空飛ぶ円盤:C.G. ユング著・松代洋一(1993年)他一冊 [’23年以前の”新旧の価値観”]
ユングさん最後の書ってことなので
1960年ごろなのかあと。
はじめに から抜粋
同時代の出来事について、その意味するところを正確に見きわめるのはむずかしい。
判断が主観的なものを一歩も出ない恐れが多分にある。
だから私がいま、現代のある出来事について、いかにもそれが重要に思えるからといって、辛抱づよく聞いて下さる人たちに私見を述べようとする大胆さは、十分承知している。
出来事というのは、世界の隅々から寄せられるあの円い物体にまつわる噂である。
それは対流圏も成層圏も駆け抜けて、
「ソーサー、皿、スクープ、ディスク、UFO (未確認飛行物体)」
などと、呼ばれている。
そのような物体の噂ないしは実在は、いまも言うように私にはきわめて重大なことと思われてならない。
軽率のそしりを受けぬよう、隠さずにいっておくが、こうした考え方は、およそ尋常でないばかりか、あの占星家や世界革命家の脳裡に去来する雲か幻のたぐいに危険なくらい近づいているのである。
私は、これまで営々としてきずいてきた自分の真率さや信用や科学的判断力に対する世の評判を賭してまで、あえて危険をおかそうというのである。
読者に請け合ってもよろしいが、けっして気軽な気持ちでできることではない。
率直に申し上げて、この度の出来事に用意のないままに驚愕し、わけも分からずに疑惑にとらわれている人たちの上が、私には思いやられるのである。
予想される変化が、いかなる心理的効果をもたらすかを見定めて、それを表現しようとした人は、菅見のかぎりではまだない。
ここで力の及ぶかぎりのことをするのが、私の義務だと思うゆえんである。
このありがたくない課題を果たすにあたって、私ののみが、刻むべき石の硬さに突きはずれたりしないよう願っている。
なんだかよく分からないのだけど、
でもものすごい覚悟で書きます的なのはわかる。
60年代でも、トンデモ話になりかねないってことかな。
UFOを心理学者が取り上げるってことは
内容の是非に関わらず。
噂としてのUFO から抜粋
UFOについて伝えられる事柄は、およそ信じたいばかりでなく、物理学の一般的な前提に真向から挑戦するようなものであるから、人がこれに拒否的な反応を示し、その存在を否定しようとするのももっともなことといえる。
そんなものは幻覚か空想か、デマにすぎない(パイロットにせよ管制官にせよ)そんな報告をする人間は頭がおかしいのではないかーー。
都合の悪いことに、話はアメリカという”前代未聞”やサイエンス・フィクションが大好きな国から始まった。
このごく当然な反応に従って、われわれもまず、UFOについての報告を単なる噂と仮定して、この噂という心理的な産物から分析的な方法で立証できるかぎりの結論を引き出してみよう。
こうした懐疑的な立場から見ると、UFOはまず、世界中で広く語られる説話の一種と見なすことが出来るが、これが世間一般の風評と異なる点は、それが幻視として現れること、あるいは幻視によっておそらくは生み出され、支えられているということである。
私はこの比較的稀な変種を幻視の噂と呼ぶことにするが、これは集団幻視ときわめて近い関係にある。
普通の噂が広まり、尾鰭をつけていくには、どこにでもある好奇心とセンセーショナリズムがあればたりるが、幻視の噂の場合には、つねに異常な情動が前提になければならない。
幻視や錯覚にまで高まるのはそれだけ強い興奮状態があるからで、その源もひときわ深いのである。
UFOの発端になったのは、第二次大戦の終わり頃、スウェーデン上空に見られた不思議な飛行物体で、これはソ連の発明にかかるものとみなされていた。
次いで、連合軍の爆撃機に伴ってドイツを襲ったとされる「フー・ファイター」、つまり光の戦闘機に関する報道である。
そしてその後に、アメリカにおける「空飛ぶ円盤」の目撃というスリリングな事件が起こった。
UFOの地上基地を発見したり、その物理的な特性を説明したりすることができないため、やがて地球の外から来たものだと想像されるようになる。
第二次大戦勃発の直前、ニュージャージーに起こった大パニックの心理はこの創造に関連している。
火星人のニューヨーク襲来をテーマにしたH・G・ウェルズの小説をラジオドラマとして放送したところ、現実に「大恐慌」が起こり、無数の自動車事故が続出した。
明らかに、目睫(もくしょう)の 間(かん)に迫った戦争に対する潜在的な情緒不安定が、この放送劇によって爆発したのである。
噂の伝えるところでは、UFOは通常レンズ状か長楕円ないしは葉巻型で、さまざまな色の光を放ったり金属的に輝いたりしている。
その運動は、静止状態から時速一万5千キロの高速に及び、その加速は時に、人間でも乗っていようものならたちまち死んでしまうくらいの急激である。
航跡は稲妻状で、重量のある物体にはとても考えられない。
つまり昆虫の飛翔の航跡さながらに、UFOは興味を惹く対象の上空に突然止まったり、もっと長時間静止していたり、あるいは好奇心に駆られたようにその上を旋回したりしたあげく、突如また矢のように飛び去って、新しい対象を求めてジグザグに飛び回るのである。
したがって、UFOが流星や気温の反転によって生ずる蜃気楼と混合されることはあり得ない。
空港や核分裂に関係ある工業施設に関心を示しているといわれるが、南極やサハラ砂漠やヒマラヤにも現れるのだから、それも確かとはいえない。
好んでアメリカに飛来するかのようだが、最近の報道ではヨーロッパや極東にも頻繁にやってきている。
彼らがいったい何を探し、あるいは偵察しようとしているのかは誰にもわからない。
UFOが着陸するのを見たと称する目撃者の物語もいくつかある。
この宇宙からの客は、もちろん英語を話すのだが、人類の幸福を気づかう機械的な天使とでもいった美化された姿であったり、ありあまる知能を収める大頭をもった小人であったり、あるいはキツネザルのように毛むくじゃらで、ケヅメと甲羅を持った昆虫みたいな小怪物であったりする。
はては、アダムスキー氏のように、UFOに乗って短時間で月を一周してきたと称する「目撃者」まで出てきた。
彼は、月の裏側には大気と水と森林や住居があるという、驚くべき報告をもたらしている。
そのくせ地球には荒寥たる半面を向けているという月のとんでもない気まぐれには、一向頓着する様子もない。
おまけに、エドガー・ジーヴァース氏のような善意の教養人までが、この物理的な非常識をうのみにする始末である。
現代という機械文明と合理主義の時代になってはじめて、それは全世界的な集団的な噂となった。
キリスト暦(西暦)最初の一千年紀の終わりに広く流布した、世界の終末という大きな幻想は、純粋に形而上学的な根拠によるものだったから、合理性を装うために、UFOを必要とすることはなかった。
「天の裁き」が、当時の世界観に見合ったのである。
しかし現代の世論は、形而上学的な裁定という仮設を求めたりはしそうもない。
それならいまごろは、諸方で神父たちが天上に現れた前兆について説教をしていることだろう。
われわれの世界観はその種のことを期待していない。
われわれはむしろ、心理的な障害はあるのではないかと考えるだろう。
ことに先の大戦以来、われわれの精神状態はいささかあやしくなっているからでもあって、それを思えば、事態はいよいよ不確実さを増してくる。
この現象を心理的性格の問題に向かうことにしよう。
噂の中心をなす証言を検討してみたい。
それはこうである。
大気圏に昼間あるいは夜間、従来の流星現象とはまったく違う物体がみられる。
流星でもなく、恒星の見誤りでもない。
蜃気楼でも、雲の一変形でもない。
渡り鳥や気球や球電とも違う。
ましてや酩酊や熱に浮かされての妄想でもなく、証人のうそでもない。
原則として、それは一見燃えているか多彩な火のような光を放つ物体で、円型か皿状または球状、まれには葉巻型、つまり円筒状であり、大きさはまちまちである。
ときに人間の眼に見えないことがあるが、そのかわりレーダー上に点となって現れる。
この円型というのが、まさに無意識が好んで夢や幻視などに現出させる形態なのである。
この場合のそれは、ひとつの思想を眼に見える形で現したシンボルと見なして良い。
その思想はまだ意識的に考えられているわけではなく、潜在的に、つまり見えない形で無意識の中にあって、意識化の過程を経てはじめて眼に見えるものになるのである。
この見える形はしかし、無意識の意味内容をただ近似的に表現したものに過ぎないから、実地にその意味内容を「完全に」把握するためには、補足的な解釈を加える必要がある。
その際、どうしても誤謬が生じやすいが、それは「結果が教える(eventus docet)」の原則に従って、つまり異なる人間の見た一連の夢をつき合わせて、そこに共通する文脈を読み取ることによって正さなければならない。
噂に現れる形にも、この夢解釈の原理が適応できる。
目撃された円い物体(円盤状であれ球状であれ)にこの原理を応用してみると、深層心理学に通じた人にはすでに馴染みの、全体性のシンボル「曼荼羅」(サンスクリット語で円環の意)ときわめて似通っていることがすぐにわかる。
それは垣をめぐらし、「囲いこむ」魔除けの環であったり、石器時代のいわゆる「太陽の輪」であったりもする。
あるいは、呪術の円、あるいは錬金術でいう小宇宙(ミクロコスモス)、あるいは魂の全体を包み、秩序づける近代的なシンボルとして現れる。
無意識、集団的幻視、ユング節炸裂でございます。
当たり前か、本人なんだから。
アダムスキーさんも一刀両断。
「曼荼羅」に到達するのは予想外だったような。
知人からインドのお土産で玄関にはる
曼荼羅が印刷された布をいただいた事あるけど。
この後、夢、絵画、歴史の中に見られる
UFOの考察とつづきエピローグに
なるのだけど、ここでなんか
人格が変わってしまうってのは
周知の事実なのか。
自分だけの幻想の中の理解なのか。
エピローグ から抜粋
本稿をほとんど書き上げたところで、一冊の小さな本が私の手に入った。
オルフェオ・M・アンジェルッチの『円盤の秘密』で、これについてはどうしても触れておきたい。
テレパシーでアンジェルッチは啓示を受ける。
「径は開かれるであろう、オルフェオよ」
「われわれは地上の住人をひとりひとり見ているのだ。
人間の狭い見方で見ているのではない。
おまえの星の住人は、何世紀も前から観察下におかれている。
だがいま改めて再調査されているのだ。
おまえたちの世の中のあらゆる進歩を、われわれは記録している。
われわれはおまえたちが自身を知るよりもよく、おまえたちを知っている。
どんな個人も、男も女も子どもも、われわれのクリスタル盤記録装置によって、生命統計に記録されている。
われわれにとってはおまえたちひとりひとりが、おまえたち自身にとってよりも重要なのだ。
なぜならおまえたちは、自分の存在の真の秘密を意識していないからだ……われわれはかつての地球との友星関係のために、地球の住民に同胞のような感情を抱いている。
おまえたちのうちに、われわれの古き時代をさかのぼってみることができ、われわれの旧世界のある様相を再構成してみることができる。
理解と共感をもって、成長の苦しい道を歩むおまえたちの世界をわれわれは見ているのだ。
どうか、ただ兄のようにわれわれを思ってほしい」
思いっきり、横尾忠則さんの世界だし
アダムスキーさんも同じようなことを
仰っているじゃないですか。
なぜ、書き始めとエピローグでこんなに
人格が変わってしまうような
言説になったのかはよくわからんです。
訳者あとがきにあったのは、この書籍は
80歳超えて畢生の大仕事の後に
軽いタッチで書かれたものであること、
受け取り側もあまり本気にする人が
いない想定だったのかなあ。
だからって「オルフェオよ」からの
メッセージの本を最後に持ってくるなぞ
あまりにも跳んでる言説だろう。
横尾さんを多く読んでる私でさえも異和を感じた。
だからこそ、という説もあるが。
訳者あとがき<誤解の中のユング>
現代の地球物理学が、古磁気気学や海洋低地学の成果を結集して、驚くべきスピードでウェーゲナーの大陸移動説を証明してしまったように、心の内部についても、学問の分野を超えたところで解明の機運が高まってきているように感じられる。
そしてプレート・テクトニクスの理論さえ常識となった今日から振り返れば、ほんの数十年前、われわれは地球についていったい何を知っていたというのだろう。
そうしてみれば、われわれは真のユング理解は、フォン・フランツの言うようにまだ三十年を俟たねばならないのであろうか。
いや、地球物理学による「世界の変動帯」の発見が、大きな地殻の変動期にちょうど間に合ったように、そしてレイチェル・カーソンの警告に始まる生態学の成果が、地球規模の環境問題に辛うじて間に合ったように、われわれのユング理解も、ある未知の何事かに間に合わせねばならない。
深い、人類への警告。
ユングというビッグネーム最後の
大仕事っって捉えるべきだとすると
UFOの存在とか、そういうのは、
まあ、いいか。
いや、そこは看過できないのだよなあ自分として。
以下は余談なのだけど
内田樹先生からの書籍を引かせてくださいませ。
人生相談本です。雑誌「QR JAPAN」での
連載を纏めたもののよう。
内田樹の生存戦略(2016年)
2013.December
■相談
UFOはほんとうにいるのでしょうか?
に対して、
人間の知性や想像力の及びもつかない領域はある。から抜粋
■返信
います。僕、見たから。
東京・尾山台上空に浮かんでいました。
そのうち動き出した。
僕のすぐ上空にいたのが、いきなり尾山台駅上空に移動した。
不思議な移動の仕方でした。
加速度運動じゃないから。
いきなり「ぴゅん」と移動して、また「ぴゅん」と戻ってきた。
ああ、これは僕が知っている地上のいかなる物体とも違う原理で作動しているなということはわかりました。
僕はなんだか怖くなってきました
(なんとなくUFOの乗員と意思疎通ができそうな気がしたのです。
というのは
「じっとしていちゃUFOかどうかわからないから、飛んで見せてくれないかな」
と心で思ったと同時に、そのぴかぴか物体は尾山台駅の方に飛んでいって、すぐに
「ほら、飛んだでしょ」
という感じでまた最初の場所に戻ってきたからです……)。
UFOに
「お、こいつとは意思疎通ができそうだ」
と思われて、拉致されたりしたらたまらないじゃないですか。
(これから合気道の稽古だってあるし)。
これはねえ、自分も似たようなことに
遭遇し、感じたのです。
80年代後半のある日、静岡県にて、
祖父母の家があったのだけど、
正月休みに帰省した時、
寒い夜空のもと山を見ながら歯磨きしてて
その頃すでに横尾忠則さんを読んでたから
「UFO、愛、UFO」と念じてたのですが、
するとしばらくして一瞬「ひゅん」と
何かが一直線に流れた。確か二つくらい。
で、あれ?流れ星か?と思ったのだけど
「もう一度」と念じたら2−3分後だったか
「ひゅんひゅんひゅん」とZ型の航空軌跡で
何かが光りながら流れた。時間にして0.5秒位。
その時あれは地球のものではないという事と
我々のような感情は通じないのかもしれない
と思い、怖くなったことを思い出した。
もう少し丁寧に記したい気もするのだけど
今日は夜勤でそろそろ準備しないとならず
こちらにて失礼します。