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「農業を株式会社化する」という無理:内田樹ほか共著(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

「農業を株式会社化する」という無理: これからの農業論

  • 出版社/メーカー: 家の光協会
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本

まえがきにかえて


 


「これからの農業」を語ることは可能か


養老孟司x内田樹


■内田

「農業にも生産性を」とよく耳にしますが、

生産性が低いことが農業の手柄だと思うのですけどね。

それだけ人の手を必要とするということが。

■養老

そもそも僕、本気で聞きたいんだけど、

みなさんは自分の人生、生産性が高いと思ってるんですか?

「生産性」ってもっともらしく聞こえるんだけど、

ほとんどの人は生産性ゼロですよ。

いや、マイナスじゃないかな。

少しは自分の足元を見てごらんなさいよって。

■内田

本当だ。

■養老

じゃあ農業とか農村の価値は多様性にあるのか

という話になるけど、そう一言で言うのも何か違う。

地域って結局、どこもそれぞれだというのが根本なんで。

それを学問とか風潮とかに当てはめようとすると、

ひと言で言うことになってしまう。

テレビがその典型ですよ。僕がしゃべってたら

「先生、ひと言」ってサインを出される。

「一言になんねえからしゃべってんじゃねえか」

ってこっちは思っちゃう。

■内田

いま、ひと言の時代ですから。

■養老

僕はその、ひと言の時代と折り合えないんですよ。

そう言う折り合えない人たちが、

いま農村に向かっているんだと思いますよ。


「農業を株式化する」という無理・内田樹


「農業は弱いもの」から抜粋


(略)

農業が始まったのは約2万3000年前ですが、

株式会社は産業革命以降に広がった企業形態です。

人類はその歴史のほとんどの期間、株式会社的な

経営と無関係に農業を営んできたのです。

その二つが整合しなければならないと考えている人には

歴史感覚が致命的に欠落していると僕は思います。

農業の存在理由は人間を飢えから守ることです。

それに尽くされる。

去年と同じだけの食物が安定的に供給されれば

とりあえず満点というのが農業です。

農作物を商品として市場に売り出して利益を出す

ということが農業従事者の主たる関心になったのは、

ごくごく近年のことです。人類史の90%以上の期間、

農業は集団のメンバーたちを飢えさせないために

存在していた。


農作物を商品とみなす人にとっては、自給体制の整備は

特に優先的な課題ではありません。

まず配慮すべきことは利益だからです。

商品の素材がどこの国のものであろうと、

どこで製造されていようと、そんなことは、

はっきり言って「どうでもいい」ことです。

商品については、自国産の素材を用いて、

自国内で製造しなければならないなどというルールは

ありません。一番安い原料を買って、一番人件費が

安いところで製造して、儲けた金は租税回避の

ペーパーカンパニーに送る。ルールはそれだけです。


「食糧危機は起こり得る」から抜粋


自国通貨が暴落して食料が買えなくなるとか、

主食の市場価格が暴騰して主食が食べられなくなる

というようなことはグローバル経済体制下では日常的に起こります。

トウモロコシが原料のトルティーヤはメキシコ人の日常食です。

1994年にNAFTA(北米自由貿易協定)が発効すると

アメリカから安価なトウモロコシが流れ込んだせいで、

メキシコの農家はトウモロコシの生産を

止めてしまいました。

ところがその後、トウモロコシがバイオマス燃料の

材料になったことで国際価格が高騰、メキシコ国民は

日常食が食べられなくなるという事態になり、

2008年には怒った民衆による暴動が起きました。

(略)

それでも、日本人にはそのことがなかなか実感しづらい。

それは、われわれが長いこと飢餓を体験していないからです。

だからそのリアリティーがわからない。

しばらく起きていないというだけの理由で、

人々は「飢餓なんて絶対に起こらない」と思い込んでいる。

でも、少なくとも政府は

「金で食物が買えなくなることがある」

ということを勘定に入れて、

そのような場合でも飢餓状態に

ならないような安全装置を整備しておく義務があると僕は思います。

アメリカは農業資本主義経済にフィットしているように

見えますけれど、それは国内の自給自足制度が整備されていて、

「農産物が商品としてふるまうことができる」環境があるからです。

その環境を整えさせるためにはアメリカ政府はそれなりの

コストを負担している。

アメリカ人だって、市場に全部任せれば最適解が出てくると

思っているわけじゃありません

現にの農業を丸ごと市場に委ねている国なんか、

世界のどこにもありません。


「定常経済の時代がやってくる」から抜粋


農業というものは100年200年というスパンで考えていかなければいけないものです。

資本主義は株式会社そのものの寿命には

まったく興味を示しませんが、それとは裏腹に経済成長は

永遠に続くことを前提にしています。

でも、残念ながら、永遠に続く経済成長などというのは

夢物語です。すでにグローバル資本主義は終焉を迎えつつあります。

経済学者の水野和夫さんが言うように、

グローバル資本主義が終わり、定常経済の局面に入りつつある


資本主義のその本性として「先のこと」は考えません。

ですから、集団が生き延びてゆくために必須の

社会共通資本であっても、企業の当期利益になると思えば、

どんどん市場に投じて商品化しようとします。

株式会社を野放しにしておけば、

森林の乱伐や大気汚染・水質汚染に歯止めがかからないのは

誰でも知っています。

そんなことをすれば、地球がいずれ居住不能になると分かっていても、

株式会社にとってはそれよりは当期の利益のほうが優先する。

それは株式会社にしてみたら当然なのです。

平均寿命5年の生き物なのですから、

「そんなことをしたら100年後にはたいへんなことになる」と

言われても死んだ後のことなんか知るかよと言うわけです。

その点では僕たちだって変わりません。

(略)

株式会社が危険なのは、その点なのです。

その点だけと言ってもいい。

当期利益しか考えないと言うことがデフォルトの

システムなのです。

自然資源を守るのは100年、200年という

タイムスパンの中では必要なことですけれど、

株式会社の5年スパンからすれば、

別に自然なんかいくら破壊しても、直接の影響はまだない。

だから、農業のように長期に渡って安定的な環境が

整備されていないと成立しない産業を

株式会社モデルに制度設計してはならないのです。


「安全保障をしたがらない」から抜粋


医療人の基本的なモラルを誓言(せいごん)の

かたちにした「ヒポクラテスの誓言」と言うものがあります。

そこには

「どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の

相違を問わず、不正を犯すことなく、医療を行う」

という一条が含まれています。古代ギリシャにおける

医術の発祥の時点から、貧富の差や出自の差によって

施術の内容を変えてはならないと言うことは

医療人として生きることを選んだ人たちの中には必ず、

「現金の支払いがあるかどうかは医療が行われる

本質的な条件ではない」

と言うヒポクラテスの誓言を信じて医療行為を

する人が出てくると僕は思います。


資本主義が限界にきていることは誰しも感じていることだろうけど、


ここまではっきり分析されると改めてそうなのか、という感じだな。


グローバリズムが引き起こす弊害もますます強まりそうだけど、


組織というか個の力によって、淘汰されるのかもと


ヒポクラテスの件を読んで感じた。


ーーー


農業主義が再発見されたワケ・宇根豊(百姓・思想家)


「田んぼの生きものは全滅」から抜粋


生きものは、百姓が知らないところできちんと

田んぼに生きていて、田んぼを支えているわけです。

害虫を何匹食べているとか、そういうことではありません。

生きものが一匹もいないような田んぼに百姓が入ったら、

ほんとうにさびしいと感じるでしょう。

それは、実際にいなくなってみないと

わからないかもしれません。

田んぼに行くと、お玉杓子(たまじゃくし)が

今年もまたいっぱい生まれている。

そのことについて、ふつう百姓は別になんとも思いません。

たとえお玉杓子が生まれたなと思うことはあっても、

いちいち語らないでしょう。でも、心の中では、

身体では感じているわけです。

でも、それは経済価値も何もないから、言わない。

思想化もされてないし、学校の対象でもない。

そのほんとうの理由がこの頃やっとわかったので、披露します。

もうずいぶん前のことですが、私が家を留守にしていた間に、

田んぼの水が干上がってしまって、

お玉杓子が全滅したことがありました。

そのときに私は「悪かった。ごめんよ」と、

お玉杓子に謝りました。

そのときは、これは単に私の感性だろうと、

深く考えなかったのですが、最近になって

他の百姓たちにも尋ねてみたのです。

「うっかり水が干上がってお玉杓子が

死んだことをどう思うか」

という質問への回答が図1です。


(図1をテキスト化)


< お玉杓子が死んだことに対する百姓の回答

■年配の百姓

 A:3% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:2% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:93% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:2% 「無回答」

■20、30代の百姓

 A:40% 「仕方がない。分解されて良質の有機肥料になればいい」

 B:38% 「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役に立ったのに」

 C:16% 「ごめん。水を切らして悪かった」

 D:6% 「無回答」

※年配122人、20、30代32人が回答


私が驚いたことが二つありました。

一つは、若い百姓は「ごめん、悪かった」と

回答する人が極めて少ないことでした。

それにしても

「有機質肥料になればいい」

「天敵として役にたたなかった」

というような回答を真顔ですることに、

私たち世代以上の百姓は驚きます。

(当初は、冗談で設けた選択肢でした)

もう一つは、さすがに年配の百姓は、

「ごめん。水を切らして、悪かった」という回答が

圧倒的に多かったことに安堵したものの、

「あなたたちは、田んぼに水を溜めるのは、

稲のためと同時にお玉杓子のためにも溜めていたのではないか」

と尋ねると、全員が

「そういうつもりは全くない」ち断言するのでした。

「では、なぜお玉杓子に詫びるか」と重ねて問うても、

「そんな気になるだけだ」と答えるのでした。

そこで私は気づいたのです。

百姓は「無意識」に生きもののためにも

水を溜めているのだ、と。

たしかに私の体験をさかのぼっても、

お玉杓子が全滅した田んぼに、

その後入ると、ほんとうにさびしいと感じたものでした。

このように、百姓の伝統的な天地有情の感覚は、

当たり前すぎて表現されないままに、

「無意識」に身体に(心に)蓄積されるものではないでしょうか。

私は百姓のこの無意識を掘り起こして表現して、

農本主義の新しい土台思想にしようと考えているのです。

このように、私が「天地有情」と呼んでいる世界が

百姓を支えているのです。

(略)

資本主義の弊害はとっくに生きものの世界には

訪れています。それは単なる自然破壊ではなく、

農業にたいする大きな警告です。

こうした生きものを守れるのは、百姓以外にいません。

百姓がそれを守ろうとする余裕を確保する政策が必要です。

ところが、もっとコストを下げろ、生産性を上げろ、

労働時間を減らせ、規模を拡大せよという成長戦略は、

この日本の天地自然・山河に対してほんとうに失礼です。


食べものは天地のめぐみだという感覚を取り戻す思想を

百姓が語らないなら、誰が語るのでしょうか。

人間は資本主義の価値観だけで生きているのではないことを、

百姓は天地有情の世界で示していく、

そういう時代がそこまできています。


「天地有情」という言葉を初めて知った。


お玉杓子のいない田んぼって考えられない。


昔は水溜りにもいろんな生き物がいたし


家の裏にあった小さな沼に仕掛けたザリガニ獲りの罠を


見にいくときの高揚感は今でも覚えている。


人によっての「前提」が異なるってのは、


養老先生も指摘されてたけど


いろんな人いますからねえ…。


「前提」を「普通」に置き換えてもいいし


お前に言われたくないよ、ってことかもしれないし。


ーーー


贈与のモデルは再び根づくか:平川克美


AIとベーシックインカムの登場


繰り返しになりますが、

これから先に起こることを考えていくと、

農業はますます重要性を増してくると思います。

これから起こることが何かというと、一つは人口の減少に

よる経済のシュリンクです。

そして、その小さくなったパイを奪い合うことによる

貧富格差の拡大と富の集中が

起きてしまうということです。

それから、もう一つはAI(人工知能)の発展によって、

雇用が喪失していくという現象が起こります。

これはもう実際に起き始めています。

そうなってきたときに、最終的にわれわれの

経済が行き着く先は、

おそらくベーシックインカムしかありません

すぐにはできないでしょうけど、過去1、2年にアメリカの

一部の地域で実験されたり、

スイスでは国民投票が行われたりしましたけど、

先進国では大きな議論として取り上げられているわけです。

ベーシックインカムとは何かというと、

生きていくために必要なもの、必要最低限のものは

分け与えようという全体給付のシステムを、

資本主義の中に導入するという試みです。

今、地上で最もそれに近いことをしているのはどこかというと、

おそらくキューバです。

これは三砂ちづる先生に教わったことですが、

キューバは医療も教育も無料です。

人が生きていくために、食料の配給も。

こういったことは、社会主義国が取り組んできたことです。

ところが社会主義は、人民を解放するどころか、

独裁的な国家運営に傾いていって、

ソ連邦や、旧東ドイツなどのように、

内部崩壊していったわけです。

ところが今、勝った方の資本主義システムの正当性も

どうも怪しくなってきたという状況で、

もう一回、社会主義的な、相互扶助的な社会と

いうものが見直されているということです。

相互扶助的な社会では、成長よりも、持続が重要な

課題になります。そうなると、

第一次産業的なモラルが再評価されます。


ベーシックインカムに話を戻します。

ポスト経済成長の社会では、全体給付という

社会システムの中に、制度として入れていく必要がある

と思います。

全体給付は、いわゆる「誰もが平等に」

という考え方ではありません

そうではなく

われわれの社会を壊さずに、生きていくために

最低限必要なものは分け合う

というシステムをつくっていくことです。

今ある税金のシステムも全体給付のシステムの

一つではありますが、

使われ方を見ても、再分配機能という点で見ても、

実質的には全体給付になっていません。農村部に若い人が

戻りつつある現象は、全体給付や、相互扶助的なものが社会も

自分も救済することになると直感しているからでは

ないでしょうか。

(略)

農村部に行けば、とりあえず食える。自給自足も

可能かもしれないということに気付くのと同時に、

農村部の持っていたモラル、自然との向き合い方みたいなものに

惹かれるわけですね。

消費化し、人工的化した都市部の現状が、あまりにも

そこから離れてしまったから。

自然の恵み、自然からの贈与を相手にするという、

農村のモラルに惹かれる人が増えるというのは、

とても健全なことだと思います。

農村のモラルを基本にして、生活、社会全体を

組み立ててくといったときに、自然の贈与というのは

丁寧に大事に使うもので、どんどん収奪していけば

いいというものではないと知るわけです。

贈与ですからね。それが本来なのです。それがこれまで、

贈与モデルから収奪モデルに変えられてきた。

それをもう一回、贈与モデルに戻していくということです。


「贈与モデルと収奪モデル」から抜粋


ただ、今後、贈与モデルと収奪モデルのどちらが

優位になっていくかは、分かりません。

それらはつねに相争っているわけですね。

全てを市場にしよう、商品化しようという動きと、

社会的な共通資本を広げていこうという動きが、

おそらくこれから何十年間か争うんだろうと思います。

それをわたしは、移行期的混乱というふうに名前をつけたわけです。


一方に自然の恵みを受けて循環型で定常的な農業があるとすれば、

もう一方にはモンサント(※)みたいな、

食料を完全に商品としてのみ扱うような企業があるわけですよね。

均衡再生産していく自然を、遺伝子とかをいじって

拡大再生産の方に向かわせるという考え方は、

当然のことながらなくなりません。

そういう自然の贈与を収奪していく勢力は、

これから先もずっっと存在していくだろうと思います。

(※=アメリカに本社を持ち、遺伝子組み換え作物の

世界シェア90%以上と言われる多国籍生物科学企業)


「贈与の成り立ち」から抜粋


ここまで贈与モデルという言葉を用いてきましたが、

そもそもマルセル・モースが発見し、記述した

「贈与経済システム」とは、贈与された者が、贈与者に

対して直接の返礼をしてはいけないというものでした。

贈与された者が、直接返礼すれば、それは贈与ではなく、

等価交換に過ぎません。

本来の贈与システムというのは、贈与されたら、

その返礼は必ず第三者へのパスというかたちをとるということです。

こうした、第三者への贈与の迂回によって、全体給付が実現する。

あるいは、親から子、子から孫へと順送りする贈与があります。

第三者に渡すか、順送りにしていくか。その「送っていく」

つまりパスで回すというのが贈与の一番のポイントです。

だから、贈与に返礼というものはありません。

もう一つのパターンがあるとすれば、贈与合戦のように

なって物資を使い果たしてしまう、

蕩尽(とうじん)というものがあります。

つまり贈与には「順送り」「第三者へのパス」「蕩尽」

という3つのパターンがあるということです。


現代社会のあちこちでささやかにおこなわれている

贈与交換的な営みは、現代社会の特徴である貨幣交換の

影に隠れていますが、現代社会が行き詰まった時には、

隠れていた贈与交換的な営みが必ず前面に出てくるはずです。

たとえば、ベーシックインカムだとか、減価するお金である

ゲセルマネーといった構想がそれにあたります。


その後、アメリカで実験している


ベーシックインカムはどうなったのだろう。


結果共有されても、そのまま日本に


適用できるわけじゃないだろうけど。


課題は山積されているだろうけれど、


今の資本主義という名前の「何か」よりは


暮らしやすいことは間違いなさそうだ。


そして、農業に限らず、若い世代にも期待や


その逆もあるだろうし、なかなか難しいな、


というのを感じた。


個のスキルを磨いて、必要なものであれば


差しのべ助け合うという


老いも若きも良いところを取り入れて


フェアな社会にしていきたいし


そうなってほしいと常に思う。


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