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吉本隆明さん養老先生の32年前の対談 [’23年以前の”新旧の価値観”]


脳という劇場 唯脳論・対話篇

脳という劇場 唯脳論・対話篇

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2005/10/01
  • メディア: 単行本

身体と言語(1990年)から抜粋

■養老

僕が日本語でもうひとつ気になっているのは擬音語です。

擬音語というか、擬音語と思えないような同じ言葉が

たくさんありますね。

「つくづく」とか「しみじみ」とか。

そういうのは、どうも英語に対応する表現がないような

気がするので、あれは何だろうなといつも不思議で。

韓国にはあるらしいんですけど。

■吉本

輪の中でいえば、副詞と感嘆詞の中間なんだと思います。

本当に微妙なものがありますね。

■養老

論理的に考えると、だんだんおかしくなるんですね。

「しみじみ」って何だ。何が「つくづく」だ。

どうして「つくづく」なんだってつくづく考えたこと

あるんですけど全然わからない(笑)。

■吉本

それから、日本語だけじゃないのかもしれないけど

やっぱり問題になってかつ興味は深くて、

まだ人が誰もやっていないなと思うことは、

いわゆる幼児言葉というのでしょうか。

乳児言葉というのでしょう

か。本当言うと、

親と自分の赤ん坊との間にしか通用しない

「アバババー」とか、よく母親が言うと、

ニコニコッとする

とかいうのがありますね。

あの「アバババー」というのは何だろう

乳児には通ずるから

笑うんだろうと思うんですが、なんで笑うんだろうとか。

音であろうが、目であろうが、

それがよく分化できてないのとか

ありますね。それがあんまり人がやっていない気がします。

■養老

それが最初から話題の価値に

結びついているような気が、

直感的にするんです。

価値観というものもそれに似たものであって、

理屈にならないんだけれども

すっと通ってしまうものですね。

■吉本

柳田國男だけが僅かにそういうことに気がついて

一生懸命やっているんですね。

養老さんのご本の中で言うと、人間的ということは

一種の実態的象徴というのを持っているか、あるいは

持とうとするかどうかという欲求にかかっているんだと

おっしゃって、それは遊びから宗教まで

みんな入ってくるわけでしょう。

それはものすごく重要なことのような気がします。

柳田國男の言っていることで面白いと思うのは、

室内で遊ぶーー女の子なんか、昔でいえばおはじきとか

お手玉とかありますね。室内で今だったらパソコンとか

ファミコンとかになるわけでしょうけれども、

そういう屋内の遊び。

それから屋外で遊ぶ鬼ごっこと

かかくれんぼというものもある。

しかしもう一つ、軒言葉とか軒遊びというのが

あると言っているんです。

それは中間を構成して、日本の遊びの中には

わりあいにどちらともつかない軒遊びみたいな、

それがあるんだということを盛んに、

どこどこの地方ではこういうのとか実例を

あげてやっているんですね。これはやっぱり、

この人はすげえ人だよなっていうふうに思っちゃいます。

遊びとか言語とかを幼児と成人のあいだで微細に

分類することは言語学者ーー社会学者もやならいですね。

そういうのは未知の分野のような気がして

しょうがないんですけれどね。

■養老

今のお話は、だんだん身体につながってくるような

気がしますね。

場の感覚から身体に移ってくるテーマだという気がします。

■吉本

人間の身体といった場合に、身体がどうしてこういう

形態なのかなということか、二本足で立っている

ということは必然だったのか偶然だったのかとか、

そういう問題がひっかかってきそうな気がするんですけど。

立ったというのは、別に根拠が

あったということじゃないわけですか。

■養老

これが一番問題になるところですね。

僕は無理矢理立たせたんじゃないかとか、

いろんなことを考えたことありますけれどもね。

仮に、生まれてすぐから親がいないで、

しかも食べ物も不自由しないし、何の不自由もない。

子供がそういう状態で勝手に育った場合に、

本当に立って歩くかというのは今だにちょっと

疑問に思っているんです。

狼少年は四つん這いで歩いているということがありますね。

確かにわれわれ、サルに比べて、足が、生後になって

ずっと伸びるんです。これも直立させなかったらどうなるか。

それからまた逆の例がありまして、

最近、よく分かっているのは、

ニホンザルの猿回しのサルですね。

猿回しのサルが、あれ、しょっちゅう

立つ練習をさせていますね。

立って歩くでしょう。

背骨の湾曲が人間と同じになってくるんです。

動物の場合、普通はきゅっとこう、シンプルな凸湾に

なっているんですけれども、ヒトは首のところで前に出て、

胸のところで後ろに出て、くるんです。われわれも

胎児の時はサルと同じだったんです。

だから、背骨が曲がるのは、別に遺伝的なものではなくて、

立って歩いているからだということ。

そうすると、本当に人間って立つのかなって。

どういう動物が立つかって見ていますと、

砂漠のネズミなんかは立ちますね。

要するに草原とか広いところに住んでいる奴は、

どうしても遠くを見ようと思うからふーっと立つんです。

吉本さんと前にお話しした臨死体験ですね。

あれ、どうでしょうね。上から見ていると

言いますでしょう。

■吉本

そうですね。

■養老

あの視点というのが、子供が立ち上がった時に

ガラッと世界が変わる、そういうところと何か関係ないか。

あるいは人間が立ったという時の視野の転換ですね。

■吉本

宗教的な人はまた違うことを言うんでしょうが、

僕は意識がだんだん死に近くなって減衰してきた時に、

原始的なというか、人間以前的なというか分かりませんが、

そういう視覚みたいなのが、実際起こる場所があるんじゃ

ないかみたいに理解したんです。

■養老

それが人間が立ったという歴史的な事実に関連があるか、

あるいは個体発生でいえば、四つん這いで這っていたのが

いつの間にか立ちあがって、視野の転換が起こったという、

その記憶はわれわれはもうないですけども、非常に深い所に

刷り込まれているかもしれません。それが臨死体験になると、

上から見ているという、なせかそういう感じが出てくる。

なんか関係がありそうな気がします。

■吉本

そうですね。立てない時期の赤ん坊というのは、

一年足らずでもあるわけですからね。

■養老

あれ、非常に不思議ですね。これは目じゃなくて、

おそらく耳かなというふうに思ったりするんです。

耳のほうが、ご存知のように跡まで残る感覚ですから、

それで視覚像を耳の方から再構成したりして。

■吉本

ああ、そうですか。先ほどの図で言われた、脳の視覚領と

聴覚領が重なったところが言語領で、その両側のこちらと

あちらではつながりがあるということですね。

■養老

ご存知のように、気を失う時に最後まで残るのが耳で、

正気に戻ってくる時に最初に回復してくるのは耳ですね。

だいたい臨死体験の時に、誰かが喋っているとか、

その内容とか、そういうのは伴っていませんか、

そのシーンに。

音が伴っていれば、多分間違いないという気がしますね。

■吉本

そうか、そうか。それは面白いですね。

■養老

耳のほうがしぶといんですね。目と耳を比較すると、

ニーチェがアポロ的芸術とディオニソス的芸術。

ディオニソスの方が人間を根底から動かすという。

それは日常的なことにも確かに出ている。

正気に戻る時に、音が最初に聴こえたという。

「大丈夫?」という声がまず聴こえるというんです。

それからバッチリ目を開けるという順序に

必ずなっているわけで。

全然話が飛んじゃうんですけど、最近日本人の身体感

ちょっと気になっていましてね。

一つは例えば心臓移植ですが、世界中で何千例か、

四千例か何かあるんですけれども、日本では一例しかない。

しかも医療技術としては充分できるようになっている。

こういうことがどういう発想から生じているのかなと思う。

それから天皇陛下の医療が問題になりましたけれども。

かなりこれは根本的な問題かなということなんです。

非常に荒っぽい考え方をしますと、まず、一つは

江戸時代から日本人はなかり強い唯心論じゃないか。

特攻隊なんかに典型的に出ているんですけど。

七生報国とかですね。

ああいうふうな生まれ変わりプラス唯心論。

身体と言語というのを考える時に、言語や思想と、

身体が完全に結びついているはずですから。

それからさらに宗教ですね。どういうふうに日本の場合、

それがつながって、論理的に説明できるのかなと。

■吉本

そのお話に関連したことで思い出しましたが、

僕はこのごろときどき鳥おじさんになるんです。

ポップコーンを買って不忍池へ行って撒いてやりますと、

カモなど水鳥が泳いできまして、

長いくちばしで争って喰べます。

集まってくるのも喰べるのも無条件なので、

孤独鳥おじさんの気分がとてもよく分かります。

ところでカモの泳ぎ方と、

くちばしを伸ばして喰べる仕方を

見ていルト、どこかで手を使うことを禁じられた人間の

生まれ変わりじゃないかと見えてくる時があります。

日本の仏教が空飛ぶ鳥じゃなくて

水鳥を、前世の今れ変わり、

輪廻の姿にみたてたのが、何となくわかるように

感じたりします。

これは案外自分の中にある

「もののあわれ」かなあ、

なんて思ってしまうんです。


「もののあわれ」ってことだと


自分が浮かぶものとして


鴨長明の方丈記、小林秀雄が語る本居宣長、


小津安二郎の映画、


黒澤明が師匠から教わった言葉などなど、


というか日本文化全般みたいな


印象があるので引いてみたのだけど。


それから、赤ちゃんと母との件も興味深かった。


言葉じゃない会話をしているとでもいうような


高次レベルのコミュニケーションとでもいうか。


吉本さんと養老さんって自分にとって偉人だから


読んでてエキサイティングな


対談だったけれど、大半は


自分の知識ではなかなか追いつけなくて


理解に及ばず悔しいですが、もう少し勉強して


再読する機会あれば


また感じ方変わってくるかな、と思った。


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