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逆立ち日本論:養老孟司・内田樹共著(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


逆立ち日本論 (新潮選書)

逆立ち日本論 (新潮選書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

裏表紙から抜粋

武道の達人と解剖学者ーーー二人の風狂による経論問答。

『下流志向』の内田樹と日本の知恵袋、養老孟司が火花を散らす。

「ユダヤ人問題」を語るはずが、ついには泊まりがけで丁々発止の議論に。

それぞれの身体論、アメリカ論、「正しい日本語」、全共闘への執着など、その風狂が炸裂し、日本が浮き彫りになる。

なぜこんなに笑えるのか。

養老は「”高級”漫才」とこの対談を評した。脳内がでんぐり返る一冊。


火花は散ってなさそう。


全体的にリラックスした雰囲気ではあるけど


この本の最大のテーマで


養老先生が内田先生に尋ねてる「ユダヤ人について」


ここにはユーモラスのカケラもありませんで


養老先生最も気になっていそうな部分が気になった。 


「第二章 新・日本人とユダヤ人」から抜粋


■養老

非常に疑っていることで、ユダヤ人について

いまだに知りたいことの一つが、

ヴィクトール・E・フランクルという

ユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』で

収容所の体験を書いた著者のことです。

彼は自分の両親と妻、子供を収容所で失います。

かろうじて自らは死を免れ解放された後、

一貫して「人生の意味」について論じていきます。

そして生きる意味は、自分だけで完結するもの

ではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる

と強調するのです。これは後ほど語る「個性」(第5章)と

つながることかもしれません。

論じていく中で、彼は、いつ死ぬかわからない

過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を

問い続けます。そして、収容所生活を生き抜いた人は、

精神的な自由や想像力を持って恐ろしい外部の

状況から逃れた人であって、身体的に頑丈な人では

必ずしもなかったということに気づく。

つまり、息を引き取るまで奪われることがない

精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。

過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、

人生の意味はある。そう考えるのです。

例えば、フランクルと話すことで自殺を

思いとどまった二人の仲間は、一人は外国に

愛する子どもがいて、再会を熱望しており、

もう一人は科学者で、執筆途中の科学論文を

書き上げることに使命を感じていた。

だからこそ、彼は言うのです。

「この各個人がもっている、他人によって

とりかえられ得ないという性質、

かけがえないということは、

ーーー意識されればーーー人間が彼の生活や

生き続けることにおいて担っている責任の

大きさを明らかにするものなのである。

待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、

に対してもっている責任を意識した人間は、

彼の生命を放棄することが決してできないのである」

(『夜と霧』1961年)。

そして、人生の意味というのは、人生からなにを

期待するかではなく、人生がなにをこちらに

期待しているかを考えることだというのです。

ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、

問われているのだと。それはそれぞれが自分に

与えられた使命を全うすること、

日常で正しい行動をとることにあり、

人によって具体的にそれは異なるのだということです。

若いころに『夜と霧』を読んで、

なぜユダヤ人が迫害されなければならなかったかが

わかりませんでした。

フランクルはまったく答えていないのです。

はじめに迫害ありきで、迫害されるだけなら

いくつも世界史に例がある。

でも、ユダヤ人という存在が国でも人種でも

宗教でも定義できず、

「自分はユダヤ人だ」

「あいつはユダヤ人だ」と思っている人しか

いないという状況で、なぜあのような連続的な

迫害が起こりうるのか。

逆に捉えると、ユダヤ人が特別で、

「なぜ迫害されなければならなかったのか」

と思うしかなくなりました。

このフランクルが書かなかったぼくの当初からの

疑問を、内田さんが紹介するレヴィナスが

答えてくれたように思います。

少なくとも答えはこのあたりだと

指し示してくれました。

フランクルが沈黙した部分が明らかになったように

思うのです。

つまり、ユダヤ人は「迫害されるもの」であり、

だからこそフランクルの話は迫害から始まる。

フランクルが置かれた状況は、ユダヤ人にとって

もっとも根源的な状況だったのではないか

ということです。

そして、もう一度『夜と霧』を最近読み直して、

新たな疑問が湧きました。

アウシュビッツの収容所に行って彼が見たこと、

死を免れたことは、偶然ではないのではないか。

違和感をもって今でも覚えているのは、

NHKでフランクルにインタビューをした

日本人の質問が聞くに堪えず、テレビを途中で

切ってしまったことです。

なぜかというと、当然のことのように

フランクルは反ナチだという視点から質問ばかり

するのです。

反ナチ的発言が出てくると思ってその日本人が

話を向けると、フランクルは

はかばかしい返事をしない。

『夜と霧』を読むとわかります・最後に

砲声が近づいてきてまもなく解放されるとわかって、

囚人がどよめきたつ。その日の朝に、

「これで解放だ」という気持ちがみんなの中に

ある。

すると、その日に限って彼は、森にもう一人の

囚人と「夜のあいだに死んだ仲間の死体を埋めに行け」と

命令を受ける。

それで離れて森に行かなければいけない。

絶望した気持ちで森に行って帰ってくると、

”解放”の貨物自動車組にカウントされておらず、

置いてきぼりになる。残っていた全員は大型の

トラックに乗せられて移動するのです。

ところが結局、喜んで移動した人たちは

全員殺されたのです。だから、彼は外された。

彼自身が書いている他の著作の中に、

百人ずつまとめてガス室に送るという

記述もあります。

ガス室送りになる囚人を百人バーッと

並ばせてしまうのです。

ところが、たまたまフランクルが百人目に

なってしまった。

そうしたら、カポー(囚人の中から

選ばれた監視役)が、

ぜんぜん関係ない何もしてなかったヤツに

突然殴りかかって、あたかも点呼の行列から

そいつが逃げようとしたかのようにそれを行列に

押し込む。

それでフランクルが溢れ、結果的に助かるのです。

彼自身がそれを書いている。

これは、収容所側に「あいつは殺さない」という

意思があった気がする。

偶然じゃないとぼくは思っているのです。

そしてフランクルは、決して収容所側の

人間の悪口ばかりを言ってはいないのです。

ある司令は自分の小遣いを割いて病人のための

薬を買っていたとか、よく読むとさまざまな

ところにナチ側の良心に触れる話を書いている。

だから表には出てこないけれども、

フランクルのような人間は殺さないという

暗黙の合意があったのではないか。

あるいは、それは暗黙どころか、申し合わせ事項に

近いものだったかもしれない、

ということが『夜と霧』を読んでいると

伝わってくる。

若いときは素直に

「この人は生き残れて運のいい人だ」と

思って読んでいたのですが、あの社会には

そういったことがありそうでしょう。

■内田

これはたいへん難しい問題ですね。

反ユダヤ主義者がある種のユダヤ人に

対してリスペクトを示すということは現実にあるんです。

(略)

ドイツ人全部がナチなわけではないですから。

■養老

ぼくはどうも、この年になってしみじみあれは

偶然ではないという気がします。

百一人目の話なんて絶対に変でしょう。

しかも、彼自身が万に一つも生き延びられない

ところを生き延びて出てきているのだから、

その途中の挿話に百一人目が入っているということは、

偶然が重なりすぎる。

■内田

確率としてはありえないですね。

■養老

彼自身がそのエピソードを書いたということは、

やはり、疑っていたということでしょう。

■内田

でも、本人は知りようもないですものね。

■養老

そうなんです。

■内田

ナチの強制収容所の所長の中に、ユダヤ人に

配慮した人がいたというのは、ポリティカリーに

正しくないことですから、明示的には書けないでしょう。

■養老

書けないですね。だから、フランクルが

口ごもったのもよくわかるのです。

逆に、反ナチを期待してインタビューしているのを

「なんていうバカだ」と思って見ていました。

要するに、「人の気持ちがわからないのだ、こいつは

と思ったのですね。

アウシュビッツを生き延びて出てきて、しかも、

そんなに悪口を言っていないということは、

彼の書いたものを丁寧に読んだらわかるはずです。

「アウシュビッツの生き残りなら反ナチに

決まっているだろう」という考え方自体が

成り立たない。

ぼくの考え方が正しいのかはわかりません。

でも、まちがいなく言えるのはユダヤ人だという

だけであれだけの迫害を受けた人が、ドイツ人だという

理由だけで相手を非難するはずがないということです。

戦後、それをどれだけの人が本気で了解していたでしょう。

ぼくはフランクルみたいな人が

ユダヤ人だと思っていたから、

長いあいだイスラエルという国家の行動が

理解できませんでした。


仮に養老先生の仮説が正しいとすると


フランクルが込めた裏のメッセージとは何なのだろうか。


確かにフランクルがナチを擁護するようなことを


言おうものなら違った内容にうけとられるだろうし


出版自体が危ぶまれ闇に葬られる本になってしまうだろう。


(本どころかフランクル自身も)


さらに興味深いのは養老先生の『自分の壁』でも


取り上げてるのだけど


世界的に有名な「テヘランの死神」という寓話を


『夜と霧』の中でフランクルは挿入してて


併せて勘案、自分なりに解釈すると


「人間には叡智を超えた逆らえない意志がある」


一言で言うなら「運命」と言うことなんかな。


「100分de名著」でしか知らないんだけど。


(おい、読めや!)


ちなみに『自分の壁』をもう少し詳しくいうと


東日本大震災で放射線を過度に恐れ、


その危険性を煽る情報を信じてしまい


関西や九州に逃げた人たちがいて


無理に移動したことで健康を損ない命を落とした


お年寄りがいた。


留まる人も多くいたのに


そこを切り離して考えてしまって


「世間が壊れた(冷静さを失った)」と感じたと。


そして思い出したのがこの寓話だったと書かれる。


それから、イスラエルを理解できない、つまり、


フランクルのような立派な人格を持った


人たちの国家なのに何で争いや暗殺が起こるのか


ってことか。


時は和平交渉(ピースプロセス)の10年くらい後


一部の非民主的なイスラエルの人たちと


フランクルがリンクしないってことを


指しておられるのかもしれない。


全くの余談だけど、マスコミ・大手規制メディアが


勉強不足でイラつくというのは


自分も多くありまして、ぐっと話は変わって


なんか似てるかもって思った過去のテレビがあった。


90年代、元ビートルズの


ジョージ・ハリソン(withクラプトン)が


来日直前、TVで特集があって、


日本のカメラクルーがイギリスで練習中の


クラプトンのスタジオに取材の時のこと。


クラプトンとも合わせてインタビューで


ジョージに日本についてのことなんか聞いてた後


クラプトンにジョージの元妻パティのことを聞いて


それ自体なんでそんなこと今聞くのよ、なんだけど


その時カメラがジョージをなぜか映してて


ジョージは苦笑いをしてた。


「これが日本のリスナーのレベルか」と


ジョージに思われただろうなって


思ったことを思い出してしまったことは


どうでもいいか。


思い出したことはどうでもいいけど


いや、内容としてはグローバリゼーションな今


意外と根深いんじゃないかな、これ。


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