ピーター・フォーク自伝「刑事コロンボ」の素顔 :田中雅子訳(2010年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
「心を固めるまでに11年もかかった理由」から抜粋
なぜ役者になる決意をするまでに、こんなに長い年月がかかってしまったんだろう。
おそらく単純に「怖かったから」に違いない。失敗を恐れる気持ちと一緒さ。
その時分のわたしには「役者たるものこうでなくては」って崇高なまでにロマンティックかつバカバカしいほどに現実離れした理想があった。
そんな恐れを抱くほどの愚かしいロマンティシズムは、一体どれほどのもんだったのやら。
わたしの日中の顔は役所勤めの公務員。
予算管理の専門家のふりをして給金を稼ぎ、そして夜はアマチュア役者へと変身する。
ときは55年の冬、オシニング高校時代の友人ジミー・クローニンが、コネティカット州ニューヘブンで、レパートリー形式の冬季公演を行うという噂を耳にした。
当時そんなレパートリー劇をやった劇をやった劇団はなかったし、ましてや高校時代の同級生がそんなことを始めたなんてにわかに信じられなかった。
自分も小学生時代に鉛筆で漫画書いてたら、ある日のこと。
友達のお姉さんが漫画研究会だったのか、
絵は稚拙だったけど、ケント紙にコマ割りした漫画を
Gペンで書いていてショックを受けた記憶が蘇ってきた。
なんか知らないが「やばっ!俺もやらなきゃ」って思った。
結果的に漫画家ではなく、デザイナーになったんだけど。
陣中見舞いしようと劇場に入ってみると舞台の方から声が聞こえた。
オーケストラボックスに中で誰かが話をしている。
その中にロディ・マクドウォールの姿を見つけたわたしは、とっさに立ち止まった。
彼の話し相手の3人も共演者らしかった。初めてプロの役者と同じ空間にいる体験。
思わず「どんなことを話しているんだろう」と聞き耳を立てたよ。
プロの役者たる彼らの会話、それはわたしなんぞがそれまで聞いたことのないようなウィットやらセンス、才気にきらめいているに違いない、って思ったらそれだけで気が高ぶってきた。
(中略)
そしてお茶を終えた彼らが真横を通り過ぎていく時、はっきり耳に飛び込んできたのは、こんなことだった。
「もし不動産で金儲けしたいなら、ロスに土地を買うことさ。ボブ・ホープみたいにね」
期待したウィットなんてみじんもなかった。
大いにガッカリしたねえ。
とはいえ、彼らのこの言葉がこの世のものとは思えないきらめきを放っていると信じて、あとをつけまわしちゃ盗み聞きしようとした26歳の男は果たしてナイーブか、それともアホか。
うちのカミさんなら一言「アホよ」と即答するだろう。
だけど、そんなアホな真似をした当時の自分のバカバカしいイノセンスを、わたしはくすぐったくもかわいいヤツだと思うし、たぶんうちのカミさんだって半分は同意してくれるだろう。
才気溢れる会話は別として、本物の役者っていうには自分を本物だと信じられなくちゃダメさ。
ローレンス・オリヴィエなんかを想像してみるといい。
天賦の才や人を惹きつける磁石のようなものが自分には備わっていると信じることだ。
それがわたしにはなかなかできなかった。
役者になる決断をするまでに、長い時間がかかった一番の理由はそこだろうね。
役者は演技している時きらめいていればいいのであって、
誰も責めを負うようなことじゃないんだけど。
舞台を降りたらただの人間なんだから。
でも、ファンって勝手な幻想抱きがちだよね。
それと踏ん切りつかずに時が流れるってのも、
まあ、普通はそうだよね。
でも奥さんを引き合いに出すところなんて
全くコロンボそのものだよね。
「アンツィオ大作戦」から抜粋
1968年「アンツィオ大作戦」っていう映画の出演を打診された。
第二次世界大戦中の連合軍のイタリア上陸作戦の話で、イタリアのロケも予定されていた。
(中略)
「アンツィオ大作戦」はベストを尽くせた芝居だったとはいえないかもしれない。イタリア・ロケは楽しかったけど、そのあいだのわたしはといえば内心、自分のキャリアはもう演じることへの挑戦だけでは立ちゆかなくなってきていることをひしひしと感じていた。
「おかしなおかしなおかしな世界」「7人の愚連隊」「グレートレース」はいずれも楽しい作品だったけど、「アンツイオ大作戦」同様、キャリアを築けた作品かといえば疑問が残る。
自分自身なんとなく失速した感があったし、敷かれたレールの上を行き来してるだけのマンネリから抜け出せてないようにも思えた。
映画畑に10年近くいてオファーは定期的にあったとはいえ、クリリティヴな仕事をしたとは言い切れなかった。
自分が本当に望む役にはなかなか巡り会えず。ワンパターンぎりぎり。
現状に絶望してるわけじゃなかったけれど、方向性には真剣に疑問を抱き始めていた。
だけど、そんな迷いは長くは続かなかった。
わたしの人生を180度変えた役柄に巡り会えたから。
それが”コロンボ警部”との出会いだった。
「コロンボ事始め」から抜粋
コロンボの一面は自然体の自分でいればいいから、演じるのはおもしろそうだと思った。
実生活のわたし、ピーター・フォークはさしずめ街角の小僧といった感じ。
着るものだって無頓着だし、おまけに警部に負けず劣らずの変わり者だ。
たとえばおつむが現実離れし、どこか別世界に漂ってしまうところなんかも。
もちろん別世界というのは目の前にある台本の物語の中で、そこから離れてはしないんだけど。
どういうことかっていうと、台本にはコロンボが劇中、なにをどう考えて行動するか書かれてるわけだけど、読んで違和感を感じたりピンとこなかったら、どうすればもっと観るものにおもしろく、魅力的に見えるかってことばかりずっと考え続ける。
それはもう執念といっていいほどにね。
(中略)
知的さをアピールするとが逆にぎこちなくなく見えるから、凡庸な印象を与えるほうがコロンボには居心地いい。
ちょっとおマヌケな方が都合もいい。
たとえば彼がレインコートのポケットをまさぐる時、取り出すのは決定的な証拠を記したなにかと思いきや、カミさんから頼まれた買い物リストだ。
まったく、役を地でいっているような感じ。
あれは演じていたのではないのか、ってくらい。
それと、あまり主旨とは関係ないけど、
なんでこんなにウィットに富んで、
知性的なものを兼ね備えているのか。
なんてったって「はじめに」の文末に
”ミケランジェロと教皇の逸話”や
”ドガの墓石に刻まれている言葉”なんて
引用してるくらいなんで。
欧米の俳優は大体そうなんだって
言われればそれまでなんだけど。
勘だけどかなりの読書家だったとは書いてないけど、
そうだとしか思えない。
役者になる前、役所勤めしてたくらいだから、なのかな。
役者になってからなのか。
それとも経験の中から学んでいったのか。わからない。
余談だけど、この本の原題がイカしてますよ。
” JUST ONE MORE THING:PETER FALK “
日本語訳も素敵で読みやすかったけれど。