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地球温暖化論への挑戦:薬師院仁志著(2002年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

「第3章 社会問題としての地球温暖化問題


 見えない権威への従属ーー危機の重さと行為の軽さ」から抜粋


 

<朝日新聞2000年9月26日付>

地球温暖化をくい止めるには、どんな行動をとったらいいか、

遊びながら考えてもらうすごろく「ストップ!温暖化ゲーム」が好評だ。

(略)

 

この「すごろく」自体に文句はないが、

地球温暖化危機というのは、「遊びながら考え」る程度の

問題なのかという疑問は生じる。遊んでいる場合なのであろうか。

だいたい、すごろくを作るための資源消費や

生産活動の方が問題ではないのだろうか……。

まあ、すごろくという発想は名案かもしれない。

何だか、冷房がきいた部屋でハンバーガーを食べながら、

トラックで配達されてきたすごろくを楽しむ子供たちの

微笑ましい姿が目に浮かぶようである。

要するに、地球温暖化の危機が広く知れわたり、

多くの人々がその対策のために行動しているにしても、

そこで働いているのは、悩み調べ考え抜かれた上での

危機感ではないのである。本当に自分の生活が

危ういのであれば、子や孫の生存が脅かされるのであれば、

「ショッピングをするような気持ち」で「遊びながら考え」るような

感覚にはとてもなれないであろう。

むしろ、顔面蒼白にでもなってなければおかしい。

そして、自分や家族や子孫の命を本気で心配するのであれば、

たとえ食料配給制でも衣料品切符制でも鉄材供出でも勤労奉仕でも

何でも受け入れるだろう。すごろくをしたり買い替える車の

燃費を調べたりしている場合ではないのである。

ここで、このような状況を嘆いているのではない。

非難しているのでもない。大切なことは、なぜこのような

社会的状況ーー危機の重さと行為の軽さの共存ーーが

成立しているのかを、冷静に分析することなのである。

この種の軽さは、実は、その背後に巨大な力を秘めている。

われわれはこの力から逃れられない。

たとえば、たとえ軽い感覚であれ、車を買うときに燃費を気に

するようにと、密かに脅迫されているのである。

もし必要以上にバカでかい超豪華車でも買おうものなら、

環境に対する意識の低いアホな人間というレッテルを

貼られてしまうことになる。誰もがそれを恐れている

特に、社会・経済的地位の高い人ほどそうだろう。

逆に、自分が「エコ・コンシャス」だということが、

世間体をよくする。つまり「かっこいい」のだ。

誰もがそれを感じている。

そして、誰も、この静かな脅迫から逃れることはできないのである。

この静かな脅迫は、頭ごなしの一方的命令ではない。

有無を言わせぬ力ずくの強制でもない。この脅迫をもたらす、

目立たぬが実は強力な作用こそ、「抑止」と

呼ばれるものなのである。

われわれはこの抑止から逃れることができない。


人生多少長くやってて思うことは、いや、長さというより、


2022年の現代に思うことなのかもしれないけれど、


リアルでは「スターウォーズ」のように「悪」が黒ずくめで、


現れた瞬間に、それっぽいBGMが流れることが


ないということだ。


それは巧妙であり狡猾なもので陰湿なものだ


ということが


後で気がついたりするのだよね。


現実は「ダークサイド」だってことが「わかりにくい」


ってことかね。


しかも他の角度から見ると


「ダークサイド」だとも言い切れないみたいな。


見分けるには感性を磨き考え続けるしかない。


一人だと限界あるけど。


余談だけど、「スターウォーズ」は好きですからね。


特にエピソード4は。公開時小学生で川崎に


見に行ったことはどうでもいいなこれ。


同章から前後してしまうけど、最初の部分から抜粋。


一般向けに地球温暖化論を紹介する書物では、

多くの場合、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の

報告が援用されている。簡単に言えば、

国際的に権威を付与された機関の見解を示すことによって、

人為的地球温暖化論の正当性の根拠としているのである。

ところで、IPCCとはいったい何なのか。

念のため、ここでその概略を確認しておこう。

1988年6月のハンセン氏の「99%証言」が引き金となって、

地球温暖化問題が国際政治の新たな関心事となって、

注目を浴びるようなったことはすでに述べた。

そのような状況下、同年11月、初めての公式の

政府間の検討の場として、国際環境計画(UNEP)と

世界気象機関(WMO)の共催によって設置されたのが、

IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)

なのである。さらに、同年

「12月6日、国連決議(53/43)『人類の現在および

将来の世代のための地球気候の保護』が採択され、

このなかでIPCCを国連が支援する正式の活動として認知」した。

その後、1992年の地球サミット(環境と開発に関する国連会議)に

おいて、「気候変動に関する国際連合枠組条約」が

調印されたのである。なお、温暖化防止京都会議(COP3)と

いうのは、この条約第7条に規定された「締結国会議」の

一つ(第3回目)である。

IPCCは、設立初期から、あたかも国際的な権威のような

形で、その強い影響力を発揮し続けている。

(略)

問題は、少なくとも多くの一般市民にとって、

突如として有名になったIPCCなる存在の権威と正当性の

源泉が見えないことである。ほとんど一般市民にとって、

IPCCの仕事に参加したとされる2500人の科学者の名前を、

一人として暗記してはいないだろう。たとえ名前くらいは

覚えていたとしても、その人物の研究業績に関する専門知識は

ほとんどないであろう。それが普通なのである。

にもかかわらず、IPCCの見解は広く一般に受け入れられている。

この事態は、人々が自分ではよくわからない対象を、

真理を垂れる権威として信じ込まされているような状況である。

重要な問題は、IPCCの見解や人為的地球温暖化論が正しいか

否かよりも、正しいかどうか深く考えもせず、それを権威や

真理のごとく信じ込むような態度なのである。そのような

態度のもとで、国家の政策が決定され、国際世論が

形成されている。われわれは、この事態を

直視しなければならない。

要するに、何だかわからない権威から真理を啓示され、

いつの間にか既成事実が積み重なっているのである。


IPCCのデータの懐疑性や、それをさらに懐疑している


S・シュナイダー氏(気候物理学者)の言説に対して


物言いを膨大な資料や時事・世評・当時の空気等から


ご自分で考察・分析され、話を進める著者は


1961年生まれってことは、ちょい上だけど


同年代ってことで驚いた。


1950年代くらいの環境に関する資料から、


「地球寒冷化」だったり「地球温暖化」が、


何かのイベントとか、トレンドかの如く、


いつの間にかひっくり返っていて


それがまかり通っていることを指摘される。


ちなみにIPCCって、政治的バイアスかかってるから


信用ならんと養老先生との対談でおっしゃるのは、


元早大教授の池田清彦先生でした。


「同調圧力」「忖度」とか、


少し前のキーワードを連想せずにはおれないなあ。


それがグローバルスタンダードになってきているってことなのか。


それにしても、「環境問題」は奥が深くて、何を信じて


考察すればいいのか、そこが何かに試されている気がする。


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2冊の柳澤桂子さん書籍から環境問題を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


いのちと放射能 (ちくま文庫)

いのちと放射能 (ちくま文庫)

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/09/10
  • メディア: 文庫


2007年出版だけど最初に上梓されたのは1988年


チェルノブイリの少し後。


アメリカで生活をされていただけに


アメリカの原発事故のことも


ご存知で、さらに科学者の視点をお持ちだから


原子力への警告って他の方にないものがある。


自分は昨今、他の方の環境問題本を


読み漁ってきたので違う視点もといった思いもあり


かねてより心から尊敬している


柳澤さんの本も購入して拝読。


私たちはすでにいろいろな化学物質で

地球をよごしてきました。

けれども放射性物質による汚染は、これまでの化学物質に

よる汚染とは比較にならないほどおそろしいものです。

しかもそれがチェルノブイリの事故のように空高く

噴き上げて地球中に降ってくるのです。

また私たちは、捨てかたもわからないごみを自分たちの

欲望や快楽のためにどんどんつくり出して、

地球をよごしているのです。

人間は原子力に手をだしてはいけません

原子力は禁断の木の実です!

 

  要するにどうすればいいか、といふ問いは

  折角だどった思索の道を初にかへす。

  要するにどうでもいいのか。

  否、否、無限大に否。

  (高村光太郎「火星が出てゐる(1927年)」より)


「あとがき」から抜粋


ここ数年の間に、放射能や原子力発電の恐ろしさに

ついて書いた本がたくさん出版されました。

けれども、放射能の恐ろしさを生命科学的な

観点からしっかりと説明した本がないことに

私は気がつきました。

放射能のほんとうの恐ろしさは、突然変異の蓄積に

あると思います。

原子爆弾や原子力発電の事故によって、

地球が壊滅してしまわない限り地球は汚染され、

全ての生物において突然変異の蓄積が進みます。

その結果、何が起こるのかということを

予想するのは難しいでしょう。

生命の自然の歴史に、

人為的な因子を加えることは、

わたしたちの快適な環境を損なうことに

なるでしょう。

進化の方向が狂ってしまうかもしれません。

いずれにしても、40億年の生命の歴史のなかで

生きるように作られてきた現在の生物にとって、

それは好ましいことではありえません。

これから生まれてくるたくさんの子孫に、

美しい地球を残すには、快楽のため無制限に

放射性物質を使ってはならないことだけはあきらかです。


余談だけど、この本の帯は、音楽家の坂本龍一さんで


「放射能はなぜ怖いか。その理由がわかります」



いのちと環境: 人類は生き残れるか (ちくまプリマー新書)

いのちと環境: 人類は生き残れるか (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/08/08
  • メディア: 新書


2011年3月、東日本大震災が起き


何かに突き動かされ書かされたのだろう。


買う前にちらと立ち読みした時「環境問題」は言うに及ばず


「京都議定書」「IPCC」「原発反対の理由」など


最近自分の中で看過できないキーワードがあったため


購買意欲を決定まで押し上げたということは


どうでも良いけど付記します。


京都議定書は2002年に発効する予定でしたが、

2001年にアメリカは批准を拒否して

条約から離脱しました。

世界最大のエネルギー消費国が加わらないことになり、

世界は動揺しました。オーストラリアも

離脱を表明しました。

議定書は無効になってしまうかと思われましたが、

受け入れの判断を見送っていたロシア連邦が2004年に

批准したので、京都議定書は2005年に国際法として

発行しました。

離脱していたオーストラリアも2007年の政権交代後に

批准しました。

COPはその後も毎年開かれています。

2008年、ポーランドのポズナニで

おこなわれたCOP14では、

2050年までに世界全体の排出量を少なくとも

50パーセント削減するという長期目標を決めようと

日本をふくむ主要先進国側が提示しましたが、

先進国が2020年までの中期削減目標を

示すのが先だという、

発展途上国側からの強い反発が出て、

会議は合意にいたらずに終わりました。

2009年、デンマークのコペンハーゲンで

おこなわれたCOP15は、京都議定書に続く

あらたな議定書の採択を

目指していました。

京都議定書には2013年までの目標しかないため、

それ以降の先進国の新たな削減目標を決め、

京都で見送った途上国にも削減目標へ

参加してもらうこと、

そして法的な拘束力をもつものにしようと

議論が交わされました。

2010年、メキシコのカンクンでおこなわれた

COP16は、洪水や干ばつなど温暖化による

被害を受けやすい途上国への

資金援助をするための基金の設立や、次の議定書を

つくるため先進国・途上国両者が譲歩することを決めました。

一進一退、というべきなのかどうか、

どうしても筆がためらわれます。

結局のところ、各国が自国の利益を主張していて、

なかなか話がまとまらないのが現状です。

COPは締約国会議と翻訳されていますが、

もとの英語は

Conference Of the Parties、

つまり当事者国会議という意味なのですが、

気候変動の当事者であるという意識が

あまりにもないことにあきれてしまいます

COP15で、温室効果ガス排出量世界一である

中国は「自主的」な削減目標を発表しています。

非協力的だとは思われたくないけれど、約束して

他国にどうこう言われるのはいや、

という態度に見えます。

排出量二位のアメリカは、オバマ大統領が

温暖化対策に向けて積極的な姿勢を見せています。

クリントン政権が合意した京都議定書には

縛られたくないと、あっさり離脱を決めた

前任のブッシュ大統領の態度と

比べれば前進といっても良いでしょう。

同じCOP 15の開会式で、当時の鳩山首相が

「日本は2020年までに1990年比で25パーセントの

温室効果ガスを削減する」と宣言し、

世界の注目を集めました。

しかしこの発言は、日本の産業界などからは

批判されました。

そんなことをしたら世界の経済競争に

負けてしまうというのです。

どこの国も他国に負けたくないと思っています

そのように争っているうちに、

地球は生物の棲めないところに

なってしまうかもしれないのに、

それでも国の経済がたいせつなのでしょうか?

非現実的だという批判もありました。

たしかに日本は高い省エネ技術を持ち、

はやくから省エネに取り組んできていますから、

京都議定書で定めた削減業務である

マイナス6パーセントの達成すら危うく、

逆に排出量は増加しているくらいです。

実現がなかなかむずかしいことは

わかっています。

鳩山前首相になにか具体的なアイデアが

あったわけでもなければ、

ほんとうに覚悟があったのかどうかも

わかりません。

けれども非現実的であったとしても、

現実的なことしかしなければ、この豊さは

持続できないというのが現実なのです。

私たちはほんとうに地球の現状を知って

精一杯の努力をしているのでしょうか?


アメリカの流れ、この後トランプ氏の


アメリカファーストとなり


バイデン大統領で少し譲歩があるのかと


思ってたところに


コロナ・ウクライナだからな。


先行き、見通しは暗いと感じさせる。


京都議定書もパリ協定に引き継がれたのか?


いずれにせよ、時の流れを感じるが


柳澤さんのおっしゃることは普遍的だ。


悲しむべきことと思うけど


あまり好転してない印象の環境問題。


「おわりに」から抜粋


私たちは地球を壊してしまいました

その原因は人口の増加と産業がさかんに

なりすぎたことです。温室効果ガスも増えています

いずれにしても私たちは今の生き方を

考え直さなければなりません。

けれども二酸化炭素の削減をとってみても、

国は自国のことばかり考えていて

譲り合おうとしません。

砂漠化にしても、森林破壊にしても

地球規模で相談して、

なんとかしなければ間に合わないところまで

来ているのに、話し合いは進みません。

人口問題だけが進展しはじめましたが、

遅きに失した感があります。

本書で述べてきたように、

私たちの意識の進化の

レベルが低すぎるのだと私は思います。

(略)

まだ、今すぐみなさんにできることがあります。

まず自分の意識レベルを上げるような勉強をしてください。

いい芸術に触れることをお勧めします。

特に優れた文学を読みよく考えてください。

あなたの周囲の人の意識レベルを上げるような

会話をしてください。

(略)

今日一日幸せに過ごせたら、感謝しましょう。

そして電気をはじめ、すべてのものをたいせつに

使いましょう。

人類の成熟に向けて日々努力しましょう。


なんか、美輪明宏さんと同じことを


おっしゃっているような。


行き着くところは、同じなのかな。


でも、全人類的な視点って必要だと思う、と言うと


みんな笑うんだよね、今の社会って。


自分の言い方にも多分に問題あるのだろね。


センス、感性を磨くこと、これ以外に選択肢は


ないように感じる秋の虫が大合唱する夜にて。


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安部公房対談集・発想の周辺(1974年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

文学がヒトの人生にも影響を与えていた頃とでもいうのか。


今もなのか、最近の文学を読んでないから言う資格ないのだけど。


50年以上前の対談から抜粋。


二十世紀の文学(1966年)


対談者:三島由紀夫


■三島

僕は僕自身の作品を絶対にエンジョイできないもの。

■安部

それは自己を分裂させた代償だよ。

■三島

ただ、きみの論理の構造というのはね、

つまりきみ自身の中にある読者、それはきみの一部かもしれない。

そういうものが読者という観念の、不特定多数人に

象徴されるという考えだろう。

■安部

そうだそうだ。

■三島

そういう考えには、どうしてもついていけないのだ。

■安部

ついていけないと言ったって、きみだって、

そうでなければ、書けるわけはないと思うよ。

■三島

そうかね。僕はつまり、不特定多数人が僕に

象徴されるという考え方はとても好きだ、

そういう自慢はないけれど、そういう考えはとても好きだ、

そういう考えをもし持っていたら、幸せだと思う。

■安部

でも、今度のきみの芝居を読んで、つくづく思ったなあ、

ああ、これは書かされた芝居だ、書いている芝居ではない。

だからいいんだよ。つまりね、作品として自立できる作品って、

全部そうだよ。

■三島

それは無意識…。

■安部

ベトナムあたりに行って、ガチャガチャ書いたものは、

書いた作品だよ、あれは。

■三島

きみは、それは集合的無意識ということを言うの?

■安部

むずかしいことを言うなよ。

そう言う学術的用語を抜きにしてだな。(笑)

■三島

僕は混沌がとてもいやなんだ。つまり、読者とかね。

■安部

読者は自己の主体で、作者は客体化された自己なんだよ。

■三島

とっても混沌というのは気味が悪いよ。

■安部

気味は悪いさ。

■三島

もちろんそれがいなければ、本が売れないのだけれども。

■安部

いや、そうじゃない。買ってくれないよ、その読者は。(笑)

その読者は絶対に買ってくれる読者ではないのだよ。

作者三島と対話するだけの、孤独な読者だよ。

あんがいそれが本物のきみで、いま喋っているきみというのは…。

■三島

芸術か、一つの。

■安部

君はさっき、理屈っぽく、アクションがあって、

これを取り除いて、選んでと、いかにも意識的に

書いているように言うけれども。

■三島

そう言うふうに書いたんだよ。

■安部

信じないね。

■三島

書いているところを見せたかったな、それは。(笑)

■安部

おれがにらんでいたら、きみ、一行も書けないよ。

(笑)密室でなければ書けないよ、作家は。

■三島

もちろん密室だけれどもね、密室の中の作業だね…。

■安部

密室というのはどういうことかと言うと、

対話だからだよ。そうだろう。

■三島

それはそうだ。芝居はそうに決まってる。

■安部

小説だって同じさ。やはり三島由紀夫というのは、

二人いるのだな。

■三島

おれは、だけれどもう、無意識というのはなるたけ

信じないようにしているのだ。

■安部

信じなくても、いるのだ。

■三島

そうか。無意識の中に精神分析学者になり、

精神病医なりが僕の中に発見するものは、みんな僕が

前から知っていると言いたいわけだな。

だから無意識というものは、絶対におれにはないのだと…。

■安部

そんなバカな。

■三島

絶対にないのだから。

■安部

そんなむちゃくちゃな。この前の宇宙飛行士の

ようなことを言う。(笑)

おれは宇宙飛行士がしゃくに触ったのだよ。

おれが、おまえさん夢見ないのかと聞いたのだ。

宇宙のなかで寝るわけだよ。どんな夢を見たのかと言うと、

おそらくおれは、地球の中にいる夢を見たと言う

答えをするだろうと思って言ったのだよ。

そうしたら、俄然として、夢なんか見ませんでしたと言うのだな。

そんなバカなことがあるわけはないのだよ。

ただ夢を忘れただけの話で。

だからしゃくに触ったから、言おうかと思ったが、

最新のソ連医学ではね、夢は不可欠な休息の要因があって、

休睡眠と脳睡眠とあるのだってね。それでね、

つまり両方とも睡眠したら死んじゃうと言うのだ。

死なないために、つまり体を完全に弛緩させるために、

脳だけ起きているのが夢の状態で、

それでバランスをとっている。

脳を休める時には、今度は体の方をいくらか

弛緩させるというように、バランスをとっているわけだ。

だから夢がなかったら休めない。

両方とも眠っちゃったら死んでしまう。

■三島

そうか。

■安部

それをソ連の医学で発表しているのい、ソ連の

宇宙飛行士がおれは夢を見なかったというのは、

科学に反するではないか。おそらく党の方針に

反するのではないかと思ってね。

■三島

除名だ。(笑)

■安部

話がこんなふうに飛んじゃっちゃあまずいが、

しかし三島くんといえどもだよ…。

■三島

駄目だよ、おれは無意識はないよ。

■安部

そういう変な冗談を言うなよ。(笑)

どうも、結末がつかないな。おれが主導権を取っておれば、

結末をつけたけれども取られちゃったらから、わからなくなってきたよ。

■三島

まあ、これでいいよ。それで、両方でケンカ別れでおしまい。

■安部

そう言うことにしよう、絶対に無意識の

ないものはない、と言うところで。

■三島

どちらを結論にするか、そこが問題だな。(笑)


前にも書いたけど、三島さん、無意識がないって、


そんなわけはないだろう。


意識以外に管理されることが許せなかったのだうね。


楯の会結成後の三島さんの行動とか作品は、


今思うと自分には全くリンクしない。


なんか人間であることを拒絶しているようで


辛いものがあるから。


安部さんも、ソ連の学術論文がそうだからって


宇宙飛行士が宇宙で寝たら


夢見ないってことはあるんじゃないすかねえ。


なんでそんな意固地に論文を現実として信仰するのだろうか。


しゃくに触るっていわれても飛行士は困るだろう。


天才ゆえ、または、若さのなせる技なのかなあ。


余談だけど、全く関係ないけど


対談が若い頃から好きなのは、安部さんのあとがきのような


文章にあるけど、これに近いのかと全く僭越ながら感じた。


昭和49年2月 安部公房


対談嫌いの弁明


対談というものは、速記が始まったところで、

すでに終わっているべきだという説がある。

対談を、対立する意見の勝負だと考えれば、そのとおりだろう。

たしかに速記原稿が上がってからの加筆訂正は、

対立点を曖昧にするし、勝敗をうやむやにしかねない。

極端な場合、証拠隠滅にもなりかねない。

だが、そんな対決だけが、対談のすべてでは無いはずだ。

対談という形式はむしろ、対話に向いているような気がする。

対話には争点や勝敗よりも、発想の展開が問題だろう。

だから、速記の開始どころか、さらにさかのぼって、

相手を選んだ時にすでに終わっているというべきなのかもしれない。

じっさい対談の後、記憶に残っているのは、話し合った内容よりも、

むしろ相手の人格や性格である場合が多いようである。

ぼく自身も、自分の発想の構造を

さらけ出してしまったような不安に

おそわれることがしばしばだ。

しぜん対談の機会も少なくなってしまう。

いくら対決したい相手に事欠かなくても、

対話の相手はそうめったにはいないのである。


自分は安部さんの論法からいくと、


読みたい人が沢山おられすぎて困る。


天才と普通人の違いかね。


興味ある人の「対話」が、


本当に考えさせられるし、面白いから


つい手にとってしまうのだ


と言うことをこれを読んで気がついた。


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2冊の養老・池田先生の対談から日本を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

養老・池田両先生の忖度なし対談が面白くて、


このところ読み漁っている。


忖度なき態度が爽快。



脳が語る身体―養老孟司対談集

脳が語る身体―養老孟司対談集

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本

脳の形式を見る(1991年)


対談者・池田清彦(生物学者)


 

▼養老

僕は、動物愛護の問題というのは、

現代、かなり深刻になってきちゃった裏には、

それだけじゃないとは思うけれども、

人間と動物をどこできるかという問題、

しかもそれには「意識」が絡んでいるということが

あると思うんです。

今までキリスト教徒は、人間と動物の間を

すぱっと切っていたんだけれども、

そこがうまくきれなくなってきている。

僕の知っている限りでは、ドナルド・グリフィンが最初に

「動物に意識はあるか?」と問いかけて、

その場合の意識はawarenessというふう本に書いています。

でもこれは日本でよく行われる議論から考えれば、

案外プリミティヴな気もしますね。

というのは、僕らはどちらかといえば、

”一寸の虫にも五分の魂”なんて言って(笑)、

動物と人間は繋がっていて当たり前だというふうに

思っているところがありますから。

問題は、その魂が自分自身をモニターしているかどうか、ですね。

そして、モニターする機能そのものを「意識」と考えると、それでほぼ話は尽きちゃっているんじゃないかなと思います。

そういう意味では、デカルトが最初に「意識」というか「思考の現実性」ということをいった。

これは要するに、人間には現実感というのがあるけれど、これがどういう対象に付着するかという問題だと僕は考えています。

そうすると、それがお金にくっつく人もいるし、抽象思考にくっつく人もいる。

例えば最近、フランスの神経生理学者にシャンジョー(Changeaux)と数学者の対談を読んだのですが、そのなかで数学者が「数学的世界は実在する」という。

するとシャンジョーが「それはどこにあるんだ?」という質問をするんですね。

もちろんシャンジョーの期待した答えは「脳の中にある」というものなんだけれど、数学者はガンとして「やっぱり数学的世界にある」と言い張る。

そうして「それは大勢の数学者に共有されている」と答えるんです。

 

▼池田

数が実在するというのは、数学ができる人ほどそう思ってますね。

 

▼養老

ええ、そうなんです。それは僕は当たり前だというんです。

というのは、脳の中にもし実在感というのを与えるような

部位があるとしたなら、長い間「数学」を

やっているとそれは数学と結びついてしまう。

さっきデカルトについて行ったのもこれとまったく同じです。

長い間「抽象思考」をやっていると、抽象思考と実在感が

くっついて、「抽象思考こそ実在するものである」となって、

つまりコギトになる。そう考えると、たとえば「お金」が

そうなってもちっとも不思議はないんであってね(笑)。

兜町あたりへ行ってそこにいる人に聞いたら、

やっぱり株の上がり下がりとか株そのものは実在しているんだ

という感覚で生きているんじゃないかと思うんですよ。

 

▼池田

なるほどねえ。(笑)

 

▼養老

じゃあ、動物にそういうものはあるかというと、

やっぱり動物だってある種の実在感は持っていると思うのね。

 

▼池田

「知性」というのは普通、いろいろなことを考える論理的な能力だとか相手を見分ける能力とかさまざまですが、「知性」がどの動物にもあるというだけなら、割と納得しやすい話ですよね。

ただ、そういうことをやっているさまざまな知性がモニターする知性

ーーー「自我」とか「意識」と呼ばれるものーーーが

あるかどうかというのは、脳の大きさだけから分かるものなんでしょうか。

 

▼養老

大きさからだけでというと確かに問題はあるでしょう。

ただ、感覚器だって、”五感”というくらい違っていて、そういった違う感覚器から入るのに、いったん脳の中に入ってしまうとそれは信号に変わるから、いわば「同質」になってしまう。

ちょうどそこで社会的な比喩をとれば、「お金に変わる」ような感じといったらいいかな。

つまり数字がついている。そういうものにすべて変わってしまう。

だから頭の中で我々は、「経済をやっている」わけで、いろいろな無関係のものを交換しているわけです。極端にいえば、感覚を運動に交換ししまうというような非常におかしなこともやっているわけで、それはちょうど人間の社会で

「お金」が自由自在に通行するのと同じですね。


動物愛護について、外来種規制法など


しばらく前から取り沙汰されてるけれど、


養老さん、池田さんにたちにするとこれも環境問題の一部であり、


「グローバリズム」の弊害であるとの指摘をされている。


以下の対談時(2008年)ではまだ「グローバリズム」


という表現はされてないけれど。



正義で地球は救えない

正義で地球は救えない

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/10/01
  • メディア: 単行本

池田先生の前説「ニセモノの環境問題」から抜粋

ほんとうの環境問題』の中でも少し紹介したように、

「地球温暖化」論自体がウソであると言っている科学者は

少なからずいる。あるいは、地球温暖化は事実で

あったとしてもその主因はCO2ではない、と言っている科学者はもっと多い。

残念ながら、そのような意見が全国紙やテレビなどの

大きなメディアで取り上げられることはほとんどない。

私自身も、ある全国放送のテレビの報道番組から、

北海道洞爺湖サミットを前に特集を組むから番組に

出てくれと依頼を受けていたが、

直前になってよくわからない一方的な理由を言われて

出演が突然キャンセルになったことがあった。

ラジオや週刊誌といった、比較的マイナーなメディアでは

「今の地球温暖化対策は意味がない」というような意見を

好意的に取り上げてくれるのだが、

一方で、メジャーな大新聞にはまずそのような意見は載らないし。

テレビの報道番組もまた同様である。

この国では、大きなメディアになればなるほど、

日本政府・環境省が立ち上げた「地球温暖化防止大規模国民運動」に

ただ乗っかっている。

大きなメディアほど体制に迎合的で、まるで大本営発表のような

報道姿勢になっているのではないか、と言いたくなる。


日本でも、北海道の穀物の生産量は温暖化すれば

増えると考えられる。

一方九州では、例えば現在作っている品種の米作には

不適な地方になるのかもしれない。

そうしたら南国に適応的な農作物をつくるというふうに

シフトしていけばいいし、そうするしかないのだ。

今ある状態をベストだと保守的に考える人は、

あらゆる変化を「異常」ととらえてしまう。しかし変化に

適用する知恵や技術を開発したほうが合理的である。

温暖化にしても、温暖化に適応することを考えるほうが

現実的であって、止められない温暖化を「止めましょう」との

お題目をただ唱えていたってしょうがないのである。

一応ひとこと付け加えておくと、私は、CO2排出量削減に

まったく意味がないと考えているわけではない。

それは、地球温暖化に歯止めがかけられるからではなくて、

CO2の排出量は省エネ化を進める上でのひとつの指標になりうるからだ。

言うなれば、ただそれだけのことなのである。

温暖化しようがするまいが、限りあるエネルギー資源を

効率よく使うことは大切だろう。


相も変わらず何のためになるのか

わからない「CO2排出量削減」を国家的な運動にしてるこの国に、

未来のためのエネルギー戦略があるようには見えない。

二十一世紀の世界覇権を握るのは石油に代わるエネルギーの

安定供給をいち早く確立した国である

そのことに自覚的でないことが、地球温暖化よりも

ずっと恐ろしいことのように思える。


繰り返すが、アライグマにせよブラックバスにせよ、

それによって滅ぼされた在来種はいない。

それに、環境省によって「外来生物」と呼ばれている当の

動物からしてみれば、自分は日本で生まれた日本の動物なのだ。

祖先が「外来」の出自であることを理由に差別するのは

悪き国粋主義ではないのか。

少し前に、和歌山市と海南市に200頭ほどの

タイワンザルがいることが問題になった。

動物園から逃げたタイワンザルが野生化し、

近所のニホンザルと交配しているという。

和歌山県はタイワンザルおよびタイワンザルと

ニホンザルの交雑個体を捕獲して殺す方針を決め、

日本生態学会もこれを支持した。タイワンザルを

逃してしまった動物園に落ち度はあっても、

逃げて野生化したタイワンザルに罪は無い

ましてそのタイワンザルとニホンザルが交配して

生まれた子供のことを「遺伝子汚染」を

理由に殺す行為は常軌を逸している

野生で頑張って生きているサルを捕まえて、

遺伝子汚染を理由に殺すのはサル以下の差別人間のすることであろう。

固有の生態系を保全するという「正義」は、

ナチスがやった殺戮行為に根拠を与えてしまっているのだ。

そんな「正義」などないほうがましではないか。


世界レベルで見ると、効率の良い代替エネルギーを

開発できない限り、畢竟(ひっきょう)、人口を合理的に

減らせなければ、最終的には不合理な事態が起こる。

それが戦争なのか、大量餓死なのか、他の何かなのかは

わからないけれども、大きなクラッシュが起こってしまうだろう。

果たして世界はそれを回避することができるのかだろうか。


そして二人の対談。


▼養老

いいかげんに、無意味な欧米スタンダードを踏襲するのはやめてほしい。

僕は、生まれた時代が古いせいか、そういうのは植民地主義だというふうに、どうしても思ってしまうんですよ。

自分たちのライフスタイルや価値のスタンダードをよその国の文化に押し付けるという傾向が、

反捕鯨にせよ禁煙にせよ環境問題にせよ、とくにアングロサクソンがやることの根底には強くあるよね。

 

▼池田

それが絶対に正しいと思っているのだからどうしょうもない。

盲目的に受け入れる方もどうかしていると思うけれどもね。

 

▼養老

特にアメリカは福音主義だから、福音を伝えることが正義だと信じている。

禁酒法時代に酒の流通がアングラ化した。

今後、日本でも煙草を千円にするとかいっているけれど、煙草もアングラ化が進んだり、あるいはそのうち麻薬のほうが安くなったりするんじゃないか。


▼養老

ブータンに国連の視察の人間がやってきて、子供を働かせているのは児童福祉の観点から見て

問題があると注意されたという話がある。

大きなお世話ですよ。

家族みんなで働いていて、それで何が悪いのか。

欧米の価値基準をブータンに押し付けようとするなって。

世界中でそういうくだらない欧米スタンダードの侵食が起こっていることが僕は非常に気になります。

 

▼池田

人間の感性に従って生きていて、それでうまくいっていれば、

別に西洋的な法律なんて関係ないはずですからね。


▼養老

日本はもともと、一元的な価値に対する解毒剤のような役割を果たせる文化を持っていたと思うんです。

ところが今やそれが危うい。

日本という国はもともと多様性の大事さを認めていたはずで、一神教ではなくて八百万の神を奉ってきたのもその表れでしょう。

つまり、この世界は複雑なシステムで成り立っているということを西洋人よりも感覚的にわかっていたはずなんだ。


もちろん、良いところを踏襲すれば良いのだろうけど、


どうもそう見えない日本のやり方。


思考を停止しているとしか、みたいな感じですな。


色々面倒くさいんだろうな、官庁とか。


言われたことだけやって下手に目立った動きすると、


梯子外され隅に追いやられるだけだったりしそうで。


そこから変えるには、池田さん提唱される、


国を小さく分け、ベーシックインカム導入とかにしないと。


この二人のような忖度なしの発想や


行動は生まれ得ないと思った。


 


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6人と養老先生の昔の対談から現代を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


無意識に身を任せる(1996年)

対談者・水木しげる

■水木
ところで、最近、私は”癒し”ということを考えるんです。
もちろん医療も同じですが、それをも含んだ大きな力としてです。
よく絵や音の力で癒すと言いますね。
夜中に精霊を呼ぶときに感じるのですが、
何か目に見えない癒しの力が絶対にあると思うんです。
私はラバウル戦線で怪我をして左腕を切断しました。
けれど、向こうの医者は何もしてくれず、
「自然に治るんだよ」と毎日ガーゼを換えてくれただけでした。
■養老
医療というのは、根本的には患者本人の手助けを
するだけで、医者が治しているわけじゃない
■水木
例えば車を運転している人が自分で運転していると
思い込んでいても、それは目に見えない何かが動かして
いるのかもしれない。
70歳以降は悠々自適な生活をする予定だったのに、
私がいまだに働いているのもそういう自分以外の目に
見えない何者かがいて、それが私を突き動かしている
としか思えないんです。
■養老
まさに無意識ですね。
それは意識にならないから説明のしようがない。
ただ、想像していたことと違う結果が出た時は、
助手席に座っている無意識が
バイアスをかけていると考えられます。
■水木
例えば、結婚にも無意識が関与しますよね。
■養老
結婚相手の選択なんて意識的にやっているはずがない。
意識的に選んだら完全に迷っちゃって、まず結論は出ないでしょう。
■水木
神秘ですよ。なぜ結婚相手が家内だったのか。
私は鳥取生まれですが、なぜ出雲出身の家内と
結婚しなくてはならなかったのか。
もしかしたら八百万の神が関係しているんじゃないかと(笑)。
でも、意識したらすでに無意識ではないわけですね。
■養老
意識できればね。でも、意識できないことの方が多い。
わからないですからね、自分自身なんかも。
■水木
意識している自分だけが自分だと思うのは間違いですね。
■養老
現代人はほとんどそう思っています。意識が自分だと
思っている。若い人は特にそうで、
「自分の中に無意識がある」という意識はない。
■水木
なかには妙に干渉してくる無意識もいるわけで、
背後霊というのはそれですね。
■養老
そうでしょう。普通の人はそういう体験をあまり
しないからわからないだけでしょう。
人間が目に見えることから影響を受けるのは40パーセントくらい、
多く見積もる人でも半分くらいと言っています。
私は鎌倉に住んでいますが、神社やほこらが多い地域です。
ほこらなどのあるところには、それらしき雰囲気が確かにありますね。
■水木
人間の行動にはかなり無意識が関与しているわけですね。
■養老
むしろ無意識が強いんじゃないでしょうか。

自分は水木さんが描いた『方丈記』が素晴らしくて

購入したのだけど養老先生もよく鴨長明を

引き合いに出されてたので

感性が似てそうだなと思った。

ユーモアのあるところなんかも。

意識と無意識、フロイトは無意識を「抑圧された意識」と

定義されてたというのも興味深かった。

ーー

魂の復権 対談者:横尾忠則(1997年)

自然や魂を排除して成立した”近代” から抜粋

■養老
信任教師の研修で講師をする機会があって、
ディスカッションで聞いたのです。
「楽しい学校にする」だとか「個性を尊重」とか、
言っていることの根本は人間関係なのです。
以前、いじめにあった子が大人になってから書いた
手記を読みましたが、そこには自分、友だち、
先生の行動や反応ばかりが詳細に書かれていた。
最後まで花鳥風月は出てこなかった。
教師の話を聞いて合点がいきました。
いまの教育がそうなのです。
都市は人間が作っているもので、
そこで変化するのは人間だけ。
人間だけを相手にしている集団が
みごとにできあがりつつある。
■横尾
僕の考え方は、古典的というか前近代的に思われてしまう。
「ややこしいからあいつは横に置いておけ」という感じで。
居心地は悪いが、逆に自由な立場です。
■養老
僕もまったく同じです。教師の話を聞いて
「なるほど、僕が世の中に合わないわけだ」と
よくわかった。彼らは子どもの頃から、
どうすれば集団でうまくいくかだけを考えてきた。
「いじめにあったら、家にいて、好きなものを見て、
絵でも描いてなさい」という指導は絶対に出てこない。
■横尾
われわれが子どものことにもいじめはありましたが、
いまのような陰湿なものではなかったですね。
■養老
当時は、人工の世界と自然の世界の二つがあり、
それぞれにプラスとマイナスがあったわけです。
ところが自然が消え、いまは世界が半分しかない。
友だちと仲良くする、先生に褒められるなどの人工のプラスと、
いじめられたという人工のマイナスだけになっている。
だから、世界の中でいじめのウエイトが倍になってしまった。
■横尾
自然を排除すると自我が強くなりますね。
自然には自我がないでしょ。
自然が破壊されると、”私”を主体とした
近代主義的な自我ばかりが増幅されるのではないでしょうか。
■養老
その自我に対して「わがままを言ってはだめ」
という形で、集団で適応する日本的なやり方で
飼い慣らそうとするから、無理が出てくるわけです。
■横尾
僕は”わがまま”というのは我の儘だから自然体だと
思っています。この場合私利私欲の伴わない、
より純粋なわがままのことを言っています。
■養老
生理ですね。
■横尾
そうです。生理とは感情よりも本能寄り、
もう少し言えば、魂寄りのものだと思います。
■養老
確かに感情的必然という言葉はないですね。
■横尾
医学では魂の存在をどう考えていますか。
■養老
一切はずしてしまっている。無視することで
近代医学は成り立っているのです。
■横尾
芸術の分野も同じです。おそらく二十世紀芸術は
ほとんど魂というものを問題にしない。
■養老
僕は”たましひ”という文字で表現します。
この魂には、日本の古典的な使いかたでは
「生きている」という意味もある。
心はむしろ情緒的で、魂はもっと元にある
生命エネルギーのようなものを
含んだ概念でしょうね。

「ものごとの見方はいろいろある」から抜粋

■養老
7月にベトナムに行きました。飛行機から下を
見たら実に乱雑な風景があり、「地面を引っかいた」と
いう感じでした。
日本に帰ってきて成田空港を飛んだ
瞬間に驚いたのです。
山林は山林、畑は畑と極めて整然としていた。
日本の社会で暮らしていると生きにくくて仕方がない
約束ごとは多いし、気を遣うし。
考えてみるとその結果が
空から風景にあらわれているのではないか。
日本のアートもそうじゃないですか。
■横尾
理路整然としている。
グラフィックは世界的にもトップクラスだけれど、
美術では主導権がとれない。
■養老
どの分野でも同じですね。
科学でも、純粋科学ではなく、
技術ではトップクラスです。
■横尾
よく野球選手が肘の手術にロサンゼルスに行くでしょう。
日本ではできないのですか。
■養老
できない以前に考え方としてやらないのでは。
だいたいそんなに無理して野球の選手をやらなくても。
■横尾
僕もそう思う。野球がダメでもなんとかなるさと
頭を切り替えれが良いと思うのですが。
日本は八百万の神様がいる国ですし、これがダメなら
これがあるみたいな、僕は常にそう思っていますけれど。
■養老
それはわれわれの世代だからではないでしょうか。
終戦でガラッとひっくり返ったから。
まあそんなもんだと思っている。
ものごとを一つには見られない。若い人によく言われます。
「どうしてそういろいろなものの見方ができるのですか」と。
見方が勝手に変わるだけなのですが。
■横尾
そのほうが正直だと思います。
■養老
いまの若い人たちは落ち着いた世の中に育っているから、
世の中は動かないものと思っている。だから案外堅いのです。
きちんとしていて、自分は正しいと疑わない。
■横尾
僕は自分の性格の多面性を知っていますから、
その都度都合の良いものを一つ取り出してくる。
だから「これが私です」というアイデンティティは持てない。
■養老
僕もそうです。よく生徒からは
「先生、昨日言ったことと違います」と言われる(笑)。
だから「人間、昨日と今日でいうことが違って当たり前なんだ」と。
■横尾
われわれの世代は理屈が通らない時代を経験して
いますからね。
昨日まで軍国主義で、今日から民主主義に変わった。
教科書を墨で塗らされた。変わり身も実に早い。
昨日まで”鬼畜米英”なんて言っていたのに、
今日は進駐軍にガムやチョコレートをせがんで
追いかけていった。子どもの頃の経験で、
変わり身に抵抗がなく、当たり前みたいになっていますね。
■養老
最近思うのだけれど、どうも僕らは少数派のようです。
世の中、はるかにまじめな人が多い。

横尾さんと養老さんは感性が似てる!

横尾さん確かご自分のお子様の学校の教育方針にご立腹され

学校を辞めさせておられていたような。首尾一貫しているなー。

教育制度についてはお二人物申すことがこの頃からあったのですな。

しかし養老さんご指摘されてるけど

世代間ギャップなのかなあ、横尾さんたちの感覚って。

それだけでは済まないものがありそうで

良いところは残していくのが得策と思うのだけどなあ。

ーー

混ざる文化・混ざらぬ文化(1999年)から抜粋

荒俣宏(作家・翻訳家)

■養老
東大を辞めて日本を回っていると、
やはり日本は多様で広いなと思う。
閉じ込められていた東大時代が前世のような気がします。(笑)
今はラオスに二週間行っても、誰も文句を言いませんから。
私の勝手なのです。
■荒俣
勝手がどんなに楽しいか。最近はやや変化してきたけれど、
大学というのはどうも勝手な研究をしてはいけないらしい。
不思議なもので、勝手をやると必ず排斥されたり、
クレームがついたり。指導があったりする傾向がある。
生物学で言えば、これはテリトリーの問題かなと
思っていたけれど、どうもそれだけでもないらしい。
■養老
現象的には我慢大会です。全員で我慢している。
ですから、我慢していない人がいると我慢できない。
■荒俣
なるほど。自己矛盾ですね。(笑)
自主規制もすごいんでしょう。
■養老
まさに日本は自主規制ですよ。権力規制をやると嫌われる。
「研究は先生方の自由です」、その代わり…。
■荒俣
自由だけれども予算はつかない。(笑)
つまり日本の職業的学者にとっては、研究費が
つかないと生殺しみたいなことになる。
予算は”世のため、人のため”という市民権を
得ている研究にはつくけれど、
そうでないものにはまずつかない。
博識学には絶対つかないんです。
■荒俣
ところで、少し風水の話をしますと、
風水の極意は”同じことを繰り返すこと”なんですね。
最近は幸せになる方法だと勘違いしている
ようなのですが、風水は、朝飯でいえば、
おいしいビフテキをたらふくたべることより、
ご飯と味噌汁で一生食いつないでゆく方法なのです。
そのために、これなら一生困ることなく暮らせるという
丸適マークの場所を探す。
でもこれは決して幸福な状態ではなくて、
同じことを繰り返すのですから、面白くもないのです。
■養老
流行っているようですが、そうなのですか。
■荒俣
風水を作った中国人の理想は不老長寿。
つまり仙人になることで、生きていておもしろいとか、
つまらないことととかは別問題です。
『薔薇の名前』にも出てきますが、
修道士を何十年もやった男が、
確かに人格高潔になったけれど、
たった一つの後悔は
「人生がおもしろくなかったことだ」と
言っていますよね。
風水も全く同じで、逆にいうと、
おもしろいことを求めてはいけない
まさに我慢大会に通じます。
しかし、考えてみると、同じことを繰り返せる文化と
いうのはすごい。
マイマイカブリに通じます。
制度にしても、主義にしても、
みんなの幸せを求めて何か理想を掲げていったものは、
だいたい短命です。
もし本当に長生きしようとしたら、
我慢とは言わないまでも耐えられる限界でやること。
このただの繰り返しに意味がもてれば、きっと何か
悟りの境地に達するはずだ、と。
でも、これは西洋人の認識ではないんですね。
つまり東洋では、半分死んでいることが
生きていくことになる。

風水って、そういう感じなんだなあ。

自分は、幸せを呼ぶ法則みたいに思ったのは

ほんの上っ面、メディアに踊らされてただけだったのか。

まあ、良いことだけ信じてればいいか。

 


人は何を表現するのか

山本容子(1999年)

「肖像画は似ていてはつまらない」から抜粋

■養老
伺っていると、僕はずっと解剖をやっていたから、
正反対のところがありますね。解剖は逆にイマジネーションを
消していく。
「このおっさん、肩にパットが詰まっているから、何年、
天秤を担いできたのだろう」などと、
感心していたら仕事になりません。
■山本
そうですね。でも、楽しいですね。
■養老
そう思えば、楽しいです。
■山本
「死体はしゃべらないから良い」と、何かに
書いていらっしゃいましたね。
■養老
だから、逆に想像力は働くのです。
「この人はなぜいまここにいるのだ」と考え出したら、
際限無く広がってしまう。
先ほど、「リアリティー」と言われたでしょう。
それはまさに的確な表現ですね。
いつも疑問に思っていて話すことですが、
「リアリティー」と言う単語はおかしい。
「リアル」とは”現実”ということでしょう。
では、「リアリティー」とは何か。なぜ”現実”が抽象名詞になるのか。
だなのから、抽象名詞の「リアリティー」は、
具体的に訳せば、「真善美」になると、僕は思っています。
「この絵はリアリティーが高い」は、
「より本当に近く、より良いもの、より美しいものだ」
と言った方が、ピタリとくるのです。
■山本
なるほど、そうでしょうね。
私の気持ちでは「より本物だと思われる嘘」、
嘘というと語弊がありますが。
■養老
その場合の嘘とは「抽象化」ということですね。
嘘ではないが、人間は一番の真実が、
つまり、その辺りから来るわけですからね。
ラスコー洞窟の表現者たち から
■山本
三年前に、ラスコーの洞窟壁画の本物を
見たことがあるのです。
(略)
本物を見るとわかるなと思ったのは、
薄暗い中で目を凝らして見ると、内部は石灰岩で
真っ白でした。そこにコントラストの強い黒と黄色と
赤の顔料を使って描かれているんです。
牡牛が5メートル、それが二頭、中空で向き合っている。
いまにも動き出しそうな迫力に。寒イボが出る思いでした。
(略)
私はどうやって描いたんだろう?道具は?足場は?光源は?……
と学芸員の方にいろいろ質問したのですが、
一番不思議に思ったのは、1万7000年も前に
「なぜそこまでして描きたかったのか」ということでした。
狩猟に関する儀式とか呪術、祈りのためだろうと
言われているようですが、それだけでは
収まらないものを感じたのです。
■養老
収まらないというのは、どういうことですか。
■山本
いまの研究では、動物たちの絵は
およそ5000年にわたって描き継がれてきたものだそうですが、
その間、スタイルの変化が見られない。
普通、動物を描けば木や風景も描きそうなものなのにそれもない。
とすると、やはり信仰に類した理由でとも思うのですが、
5000年の間、本当にそれだけだったのだろうかと。
絵に上手下手はあっても、技法を見ると例えば牡牛は、
背中はモシャモシャと毛が立っていて、
喉はスーッと鋭利な線になっている。
モシャモシャは石や手などをこすりつけて描く。
だけど喉の鋭利な線は、紙版画のように何かを当てて、
顔料を口に吹き付けて描いたに違いない。
つまり、これは描写になっているのです。
描画力が優れている。
■養老
表現になっているわけですね。
■山本
はい、単に形を描くことが目的だったのではなくて、
描きたかったということではないかと。
■養老
非常に良い話を伺いました。
要するに、過去の人類と現在の人類の一番大きな違いは、
僕は”表現”だと思うのです。
ホモ・サピエンス以前の段階には、実用の道具はあっても
表現行為は見られない。
それがいつの間にか表現になってくる。
きれいになってくる。
石の斧やナイフなどの道具を見て、新しい時代ほど
洗練されてくるのがわかる。
けれど、驚くのは絵なのです。
突然、描き出すという感じなのです。
■山本
ネアンデルタール人には、そういう能力が
なかったんでしょうか。
■養老
あったにしても社会的に認知されないとか、
だれにもわかるような絵になっていなかったのではないか。
■山本
おもしろいですね。私がラスコーの表現で特に
感心したのは、彼らが形遊びや見立てを
やっていたことです。
洞窟の凹凸を利用して描いた牛のお腹は、
横から見ると迫り出しているし、石のムラの上に
描かれた鹿は川を渡っているように見える。
ちゃんと遊んでいる部分がある。
■養老
やはり、アーチストがいたのではないですか
■山本
結局はそういうことですね。
でも、このような真っ暗のところに、
誰に見せようと思って
描いたのかが不思議なのです。
聖霊的なものとか何かになるのでしょうか。
表現とはたぶん、見せる行為ですから。

アーチストが太古からいたって、不思議ではないよな。

誰かに見せるとかじゃなくて、書きたいから書くという

本来の意味の「仕事」だと別の対談で

指摘してたのは村上龍さんでした。

貴重とか希少とかでなく

そういう視点でラスコーの壁画を見ると本当に面白い。

ーー

(3)脳が語る身体(1999年)

サルから見えるもの、死体から見えるもの

対談者・河合隼雄・立花隆(1994年)

■河合
ヒト化の条件を大局的に見ると三つ取り上げてはどうか、
と僕は思っているんです。
一つは自然という立場から、直立二足歩行するという、
運動形態ね。
それから、社会的な立場から、家族という
社会的単位を持つということ。
三つ目は、文化的な立場から見て、コミュニケーションの
手段として言葉(音声言語)を持つ。
これは、まさにシンボルを操るという能力が背景になるわけです。
この三つの条件を備えた高等なサルをヒトと呼んだらと、
僕は思っているんです。それら三つともそろわんとあかん。
■立花
ロボットがちょうどそこで苦労してますね。
二足歩行がなかなかできないし、自然言語処理ができない。
■養老
私も、しょっちゅう人間とは何かということを
考えるんですけど、外側から考えると、いま河合先生が
おっしゃったようなことになると思うんですが、
もう一つ認知という問題があるんですね。
種を定義するとき、お互いに同種と認める、というか、
お互いに生殖行動に入る集団を「種」と認めればいい
というふうにラジカルに主張する人がいます。
普通、種というのは支配する集団ですが、
交配ということをさらに絞っちゃうと、認知。
お互いに人間だと認めるのが人間だというふうな
定義が一つはできると思うんですね。
それは、私の職業自体が、その定義に密接に
関係しているからなんです。
例えば死んだ人は人でないのか、あるいは、
どこまで体が壊れていくと人でなくなるか
というようなことを、私はしょっちゅう具体的に考える。
普通の方はお考えにならないですけれども、
われわれは考えざるをえない。私にとって、死体は人です。
死んだ人も、人であると見た目で認知できる以上、
それは人だという考え方を私はとっている。
私の場合には、認知的な定義として、人が人で
あると思うものは人だと考えたい。
■立花
コロンブスの後、スペイン人がどんどん新世界に
進出してインディオに出会いますね。
そして、インディオが人間かどうかで大論争が起きるんです。
とうとう「人間である」と主張する派と、
「あれは人間じゃないんだ」と主張する派が国王や
大司教の前で大論争をやった。
人間じゃないと主張する派には、奴隷に使いたいという
経済的理由が動機としてあるんですが、
現実問題として、例えば白人がアフリカに行って原住民に
最初に出会った時、これは人かサルかという迷いは
心理的に結構あったんじゃないかという気がしますね。
■河合
人間とは神の子であるといった観念が小さいときから
形成されていて、その枠組みの中にはめて考えますからね。
■養老
僕、中学・高校でイエズス会の学校に行ってました。
まず習ったことは、人間とは理性と自由意志と良心を
持つものであるということでした。僕は、その三つを
多少とも欠くのが人間じゃないかと思っているんですが(笑)、
これは文学的定義ですね。
ただ、人間をポジティブに定義するなら、さっき
おっしゃったシンボリックな体系を
持つかどうかが一番いいんじゃなかろうか。
例えば数の勘定とか、言葉、それもある程度
複雑な言葉ですね。あるいは将棋などのゲーム。
チンパンジーが将棋をさすようになれば、
人間であると認めてもいい。
もっともこれを決めているのは脳の大きさですから、
絶対的なものではないということは間違いない。
それを言い出すと、非常に多くのものが連続的なんです。
生死の問題もそう。具体的に見ているとどこで
死んだかわからないということが必ず起こる。
ただ、われわれの認知形式はほとんど言語に頼ってますね。
最終的には。その言語は、どうしても連続しているものを
切ってしまいます。言語を使うから切るんであって、
言語を使わなきゃおそらくあいまいなままです。
例えば自然の中で暮らしているとき、チンパンジーに
ばったり会ったり、黒人にばったり会ったりする。そ
れを人間である、つまり自分の仲間とみなすか、
みなさないか。これは、その場の状況で、
その人によって決まるわけで、
多分、簡単な答えは出ませんでしょう。

知の巨人たちの対談、3人だと鼎談っていうのか。

情報量がものすごい。

河合さん・立花さんもすでにお亡くなりになってしまったので

そういう意味でも貴重だけど。

この中で、立花さんの発言で

経済生産性のために、奴隷に人権を与えたがっていた

っていうのって

西洋化した近代社会のロールモデルなのか、と深読みしてしまうな。

それから、養老さんの今もおっしゃる主張

人間も動物であり、自然の一部だという主張は四半世紀前から

一貫してたのだな。

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ほんとうの復興:養老孟司・池田清彦著(2011年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


ほんとうの復興

ほんとうの復興

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/12/09
  • メディア: Kindle版


東日本大震災のすぐ後のお二人の対談なので


当然、災害についてから考察が


リブートされる知の対話。


どこか、諦観というか、無常というか


それでいて妙に納得してしまうのは


贔屓の引き倒しすぎるのかもしれない。


「1 自然とわれわれ 養老孟司」から抜粋


自然保護や自然食品という言葉に含まれる、

「自然はよいもの」という感覚は、

自然の一面しか捉えていない。

自然には今回の災害のような、畏(おそ)るべき

他の一面がある


日本人の美しさに対する感性は、

こうした自然によって育まれてきた。

それを「意識」という脳の一部の機能に依存して、

一生懸命に、ほとんど誠心誠意に、壊してきたと

いうしかない。

それが私が生きてきた時代だった。なぜその美しい国土を

わざわざ傷めてしまうのか。

それが私には理解できない。ほんとうに理解できない。

壊す人たちは「食えないから」という。

私は食糧難の時代に育ち、「食えない」ということが

いかなることか、ある程度は知っているつもりである。

いまほんとうに「食えない」人がどれだけいるのか。

教育はどうなっているか。問題解決型だという。

有能な人とは、「問題があれば、それに答えを出すもの」だと、

頭から信じている。

だから、「じゃあ、どうしたらいいんですか」とすぐに訊く。

でも自然は、初めから答えを出している。解答は目の前にある。

しかし肝心の問題の方が見えてないのである。

まさに話が逆だから、現代人には理解が難しいのであろう。

解答を先に見せておいて、これはどういう問題の

答えか尋ねる、そういう入試をしたらいいんじゃないか。

このところそう思っている。

人生の解答とは、自分の人生そのものであって、

それはなにか複雑な、ややこしい問題への解答なのである。

どうしてこういう解答になったのだ。それこそが人生が

投げかける問題である。

人生は何のためかという問いに、昔から解答がないのは、

問いと答えが逆転しているからであろう。

解答は動かしようがない。自分の人生なんだから、

当たり前ではないか。わからないのは問題の方であって、

人生の方ではない。

自然を観察するとは、じつはそのことである。

解答を先に知って、問題を後から考える

ことなのである。

実験室でネズミをいじめることではない。

「ある動物に、ある操作を加えて、ある結果を得た。

この組み合わせは、君、何通りあると思うかね」。

尊敬すべき私の先輩、解剖学者の三木成夫は、

学会を傍聴しながら大声で私にそういったことがある。

いったいネズミという動物は、

なぜそもそもいなきゃならないのか、

なぜあんな姿形なのか。ネズミはなにかの問題への解答に

違いないのだが、その「問題」とはなにか。

それはまだいっこうに不明である。こう書いても、

なにがなにやら、さっぱりわからないという人が

いるのではなかろうか。

すべての生きものが互いにつながり合って、

生態系を形成している。そうした考え方が、

今世紀中に生物学の主流を占めるようになるであろう。

必ずしも適者生存なのではない。

進化は一本の樹木ではなく、

生きものが互いにつながり合った、網の目である。

そうした考え方は、何のことはない、仏教でいう縁起であろう。

生物学、進化学は、原理的主義と論争を繰り返しながら、

結局は日本の伝統思想と似たものに収斂していくはずである。

世界中が鎖国時代の日本になると考えれば、

それで当然ともいえる。

もはやアメリカに西部はなく、

月に住みたい人がどれだけいるというのか。


頭で考える欠点は、すでにイヤというほど、

あちこちで述べてきた。それが得意な人が成功するのが

現代社会であることはもちろんだが、

こうした災害が起きてみると、誰にも問題が見えるはずである。

原発を計画し、採算を考え、あれこれ指図する人は、

原発の近くに住む人ではない。だから今回の災害で、

いちばん気になったのは、自然というより、むしろ原発だった。

その後の計画停電を含めて、原発事故を

わが国は奇貨とすべきであろう。

その根本はエネルギー問題である。

これも長らく主張してきた。

われわれはエネルギー依存の傾向をやめなければならない。

経済成長とエネルギー消費は、ほぼ並行してしまう。

政府のある部門は省エネ、環境保全をいい、

他部門で景気回復をいう。これはムリである。

ムリをみんなで主張して、政治がうまくいかない

などといっても、それこそムダであろう。

景気を回復しようとして、モノづくりに励むなら、

エネルギー依存になるしかない。金融はその問題を、

モノづくりをする外国に移転するだけだから、

それこそグローバルに見たら、なんの解決でもない。

供給電力の上限を定めるべきではないか。

そのなかで、必要なものに順次、振り当てていく。

その与えられたエネルギー量の中で

徹底的に工夫していくしかない

たしか電力会社は、法律で供給を義務付けられているはずである。

それがエネルギー消費を右肩上がりにするのに、一役買ってきたことは間違いない。

だって電力供給の義務があるんですから。

電力会社はそこで思考を停止してこなかったか。

それが狭い国土に原発を多数設置する、という結果を生んだのかもしれない。

もう一歩先を考えること、つまりわれわれには

どれだけのエネルギーが要るか、それを考えるのも、電力やエネルギー専門家の

義務ではないのか。それで食っているのだから。


日本人は破局のあとには強いが、危機自体の扱いは不得手である。

危機管理などといっているから、それが逆にわかる。

実際に危機管理ができるなら、そんなことはまさに「いうまでもない」はずだからである。

フランス人の自由・平等・博愛みたいなものであろう。

私が旅行のときによく飛行機に乗るのは。それを考えるからである。

思い切った手を、必要なときに打つことが苦手な人が多い

あれあれといっている間に、その事態がどんどん勝手に進行してしまう。

これは「手入れ」の逆である。

自然現象なら、その推移を見ながら

ゆっくり、しっかり手を入れるのが常態である

それが私の考える「手入れ」だ。

しかし人為にしては必ずしもそうではない。

適切なときに、思い切って適切な手を打たなければならないのである。


●戦後日本の自然破壊の総決算 から抜粋


ともあれ原発事故による放射能汚染は、

戦後日本の自然破壊の総決算である。

これで自然破壊の歴史が底を打つことを強く期待する。

いつも思うが、われわれは自分の持っているもので

暮らしていくしかない。なにゆえに中東の石油が日本の生命線になってしまうのか。

それが変だと思わないのか。「とりあえず儲かる」で暮らしてくれば、いずれは天災がやってくる。

地道に暮らして当然であろう。

その元手は自分の自然、つまり身体である。

それがいちばん具合がよくなるのは、自然の中にいるときである。

もともと身体はそういうふうにできているのだから、そうに決まっている。

でも都市に住んでいると、それを忘れる。

都庁の建物を見るたびに、それを思う。

あんなところで1日働いて、マトモな判断ができるだろうか。

脳も身のうちである。人間はああいうところでも耐えられる。

それは「耐えられる」のであって、それが普通だとか、それが人生だとか、いうものではないであろう。


大地震・大津波・原発事故から見えたこと


1天災と日本人 から抜粋


▼養老

釜石では、小・中学校でも、子供たちに

「津波のときは安全な場所にてんでばらばらに逃げなさい」と教えていたんですね。

「津波てんでんこ」という言葉が伝わっているのだそうです。

家族を心配して家に戻ってしまったりすると、逃げ遅れて死んでしまうから、そうならないように、それぞれがてんでんばらばらに安全な高台に避難しろ、と。

ふだんからそうならないように教えていたというのです。

だからか実際に犠牲になった子どもがほとんどいなかった。

 

▼池田

そういう教えが良かったんだろうね。

(略)

変な言い方になってしまうけど、「逃げる」ということをシステマティックに考えていたことでかえってまずいことになったケースもあったんだと思う。

「想定外」の事態に対しては、事前に「想定」していた避難のシステムなんて、ちっとも役に立たないわけでしょう。

てんでんばらばらに、自分の本能に従って逃げたことで助かった人がいた一方で、冷静にシステマティックに考えた人はむしろ助からなかった。

そんな頭もあったのではないか。

養老さんがよく批判する、頭が都市化した「『ああすればこうなる』式で物事を考えて進める人」というのは、今回の津波では助からなかったタイプの人なのではないかなあ。

頭も身体も都市化している人たちが住む東京に津波が来たら、そういうレベルではなく大変なんだけど。

 

▼養老

東京はそもそも逃げ場がないもの。

そうなったら、生き残るかどうかは、運・不運でしかない。


▼養老

運良く生き残ったとして、さきほど池田君が言ったように、その人たちがその後どのように

生きようとするかは人それぞれです。

どういう心理状態になるかも、その人次第です。

大きく分けて言えば、自分が生き残って良かったということを強く感じる人と、そうでない人がいるのだと思います。

生き残ったから頑張るんだと思っている人は元気ですよ。

戦争でもそうだけど、自分が死ぬか生き残るかはまったくランダムな運命でしょう。

そんな中で死なずに済んだ時、自分は運が良かったぞ、

生き残ったぞ、という気持ちを強く持つことが大事だと思う。

 

▼池田

そうだよなあ。ポジティブな人は、「生き残って良かった。自分は運が良かったんだ。

命が助かっただけで御の字だ。これから頑張るぞ」と思えるだろうけど、そうではなくて

「家族が死んでしまった」「仲間が死んでしまった」と悲観的なことばかりを考えてしまう人もいるよね。

それどころか、自分だけ生き残ったことが申し訳ない、というふうに落ち込んでしまう人もいる。

 

▼養老

それと似たようなことは、やはり、終戦後もたくさんありましたね。

(略)

 

▼池田

僕らと違って、若い人たちの中には、それまでの生活にもともと閉塞感を持っていて、なんとなく気持ちが行き詰まっていて、そこから抜け出すために、どこかで全てをチャラにしてリセットしたいと思っていたのもいたと思うよ。

逆にいえば、どんなに偉そうにしていたって、どんなに金を持っていたって、どんなに社会的な

地位が高くたって、地震や津波で死んでしまえばオシマイだから。

それを実際に目の当たりにして、ある種の開き直りの気持ちが生じて、これからまあ、リスタートして、ぼちぼちやっていくのもいいんじゃないか、というぐらいの鷹揚とした構えの人もいると思うんだよね。

みんなが「頑張らなきゃいけない」みたいな雰囲気もまずいと思うんだよ。

あまり頑張らない方がいいという面もあると思うんだ。

この前も、テレビ番組の収録で、今度の震災の復興の話になった時、けっこう「頑張る」という言葉を使う人が多いから、逆に私は「頑張りすぎるのはよくないから、頑張らないでてきとうにやってください」と言った。

そう言ったところが放映されたかどうかは知らないけどね。

「ひとつになろう」みたいなことを言わないとテレビはダメみたいだから。


▼池田

「ひとつになろう日本」なんていうのは間違っているよね。

一律にすれば、同じ災害で全部がいっぺんにだめになるから。

それぞれがばらばらにできていれば、同じ災害でもやられる

ところとやられないところが出てくる。

だって、津波以外にもどんな「想定外」の災害があるか

わからないんだからね。たとえば直下型地震が来て、

津波に関係なく、あたらに造成した高台が全部崩れて

ダメになってしまうということだってありうるわけです。

つまりリスクを分散することがセキュリティになるんですよ。

それを一律にやったらかえって危ないことになる。

便利で効率がいいことと、セキュリティは背半するよね。

不便で効率が悪い方が安全ということがあるわけでしょう。

 

▼養老

それが顕著だったのはベトナム戦争ですよ。

効率の良いシステマティックなアメリカの軍隊が、

結局、効率の悪いアメーバみたいな動きをするベトコンに

勝てなかったんですから。

北ベトナム軍はみんな、てんでんばらばらに

動いていたんだよね。


▼池田

原発事故の歴史を調べたことがあるんだけど、

実は毎年のように起きている。日本で原発が

運転開始されてからもう40年以上たつけれども、

トラブルがなかった年は一度もない

 

▼養老

JCOの事故(1999年)はとてもひどいものでした。

作業をしていて被曝した人が東大病院に転院してきて、

致死量をはるかに超える放射能を浴びているのに

なんとか延命させろと言われていたわけです。

もちろん、助けられるなら、助けてあげたいけれど、

それは無理だったんですよ。

むしろ安楽死させられるなら

そうさせてやりたかったはずです。

その治療を担当したのは僕の後輩なんだけれども、

僕は彼に写真などの資料を全部見せてもらった。

急性被曝した人が東大病院に転院してきたときには、

その人から採取された骨髄細胞は

もうばらばらになっていました。

細胞が再生されないから、古くなった皮膚は

ただれてはがれ落ちていく。体液が染み出し、

それが出血に変わり、爪もはがれ落ちていく……。

朽ちていった命』という本にもなったけれど、

僕は、この実態は公表されるべきものだと思いました。

NHKが番組を本にまとめたものですが、よくやったよね。

急性の被曝事故がいかにひどいものかということを

知らしめるために。 


▼養老

それにしても、しつこいようだけど、なぜ「現実」的に、

水をかぶったらどうしようかぐらいのことが最低限

考えられなかったのだろうねえ。

 

▼池田

それはやっぱり、共産党の議員に指摘されたからだよ。

そこでもう対立的になってしまう

あいつに言われたくない」というような感情が働いてね。

考えてみれば、俺が官庁相手に言ったことなんて、

絶対に通らないもんな。

うちのかみさんが、

「あなたが言うから通らないのよ」

とよく言うんだけどね。

「あなたが言ったら『あいつの言うことだけは絶対に通さない』と

環境省の人は思うから。

だからあなたは黙ってなさい」だって(苦笑)。

 

▼養老

本来はそうならないことが民主的な議会制度の

重要性なんですけどね。

昔の日本は300もの藩があって、それぞれの考え方や

やり方をそれぞれが互いに見て

なんとなく真似たりしてやっていた。

それを中央政府が統制するようになったら、

むしろ問題の解決力は落ちたね。

さっき言ったように、官が介入した産業はだめだもの。

 

▼池田

教育もそうかもしれないですね。

 

▼養老

前から言っているように、文科省は最大のガンです。

(略)

 

▼池田

大学の入試にしても、例えば生物学科なんて

「1週間以内に虫を捕ってこい」と言って、

「お前、これだけしか捕れなかったのか。じゃあ、不合格」とか、

そういうふうにして決める入試の方がずっと良いよ。

 

▼養老

京都大学の入試試験で携帯電話を使ってインターネットを

利用してカンニングをした受験生がいたでしょう。

僕はあれは立派だと思うよ。試験制度の問題を見事に

指摘しているんですから。

携帯電話を使えば解けるようなことを試験にするなと

いうことですよ。

そんなことで学生を選んでいるから、そこからだめな

官僚がどんどんと生まれてしまうんだ。

いまどき、日常的に目の前の「問題」に取り組むときに

まず、インターネットを使わない学生なんていますか

東京電力の計画停電がどうなっているかを調べるのだって

インターネットでしょう。

もはやインターネットがそういうものとしてあることが前提になっていないと入試だって現実的ではない。

現実を見てないという点では入試も原発と同じなんですよ。

「こうあるべき」というような旧来のイデオロギーのようなものにとらわれてしまっていて、現実に追いついていない


あいつにだけは言われたかねえやって、


まるで子供だよね。


人間であるところのゆえん、感情が


物事の判断を左右してしまうってのは、


どうしようもないのかなあと。


誰の意見であっても本当に良いことであれば、


感情を凌駕して選ぶべきなんだけどな。


それと現代の試験作成者というか、試験制度っていうか


それらは旧態然としてるとしか言いようがないような。


試験にパスしても現実的に仕事とは結びつかないパターンって


往々にしてあるからなあ。


▼池田

やはり養老さんとの対談もやった

『ほんとうの環境問題』『正義で地球は救えない』(共に2008年)

でもさんざん言った話だけれども、経済問題の本質も、

環境問題の本質も、エネルギーなんだから。

エネルギーを使うことで世界人口は飛躍的に増加した。

今から200年ほど前に石炭を広く使うようになって、

人口増加率は約七倍に跳ね上がった。

十九世紀はじめの世界人口は約9億人。さらにそこから

100年経って、今度は石油を使うようになると、

人口増加率はさらに上がった。

二十世紀初めに16億人だった世界人口は今から

70億人近くになっているわけでしょう。

 

▼養老

エネルギーをうんと使えばそれだけ楽になるに決まっている。

当たり前のことなんだけれど、そのことを普通の現代人が

どのくらい理解しているか。

やっぱり、生き方そのものを考え直さないと

いけないんじゃないか。

いかに健全に縮小するかを考えたほうが

いいのではないかと思います。

もちろん、縮小するとなれば、

いろんな問題が起こりますよ。

さっき言ったように、経済の問題が起こる。

つまり不景気になる。

さらには、安全保障の問題も起こる。

国力が落ちるし、国防に金をかけるのも

難しくなるからね。


 「電力会社の発電所に電気が通らなくて大変だという矛盾」


 「安全保障を考えて作った原発が安全ではなく危険な装置として認識されている」


その二つを


「どちらも自己矛盾の極み」と


おっしゃる。


では、できることとは、現時点で考えられることとして


石油依存から抜け出し、石油がなくなる前にきちんと


シミュレーションを行うべしというのが養老さんの持論。


持続可能性ともてはやされる昨今を


見つめ直すこと、本当の持続可能とは何かを指摘される。


グローバルで現代的な価値では、家制度なんて

悪き過去の遺物のように見えるかもしれないけれども、

むしろ逆で、いまだからそういうものの持つ継続性や

保守性といったものを真剣に捉えなおさなければ

いけない時代なんですよ。社会のどの部分をどこまで

グローバルにして、どの部分をローカルにするか

これは、人間そのものが抱えている矛盾


だからこそ、生き方を再考することの


重要性を説かれておられる。


少し戻って感情に左右されず、良い成果、


良い仕事にするっていうのって


余談だけど、良いチーム、良い組織っていうことでもあり


だとすると自分は真っ先に浮かぶものがあって


たとえば、1960年代のイギリスのビートルズ、


同じく60年代のアメリカのドアーズ……


ってなんでも音楽の話に持っていくんじゃねーよ。


でもこれは真理のような気がしてならない秋の休日でした。


 


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ほんとうの環境問題:養老孟司・池田清彦著(2008年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

 



ほんとうの環境問題

ほんとうの環境問題

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: 単行本


14年前の2008年、東日本大震災もコロナ禍も


ウクライナ戦争もまだない頃に


環境問題を考察されている書籍。


この後、これらは今年に上梓された著書で


アップデートされることになるのだけど。


2007年時点での、「環境問題」の捉え方が興味深い。


「はじめに 池田清彦」 から抜粋


環境問題とはつまるところ、エネルギーと食料の問題である。

現在の日本の食料自給率は39%。エネルギー自給率は4%。

食料についてはいざとなったら、全国のゴルフ場をイモ畑にすれば、

なんとかしのげるかもしれないが、

エネルギーの自給率が4%ではさすがにどうにもならない。

未来のエネルギーを確保するためにどういう戦略が

必要なのかこそが、日本の命運を左右する問題なのだ。

地球温暖化などという瑣末な問題にかまけているヒマはない。


以下、養老先生の考察文章


「環境について、ほんとに考えるべきこと」


●石油とアメリカ から抜粋


僕は常々、文科系の人が書かない大切なことが

いくつかあると思っています。

そのひとつが、環境問題に関しては、アメリカとは

何かということを考えざるを得ないということです。

実は環境問題とはアメリカの問題なのです。

つまりアメリカ文明の問題です。簡単に言えば

アメリカ文明とは石油文明です。

古代文明は木材文明で、

産業革命時のイギリスは石炭文明ですね。

そしてその後にアメリカが石油文明として

登場するのだけれども、

一般にはそういう定義はされていませんよね。

(略)

石油問題に関しては、アメリカが

世界の中で最も敏感で、

ヨーロッパではそれより鈍かった。

日本のほうはさらに鈍かった。

そして最も鈍かったのが、古代文明を作った

中国でありインドだった。

文明というのは石油なしでも作れるという考えが

頭にあった順から鈍かったということです。

アメリカが戦後一貫して促進してきた自由経済とは、

原油価格一定という枠の中で敬愛活動をやらせることを

その実質としていました。

原油価格が上がってはいけない

というのは、上がった途端にアメリカは

不景気になっちゃうからね。

ものすごく単純な話なんですよ。

自然エネルギーを無限に供給していけば、

経済はひとりでにうまくいっていた。

それを自由経済という美名で

ごまかしてきたのが二十世紀だったわけです。

一人当たりのエネルギー消費では、日米の差は、

僕が大学を辞めるころには二倍あった。

ヨーロッパ人の二倍。

中国の十倍です。

科学の業績などをアメリカが独占するのは

当たり前でしょう。

戦争に強いとか弱いとかにしてもね、

日本は石油がないのに戦争をするのがどれだけ不利だったか、

ということです。それだけのことなのです。

それからこれも文科系の人は書かないことですが、

ヒトラーがソ連に侵入した理由が、歴史の本を読んでも

どうも分からない。

答えは簡単なことで、石油です。

当時もソ連は産油国だったのですよ。

コーカサスの石油が欲しかったから、

ドイツはスターリングラードを攻めた。

そこをはっきり言わないから色々なことがわからない。

日本の場合も、「持たざる国」と言い続けてきたけれど、

根本にあるのは石油、つまりエネルギー問題です。


●文明とエントロピー から抜粋


ですから、環境問題の根本とは、文明というものが

エネルギーに依存しているということです。

そしてそのときに、議論に出ない重要な問題があります。

それは、熱力学の第二法則です。

文明とは社会秩序ですよね。

いまだったら冷暖房完備と

いうけれども、普通の人は夏は暑いから冷房で気持ちいい、

冬は暖房で気持ちがいい

というところで話が止まってしまう。

しかし根本はそうではない。夏だろうが冬だろうが

温度が一定であるという秩序こそが文明にとっては

大切なのだと考えるべきなのです。

しかし秩序をそのように導入すれば、当然のことですが、

どこかにその分のエントロピーが発生する。

それが石油エネルギーの消費者です。

端的に言えば文明とは一つはエネルギーの消費

もう一つは人間を上手に訓練し秩序を導入すること。

この二つによって成り立っていると言えます。

人間自体の訓練で秩序を導入する際のエントロピーは

人間の中で消化されるから、自然には向かいません。

文明は必ずこの両面を持っています


余談だけれど、養老先生が東大を退官したのは


定年まであと3年を残した1995年のこと。27年前か。


いま日米のエネルギーの差はどうなっているのだろう、


想像するだに恐ろしい(というだけじゃなくて調べろよ)。


さらにエントロピーとは、weblioから引くと


「不可逆性や不規則性を含む、特殊な状態を表す概念。


「混沌」を意味。熱力学において、使われ始めた。」


別のページで簡単にいうと「「覆水盆に返らず」と


いう故事と同じ」だと。


僕が代替エネルギーを認めないというのは、

どんな代替エネルギーを使おうが、エントロピー問題には

変わりがないからです。

結論的には、ぼちぼちにエネルギーを使って

人間をぼちぼち訓練するしかないと思う。

それしかない。

いまはちょっと石油に依存がひどすぎます

つまりこっちは適当に我慢し、

適当にエネルギーを使うしかないんですよ。

丸儲けはありえない。

そんなこと、いつだって当たり前だが、

石油文明はそれをごまかしてきた。

ただで秩序が手に入ると、暗黙のうちに約束してきたんです。

(略)

日本のように省エネが進んだ世界モデルのような国が、

この上さらに炭酸ガスを減らせという議論をしている。

何を考えているのかと思う。

日本はこれ以上減らないですよ。

アメリカを半減させる方が先でしょう。

それでアメリカはヨーロッパや日本並みになる。


「●本気で考えていない」 から抜粋


それから、炭酸ガスが蓄積すると

こういうことが起こる、といった予想が

色々とされていますが、自分のところで

計算したのかと問いたいですね。

京都議定書(気候変動に関する

国際連合枠組条約の京都議定書)の後で

環境省が年間一兆円の予算を組んで、

一人当たり1日で一キログラムずつ減らせとか

言っているわけですが、そんなことをする前に、

炭酸ガスが増えたらどうなるのかという計算を

自分たちでするべきですよ。

そこが信用ならなかったら

IPCC(Intergovernmental Panel on

Climate Change=気候変動に関する政府間パネル)も

信用する気にはならない。

シミュレーションは自分でやらなきゃ駄目です。

自分でやって間違えたら訂正する。それが責任を

持つということでしょう。それを他人の予想に

従って動くほど馬鹿なことはない。

世界の科学者の8割はこう言っている、と環境省は

言うわけだけれど、それを言ってはいけない。

商売をやろうとするとき、他人の儲け話を鵜呑みに

する人はいないでしょう。

つまり本気になっていないということです。

そして、ちゃんと考えていないという点では戦前と変わりがない。


「●環境問題とは何か」 から抜粋


環境に関しては、いくつかの部分に

分けて考えることが大切です。

一方の極にあるのは自然環境問題です。

これはいまではほとんどもう話題にもなりません。

昔、「自然保護」と言われましたが、

もうほとんどどうしようもありません。

言っても無駄という感じがします。この時代に

高尾山にトンネルを掘って、自動車を通そうというんだから。

もう一つの問題が、ゴミ問題。これは廃棄物が典型ですね。

それからエネルギー問題。加えてどういうふうにして

生活を暮らしやすくするかという問題です。

それから、いちばん最後に、国家安全保障問題としての、

あるいは世界の安全保障問題としての環境問題がある。

このように、おそらく三つの大きな極がある。

極端に言うと相互に矛盾する場合もあるし、

全体の繋がりとしてきちんと見て判断できる人が

少ないのではないかと思います。

(略)

最近いちばん大きくなっているのは日常に

関わるゴミ問題、あるいは産業廃棄物問題ですね。

加えて石油の値段や灯油の値段などの日常的な

エネルギー問題、いわゆる「エコ」と呼ばれているものです。

その上で、最右翼に安全保障問題があるのです。

ですから、僕は現代社会の問題は環境問題だと言うのです。

なぜかと言えば、それを全部一つのものとして

見なければしょうがないからです。

何か一つだけ見ると言うのでは駄目です。

バランスの問題ですから。

ぼちぼちで行くしかありません。


「環境問題という問題」から抜粋


■池田

(略)

法律というのは、人々がうまく生きていくためにあるはずだった。

いまはそうではない。法律は、それを守るるためにある

ということになってしまっている。

だから本当につまらない些細なことでも

ゴチャゴチャ言って問題化してしまう。

(略)

環境問題に対する日本人の感覚にもそういうところがあって、

何のために環境のことを考えるかということよりも、

環境のための法を守ること自体が大事

というようなことになってしまうんだよね。

そこから外れたことを言うのは許されない感じになってしまう。

■養老

すぐに倫理問題にしてしまう

■池田

外来種排斥問題にしても、例えばいまから外来種の

ブラックバスを排除しようとしたって費用のことは隠して、

効果についてだけしか言わないで、

それで最終的には倫理問題にしてしまう。

それに意を唱えると、

「おまえは外来種がどんどん入ってきてもいいのか」

という言い方を必ずされる。

「非道徳的だ」とか

「モラルがない」という言われ方をしてしまう。

「京都議定書なんて守るだけ無駄だ」

などと言うと、

「炭酸ガスをどんどん出してもいいのか」

と、そんな非難を浴びてしまう。

そう言うことではないんだって。

何にせよ本気で問題に取り組むなら、

何のためにそれをやるのか、

それでどう言う効果があるのかと言うことを

考えてやった方がいいよ。何のためにもならないことを

本来的には人はやらないでしょう。

■養老

「何のため」と言うことで言えば、日本人にとって

かつては中間項が大事な役割を持っていたと思う。

中間項の最たるものが「家」で、かつてあった

「お家の存続のために」というのはわかりやすい。

それがいまでも残っているのが、政治家と同族経営の

会社でしょう。日本人は「家」という中間項を

壊してしまったものの、西洋型のような個人主義に

なれないでいる。かつてあった「お家のために」

というのが、一時は「会社のために」というふうに

なっていたけど、会社もまた

グローバリゼーション云々ということで

リストラを始めたりして、「家」にも

相当していたような中間項ではなくなってきたので、

人々の中での長期見通しが立てづらくなった。

日本人が社会のことを考えるには、ある程度の

長期スパンが必要で、そのためには中間項が

しっかりあった方がいいんですよ。

そうでないと、社会の安定性が保てない。

いま、若い人たちが、

「自分に合った仕事を探している」とか、

わけのわからないことを言って、

仕事をしなくなっているけれど、

そういうのは社会の安定性を阻害しているよね。

■池田

いまの日本は、家にしても会社にしても、

共同体がズタズタになってしまっている。

それで、個人が、中間を飛ばして、自治体とか

政府と結びつこうとしている。

真ん中のバッファがないから、

そういう人たちをコントロールするためには、

瑣末な法律をいっぱい作らなければならなくなったんだよ。

昔の共同体に代わる中間項を、

どうやってうまくつくるかというふうに考えないと、

たしかに、この先、大変かもしれないですね。

■養老

いまなら市民運動だったりNPOだったり、

いろんな中間項のようなものが、あることはある。

でも、それらはまだあまり必然性を伴った形で

上手くできてはいない。


「あとがき 養老孟司」 から抜粋


自然環境について、私は長年、何もいう気にならなかった。

見ていられない。そういう感じだったからである。

本当に目を瞑ってしまったから、中年時代には虫も捕らなかった。

子供の頃から知っていた山野が、その姿を変えてしまうのを、

見たくなかったのである。

いまとなっては、もうほとんどヤケクソ。

(略)

今日だって、たまたまNHKテレビを見ていたら、

アナウンサーが欧州の大企業の社長さん達に会って、

炭酸ガス排出問題について尋ねていた。社長さんは意気揚々、

要するにこれで儲かると踏んでいるのである。

排出権取引というやつ。

オランダやノルウェーが例に出ていたが、

ロイヤル・ダッチ・シェルというのは、どう見ても

オランダ由来の石油メジャーだよね。

ノルウェーは北海油田で儲けているよね。

あんたらが石油を売ってるんだろ。

それが炭酸ガスになるんだよ。

それなら石油節約と大声で言うわけさ。

品薄という評判が高くなって値段は上がるし、

石油の枯渇は伸びるし、いいこと尽くめじゃないか。

念のためだが、日本から石油は出ない。

尖閣沖でも掘りますか。

大会社の社長ともあろうものが、

儲かりもしない仕事に「倫理的に」精を出しますか。

いい加減にせいよ。

そう怒鳴りたくなって、テレビのスイッチを切った。

アル・ゴアは温暖化問題は倫理問題だと述べて、

欧州から褒めてもらった。

ノーベル平和賞。

裏がないわけないでしょ。

世界一炭酸ガスを出しているのは、アメリカなんだから。

ゴアという人は政治家ですよ。

私が住んでいる神奈川県からかつて選出されていた

参議院銀の秦野章は

「政治家に倫理を求めるのは、

八百屋で魚を飼おうとするようなものだ」

と述べた。つまり炭酸ガスを出さないというのは、

倫理なのである。

それなら息を止めて、みんな死んでしまえ。

という風に私はヤケクソなのである。

でも一億玉砕、本土決戦という戦争を、

どちらもなしに通り抜けたし、みんなで棒を持って覆面で

闘う人たちには、エライ目に会わされたから、

大勢でやる政治活動はやりたくない。

そういうわけで、池田さんと二人で、

ブツブツ言うしかないのである。

新潮社もこんな本を出して、

どういうつもりなんだろうなあ。


新潮社さん、こんなことおっしゃられていてよいのでしょうか。


まあ、いいから出版したんだろうな。


しかし、こんな終わり方の「あとがき」ってないよなあー。


この書の主軸テーマじゃないから、まあいいか。


東日本大震災の前の、環境問題について、


お二人の貴重な、2008年時点での見解で面白かった。


いまではCO2と言っているのはこの頃は、


炭酸ガスって呼んでいたのですな。


コーラとかサイダーの会社は焦ってたろうな。


これも、まあ、いいか。


「環境問題」は複雑だから横串で、わかる人が


判断していかないと、っていうことと、


この時点で挙げられていた3点


「自然環境」


「ゴミ問題」


「国家安全保障としての環境問題」


が斬新、というか、これ、いまだにみんな


バラッバラっに考えて、尚且つそれぞれ


利権が発生しているよね。それもこの


コロナ禍でさらに細かく分かれている


気がするんだけど。気のせいかね。


京都議定書の指針となっているのが、


IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)と


いう組織で、政治家が選んだ学者達なので


政治的バイアスがかかっている、


っていうのも知らなかった。


それじゃリアルな仮説立ちようがないし、


立てたとしても、バックデータがあやふやすぎて


よく知らない人しか説得できないよね。


ちょっとキレものとかは何となくわかっちゃうだろし


本当のインテリのこのお二人は言うに及ばず。


全てこの方達の意見を全て鵜呑みに有効に使うのは


難しいのはわかるけど、参考にして戦略とか作り


実行に落として分析、効果検証、改善のぐるぐる回しが


できないものなのだろうか、その音頭を誰か


取れないものなのか、って思ってしまうのは


早計なのだろうかというのを


いつも考えさせられるお二人でした。


nice!(23) 
共通テーマ:

2つの池田晶子さんの対談から「考える」を考える [’23年以前の”新旧の価値観”]

対談っていうか、話し言葉って


例え編集者の手が加わっていようとも


わかりやすくて、自分は好きで若い頃からよく読む。


その人の考えていること、似た思考の人との対話の中に


いろいろな気づきがあり、そこから広がっていくとでもいうか。


岸田秀対談集:日本人はどこへゆく(2005年)


生きること、考えること 対談者:池田晶子


「ソクラテスの「無知の知」が原点」 から抜粋


■岸田

人類が科学的な自然観を発達させたのは、

何か理屈を考えて解ると落ち着けるという幻想を

持っているのですかね。

■池田

解るって何が解ることなのか?

■岸田

自分が解ると思えばいいじゃないですか。

なにか理屈をつけて説明して、その説明がなんとなく

納得できれば、それが解るということでしょう。

そのようにいろいろ解らないことが解るようになれば……

■池田

うん、だからその時にナニナニを解った、という対象を

解ることでしょう。そうではなくて、解るということ自体が

そもそもどういうことなのか、何を何で解ると、解るということなるのか。

■岸田

解る、ということは主観的なものでしょうね。

だから自分勝手に世界はかくかくしかじかのものである、

というような幻想的体系を持っていて、その体系に矛

盾なくはめられると、解ったと思うのですね。

■池田

私は、そこで「何が解ったの?」と聞きたくなるのですね。

なぜかというと、存在するということ自体は

絶対不可能だということが解っているからです。

■岸田

不可能なことは不可能だということが

解っていればいいんじゃないですか。

■池田

だからソクラテスの言った「無知の知」というのは

基本の基本、原点はあそこだと思うんです。

解らないことが解った、というのは前に通じるでしょう?

そこが解ると、無性にいろんなことがクリアになるんですよ。

■岸田

それは当然そうなんですけどね。

本来解らないものを、そのうちに解るんじゃないかと

思いながらいろいろ研究するから、こんがらがるわけです。

しかし、こんがらがるほうが好きな人がいるんじゃないですか?

人間の最大の問題は退屈だと思うんですね。

だから生きていることがどういうことかはわからないけれども、

生きていることがどういうことか解らないワカラナイと、

やっていけば、そのうちにわかってくるんじゃないか、

と探求するのも、退屈を紛らすには非常に

いい手段じゃないかと思うんですね。

すべては不可解で解るはずはないとしてしまうと

それは真理かもしれないけど、

することがなくなって困るんじゃないですか?

■池田

それは逆です、考えはじめます

解らないからこそ考えるんですよ。

■岸田

では、なぜ考えるんですか?

どうせ解らないんでしょう。

■池田

考えるということは、答えを求めて

考えるわけではないですよね。

だって、解っていることは考えるはずがないでしょう。

ほとんど妄想的なことを言いますが、

宇宙が存在するということ自体が、

多分そういうことなんですよ。

宇宙そのものが在っちゃった自分に

困惑しているわけですよ。

なんで自分はあるんだろう、と

考え続けることによって宇宙は存在している

だから、考えたい、というよりは考えざるを

得なくなるんですね。考えることによって

自分であるわけだから。

■岸田

そのように考えざるを得ない、というのは

池田さんの趣味じゃないのかな。

万人に妥当する普遍的な必然性とは思えないですね。

■池田

たぶん、ある種の解らなさを見つけて、

ひたすら考え続けている人たちは、

結構かくれていると思うんですね。

ひたすらじーっと考え続けている。

あの人ヘンだねとか言われながら。

なぜ在るのかって問いを所有してしまったなら、

そこでまず絶句しますね。

次にこれなんだ?ということになりますね。

むろん、存在は謎なんだから、

考えても考えなくてもどっちでも同じですけど。

■岸田

どっちでもいいけれど、身体が一つしかないので

どちらかを選ばなければいけない。

というのが人生の最大の難関なんですね。

■池田

それは苦しいでしょうね。


「悩む前に考える」 から抜粋


■岸田

そこで解らないことをなんとかして解った気になりたい。

この女と結婚しようかあの女と結婚しようか、

どっちでもいいんだけど、二人とは結婚できないから、

どちらかを選んで選んだことを納得したい、となる。

本当はどちらかに決めるなんて不可能なんだけど、

決めなければいけない。だから、とりあえず、

コッチを選ぶ。すると、なんだか不安ですから、

なんか理屈をつけて正しい選択をしたんだと思いたい。

解らない事を解ったと主観的に思い込むことが必要なのですね。

■池田

その時、間違ったことに気づいて、

やり直すことはできないんですか?

■岸田

そうなると離婚しなければならなくなるので、

面倒臭いから、大差なければこの女でもいいや、

ってことになって結婚し続ける。

その時俺は正しい選択をしたんだ、と

思うことができれば非常に好都合なわけです。

■池田

別なことを考えるとか、いろいろな選択があると思いますが。

■岸田

間違えて結婚したんじゃないか、と考えるとか、

別の女と結婚した方が良かったんじゃないかと

考えることもあると思いますがね。そのように考え始めると、

どっちがいいというはっきりした証明が

できるわけはないから、いつまでも考えていなければならない。

そこで、女なんて誰でも同じだ、俺の結婚は間違いも

正しいもないんだということにして、考える事をやめようとする。

でも、そのためには、女なんて誰でもみな同じだ、という

結論を正しいとしなければならない。

けど、それもはっきりした証明があるわけは

ないから、キリがない。

■池田

苦しいですね。それは考えるというより、

たんに悩んでいるというべきですね。

■岸田

悩むってのは、堂々巡りしているんですかね?

■池田

そうですよ。考えていないから悩むんですよ。

だから学生には「悩む前に考えなさい」と言うんですけどね。

■岸田

考えても解ることも解らないこともあるんですから、

悩むことと考えることとは本質的な違いがあるのかなあ。

■池田

向きが逆ですから。全然違いますよ。

日常生活であれこれの選択で悩むんだったなら、

そもそも日常生活とは何か、生存するとはどう言うことか、

解っているはずじゃないですか。

■岸田

しかし、そんな解らないことを考えなくても、

人生は金儲けだと言う目的を考えて送る人生も

あり得ると思いますよ。

■池田

あり得ますよね。

そう言う人って悩まないのですから、

それはそれでいいですよね。

死んだらそれまでよ、ですから。

でも、あれこれ悩み始める限りは考えるべきで、

悩まない人は別に考えなくてもいいんですよ。

■岸田

考え始めるとキリがないですから、

考えることって、趣味の一種じゃないですか?

釣りとか競馬とか野球とか……

いろいろありますけれど、考えるのが好きという

趣味もあると思いますがね。ちがいますか?


「自分がなくなるのは怖い」 から抜粋


■池田

考えることが他の趣味とは違うことは、

自分の生死そのものを考えるってことであってね。

それは釣り好きな人でも、大病して死ぬかもしれない

と言う時は、死ぬってどう言うことだ、と考えざるを

得ないはずですから。やっぱりそれとは違うんですね。

可能性としては、あらゆる人の趣味になりうるわけです。

なぜそれに人々が気づかないかが不思議ですね。

みんな死ぬ死ぬと怖がりながら、人生をやっているわけでしょう。

じゃあ、その死ってなんだろうと考えればいいじゃない。

■岸田

死ぬとはどう言うことかを考えると、どうなりますか。

■池田

それが宗教になると、死後は救われる、となっちゃうんです。

そうではなくて、死後があるかないかの前に、

死とは何かが解らなければ死後の問題はあり得ないでしょう?

そうしてひとつひとつ詰めていくと、解りやすいこと

だと思うのですが、みんなはそういかないんですね。

■岸田

なぜみんなは池田さんみたいに考えないんでしょうね?

■池田

不思議ですね。自分が生きているのだから。

考えるのは当たり前だと思うんですけどね。

怖がられる対象かどうかを考えましょうよ、と

言うのですがその前で尻込みしてしまうのかもしれませんね。

■岸田

死と言うものを考えるのが怖いんでしょうね。

■池田

自分がなくなるから怖い。「無」に対する怖さかもしれませんね。

でも、「無」とはないことなんでしょう、というと

禅問答みたいになりますけど。


池田さんって僭越ながら、知らなくて


岸田秀さんの対談で初めて知った。


まったく岸田さんにひるまない。


というか自分の考えを述べてるだけっていう


意識なのだろうな。


相手が先生だろうが、誰だろうが。


なんか引っかかるところ多くて、


まだ書籍は読んでないのだけど。


その流れで養老先生との対談を読む。


生の科学、死の哲学:養老孟司対談集(2004年)


「”考える”とは、”言葉”とは何か」から抜粋


■池田

”きちんと考える行為”というのは、ある意味で

筋肉の行為みたいなところがありますね。

普通はそこまでいかないから、”考える”を何か

思い悩むことと勘違いしている。

ちゃんと考えると、すごく健康に「あ、筋肉を使っている」

という感じがするんですけれど。

養老

僕はよく「身体を使え」と言いますね。

つまり「身体を使わないと頭を使えないよ」と。

もともと”考える”というのは身体の動きを

含めて成り立つことだと思うのです。

生まれたばかりの赤ん坊に近い子供は、

当然ものを考えていないと大人は思っていますけれど、

それはたぶん全身で考えているからですね。

一歩歩けば、見えてくるものの姿が違って、

もう一歩歩けばまた違ってくる。

つまり自分で出力して入力して、ぐるぐる回す。

外の世界で考えているわけです。

それがある程度できてくると、一歩動けば、

ものの形や大きさがどう変わるか、

抽象的なルールとしてのみこめてくる。

それが脳みその中に十分入ってくると、

今度は脳の中だけで擬似的に入出力を回すことが

できるようになるから、それが”考える”ということだろうと。

数学者は、今まで外を含めて回っていたものが頭の中で

出して入れて、出して入れてと。

■池田

そういう言い方をすれば、そうでしょうけれど。

でも、私はその手の行為のことは敢えて

”考える”という言葉で言わないのですけれど。

■養老

僕は基本的なものを叙述する枠組みが

理科系になっていますから、そういうふうに説明するのです。

それが根本的には、人文系との自然観の違いなのです。

■池田

私は”考える”という言葉を「本質的な事柄を考える」と

定義して使っていますから「脳の中で回る」と

いう言い方は決してしませんよ。

■養老

人間というのは、同じことをやっても

二通りの説明ができる。

それはもしかしたら”主観”と”客観”。

■池田

そうですね。主観と客観。

見えるもので説明するか、

見えないもので説明するかですね。

■養老

そう。「頭を使え」と「身体を使え」という話は、

ちょうどそれになっている。

「身体を使え」というのは、いわば客観的な説明です。

■池田

見るもので言えばそういうことです。

だけど”脳”という言葉を使えば、

だいたいの人はブツとしての脳を

イメージしてしまうでしょう。

そこは危ないところがあると思うのですよ。

■養老

それはわかります。僕がそう説明するときは、

僕はブツとしてのイメージがあるから。

極端に言えば僕は脳を何千個も扱っていますから。

ところが僕の本を読んでいる人に、脳みそを

触ったことがある人なんて、ほとんどいないわけです。

当然落差がある。

こっちがあまりにも当たり前と思っている感覚が

普通はゼロですから。

誤解しないはずがない。”当たり前”というのが、

いかに人によって違うかということをしみじみ思いますよ。

僕が考えるときというのは、わりあい歩きます

”歩く”と”考えている”はほとんど同時です。

授業では、立ってしゃべる。立つと必ず動くのです。

それできっと会議が嫌いなのです。座った瞬間に頭が

働かなくなってしまう。だから会議中に本を読むのかな。

でも理科系では「言語は身体運動から始まる」という。

■池田

言語が身体運動ですか。どういうお話でしょう。

■養老

結局は、手真似、身振りですね。子供が言語を

身につけるのは身体の動きから。真似すること自体に、

あるいは人の行動自体に反応する

神経細胞があることがわかってきた。

■池田

また神経細胞ですか(笑)。

■養老

そう。これはミラーニューロンと言って非常に

おもしろいのです。なんでわかったかというと、

サルに電極を入れる。

■池田

またもう(笑)。

先生、そんなこと本気で信じているのですか。

■養老

いや、だって事実だもの。

■池田

私は絶対認めません。騙されませんからね(笑)。

だって、「オハヨウゴザイマス」という言葉の意味など、

どこにもないですからね。物質じゃないのだから。

だから、真似して覚えていくしかないというなら、同意します。

■養老

自分が相手のやっていることと同じことをすると、

さらに強く反応する。そういうことですけれどね。

■池田

それはある状況下で、言葉が与えられたあとの

反応の仕方の話でしょう。

■養老

だから、サルは研究者がアイスクリームを

食っていると反応してくる。

■池田

だから、それはサルの場合で。

■養老

いや、人間にもありますよ。

■池田

じゃあ、いちばん初めの場面に

言葉の意味というのはどうやって現れたのか。

■養老

その話はないです。

■池田

それが知りたいのですよ。

サルの話は措いておいて。

■養老

それはまた別の話でね。

……言葉の意味が現れるのは、ご本人の頭の中。

■池田

頭と言いますか、意識ですよね。

意識は頭の中にあるものではないから。

■養老

だから、言葉は、むしろ中間におかれるわけです。

■池田

はい、そうです。

■養老

いまの人はそう思っていない。

■池田

思っていませんね。言葉の意味なんて本当に、

先生が「石みたいに動かない」とおっしゃった、

その通りですよ。言葉はうごかない。

■養老

言葉は、自分で勝手に動かせると

思っている人がほとんどだから。

■池田

そうですね、自分が言葉をしゃべると思っていますが、

逆なんです。「言葉がわれわれによってしゃべっている」。

人文系の表現でそういうのですけれどもね。

■養老

別の言い方をすれば、だからこそ、

人文系は成り立つ。自然科学の人はそう思っていませんもの。

■池田

思っていませんね。でも人文系の人だって、

言葉は人間の発明ではない、と知っている人は少ないですよ。

■養老

”コミュニケーション”という言葉は、

僕は大嫌いだから言わないのです。

■池田

私もそうです。”コミュニケーション”とか、

”言葉を道具として使う”という言い方は嘘ですよ。

われわれが使われているのですから。

■養老

ある意味でそうですね。

言葉が人と人の間におかれて動かないものだという感覚は、

いまの人はほとんど教えられていない。

だから、僕は借金の証文で説明する、

「10億円のデフレが続いても、

証文は目減りしないだろう」ってね。

■池田

『14歳からの哲学』を書くのでも、

全部で30項目を立てて、順番として最初に持ってきたのが

「考える」。その次に「言葉」です。

■養老

それはどうしてもそうなりますね。

■池田

言葉の不思議ということにまず気がついてもらわないと、

世界の不思議には気が付きませんから


いやあ、すごい。


池田さん、


「私は騙されませんよ」「サルの話は措いておいて」


だからね。


養老先生がたじろいでるのが痛快。


自分は養老信者みたいなものなんだけど、


だじろがされている知の思考っていうか


こういう視点ってすごく良い。


「考える」「存在する」ってのは


やはり哲学的な命題なのだろうね。


余談だけど、横尾忠則さんと草間彌生さんの


対談でも途中決裂しかかったのがあったけど


それを思い出した。


現場にいた編集者はさぞ汗を


かいていたことだろうね。


nice!(17) 
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3冊(+1記事)の養老孟司・池田清彦先生の対談から [’23年以前の”新旧の価値観”]

年寄りは本気だ: はみ出し日本論 (新潮選書)


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第8章 日本人の幸せって から抜粋

■養老■

池田君はずっと承認欲求の話をしていたけど、

それも含めて社会は二面性をもっている。

これは哲学者のマルクス・ガブリエルが書いているんだ。

彼はドイツ人だから気づいていると思うんだけど、

一つの側面は、いわばアメリカ流の「生存」で、

生きるか、死ぬかというやつ。単に生存を再生産する、

あるいは、それを賭けて闘争する場が社会だという考え方。

もう一つは、「意味ある人生」のあり方を、

ある程度、社会が決めるという側面。

社会はその二つの側面をもっていて、それが実際に

いろんな社会制度をつくるときの基準にもなっている。

福祉でいえば、「生きていられればいい」というレベルを

保障すればいいのか、それとも「健康にして文化的な生活」を

約束するのか、というふうに。

日本の社会は完全に後者だったんだ。

家制度、家族制度、国家を含めて、人が大勢集まるところに、

何らかの意義や意味を見出していた。そのことのマイナス面を

挙げれば切りがないないけれど、池田君がいう承認欲求は、

少なくともそういう共同体が成り立っている社会では

いられなかったと思う。

メンバー全員が、平等に同じ意義を追求しているわけだから。

でも戦後は個人を強調することでそれを消してきた。

そういう共同体的な目標は、封建的ということでつぶされていった。

その結果が今、まさに出ているんじゃないか。

その意味で、日本社会は戦後、大変な実験をしたと思うんだ。

一つの社会が、1000年以上続いた伝統のかなりの部分を

切って捨てたわけでしょう。

そうして、そこにいた一億近い人たちが、新しい考え方で

生きていけるかどうかの実験をやった。それを主導した人たちは、

自分たちがそんなことをしたとは思っていない。

でも、とにかくそれによって、さまざまな問題が生まれてきた。

それを今、見ている気がする。

今は個人個人がそれぞれ自分で生きる意味を

見つけないといけなくなったわけだけど、

アウシュビッツの強制収容所に入れられて、

『夜と霧』を著した心理学者の

ヴィクトール・E・フランクルが書いているように、

人生の意味は自分の中にはないんだ。


(略)

■池田■

僕は話が通じない相手には、適当にニコニコしてごまかすようにしている。

物理学者のマイケル・ポランニーのお兄さんで、

経済人類学者のカール・ポランニーの名言は

「愚かな人には、ただ頭を下げよ」。

それが僕の座右の銘。

■養老■

僕の座右の銘は「どん底まで落ちたら、掘れ」。

これは、ピーノ・アプリーレという

イタリア人ジャーナリストが書いた

『愚か者ほど出世する』という本に出ていたんだけど。

■池田■

それもいいよね。

もう一つ、僕の座右の銘は

「人生は短い、働いている暇はない」。

これは自分で作ったんだ。

■養老■

名言だよ。正しいことをいっている。(笑)


「まえがき」から養老先生で抜粋


池田はじつに頭の良い人で、なにしろ天下の英才を

集める東大医学部にいた私が言うのだから、

間違いあるまい。

もちろん「良い悪い」を言うには物差しが必要である。

池田の場合はものごとの本質を掴んで、ずばりと表現する。

そこがきわめて爽快である。

しかも理路整然、理屈で池田にケンカを

売る人はほとんどいるまい


「あとがき」から池田先生で抜粋


かつての国民国家は、国民の多くが抱く

同一性(共同幻想)がよく似ていたので、

国家としてのまとまりがよかった反面、

別の同一性で固まった別の国民国家とは、

よく戦争を起こしていた。

現在は、国民国家の上部に

グローバル・キャピタリズムが

国家横断的に被っていて、政治や経済の主体が

国家にあるのか

グローバル・キャピタリズムにあるのか

定かでない状況になっている。

グローバル・キャピタリズムに

乗り遅れたロシアのような国が

十九世紀的な戦争を始める一方で、

グローバル・キャピタリズムはもっと巧妙で

ソフィスティケートされた形で、

世界支配を狙っていて、日本はその

格好の標的にされている。


新潮社が新刊書を紹介している小冊子で


無料配布されていた「(2022年8月号)」から


池田さんの、この本を作ることになった


経緯と心意気にシビレます。


環境問題を考えたらこうなった」から抜粋


養老さんと対談して本にまとめようと話が

持ち上がったのは、4年ほど前のことで、実際

何回か対談をしたのだが、話題が多岐にわたって

なかなか収拾がつかなかった。

そうこうしているうちに、2020年になって

新型コロナウイルスによるパンデミックが始まって、

あまつさえ、養老さんは心筋梗塞で入院。

幸い一命は取りとめたものの、対談の企画は滞ったままだった。

2021年の秋に、パンデミックが小康状態になった頃、

やっと環境問題を軸に対談をまとめようかという

話になったところで、2022年になるや否や、

オミクロン株が大流行し、踵を接してロシアが

ウクライナに侵攻するという驚天動地の事件が勃発した。

これらを踏まえて、急遽追加の対談を行なって、

やっと出来上がったのが

『年寄りは本気だ はみ出し日本論』である。

というわけで、対談は新型コロナのワクチンと

ウクライナ紛争の話から始まる。

感染症や戦争は環境問題ではないだろう、

と思っている方もいるでしょうが、

「人間の活動によってもたらされる災厄」を広義の

環境問題と呼ぶならば、「感染症」や

「戦争」も立派(?)な環境問題なのだ。


(略)

この世界の現象はすべて連続的だ。

ヒトは連続的な現象を恣意的に分節して何らかの同一性を捏造する。

平洋戦争中の日本人の一部は国体を守ために命を懸けた。

国体って国民体育大会じゃないよ。

国体とはそれを守ろうとしている人の頭の中にある概念である。

もっとはっきり言えば妄想である。

おそらく、今のプーチンも「ロシアの国体」を守るべく戦争をしているのだろうと思う。

もちろんそれも妄想である。

私は妄想を馬鹿にしてこのことを言っているのではない。

すべての概念は恣意的に分節された同一性、すなわち究極的には妄想なのだから、人は妄想なしには生きていけない。

問題は同一性が異なることだ。

さらに問題なのは多くの人は自分の同一性こそが

最も正しい同一性だと信じていることだ。

戦争も差別もすべてここに起因する。

世界中のすべての人の同一性をそろえてしまえば、

世界は平和になるだろうが、言語も文化も違うので

それは不可能だし、そもそも、多様性がなくなって面白くない。

せめて、自分が信じる同一性も所詮は妄想だということを理解して、

今の時点で最も合理的な妄想は何か、と考える人が増えたら、

世界は多少は真っ当になるだろう。

この対談からそのことを読み取ってくださるなら、

嬉しい限りである。


コロナ禍、ウクライナ戦争、環境問題、と


直近の時事をもとにお互いの哲学や


情報交換をされ、とても読んでいて


面白い対談でございました。


このお二人は、話がとても通じているのが


よく分かります。


共通言語、共通非言語が多いのだろうなと。


本当のところの仲はわからないけど、


まあ、悪くはないのだろうね、


虫を通しての師弟関係というか


大人になってからの虫の世界に


引き込んだのは池田さんのようで、


感謝してるとおっしゃるくらいだから。


2020年以前のお二人はどのような


感じだったのだろうか、と興味が出て読んでみた。



生の科学、死の哲学―養老孟司対談集

生の科学、死の哲学―養老孟司対談集

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 清流出版
  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 単行本


「暗黙のうちに社会が隠しているもの」から抜粋


■池田

それにしても今の世の中、

「そういうことを考えて、いったいなんの

役に立つのか」という。

 

■養老

お医者は診療報酬がよっぽど大事、という世界。
それは「あるところ以上は考えてはいけない」と、

暗黙のうちに社会が禁止しているのです。

寅さんのセリフの「それを言っちゃあ、おしめェよ」が

たぶん学問で、「大学に塀がある」は私の意見です。

しかし、今は開かれた大学ですから、

「それを言っちゃあ、おしめェよ」を言ってはいけない。

つまり、塀が亡くなってしまった。

塀とは、戦前の日本はとくに学問に対する

政治の干渉があったから、社会が学問に不当な干渉を

することから護るためであるけれど、逆の面がある。

大学は「それを言っちゃあ、おしめェよ」を

いって良いところであって、

そのためには世間と切っておく。

それが大学の塀の意味です。

社会に持ち出したら害があるから、塀の中に入れておく。

 

■池田

私は前からそう思っていましたよ。

私のような者を野放しにしておくと、

革命を起こそうと考えるから、とりあえず塀の中に入れておく。

 

■養老

大学が何か社会的に貢献しなければいけないと

思われているのは、現在の社会を固定しているから

そう思うのです。もし戦前に日本に民主主義の

導入を考えていたら、当然、不逞の輩になった。

いまはものごとを歴史的に、

長い目で見ることができなくなっている時代です。

 

■池田

本質的な意味で保守的になっていますね。

「世の中を変えなければ」「改革しなければ」と言いながらも、

何をしているかと言えば、現在の社会を変えたくない

という願望でみな動いているのです。

教育改革も、改革したら困るから。

改革しないようにしないようにやっているとしか、

私には思えない。

本質的な部分が変われば、何が起こるかわからないから

不安なのでしょう。何かの陰謀なのですよ。

 

■養老

全くそうだと思うのは、ジャーナリズムがそうですよ。

脳死問題にしても、肝心なところを議論したくないがために

いろいろな議論をする。隠しているのです。

 

■池田

こんな話を聞きました。

受験を前にした高校三年生の数学の家庭教師に行ったら、

その生徒は”100引く77”ができない。

計算は計算機任せ、コンビニの支払いはお札で済ます。

「何も生活に困らない」と言うわけです。

だんだんすごい世界になっちゃいますよ。

そう言う人が大学に入ってくるとすると、

私でさえ「教えるのは嫌だよ」と思ってしまう。

 

■養老

私もいまでも覚えている。「もう教えるのは嫌だ」

と思ったのは、メスを、出刃包丁を握るように

突き出して持つ学生が入ってきた時です。

これで手術をやられたら患者さんが殺される。

大学に入ってメスの持ち方を教えるなんて、

おかしいですよ。

「こいつの日常生活はどうなっているのだ」と。

もうだめだと思いました。

 

■池田

家庭で常識を教えるのは当たり前で、それが当たり前で

なくなってしまった。

だから「教育で何とかしろ」と言う話ですね。

やはり確かに何かを隠蔽している。極端に言えば、

その子が大学に入る必要などないわけでしょう。

昔は16、7歳から働いていた。

いま労働すべき人はみな遊んでいます。

老人問題とか言って、働く人が不足して老人ばかり

増えると言うけれども、若い人を働かせないのだもの。

大学院の数ばかり増やしてどうするのだろう。

 

■養老

この前、池田君、怒っていたでしょう。

「円周率が3になった」と言って。

 

■池田

学習指導要領が変わって、2002年度から

小学校で難しいことは教えないらしいけれど、

円周率3の円を描くのは難しいですよ(笑)。

だから、優しくしているのか難しくしているのか、

よくわからないなあ。

(2000年11月収録)


20年以上前の対談だけど、


最近の対談に劣らず、興味深く面白かった。


あまりお変わりないお二人な印象だった。


それにしても、池田さんの直感と、言い切りが


すごいと思ったのは2007年のこの本でもでした。



バカにならない読書術 (朝日新書 72)

バカにならない読書術 (朝日新書 72)

  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2007/10/12
  • メディア: 新書


作家の吉岡忍さんも交えて三人で読書について、鼎談。


「ミステリーといえば」から抜粋。


■吉岡

本と映画の両方で『ダ・ヴィンチ・コード』が

大ヒットしたでしょ。

欧米キリスト教社会の根幹にある問題を

ミステリーとして描くのは、一般市民レベルでも

本格的に宗教離れが始まったということなのかな。

「死海文書」の解読がさかんになったのもその一環だね。

 

■養老

表立って言えなかったことが言えるようになってきたんだ。

死海文書なんて、実際の話自体がほとんどミステリー。

小説の形をとっているけど、出てくる情報量も半端じゃないし、

きっと本当のことをそのまま載せている。

 

■池田

かつて吉本隆明が「マチウ書試論」で

キリストは実在しなかった、と書いた時には

びっくりしたけど、あれは当たりだな。


あまりにもやばくて、コメントは控えさせていただきます。


 


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夫婦で行く意外とおいしいイギリス:清水義範著(2016年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


第12章 ロンドン から抜粋

林望の『イギリスはおいしい』という名著によれば、

フィッシュ&チップスは原則として立ち食いなのだそうだ。

わら半紙二、三枚をメガホンのような形に巻き付け、

そこに揚げた魚を放り込み。シャベルのような道具で

あきれるほどたくさんのチップスをすくって入れる。

メガホンが壊れぬように下の方を握って持って、

店に備え付けてあるビネガーをじゃぶじゃぶとかけ、

塩を振りかけ、歩きながら食べるのが正式なのだそうだ。

当然ながら手も口の周りも油でべたべたになる。

食べ終わったら紙の上の油に濡れていないところで指と

口の周りを拭いて紙を丸めて捨てる、

というのが正調の食べ方なのだ。

だが上品なご婦人などはその食べ方が似合わないので、

まれに、ちゃんと店内で、皿に盛った洗練された

フィッシュ&チップスを出すところがあるのだそうで、

私たちが食べたのはそっちだったのだ。

しかし、それはとてもおいしかった。

イギリスで食べたもののうちで一番

おいしかったというほどだ。

イギリスの料理はまずい、とよく言われる。

あれはどうも、イギリス人は料理に

あれこれこだわるなんて、上品なことではない

と思っている感じで、そこがいい加減なので味が

不揃いになるのだと思う。料理なんかに

かまけれられるか。という精神があるのだろう。

歴史的な調査・研究からイギリスを

紐解いてらして感服いたしました。

ロンドンについて、イギリスについて、重厚かつ

洗練されていてご夫婦ともに満足されたという。

余談だけど、我々夫婦は、ちょっと違ってて、

もう20年も前になるけど、もしかしたら

自分だけかもしれないけど

イギリスといえばビートルズが圧倒的なので、

ロンドンは退屈極まりなかった。ほぼ銀座のようだった。

リバプールの方が圧倒的に楽しかったと記憶している。

フィッシュ&チップスも、おいしいといえば

まあおいしいかったけど。

日本では食べられない味だったけど、それよりも

イギリスを北上してのスコットランド・インバネスで

泊まった「あじさい」というB&Bで

食べたハギスの方がおいしかった。

そこで作ってもらったオニギリ、

早朝に出た電車の中で食べたからか

これがまた最高においしかったっていう

料理という側面だけ見たら、お前らイギリス行くなよ

と言われても仕方のないような旅だったかもしれない。

けれど、解説の井形さんの文章を読むと、

イギリスの料理について膝を打ち、

もしも機会があれば正味したいとつくづく感じた。

解説 

イギリスの「おいしさに魅せられて」井形慶子 から抜粋

イギリスの話をすると、二人に一人が

「でも、料理がまずいんでしょう」と

思いっきり確信的に聞いてくる。

「いえ、いつもロンドン行きの飛行機で、

今回は何を食べようかと迷うほどおいしいですよ」

(略)

イギリスの料理をまずいと感じるのは、

材料を加熱しただけの淡白な素材料理と、

これでもかというほどの油ギトギト、

カロリーオーバーのフライドエッグなどの二種類が、

交互に出てくるからだ。

加えて、デザートは砂糖やバターやミルクを混ぜ込んだもので、

「甘すぎなくておいしい」とされる日本のスウィーツとは

全く違う。イギリスはまずいという通説は

このいずれかを食された方によって広まっているように思う。

 

確かに、いくら塩を振りかけても

「さしすせそ」調味料のハーモニーに馴染んだ

私達にとって「まずい」と感じるにはいたしかたない。

ところが、「油ぎって」「薄味」「濃厚な甘さ」の

イギリス料理は、食べ続けると不思議な作用を引き起こす。

私ごとで恐縮だが、旅半ばで禁断症状が湧き起こり、

早く和食を食べたい!もう中華でもいい!などと、

ジタバタしていたのは三十代までだった。

(略)

ところが四十代になって突然味覚が変わった。

というか、毎食何を食べてもおいしくて、帰路、

空港のレストランでもフィッシュ&チップスを

むさぼるありさま。身体のメカニズムが

どうなったかわからないが、

私とイギリス料理との蜜月がスタートしたのだ。

(略)

なぜか。分析してゆくと、二つの理由に行きついた。

 

一つはイギリスでローカルプロデュースと

呼ばれる地産地消の食材のおいしさを知ったこと。

レストランを探す時、「Use local produce」、

家族経営「family run」という二つのポイントを

クリアしていればおいしい店に当たる確率は高い。

どちらかといえばあまり肉好きではない私は、

ハム、ソーセージなどの加工品、そして肉が

ぎっしり詰まったパイも苦手だった。

ところが、コッツウォルズのとあるローカルパブで

食べたシャムロックというパイ。

時間がなくて、ハフハフと急いで食べたが、

きつね色のパイ生地と、まろやかな肉汁に包まれた、

とろけるビーフ&周りに盛られたマッシュポテトが絶妙だった。

以来、ところかまわずパブに入るとパイ料理を注文して、

やっとエジンバラで、かなり近いものに出会えた。

地元産の食材を使って作られたものらしい。

旅行会社が現地代理店を通して手配する団体旅行用の

食事は、客さばき優先となるから、

なかなかこのような店に行きつかないのは残念だ。

イギリス料理にはまった二つ目の理由は家庭料理との

出会いだ。

あちこちの家庭の食事に招かれたが、どれも驚嘆すべき

料理だと打ちのめされた。

こんな経験から、イギリスはおいしいと確信したのだ。

この国では代々家族に伝わるレシピは珍重丁重に扱われる、

ある家など、おばあちゃんのレシピノートを

金庫に保管して知的資産だと自慢したほど。

地元の素材にこだわり、代々伝わったレシピで料理する。

このおいしさはかなりレベルが高い。


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緒方貞子回顧録:納家政嗣・野林健編(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

2019年に92歳で亡くなってしまわれた


緒方貞子さん。


国際政治学者。日本人初の国連難民高等弁務官、


アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。


お年を召してからの方が、チャーミングな


お顔をされていると思うのは自分だけだろうか。


顔はまあ、いいとして、なぜかこの方が


昔から気になっていて読ませていただき、


深かったし知らなかったこともたくさんあった。


「まえがき」から抜粋


国連難民高等弁務官(UNHCR)を退任したときには、

幸い米フォード財団から時間と場所を提供すると

申し出があり、UNHCRの体験を回想録として執筆できた。

それで宿題を果たした気がしていたのだが、

間もなくアフガニスタン復興支援で小泉純一郎総理の

特別代表団を務め、独立行政法人国際協力機構(JICA)の

理事長の職に就いた。

その後も国連「人間の安全保障」委員会で議長を務めるなど、

また10年ほど海外を走りながら考えることが続いた。

こうした活動を資料にあたって整理し直し、

全体を俯瞰することはほとんど不可能のように思われ、

宿題が積み上がっているような気持ちを抱えていた。

インタビューに答える形で回顧録をまとめてみてはどうか、

というお話を岩波書店からいただいたのはそういう折であった。

私の生い立ちから現在に至るまでの活動を通して、

時代の流れ、世界が抱えている深刻な問題、日本の国際社会との

かかわりの一端を、後の検討のために残すことに意味が

あるのではないか、と考えたのである。

今回まとまった回顧録を読み返して、普段はあまり気にしないが、

そういうことだったのか、と気づかされた点がいくつかあった。

ひとつは自分から手を挙げて始めた仕事はあまりなかったと

いうことである。

最初に国連日本代表部で仕事をしたときは、市川房枝先生から

声をかけていただいた。

外務省の要請で国連公使として国連外交に携わった。

この間に国連児童基金(ユニセフ)の執行理事会理事を務め、

国連人権委員会の弁務官の候補になるようにとのお話をいただいた。

UNHCRを退任してからしばらくして、JICA理事長就任を要請された。

いずれもどんな仕事か想像もつかなかったが、自分の能力を

あれこれ考えていたらこういう類の仕事はできなかったかもしれない。

最初の米国留学時、日本から持参したテニス・ラケットを手に

持って大陸横断鉄道駅から出てきたと出迎えの人に

笑われたことがあるが、国際社会を相手にする仕事も、

そのくらいフットワークの軽さで乗り込んで行かないと

なかなか始められなかったのかもしれない。

もちろん行ってみると、これはえらいところに来てしまった、

とその都度思ったものであるが、しかし妙なことに仕事を始めると

俄然ファイトが湧いて、問題の解決に挑むことができた。

周りの人にうるさがられるほど質問をたたみ掛け、

教えてもらいながら始めるが、次第にその仕事が天職の

ように感じられて全力投球することになった。若い方から

「どうすれば先生のように国際社会で仕事ができるようになりますか」

と問われることが少なくない。

私は「自分は普通の人間です」としか答えようがない。

語学・学問的な知識、人間関係など若いときに準備しておいた方が

よいことはいろいろあるが、私の場合、とりあえず現場に

飛び込んでみるフットワークの軽さ、楽天性も大いに助けに

なっていたように思う。

また聞かれたらこのことを付け加えたい。


普通の人間は、国連日本代表を務め上げることは、


なかなか難しいと思うのが普通だろうな。


でもこれを読む限り、成り行き、楽天家であったからこそ


っていうのは、本当だろうね。


世界が大きく変動する中で仕事をしてきたのだ、

というのも今回の回顧録を読んで得た感想である。

私が外務省の仕事を始めたのは、

1970年代の二つのニクソン・ショックで

戦後の秩序が大きく転換する時期であった。

私はその変化を国連の場で肌で感じた。

UNHCRの仕事を始めたのは、ちょうど冷戦が終わったときである。

「ポスト冷戦後」と呼ばれる時代になっていた。

時代が大きく動くと、そこに従来なかったような問題が生じ、

その問題の底辺にはいつも、人間として見過ごせないような

過酷な状況に陥る人々がいる。

冷戦後の難民問題はその典型であった。

内戦下で発生する大量の国内避難民は、

難民条約の対象から外れ、

国家間で救済措置を講じるのも著しく難しかった。

私が取り組んだことの多くは、世界が変化する中で

一番苦しんでいる人々に寄り添うような

仕事であった、と改めて思った。


それまでなかったような問題に対しては、たとえば人道活動に

軍の支援を求めるといった従来の常識から

いささか外れるような行動や措置が必要になった。

そういう私の決断は、多くの友人や同志というべき部下に

支えられて可能になったと思う。

人々が逃げ惑う悲惨な状況は、イラクやボスニアにも、

ロシア、ルワンダにもあった。

しかし自己利益に執着する国家、

のろのろとしか機動しない国際機関に、いつも悩まされ、

絶望的になることもしばしばあった。

そういうとき、私は世界の多くの友人から的確な

助言や心温まる支援をいただくことができた。

ブトロス=ガリ、コフィ・アナンの歴代国連事務総長、

ラクダール・ブラヒミ国連事務次長、

ダボス会議のクラウス・シュワブ夫妻、

そのほか名前を挙げることができないほど多くの方と、

苦境を乗り越えるためにともに取り組んだことは、

私の誇りである。

そして具体的な政策や新しい行動の多くは、

実は現場の知恵から生まれたという思いも強い。

難民支援の現場の声を挙げたUNHCRの職員、

赤十字国際委員会(ICRC)、世界NGOの要員たちは、同志であった。

私の仕事の多くは現場の状況を直接見ることから始まったが、

新しい政策枠組みとしての「人間の安全保障」という考え方も、

そういう現場からの説明や報告、助言を

基礎に組み上げられたものであった。

そしてそういう活動の中で部下や同志が

命を落としたことも、忘られない。

私の最も辛かった出来事である。

人道支援の仕事は、そういう犠牲の上に

成り立っているとの思いを新たにした。


部下や同志を自分が陣頭指揮をとる中で


亡くしている経験というのは、


及びもつかないけれど緒方さんの中で生涯消えない痣には


なってしまったんだろう。


しかし、想像通り、現場に足を踏み入れて身体で感じたものを


信じるタイプだった。


よく映像で出てくる、防弾チョッキを着て現場を


歩いている姿ってのはそういうことだったのだろう。


机上の人じゃあ、ないよね、あの当時、


あれだけの場所で防弾チョッキだからね。


緒方さんのいう「寄り添う」は


そんじょそこらのビジネスマンが使う


同じ言葉とは重みが違いすぎる。


こういう実務にあたりながら、私は他方で

研究者の目でも日々の出来事や政策の作られ方を見ていたようである。

これも回顧録を読み返して得た感想であった。

私のものの考え方にとって大きかったのは、米国留学であったと思う。

まだ戦争の傷跡が深く残る日本から、世界で最も豊かで、

最も心身ともに余裕のある時代のアメリカに留学できたことは、

勉学だけでなく世界を見る私の感性にまで大きな影響を与えた。

最初のジョージタウン大学、ついで二度目の

カルフォルニア大学バークレー校に留学したときは、

多くの優れた教授陣に出会ったが、ここではとりわけ当時の

国際政治学の最先端であった外交政策決定過程論に関心を持ち、

後に満州事変の政策決定過程を博士論文にまとめた。

私の活動を振り返ると、問題への対応に迫られたときに

この分析枠組みを用いて概念思考している自分を感じたことも多い。

それはこの時代の知的訓練の所産であろう。

最後に日本外交についても考えさせられるところがあった。

私の国際的な活動が、外務省の仕事から

始まったことに何か縁のようなものを感じた。

祖父の芳澤謙吉、父の中村豊一も外務省で仕事をしたからである。

曽祖父・犬養毅の追悼会に集まるときにも、

政治や国際関係のことが話題になる環境に育った。

本書は父祖の代が日中戦争の下で中国問題に

苦しんでいるあたりから始まっている。

それから70~80年後のいま、日本外交はどうなったのだろう、

という感慨を禁じ得なかった。

日本は、父祖の時代の日本よりも外に開かれ、多様性に富み、

想像力豊かになり、国際社会で責任ある行動を

とれる国になったのであろうか。

私は国際社会に関わる仕事をしながら、

日本国内の政治における関心のあり方、問題意識、行動のスピード感が、

国際社会の動向と開きがあると感じることが一再ならずあった。

豊かで安定してはいるが、日本は政治のみならず、

経済、社会、教育まで大きな問題を抱え、その課題への向き合い方が

よく見えなくなっているように感じることがある。

杞憂であることを念じている。


果たして杞憂になっているのだろうか、今の日本は。


すべて「オン・ザ・棚」になってやしないだろうか。


若い頃に身につけた思考法が有効って羨ましい。


自分ももしかしたらそうなのかもしれないけど。


それにしても文章から、すごくお人柄が伝わってくる。


緒方さんの口述筆記っぽいので、編集された筆致も


あるだろうけど、こういう人だったのだなあと感じた。


グローバル化というのはジワジワ進行するので、

意識しにくいのですが、環境のように地球全体が

抱える問題は深刻化するし、国内の人々の動き方も激変しました。

途上国の内戦に伴う難民や避難民の問題は、

人間の倫理観や国家の道義性まで問う状況を生み出します。

堅い国家の枠にしがみ付くようなやり方では

うまく対応できなくなっているのです。

そういう中で東日本大震災が起きました。

「3.11」は文字通り、日本の全てを揺さぶりました。

想像を超える規模の巨大地震と原発事故が起きて、

それに対応する政治力や組織力、技術力を日本が

十分に備えていないことを世界に曝け出すことに

なったのではないでしょうか。

このままでは、日本は国際社会の中で今の位置に

留まることすらできないと思います。

日本はまず足元から固めることから始めなくてはなりません。

そのために何が必要かといえば、それは多様性、

英語でいえばダイバーシティ(Diversity)だと思うのです。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、

世界は多様性に基づく場所だということを心底から受けとめ、

自らも多様性を備えた社会に成長していくことだと思います。

私は、日本がもっと多様性に富んだ社会になってほしいのです。

創造性とか社会改革の力はいずれも

多様性の中からしか生まれようがないのですから。

日本は世界というところがまだ多様な文化や価値観、

社会から成り立っていることを、

頭ではわかっていたかもしれませんが、

経験的には十分に認識していなかったのでは

ないかと思うのです。

自分たちとは異なる存在への好奇心ですとか、

尊敬・畏敬の念を十分備えているとは

いえないのではないでしょうか。


世界の貧困を肌で感じ、指揮をしてきて、痛みを感じた、


本物のインテリジェンスである緒方さんの言葉は、


どんな日本の政治家よりも重たい。


きちんとした政治家も、まあ、中には、いるんだろうけれども。


異なるものを認め、そこで対話を開く

というのは頭で理解するほど容易ではありません

現実にはそのプロセスには

苦痛も多いでしょう。努力がいるのです。

異質な他者を認め敬うなどということは、

自然には起こりません

ですからできるだけ早くから多様性に

対する感性を養うのが重要です。

そのことが日本に活気を与え、

閉塞感を打開することにつながるのです。

これからの日本の進むべき道は

あると私は思っています。


これからの日本に必要なものは、と問われると。


最も大事なのが教育です。

日本の教育の最大の問題は、

やはり画一的であることだと思います。

子どもたちは同じ教科書で、

一斉に同じことを学ばされています。

異なる意見をぶつけ合って、

自分の意見を鍛え上げる、そして学び合う。

日本の教育は大学を含めて、いまだにそうした

訓練の場になりきっていないのではないでしょうか。

世界の中で生きていく力を身につけるための、

多様性をはぐくむ教育を積み重ねていくべきです。

語学力はもちろん大事ですが、

語学はあくまでツールで合って、

目的ではないのです。

「英語力=グローバル人材」だと思ったら

間違いです。

そもそも、グローバル人材という言葉が

氾濫している昨今の風潮自体がおかしいのです。

より広がりのある視野を持とうとする好奇心

異なる存在を受容する寛容

対話を重ね自らを省みる柔軟性

氾濫する情報をより分ける判断力

そうした力の総体こそが求められているのです。

これからの日本に本当に必要な力はそうしたものです。


英語=グローバル人材って、短絡するぎるってのは、


国際社会で活躍する人って同じこと、言われるよね。


確かに英語喋れればいいってわけじゃない。


音楽に例えると、いくら演奏技術が高くても


それが心を打つかというと、別の話。


かつ、曲を、詩もかけるか、となると


全く演奏能力とは異なるといったところか。


こういう多くの女性が、


政治に関わってくれるといいのにな。


余談だけど、小泉内閣時、某女性議員が辞めたとき、


オファーしたら断ってたよね、緒方さん。


ぜひやって欲しかったけど、他の仕事で


忙しかったんだろうなと


いうのは純粋すぎる見方だろうかね。


日本の政治の世界のセンスではなさそうだけれどね。


そこに小泉さん目をつけたのかもしれないけど。


逆に今の日本の政治家の方達、


政治をキャリアとか


ビジネスとしか思っておられない方たち


なるべく早くにお辞めいただき、


個人のスキルで世間を渡っていただくことを


お勧めいたします。


古い価値観ですかね、これ。


さらに余談、緒方さん犬養元首相と親戚だったのだね。


犬養さんの娘さんも国際活動してて


NHKアーカイブ最近観たのだけど、養老先生が大昔に


ホストしてた番組に出てたのを思い出した。


国際活動・支援するのは生半可じゃできないのよ、


という持論を展開されてて


養老さん、タジタジだったくらい、バイタリティ溢れる方で、


緒方さんをもっと先鋭的にした感じだった。


娘さんも、緒方さんと遠縁だったってことなんだろね。


タグ:緒方貞子
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