっと

疑問に思っているんです。

狼少年は四つん這いで歩いているということがありますね。

確かにわれわれ、サルに比べて、足が、生後になって

ずっと伸びるんです。これも直立させなかったらどうなるか。

それからまた逆の例がありまして、

最近、よく分かっているのは、

ニホンザルの猿回しのサルですね。

猿回しのサルが、あれ、しょっちゅう

立つ練習をさせていますね。

立って歩くでしょう。

背骨の湾曲が人間と同じになってくるんです。

動物の場合、普通はきゅっとこう、シンプルな凸湾に

なっているんですけれども、ヒトは首のところで前に出て、

胸のところで後ろに出て、くるんです。われわれも

胎児の時はサルと同じだったんです。

だから、背骨が曲がるのは、別に遺伝的なものではなくて、

立って歩いているからだということ。

そうすると、本当に人間って立つのかなって。

どういう動物が立つかって見ていますと、

砂漠のネズミなんかは立ちますね。

要するに草原とか広いところに住んでいる奴は、

どうしても遠くを見ようと思うからふーっと立つんです。

吉本さんと前にお話しした臨死体験ですね。

あれ、どうでしょうね。上から見ていると

言いますでしょう。

■吉本

そうですね。

■養老

あの視点というのが、子供が立ち上がった時に

ガラッと世界が変わる、そういうところと何か関係ないか。

あるいは人間が立ったという時の視野の転換ですね。

■吉本

宗教的な人はまた違うことを言うんでしょうが、

僕は意識がだんだん死に近くなって減衰してきた時に、

原始的なというか、人間以前的なというか分かりませんが、

そういう視覚みたいなのが、実際起こる場所があるんじゃ

ないかみたいに理解したんです。

■養老

それが人間が立ったという歴史的な事実に関連があるか、

あるいは個体発生でいえば、四つん這いで這っていたのが

いつの間にか立ちあがって、視野の転換が起こったという、

その記憶はわれわれはもうないですけども、非常に深い所に

刷り込まれているかもしれません。それが臨死体験になると、

上から見ているという、なせかそういう感じが出てくる。

なんか関係がありそうな気がします。

■吉本

そうですね。立てない時期の赤ん坊というのは、

一年足らずでもあるわけですからね。

■養老

あれ、非常に不思議ですね。これは目じゃなくて、

おそらく耳かなというふうに思ったりするんです。

耳のほうが、ご存知のように跡まで残る感覚ですから、

それで視覚像を耳の方から再構成したりして。

■吉本

ああ、そうですか。先ほどの図で言われた、脳の視覚領と

聴覚領が重なったところが言語領で、その両側のこちらと

あちらではつながりがあるということですね。

■養老

ご存知のように、気を失う時に最後まで残るのが耳で、

正気に戻ってくる時に最初に回復してくるのは耳ですね。

だいたい臨死体験の時に、誰かが喋っているとか、

その内容とか、そういうのは伴っていませんか、

そのシーンに。

音が伴っていれば、多分間違いないという気がしますね。

■吉本

そうか、そうか。それは面白いですね。

■養老

耳のほうがしぶといんですね。目と耳を比較すると、

ニーチェがアポロ的芸術とディオニソス的芸術。

ディオニソスの方が人間を根底から動かすという。

それは日常的なことにも確かに出ている。

正気に戻る時に、音が最初に聴こえたという。

「大丈夫?」という声がまず聴こえるというんです。

それからバッチリ目を開けるという順序に

必ずなっているわけで。

全然話が飛んじゃうんですけど、最近日本人の身体感

ちょっと気になっていましてね。

一つは例えば心臓移植ですが、世界中で何千例か、

四千例か何かあるんですけれども、日本では一例しかない。

しかも医療技術としては充分できるようになっている。

こういうことがどういう発想から生じているのかなと思う。

それから天皇陛下の医療が問題になりましたけれども。

かなりこれは根本的な問題かなということなんです。

非常に荒っぽい考え方をしますと、まず、一つは

江戸時代から日本人はなかり強い唯心論じゃないか。

特攻隊なんかに典型的に出ているんですけど。

七生報国とかですね。

ああいうふうな生まれ変わりプラス唯心論。

身体と言語というのを考える時に、言語や思想と、

身体が完全に結びついているはずですから。

それからさらに宗教ですね。どういうふうに日本の場合、

それがつながって、論理的に説明できるのかなと。

■吉本

そのお話に関連したことで思い出しましたが、

僕はこのごろときどき鳥おじさんになるんです。

ポップコーンを買って不忍池へ行って撒いてやりますと、

カモなど水鳥が泳いできまして、

長いくちばしで争って喰べます。

集まってくるのも喰べるのも無条件なので、

孤独鳥おじさんの気分がとてもよく分かります。

ところでカモの泳ぎ方と、

くちばしを伸ばして喰べる仕方を

見ていルト、どこかで手を使うことを禁じられた人間の

生まれ変わりじゃないかと見えてくる時があります。

日本の仏教が空飛ぶ鳥じゃなくて

水鳥を、前世の今れ変わり、

輪廻の姿にみたてたのが、何となくわかるように

感じたりします。

これは案外自分の中にある

「もののあわれ」かなあ、

なんて思ってしまうんです。


「もののあわれ」ってことだと


自分が浮かぶものとして


鴨長明の方丈記、小林秀雄が語る本居宣長、


小津安二郎の映画、


黒澤明が師匠から教わった言葉などなど、


というか日本文化全般みたいな


印象があるので引いてみたのだけど。


それから、赤ちゃんと母との件も興味深かった。


言葉じゃない会話をしているとでもいうような


高次レベルのコミュニケーションとでもいうか。


吉本さんと養老さんって自分にとって偉人だから


読んでてエキサイティングな


対談だったけれど、大半は


自分の知識ではなかなか追いつけなくて


理解に及ばず悔しいですが、もう少し勉強して


再読する機会あれば


また感じ方変わってくるかな、と思った。


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逆立ち日本論:養老孟司・内田樹共著(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


逆立ち日本論 (新潮選書)

逆立ち日本論 (新潮選書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

裏表紙から抜粋

武道の達人と解剖学者ーーー二人の風狂による経論問答。

『下流志向』の内田樹と日本の知恵袋、養老孟司が火花を散らす。

「ユダヤ人問題」を語るはずが、ついには泊まりがけで丁々発止の議論に。

それぞれの身体論、アメリカ論、「正しい日本語」、全共闘への執着など、その風狂が炸裂し、日本が浮き彫りになる。

なぜこんなに笑えるのか。

養老は「”高級”漫才」とこの対談を評した。脳内がでんぐり返る一冊。


火花は散ってなさそう。


全体的にリラックスした雰囲気ではあるけど


この本の最大のテーマで


養老先生が内田先生に尋ねてる「ユダヤ人について」


ここにはユーモラスのカケラもありませんで


養老先生最も気になっていそうな部分が気になった。 


「第二章 新・日本人とユダヤ人」から抜粋


■養老

非常に疑っていることで、ユダヤ人について

いまだに知りたいことの一つが、

ヴィクトール・E・フランクルという

ユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』で

収容所の体験を書いた著者のことです。

彼は自分の両親と妻、子供を収容所で失います。

かろうじて自らは死を免れ解放された後、

一貫して「人生の意味」について論じていきます。

そして生きる意味は、自分だけで完結するもの

ではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる

と強調するのです。これは後ほど語る「個性」(第5章)と

つながることかもしれません。

論じていく中で、彼は、いつ死ぬかわからない

過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を

問い続けます。そして、収容所生活を生き抜いた人は、

精神的な自由や想像力を持って恐ろしい外部の

状況から逃れた人であって、身体的に頑丈な人では

必ずしもなかったということに気づく。

つまり、息を引き取るまで奪われることがない

精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。

過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、

人生の意味はある。そう考えるのです。

例えば、フランクルと話すことで自殺を

思いとどまった二人の仲間は、一人は外国に

愛する子どもがいて、再会を熱望しており、

もう一人は科学者で、執筆途中の科学論文を

書き上げることに使命を感じていた。

だからこそ、彼は言うのです。

「この各個人がもっている、他人によって

とりかえられ得ないという性質、

かけがえないということは、

ーーー意識されればーーー人間が彼の生活や

生き続けることにおいて担っている責任の

大きさを明らかにするものなのである。

待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、

に対してもっている責任を意識した人間は、

彼の生命を放棄することが決してできないのである」

(『夜と霧』1961年)。

そして、人生の意味というのは、人生からなにを

期待するかではなく、人生がなにをこちらに

期待しているかを考えることだというのです。

ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、

問われているのだと。それはそれぞれが自分に

与えられた使命を全うすること、

日常で正しい行動をとることにあり、

人によって具体的にそれは異なるのだということです。

若いころに『夜と霧』を読んで、

なぜユダヤ人が迫害されなければならなかったかが

わかりませんでした。

フランクルはまったく答えていないのです。

はじめに迫害ありきで、迫害されるだけなら

いくつも世界史に例がある。

でも、ユダヤ人という存在が国でも人種でも

宗教でも定義できず、

「自分はユダヤ人だ」

「あいつはユダヤ人だ」と思っている人しか

いないという状況で、なぜあのような連続的な

迫害が起こりうるのか。

逆に捉えると、ユダヤ人が特別で、

「なぜ迫害されなければならなかったのか」

と思うしかなくなりました。

このフランクルが書かなかったぼくの当初からの

疑問を、内田さんが紹介するレヴィナスが

答えてくれたように思います。

少なくとも答えはこのあたりだと

指し示してくれました。

フランクルが沈黙した部分が明らかになったように

思うのです。

つまり、ユダヤ人は「迫害されるもの」であり、

だからこそフランクルの話は迫害から始まる。

フランクルが置かれた状況は、ユダヤ人にとって

もっとも根源的な状況だったのではないか

ということです。

そして、もう一度『夜と霧』を最近読み直して、

新たな疑問が湧きました。

アウシュビッツの収容所に行って彼が見たこと、

死を免れたことは、偶然ではないのではないか。

違和感をもって今でも覚えているのは、

NHKでフランクルにインタビューをした

日本人の質問が聞くに堪えず、テレビを途中で

切ってしまったことです。

なぜかというと、当然のことのように

フランクルは反ナチだという視点から質問ばかり

するのです。

反ナチ的発言が出てくると思ってその日本人が

話を向けると、フランクルは

はかばかしい返事をしない。

『夜と霧』を読むとわかります・最後に

砲声が近づいてきてまもなく解放されるとわかって、

囚人がどよめきたつ。その日の朝に、

「これで解放だ」という気持ちがみんなの中に

ある。

すると、その日に限って彼は、森にもう一人の

囚人と「夜のあいだに死んだ仲間の死体を埋めに行け」と

命令を受ける。

それで離れて森に行かなければいけない。

絶望した気持ちで森に行って帰ってくると、

”解放”の貨物自動車組にカウントされておらず、

置いてきぼりになる。残っていた全員は大型の

トラックに乗せられて移動するのです。

ところが結局、喜んで移動した人たちは

全員殺されたのです。だから、彼は外された。

彼自身が書いている他の著作の中に、

百人ずつまとめてガス室に送るという

記述もあります。

ガス室送りになる囚人を百人バーッと

並ばせてしまうのです。

ところが、たまたまフランクルが百人目に

なってしまった。

そうしたら、カポー(囚人の中から

選ばれた監視役)が、

ぜんぜん関係ない何もしてなかったヤツに

突然殴りかかって、あたかも点呼の行列から

そいつが逃げようとしたかのようにそれを行列に

押し込む。

それでフランクルが溢れ、結果的に助かるのです。

彼自身がそれを書いている。

これは、収容所側に「あいつは殺さない」という

意思があった気がする。

偶然じゃないとぼくは思っているのです。

そしてフランクルは、決して収容所側の

人間の悪口ばかりを言ってはいないのです。

ある司令は自分の小遣いを割いて病人のための

薬を買っていたとか、よく読むとさまざまな

ところにナチ側の良心に触れる話を書いている。

だから表には出てこないけれども、

フランクルのような人間は殺さないという

暗黙の合意があったのではないか。

あるいは、それは暗黙どころか、申し合わせ事項に

近いものだったかもしれない、

ということが『夜と霧』を読んでいると

伝わってくる。

若いときは素直に

「この人は生き残れて運のいい人だ」と

思って読んでいたのですが、あの社会には

そういったことがありそうでしょう。

■内田

これはたいへん難しい問題ですね。

反ユダヤ主義者がある種のユダヤ人に

対してリスペクトを示すということは現実にあるんです。

(略)

ドイツ人全部がナチなわけではないですから。

■養老

ぼくはどうも、この年になってしみじみあれは

偶然ではないという気がします。

百一人目の話なんて絶対に変でしょう。

しかも、彼自身が万に一つも生き延びられない

ところを生き延びて出てきているのだから、

その途中の挿話に百一人目が入っているということは、

偶然が重なりすぎる。

■内田

確率としてはありえないですね。

■養老

彼自身がそのエピソードを書いたということは、

やはり、疑っていたということでしょう。

■内田

でも、本人は知りようもないですものね。

■養老

そうなんです。

■内田

ナチの強制収容所の所長の中に、ユダヤ人に

配慮した人がいたというのは、ポリティカリーに

正しくないことですから、明示的には書けないでしょう。

■養老

書けないですね。だから、フランクルが

口ごもったのもよくわかるのです。

逆に、反ナチを期待してインタビューしているのを

「なんていうバカだ」と思って見ていました。

要するに、「人の気持ちがわからないのだ、こいつは

と思ったのですね。

アウシュビッツを生き延びて出てきて、しかも、

そんなに悪口を言っていないということは、

彼の書いたものを丁寧に読んだらわかるはずです。

「アウシュビッツの生き残りなら反ナチに

決まっているだろう」という考え方自体が

成り立たない。

ぼくの考え方が正しいのかはわかりません。

でも、まちがいなく言えるのはユダヤ人だという

だけであれだけの迫害を受けた人が、ドイツ人だという

理由だけで相手を非難するはずがないということです。

戦後、それをどれだけの人が本気で了解していたでしょう。

ぼくはフランクルみたいな人が

ユダヤ人だと思っていたから、

長いあいだイスラエルという国家の行動が

理解できませんでした。


仮に養老先生の仮説が正しいとすると


フランクルが込めた裏のメッセージとは何なのだろうか。


確かにフランクルがナチを擁護するようなことを


言おうものなら違った内容にうけとられるだろうし


出版自体が危ぶまれ闇に葬られる本になってしまうだろう。


(本どころかフランクル自身も)


さらに興味深いのは養老先生の『自分の壁』でも


取り上げてるのだけど


世界的に有名な「テヘランの死神」という寓話を


『夜と霧』の中でフランクルは挿入してて


併せて勘案、自分なりに解釈すると


「人間には叡智を超えた逆らえない意志がある」


一言で言うなら「運命」と言うことなんかな。


「100分de名著」でしか知らないんだけど。


(おい、読めや!)


ちなみに『自分の壁』をもう少し詳しくいうと


東日本大震災で放射線を過度に恐れ、


その危険性を煽る情報を信じてしまい


関西や九州に逃げた人たちがいて


無理に移動したことで健康を損ない命を落とした


お年寄りがいた。


留まる人も多くいたのに


そこを切り離して考えてしまって


「世間が壊れた(冷静さを失った)」と感じたと。


そして思い出したのがこの寓話だったと書かれる。


それから、イスラエルを理解できない、つまり、


フランクルのような立派な人格を持った


人たちの国家なのに何で争いや暗殺が起こるのか


ってことか。


時は和平交渉(ピースプロセス)の10年くらい後


一部の非民主的なイスラエルの人たちと


フランクルがリンクしないってことを


指しておられるのかもしれない。


全くの余談だけど、マスコミ・大手規制メディアが


勉強不足でイラつくというのは


自分も多くありまして、ぐっと話は変わって


なんか似てるかもって思った過去のテレビがあった。


90年代、元ビートルズの


ジョージ・ハリソン(withクラプトン)が


来日直前、TVで特集があって、


日本のカメラクルーがイギリスで練習中の


クラプトンのスタジオに取材の時のこと。


クラプトンとも合わせてインタビューで


ジョージに日本についてのことなんか聞いてた後


クラプトンにジョージの元妻パティのことを聞いて


それ自体なんでそんなこと今聞くのよ、なんだけど


その時カメラがジョージをなぜか映してて


ジョージは苦笑いをしてた。


「これが日本のリスナーのレベルか」と


ジョージに思われただろうなって


思ったことを思い出してしまったことは


どうでもいいか。


思い出したことはどうでもいいけど


いや、内容としてはグローバリゼーションな今


意外と根深いんじゃないかな、これ。


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「農業を株式会社化する」という無理:内田樹ほか共著(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

  • 出版社/メーカー: 家の光協会
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本

まえがきにかえて


 


「これからの農業」を語ることは可能か


養老孟司x内田樹


■内田

「農業にも生産性を」とよく耳にしますが、

生産性が低いことが農業の手柄だと思うのですけどね。

それだけ人の手を必要とするということが。

■養老

そもそも僕、本気で聞きたいんだけど、

みなさんは自分の人生、生産性が高いと思ってるんですか?

「生産性」ってもっともらしく聞こえるんだけど、

ほとんどの人は生産性ゼロですよ。

いや、マイナスじゃないかな。

少しは自分の足元を見てごらんなさいよって。

■内田

本当だ。

■養老

じゃあ農業とか農村の価値は多様性にあるのか

という話になるけど、そう一言で言うのも何か違う。

地域って結局、どこもそれぞれだというのが根本なんで。

それを学問とか風潮とかに当てはめようとすると、

ひと言で言うことになってしまう。

テレビがその典型ですよ。僕がしゃべってたら

「先生、ひと言」ってサインを出される。

「一言になんねえからしゃべってんじゃねえか」

ってこっちは思っちゃう。

■内田

いま、ひと言の時代ですから。

■養老

僕はその、ひと言の時代と折り合えないんですよ。

そう言う折り合えない人たちが、

いま農村に向かっているんだと思いますよ。


「農業を株式化する」という無理・内田樹


「農業は弱いもの」から抜粋


(略)

農業が始まったのは約2万3000年前ですが、

株式会社は産業革命以降に広がった企業形態です。

人類はその歴史のほとんどの期間、株式会社的な

経営と無関係に農業を営んできたのです。

その二つが整合しなければならないと考えている人には

歴史感覚が致命的に欠落していると僕は思います。

農業の存在理由は人間を飢えから守ることです。

それに尽くされる。

去年と同じだけの食物が安定的に供給されれば

とりあえず満点というのが農業です。

農作物を商品として市場に売り出して利益を出す

ということが農業従事者の主たる関心になったのは、

ごくごく近年のことです。人類史の90%以上の期間、

農業は集団のメンバーたちを飢えさせないために

存在していた。


農作物を商品とみなす人にとっては、自給体制の整備は

特に優先的な課題ではありません。

まず配慮すべきことは利益だからです。

商品の素材がどこの国のものであろうと、

どこで製造されていようと、そんなことは、

はっきり言って「どうでもいい」ことです。

商品については、自国産の素材を用いて、

自国内で製造しなければならないなどというルールは

ありません。一番安い原料を買って、一番人件費が

安いところで製造して、儲けた金は租税回避の

ペーパーカンパニーに送る。ルールはそれだけです。


「食糧危機は起こり得る」から抜粋


自国通貨が暴落して食料が買えなくなるとか、

主食の市場価格が暴騰して主食が食べられなくなる

というようなことはグローバル経済体制下では日常的に起こります。

トウモロコシが原料のトルティーヤはメキシコ人の日常食です。

1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)が発効すると

アメリカから安価なトウモロコシが流れ込んだせいで、

メキシコの農家はトウモロコシの生産を

止めてしまいました。

ところがその後、トウモロコシがバイオマス燃料の

材料になったことで国際価格が高騰、メキシコ国民は

日常食が食べられなくなるという事態になり、

2008年には怒った民衆による暴動が起きました。

(略)

それでも、日本人にはそのことがなかなか実感しづらい。

それは、われわれが長いこと飢餓を体験していないからです。

だからそのリアリティーがわからない。

しばらく起きていないというだけの理由で、

人々は「飢餓なんて絶対に起こらない」と思い込んでいる。

でも、少なくとも政府は

「金で食物が買えなくなることがある」

ということを勘定に入れて、

そのような場合でも飢餓状態に

ならないような安全装置を整備しておく義務があると僕は思います。

アメリカは農業資本主義経済にフィットしているように

見えますけれど、それは国内の自給自足制度が整備されていて、

「農産物が商品としてふるまうことができる」環境があるからです。

その環境を整えさせるためにはアメリカ政府はそれなりの

コストを負担している。

アメリカ人だって、市場に全部任せれば最適解が出てくると

思っているわけじゃありません

現にの農業を丸ごと市場に委ねている国なんか、

世界のどこにもありません。


「定常経済の時代がやってくる」から抜粋


農業というものは100年200年というスパンで考えていかなければいけないものです。

資本主義は株式会社そのものの寿命には

まったく興味を示しませんが、それとは裏腹に経済成長は

永遠に続くことを前提にしています。

でも、残念ながら、永遠に続く経済成長などというのは

夢物語です。すでにグローバル資本主義は終焉を迎えつつあります。

経済学者の水野和夫さんが言うように、

グローバル資本主義が終わり、定常経済の局面に入りつつある


資本主義のその本性として「先のこと」は考えません。

ですから、集団が生き延びてゆくために必須の

社会共通資本であっても、企業の当期利益になると思えば、

どんどん市場に投じて商品化しようとします。

株式会社を野放しにしておけば、

森林の乱伐や大気汚染・水質汚染に歯止めがかからないのは

誰でも知っています。

そんなことをすれば、地球がいずれ居住不能になると分かっていても、

株式会社にとってはそれよりは当期の利益のほうが優先する。

それは株式会社にしてみたら当然なのです。

平均寿命5年の生き物なのですから、

「そんなことをしたら100年後にはたいへんなことになる」と

言われても死んだ後のことなんか知るかよと言うわけです。

その点では僕たちだって変わりません。

(略)

株式会社が危険なのは、その点なのです。

その点だけと言ってもいい。

当期利益しか考えないと言うことがデフォルトの

システムなのです。

自然資源を守るのは100年、200年という

タイムスパンの中では必要なことですけれど、

株式会社の5年スパンからすれば、

別に自然なんかいくら破壊しても、直接の影響はまだない。

だから、農業のように長期に渡って安定的な環境が

整備されていないと成立しない産業を

株式会社モデルに制度設計してはならないのです。


「安全保障をしたがらない」から抜粋


医療人の基本的なモラルを誓言(せいごん)の

かたちにした「ヒポクラテスの誓言」と言うものがあります。

そこには

「どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の

相違を問わず、不正を犯すことなく、医療を行う」

という一条が含まれています。古代ギリシャにおける

医術の発祥の時点から、貧富の差や出自の差によって

施術の内容を変えてはならないと言うことは

医療人として生きることを選んだ人たちの中には必ず、

「現金の支払いがあるかどうかは医療が行われる

本質的な条件ではない」

と言うヒポクラテスの誓言を信じて医療行為を

する人が出てくると僕は思います。


資本主義が限界にきていることは誰しも感じていることだろうけど、


ここまではっきり分析されると改めてそうなのか、という感じだな。


グローバリズムが引き起こす弊害もますます強まりそうだけど、


組織というか個の力によって、淘汰されるのかもと


ヒポクラテスの件を読んで感じた。


ーーー


農業主義が再発見されたワケ・宇根豊(百姓・思想家)


「田んぼの生きものは全滅」から抜粋


生きものは、百姓が知らないところできちんと

田んぼに生きていて、田んぼを支えているわけです。

害虫を何匹食べているとか、そういうことではありません。

生きものが一匹もいないような田んぼに百姓が入ったら、

ほんとうにさびしいと感じるでしょう。

それは、実際にいなくなってみないと

わからないかもしれません。

田んぼに行くと、お玉杓子(たまじゃくし)が

今年もまたいっぱい生まれている。

そのことについて、ふつう百姓は別になんとも思いません。

たとえお玉杓子が生まれたなと思うことはあっても、

いちいち語らないでしょう。でも、心の中では、

身体では感じているわけです。

でも、それは経済価値も何もないから、言わない。

思想化もされてないし、学校の対象でもない。

そのほんとうの理由がこの頃やっとわかったので、披露します。

もうずいぶん前のことですが、私が家を留守にしていた間に、

田んぼの水が干上がってしまって、

お玉杓子が全滅したことがありました。

そのときに私は「悪かった。ごめんよ」と、

お玉杓子に謝りました。

そのときは、これは単に私の感性だろうと、

深く考えなかったのですが、最近になって

他の百姓たちにも尋ねてみたのです。

「うっかり水が干上がってお玉杓子が

死んだことをどう思うか」

という質問への回答が図1です。


(図1をテキスト化)


< お玉杓子が死んだことに対する百姓の回答

■年配の百姓

 A:3% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:2% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:93% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:2% 「無回答」

■20、30代の百姓

 A:40% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:38% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:16% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:6% 「無回答」

※年配122人、20、30代32人が回答


私が驚いたことが二つありました。

一つは、若い百姓は「ごめん、悪かった」と

回答する人が極めて少ないことでした。

それにしても

「有機質肥料になればいい」

「天敵として役にたたなかった」

というような回答を真顔ですることに、

私たち世代以上の百姓は驚きます。

(当初は、冗談で設けた選択肢でした)

もう一つは、さすがに年配の百姓は、

「ごめん。水を切らして、悪かった」という回答が

圧倒的に多かったことに安堵したものの、

「あなたたちは、田んぼに水を溜めるのは、

稲のためと同時にお玉杓子のためにも溜めていたのではないか」

と尋ねると、全員が

「そういうつもりは全くない」ち断言するのでした。

「では、なぜお玉杓子に詫びるか」と重ねて問うても、

「そんな気になるだけだ」と答えるのでした。

そこで私は気づいたのです。

百姓は「無意識」に生きもののためにも

水を溜めているのだ、と。

たしかに私の体験をさかのぼっても、

お玉杓子が全滅した田んぼに、

その後入ると、ほんとうにさびしいと感じたものでした。

このように、百姓の伝統的な天地有情の感覚は、

当たり前すぎて表現されないままに、

「無意識」に身体に(心に)蓄積されるものではないでしょうか。

私は百姓のこの無意識を掘り起こして表現して、

農本主義の新しい土台思想にしようと考えているのです。

このように、私が「天地有情」と呼んでいる世界が

百姓を支えているのです。

(略)

資本主義の弊害はとっくに生きものの世界には

訪れています。それは単なる自然破壊ではなく、

農業にたいする大きな警告です。

こうした生きものを守れるのは、百姓以外にいません。

百姓がそれを守ろうとする余裕を確保する政策が必要です。

ところが、もっとコストを下げろ、生産性を上げろ、

労働時間を減らせ、規模を拡大せよという成長戦略は、

この日本の天地自然・山河に対してほんとうに失礼です。


食べものは天地のめぐみだという感覚を取り戻す思想を

百姓が語らないなら、誰が語るのでしょうか。

人間は資本主義の価値観だけで生きているのではないことを、

百姓は天地有情の世界で示していく、

そういう時代がそこまできています。


「天地有情」という言葉を初めて知った。


お玉杓子のいない田んぼって考えられない。


昔は水溜りにもいろんな生き物がいたし


家の裏にあった小さな沼に仕掛けたザリガニ獲りの罠を


見にいくときの高揚感は今でも覚えている。


人によっての「前提」が異なるってのは、


養老先生も指摘されてたけど


いろんな人いますからねえ…。


「前提」を「普通」に置き換えてもいいし


お前に言われたくないよ、ってことかもしれないし。


ーーー


贈与のモデルは再び根づくか:平川克美


AIとベーシックインカムの登場


繰り返しになりますが、

これから先に起こることを考えていくと、

農業はますます重要性を増してくると思います。

これから起こることが何かというと、一つは人口の減少に

よる経済のシュリンクです。

そして、その小さくなったパイを奪い合うことによる

貧富格差の拡大と富の集中が

起きてしまうということです。

それから、もう一つはAI(人工知能)の発展によって、

雇用が喪失していくという現象が起こります。

これはもう実際に起き始めています。

そうなってきたときに、最終的にわれわれの

経済が行き着く先は、

おそらくベーシックインカムしかありません

すぐにはできないでしょうけど、過去1、2年にアメリカの

一部の地域で実験されたり、

スイスでは国民投票が行われたりしましたけど、

先進国では大きな議論として取り上げられているわけです。

ベーシックインカムとは何かというと、

生きていくために必要なもの、必要最低限のものは

分け与えようという全体給付のシステムを、

資本主義の中に導入するという試みです。

今、地上で最もそれに近いことをしているのはどこかというと、

おそらくキューバです。

これは三砂ちづる先生に教わったことですが、

キューバは医療も教育も無料です。

人が生きていくために、食料の配給も。

こういったことは、社会主義国が取り組んできたことです。

ところが社会主義は、人民を解放するどころか、

独裁的な国家運営に傾いていって、

ソ連邦や、旧東ドイツなどのように、

内部崩壊していったわけです。

ところが今、勝った方の資本主義システムの正当性も

どうも怪しくなってきたという状況で、

もう一回、社会主義的な、相互扶助的な社会と

いうものが見直されているということです。

相互扶助的な社会では、成長よりも、持続が重要な

課題になります。そうなると、

第一次産業的なモラルが再評価されます。


ベーシックインカムに話を戻します。

ポスト経済成長の社会では、全体給付という

社会システムの中に、制度として入れていく必要がある

と思います。

全体給付は、いわゆる「誰もが平等に」

という考え方ではありません

そうではなく

われわれの社会を壊さずに、生きていくために

最低限必要なものは分け合う

というシステムをつくっていくことです。

今ある税金のシステムも全体給付のシステムの

一つではありますが、

使われ方を見ても、再分配機能という点で見ても、

実質的には全体給付になっていません。農村部に若い人が

戻りつつある現象は、全体給付や、相互扶助的なものが社会も

自分も救済することになると直感しているからでは

ないでしょうか。

(略)

農村部に行けば、とりあえず食える。自給自足も

可能かもしれないということに気付くのと同時に、

農村部の持っていたモラル、自然との向き合い方みたいなものに

惹かれるわけですね。

消費化し、人工的化した都市部の現状が、あまりにも

そこから離れてしまったから。

自然の恵み、自然からの贈与を相手にするという、

農村のモラルに惹かれる人が増えるというのは、

とても健全なことだと思います。

農村のモラルを基本にして、生活、社会全体を

組み立ててくといったときに、自然の贈与というのは

丁寧に大事に使うもので、どんどん収奪していけば

いいというものではないと知るわけです。

贈与ですからね。それが本来なのです。それがこれまで、

贈与モデルから収奪モデルに変えられてきた。

それをもう一回、贈与モデルに戻していくということです。


「贈与モデルと収奪モデル」から抜粋


ただ、今後、贈与モデルと収奪モデルのどちらが

優位になっていくかは、分かりません。

それらはつねに相争っているわけですね。

全てを市場にしよう、商品化しようという動きと、

社会的な共通資本を広げていこうという動きが、

おそらくこれから何十年間か争うんだろうと思います。

それをわたしは、移行期的混乱というふうに名前をつけたわけです。


一方に自然の恵みを受けて循環型で定常的な農業があるとすれば、

もう一方にはモンサント(※)みたいな、

食料を完全に商品としてのみ扱うような企業があるわけですよね。

均衡再生産していく自然を、遺伝子とかをいじって

拡大再生産の方に向かわせるという考え方は、

当然のことながらなくなりません。

そういう自然の贈与を収奪していく勢力は、

これから先もずっっと存在していくだろうと思います。

(※=アメリカに本社を持ち、遺伝子組み換え作物の

世界シェア90%以上と言われる多国籍生物科学企業)


「贈与の成り立ち」から抜粋


ここまで贈与モデルという言葉を用いてきましたが、

そもそもマルセル・モースが発見し、記述した

「贈与経済システム」とは、贈与された者が、贈与者に

対して直接の返礼をしてはいけないというものでした。

贈与された者が、直接返礼すれば、それは贈与ではなく、

等価交換に過ぎません。

本来の贈与システムというのは、贈与されたら、

その返礼は必ず第三者へのパスというかたちをとるということです。

こうした、第三者への贈与の迂回によって、全体給付が実現する。

あるいは、親から子、子から孫へと順送りする贈与があります。

第三者に渡すか、順送りにしていくか。その「送っていく」

つまりパスで回すというのが贈与の一番のポイントです。

だから、贈与に返礼というものはありません。

もう一つのパターンがあるとすれば、贈与合戦のように

なって物資を使い果たしてしまう、

蕩尽(とうじん)というものがあります。

つまり贈与には「順送り」「第三者へのパス」「蕩尽」

という3つのパターンがあるということです。


現代社会のあちこちでささやかにおこなわれている

贈与交換的な営みは、現代社会の特徴である貨幣交換の

影に隠れていますが、現代社会が行き詰まった時には、

隠れていた贈与交換的な営みが必ず前面に出てくるはずです。

たとえば、ベーシックインカムだとか、減価するお金である

ゲセルマネーといった構想がそれにあたります。


その後、アメリカで実験している


ベーシックインカムはどうなったのだろう。


結果共有されても、そのまま日本に


適用できるわけじゃないだろうけど。


課題は山積されているだろうけれど、


今の資本主義という名前の「何か」よりは


暮らしやすいことは間違いなさそうだ。


そして、農業に限らず、若い世代にも期待や


その逆もあるだろうし、なかなか難しいな、


というのを感じた。


個のスキルを磨いて、必要なものであれば


差しのべ助け合うという


老いも若きも良いところを取り入れて


フェアな社会にしていきたいし


そうなってほしいと常に思う。


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