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ゼフィルスの卵:池田清彦(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

ゼフィルスの卵


ゼフィルスの卵

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2007年
  • メディア: 単行本

「あとがき」から抜粋

しかし、最近の人を見ていると、何が起こるかわからないのは、楽しみというよりむしろ不安だ、と思っているようである。

予定通りに事が進まないと落ち着かない。

人間はいつか死ぬのだから、予定がすべてわかっているとすると、死ぬ日までわかっていることになる。

ここまで書けば誰だって、予定がすべてわかっているのは、恐ろしいことだとわかるはずだ

世界に予定などというのは実はないのだ。

未来は未決定なのだ。

決定されているのであれば、未来ではなくて過去ではないか

科学は長い間、初期条件さえわかれば、未来は予測可能であると僭称(せんしょう)してきた。

科学技術の奴隷となった

現代の都市の住民もまた、初期条件さえ厳密に整えておけば、未来をコントロールできると考えているのかもしれない。

未来におかしなことが起こるのは、現在のコントロールが足りないからというわけだ。

そこで無闇にルールを作って瑣末なことまでコントロールしようとする。


コントロールできないものは「悪」というか


「野蛮」という感覚なのかなあ、


現代の人たちの間では。


それは自分も含まっているのかなとも思う。


2000年ごろから法案とか規制とか


政治とか世界が作りすぎてて、がんじがらめで


テロを一例にされ決してなくなることはないし


ならば、それに縛られて失う労力の方が


もったいねえだろう、


というのは池田さんの大まかな言説。


だからって地震や災害は来るのだから備えよ


原発は危険すぎだよ日本にはってのも


すごくよく分かるし正しい考え方だと思う。


(この本では原発には触れてないけど)


「地球温暖化に思う」から抜粋


環境や健康に関する政策を遂行するためには科学的正当性が必要だが、政治・経済共同体は、自分たちに都合の良い科学者の説を恣意的に取り上げるようになり、研究費が欲しい科学者もまた、迎合する研究を進めることが多く、ここに巨大な政治・経済・科学共同体が出現することになる。

そうなると、湯水のように税金が使われてもこれを止める術はなくなる。

たとえば、地球温暖化が話題になって久しいが、その本当の原因はよくわかっていない

私自身は太陽の活動の周期が主たる原因であると思っているが、日本では二酸化炭素の人為的排出が

主たる原因であるとの説以外は滅多にマスコミに流されない。

今やNHKのニュースでは、「温暖化の原因となる」は「二酸化炭素」にかかる枕詞になってしまった。

何と言ったって、太陽が主因では人為的に防止策を講じることは不可能で、従ってそのために税金を使うことも不可能だからだ。


温暖化対策とは実は、環境関連官庁の利権と環境関連企業の儲けのための税金たれ流しにほかならない。

二酸化炭素の人為的排出は化石燃料を燃やす事に起こる。

だから、削減しようと思うならば、化石燃料の採掘を凍結する以外にない。

省エネとか、排出権取引とかの姑息な手段はマクロに見れば何の役にも立たない。

しかし、残念ながらこの当たり前の事実を報道するマスコミはほとんどない。


2006年(15年前)から


こういう言説をされているのは、


早いというべきではないか。


他にもいたのかなあ。キャッチできなかっただけで。


時代を感じるものもあるっちゃあ、あるけど


基本的には今もほぼ同じことを


おっしゃっているよね。池田先生。


よく言えば「一貫性ある」、


そうでないと「変わってねーな」なのか。


「変わんなくていいんだよ、先のことなぞ


なんか考えてもしょうがない」


と仰りそうだなあと。


言い方が、ちと乱暴なので、好みが分かれる所


かもだが、なんか嫌いになれないのだよな。


養老先生に似ている文体なのも嫌いになれない。


余談で自分の印象だが養老先生って「太陽」で


池田さんはどちらかというと「月」なような。


そこにシンパシーを感じるのだろう。


地球規模のマクロ、からミクロに話は移り


「体の悲鳴を聞く耳」から抜粋


若い時は、体はいつも完璧でなければ気に入らなかった。

少しでも具合が悪いとすぐに病院に行って治すように心掛けていた。

実際にそれですぐに治ったものだから、病気とは治るものだと思っていた。

それが30代の後半に二週間ほど毎日徹夜で虫採りをして体をすっかり壊して以来、一日たりとも体が完璧なことはあり得なくなってしまった。

最初のうちは病院に行って色々検査をしたり、薬を飲んだりしていたが、一向に埒が明かない。

体のことが気になって仕事もはかどらないし、第一遊んでいても余り楽しくない。

何となく頭がボーっとしているし、時々フラフラするような気もする。

そんなある日、車を運転していて崖から落ちたことがあった。顔から血がたくさん出て、

全身打撲でアザだらけになり、38度以上の熱が一週間くらい続いた。幸い命に別状はなく家で数週間ほど寝ているうちに治ってしまった。

まあ、命拾いしたわけだが、この事故でモヤモヤした気分が吹っ切れた。

体の調子は相変わらず余り良いとは言えなかったが、体は完璧でなければならないという呪縛から

自由になった。

体の調子が少々悪くても、生きるのにそれほど不自由なわけではない。

だましだまし生きられればそれでいいと思えるようになった。


自分の体は医者まかせにするのではなく、自分で管理するのが一番だと思う。

自分で管理するとは健康診断の検査項目の数値を見ることではなく、体の悲鳴を聞く耳と

余裕をもつことである。

体が休ませてくれと言っているのに休ませないで薬漬けにしておいたのでは、体がいつかストライキを起こすに決まっていると私は思う。


最近ふと思うことがあるのだけど、


心って身体の一部なのではないかと。


心は脳だ、というのは違和感があり


(言わない人もいるだろうけど)、


心は身体、というのは、ちと乱暴な物言いかな。


そして自然と生物は一緒という気もするのだけど。


そんなん使い古された考え方だとも言われそうだが


50歳をとうにすぎて自分としては


身にしみて感じる今日この頃なんですが。


そして話は池田先生の書籍に戻りまして


今はどうか存じ上げないけど


パソコンは使わないというのが面白かったので


「eメール」から抜粋


世間はIT革命とやらで何やら騒がしいが、私は原稿を書くのにパソコンはおろかワープロも

使ったことがない。

1998年に哲学者の中村雄二郎氏と二十一世紀へのキーワード インターネット哲学アゴラ 生命と題する本を作ったことがある。

インターネットで中村氏と私がメールのやりとりをして、それに対し誰もがネット上で意見を述べることができるという趣旨の企画をしたのだ。

文章を書いたのはもちろん私だが、パソコンを操作したのは女房である。

私はといえば、女房に頼むより原稿を速達で送っちまった方が手っ取り早い、などとうそぶいていたのだから、『インターネット哲学アゴラ 生命』は実は羊頭狗肉のようなものだ。

ついでに書けば、羊の肉よりも犬の肉の方が本当はうまい。


池田先生、最後の一言は明らかに多いです!


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