吉本隆明さん養老先生の32年前の対談 [’23年以前の”新旧の価値観”]
■養老
僕が日本語でもうひとつ気になっているのは擬音語です。
擬音語というか、擬音語と思えないような同じ言葉が
たくさんありますね。
「つくづく」とか「しみじみ」とか。
そういうのは、どうも英語に対応する表現がないような
気がするので、あれは何だろうなといつも不思議で。
韓国にはあるらしいんですけど。
■吉本
輪の中でいえば、副詞と感嘆詞の中間なんだと思います。
本当に微妙なものがありますね。
■養老
論理的に考えると、だんだんおかしくなるんですね。
「しみじみ」って何だ。何が「つくづく」だ。
どうして「つくづく」なんだってつくづく考えたこと
あるんですけど全然わからない(笑)。
■吉本
それから、日本語だけじゃないのかもしれないけど、
やっぱり問題になってかつ興味は深くて、
まだ人が誰もやっていないなと思うことは、
いわゆる幼児言葉というのでしょうか。
乳児言葉というのでしょう
か。本当言うと、
母親と自分の赤ん坊との間にしか通用しないで
「アバババー」とか、よく母親が言うと、
ニコニコッとする
とかいうのがありますね。
あの「アバババー」というのは何だろう、
乳児には通ずるから
笑うんだろうと思うんですが、なんで笑うんだろうとか。
音であろうが、目であろうが、
それがよく分化できてないのとか、
ありますね。それがあんまり人がやっていない気がします。
■養老
それが最初から話題の価値に
結びついているような気が、
直感的にするんです。
価値観というものもそれに似たものであって、
理屈にならないんだけれども
すっと通ってしまうものですね。
■吉本
柳田國男だけが僅かにそういうことに気がついて
一生懸命やっているんですね。
養老さんのご本の中で言うと、人間的ということは
一種の実態的象徴というのを持っているか、あるいは
持とうとするかどうかという欲求にかかっているんだと
おっしゃって、それは遊びから宗教まで
みんな入ってくるわけでしょう。
それはものすごく重要なことのような気がします。
柳田國男の言っていることで面白いと思うのは、
室内で遊ぶーー女の子なんか、昔でいえばおはじきとか
お手玉とかありますね。室内で今だったらパソコンとか
ファミコンとかになるわけでしょうけれども、
そういう屋内の遊び。
それから屋外で遊ぶ鬼ごっこと
かかくれんぼというものもある。
しかしもう一つ、軒言葉とか軒遊びというのが
あると言っているんです。
それは中間を構成して、日本の遊びの中には
わりあいにどちらともつかない軒遊びみたいな、
それがあるんだということを盛んに、
どこどこの地方ではこういうのとか実例を
あげてやっているんですね。これはやっぱり、
この人はすげえ人だよなっていうふうに思っちゃいます。
遊びとか言語とかを幼児と成人のあいだで微細に
分類することは言語学者ーー社会学者もやならいですね。
そういうのは未知の分野のような気がして
しょうがないんですけれどね。
■養老
今のお話は、だんだん身体につながってくるような
気がしますね。
場の感覚から身体に移ってくるテーマだという気がします。
■吉本
人間の身体といった場合に、身体がどうしてこういう
形態なのかなということか、二本足で立っている
ということは必然だったのか偶然だったのかとか、
そういう問題がひっかかってきそうな気がするんですけど。
立ったというのは、別に根拠が
あったということじゃないわけですか。
■養老
これが一番問題になるところですね。
僕は無理矢理立たせたんじゃないかとか、
いろんなことを考えたことありますけれどもね。
仮に、生まれてすぐから親がいないで、
しかも食べ物も不自由しないし、何の不自由もない。
子供がそういう状態で勝手に育った場合に、
本当に立って歩くかというのは今だにちょっと
疑問に思っているんです。
狼少年は四つん這いで歩いているということがありますね。
確かにわれわれ、サルに比べて、足が、生後になって
ずっと伸びるんです。これも直立させなかったらどうなるか。
それからまた逆の例がありまして、
最近、よく分かっているのは、
ニホンザルの猿回しのサルですね。
猿回しのサルが、あれ、しょっちゅう
立つ練習をさせていますね。
立って歩くでしょう。
背骨の湾曲が人間と同じになってくるんです。
動物の場合、普通はきゅっとこう、シンプルな凸湾に
なっているんですけれども、ヒトは首のところで前に出て、
胸のところで後ろに出て、くるんです。われわれも
胎児の時はサルと同じだったんです。
だから、背骨が曲がるのは、別に遺伝的なものではなくて、
立って歩いているからだということ。
そうすると、本当に人間って立つのかなって。
どういう動物が立つかって見ていますと、
砂漠のネズミなんかは立ちますね。
要するに草原とか広いところに住んでいる奴は、
どうしても遠くを見ようと思うからふーっと立つんです。
吉本さんと前にお話しした臨死体験ですね。
あれ、どうでしょうね。上から見ていると
言いますでしょう。
■吉本
そうですね。
■養老
あの視点というのが、子供が立ち上がった時に
ガラッと世界が変わる、そういうところと何か関係ないか。
あるいは人間が立ったという時の視野の転換ですね。
■吉本
宗教的な人はまた違うことを言うんでしょうが、
僕は意識がだんだん死に近くなって減衰してきた時に、
原始的なというか、人間以前的なというか分かりませんが、
そういう視覚みたいなのが、実際起こる場所があるんじゃ
ないかみたいに理解したんです。
■養老
それが人間が立ったという歴史的な事実に関連があるか、
あるいは個体発生でいえば、四つん這いで這っていたのが
いつの間にか立ちあがって、視野の転換が起こったという、
その記憶はわれわれはもうないですけども、非常に深い所に
刷り込まれているかもしれません。それが臨死体験になると、
上から見ているという、なせかそういう感じが出てくる。
なんか関係がありそうな気がします。
■吉本
そうですね。立てない時期の赤ん坊というのは、
一年足らずでもあるわけですからね。
■養老
あれ、非常に不思議ですね。これは目じゃなくて、
おそらく耳かなというふうに思ったりするんです。
耳のほうが、ご存知のように跡まで残る感覚ですから、
それで視覚像を耳の方から再構成したりして。
■吉本
ああ、そうですか。先ほどの図で言われた、脳の視覚領と
聴覚領が重なったところが言語領で、その両側のこちらと
あちらではつながりがあるということですね。
■養老
ご存知のように、気を失う時に最後まで残るのが耳で、
正気に戻ってくる時に最初に回復してくるのは耳ですね。
だいたい臨死体験の時に、誰かが喋っているとか、
その内容とか、そういうのは伴っていませんか、
そのシーンに。
音が伴っていれば、多分間違いないという気がしますね。
■吉本
そうか、そうか。それは面白いですね。
■養老
耳のほうがしぶといんですね。目と耳を比較すると、
ニーチェがアポロ的芸術とディオニソス的芸術。
ディオニソスの方が人間を根底から動かすという。
それは日常的なことにも確かに出ている。
正気に戻る時に、音が最初に聴こえたという。
「大丈夫?」という声がまず聴こえるというんです。
それからバッチリ目を開けるという順序に
必ずなっているわけで。
全然話が飛んじゃうんですけど、最近日本人の身体感が
ちょっと気になっていましてね。
一つは例えば心臓移植ですが、世界中で何千例か、
四千例か何かあるんですけれども、日本では一例しかない。
しかも医療技術としては充分できるようになっている。
こういうことがどういう発想から生じているのかなと思う。
それから天皇陛下の医療が問題になりましたけれども。
かなりこれは根本的な問題かなということなんです。
非常に荒っぽい考え方をしますと、まず、一つは
江戸時代から日本人はなかり強い唯心論じゃないか。
特攻隊なんかに典型的に出ているんですけど。
七生報国とかですね。
ああいうふうな生まれ変わりプラス唯心論。
身体と言語というのを考える時に、言語や思想と、
身体が完全に結びついているはずですから。
それからさらに宗教ですね。どういうふうに日本の場合、
それがつながって、論理的に説明できるのかなと。
■吉本
そのお話に関連したことで思い出しましたが、
僕はこのごろときどき鳥おじさんになるんです。
ポップコーンを買って不忍池へ行って撒いてやりますと、
カモなど水鳥が泳いできまして、
長いくちばしで争って喰べます。
集まってくるのも喰べるのも無条件なので、
孤独鳥おじさんの気分がとてもよく分かります。
ところでカモの泳ぎ方と、
くちばしを伸ばして喰べる仕方を
見ていルト、どこかで手を使うことを禁じられた人間の
生まれ変わりじゃないかと見えてくる時があります。
日本の仏教が空飛ぶ鳥じゃなくて
水鳥を、前世の今れ変わり、
輪廻の姿にみたてたのが、何となくわかるように
感じたりします。
これは案外自分の中にある
「もののあわれ」かなあ、
なんて思ってしまうんです。
「もののあわれ」ってことだと
自分が浮かぶものとして
鴨長明の方丈記、小林秀雄が語る本居宣長、
小津安二郎の映画、
黒澤明が師匠から教わった言葉などなど、
というか日本文化全般みたいな
印象があるので引いてみたのだけど。
それから、赤ちゃんと母との件も興味深かった。
言葉じゃない会話をしているとでもいうような
高次レベルのコミュニケーションとでもいうか。
吉本さんと養老さんって自分にとって偉人だから
読んでてエキサイティングな
対談だったけれど、大半は
自分の知識ではなかなか追いつけなくて
理解に及ばず悔しいですが、もう少し勉強して
再読する機会あれば
また感じ方変わってくるかな、と思った。