未来への大分岐:マイケル・ハート・斎藤幸平他2名(2019年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2019/08/09
- メディア: 新書
副題が「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 」
余談だけど、最初出版された時は、
表紙に4名の対談者の写真があり
マルクス・ガブリエルが面積比率が大きくて
今風に言うならマルクス推しの表紙だったのに
今や斎藤幸平先生推しになってますよ。
時の人だからですね、私的には何の支障もありませんし
本の価値を損なうものでもないんでいいすけど。
(ちなみにマルクスさんも好きです、NHKも見たし持ってるし)
第5章 貨幣の力とベーシック・インカム
マイケルハート(政治哲学者・デューク大学教授)
ベーシック・インカムは救世主なのか から抜粋
■斉藤
私は「楽観主義は意志のものである」というあなたの立場にはいつも勇気づけられています。
しかし、ここでは「悲観主義は知性のものである」ということにあえてこだわってみたいと思います。
聞きたいのは、ベーシック・インカム(以下BI)についてです。
あなたはBIを提唱していますが、現代の社会でそれがどういう戦略的意味を持つのかという問題です。
現代の社会とは、アプリで食事を注文すると、ウーバーイーツのようなシステムを通して誰かが配達して届けてくれるような社会です。
犬の世話や散歩も、あなたの代わりにやってくれる人をアプリで探せる。
汚れた服も、宅配で集荷され、誰かが洗濯してくれる。
トイレットペーパーがなくなれば、ネット・スーパーに注文すればいい。
何でもアプリがあれば済んでしまう。
他方で、現実にこれらのサービスを提供する労働者は低賃金で、不安定な非正規雇用なわけです。
こんな社会で、BIが導入されたらどうなるでしょうか。
今の労働条件や生活水準をただ受け入れるしかなくなるでしょう。
しかも、アントレプレナーシップというイデオロギーによって、その状況は正当化されてしまいます。
自立性のある労働者になりなさい、そうすれば食事やトイレットペーパーを誰かのために運送する時でも、他人の犬の散歩をする時でも、クリエイティヴでいられますよ、というような具合にです。
あるいは、そういう状況に陥っているのはアントレプレナーシップが足りないからだ、要するに、自己責任だと言われかねないわけです。
■マイケル・ハート(以下MH)
『<帝国>』の最後の部分で、ネグリと私は実現可能な行動について三つの方向性を打ち出し、その一つ目がBIでした。ちなみに二つ目は移動の自由、三つ目は生産手段を取り戻すことでした。
もちろんBIを導入すれば、収入を仕事から切り離すことができます。
20世紀には、収入と社会的権利は仕事と結びついているという教条的な考え方がありましたが、それはもう時代遅れです。
BIはまた、過酷な仕事を減らしていく力にもなると考えられます。
BIがきちんとした生活のために十分な金額で支払われれば、わざわざ劣悪な労働環境で働くことはなくなりますからね。
変革のためのツールとしてBIが不可欠だとは思いませんが、それでもBIはかなり具体的な改善につながると思えるのです。
しかし、あなたが表明されていた懸念は、社会的な不平等をよりいっそう悪化させることになるというものでしたね。
■斉藤
そうです。
労働環境の悪化が、BIによっても正当化されかねないと考えています。
人々のいやがる仕事の担い手が消えてしまうような金額のBIをたぶん資本主義国家は支給しないでしょう。
■MH
ああ、それは私が考えているBIとは違いますね……
■斉藤
毎月五百ドルを支給するだけでも、BIだという人はいますが、あなたの言うBIとは、誰もが無条件に、生きるために十分な額を受け取ると言うものなのですか。
■MH
ええ、そうです。
私がBIを提案した20世紀の終わり頃には、BIなんて常識外れのアイディアにしか見えないだろうと考えていましたが、最近では主流派の経済学者が提案してくるBIもたくさんあって、シリコンバレーの起業家が監修したものさえも出ています。
■斉藤
まさに同床異夢という感じですが、BIのアイディアを遡っていけば、その由来の一つは新自由主義の教祖とも言える、ミルトン・フリードマンの「負の所得税」に行き当たるんですよね……
■MH
たしかにそうですが、でも権力側が実際にそれをやってくれたらいいと思うんです。
大きな改善につながりますからね。
相当程度、貧困をなくすことができるでしょう。
それ自体、良いことですよね。
もちろん、BIが革命の代役を果たすとは考えていません。
今の社会が抱える病理をいくぶんかでも解消することのできる手段である、というだけです。
といっても、変革のための効力をもつ可能性も否定できません。
■斉藤
私はあまりそう思わないんですよね。
BIには「構想」と「実行」が分離している状態を改善する効果はありません。
いくばくかの貨幣を受け取れば、少々の商品の購買が可能になる。
こんなふうに購買という行為の主体性が発生しても、それは貨幣の力によるものであって、労働者が固定資本や生産手段を取り戻すことによって発生した主体性ではない。
BIと関連させて、あなたは「貨幣そのものは問題ではない」と『アセンブリ』のなかで書いてますね。
貨幣は「<コモン>としての貨幣」として使用できる可能性があると。(※)
この文脈で再びBIの話が展開されていますが、この点についても、異論があります。
マルクスは貨幣そのものが問題だと捉えていました。
貨幣はどんなものでも購買できるという特別な力を備えており、それが基礎となって、他人を支配できる社会的な力を持っている。
貨幣なしには商品生産社会で生きていくことはできません。
マルクスは、商品と貨幣によって媒介されたこの関係を克服しようとしていました。
マルクスにとって、貨幣こそが資本主義の根幹的な問題だったのです。
こうした考え方からすれば、私たちの目指すべき方向は、生活に必要なサービスや財の現物支給による「脱商品化」(エスピン=アンデルセン)であり、貨幣と商品の力を制限することではないでしょうか。
現金を支給して、人々に商品を購入させる。
つまり、貨幣と商品の交換をさせるBIではなく、基本的なニーズを満たすサービスを給付することを目指したほうがいい。そのほうが、貨幣の力を制限できます。
具体的に言えば、教育や医療を無料にすることや、先ほどお話のあった電気や水などへの開かれたアクセスなどがそれにあたるでしょう。
いわば「ユニバーサル・ベーシック・サービス」です。
これを要求するのであれば、BIは別にいらないのではないでしょうか。
目指すべきは脱商品化で、貨幣の力に基づいた変革ではありません。
貨幣の力をどう見るか から抜粋
■MH
思うに、あなたと私の違いは資本主義下の貨幣を想定しているのか、あるいはより一般的な枠組みでの貨幣を想定しているのかの違いではないでしょうか。
資本主義という枠組み内の貨幣の話であれば、あなたの意見に賛成です。
しかし、貨幣というのはもっと一般的な概念、歴史的行為だと考えています。
だから、これは、ネグリと私がもっと一般的な哲学的なレベルの話として、考えている問題なのです。
つまり、貨幣の本質を交換様式の問題として定義していませんし、貨幣を価値の蓄積の問題であるとさえみなしていません。
では、私たちにとって貨幣とは何か。
貨幣とは、社会的関係を再生産するためのテクノロジーなのです。
それゆえ、資本主義のもとでの貨幣は、資本主義のもとでの貨幣は、資本主義的な社会関係を再生産するためのテクノロジーとして機能しているのです。
だからといって、ネグリと私が社会的関係を制度化するものに反対しているわけでも、社会的関係の再生産のための技術を否定的に見ているわけでもありません。
貨幣というテクノロジーが、<コモン>という別の形で使われてほしいのです。
「<コモン>としての貨幣」とは、つまり、民主主義的で、平等で、公正な社会諸関係を再生産するためのテクノロジーです。
ネグリと私が、「<コモン>としての貨幣」という概念にこだわる理由は、今日の話の冒頭でしていた、社会運動とその制度化の議論とある意味で重なります。
社会運動に制度化が必要なように<コモン>にも社会的な制度化が必要なのです。
私たちが関心を持っているのは、商品生産や交換様式ではありません。
むしろ、広がりと持続性を持つ社会的テクノロジーとしての貨幣に関心があるのです。
その意味では、私たちのこういう貨幣の捉え方は、一般的な貨幣のイメージとは対立するものかもしれません。
脱商品化についても同じで、斉藤さんの意見はその通りだと思います。
未来に到達したい社会の姿についてお話しされていましたが、私はBIを到達点として考えているわけではなく、資本主義社会の問題を多少なりとも和らげる方法として捉えています。
そして、同時に、BIは「働かざる者食うべからず」というような資本主義のもとでのイデオロギーで凝り固まった考えをほどき、新しい方向に広げていく助けにもなります。
■斉藤
同じゴールを目指しているのはわかりましたが、ゴールにたどり着くまでにどの経路をとるかについて、あなたと私では違いがあるようですね。
私はその組織化の担い手として国家を使っていくことが」現実問題としてやむを得ないところがあると考えているのですが、国家が脱商品化の推進役になることに、あなたは反対していますよね。
■MH
うーん、国家が推進役となる脱商品化というのは、なかなか難しいのではないかな。
国家がその役割を担うとして、国家がうまく脱商品化を進められるのか、いや、進めたがるのか……
まあ、アメリカ次第なのだろうな。
日本の立場というか。
今までのやり方で考えると。
属国と言われてしまいそうだけど。
もはやグローバル的見地というか
世界全体がそうなので、
って事だとするとまた違ってくるのかな。
というかそんなところで世間の顔色
伺っている場合じゃないよね。
より良い社会にするためには。
■斉藤
政治主義に陥った日本の左翼たちの多くは、BIに大きな期待を抱いています。
資本主義のものとで貨幣はすでに大きな力を持っているがゆえに、貨幣という力を使えば社会を変えられると彼らは信じているのです。
資本主義に抗うための武器として、貨幣を考えているのです。
しかし、貨幣の力の源泉は資本主義にあるわけですから、その力を資本主義に刃向かうために、使うことなどできるはずがありません。
特に労働組合の力が弱い、日本のような国では、いったんBIが導入されてしまうと、賃金は下げられる一方でしょう。福祉サービスもカットされるはずです。
BIで生きるのに必要な現金を与えているではないか、というのが理屈になるはずです。
そうすると、人々は貨幣の力にいっそう従属してしまうことになります。
■MH
どうしてそのことは貨幣の力を強めるといえるのですか。
■斉藤
福祉サービスが削減されれば、その領域が商品化され、余計に貨幣に頼る必要が出てきてしまいます。
それは資本への従属につながります。
■MH
なるほどね。でも、福祉サービスはすでにかなり切り詰められているのではないですか。
これ以上カットする余地がないのではないですか。
■斉藤
いや、もっと徹底的に切り詰められてしまうはずです。
BIを導入するとなれば、相当な額の予算が必要となります。
そして、今の資本と労働者のパワーバランスを見れば、BIが導入されると、そのぶん確実に他の社会保障が削られるしかない。
そうなった時、欧州などの他の国では、労働組合がその状況に対して闘うことができるかもしれません。
でも、日本の状況を考えると、単に賃金がカットされただけで終わってしまうことが懸念されるのです。
■MH
よくわかります。負けが負けを呼ぶということですね。
「BIを給付するから、それ以外はいっさい給料を支払わないよ」というような交渉はご免ですよね。
マイケル・ハートは世界を見てて、
斎藤幸平先生は日本から考えているので
話が合わない点もあるけれど
自分は日本人なので、やはり斉藤先生の
おっしゃる意味がわかる気がする。
マイケルさんも斉藤さんの対談で、日本の状況が
お分かりいただいたようだし、
斉藤さんも狭い視野ではない。
それにしても、斉藤さんにはこれからも見識を広めて
日本型BIというか、BIという体ではないかもしれないけど
新しい社会の提唱を続けられることを
切に願う次第でございます。
(それを受けての「人新生」なのかもしれないけど)
もちろん丸投げではなく、
かなり年上になってしまったけど
自分自身も考え続けますぜ。
最近、グローバルについて、
グローバリズムっていうのを
見聞き読みして、負の面しか
見れてませんでしたが
斉藤さんの世界の知識・知見は
グローバルで良かったと思わざるを得なかった。
50年以上前、三島由紀夫さんが予見していた
「今に言葉こそ違えど世界中が同じ問題を抱える」
って状況なのだから、日本を考えるとき
他国の状況を知らざるを得ないすよな。
今のウクライナも然り。
世界状況が当事者になっているというか
そうなってしまった。
いいとか悪いとかじゃなくてリアルとして。