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楽しき挑戦・型破り生態学50年:伊藤嘉昭著(2003年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

楽しき挑戦―型破り生態学50年

楽しき挑戦―型破り生態学50年

  • 作者: 嘉昭, 伊藤
  • 出版社/メーカー: 海游舎
  • 発売日: 2003/03/01
  • メディア: 単行本
表4にある解説

早稲田大学教授 長谷川眞理子

から抜粋

日本生態学会の風雲児、伊藤嘉昭先生の破天荒な人生を綴った痛快な自伝。
何からなにまで型破り。
安全志向の今の人たちには想像もつかないような、綱渡り人生なのに、本人は少しもくよくよしていない。
メーデー事件に巻き込まれ、拘置所で過ごしたり、休職が長く続いてヒモ暮らしをしたりなのだが、お育ちの良さと性格からくるのか、洒落た雰囲気の明るさが常に消えないところが面白い。
それにしても、こんな先生を支えた奥様はすごい!
ぜひ、奥様からの回想記も知りたいところだ。
伊藤先生の力の源泉は、不正に対する怒りと軽べつ、権威に対する反抗である。
「東大に対する悪口を言い続けることが、今の私の存在意義だ」
とおっしゃるほどなのだから、堂に入っている。
陰湿な怒りではなく、溌剌(はつらつ)とした「明るい」怒りは、人を動かしていく大切な原動力なのだ。
もう一つ、本書からにじみ出てくるのは、伊藤先生の学問に対する熱意と真摯さである。
共産党運動がなんであれ、先生は根っからの科学者だ。
科学に対する、この正直で謙虚な態度が、先生を科学者として発展させてきたのに違いない。
若い人たちに是非読んでもらいたい、近ごろは化石のように珍しくなってしまった、一昔前の日本の男の人生である。

まえがき から抜粋

私には「名古屋大学名誉教授」という肩書きがあるが、私の経歴は他の方の似た肩書きの人たちと非常に違っている。
第一に、私は大学を卒業していない。
1950年20歳で東京農林専門学校を卒業し、すぐ農林省(当時の名称)の農業技術研究所(昆虫科)に就職したのである。

特権官僚の頂点の一つの外務官僚のひどさが数年前報じられた。
その中でも捕まったノン・キャリアよりもずっとたちが悪いのはキャリアたちだと思う。
上級公務員試験合格者から上級官僚を選抜する方式が定着して、最近は東大以外を出た「キャリア」もいるようになったが、現在も新聞の人事記事で見ると官庁の局長以上の90%くらい、当時は95%以上が東大で、それも法学部・経済学部出だった。
どんなに東大出がいばっているか、そしてどんなに悪いことができるかを、私は22年間の農林省時代につぶさに見てきた。
東大出でも農学部出身はそんなに偉くなれない。
しかし研究機関の長の大部分を占めていて、研究をゆがめてきたのはこの連中だった。
東大を出ながらその立場を事実上捨てた人たちにはすごく出来る人がいて、良い友人もいるが、東大の悪口をいうことは私の生きる目的とさえなっている。

第二は、農林省に入って2年後の1952年5月1日にあった戦後最初の反米集会への弾圧に巻き込まれて、逮捕・起訴され、17年も裁判をされたことである。

この日はメーデーで、農業技術研究所からも労働組合員百人近くが参加したが、このときでも参加者の一部が、終戦直後には使えたのにアメリカ占領軍が集会へ使用を禁止してから使えなくなった皇居前広場へと行進し、そこで発砲を含む警官の弾圧を受けて二人が死亡し、広場から逃げてきたデモ隊員が広場の周りの道路に駐車中のアメリカ軍の車に放火をするという事件が起きたのである。

我々農林省の組合(全農林)のデモの順番はメーデー行進の後ろの方だったので、広場にはもう入れず、日比谷公園で解散して、堀わきの道路に出た。
ところがその時がちょうどデモ隊が広場の中から逃げてきたところだったのだ。
突然のこの状況に中で私はデモ隊を追ってきた警官に殴られて重傷を負った。
そして血だらけで近くの診療所に行って治療をし、仲間とタクシーで帰る途中、警官に止められて逮捕されたのである。

「メーデー事件騒擾(そうじょう)罪」と呼ばれたこの裁判の被告は約250人だった(逮捕者は数千人いたと思うが、そのうち約250人が起訴された)。
我々は足立区の小菅にある東京拘置所(田中角栄元首相も入ったところ)に送られ、八ヶ月から一年拘留された。
保釈が許されたのはそのあとで、私の保釈は翌年一月中旬、九ヶ月近く拘留されたことになる。
裁判はすごく長く続き、一審判決が出たのは17年後のことだ。

起訴と同時に私は農林省を休職となり、給与は当時の月給の6割(約一万円)、ボーナスなし、昇給なしとなった。
この休職は16年続いた(判決の一年前に復職させてくれた)。
でも農業技術研究所の昆虫科が私が研究室に出入りして研究するのを許し、釈放の翌年結婚した妻が養ってくれたので研究を続けられたのである。
第一審判決では騒擾罪は成立し、大部分の被告は有罪となったが、私は「証拠不十分」で無罪となった。
しかし1972年にあった第二審判決では騒擾罪そのものが否定され、全員無罪となり、しかも日本の大きな事件ではあり得なかったことなのだが、検察庁が控訴を放棄したので、無罪は最高裁に行かずに確定し、これでメーデー事件は労働者・学生が起こした騒擾ではなく、警官の暴力的弾圧で起きたものであることが確定したのである。

メーデー事件裁判で私が一審無罪になって間もなく、当時大阪市立大学におられた植物生態学者の吉良竜男さんが私を動物生態の教師に推薦してくださり、教授会で可決された。
ところが大阪市長が(実質的には大阪市の官僚上層部だろうが)
「無罪といっても証拠不十分の無罪じゃないか。そんな人間を採る必要はない」
と言い出し、最後は
「他の教員より7号棒低い給与でよければ採用して良い」
と言い出すという事件が起こった。
私は採用を断り、裁判で若いうちにできなかった国費による外国「留学」をした。
「大学に行けるなんて良い機会だ。断るな」
という友人も多かった。
もし行っていたら、早く教授になり、生態学会でもっと重要な役をしていたろう。
しかし断って農林省にいたので、巨額の予算を使った不妊中放飼によるウリミバエ根絶事業の中心者になれ、日本「復帰」直後の沖縄で暮らすことができた。
このほうが私らしくてよかったかな、と思っている。
なお、先に官僚の悪口を書いたが、元「休職者」の私に農林省の歴史上最大の予算をくれてウリミバエの仕事をさせた人たちなどもいた。
こういう勇気あるノン・キャリアの人たちのことも8、9章に書く。
受験(お受験!)が少年・少女の最大の課題となってしまった今日、そして大学を出ても父は企業の単なるひとこまであり、残業、接待、単身赴任で子供と食事もできぬ生活が待っている今日、こういう変わった経歴の人間がどうやって「研究」で生活してこられたかを書いてみたい。

警察のでっち上げ逮捕あり、

仕事休職16年間、さらに

キャリアからのいやがらせ、出世・仕事妨害って

凄すぎる。


書籍名は『楽しき挑戦』じゃなくて

普通は『恨みはらさでおくべきかエリートども

だろう。

世を拗ねて暗い目でジメッとしても

誰も責めることできないすよ。


そんな狭い了見の人じゃないのだね。

「人を呪わば穴二つ」を無意識にでも

ご存知なお方なんだろね。


キャリアたちの悪さってなんだろう。

なんとなく想像つくような。

最近だと赤木ファイルみたいなのかね。

あれは財務省だったけど

許せないとしか言いようがない。


話もどって、伊藤さんの素敵な所って

ご自分の研究の成果というか

仕事とか着想の凄さとかで

諸々の悪条件の中でも

跳ね除ける様が淡々と書かれてて痛快。

これが本物の研究者、というような。


昆虫の研究とか沖縄の食糧を荒らす

ウリミバエ根絶への傾注、

枯葉剤への環境・健康被害、

イデオロギーと研究との相関っぷりなど

多くのページを割かれておられる。

自分は残念ながらそこら辺りには

実はあまり関心は薄いのだけど

伊藤さんスピリットというか反骨精神が

チラチラみえてて興味深い。

以下のエピソードからも巨人の片鱗が伺える。


2章 昆虫好きになるまでの道

終戦後 から抜粋

酒と煙草を試したのは13歳の時だ。
酒はとてもおいしくて「一生飲もう」と思ったが、煙草はまずくてやめにした。
実はこの時代には
「男は煙草を吸うのが当たりまえ」
という空気があり、中学生は嫌なのをこらえても煙草を「習った」ものだったが、私はその頃から無理に人と一緒に行動することが嫌い
「まずいものは習ってまで飲まない」
と決めたのだ。
その後今に至るまで酒は飲み続けているが、喫煙はしたことがない。

第五章の生態学者の今西錦司さんとの

邂逅も興味深い。

20歳だった伊藤先生が(今西さんは40代後半)

会いたいと手紙を書いたら

すぐに会っていただけて

「君の仕事には数学が必要だろう」って

研究を支えてくれる凄腕達まで紹介いただき

没頭されていた「アブラムシの増殖と移動」

から研究の幅と厚みを広げてゆくという話も

面白かった。

その後、世界各地を回りながら

他国人種との交流で仕事の質を

上げていかれるご様子も素晴らしい。


研究者とか学者っていいなって思うのは

成果だけで評価されつながっている様で

本来それが本当の仕事だと思うのだけどね。

学者には学者の苦労があるのは

養老先生が語ってらしたけど。

僭越ながらそれは現代なら

どこでもつきものかと存じます。

いずれにせよ、一つ言えることは

肩書きや地位とか場所に安住しての

仕事や権威とかって、忖度だらけで

魅力ないと自分なぞかねがね思う質でして。


共産主義・社会生物学・9・11

あとがきにかえて から抜粋

共産主義をあきらめたのは1980年代である。
「社会生物学」を勉強するなかで、人間の心理は教育、文化だけの所産ではなく、霊長類時代を通じて進化の中で得てきた性向も少なからず(といってもウィルソンが考えたほど多くはないと思うが)残留していると考えるようになり、レーニンが想像した、
『経済的利益のためでなく「喜び」のために人々が働く社会』
はあり得ないと思うようになったのである。
思想の転換には10年くらいかかったろう。
沖縄大学での講義用に作った
『生態学と社会 経済・社会系学生のための生態学入門』
のなかに、私はこう書いた。

「問題はわれわれがどれだけ動物的遺伝を保持しているのかをまだ知らぬことだが、もしそれが意外に大きいとしても、またそのなかに人間の平等・自由の観点から見て好ましくないものがあるとしても、だからと言って真実を知ることを妨げてはならないと思う。
…日本の親子二代続く政治家・経営者の多さはもとより、共産主義国にも、本来あり得ない、血統王制としか見えぬ政治が登場したりするのを見ると、私は人間も多分に動物的過去を持っていると思う。
しかし、だからといってこれを肯定するのではなく、それを認識することによって抑制するための法制・教育・文化的方法を整備することもできよう。
社会主義国の失敗のもともとの原因は、マルクスら革命理論化における人間の善意への過度の信頼にあったのかもしれない」

私のこの思想変化は、今の資本主義世界のあり方を承認することでも、日本の政治のあり方を是認することでもない。
私はジョージ・ブッシュはアメリカ史上最悪の大統領だと思う。

9・11テロにアメリカ国民の怒りが沸き立っている中で、彼はアフガニスタン侵攻に踏み切っただけでなく、彼がテロの指揮者とみなしたビン・ラディンと直接の関係が証明されてもいないイラクを攻撃する計画を立案させ(この本が出るまでに実行されないことを祈るのみである)、タリバーンの捕虜を戦時捕虜としても一般犯罪者としても扱わずキューバ基地内に幽閉し、爆撃でたくさんのアフガニスタン市民が死んでもごく最近あった結婚式場攻撃まではそれを認めることもせず、そしてかつてはアメリカ政府も表向き批判したであろうイスラエル軍によるパレスチナ自治区への乱暴な攻撃を認めているのだ。

で述べたように、
『今回の自爆テロは「文明の衝突」などではなく、「テロ国家の親玉」アメリカに対する別のテロ集団の挑戦』
なのである。
チョムスキー同様、私はテロには反対だ。
イスラエルに対するパレスチナ過激派テロも。
そこで死ぬ大部分の人は軍人ではなく一般市民、特に女・子供だから。
しかしイスラエルがしていることもまさにテロである。
国がしたらテロといわないのか?

本来なら、日本こそがアフガニスタンにもっと良い介入ができたのだった。
なぜなら日本は世界唯一の、一度も中東諸国を攻めたことのない大国だからだ(日本が日露戦争でロシアに勝った時、
「アジア人も白人に勝てるのだ」
と、トルコなどで喜びの声が湧き上がったという。私は農研にいた頃トルコからきた人にこれが事実であることを聞いた)。
しかし小泉首相は100%アメリカを支持し、国防以外の仕事はできないはずの自衛隊、そして重装備のイージス艦の海外派遣までした。
ドイツやフランスがタリバーン攻撃を支持しつつもアメリカのイラク攻撃計画を批判し、国連安保理でのフランス代表の演説には傍聴席をうずめた各国代表が総立ちで拍手をしたというのに、日本だけが何一つ批判をせず、露骨にアメリカを助けている。
なんと情けない政府であろうか。
私は『非戦』を編纂した坂本龍一さん、巻頭に「私はブッシュの敵である」を入れた
単独発言99年の反動からアフガン報復戦争まで』を出された辺見庸さんの勇気を讃えたい。
今世界の、そして日本の青年がすごく危険な状況下にあるのだ。

資本主義への一定のコントロールを含む政治・経済と、アメリカ一国による世界経済支配をやめさせる方向の探索なしには、未来はないと思うが、70歳をだいぶすぎた有名人でもない人間にできることなどほとんどない。
「生態学しかやってこないで経済も政治も勉強したこともないのに何をいうか、大体本の中身とろくに関係ないじゃないか」
といわれることを覚悟して、この文章をあとがきのかわりとしたい。

伊藤嘉昭さんは、2015年に85歳で

亡くなっておられる。


稀有な伊藤さんの精神性は

多くの学者に研究結果と共に

遺伝子の如く継承されているよう思う。


遺言のようにも響いてしまう渾身の

「あとがき」には戦争体験者にしか

語れない言葉でもあり、しびれます。


その後伊藤さんのいない世の中は、

グローバリゼーションの強化、

日本でのオリンピック開催、

アジア発世界的なコロナ感染、

ロシア・ウクライナ戦争、となり

伊藤さんがもし今いたらなんというだろうかと

興味深いのだけど。


余談だけど農林省については

戦前まで遡ること

三島由紀夫さんのお父さんも

勤めておられ大蔵省に常に

見下げられての処遇ゆえ

屈辱を味わっていて

日頃の鬱憤を晴らすべく

英才教育で三島由紀夫さんを育て

大蔵省に入省させたが

三島氏1年で辞めて作家になったのは

有名な周知の事実。


故石原慎太郎氏曰く

「大蔵省の役人なら代わりはいるが、

小説家三島由紀夫の代わりはいない」と

記していた記憶がある。


その流れでいくと

伊藤先生も「余人を以ては代えがたい」

仕事をされていたのだろうな。

それゆえなのか、もともとなのか

わかりかねるけれども

お人柄は前人未到で規格外な

魅力ある男性だったことは

想像に難くない。


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