さよなら広告さよならニッポン 天野祐吉対話集(2014年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
谷川俊太郎さんと、岸田秀さんの対談から抜粋。まず谷川さん。
昔と今の戦争の違いを「槍」と「銃」と言う表現をされ、
「槍」であれば刺した人の手の感触が棒に伝わるが、
「銃」だと弾丸が銃口を離れたらただ飛んでくるだけ、
撃った人の指先の感触もなく、
マスコミから発射される言葉はこれだとおっしゃる。
非人間的であるとして、谷川さんの詩から着想され
昨今(2001年ごろ)の日本語に話は及ぶ。
谷川俊太郎(詩人)
「言葉はいつも音楽に恋している」から抜粋
■天野
谷川さんの書かれる詩には、漢字が一字もはいっていない、全部ひらがなの詩も多いですよね。
それはやはり音というものと、どこかで結びついているんでしょうか。
■谷川
それもあるし、日本語は変化の激しい言語だということもあると思う。
つまり、百数十年前の明治維新のときに、西洋の概念や、制度、文物が大量に入ってきたときに、言葉そのものも入ってきたわけですね。
それをどうしても日本語に翻訳しなければならなかった。けっこうみんな苦労してね。
例えばデモクラシーには民主主義、ラブには愛というように当てはめたと思うんです。
当てはめるときに、大和言葉だけなら無理な部分を、すでにこの国は中国から漢字と漢語を輸入していたから、翻訳することができた。英語と中国語の一種の抽象性が合ってたんでしょうね。
中国語も外国語だったわけだから。
■天野
なるほど。
■谷川
漢字二文字で「社会」なんて言葉が作れちゃったわけでしょう。
そのおかげで、日本語はすごくうまく機能して、植民地にならずに済んだみたいなことがあるんだけれど、そのおかげで日本語が根無し草になったという気がすごくするんですね。
入ってから百数十年経っているんだから、いいかげん根づいても良さそうなのに、いまだに、例えば「民主主義」という言葉を巡ってみなが大喧嘩している。
コンセンサスがないというか。
それは、われわれの身体や暮らしに根づいた日本独自の大和言葉を、明治のところでいったん断ち切ってしまったことがとても大きい。
■天野
今おっしゃったような、根っこを断ち切られた、漢語に当てはめたような言葉なら、いくらでも無責任に言えますね。
■谷川
大学の若い先生なんて、そういう言葉で論文を書くからいくらでも書けちゃう。
■天野
テレビのレポーターにも多いけど、根っこを持たない言葉が氾濫して、世の中の言葉全体が空洞化していく。
■谷川
普通の人がインタビューに答えるのも、決まり文句で応えますよね。
その人独自の言葉で答えないし、独自の言葉で答えると、テレビのほうは多分切りますね、異物として。
■天野
例えば、テレビのレポーターが「付近の住民は口々に怒りと不安の声を出しておりました」と言わずに「近所の人たちはブーブー言ってました」と言ったほうが「槍」だと思うんです。
でもそんなこと言ったら、アナウンサーは怒られてしまう。そうやってマスメディアの中では、言葉がどんどん”からだ”を失っていく。
■谷川
西洋が「個」だとすると、日本は「場」だって河合隼雄さんなんかは言ってますけれど、一人が突出した意見を言うのを嫌う。
その場を和やかにする、平坦化するのが日本人の優しさみたいなところがあって、それがマイナスに出てしまう。
■天野
そういえば僕なんかも使いますね「おっしゃる意味はよくわかりますが」と言いつつ、反対のことを言ったりする。(笑)
■谷川
おっしゃる意味はわかります。(笑)
話は、谷川さんの作った詩に、ご家族や矢野顕子さんがつけた音楽について、音楽での歌詞や、音楽ではないあくまで詩としても言葉の持つ力に話は進む。
■谷川
僕の中では音楽が一番偉い。詩はその次と思っている。僕は言葉はいつでも音楽に恋しているという立場なんです。つまり、言葉は本当は音楽になりたい。だけど、言葉は意味を持っているから、意味の重力に引きずられて、音楽になれない。でも音楽に恋している。
■天野
言葉にはどこまで行っても意味の重力はついてきますね。
■谷川
ナンセンスな詩を書いても、どこかに意味はつきまとう。その意味を軽くしていくのは、ユーモアの力でしょうね。言葉の力ひとつとして、ユーモアはすごく大事だと思う。
2008年ごろ小さな場所で谷川さんのトークショーに行ったことがある。
谷川さんはすごく健康そうな人に見えた。
それと取り巻き連中とかお付きの人みたいのがいなくて、ふらっときてふらっと帰っていく全く身軽な印象だった。
ご自分では意識も自慢もしないだろうけど、若さの秘訣みたいなものを感じた。続いて岸田秀さん。
岸田秀(心理学者・精神分析学者・思想家)
「肉体的体験の質を変えるテレビ」から抜粋
■天野
自分の身体を感じなくなってしまうような精神状態、からだそのものにリアリティがなくなって、記号的な世界だけで生きているために、肉体的な快感や痛みの感覚が希薄になっているような状態が今の、とくに若い人たちにあるような気がするんですが、岸田さんのご専門で、そういう状態に何か病名はあるんですか。
■岸田
離人病なんかはそうですね。英語でいうと、でパーソナライゼーション。
つまり、パーソンであるという感覚がなくなる、自分の肉体も含めて、全てのことに現実感がなくなるという病気ですが、昔からこれは極めて珍しい病気だった。
それが、現代においては、病気というほど深くはなく、軽い形で蔓延しているようですね。
(中略)
元々人間にとって世界とか自己とかは現実感のないものなんです。
人間の場合、現実感は後から出来上がる。社会と関わっていく中で、現実感が身について形成されるのですから、人間関係が希薄になり、社会との関係が希薄になると、形成されていた現実感はすぐにはげ落ちてしまう。
それこそおたく族じゃないけれど、現代は社会と密接な接触をしなくても食べていけるのに困らないわけで、現実感が希薄になってきたのは当然の結果なんですね。
(中略)
「巨大幻想が崩れた向こう側に」から抜粋
■天野
ある意味で、国家というのはボディでしょう。個人がたくさん集まって、一つの身体をなして、国家を作っている。将来、日本が否応なく心理的鎖国をやめなければならなくなったとき、国家でないボディを日本人はどうやって見つけていくんでしょう。
■岸田
どうでしょうね。ある理念によってまとまることは、日本人には特にできないし。
■天野
天皇をシンボルに、新しい天皇制が出てくる可能性は?
■岸田
天皇じゃダメだと思います。今までだって、日本人は天皇でまとまったことなんてない。
日本の近代天皇制は、キリスト教のコピーですからね。
幕末に欧米諸国の脅威にさらされた時、彼らの強さはなんだろうなと考えた。
その結果、キリスト教の唯一絶対神がそれだと気がついて、対抗するために、天皇を神聖不可侵なものとして祭り上げたんです。
おかげで、かろうじて植民地化をまぬがれたという効用はあったにせよ、近代天皇制はしょせん背伸びをした無理なものであって単なる看板に過ぎなかった。
太平洋戦争での日本軍の行動を見ても、建前としては天皇のために忠誠を尽くし。
「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいくことになっているけれど、あれは、みんな嘘ですからね。
日本兵は、そんな動機では戦っていない。
どちらかというと日本兵は、自分の所属する部隊長のために戦っているんです。
顔を知っている部隊長に恥をかかせたくないとかね。
直接知りもしない人間のためになんか、日本人は働かない。
「武士は己を知る人のために死ぬ」と言いまして、自分を知ってくれていない人のためには死なない。
日本人は理念のためには働きも死にもしませんから。
この対談だって、ひとつ島森さんのために引き受けようと思っただけで、「広告批評」の理念に共鳴したわけじゃない。(笑)
文中、島森さんってとても美しい女性で天野さんと
雑誌「広告批評」をつくっておられた方。
雑誌は、2009年に閉刊してしまったが、
自分も購入した記憶がある。
天野さんは元々、大手代理店に勤務されていたのだね。
島森さん共、鬼籍に入られてしまわれたようだ。
それにしても岸田秀さん、すごいこと言うよなー。
右翼とかそう言う方面の方、攻めてこないのかと心配になる。
それはいったん置くとして、今とあんまり変わってないよ、
上の人を恥かかせないようにっていう会社人体質。
そうしたくなくても、そうせざるを得ない
日本の社会人体質って、ほんと、なんなんだろうな。
それは戦前・戦後関係なく同じものなのだろうか。
同じ構造でも中身は違うものなのだろうか。
だとしたら、どうすれば良いのだろうか、って
簡単にはわからないよな。
余談だけど対談本読んで感じたこと。
谷川さん・岸田さん二人の対談に共通するのが、
意図せずに日本が植民地をまぬがれたと明言されてる件。
それと身体を無くしたと言うようなフレーズで。
同音異義語みたいなものなのかもしれないが、
かなり気になった。
昨日買った書籍(養老孟司・CWニコル共著)にも
似たことが書いてあったのはさらなる偶然か。
「頭」だけになってしまった人間の「身体」を
取り戻すには、自然に向き合うことだと。
そんなわけで今日、家の庭の土いじりをしてみたが、
どうだろうか。取り戻せるのか。
そもそも「頭」というほど自分、勉強できないから、
心配ご無用、という声が聞こえてきそうだけど。