種の起原をもとめて―ウォーレスの「マレー諸島」探検:新妻昭夫著(2001年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
初出は1997年、ちくま学芸文庫からのを読んでみた。
ちなみに、ユングやニーチェなど骨太な人たちの
解題物が多い、この文庫シリーズ
かなり自分的には気になったのは
どうでもいいです、すみません。
プロローグ から抜粋
ロンドンの名所、ウェストミンスター寺院。
内外の観光客にまぎれて入っていくと、正面に主祭壇が見える。
その右手奥には有名な詩人たちのコーナーがあり、シェークスピアなど著名な文学者の墓がある。
しかし私がウェストミンスター寺院を訪れた目的は、別のところにあった。
自然選択による進化論を展開した『種の起源』(1859年)の著者チャールズ・ダーウィン(1809~82年)の墓と、そしてもう一人、進化論前夜に彗星のごとくあらわれ、自然選択説にダーウィンと同時に、しかも独自に到達したアルフレッド・ウォーレス(1823~1913年)を記念する肖像レリーフを見るためである。
ダーウィンの質素な墓碑銘 から抜粋
主祭壇の前に立つと、左側の柱が地球儀をあしらったニュートン(1642~1727)の記念碑になっていた。
万有引力の法則のニュートンは、やはり科学者の中でも特別に偉大とみなされているらしい。
ダーウィンの墓は、その主祭壇の左の回廊の入口の手前にあった。
1882年4月26日、ダーウィンの葬儀の参列者のなかには、当時の学界の重鎮たちとともに、59歳のウォーレスもいた。
少し離れてダーウィンの墓を見ていると、観光客たちが床にはめこまれたダーウィンの墓碑をぞろぞろと踏みつけていく。
やがて日本人の一団が手前で立ち止まり、ガイドさんが説明を始めた。
「進化論のダーウィンをみなさんは知っていますね。けれど彼の奥さんが、後でみなさんが買い物に行くウェッジウッド、陶器のウェッジウッド家の娘だったとは知らなかったでしょう。ダーウィンの母親もウェッジウッド家の娘ですから、いとこ同士です。ダーウィン家とウェッジウッド家は親戚なんですね。人間もサルも、それからピーター・ラビットも、もとをたどればみんな同じ祖先から進化した親戚、といったかどうかはわかりませんが(笑い声)。」
ウォーレスの墓碑はダーウィンの隣にあったようだが、
ウォーレス夫人や家族はそれを反対、しかしその功績から
考慮すると隣り合った方が良いという
学界などからの判断でそうされているようだ。
政治的な力学が働いたような感じもするが。
その後、実際のウォーレス氏の墓にも参った筆者は、
地元のタクシーも知らなかったらしく墓自体も
故人の意志を感じられないような作りだったことに
疑問の念を禁じ得なかったという。
この後、ウォーレスさんの航海について話が展開。
アマゾンで病気になり急死に一生を得て船で戻ったという。
高熱で帰る途中、船が火事になり難破、苦労して集めた標本も焼失。
ほうほうの体で帰国しても、後年また行きたいと言っていたようで。
この、ものすごい熱量はなんなんだろうと思ったら、
同好の士がいたようで。
第1章 アマゾンからの敗退
アマゾンへ!
この悲惨な帰路から4年半ほどさかのぼった1848年5月28日、ヘンリー・ウィルター・ベイツ(23歳)と共にアマゾンの加工に到着したウォーレス(25歳)は、どれほど気分が高揚していたことだろう。
ウィーレスは1週間のパリ旅行は経験していたが、長期にわたる外国旅行は初体験だった。
しかも今回はたんなる旅行ではなく、すくなくとも数年はアマゾン流域を探検し、博物学標本つまり昆虫や鳥の標本を収集するために故郷をあとにしたのである。
新天地での博物学探検は、どんな成果をもたらしてくれるだろう。
二人は1年ほど一緒に採取を続け、翌1849年6月から別行動をとることにした。
おそらく別々に行動した方が、いろいろな種類の標本をたくさん採集できると考えたのだろう。
標本採集は、二人にとって趣味や道楽ではなく生業であり、ビジネスを考えれば別行動はごく自然な判断だ。
ウォーレスとベイツは博物学者や探検家であるまえに、「標本採集業者」だったのである。
二人はイギリスでは中流下層階級の勤労青年であり、アマチュア博物学者として研究に没頭したくても、仕事に追われてなかなかそれができないでいた。
そんなときに見つけたのが、E・W・エドワースという米国人のかいた
『アマゾン遡行記』(1847年)に出会った。
そこには、熱帯の景観の美しさや雄大さ、人々の気立の良さとともに、
「生活費も交通費も非常に手ごろだ」
と書かれていた。
生活費が安ければ、標本を売って生活できるかもしれない。
大英博物館のチョウ担当者E・ダブルディ氏に助言をもとめてみると、
「全ての目(もく)の昆虫、それに陸貝、鳥、哺乳類を採集したなら、容易に費用をまかなえる事間違いなしと保証してくれた。」
つぎに東インド会社博物館のT・ホースフィールド博士を訪ねてみると、彼がジャワから大量のチョウの標本を送ったときの特別製の箱を見せてくれた。
また幸運なことに、サミュエル・スティーヴンスという優秀で信頼できる代理人と出会うことができた。
彼自身も英国産のチョウ類と甲虫類の熱狂的な収集家であり、その兄J・C・スティーヴンスはよく知られた博物学標本の競売人であった。
ウォーレスとベイツの二人が、虫マニアだったことは間違いないが、
同時にビジネスでもあったわけなのですね。
好きなことをやって仕事として認められるならば、そりゃ力も入るだろう。
でもアマゾンに何年も行く理由が分からなかったけど、この書籍でなんとなくわかった。
漫画家の水木しげるさんが、日本にいると元気ないけれど、
南方に行くと元気になるというのとなんか似ているなあ、と思った。
我が身にひいて、自分もロンドンに行った時、
街にはあまり興味がないけど、セントジョーンンズウッド駅にある
アビーロードスタジオには行きたくて仕方なかった。
市内ホテルに着いて早々、妻を催促して出かけたって経験があるのも、
そういうことなのかと思った。
あとがき から抜粋
私にとってウォーレス研究が余技から主要課題になったきっかけは、1988年夏に鶴見良行名誉隊長、村井吉敬隊長のもとにおこなわれたインドネシアの島々をめぐる航海に参加したことである。
その年の初めからウォーレスの主著『マレー諸島』(1933年)の翻訳に着手していたし、航海はマレー諸島の主要な島々をたずねることになっていた(この航海については鶴見良行『アラフラ海航海記』(1994年)に詳しい)。
ちょうどアザラシの研究に区切りがつき、後輩に調査と保護活動を引き継いだところだった。
この航海で、ウォーレスの足跡を訪ねるという自覚が明確なものとなった。
彼がおとずれた場所を再訪し、できるだけ彼と同じことをしてみた。
熱帯雨林をさまよい歩いてみたり、虫を追いかけてみたり、船酔いに苦しんでみたり、そして彼が書いた論文や報告あるいは手紙をそれが書かれた場所で読んでみるーーウォーレスの気分にひたろうといろんな努力をしてみた。
そんな私のようすを見ていた藤林泰氏は「ウォーレスごっこ」と絶妙なネーミングをしてくれた。
この航海で現場を歩きながら考えることの大切さを教えられ、その後も何度も「ウォーレスごっこ」を続けることになった。
ロンドンの図書室に足を運ぶことになったのも、ウォーレスの足跡をたどった結果である。
やがてウォーレスのやろうとしていたことが時間と空間の統一的把握だと理解できた時、自分も時間と空間を旅行していることに気がついた。
マレー諸島の小さな島々、ロンドン、そして東京という地理的に遠く隔たった場所に行き来しながら、今の時間を暮らしつつ、一世紀半も過去のことを追体験しようとしていた。
そう気づいてみれば、文献資料を読み解くという作業もフィールド・ワークの一種になってしまった。
8年にわたる研究で、間違いや取りこぼしも多く
失態も繰り返されるたものの、ある程度目鼻のたった
自分にとっての成果であると自負されつつも
こう締めくくられます。
ただし正直に告白しておけば、いまひとつの旅が終わり疲労もおぼえていながら、心ひそかに次の探検、つぎのフィード・ワークの場所を考えている。
アマゾンから急死に一生を得てロンドンに帰り着きながら、
「もうつぎの放浪の地はアンデスかなフィリピンかな、などと考えています」
というウォーレスの博物学馬鹿を、私には笑うことができない。
「映画カラオケ」という、メソッドというか、
知的な遊びがあるようで、
川本三郎さん、大瀧詠一さんらが
実施しておられた、今でいう聖地巡礼のような、
映画の撮影場所を探る、そして
監督・撮影スタッフになりかわり、
なぜその場所なのかを考える、
と、簡単にいうと、なのですが。
これに近いのではないか「ウォーレスごっこ」。
余談だけど、川本さん大瀧さんの掲載されてる
「東京人」、アマゾンで高値になってて
この前神保町の古書店行ったら八千円だったよ。
買えませんよ。
誰か文字起こししておられないだろうか。
いや、もちろん全文とは言いませんから。
話戻って、解説の西村さんの言葉が、
この書籍に対する自分も同じことを感じたので
引かせていただき今回はお開きと
させていただきたく存じます。
解説 ウォーレス、もって瞑すべし
西村三郎(京都大学名誉教授 地球生物学・博物学史)
それにしても、ウォーレスが世を去って80有余年、極東の日本で、その仕事と生涯に魅せられた一人の研究者によってこのように質が高く、かつ共感の念にあふれたおのれの評伝が書かれようとは、彼自身夢にも思っていなかったに違いない。
ウォーレス、もって瞑すべしであろう。