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正宗白鳥―何云つてやがるんだ(ミネルヴァ日本評伝選):大嶋仁著(2004年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


正宗白鳥―何云つてやがるんだ ミネルヴァ日本評伝選

正宗白鳥―何云つてやがるんだ ミネルヴァ日本評伝選

  • 作者: 大嶋 仁
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2004/10/10
  • メディア: 単行本

小林秀雄さんが唯一、影響を受けた批評家というのを、講演会のCDを聴いて、昔から興味はあったのものの、なかなか機会に恵まれず、今回この評伝を読んだらさらに面白そうと感じた。


第一章生い立ち 人間不信 から抜粋

 

ある日試験があって、「日本では誰が一番偉いか」という問いが出されたという。

教師は生徒たちに「和気清麻呂」とか「楠木正成」とか書いてもらうことを期待したが、少年白鳥はあっさり「馬琴」と答えている。(「私の履歴書」昭和31年、1956年)

当時の彼が馬琴文学に夢中になっていた事は事実であるが、みんなが書きそうな答えを敢えて書かず、教師という権威に簡単に応じないところに後年の白鳥の面影があらわれているといえる。

もっとも、彼は生来の反逆者、反権力の権化ととらえるのは誤りである。

権威に対して従順であったことはないにせよ、何かに対して正面から反抗する気質は彼には乏しい。

彼を特徴づけているのは「反抗」ではなく「不信」。人間不信、社会不信の塊(かたまり)なのである。

こうした彼の気質を「岡山気質」として一般化するだけでなく、狭苦しい村で経済的にも文化的にも優越してした地主の長男であったということも注意したい。

家では大事にされても周囲からは孤立して育った彼は、周りを馬鹿にしておれば済むというわけではなく、つねに周囲を恐れ、世間を警戒したのである。

無論、地主で教員をしていた父親の教育の影響もあったろうし、四国の武家の出であった母のしつけもあったろう。

加えて、教養ある、厳格な祖母の存在もあった。はじめから世間と一般を画して育てられたことは間違いのないことで、それは次の文章からも窺い知れる。

 

明治十年代にこの瀬戸内の漁村に生まれた私は、あの頃此処に生存していた太郎兵衛次郎兵衛の感化を受けたのである。彼等によって人生を知るやうになったのである。

自分の家を一歩出れば我儘の通らぬ事を、子ども心によく覚えた

他所の子供の持っている玩具を我が物としようとして争って、負けて泣いた事も、人生を学ぶ最初の一事件であった。

垣の外をのぞいて、さまざまな人生光景を見たが、それ等は大抵嫌悪すべき記憶をのちのちまで留めたのであった。(「人間嫌い」昭和24年、1949年)


「岡山の風土」から抜粋

 

白鳥は人一倍宗教的関心の強かった人として知られているが、彼の生まれ育った岡山という土地はその点でも関係があるだろうか。

岡山というと古くから備中に吉備津(きびつ)神社があり、古代日本の宗教的中心地の一つであったが、神道とあまり縁のなかった白鳥に、そのことは直接関係がなさそうである。

 

僕は死ぬるとき、どう言って死ぬるか、キリストを拝んで死ぬるか、あるひは阿弥陀仏で死ぬるか。(「文学生活の60年」昭和37年、1962年)

 

これは晩年の言葉であるが、ここに「阿弥陀仏」が出てくるのは注意を惹く。

「阿弥陀仏」への帰依を唱えた法然(ほうねん・1133年~1212年)は、なんと吉備津神社の神官の子だったのである。(黒崎秀明「岡山の人物」1998年)


この評伝では、白鳥さんが法然を知っての「阿弥陀仏」なのかは不明とされているけど。


いやあ、知ってたと思うけどなあ、勘だけども。


それと学生時代を経て、読売新聞に勤めていたらしいけど、主義主張の違いから、辞めた件。


まあ、そうなるよな的な展開。こんな人が新聞社にいたら大変だよ、きっと。


そして、最期は何を拝んだかも書いてあるけど、今回は割愛し、ご夫婦の関係の方をフォーカスいたします。


「第4章結婚と成熟 無関心と寛容」から抜粋

 

白鳥夫妻の海外旅行の様子を映している作品に、「髑髏(ドクロ)と酒場」(昭和6年、1931年)がある。

そこに出てくる二人は極めて親密な夫婦で、例えば妻がパリのホテルの「女中」を格好が良いというと、夫がどの「女」を見ても絵画の中の人物のようで何を考えているのか分からない、と言う。

今度は妻が「同じ人間」だから言葉が通じなくても気持ちは分かると言うと、そう思うのは「うわべ」だけで、実際には分かったものではないと夫が言い返すのである。

互いの見解を認めつつ、それぞれが意見を出し、たわいなく会話を楽しんでいる様子が窺える。

(中略)

白鳥の寛容さは、彼の一見した無関心と冷淡の裏返しである。

たとえば「他所の恋」(昭和14年、1939年)という作品、そこに日本人と結婚した「不幸」なアメリカ女性が描かれているが、このアメリカ女性とその夫とは、周囲から見ればいかにも惨めな夫婦であるにもかかわらず、白鳥はこれを見て、本当に彼等が「不幸」かどうかは分かったものではないと言っている。

他人に安直に判断されると「何云ってやがんだ」と反感をいだくのが常であった彼は、無関心・冷淡と見える態度の裏で他人を勝手に判断しない公平無私な姿勢を貫いていたのだ。

これは寛容の倫理のあらわれといって良いもので、白鳥のそれがネガティブにあらわれるので目立たないが、ネガティブだからこそ確実だとも言えるのである(大嶋仁「異人の倫理と他者の倫理」参照)。

白鳥が歳とってから書いた「女といふもの」(昭和36年、1961年)には、「女」についての次のような文章がある。

白鳥の異性への対し方のみならず、他者へのまなざしが端的にあらわれている。

 

女なんて単純なものだとか、女は魔物であるとか、容易に極めかかるものもあるが、さう簡単に極められはすまい。女性には女性として、男性の窺ひ知らぬ魂の動き心の動きを持っているかもしれない。

さう思って、街上や乗物のなかで、婆さんの顔や少女の顔や、種々雑多の女性の顔を見ると、そこに生理上の現象を見るばかりでなく、哲学的疑問をそこに宿しているらしくも思われるのである。

 

これは皮肉ではなく、真面目な言葉と受け取らねばなるまい。

「女」にかぎらず、どんな存在にも、自分とはちがって「窺い知らぬ」面があるとつねに意識しつづけた人、それが白鳥だからである。


小林秀雄さんも正宗白鳥さんも共に色々あったようだけど、終生伴侶に恵まれ仕事を成されたと言えるのではないだろうか。


獅子文六さんの「娘と私」なんか読むと、男尊女卑の思想が見てとれるので同じ明治生まれという共通点で見た時、白鳥さん達夫婦は稀有な存在だったような。(だからってどちらがどうだってわけではないよ、「娘と私」は白鳥さんでは書けないと思うし。)


この評伝によると白鳥さん達は見合い結婚で(「見合い or 恋愛」は関係ないかもしれないが)お互いを認めつつ成長できる、という関係って自分が思うに理想だ。


偉大な人物の影に、支えたパートナーがいるってのはよくある話で、それは人間は一人では生きられないことを象徴している気がする。


今度、随筆のみならず小説も読んでみよう。(ってまだ読んでないんかーい!)


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