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逆立ち日本論:養老孟司・内田樹共著(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


逆立ち日本論 (新潮選書)

逆立ち日本論 (新潮選書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

裏表紙から抜粋

武道の達人と解剖学者ーーー二人の風狂による経論問答。

『下流志向』の内田樹と日本の知恵袋、養老孟司が火花を散らす。

「ユダヤ人問題」を語るはずが、ついには泊まりがけで丁々発止の議論に。

それぞれの身体論、アメリカ論、「正しい日本語」、全共闘への執着など、その風狂が炸裂し、日本が浮き彫りになる。

なぜこんなに笑えるのか。

養老は「”高級”漫才」とこの対談を評した。脳内がでんぐり返る一冊。


火花は散ってなさそう。


全体的にリラックスした雰囲気ではあるけど


この本の最大のテーマで


養老先生が内田先生に尋ねてる「ユダヤ人について」


ここにはユーモラスのカケラもありませんで


養老先生最も気になっていそうな部分が気になった。 


「第二章 新・日本人とユダヤ人」から抜粋


■養老

非常に疑っていることで、ユダヤ人について

いまだに知りたいことの一つが、

ヴィクトール・E・フランクルという

ユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』で

収容所の体験を書いた著者のことです。

彼は自分の両親と妻、子供を収容所で失います。

かろうじて自らは死を免れ解放された後、

一貫して「人生の意味」について論じていきます。

そして生きる意味は、自分だけで完結するもの

ではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる

と強調するのです。これは後ほど語る「個性」(第5章)と

つながることかもしれません。

論じていく中で、彼は、いつ死ぬかわからない

過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を

問い続けます。そして、収容所生活を生き抜いた人は、

精神的な自由や想像力を持って恐ろしい外部の

状況から逃れた人であって、身体的に頑丈な人では

必ずしもなかったということに気づく。

つまり、息を引き取るまで奪われることがない

精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。

過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、

人生の意味はある。そう考えるのです。

例えば、フランクルと話すことで自殺を

思いとどまった二人の仲間は、一人は外国に

愛する子どもがいて、再会を熱望しており、

もう一人は科学者で、執筆途中の科学論文を

書き上げることに使命を感じていた。

だからこそ、彼は言うのです。

「この各個人がもっている、他人によって

とりかえられ得ないという性質、

かけがえないということは、

ーーー意識されればーーー人間が彼の生活や

生き続けることにおいて担っている責任の

大きさを明らかにするものなのである。

待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、

に対してもっている責任を意識した人間は、

彼の生命を放棄することが決してできないのである」

(『夜と霧』1961年)。

そして、人生の意味というのは、人生からなにを

期待するかではなく、人生がなにをこちらに

期待しているかを考えることだというのです。

ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、

問われているのだと。それはそれぞれが自分に

与えられた使命を全うすること、

日常で正しい行動をとることにあり、

人によって具体的にそれは異なるのだということです。

若いころに『夜と霧』を読んで、

なぜユダヤ人が迫害されなければならなかったかが

わかりませんでした。

フランクルはまったく答えていないのです。

はじめに迫害ありきで、迫害されるだけなら

いくつも世界史に例がある。

でも、ユダヤ人という存在が国でも人種でも

宗教でも定義できず、

「自分はユダヤ人だ」

「あいつはユダヤ人だ」と思っている人しか

いないという状況で、なぜあのような連続的な

迫害が起こりうるのか。

逆に捉えると、ユダヤ人が特別で、

「なぜ迫害されなければならなかったのか」

と思うしかなくなりました。

このフランクルが書かなかったぼくの当初からの

疑問を、内田さんが紹介するレヴィナスが

答えてくれたように思います。

少なくとも答えはこのあたりだと

指し示してくれました。

フランクルが沈黙した部分が明らかになったように

思うのです。

つまり、ユダヤ人は「迫害されるもの」であり、

だからこそフランクルの話は迫害から始まる。

フランクルが置かれた状況は、ユダヤ人にとって

もっとも根源的な状況だったのではないか

ということです。

そして、もう一度『夜と霧』を最近読み直して、

新たな疑問が湧きました。

アウシュビッツの収容所に行って彼が見たこと、

死を免れたことは、偶然ではないのではないか。

違和感をもって今でも覚えているのは、

NHKでフランクルにインタビューをした

日本人の質問が聞くに堪えず、テレビを途中で

切ってしまったことです。

なぜかというと、当然のことのように

フランクルは反ナチだという視点から質問ばかり

するのです。

反ナチ的発言が出てくると思ってその日本人が

話を向けると、フランクルは

はかばかしい返事をしない。

『夜と霧』を読むとわかります・最後に

砲声が近づいてきてまもなく解放されるとわかって、

囚人がどよめきたつ。その日の朝に、

「これで解放だ」という気持ちがみんなの中に

ある。

すると、その日に限って彼は、森にもう一人の

囚人と「夜のあいだに死んだ仲間の死体を埋めに行け」と

命令を受ける。

それで離れて森に行かなければいけない。

絶望した気持ちで森に行って帰ってくると、

”解放”の貨物自動車組にカウントされておらず、

置いてきぼりになる。残っていた全員は大型の

トラックに乗せられて移動するのです。

ところが結局、喜んで移動した人たちは

全員殺されたのです。だから、彼は外された。

彼自身が書いている他の著作の中に、

百人ずつまとめてガス室に送るという

記述もあります。

ガス室送りになる囚人を百人バーッと

並ばせてしまうのです。

ところが、たまたまフランクルが百人目に

なってしまった。

そうしたら、カポー(囚人の中から

選ばれた監視役)が、

ぜんぜん関係ない何もしてなかったヤツに

突然殴りかかって、あたかも点呼の行列から

そいつが逃げようとしたかのようにそれを行列に

押し込む。

それでフランクルが溢れ、結果的に助かるのです。

彼自身がそれを書いている。

これは、収容所側に「あいつは殺さない」という

意思があった気がする。

偶然じゃないとぼくは思っているのです。

そしてフランクルは、決して収容所側の

人間の悪口ばかりを言ってはいないのです。

ある司令は自分の小遣いを割いて病人のための

薬を買っていたとか、よく読むとさまざまな

ところにナチ側の良心に触れる話を書いている。

だから表には出てこないけれども、

フランクルのような人間は殺さないという

暗黙の合意があったのではないか。

あるいは、それは暗黙どころか、申し合わせ事項に

近いものだったかもしれない、

ということが『夜と霧』を読んでいると

伝わってくる。

若いときは素直に

「この人は生き残れて運のいい人だ」と

思って読んでいたのですが、あの社会には

そういったことがありそうでしょう。

■内田

これはたいへん難しい問題ですね。

反ユダヤ主義者がある種のユダヤ人に

対してリスペクトを示すということは現実にあるんです。

(略)

ドイツ人全部がナチなわけではないですから。

■養老

ぼくはどうも、この年になってしみじみあれは

偶然ではないという気がします。

百一人目の話なんて絶対に変でしょう。

しかも、彼自身が万に一つも生き延びられない

ところを生き延びて出てきているのだから、

その途中の挿話に百一人目が入っているということは、

偶然が重なりすぎる。

■内田

確率としてはありえないですね。

■養老

彼自身がそのエピソードを書いたということは、

やはり、疑っていたということでしょう。

■内田

でも、本人は知りようもないですものね。

■養老

そうなんです。

■内田

ナチの強制収容所の所長の中に、ユダヤ人に

配慮した人がいたというのは、ポリティカリーに

正しくないことですから、明示的には書けないでしょう。

■養老

書けないですね。だから、フランクルが

口ごもったのもよくわかるのです。

逆に、反ナチを期待してインタビューしているのを

「なんていうバカだ」と思って見ていました。

要するに、「人の気持ちがわからないのだ、こいつは

と思ったのですね。

アウシュビッツを生き延びて出てきて、しかも、

そんなに悪口を言っていないということは、

彼の書いたものを丁寧に読んだらわかるはずです。

「アウシュビッツの生き残りなら反ナチに

決まっているだろう」という考え方自体が

成り立たない。

ぼくの考え方が正しいのかはわかりません。

でも、まちがいなく言えるのはユダヤ人だという

だけであれだけの迫害を受けた人が、ドイツ人だという

理由だけで相手を非難するはずがないということです。

戦後、それをどれだけの人が本気で了解していたでしょう。

ぼくはフランクルみたいな人が

ユダヤ人だと思っていたから、

長いあいだイスラエルという国家の行動が

理解できませんでした。


仮に養老先生の仮説が正しいとすると


フランクルが込めた裏のメッセージとは何なのだろうか。


確かにフランクルがナチを擁護するようなことを


言おうものなら違った内容にうけとられるだろうし


出版自体が危ぶまれ闇に葬られる本になってしまうだろう。


(本どころかフランクル自身も)


さらに興味深いのは養老先生の『自分の壁』でも


取り上げてるのだけど


世界的に有名な「テヘランの死神」という寓話を


『夜と霧』の中でフランクルは挿入してて


併せて勘案、自分なりに解釈すると


「人間には叡智を超えた逆らえない意志がある」


一言で言うなら「運命」と言うことなんかな。


「100分de名著」でしか知らないんだけど。


(おい、読めや!)


ちなみに『自分の壁』をもう少し詳しくいうと


東日本大震災で放射線を過度に恐れ、


その危険性を煽る情報を信じてしまい


関西や九州に逃げた人たちがいて


無理に移動したことで健康を損ない命を落とした


お年寄りがいた。


留まる人も多くいたのに


そこを切り離して考えてしまって


「世間が壊れた(冷静さを失った)」と感じたと。


そして思い出したのがこの寓話だったと書かれる。


それから、イスラエルを理解できない、つまり、


フランクルのような立派な人格を持った


人たちの国家なのに何で争いや暗殺が起こるのか


ってことか。


時は和平交渉(ピースプロセス)の10年くらい後


一部の非民主的なイスラエルの人たちと


フランクルがリンクしないってことを


指しておられるのかもしれない。


全くの余談だけど、マスコミ・大手規制メディアが


勉強不足でイラつくというのは


自分も多くありまして、ぐっと話は変わって


なんか似てるかもって思った過去のテレビがあった。


90年代、元ビートルズの


ジョージ・ハリソン(withクラプトン)が


来日直前、TVで特集があって、


日本のカメラクルーがイギリスで練習中の


クラプトンのスタジオに取材の時のこと。


クラプトンとも合わせてインタビューで


ジョージに日本についてのことなんか聞いてた後


クラプトンにジョージの元妻パティのことを聞いて


それ自体なんでそんなこと今聞くのよ、なんだけど


その時カメラがジョージをなぜか映してて


ジョージは苦笑いをしてた。


「これが日本のリスナーのレベルか」と


ジョージに思われただろうなって


思ったことを思い出してしまったことは


どうでもいいか。


思い出したことはどうでもいいけど


いや、内容としてはグローバリゼーションな今


意外と根深いんじゃないかな、これ。


nice!(16) 
共通テーマ:

「農業を株式会社化する」という無理:内田樹ほか共著(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

  • 出版社/メーカー: 家の光協会
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本

まえがきにかえて


 


「これからの農業」を語ることは可能か


養老孟司x内田樹


■内田

「農業にも生産性を」とよく耳にしますが、

生産性が低いことが農業の手柄だと思うのですけどね。

それだけ人の手を必要とするということが。

■養老

そもそも僕、本気で聞きたいんだけど、

みなさんは自分の人生、生産性が高いと思ってるんですか?

「生産性」ってもっともらしく聞こえるんだけど、

ほとんどの人は生産性ゼロですよ。

いや、マイナスじゃないかな。

少しは自分の足元を見てごらんなさいよって。

■内田

本当だ。

■養老

じゃあ農業とか農村の価値は多様性にあるのか

という話になるけど、そう一言で言うのも何か違う。

地域って結局、どこもそれぞれだというのが根本なんで。

それを学問とか風潮とかに当てはめようとすると、

ひと言で言うことになってしまう。

テレビがその典型ですよ。僕がしゃべってたら

「先生、ひと言」ってサインを出される。

「一言になんねえからしゃべってんじゃねえか」

ってこっちは思っちゃう。

■内田

いま、ひと言の時代ですから。

■養老

僕はその、ひと言の時代と折り合えないんですよ。

そう言う折り合えない人たちが、

いま農村に向かっているんだと思いますよ。


「農業を株式化する」という無理・内田樹


「農業は弱いもの」から抜粋


(略)

農業が始まったのは約2万3000年前ですが、

株式会社は産業革命以降に広がった企業形態です。

人類はその歴史のほとんどの期間、株式会社的な

経営と無関係に農業を営んできたのです。

その二つが整合しなければならないと考えている人には

歴史感覚が致命的に欠落していると僕は思います。

農業の存在理由は人間を飢えから守ることです。

それに尽くされる。

去年と同じだけの食物が安定的に供給されれば

とりあえず満点というのが農業です。

農作物を商品として市場に売り出して利益を出す

ということが農業従事者の主たる関心になったのは、

ごくごく近年のことです。人類史の90%以上の期間、

農業は集団のメンバーたちを飢えさせないために

存在していた。


農作物を商品とみなす人にとっては、自給体制の整備は

特に優先的な課題ではありません。

まず配慮すべきことは利益だからです。

商品の素材がどこの国のものであろうと、

どこで製造されていようと、そんなことは、

はっきり言って「どうでもいい」ことです。

商品については、自国産の素材を用いて、

自国内で製造しなければならないなどというルールは

ありません。一番安い原料を買って、一番人件費が

安いところで製造して、儲けた金は租税回避の

ペーパーカンパニーに送る。ルールはそれだけです。


「食糧危機は起こり得る」から抜粋


自国通貨が暴落して食料が買えなくなるとか、

主食の市場価格が暴騰して主食が食べられなくなる

というようなことはグローバル経済体制下では日常的に起こります。

トウモロコシが原料のトルティーヤはメキシコ人の日常食です。

1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)が発効すると

アメリカから安価なトウモロコシが流れ込んだせいで、

メキシコの農家はトウモロコシの生産を

止めてしまいました。

ところがその後、トウモロコシがバイオマス燃料の

材料になったことで国際価格が高騰、メキシコ国民は

日常食が食べられなくなるという事態になり、

2008年には怒った民衆による暴動が起きました。

(略)

それでも、日本人にはそのことがなかなか実感しづらい。

それは、われわれが長いこと飢餓を体験していないからです。

だからそのリアリティーがわからない。

しばらく起きていないというだけの理由で、

人々は「飢餓なんて絶対に起こらない」と思い込んでいる。

でも、少なくとも政府は

「金で食物が買えなくなることがある」

ということを勘定に入れて、

そのような場合でも飢餓状態に

ならないような安全装置を整備しておく義務があると僕は思います。

アメリカは農業資本主義経済にフィットしているように

見えますけれど、それは国内の自給自足制度が整備されていて、

「農産物が商品としてふるまうことができる」環境があるからです。

その環境を整えさせるためにはアメリカ政府はそれなりの

コストを負担している。

アメリカ人だって、市場に全部任せれば最適解が出てくると

思っているわけじゃありません

現にの農業を丸ごと市場に委ねている国なんか、

世界のどこにもありません。


「定常経済の時代がやってくる」から抜粋


農業というものは100年200年というスパンで考えていかなければいけないものです。

資本主義は株式会社そのものの寿命には

まったく興味を示しませんが、それとは裏腹に経済成長は

永遠に続くことを前提にしています。

でも、残念ながら、永遠に続く経済成長などというのは

夢物語です。すでにグローバル資本主義は終焉を迎えつつあります。

経済学者の水野和夫さんが言うように、

グローバル資本主義が終わり、定常経済の局面に入りつつある


資本主義のその本性として「先のこと」は考えません。

ですから、集団が生き延びてゆくために必須の

社会共通資本であっても、企業の当期利益になると思えば、

どんどん市場に投じて商品化しようとします。

株式会社を野放しにしておけば、

森林の乱伐や大気汚染・水質汚染に歯止めがかからないのは

誰でも知っています。

そんなことをすれば、地球がいずれ居住不能になると分かっていても、

株式会社にとってはそれよりは当期の利益のほうが優先する。

それは株式会社にしてみたら当然なのです。

平均寿命5年の生き物なのですから、

「そんなことをしたら100年後にはたいへんなことになる」と

言われても死んだ後のことなんか知るかよと言うわけです。

その点では僕たちだって変わりません。

(略)

株式会社が危険なのは、その点なのです。

その点だけと言ってもいい。

当期利益しか考えないと言うことがデフォルトの

システムなのです。

自然資源を守るのは100年、200年という

タイムスパンの中では必要なことですけれど、

株式会社の5年スパンからすれば、

別に自然なんかいくら破壊しても、直接の影響はまだない。

だから、農業のように長期に渡って安定的な環境が

整備されていないと成立しない産業を

株式会社モデルに制度設計してはならないのです。


「安全保障をしたがらない」から抜粋


医療人の基本的なモラルを誓言(せいごん)の

かたちにした「ヒポクラテスの誓言」と言うものがあります。

そこには

「どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の

相違を問わず、不正を犯すことなく、医療を行う」

という一条が含まれています。古代ギリシャにおける

医術の発祥の時点から、貧富の差や出自の差によって

施術の内容を変えてはならないと言うことは

医療人として生きることを選んだ人たちの中には必ず、

「現金の支払いがあるかどうかは医療が行われる

本質的な条件ではない」

と言うヒポクラテスの誓言を信じて医療行為を

する人が出てくると僕は思います。


資本主義が限界にきていることは誰しも感じていることだろうけど、


ここまではっきり分析されると改めてそうなのか、という感じだな。


グローバリズムが引き起こす弊害もますます強まりそうだけど、


組織というか個の力によって、淘汰されるのかもと


ヒポクラテスの件を読んで感じた。


ーーー


農業主義が再発見されたワケ・宇根豊(百姓・思想家)


「田んぼの生きものは全滅」から抜粋


生きものは、百姓が知らないところできちんと

田んぼに生きていて、田んぼを支えているわけです。

害虫を何匹食べているとか、そういうことではありません。

生きものが一匹もいないような田んぼに百姓が入ったら、

ほんとうにさびしいと感じるでしょう。

それは、実際にいなくなってみないと

わからないかもしれません。

田んぼに行くと、お玉杓子(たまじゃくし)が

今年もまたいっぱい生まれている。

そのことについて、ふつう百姓は別になんとも思いません。

たとえお玉杓子が生まれたなと思うことはあっても、

いちいち語らないでしょう。でも、心の中では、

身体では感じているわけです。

でも、それは経済価値も何もないから、言わない。

思想化もされてないし、学校の対象でもない。

そのほんとうの理由がこの頃やっとわかったので、披露します。

もうずいぶん前のことですが、私が家を留守にしていた間に、

田んぼの水が干上がってしまって、

お玉杓子が全滅したことがありました。

そのときに私は「悪かった。ごめんよ」と、

お玉杓子に謝りました。

そのときは、これは単に私の感性だろうと、

深く考えなかったのですが、最近になって

他の百姓たちにも尋ねてみたのです。

「うっかり水が干上がってお玉杓子が

死んだことをどう思うか」

という質問への回答が図1です。


(図1をテキスト化)


< お玉杓子が死んだことに対する百姓の回答

■年配の百姓

 A:3% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:2% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:93% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:2% 「無回答」

■20、30代の百姓

 A:40% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:38% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:16% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:6% 「無回答」

※年配122人、20、30代32人が回答


私が驚いたことが二つありました。

一つは、若い百姓は「ごめん、悪かった」と

回答する人が極めて少ないことでした。

それにしても

「有機質肥料になればいい」

「天敵として役にたたなかった」

というような回答を真顔ですることに、

私たち世代以上の百姓は驚きます。

(当初は、冗談で設けた選択肢でした)

もう一つは、さすがに年配の百姓は、

「ごめん。水を切らして、悪かった」という回答が

圧倒的に多かったことに安堵したものの、

「あなたたちは、田んぼに水を溜めるのは、

稲のためと同時にお玉杓子のためにも溜めていたのではないか」

と尋ねると、全員が

「そういうつもりは全くない」ち断言するのでした。

「では、なぜお玉杓子に詫びるか」と重ねて問うても、

「そんな気になるだけだ」と答えるのでした。

そこで私は気づいたのです。

百姓は「無意識」に生きもののためにも

水を溜めているのだ、と。

たしかに私の体験をさかのぼっても、

お玉杓子が全滅した田んぼに、

その後入ると、ほんとうにさびしいと感じたものでした。

このように、百姓の伝統的な天地有情の感覚は、

当たり前すぎて表現されないままに、

「無意識」に身体に(心に)蓄積されるものではないでしょうか。

私は百姓のこの無意識を掘り起こして表現して、

農本主義の新しい土台思想にしようと考えているのです。

このように、私が「天地有情」と呼んでいる世界が

百姓を支えているのです。

(略)

資本主義の弊害はとっくに生きものの世界には

訪れています。それは単なる自然破壊ではなく、

農業にたいする大きな警告です。

こうした生きものを守れるのは、百姓以外にいません。

百姓がそれを守ろうとする余裕を確保する政策が必要です。

ところが、もっとコストを下げろ、生産性を上げろ、

労働時間を減らせ、規模を拡大せよという成長戦略は、

この日本の天地自然・山河に対してほんとうに失礼です。


食べものは天地のめぐみだという感覚を取り戻す思想を

百姓が語らないなら、誰が語るのでしょうか。

人間は資本主義の価値観だけで生きているのではないことを、

百姓は天地有情の世界で示していく、

そういう時代がそこまできています。


「天地有情」という言葉を初めて知った。


お玉杓子のいない田んぼって考えられない。


昔は水溜りにもいろんな生き物がいたし


家の裏にあった小さな沼に仕掛けたザリガニ獲りの罠を


見にいくときの高揚感は今でも覚えている。


人によっての「前提」が異なるってのは、


養老先生も指摘されてたけど


いろんな人いますからねえ…。


「前提」を「普通」に置き換えてもいいし


お前に言われたくないよ、ってことかもしれないし。


ーーー


贈与のモデルは再び根づくか:平川克美


AIとベーシックインカムの登場


繰り返しになりますが、

これから先に起こることを考えていくと、

農業はますます重要性を増してくると思います。

これから起こることが何かというと、一つは人口の減少に

よる経済のシュリンクです。

そして、その小さくなったパイを奪い合うことによる

貧富格差の拡大と富の集中が

起きてしまうということです。

それから、もう一つはAI(人工知能)の発展によって、

雇用が喪失していくという現象が起こります。

これはもう実際に起き始めています。

そうなってきたときに、最終的にわれわれの

経済が行き着く先は、

おそらくベーシックインカムしかありません

すぐにはできないでしょうけど、過去1、2年にアメリカの

一部の地域で実験されたり、

スイスでは国民投票が行われたりしましたけど、

先進国では大きな議論として取り上げられているわけです。

ベーシックインカムとは何かというと、

生きていくために必要なもの、必要最低限のものは

分け与えようという全体給付のシステムを、

資本主義の中に導入するという試みです。

今、地上で最もそれに近いことをしているのはどこかというと、

おそらくキューバです。

これは三砂ちづる先生に教わったことですが、

キューバは医療も教育も無料です。

人が生きていくために、食料の配給も。

こういったことは、社会主義国が取り組んできたことです。

ところが社会主義は、人民を解放するどころか、

独裁的な国家運営に傾いていって、

ソ連邦や、旧東ドイツなどのように、

内部崩壊していったわけです。

ところが今、勝った方の資本主義システムの正当性も

どうも怪しくなってきたという状況で、

もう一回、社会主義的な、相互扶助的な社会と

いうものが見直されているということです。

相互扶助的な社会では、成長よりも、持続が重要な

課題になります。そうなると、

第一次産業的なモラルが再評価されます。


ベーシックインカムに話を戻します。

ポスト経済成長の社会では、全体給付という

社会システムの中に、制度として入れていく必要がある

と思います。

全体給付は、いわゆる「誰もが平等に」

という考え方ではありません

そうではなく

われわれの社会を壊さずに、生きていくために

最低限必要なものは分け合う

というシステムをつくっていくことです。

今ある税金のシステムも全体給付のシステムの

一つではありますが、

使われ方を見ても、再分配機能という点で見ても、

実質的には全体給付になっていません。農村部に若い人が

戻りつつある現象は、全体給付や、相互扶助的なものが社会も

自分も救済することになると直感しているからでは

ないでしょうか。

(略)

農村部に行けば、とりあえず食える。自給自足も

可能かもしれないということに気付くのと同時に、

農村部の持っていたモラル、自然との向き合い方みたいなものに

惹かれるわけですね。

消費化し、人工的化した都市部の現状が、あまりにも

そこから離れてしまったから。

自然の恵み、自然からの贈与を相手にするという、

農村のモラルに惹かれる人が増えるというのは、

とても健全なことだと思います。

農村のモラルを基本にして、生活、社会全体を

組み立ててくといったときに、自然の贈与というのは

丁寧に大事に使うもので、どんどん収奪していけば

いいというものではないと知るわけです。

贈与ですからね。それが本来なのです。それがこれまで、

贈与モデルから収奪モデルに変えられてきた。

それをもう一回、贈与モデルに戻していくということです。


「贈与モデルと収奪モデル」から抜粋


ただ、今後、贈与モデルと収奪モデルのどちらが

優位になっていくかは、分かりません。

それらはつねに相争っているわけですね。

全てを市場にしよう、商品化しようという動きと、

社会的な共通資本を広げていこうという動きが、

おそらくこれから何十年間か争うんだろうと思います。

それをわたしは、移行期的混乱というふうに名前をつけたわけです。


一方に自然の恵みを受けて循環型で定常的な農業があるとすれば、

もう一方にはモンサント(※)みたいな、

食料を完全に商品としてのみ扱うような企業があるわけですよね。

均衡再生産していく自然を、遺伝子とかをいじって

拡大再生産の方に向かわせるという考え方は、

当然のことながらなくなりません。

そういう自然の贈与を収奪していく勢力は、

これから先もずっっと存在していくだろうと思います。

(※=アメリカに本社を持ち、遺伝子組み換え作物の

世界シェア90%以上と言われる多国籍生物科学企業)


「贈与の成り立ち」から抜粋


ここまで贈与モデルという言葉を用いてきましたが、

そもそもマルセル・モースが発見し、記述した

「贈与経済システム」とは、贈与された者が、贈与者に

対して直接の返礼をしてはいけないというものでした。

贈与された者が、直接返礼すれば、それは贈与ではなく、

等価交換に過ぎません。

本来の贈与システムというのは、贈与されたら、

その返礼は必ず第三者へのパスというかたちをとるということです。

こうした、第三者への贈与の迂回によって、全体給付が実現する。

あるいは、親から子、子から孫へと順送りする贈与があります。

第三者に渡すか、順送りにしていくか。その「送っていく」

つまりパスで回すというのが贈与の一番のポイントです。

だから、贈与に返礼というものはありません。

もう一つのパターンがあるとすれば、贈与合戦のように

なって物資を使い果たしてしまう、

蕩尽(とうじん)というものがあります。

つまり贈与には「順送り」「第三者へのパス」「蕩尽」

という3つのパターンがあるということです。


現代社会のあちこちでささやかにおこなわれている

贈与交換的な営みは、現代社会の特徴である貨幣交換の

影に隠れていますが、現代社会が行き詰まった時には、

隠れていた贈与交換的な営みが必ず前面に出てくるはずです。

たとえば、ベーシックインカムだとか、減価するお金である

ゲセルマネーといった構想がそれにあたります。


その後、アメリカで実験している


ベーシックインカムはどうなったのだろう。


結果共有されても、そのまま日本に


適用できるわけじゃないだろうけど。


課題は山積されているだろうけれど、


今の資本主義という名前の「何か」よりは


暮らしやすいことは間違いなさそうだ。


そして、農業に限らず、若い世代にも期待や


その逆もあるだろうし、なかなか難しいな、


というのを感じた。


個のスキルを磨いて、必要なものであれば


差しのべ助け合うという


老いも若きも良いところを取り入れて


フェアな社会にしていきたいし


そうなってほしいと常に思う。


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