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医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い:中村哲・蓮岡修(2001年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

医者 井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い

  • 作者: 中村 哲
  • 出版社/メーカー: 石風社
  • 発売日: 2001/10/20
  • メディア: 単行本

井上ひさし先生の紹介本を


読んでみました。


アフガニスタンの状況と同時に重要だと


感じたのが西欧化した近代との軋轢で。


2001年発行なので、


この時点ではまだ同時多発テロは


起きていなかった。


まえがき から抜粋


これは2000年6月から始まったアフガニスタン大旱魃(かんばつ)に対するPMS (ペシャワール会医療サービス)の、一年間の苦闘の記録である。

2000年夏から、ユーラシア大陸の中央部は未曾有の大旱魃に見舞われた。

この恐るべき自然の復讐とも云うべき世紀の大災害は、ほとんど伝えられていない。

規模の大きさだけでなく、それは地球環境の激変の兆しであった。

にもかかわらず、時たま小さな記事で取り扱われただけである。

その範囲は、アフガニスタン全域、パキスタン西部、イラン・イラク北部、タジキスタン、ウズベキスタン、モンゴル、中国西部、北朝鮮、北部インドと広大な地域にわたり、六千万人が被災した。

中でもアフガニスタンが最も甚だしく、千二百万人が被害を受け、四百万人が飢餓に直面、餓死寸前の者百万人と見積られた(WHO、2000年6月報告)。

これによって、アフガニスタンは、戦乱と旱魃という二重三重の困難に直面した。

加えて、2001年2月に「国連制裁」が発動され、状況はさらに悪化している。


東西冷戦時代は「熱い冷戦」の舞台となり、アフガン戦争(1979~92)が勃発、六百万人の難民と推定二百万人の死者を出した。

その余韻はなお内戦の継承として続いている。

1996年以降、新興の軍事・宗教勢力、タリバン(イスラム神学生)が国土統一を進め、現在9割を支配下に治めている。

タリバン政権は保守的なイスラム的習慣法を全土に徹底し、それまでの無政府状態を忽ち収拾、社会不安を一掃した。

これは殆ど下層民と農民が歓迎したが、西欧化した都市上流階級は国外へ逃亡した。

国際社会は「非民主的なテロリストの国」としてタリバン政権を認めず、一握りの反タリバン軍閥に膨大な武器支援をしているため、内乱は長引き、国土復興が著しく遅れている。

これに加えての旱魃はアフガニスタン国家の解体へと発展し、近隣諸国にもその混乱が及ぶ可能性が十分にある。


さて、われわれは名のとおり医療団体であるが、この未曾有の大旱魃に遭遇して早急な水源確保の対策を迫られた。

それまでと同様、「アフガニスタン」は殆ど情報世界から遮断された密室であった。

かろうじてWHO(世界保健機構)、ユニセフ(国連児童基金)などの国連機関が2000年5月頃から警告を発して続けていたものの、まともな国際的対応は皆無であったと言ってよい。

私たちは、赤痢の大流行で幼い命が次々と奪われるのをアフガン国内のPMS診療所で目撃し、問題が旱魃による飲料水の不足によることを知った。

問題は赤痢以前であった。

飢饉で栄養失調になった上、半砂漠化して飲料水まで欠乏すれば、コレラ・赤痢などの腸管感染症で容易に落命するのである。

旱魃地帯では農民たちが続々と村を捨て、流民化していた。

医師たる私がいうべきことでなかろうが、

「病気は後で治せる。ともかく生きのびておれ!」

という状態であった。

何はさておき、飲み水を確保して住民の生存を保障することが急務であった。


われわれは数字に麻痺している。

「百万人が餓死」

などと、報告書では簡単に言えるが、実際の修羅場を目前にすれば、生やさしいものではない。

それに診療地域が無人化すれば、医療も何もなかろう。

ペシャワール会=PMS全体の撤退に発展する可能性も出てきた。

私たちとしては現地活動の死命を制する事態と見て、過去最大の活動を旱魃対策においたのである。


2001年8月末現在、作業地600ヶ所、うち512ヶ所の水源が利用可能、約二十万人以上の難民化を防止するという一大事業となった。

所によっては、戦乱と渇水で一旦無人化した地域を再び緑化し、一万数千名を帰村させるという奇跡さえ現出したのである。

作業地はなおも拡大している。

2001年3月からは、国連制裁と対決するタリバンを恐れ諸外国の団体が次々撤退し始めた。

私たちは情報の密室の中で行われた「国連制裁」に意を唱え、避難民が集中する首都カブールに、二月から五つの診療所を新たに開いた。

この間、職員の殉職者二名、負傷者五名、半ば孤立無縁の絶望的な戦いを続けている。


だが、現在進行するアフガニスタンの事態は、やがて自分たちにもふりかかる厄災の前哨戦である。

今、知られざるアフガニスタンの現実と人々の動きを伝えることは、無駄ではなかろう。

国際政治や環境・経済問題にとどまらず、大きくは人間と自然のかかわりから人類の文明に至るまで、様々な意味で、示唆を与えるものが含まれているからである。


仏跡破壊のあった地でも医療所を


開設するため奔走している際に、


タリバン兵士から拘束され、


日本人と説明すると釈放されたという


記録もされている。


医師として診療所開設だけでなく、


井戸も、緑化も、継続した支援をしていく姿が


頭が下がるという言葉だけでは全く足りない。


それ以上に日本人である自分に


響いた言葉を引かせていただきます。


第十章 憂鬱の日本 


平和日本の憂鬱 から抜粋


2001年3月28日、一応の見通しをつけた私は、日本での懸案を片付けるために一旦帰国した。

旱魃の危機を訴え、現地救援の財政を安定させることが主な目的であったが、この一年間というもの殆ど勤務先を空け、まっとうな奉公なしに食わせてもらってきたという後ろめたさが、重い精神的負担となっていた。

なんとか後願の憂いを断ちたかったのである。

だが、私を待っていた報道関係者の関心は、一部を除くと殆どがバーミヤンの仏跡破壊問題に集中していた。

たまにタリバン政権を揺さぶっているという政治的動きが伝えられただけである。

まるで抜き身のままいきなり帰ってきた自分が、背景から浮き立つ時代錯誤の人間のようであったが。

別に意味で日本社会も甘くはなかったのである。

日本全体が一種の閉塞感に悩んでいた。

しかし、私が帰国して感じたのは、あふれるモノに囲まれながら、いつも何かに追いまくられ、生産と消費を強要されるあわただしい世界であった。

確かに澱んだような閉塞感で往時の活気はなかったが、私には不平や不満の理由がよく解らなかったのである。

「飢えや渇きもなく、十分に食えて、家族が共に居れる。それだけでも幸せだと思えないのか」

というのが実感であった。

生死の狭間から突然日本社会に身をさらす者は、名状しがたい抵抗と違和感を抱くだろう。

美しい街路には商品があふれ、デフレであっても決して生活が逼迫しているとは見えない。

餓えた失業者の群れが溢れている訳でもない。

携帯電話を下げた若者、パソコンの大流行、奇抜なファッションで身を飾る一群の世代の姿は、異様であった。

「この国の人々は何が不満で、不幸な顔をしているのだろう」

と思った。

しかし、そんなことを述べたら、偏屈者として嫌われるだけだ。

私も年をとったのか、無用な論議に口を挟むのが億劫になっていた。

あの飢餓・旱魃・戦火について、いかに説明を尽くしてもわかるまい。

仏跡破壊やタリバンについてもそうであった。

沈黙にしかざるはない。

まるでガラス越しに見るように日本人の生活のさまを見ていた。


平和こそ日本の国是 から抜粋

折りから政権の交代劇で、森内閣から小泉内閣が誕生した。

支持率85%、驚異的だと報道されたが、ガラス越しの私は素直になれなかった。

国民の不満のカタルシスとして登場したのだろうが、「日本国民の不満」とは何であったのか。

平和憲法の改正が俎上に上がるに及んで、その軽率に複雑な思いがした。

確かに平和は座して得られる消極的なものではない。

しかし、戦後、米国の武力で支えられた「非戦争状態」が、本当に「平和」であったとはいえないのだ。

朝鮮戦争を想起せずとも、日本経済は他国の戦争で成長し、我々を成金に押し上げた。

日本開闢以来、今ほど日本人が物質的豊かさを享受した時代があっただろうか。


日本国憲法は世界に冠たるものである。

それはもう昔ほど精彩を放っていないかも知れぬ。

だが国民が真剣にこれを遵守しようとしたことがあったろうか。

それは何やら、バーミヤンの仏像と二重写しに見えた。


仏像破壊についても言いたいことがあった。

「偶像崇拝」で世界が堕落しているのは事実なのだ。

「偶像」とは人間が拝跪(はいき)すべきでないものの意である。

アフガニスタンの旱魃が地球温暖化現象の一つであれば、まさに人間の欲望の総和が、「経済成長」の名の下で膨大な生産体制を生み出した結末であった。

さらに、打ち続く内乱は、世界戦略という大国の思惑と人間の支配欲によるものである。

そして、世界秩序もまた、国際分業化した貴族国家のきらびやかな生活を守る秩序以外のものではなかろう。

かくて、富と武器への拝跪・信仰こそが「偶像破壊」であり、世界を破壊してきたと言えるのである。

この意味において、タリバンの行動ーー偶像破壊を非難する資格が日本にあると思えなかった。

平和憲法は世界の範たる理想である。

これを敢えて壊(こぼ)つはタリバンに百倍する蛮行に他ならない。

だが、これを単なる遺跡として守るだけであってもならぬ。

それは日本国民を鼓舞する道義的力の源泉でなくてはならない。

それが憲法というものであり、国家の礎である。

祖先と先輩たちが、血と汗を流し、幾多の試行錯誤を経て獲得した成果を、

「古くさい非現実的な精神主義」

と嘲笑し、日本の魂を売り渡してはならない。

戦争以上の努力を傾けて平和を守れ、と言いたかったのである。


仏跡破壊を批判することは簡単だ。


そうしなければならない裏を読んでほしい。


と自分には聞こえる。


小泉政権が、軍事連携を米国と始めた頃


最終的に戦争加担に舵を切ろうとした時期。


小泉さんは忖度政治の一部を破壊した事は


高く評価されるべきと思うけれども。


忖度政治こそ、日本古来の文化じゃい


というのはもはや、伝統的ともいえず


古い価値観としか言わざるを得ない。


中村さんに話を戻し


過酷なアフガンで従事されていたからこそ


日本人には見えないものが見えていた。


地球温暖化の視点から経済成長への疑問、


さらに平和憲法の重要性を説かれておられる。


今読むと中村医師の遺言のようにも響く。


命、そして水が確保されることが最優先と


痛烈な日本・西欧への批判・提言。


西欧の没落 から抜粋


「人権侵害」を掲げる欧米諸国のタリバン非難は、日本国民の中にも多くの賛同者を得ていた。

しかし、その多くは、ブルカ(女性のかぶりもの)を性差別だと排撃したり、伝統的な習慣法を野蛮だと避難するものであった。

先に述べたように、米国による女性救済策、「アフガン人女性の亡命を助ける計画」は、ごく一握りの西欧化した上流階級の女性だけに恩恵が与えられた。

これは、グローバルな「国際的階級分化」である。

途上国の富裕層が西欧化し、先進国国民と隔たりがなくなったとき、彼らはいとも簡単に祖国を捨てて逃げ出すことができる。

そして彼らの声のみが、徒(いたずら)に大きく、世界に説得力を以って伝えられたのである。

外電によるとパリでは、「反タリバン・キャンペーン」がヒステリックな様相を帯び、市中の女性の銅像にブルカを被せるなど、挑発的なものであった。

だが私に言わせれば、汗して働き、社会を底辺から支える殆どの農村女性の権利は考慮されなかったのだ。

露骨には言わぬが、「意識の低いやつらは措いておけ」ということなのだろう。

逃げ場もなく、あの旱魃の最中で、水運びに明け暮れ、死にかけた我が子を抱きしめて修羅場をさまよう女たちの声は届くべくもなかった。

いや、女だけではない。

一般民衆の声は総て届かなかった。

第一、外国人と触れる機会がないのである。

世界のジャーナリズムが聞いたのは、ごく一部の、西欧化してアフガン人とは呼べない人々の声であった。

極めつけは、或るNGOで働く西欧人が、

「そんなに飲料水がないなら、コカコーラかワインでも飲んだらどうか」

と述べたことである。


この無知は責めを負わなくてはならぬ。

フランス革命時代。王妃マリー・アントワネットが、飢えて蜂起した人民に対し、

「パンがないなら、お菓子を食べればよいのに」

と言ったのに同様である。


これに対し、他ならぬパリの西欧人権主義の先駆者たちはなんと述べたか。


「自由と財産の権利は大切である。だが、人権のうち第一のものは生存する権利である。

自由と財産は人間生存に必要である。殺人的な貧欲と、責任なき放埒に濫用されるべきではない」

(ロベス・ピエール)


そして、これが「自由・平等・博愛」を掲げる西欧的な人権思想の核であり、この西欧の良心こそが、その帝国主義的な圧制や搾取にもかかわらず、全世界の被抑圧者に希望を与え、真に西欧文明を偉大ならしめたのである。

西欧民主主義の源流はまた、決して徒らな人間中心ではなく、反自然的な富の増大が人間の変質をもたらすと予言して、警鐘を鳴らし続けていた。

フランス革命がその忠実な使徒であろうとした思想、民主主義と人権の提唱者たちは、「自然に帰れ」と叫んだのである。

ここに東洋思想と大きな隔たりはない。

おそらく、西欧キリスト教世界における文明への反省の基礎は、十字架に臨んだ基督が

「この苦き杯を去らせたまえ。しかし、我が思いではなく汝(天)の望む如く」

と祈った、人としての謙虚さの自覚に由来する。

それは実現の困難なものであろうとも、この基礎に立つ人権思想が理想として掲げられる限り、人々の普遍的精神に訴え、これを鼓舞してきたのである。

同時に、自然を忘れた技術文明の傲慢、人為と欲望の逸脱を戒めるものであった。

そして皮肉にも、この逸脱こそ西欧近代の誇張を支えるものであった。


しかし今、進行する事態を見るとき、西欧世界の「人権」は、女性の胸をはだける権利とか、ブルカを着用せぬ自由だとか、ちっぽけなプライバシーだとか、矮小でみみっちいものとなり、少しも感動を誘わない。

世界戦略の小手先の小道具に変質し、その出発点から外れてきているように思われる。

それはまさに、西欧の自己否定である。

真に西欧文明を偉大ならしめた精神自体が、既に内部で腐食したのである。

有名な『西欧の没落』が書かれたのは1世紀前であったが、今やそれは決定的に、誰の目にも明らかになりつつあると言って過言ではない。

過去の「アフガニスタン」の出来事を見るとき、私は自信をもって、そう述べよう。

西欧近代を押し上げてきた活力は、その膨張の要因自身によって幕を閉じようとしている。


日本がとるべき道は、百年の大計に立って、「国際貴族との没落の共有」を断固として退けることである。

そのためには決して目先の景気回復や国際的発言力などに惑わされてはならない。

日本には独自の道がある。

それによって、西欧の良心をも継承し、弛緩した国民のモラルを回復することができよう。

平和は戦争以上に忍耐と努力が要るであろう。

混乱と苦痛のない改革はあり得ない。

しかし、それが国家民族の防衛であり、世界の中で課せられた使命であり、戦争で逝った幾百万、幾千万の犠牲の鎮魂である。


周知の通り、201912月アフガニスタンで


武装勢力に銃撃暗殺されてしまった。


享年73歳。


犯人はしばらく見つからず、現行政府が


調査にはあまり乗り気じゃないと


ニュースで見たけれど、212月の報道だと


誘拐するつもりが、と


 


中村先生は養老先生と昔対談されていて


その時に話されていたかは不明だけど


養老先生の書籍にも引かれていたのが


中村先生はいつかアフガニスタンで


命を落とすだろうと思っていた、と言われる。


仲間も殉職されてるし、タリバンに拘束も


経験しているしで、急死に一生を得る体験が


幾つもおありだったのだろう。


この本はそんな危険を乗り越えてでも


アフガンの人たちへと共に歩むという


思いや覚悟などを窺い知ることができるし


大変立派な人格であることもわかった。


それでも、なお、何でそこまで…


というのを禁じ得ないものは、残った。


そうまでしてやり遂げたいという使命感


なのだろうけれど。


しかしもし自分も中村さんのような立場で


幼い子供たちが亡くなっていくのを


目の前で見たとしたら


日本人の誇りを強く感じているとしたら


世界が悪くなっていくのを


黙っていられないとしたら


なぞ、考えないわけにはいかない書籍だった。


近代西欧化され、平和憲法に守られてきた


我が身であることを複雑な感情をもちつつ


拝読させていただいた次第です。


日本は、


アフガニスタンは、


世界は、


本当に惜しい人を亡くした。


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