読まない力:養老孟司著(2009年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
養老先生の書籍は何冊も読み、
こちらでもご紹介賜っておりますが、
この本ほど付箋を挟んだ本は、
今の所ない。
どれを取り上げるか迷う所だけど、
一つならば、こちらを引用でございます。
広島・長崎の意味(2007年10月)
(中略)
多くの人は忘れていると思うが、東海村で事故があり、関係者が何人か、入院加療後に死んだ。
その一人の病状を私は詳しく知る機会があった。
担当の医師が私の後輩で、説明してくれたからである。
その医師がなぜ私に患者の病状を説明したか。
しなければ、いられなかったからである。
もちろん守秘義務があろうから、単純に公にはできない。
それなら医師ですら、耐え切れない思いがあったのである。
結論をいえば、人間には他人をああいう眼に遭わせていいのかというのが、原爆の倫理問題である。
私はそう思っている。
その話題が出ないのは、人々が意外にそれを知らないし、知ろうとしないからであろう。
広島・長崎を知っている日本人ですらそうなのだから、世界の人のことは簡単に想像できる。
はっきりいうなら「わかっちゃいない」のである。
人間はどうせ死ぬ。それならどう死んだって、同じじゃないか。
それをいうなら、誰でも死ぬ。それならどう生きたっていいのか。
ヒロシマ、ナガサキがあったおかげで、じつはあのあと核戦争がなかったのだと私は思っている。
その意味でなら、あの犠牲もムダではなかったのかもしれない。
もうそれを忘れかけているらしいから、老人としては一言、言い遺しておきたいと思った。
核爆弾の使用は全てテロだ。国連はそう決議すべきであろう。
禁止という言葉には具体性がない。つねに例外が生じてしまうからである。
殺人と戦争の関係がそうであろう。
余談が思いつかないほど、
これ以上、追記することはございません
あえて無粋ながらいうなら、
天才の仕事は時代を越える。