認知症になる僕たちへ:和田行男著(2008年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
著者は福祉の世界へ30代で転身され、
特別養護老人ホームなどで経験を積み
99年グループホームの施設長に。
後にNHK「プロフェッショナル(16年6月)」
にて独特の介護技術が紹介される。
最近はEテレで介護の番組で
市南役を務められていた。
お年寄りのことを「婆さん」と呼ぶのは
親しみを込めて、と言うのは有名な話。
生きること放棄 から抜粋
ある人が骨折して入院。
自宅に戻れる前に老人保健施設にやってきた。
施設での訓練が功を奏して歩けるようにまで快復したが、完全な状態ではない。
家族は自宅に戻る前に、トイレに連れていくのが大変だから紙パンツに慣らしてほしいと言うが、本人は絶対に嫌だと拒んだため、家族と本人と施設側で話し合って失禁パンツで折り合いをつけ自宅に戻ることになった。
退所後自宅に戻ってから、またその後再入院した時も、
別人のようになってしまい家族や職員に
手を振りかざしコミュニケーションを拒否され、
食事も摂らなくなり、点滴も拒んでしまわれる。
職員たちは「なんでやろ」と思案し、改めて原点に立ち戻って本人の話を聞くことが大事ではないかといろいろと試みた結果、
「どうせ家族は俺のことを見捨てたんだろ」
と胸の内を語ってくれたのだ。
彼はこの日の告白以来心を開き始め、
「○○が食べたい」
と言ってくれるようになった。
どこまで探っても本当のことはわからないし、
「だろうとか、そうじゃないか」
程度のところにしか行き着けないが、人が生きていくことを下支えしているのは、知的な能力や身体の能力だけでなく”こころ”があること、そのこころを取り巻く環境があること、その環境の一員に自分がいることを忘れずに支援していきたいものである。
「認知症」という言葉になって
良かったと感じることが
時折あり、語りやすくなっていると。
暗い側面のあったこの言葉の元が
かえたことで社会に開かれたっていう
ネーミングの妙というのは確かにある。
「痴呆」「ボケ」というのは、
非公式の場では今もたまに使われるけど。
「認知症」という名称変更の検討段階で、
政府機関と意見を交換されてきた和田さん。
「認知症」という名を創って
世に広めた一人と和田さんのことを
称しても言い過ぎではないのでは
ないだろうか。
安心して”認知症”になれる?
ばかげたことをする人 その「扱い」から抜粋
厚生労働省は「痴呆」という呼称を変更する検討委員会を立ち上げ。
2004年12月に「認知症」へと変更する結論を出し、全国の行政など関係機関に通知した。
僕はこの検討委員会第一回目の会議に参考人として呼ばれ、痴呆呼称が変更されることについての賛成の立場から意見を述べさせてもらった。
介護保険制度により事業化されている痴呆対応型共同生活介護(一般的にはグループホームと呼ばれている)は、認知症対応型共同生活介護となった。
医療の世界では痴呆という呼称は残され、アルツハイマー型痴呆などはそのままになっている。
今後医学会で議論されていくことだろう。(2007年当時)
現に統合失調症の前が精神分裂病で、その前が早発性痴呆ということを考えれば、未来が見えてくる。
僕は、痴呆は二つの意味を持つ言葉であると言い続けてきた。
ひとつは、痴呆とは
「原因疾患により脳が器質的に変化し、そのことによって知的能力が衰退し生活に障害をきたした状態」
というような医学的な意味で、人によって違った言い回しはするが、痴呆の病態を現したものだ。
これは言い方は間違っているが、専門書や行政パンフレットなどでお目にかかることが多い言葉の意味である。
もうひとつは、
「ばかげたことをする人」
という意味である。
痴呆老人とは
「ばかげたことをする年老いた人」
ということである。
ちなみに最近注目されている若年性認知症は、認知症へと呼称変更されていなければ、老人ではないので”痴呆老人”とはならず、”痴呆人”と呼ばれていたことだろう。
と指摘してのはおそらく僕だけである(エヘン)。
呼称が変わった当時は
「認知症って呼称についてどう思うか」
とか
「認知症という呼び方は正確ではないと思うがどうか」
とよく質問されたが、
「認知症という呼称がどうかよりも、痴呆=ばかげたことをする人という呼称が人の前にどかっと居座る(痴呆老人)ことがなくなることに意味があるんやで」
と答え、合わせてもっと重要なことは、呼ばれ方もさることながら
「ばかげたことをする人扱い」
されているところに根源の問題があると指摘してきた。
認知症のことを知っている専門職が
「ばかげたことをする人扱い」
「問題行動扱い」
するくらいだから、一般の人が認知症に対して誤解や偏見視するのは無理もない。
専門職が施設に閉じ込めることに抵抗がないくらいだから、市民が
「何をしでかすかわからないから」
という理由で婆さんを施設から外に出すなと言うのもわかるし、施設の建設に反対するのもわかる。
またもうひとつの代表格が
「できない人扱い」だ。
生活行為のほとんどのことを取り上げてしまう社会福祉制度や専門職たち。
言葉だけでは
「尊厳」「生活」「自立」「本位」
などが多用され心地よくはなっているが、生活の主体性は奪われたままの姿が目立つ。
どこに行っても受動的な姿の婆さんだらけである。
痴呆が認知症に呼称変更されたことで、誰もが語りやすくなってきたように思う。
それはとても良かったことであり、素直に”痴呆老人”が社会的に抹殺されたことを喜んでいるが、まだまだ社会的にも僕ら専門職にも課題がいっぱい残っている。
みんなと知恵を出し合って、認知症になっても
「人として最期まで生きていける社会」
にして生きたと本気で思っている。
思うところで・できることから、「扱い」はやめよう。
先月読んだ、
フランスのイヴ・ジネストさんを思い出す。
生存機能を奪ってしまう日本の施設での
介護の支援方法。
日本の介護はやりすぎ支援で結果的に
高齢者には良くない、とは指摘されるところ。
「年寄り扱いするんじゃないよ!」と
言うのは別の国の介護の書籍でも
指摘しているところだった。
とはいえ、現状日本でのやり方というのも
行政・事業会社によって異なり
現場の浸透を考慮するに今の運用を
ドラスティックに変えることは
ままならないだろうけど、でも
意識するというのは大切だと思う。
看取りシステム ひとで・なし
から抜粋
日本には医療保険制度があります。
これは、いつ、どこで、どんな形で壊れても、修理をする仕組みをつくっていけるということです。
だから東京に住んでいる僕が北海道に行って壊れても、沖縄へ行って壊れても、修理することができるわけで、必要な時に必要な分だけ適正な医療が提供されることが保障されているという信頼の中で、僕らは税金や保険料を払っているわけです。
ところがそれが、この国では歪んでいます。
自宅に住んでいる場合なら受けられる医療が、グループホームや特別養護老人ホームに入居すると、システムが同じように使えない状況になっています。
訪問介護を例にとると、医師が必要と判断し自宅で受けていた訪問看護が、グループホームに移り住むと受けられなくなる。
今回の医療連携体制加算なんていうのは”まがいもの”で、本人にとって必要に応じて受けられる仕組みになっているわけではありません。
選択肢もありません。
医療連携体制が制度化されたから良しということではなく、まだ発展途上にあると良いと思っています。
人が壊れる存在である以上、住む場所が自宅であろうと、グループホームであろうと、必要に応じて医療が受けられるようにするべきです。
また、医療機関側にも適切な医療を必要な分だけ提供しているという信頼性を高めていってほしいし、私たちグループホームの側も、この人にはこれが必要だということをきちんとマネジメントできるようになることが必要だと思います。
生活支援に"死は織り込み済み”が基本 から抜粋
これからのシステムとして「看取り加算」とか「重度加算」とか、いろいろと言われていますが、その考え方には欠陥があると思います。
看取りや重度といわれる状態になってから加算をつけるということは、事業者にとっては見取りや重度の状態をつくるほど収入が増えるという仕組みになってしまうからです。
人が生きることを支える事業なら、見取りの状態にならないために金を使うべきであり、生きるということ(生活)の中に”死”を組み込んだ形で考えていくことが大切なのではないでしょうか。
看取りは想いだけで語ってはならない から抜粋
看取りは想いだけでは語ってはいけないし、そこだけを抜き取って考えられるものでもありません。
必要不可欠なバックアップとしての医療を含めて、その人がそこで生きていくことをどう支えられるかということを、国づくりとして、社会づくりとして考えて、切り拓いていく必要があるのではないでしょうか。
和田さんとNHKのディレクターで上梓されていた
ダメ出し認知症ケア(2015年):和田行男・小宮英美共著
という書籍が、和田さんを知ったきっかけで
介護業界のこと、本音や建前など
お二人の反権力っぽい性格が露呈されてて
興味深く拝読。
福祉・介護系の一般書はほぼ初めてだったが
いまだに忘れられない。
今日紹介させていただいた書籍は
元がブログからで、今も継続されていて
たまに拝見しております。
本は上梓されてから、15年も経つので
制度やシステムや処遇など
変更されてて、良い方向にも行っている
ところも多々あると思うけど、
まだまだ改善が遅れているように
感じておりまして、他国の福祉状況などが
気になります今日この頃なのでした。