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思想と現実(現代偉人たちの言葉から):2022年6月最終日 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

昭和11年(1936年)、正宗白鳥と小林秀雄両氏が、


トルストイの死について見解の違いから


発展した論争がとても興味深い。



正宗白鳥―何云つてやがるんだ ミネルヴァ日本評伝選

正宗白鳥―何云つてやがるんだ ミネルヴァ日本評伝選

  • 作者: 大嶋 仁
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2004/10/10
  • メディア: 単行本

この論争は、「人類の教師」として仰がれ、理想を求めて「家出」をしたと報じられている文豪トルストイが、実はその妻のヒステリーを恐れて家を出たという「人生の真相」にはじまる。

白鳥はトルストイが

「「左の頬を打たれれば右の頬を向けよ」などと原始宗教の教旨を人民に強いながら、自分はヒステリーの老妻のために、肉を剥がれ骨を削られていたのである」

と言った後で、次のようにいう。

 

彼の妻は、多年彼に対して囚人を監視する看守のやうな態度を持していた。

トルストイは彼女の目を離れて、自由に一行の文章を作ることもできなければ、親しい友人と自由な談話を試みることも出来なかった。

トルストイの深夜の冥想をさへ許すまいとするやうに、彼女は真夜中に爪立足して、夫の寝室を扉の隙間から覗くのであった。

(「トルストイについて」昭和11年、1936年)

 

この白鳥の言には辛辣を過ぎて執拗なものがあり、それゆえ若き小林秀雄を苛立たせもしたのだが、どうしてそこまで執拗になれたのか。

小林の解釈では、妻のヒステリーをめぐるトルストイの煩悶は事実であるにせよ、そういうトルストイを揶揄する白鳥の根性はさもしいものだということになるのだが、果たしてそうであろうか。

思うに、白鳥の執拗ぶりには別の理由が含まれている。

トルストイの妻に対する煩悶は、白鳥にとって決して他人事でなかったと推察されるのである。

白鳥がトルストイに自分を投影した、というのではない。

白鳥の妻がトルストイの妻のようにヒステリックだった、というのでもない。

ただ、「偉大」なトルストイといえども、一人の男として妻という異性の強い「感化」のもとにあったということを、白鳥は「人生の真相」として痛感し、そのことをいいたかったと思われるのである。

さらに思い出したいのは、白鳥が人生の真実を文学作品に見つけようとする人ではなく、日常の生活の一々をに究極の答えを見つけようとする人だったということである。

そういう彼にとって、天才も凡才も本質において区別はなく、妻のヒステリーに悩むトルストイも、そのトルストイを不断に悩ませていたであろう妻も、根本において優劣の差はなかったのである。

そういう考え方をする白鳥であればこそ、たとえば次のような考えを述べもした。

 

老妻ソーフィア・アンドレエヴナにしても、孫や曾孫まで数に入れると、28人にもなる大家族をかかへながら、トルストイの空想の犠牲になって無財産の窮境に陥るのを恐れて、極力反抗したのは、人間性として当然のことなのである。(「トルストイについて」)

 

天才崇拝の小林とちがって、白鳥にはトルストイだけでなくトルストイの妻の立場も見えていた。天才ばかりがもてはやされ、その妻は天才の邪魔をしていたかのように言われるのはあまりにも不当ではないか、そういう思いが白鳥にはあったに違いない。

無論、小林のように人間を天才と凡才に区別したがる人間には、こういう白鳥の主張は理解できなかった。白鳥は小林の思い込んだような下司な見方をしていたのではなく、公平無私な立場から見ていたのである。


(中略)

白鳥を知る者には、彼がいかなる偶像崇拝も嫌いで、「天才」トルストイといえども崇める対象にしなかったことは明らかである。

一方の小林は、何がなんでも「天才」の領域を守ろうとした人であり、ここに対立が起こったのである。

小林の書いたものを見るかぎり、彼が「美」を尊ぶ人であり、「美」を「真」や「善」より尊ぶ人であったことは明白である。

日本が戦争に深入りするにつれ、彼は古美術や骨董に埋没し、古典音楽に耽溺していくことになったが、それは彼が審美生活を人生の中心に据える人だったからである。

そういう審美的態度は、白鳥の長い生涯に一度も現れたことはない。

白鳥にとって、人はなぜ生きるのか、死とはなんなのか、人間はどうしてこんなに愚かなのか、そういう問題にしか関心がなかったのである。


「トルストイの大論争」について、吉本隆明氏が


別書籍で書いているので引用です。



「すべてを引き受ける」という思想 (光文社知恵の森文庫)

「すべてを引き受ける」という思想 (光文社知恵の森文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2018/02/08
  • メディア: 文庫

▼吉本

このトルストイの死については、正宗白鳥と小林秀雄が大論争をしています。

正宗白鳥が、「いくら偉そうな人でも、死ぬときには夫婦喧嘩みたいなことで奥さんに追い出され、駅まで行ったところで倒れて亡くなってしまう。

人生の実相はかくのごときものである」という意味のことを書いたら、小林秀雄が猛然と反発して、

「思想が実生活から生まれることはたしかだけれども、実生活を離脱しなければほんとうの思想とはいえない。トルストイはまさにそういう人だった」

と言い返した。

つまり、トルストイの思想も実生活から出ているが、しかしそこを離脱して、ちゃんと自立した立派な思想になっている。

あなたのように「人生の実相はこうだ」というのはおかしい、といって大論争になったわけです。

若いころのぼくは圧倒的に小林秀雄の見方のほうがいいよと思ってましたけれど、いまは、いや、これはそうとばかりはいえないぞと思います。

正宗白鳥のいう感じが少しわかってきたからです。

老人っていうのはそういうものだよな、と思います。

老人の絶対的な寂しさと、家族や子どもとのあいだに生まれる孤独感、そういう寂しさが二つ重なったらどうしても弱気になっていきます。

トルストイといえども、それを免れなかったんだ、という感慨が湧いてきます。

ただし、正宗白鳥のように「人生の実相はそういうものだ」といって、そこで考えを止めてしまうと言い足しが何もなくなってしまう。

人間がどうしようもない存在になってしまう。

だったら、多田さん(※)のようにどこかに脱出口を見つけて、生きるだけは生きるさというほうが、真っ当な気がします。

※)多田さん=多田富雄さん(日本の免疫学者)病気で倒れ闘病を奥様がされ、一時は自殺を考えたが、生きる望みとして能を観劇したり、その台本を書いたり、それを演じてもらったりすることで生に繋いだということを「脱出口を見つける」として対談者の茂木健一郎氏が挙げていることを指す


「トルストイ」とは関係ないけれど


「思想」と「実生活」の問題、


「実生活」を「現実」とすると、


かの養老孟司先生が興味深いことをおっしゃる。



無思想の発見 (ちくま新書)

無思想の発見 (ちくま新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/12/06
  • メディア: 新書

思想は現実に干渉してはならない……それがいわば逆に思想の実存性となる。

だから思想とは、「現実無視の空論」であるしかない。

「現実に合う」思想なら、それはただちに「現実化してしまう」からである。

たちまち思想じゃなくなってしまう


「思想」と「現実」、この比較の考えって、


音楽とか芸術で言うところの


「作品」と「プライベート」みたいだな。


一般社会で言うところの


「仕事」と「プライベート」といったところか。


構造は同じだけど、なんか、レベル感は違うよなー。


余談だけど、それぞれ引用した時の


年齢から考えると面白い。


”人となり”みたいなのが出ているのかな。


年齢って時代と共にあるから、


単純に今の価値基準では測れないものあるけれど。


・正宗白鳥 57歳 (大論争中の昭和11年)

・小林秀雄 31歳(大論争中の昭和11年)

・吉本隆明 87歳(2012年対談時)

・養老孟司 69歳(2005年当時)

・トルストイ 没年82歳


若いころの小林秀雄さんの「天才崇拝」って、


大変僭越なんだけどなんか「わかる」。


ある程度年齢がいくと、経験を積むから、


見えるものが違ってくるってことなのかな。


 


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ガンディー:獄中からの手紙:森本達雄訳(2010年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)

ガンディー 獄中からの手紙 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/07/17
  • メディア: 文庫

無所有 即 清貧(1930年8月26日火曜日朝)から抜粋

無所有は不盗と関連があります。

たとえ、本来は盗んだ物でなくとも、わたしたちが必要でない物を所有しているならそれは盗品とみなされなければなりません。

所有するというのは、将来のために貯えることを意味します。

真理の探求者、すなわち愛の法(のり)の信奉者は、明日に備えて何ひとつ貯えてはなりません

神は明日のために貯えるようなことはしません。

言いかえれば、神はその時どきにどうしても必要な物以外は、けっして創造することはありません。

したがって、もしわたしたちが神の摂理を信じるなら、神は日毎に日常の糧を、ということは、わたしたちが必要とするすべての物を与えてくださることを確信していなければなりません。

古来このような信仰に生きた聖者や信仰者たちは、彼らの経験からつねにこのことが真実(まこと)であることを立証してきました。

日々われらに日常の糧を与え、余分なものはお与えにならないという神の法をわたしたちが無視したり蔑ろにしたりすることが、不平等や、それに伴ういっさいの不幸をひきおこすのです。

富者は、要りもしない余計なものをふんだんに貯め込み、結局はそれらをなおざりにし、浪費します。

いっぽう、幾百万という貧者は、食べ物がなく餓死するのです。

もし各人が必要な物だけを所有するなら、ひとりとして困窮する者はなく、万人が満足に暮らしていけるでしょう。

(以下略)


厳しい…ストイックすぎるのでは…


「必要でない物を所有しているのなら」=「盗品」って公式は。


しかも「貯えてはなりません」って…。


そんなふうに思う感性がある自分は、


コロナで所有欲から目が覚め、本・レコード・CDなど大量に売り


「必要な物を必要な分だけ」をコンセプトにしたサブスクに変えたはずが、


まだ西洋文明の価値観と合理性に掠め取られている精神がある証なのか。


まあ、ここは、難しく考えず、もっと断捨離できるのは確かだし


みんながそう思えば、世界はもっと良くなるのは間違いない。


<解説>ガンディー思想の源流をたずねて 森本達雄 から抜粋


(中略)

イギリス留学中のガンディーは、いじらしいまでの情熱を持って、留学中に母と交わした約束の履行に努めるいっぽう、当時のアジアからの留学生の多くがそうであったように、一時期ではあったが、完全に西洋文明の熱病に罹患してしまう。

その病状たるや重症で、想像するだに吹き出してしまうほどである。

(中略)

ガンディーを読んでいて思うのは、この人の人生の振り子の振幅の大きさである。

あれほど、文明病の熱にうなされていたガンディーが、やがて鏡の前に立って、己の恥ずべき「猿真似」の愚に気づくと、早々に、西洋社会の俗物根性(スノべリー)と訣別する。

文明受容のために故郷の兄からの仕送りを惜しげもなく浪費していたガンディーは、ある日から暮らしをギリギリまで切りつめ、弁護士試験の合格を目ざして涙ぐましい勉学を始めたのである。

お陰でガンディーは、三年たらずで、ロンドンのイナーテンプルの弁護士試験に合格することができた。


イ(ン)ナーテンプルとは、Wikiから引くと


「 (The Honourable Society of the Inner Temple) は、


ロンドン中心部のテンプル地区にある法曹院」


とあり法曹界の中でもエリートみたいなところかと。


それにしてもガンディーって、人間的興味が尽きない。


ひとつ分かったことは、西洋にかぶれて得た知見、


「やってみて分かった」ことがあるんだなと。


余談、全く関係無いけど、思い出した句が


あるのでそちらで締めでございます。


 


 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな by 松尾芭蕉


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坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記:横尾忠則著(2012年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記 (平凡社ライブラリー)

坐禅は心の安楽死 ぼくの坐禅修行記 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: 横尾 忠則
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

1975年のある日、横尾さんは横浜鶴見にある、


總持寺での若僧侶に心を打たれ、修行を決意、


6日間過ごした時の随筆から。


「禅に魅せられてー總持寺参禅」から抜粋


参禅はぼくにとってはじめての修行だった。

そのためか非常に緊張し、多分にストイックにもなっていた。

悟れるものなら悟りたいとも思っていた。

坐禅をすれば悟れると考える方が甘っちょろいわけだが、やっている時は本当に真剣だったのだから笑えない。

またこのような修行をしている自分が、不思議に頼もしく思えて、一人自己満足に酔っていた。

しかし、このような自己満足は逆にマイナスで、修行者がしばしば堕ち込む危険な罠であることもわかった。

次から次に浮かぶ煩悩(迷い、惑い、苦しみ、悩み、妄想など)との闘いがぼくの禅でもあった。

普段から煩悩とは思えないものまで煩悩と感じるわけだから、知らず知らず自分を見詰めることになる。

しんどいといえばしんどい話だ。

しかし煩悩の流出は毒素がでるようなものだから出た後は爽快だ。

禅寺での生活は全く日常離れしている。

何一つ頭を使うことなく、ただただ一生懸命に坐り、お経をあげ、掃除をし、また一生懸命ごはんを食べて、日が暮れると寝るのである。

健康といえばこれほど健康で、しかも自然な生活は他にないかもしれない。

禁欲的といえば禁欲的であるが、それはあくまでも物質的、あるいは快楽的なものに対しての禁欲で、人間が本来それほど必要としていないものにわれわれは執着して生きており、そして人間を病気に追いやっているのだろう。

日常生活の中で半病人的な生活を送っているわれわれにとっては、禅寺の生活は非常に単純で目的性がなく、ただ無意味で退屈なもののように映るかもしれない。

しかし考え方を変えればここはすべての欲望と誘惑から遮断された地上の楽園でもある。

目的も意味もなく生活することがどんなに解放されて楽しいかは禅寺に入ってみなければわからない。

(中略)

「阿含経」(小乗の根本聖典)の釈尊の教えに耳を貸すことができても、教えを実行することの難しさに加えて、ぼくは自分自身の矛盾と偽善性に、以前にもまして苦悩する日々が続いた。

この頃、ぼくはオカルトにも強い関心を抱いていた。

(中略)

超能力人間になりたいとさえ思ったのである。

そのためにサイキック(テレパシーなど)な訓練をしたり、ヨーガを習ったりもした。

しかしこのことがぼくにとってすごい欲望であることもわかっていた。

この欲望がある限りぼくがいくらあがいても超能力人間になれないと思った。

五欲、五蓋を離れることによって、その副産物として超能力を獲得するということも知った。

しかし、このような大それた目標をぼくの人生にとって何程に重要なのだろうかと、ふと考えることがあった。

それよりもっと重要なことは自分が「あたりまえ」であるということだとわかった。

今までのぼくは目覚めるためにかなりストイックでありすぎた。

そして、多くのこだわりからどうしても抜け出すことができなかったのだ。

オカルトやヨーガは一見非合理にみえるが非常に論理的である。

それに比較して禅はただ何も考えずに坐りなさい、そうすると悟れますと、いった具合に考えることを否定する。

だからぼくはどうしても禅が現代的ではないような気がしてあまり興味が持てなかったのである。

ところが参禅してぼくははじめて、禅の素晴らしさを知った。

悟ったという意味ではない。

理屈を超えてひとつひとつ体でいろんなことを教えられたのである。


禅に入れ込んでいた頃の横尾さん。


その後、1980年後半、


その頃ファッションデザイナーだった四方義朗さんの


テレビ番組に出演されて、坐禅のことを聞かれたら、


「あんなもんやめちゃった、何の意味もないから」


って、事もなげに仰っていた。


そしてさらに時流れて、2011年のこの本の


あとがきでは、さらに進化して。


「平凡社ライブラリー版へのあとがき(2011年)」から抜粋


そういえば禅は禅寺のみで坐禅修行するのではなく、日常生活の中で禅を実行するというのが禅の本来のあり方だという。

(中略)

ぼくは現在坐禅はしていない。

だけど禅寺の生活で体験した様々な知恵は、知らず知らずのうちに肉体の奥深くに浸透しているように思う。

例えば本文の中でも度々出てくるかもしれないけれど、「事実を事実としてみる」ということだ。

つまり「ありのままでいる」ということだ。

事実に余計な主観的な概念をくっつけてみないことである。

卑近な例を一つあげよう。

仮に満員電車の中で誰かに足を踏まれたとしよう。

見ると相手はどこかのオッサンだ。

謝りもしない。するとますます痛く感じる。

ところが相手がうら若き美人だったとする。そして「ごめんなさい」と謝られる。その瞬間痛みは消える。

そんな馬鹿なことはない、痛みは同じだ。

だけどオッサンと美人では格段の差がある。

何が事実かわからなくなる。こんな風に考え一つで事実が事実でなくなってしまう。

こういう時、禅は余計な概念を持ち込んではいけないという。

われわれの日常生活の中でも、このような現象は毎日起こっている。

そんな時、事実から目を離さないことだ。

事実に脚色を加えないで、事実はあくまで事実として見るべきだということを、言葉でなく、坐禅や作務(さむ)などの禅寺の生活の中で身体で感じさせていくのである。

学校や書物ではなく、そして言葉ではなく、すべて身体で感じさせていく。

つまり知識ではなく知恵である。

知識は半分は暗記した記憶だけれど、知恵は身体を通して感じ取る、個としての体験といえる。

知恵は一度身体を通過してしまうと、永久に忘れることはない。

(中略)

さあ、一生に一度ぐらいは禅寺に籠って坐禅でもしてみたら如何でしょうか。


この本の解説は田原総一郎さんで、氏曰く


「たしかに、観念ではなく身体を通して


理解するというのは大切なことだ」と。


うー、禅寺で坐禅かあ、その高みに行けそうにないなあ。


家(日常生活)で風呂上がりにする坐禅で、


しばし事足らそう。


このあとがきの最初で横尾さん、本文を


全く再読してないと高らかにおっしゃる。


書き直したくなるからだそうです。


本当は面倒くさいからではないか、と思ったりして。


余談だけど、ここで引用してないが、總持寺の参禅に


同行されてたのがお二人いらしたそう。


そのうちのお一人は、横尾さんとインドにも


行ってらした方で、


自分が若い頃だから90年初頭くらいデザイナーを


やってた頃、仕事をしたことのある方で。


ものすごくピュアで、さすが横尾さんといいたくなるような、


いい人にはいい人が、っていう、ご縁とか、つながりを


納得するようなキャラの方でございます。


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知の旅は終わらない:立花隆著(2020年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと (文春新書)

知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと (文春新書)

  • 作者: 隆, 立花
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2020/01/20
  • メディア: 新書

立花ゼミは文系の生徒が多かったという。


高校で物理を取らなかった人と挙手いただくと


予想以上に多くてびっくりされたそう。


21世紀のインテリジェンスの


必須キーワード「バイオテクノロジー」だからだそうです。


「人類の新しい知的到達点」から抜粋


その人たちのほとんどが生物をやっていないはずです。

その人たちには中学レベルの生物の知識しかありません。

分子生物学の知識はもちろんないことになります。

基礎生物学だけでなく、医学、薬学、農学、食品科学など、いわゆるバイオ系といわれる全ての分野がそうです。

バイオの知識なしには、21世紀の知的活動、経済活動の大半がわからなくなるんです。

ですから、理系の人は専門課題に進む中で、それぞれの領域において、最先端のことがわかるところまで強引にキャッチアップさせられます。

しかし、文系の人は、自主努力の積み重ねで自分でキャッチアップしないと、現代の科学技術社会の流れから完全に取り残されてしまう。

学生時代の間に、大変な努力をする覚悟を持たなければならない。

そんな話をしました。

それで一年目の講義で取り上げた理系のメインの項目(多くの固有名詞や事項も触れましたからそのごく一部)は、次のようになります。

宇宙、ニュートン、脳、アインシュタイン、利根川進、相対性理論、分子生物学、CP スノー。

「二つの文化と科学革命」の著者で小説家でもあり物理学者でもあったスノーのように、理系と文系の両方に跨った人もいます。

文系のメインの項目は、キェルケゴール、「荘子」、ポール・ヴァレリーの「カイエ」「テスト氏との一夜」、小林秀雄、デカルト、ヴィトゲンシュタイン、エラスムス、ルター、TSエリオット・・・、

こんな感じでした。

とにかくあらゆることをしゃべりました。

元々、何らかのまとまった知識の伝授を目指したわけではなくて、知的刺激を与えることが主目的でした。

人類の新しい知的到達点に立ってみると、世界がどれほど違って見えてくるか、また、そのような時代に生まれてどのような生を選択するべきなのか、そういうことを考えるのに資するであろうことを、次から次へ片っ端からしゃべったという感じですね。

あっちへ飛び、こっちへ飛びしてある意味では、支離滅裂に見えるかもしれないけれど、「人間の現在」という筋は一本通したつもりです。


将棋の羽生さんとノーベル賞の山中さんの会話と関係があるのかもしれない。


羽生さん・山中さん曰く


アメリカで「アポロ計画」「ヒトゲノム計画」に次ぐ巨大プロジェクト、前々大統領オバマが2013年に「ブレイン・イニシアティブ」を推進。

アメリカに対抗してヨーロッパでも、巨大脳科学プロジェクト「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」を推進中。ローザンヌ連邦工科大学の主導で、EU(欧州連合)の資金で、スーパーコンピューターを使って最終的にヒトの脳をシミュレーションすることを目標。


「バイオ」と「脳科学」だとちょっと違うのか、


よくわからんけど、若い人はどちらも要注意ワードだろう。


自分は残念だが、その能力も体力もなさそうだけれど。


あと余談になるのかもしれないけど、昨今、第二の


田中角栄待望論を聞くことがあり、また自分も


今の日本の政治家よりはいいのだろうと


思っているところあったのだけど、


自戒の意味を込めて立花さんの言葉を引いておきまする。


「ロッキード裁判批判との闘い」から


角栄政治がもたらしたものを冷静かつ客観的に評価するなら、基本的に害毒以外の何ものでもありません。

角栄の時代がよかったなどというのは、競馬で身上を潰した男が30年前に大当たりを二、三度取ったことを思い出して、「いやあ、あの頃はよかった。天才的な予想屋がいて、その通りに買ったら当たり続けだったよ」などと懐かしがるのと同じです。

実際にはその予想屋もハズレが多くて、その通りに買ってトータルするとマイナスになっているのに、ハズレはみんな忘れてしまうみたいなものです。


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日本人はどう住まうべきか? 養老孟司:隈研吾 共著(2016年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

 「第1章「だましだまし」の知恵」から抜粋


■養老

建築の法規もそうだけど、被災地の再建法も一律というのは、おかしいですよね。

 

■隈

地盤と、地震波と、建築の振動数の相関関係から計算すると、もっと細かい建築が成立する土地もあるわけです。

そのような土地では建物の柱を細くしてもよいことにすれば、資源やエネルギーを無駄に使わなくて済む建築が可能になります。

逆に、もっと柱を太くしなければならないところも当然あるでしょう。

 

■養老

そういう計算は面倒なものなんですか。

 

■隈

全然、難しくないんです。

超高層ビルなどの特別な建物は「建築評定」というプロセスを通らなければならないという決まりがあって、そこではいろいろと綿密な計算を求められます。

ところが、評定がかからない建物は基準が一律で、パソコンですぐに計算できるようになっています。

それには、地盤の性質や建築の固有振動数といった要素は全く入ってきません。

でも、普通の小さな建築でも、そういった要素を取り込んで計算することは、今の技術レベルなら簡単なんです。無意味な一律の基準をやめて、それぞれの土地で細かく計算して「だましだまし」やるという方法も今なら十分可能なんです。

 

■養老

その「だましだまし」という姿勢は大事なことですよ。


「第2章 原理主義に行かない勇気」から抜粋


■養老

コンクリート建築の信用性というのは、社会や国などの信用性につながっているということですか。

■隈

間違いなくつながっています。

特に日本の大工さんは技術力が高くて、ベニヤを手早く組み立てることができた。

それが逆説的にまずかったのかもしれませんが、建築家がどんなに勝手な造形で図面を描いても、日本の大工さんがいればたちまち世界で一番きれいなコンクリートが打ち上がるんです。

建築家の妄想みたいなものを実際に形にしてくれる、素晴らしい職人さんがいたわけです。

(中略)

■養老

コンクリートでできていれば安心だ、という「コンクリート神話」が消費者側には確実にあるでしょうね。

 

■隈

これも逆説的ですが、中身が見えなくて分からないからこそ、強度を連想させる何かがある

生活の危うさとか、近代の核家族の頼りなさのようなものを支えてあまりある強さを感じるのかもしれません。

そういう何かにすがりたいという人間の弱い倫理につけ込んだ、詐欺のようなところがコンクリートにはありますね。

石やレンガの積み方はひと目で分かりますから、こちらは欺きようがない世界です。

でもコンクリートは完全に密実なる一体で、壊しようがなく、圧倒的強度があるようにみんな思い込んでしまう。実は中はボロボロかもしれないのに。

 

■養老

なぜ日本の都市建築では木をもっと使わないのでしょう。

 

■隈

それは関東大震災と、太平洋戦争のトラウマですね。

木造の建物が燃えて多くの人たちが亡くなったわけですから。 


「第3章「ともだおれ」の思想」から抜粋


■養老

現代人は感覚が鈍いですから。

自分の感覚が鈍いということも気がつかないくらい鈍いんです。

だから、身体が感受している情報を、意識の方が無視してコンピューターを信用したりするんだよね。それは大きく言うと、この社会を覆う「システム問題」と一緒です。

あるものを形作る非常に複雑な要素を、頭が無視している。

身体と意識の乖離は、医者をやっていると良くわかりますよ。

死にそうになっていたって、気が付かない人がいるんだから。

でめえの具合が悪いというのにね。

(中略)

■養老

意識というものが、あることは拾うんだけれど、あることは拾わないようになってきている。

しかも現代生活をしているとどんどん鈍くなってきちゃうんです。

 

■隈

だいたい、今どきの日本人って、変わったシチュエーションに置かれないでしょう。

例えば、先生の鎌倉のお宅に行く道は、でこぼこのある石畳でしたが、街では同じ堅さの平らな地面しか歩きませんから。

 

■養老

「土木・建設関係の人はなんでこんなに舗装するんだよ」と、いつも僕は文句言っています。

それこそ、着る物もいっぱいあれば、靴だって何十足も買えるような時代なんだから、泥だらけの地面を歩けばいいだろうと思うんです。

汚れたら洗えばいいだけなんだし、俺だって洗濯くらいできるよ、と言うんだけど、分かってくれない。

 

■隈

僕も、均等なきれいさから逃れる建築を試みているのですが、そう思っていてもすごく大変で(笑)。どんどんバリアフリーとかユニバーサル何とかになって、2ミリの段差も許さない、と言う不自然な社会になっているんですよ。

 

■養老

2ミリって段差っていうのかね。

(中略)

■養老

僕の言っていることって、現代文明への文句ばかりでしょう。

「じゃ、養老先生はどうしろとおっしゃるんですか」

と責められることもあるから、何とか審議会とか講演会なんかで、建物や街並みを語るときに、あらかじめ口封じで「一つだけ具体的な提案を申し上げます」と言っておくの。

「今後、新しい公共の建築物、ないしはご自宅を

新築なさるときは、全て階段は一段一段、幅と高さを

変えられたらよろしい。

そして、それをバリアオンリーの建築といえばいい」と(笑)。

 

■隈

荒川修作さん(現代美術家・故人)が設計した「養老天命反転地」(岐阜県養老町)のようですね。

養老天命反転地で来園者に骨折する人が続出したとき、「人間、骨くらい折ってみた方がいい」と荒川さんが返したというエピソードがあります。


「第4章適応力と笑いのワザ」から抜粋


■養老

地震という自然要因だけで大変なのに、エネルギー問題をどうするかについてまで考えると、頭が痛くなります。

都市に人口が集中した方がコストの面ではメリットがあるけれど、そうすればいいとは簡単に言い切れないですよね。

インフラだけに限って言えば、集中すればコストは安くなりますが、都市の在り方としてそれば望ましいのか。

だから最終的には、人の生きる世界が二極化していく可能性があるなと思っています。

田舎で自給自足し、地産地消型で生きていく世界と、

都市でできるだけ物流を効率化して生きていく世界の二つです。

 

■隈

それは昭和初期の東京と地方の在り方とは違うんですか。

 

■養老

時代云々にかかわらず、いつでも人間の社会は基本的にそうです。

ただ、それがさらに極端に分化するしかないだろうと思います。

だからその両極端がケンカするとまずいんだよね。

都市が田舎を支配したり田舎が都市を支配したりする格好になると、具合が悪いことが必ず起こります。

だから僕は両方を行ったり来たりして暮らす、「参勤交代」を今から勧めているんですよ。

都市と田舎の二つの世界をバランスさせることが、おそらく一番効率がいい。

これが結論になるんじゃないかな。

 

■隈

そのバランスの支点をどこに置くかが肝心なところですね。

 

■養老

今の人に考えさせると、俺はこっち側にすると、すぐに結論を言ってしまいます。

でも両方を適当に行ったり来たりでいいんじゃないですか。

都会に住んでいる人でも、1年のうちに、あるまとまった時間を田舎で過ごす、とか。

日本なんか小さい国なんだから、そういう実験には非常に向いているはずなんです。

なのに、日本が地球温暖化対策のリーダーシップを取るとか、政府はバカなことを言っていてさ。

第一、リーダーシップって言葉時代がおかしいよ。

モデル国家になるというならまだ分かる気がするけども。

人が真似しようと、しまいとそんなのよそのみなさんの勝手でしょう。

炭酸ガスを減らしましょうなんて、日本が音頭をとる必要はないですよ。

だって日本が出しているんじゃないんだから。

どうしてそんな当たり前のことを、この国では言えないのかね。


以下、最後の引用は、お二人の仲を取り持つこととなる、


隈さん著作の「負ける建築」のあとがきから。


養老先生おっしゃるにお二人は、学生時代の先輩・後輩にあたるようで、


キリスト教系の厳しい教育だったから尚更なのかもしれないが、


時期は違えど同じ道に行ったにもかかわらず、


何か分かるという”触覚”がピンときたご様子で。自分もこの本のタイトルすごいなと思ったんだけど。


負ける建築:隈研吾著(2004年) 岩波文庫版のあとがきから


普通の時代には、建築は新しく作る必要はめったに起こらない。

今すでにある街、今すでにある建築を、少しづつ手直ししていくというのが、建築の普通の在り方であり、建築家の普通の仕事のやり方である。

そんなものは建築家ではなくて、ただの修理屋だろうというならば、建築家という名称は、もう返上してもいいと思う。

特殊な時代の特殊な職業でした。もう必要ありません、お返しします、と。

そうなったとしても、修理屋の仕事は充分に楽しいだろう。

そして実際に僕がやっている仕事のかなりの部分は、修理、修繕のデザインであり、それはとてもやりがいがあるし、高度な経験・知識を必要とする知的な作業である。

修理屋はみんなを幸せに、街をより住みやすい場所にするために、かなり役立っている

このテキストは、慌ただしい時代から、そのような静かで地味な時代への、転換のドキュメンタリーである。

2018年9月 隈研吾


これ、よくわかる。「建築家>修理屋」って公式、頭くるけど、甘んじて受け入れるっての。


余談だけれど、隈さんの公式と重ねるのも大変僭越ですが、自分も似たような境遇だったというか。


(建築系ではないのだけど)


その時は正直良い気分ではなかったですけど、


わかる人はわかればいいわ、生活もできてるし


程度であまり深刻に考えてなかったけど、


このあとがき読んで、なんか「分かる」気がして、


昔を思い出すってことは、今も自分の中にしこりが残ってるってことなのか。


ああすればよかったのか、なんて。


ま、今は全く関係ない仕事なんで、良いと言えば良いんだけど、


看過できないので引いてみました。


要は、仕事は現場が一番実りある、それを分かってない輩が多いと


労多し、ってことかなあと。


それと社会の「役に立っている」という自負なくして「仕事」とはいえないなあと感じた。


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三島由紀夫の言葉 人間の性(さが)至極の名言集:佐藤秀明編(2015年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


三島由紀夫の言葉 人間の性 (新潮新書)

三島由紀夫の言葉 人間の性 (新潮新書)

  • 作者: 佐藤 秀明(編)
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/11/13
  • メディア: 新書

稀代の小説家であることは疑いようのない事実で、


そら名言も沢山あろうぜよ、と思うけれど、


この書籍を購入するに至る理由の一つは、小説以外


随筆とか新聞寄稿など、いわゆる純文学としての原稿以外から


拾っている希少性(レア)の強いものが沢山含まれている事と


最大の理由は、編集された佐藤秀明さんの感性で括られている


各名言集たちを紹介する「まえがき」にあると云っても良い。


と三島由紀夫風の書き出しにしてみました。


(どこがだよ!)


 


「男女の掟」で括られた名言のまえがきから佐藤さんの言葉


戦後、結婚の自由、恋愛の自由、セックスの自由が順次謳歌された中で、三島由紀夫は、「自由」を認めつつも、タブーの消滅がエロスの減退に向かう危険を察知していた。

それが恋愛や性や結婚についての皮肉な眼差しとなって表現されることになる。

男らしさ、女らしさの過剰な強調も、異性愛エロスの昂進を望んだからであろう。

しかし、現代の目からすれば、男らしさ、女らしさというジェンダー化は、いささか滑稽ですらある。

三島は、文学作品では、「仮面の告白」「禁色」で男性同性愛を描き、「春子」でレズビアンを、「鏡子の家」でサディズム・マゾヒズム、「幸福号出帆」「音楽」で兄妹相愛、「金閣寺」で性的不能、「沈める滝」「音楽」で不感症を描くなど、多様な性のあり方を知っていた。

これらが単なる小説的設定とは思えない。

にもかかわらず、随筆や評論では男と女を分け、本質主義的な思考を展開している。

なぜだろうか。

おそらく三島には、自己の性志向についての不安があり、それが旧来のジェンダー秩序を求めることになったのではないかと推察される。

恋愛・結婚・セックスは、後年「ロマンチックラブ・イデオロギー」と呼ばれ批判的に検討されることになるが、この三点セットが人々の間でまだ輝いていた時代に、三島はなかなかの大人の目を持ち、冷たく突き離して論じている。

ちなみに三島由紀夫の結婚は、33歳の時で、見合い結婚だった。


「男女の掟」で括られた名言から三島さんの言葉


この世の中にはいろんな種類の愛らしさがある。

しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であろう。

美しいと謂れている女の人工的な計算された可愛気は、

たいていの場合挫折する。

実に美しさは誤算の能力に正比例する。

「好きな女性」(「知性」昭和29(1954)年8月)


子供が可愛くなってくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨てねばならぬ時に、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞いをするようになるのではないかという恐怖がある。

そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬ時、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、という恐怖も起る。

主義を守り通すためには、まず有り余る金があればいいのだが、その有り余る金を稼ぐには、主義の妥協が要る。という悪循環は、子供のお陰で倍加するであろう。

「子供について」(「弘済」昭和38(1963)年3月)


「芸術の罠」で括られた名言たちのまえがきから佐藤さんの言葉


芸術には毒がある、ということはたぶん誰でも知っている。

しかし、芸術の毒の効き方に精通している人はそう多くはないだろう。

そこらの物質的な毒と違って、芸術の毒は、摂取した人の気のもちようで効き目が変わるという性質を持っている。

文学や芸術を愛する人にとっては、毒の効用をこの上なく的確に説明したこの三島由紀夫の文章は、間違いなく至言の宝庫である。

拳々服膺(けんけんふくよう)し、読むだけでなく、ペンか筆を執って書き写して毒にあたるのがよろしい。

ーと書くと、芸術を教養主義的な興味で捉えている人を鼻白ませることになる。

芸術の毒を偏愛するのは自傷行為と同じで、高い芸術性を受け止め損ねるはずだというのである。

人には自己防衛本能があるから、毒を摂取しても、毒の味覚を意識しなければ体外に排出してしまうのである。逆に過剰に反応して、「生活」を破壊してしまう人もいる。

三島の芸術論は、自己防衛する人には勇気を、自傷的な意識過剰の人には、自己を相対化する論理を差し出している。

では、当の三島は、芸術の毒をどう受け止めていたのか。

三島は生来毒に強い素質を持ち、幼児から毒に慣れ親しんでいた。

この二つのことによって、毒を快楽とする抜群の体質を保持していたと思われる。


「芸術の罠」で括られた名言の中から三島さんの言葉


引用文などというものは自分に都合の良いことか、弁駁(べんばく)するのに都合の良いことしか引用しないもので、世の引用文のまやかしは引用者のさもしさを人に見られないための仮面に役立つことである。

「戯曲を書きたがる小説書きのノート」(「日本演劇」昭和24(1949)年10月)


弁駁とは「他人の言論の間違いを正す」とのこと。


そのつもりは毛頭ないが、このブログは引用でほぼ成立


三島さんの言葉を借りると、


自分のさもしさを見られたくないための


仮面なのだろうか。


いやいや、見られたいからブログなんだろう。


考えると疲れるからやめよう。


余談だけど、三島由紀夫を語っている方たちは、


星の数ほどいらして、ついていかれないのですけれど


客観的でかつ、現代の言葉・感性で、しかも


自分に響く言葉で論じられている人って


この佐藤秀明さんと松本徹さんのお二人が


ダントツに面白いし


自分に合っている気がする。


最期があまりにも壮絶なため、ものすごく誤解されているきらいが


あるのですよね、三島さんって。


いささかの誤解も生まないような芸術は、はじめから二流品である。

「川端康成読本序説」(昭和37(1962)年12月)


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イヤシノウタ:吉本ばなな著(2018年)他 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


イヤシノウタ (新潮文庫)

イヤシノウタ (新潮文庫)

  • 作者: ばなな, 吉本
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/10/27
  • メディア: 文庫

吉本隆明とばなな親子の対談


「書くことと生きることは同じじゃないか」


から抜粋。


太宰治が好きだと仰る隆明さん、


漱石・鴎外も立派だ。


翻って自分はどうなのか


「平凡な物書きで終わりそうだな」


と言うとばななさん


「自己評価低っ!」と。


それに対して諌めるような感じなのか、


隆明さん仰るに


「そんな大した作家になることが大切なことなのか?という気持ちも一方にあって」


として以下続けられます。


「人生で最良の喜びとは」から抜粋


■吉本

平凡でもとにかく夫婦仲はいいし、まだ小さいけれど、いい息子がいて、今が幸せでしょうがないんだという家庭がだったら、もうずっとそれで通しちゃえって。

 

■ばなな

それは私に望むことですか(笑)

 

■吉本

僕だったら、そう考えると思うな。

傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、

「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりそうにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。

もし、あなたがそうだったら、「それ、悪くないからいいですよ」って、僕なら言いますね。

それ以上のことはないんです。

どんなに人が褒めようが貶そうが、そんなことはどうでもいいわけで。

漱石・鴎外は、確かに人並み以上に偉い人です。

でも、それが唯一の基準かと言ったら、全然そうじゃなくて、俺のうちのことなんか、近所の人や肉親以外は何もいってくれないけど、でも、俺のうちは一番いいんだよ、自慢はしないけれど、自慢しろって言えばいつでもできるんだよ、って言えるような家庭を持っていたら、それはもう天下一品なんですよ。

「うちは夫も子供も申し分なく、並びなきいい家庭をつくりました。近くにお越しの際は、いつでも立ち寄ってくださいよ」と言えるような人生にできたら、もう他には何も要らないと言うくらい、立派なことなんです。

それがいかに大切で、素晴らしいことかと言うのは、僕くらいの歳をとれば、わかりますよ。生きるって、僕はまだわかんないけれど、一生を生きると言うのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。

それだけは間違いないことだから。

(2010年6月4日収録)


こういうところが、


吉本隆明たらしめているような


気がするなあ。


少なくとも自分はすごく好きなところだ。


この対談はこの書籍の最後、


目玉になっててここでは最初に


紹介してしまったけど、他いくつかの短い随筆があり、


一つだけ特別光って見えたのを


全文引かせていただきますと。


「品」から抜粋


友だちと、共有の知人であるとある会社の社長さんの話をしていた。

「あの人は「うちの商品をたくさん送るよ、ここに住所書いて」って俺に住所を書かせて、未だに何も送られてこない」

「ええ、そんな!悲しいね」

私は言った。

友だちはほんとうにふつうに、さっと、表情ひとつ変えずに、こう言った。

「いや、きっとそのときはほんとうに送る気持ちだったんだろう」

すっくと立ったその姿がまぶしく見えた。

その後に続く言葉が私には聞こえてくるように思えた。

だから、もらったのといっしょなんだよ。

そういう意味だった。

私は、こういうことこそがほんとうに上品ということなんだなあと感じた

そして友だちのことを誇らしく思った。

もしかしたら全部がとてつもなく下品になりそうな要素がその場に全部揃っていたのに(悪口やうわさ話や卑しさや欲しがりや)、すっとまるできれいなふきんでテーブルを拭くときみたいに反射的にきれいなものにしてしまったからだ。


こういうことって、自分もたまに


遭遇するけど、言葉にできない。


さすが小説家です。


それと最後に別の書籍、吉本さんが


まだ歩ける頃だから


かなり昔、初の対談集として上梓のものから。


吉本家のある日の一コマが知れて、ほのぼのした。


この本のコンセプトはそういう本では


なかったけど上との流れで、つい。


すみません。


  吉本隆明 X 吉本ばなな:共著(1997年)


 「ばなな幼少時の吉本家の団欒」から抜粋


(インタビュアー)ばななさんがさくらももこさんとの対談で盛んに仰っていたんですけど、お母様はサンタクロースがいるんだということを執拗にばななさんにーー。

 

■ばなな

ああ、なんか、騙すんですよね。騙されました。

 

■吉本

それはねえ、相当頭を使ってねえ。

 

■ばなな

そう、頭を絞るのすごく楽しそうなの

 

■吉本

絶対にわからないっていうか。絶対に寝てるとかね、絶対に気が付くはずがないっていうところまで我慢してっていうかね。夜が更けても我慢して(笑)

 

■ばなな

こんな根気を持ってこんなことやるかっていうような。

 

■吉本

そうそうそう。冗談でっていうユーモアでっていうか。

いい意味で騙すっていうことについてエネルギーは相当に良く使って最後まで。

 

■ばなな

あの情熱を何か他のことに傾けたら。

だってタンスに二時間隠れているとか平気でやるんですよ、驚かすためには。

 

■吉本

そうそう、そういうこともあるしさ、今だってこれの上の子供と一緒になってさ。

 

■ばなな

ああ、知ってる人をね4月1日に騙すんです。

 

■吉本

それもすごいエネルギーの騙し方で。例えば卵をたくさん買ってくるでしょ?

そんな中のある部分だけゆで卵にしておいてとかね。

もうものすごい、冗談もここまでやるのかっていうようなね。

 

■ばなな

なんか救急車クラスのものまでありましたよね。

 

■吉本

そうそうそう。

 

■ばなな

なんかよく覚えてないんだけど、誰か死んだとか言ったり、あと、なんか嘘の電話番号を教えてかけさせたりとか。あれ相手によっては本気で怒って絶交しますよね。


こういうのを「幸せ」と呼び合える


人たちと共同生活できたら、


それが「本当の幸せ」なのかも知れない。


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世間とズレちゃうのはしょうがない:養老孟司・伊集院光共著(2020年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


世間とズレちゃうのはしょうがない

世間とズレちゃうのはしょうがない

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2020/10/14
  • メディア: Kindle版

「「幽霊は現実だ」といえる場合がある」から抜粋


■養老

幽霊っているんだよね。だっていなきゃ言葉にならないでしょ。

頭の中にいるんですよ。それは間違いない。だから世界中にいますよ。

「外にいる」とか言いだすから変なことになるわけです。

頭の中には間違いなくいるという話。

だから「幽霊を見たから」と大急ぎで逃げて、転んで足の骨を折ったりするわけです。

そういう時、「幽霊は現実だ」と言えるでしょ。

 

■伊集院

ふむふむ。

 

■養老

「幽霊はいます」でいいじゃん。

幽霊の絵だってたくさんあるよ。

あと、幽霊のことを考えるにしても、戦争中と平和な時ではまた違うものね。

人ってそういうものでしょう?

たとえばフィリピンで終戦を迎えて帰ってきた人が

「飢えた兵隊が戦友を食ったことがありました」と証言する。

そうすると、人間はそういうことをするものだと性悪説をとりがちですよね。

でもその時、「それは違うんじゃないかな」と思いました。

人間は性悪でも性善でもなくて、状況次第だろう、と思ったんです。

状況次第で自分だって「食わなきゃ死んじゃう」となれば食うかもしれない。

性悪とか性善とかは、その状況に置かれたことがない人が言うんですよ。

人間の性は本来善だとか悪だとかいう考え方が変なんだと思いますよ。


「性善」「性悪」って簡単に言えないよなという話ですな。


「多様性」ってのも簡単には括れないって養老先生、この後の話で仰っていて興味深かった。


ちょっとこの書籍の「ズレる」コンセプトからズレますが、幽霊話で思い出した。


ヤマザキマリさんが、日本での恐怖体験をイタリアでしたら全く受けず大笑いされたという。


国が異なると、いないものとして扱われるのであれば、それはもしかしたら幻想だったのか。


個人的に、ミステリーは好きだが(UFO、UMA系)、幽霊は興味ないんだよなあ、なぜか。


どちらかというと、いるような気もするけれど。


「AIに仕事を取られるとよく言いますが…」から抜粋


■伊集院

新しい技術が登場するたびに、世の中がザワザワと騒ぎ出しますよね。

世間では「AIに仕事を取られる」と言う不安が拡がっています。

そうなると相当困るぞ、と。

 

■養老

AIに仕事を取られると言うその根本は、世の中の情報ですよね。

みなさん、「これからAIに仕事を取られる」と思っているけど、そうじゃないんだよ。

もう取られているんです

それに気づいてないだけなんです。

25年くらい前に聞いた、かみさんの病院に対する文句が

「お医者さんが私の顔を見てくれない」。

それはそうですよ。

情報だけを扱っている人間が医者になったと言うことです。

 

■伊集院

なるほど

(中略)

 

■養老

5、6年前に、かみさんと行きつけの銀行に

行ったときのことなんだけど、ある手続きをするときに銀行の人から

「先生、本人確認の書類をお持ちですか?」と言うんです。

普通は運転免許証なんでしょうね。でも僕は運転免許を持ってないんだよ。

そしたら向こうは「健康保険証でもいいんですけど」と言うんです。

健康保険証なんて持ってこないよ。

病院じゃないんだから。

そうしたら向こうがなんて言ったか。

「困りましたねえ。分かっているんですけどねえ。」って。(笑)

そこで、「あれっ?」と思ったんです。

「本人確認の書類を持って来い」と言われたけど、

「そうすると、お前は誰だろう?”本人”って何だろう?」と思ったわけ。

 

■伊集院

本当だ!(笑)

 

■養老

それがしばらく疑問で、それから数年経ってだよ。

会社で働いている知人が「近頃の若者はね」と言い出した。

「同じ部屋で働いていているのに、メールで報告してきやがった」と怒っているわけ。

「あいつらは職場の仲間同士で、仕事の話をメールでやりとりしているらしい」と。

その瞬間に「なるほど」と気がついたんですよ。

要するに、彼らは「本人が嫌」なんだよね。

課長が同じ部屋で働いているんだけど、

課長の顔を見に行くと、二日酔いで機嫌が悪いとか、

上司に何か言われたらしいとか、余計な情報が入ってくるでしょ。

メールだと、そういうめんどくさいものが全部落ちるんですよ。

そのとき「会社員も医者や銀行員と同じだ」と思った。

つまり「われわれ人間は何か」というと、もはやノイズなんですよ。

不潔で猥雑で意味不明だから、そう言う存在はない方がいい。

だから最近は結婚もしないのかもしれませんね。

なにしろ現物はノイズの塊なんだから。

だから国も「マイナンバー、番号一つでいい」と言っています。

あなた本人はいらない。その裏を取るものもいらない。

公にいらないと言っているわけじゃないんだけど、

本人を番号一つにすると言うことは、そう言うことでしょ。

番号にできるんだよ。その方が断然効率がいいと言うことでしょ。

 

■伊集院

情報部分以外は、関わりたくないということですね。

 

■養老

そう。

だから同じ会社に勤めて同じ部屋にいても、「メール以外はいらない」というわけですよ。

電話も使わない。

電話だと「今日は機嫌が悪い」と分かるからね。


自分が会社員だった頃、自分の作った資料を


営業訪問の資料として使いたいから「ください」って


新入社員からメールが来て、声も掛けずにメールだけかよ、


って腹も立ったけど、時代も変わったのかな、と思いつつ添付送信後、


「そういう場合、一言声掛けなさいや」と指導した記憶あるけど。


今なら「あげてもいいけどなんか返せ」って言う、メールだけで来ても抵抗なく。


「返せ」っていうのは、客先の反応やら、資料を補強できるような何かってことで、


まったく、今更の不毛なことを考えて、意味ないなー、これ。


AIの養老先生の見解「コンピュータは文房具だからさ。文房具だけあって


人間がいない世の中って、そんなバカな話がありますか。意味がないって言うんだよ」と。


意味がないことの連続ですな。


「おわりに 養老孟司」から抜粋


(中略)

世間とは何か。社会の正統であろう。

正統とは、森本あんり(「異端の時代」岩波新書)によれば、「自己隠蔽性」を持つ。

自分はこうだと明示的に示さない。

それを言う必要がないのである。

しかも言ってしまうと「なんか違うよなあ」と言うことになる。

でも明確な説明なしに「それが世間の常識だろ」とも言うのである。

そういう鵺(ぬえ)みたいなものを相手にして、長年過ごしてきた。

だから伊集院さんを見ると「頑張ってね」と応援したくなる。

人生の半分は自然が相手で、残り半分は世間が相手である。

もっぱら世間しか相手にしない人は多い。

でもそれは不幸を生む。私はそう思っている。


ここには引かなかったけれど、他にも


興味深いことを二人で仰るには


「迷ったら一旦今の場所を離れ」「田舎暮らし」


「身体を使って疲れることが重要」と。


「田舎で暮らししたら、考える暇がなくなる」、というのは、


なんか「分かる」気がした。


余談だけど、伊集院さんはほぼ同世代、関東の人で、


同じような情報を浴びて中年になったという、


何となく感覚が近いのかこれまた、なんか「わかる」気がする。


「100分de名著」よく拝見させていただいております。


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まよけの民俗誌:斉藤たま著(2010年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

まよけの民俗誌


まよけの民俗誌

  • 作者: 斎藤 たま
  • 出版社/メーカー: 論創社
  • 発売日: 2010/02/01
  • メディア: 単行本

「はしがき」から抜粋


近頃まで私たちの身の回りにはまものがいた。

今だっているかもしれないが、多くのところでは住む場所を失ったのではないかと思う。

まものがどんな姿をしているか、これはまだ誰も見たことがないのでわからない。

目に見えない。これがまものの一大特徴なのである。

けれども性格ならよく知られている。

やたらと人の平安をうらやむのである。

人の幸せ、喜びが妬ましくて堪らない。

うの目たかの目、邪悪な目で人々の間を漁り歩くのだ。

まものが攻撃の対象とするのは何も喜びの中にある人間ばかりではない。

その折りが特に効果が上がる、つまりやっつけ甲斐あるというだけで、常日頃からまものは世に仇なすことばかりに精を出しているのである。

暴風をもたらし、大雨を降らせ、空の天井で地団駄を踏んでかんしゃく玉を破裂させ、地を震(な)らし、時には太陽をも呑み、田畑に虫を湧かせ、そちらこちらに火事を起こしてまわり、邪気を発して風邪をひかせ、取りついて体をなえさせ、炎の移り行く勢に悪病をはやらせる。

究極の目的は命を取るのだ。

普通人に死をもたらすのは死神だと言い慣和される。

だからまものはこの死神とも一つものと思われる、疫病を起こすのは疫病神、諸々の悪業をしかけるのは悪神とも称される。

まものはまた疫病神でも悪神でもあるのらしい。

これらの攻撃に対して、人はただひたすら身を縮め、青ざめていただけだろうか。そんなことはない。

敢然として戦を挑んだ。大事な子どもを取られないために、家族をその手から守るために。

しかし何としても人間の方に分が悪いのは相手は見えないことである。

切っ先鋭く槍を突き出し、剣で薙ぎ払おうが、相手に当たっているのか、当たらないのかさっぱり手応えがないのではどうにもなしようがない。

そこでやったことは、少しでも可能性のあること、というのは少しでもまものを撃退させるのにくみすると思われる方策を、数を頼んで、回を重ねて行ったことだ。

自分たちにとって脅威である猛々しいものを盾とし、角や棘のあるものを前面に持ち出し、臭いものや汚いもので辟易させ、叩き音や爆発音を立て、光る物で驚かせ、火と粉う赤色で身を包み、目を惑わせる形象を掲げ、果ては足払いの如きペテンにかける。


「つまらないものですが」から抜粋


人に物を贈る時には、それがどんなに素晴らしい物でも「つまらないものですが」「粗末な品ですが」と口上をいうのが、古来、日本人の贈物に関するマナーであった。

それが戦後、欧米人並みの率直、素直な目で滑稽な行きすぎた卑下と受け取られ、嘲笑をもってかくいわれるようなる。

「人に物を贈るのに、”つまらないものですが”はなんたることか。

そんなつまらないものならやらなければいいではないか。」

(中略)

贈物は多くは食品、ご馳走様になるのだが、これらにはまものが取りつきやすかった・そのまもの、沖縄などでいうモノをよけるために人々は贈物の上に、彼等を祓う力ありと見られた唐辛子をのせ、南天をのせ、生臭や、邪悪な眼光を絡め取るような結びをのせた。

けれどもこれでもまだ心配だった。向こうだってそうやすやすとは離れるものでもないであろう。

贈物が相手の手に渡る際に聞こえてくるのが「つまらないものですが」「粗末な品ですが」である。

「なあんだ」である。そんなつまらないものには用がないないのである。

つまり言葉の上覆いというものなのだ。

(中略)

「素晴らしいものです」「おいしいものです」と触れるならどうなるか。

眠った子を起こすの道理、通り過ぎようとしたモノまで引きよせ、振り返らせ、蝿がご飯にたかるようにモノにまみれることになる。

そのモノがついたままの品を相手方に渡すということは、最大の無礼・無作法であった。

作法というよりは、病気もなにも悪いことはみな家や口中に入りこんだ邪悪なモノによって起こると見ていた人たちの間では、ほとんど命がけの規則であったろう。


この後、奄美大島で昭和50年代に著者が見た情景、祖母と孫と思われる関係の方の言葉のコミュニケーションで、祖母が故意に悪い表現・言葉で孫に声掛け、孫を災いから守るという事があったようだ。


ただし、島の古い習慣のため、新しい人には気分を害する人もいたようで、そういう時は「可愛いね」と大和ことば(標準語)を使うようにしていると直接島のお年寄りから聞いたという。


自分の子をさして「豚児」というのがある。

多くの文字の上で使われるようであるけれど、書く方だって少し勇気を要するのではないか、と思われる謙称である。

果たしてこれもただのへりくだりだったのだろうか。

中身の自慢を隠して「つまらないものですが」を口にするの気持、つまり、子どもにも「粗品」ののし紙を貼りまわす心だったのではなかろうか。


「愚息」「愚妻」というのもそういう文脈だったのかな。


それにしてもですね「つまらないものですが」が


単なる謙譲語ではないとは。


欧米諸国からしたら、非合理的なものの言い方だよね。


最近よく、明治以降に日本が失ったもの、を考える機会が多く


妙に今よく読んだり、聞いたりすることと


リンクした内容だった。


このほか、


「くわばらくわばら」「ハックション」「おとといこい」


という言葉や「赤飯」「拍子木」なども、


「まよけ」として機能させる


自己流の解釈を入れちゃうんだけど、ある種の


防衛本能の慣習だったようで興味深かった。


仕事場でコミュニケーションの一環として


活用またはトークしてみたいと存じます。


なーんて、難しく考えず、単に面白かったし、


懐かしい部分もあった。


昔の「日本」というか「世界」で残した方が


良い風習は残しましょうよ。


と、言ってられない世知辛い今の世界がなんか悲しい。


余談だけど、斉藤たまさん、なんで「魔除け」でなく


「まよけ」なんだろうな。


瑣末なことですが。これも「まよけ」の一つなのかな。


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リベラルという病:山口真由著(2017年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


リベラルという病 (新潮新書)

リベラルという病 (新潮新書)

  • 作者: 山口 真由
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/08/09
  • メディア: 新書


「はじめに」から抜粋


近年、日本の言論空間において「リベラル」という語をよく見かける。

 

日本においてリベラルとは一体何なのだろうか。

「憲法解釈を時代によって変える安倍政権は許せない。

彼らは戦争責任を認めて心から陳謝することなく、総理自ら靖国神社に参拝することで、隣国との関係を悪化させている。

我が国が世界に誇る平和憲法を改悪して、日本を戦争ができる国に変えるつもりなのか。

おまけに、彼らはマイノリティに対しても極めて冷淡だし、原発再稼働も認めるという。

このような極右政権に対して、我々リベラルは断固として闘うべきだ」

これが、リベラルの主張であるというのは、読者の皆様には、比較的受け入れやすいのではないか。

私は、2015年から一年間、ハーバード・ロースクールで学んだ。

アメリカは、リベラル政党である民主党が政権担当能力を持っている、稀有な国だ。

いわば、リベラルの本家とも言える。そこで私は衝撃を受けた

リベラルの定義について、先に述べたようなことを言えば、アメリカではポカンとされるか、場合によっては「全く逆じゃないか」と反論されてしまうのだから。

では、アメリカで言う「リベラル」とは何か。

それを理解するためには、アメリカという国を知らなければならない。

普通の日本人からすると、感覚的に理解しがたいアメリカという国を等身大で知るには、リベラルとその対概念であるコンサバ(コンサバーティブ=保守)を理解する必要がある。

なぜなら、これは建国以来の歴史と文化そのものだからだ。

そしてアメリカのリベラルと比較すると日本式のリベラルのどこか特殊で、なぜ日本という風土から浮いた主張に感じられるのかという理由も見えてくる。


「ポリティカル・コレクトネスとは何か」から抜粋


「ポリティカル・コレクトネス(PC)」という言葉をご存知だろうか。

人種的・性的・性指向的、いかなる意味でも少数者を差別しないことをいい、とりわけ表現の側面で注目される。

20世紀半ばから使われ出した言葉で、1970年代にはフェミニズムと結びついた。

「看護婦」のような女性であることを前提としている用語、「ビジネスマン」のような当然に男性であると決めつける用語に対して、フェミニストが抗議したからだ。

そこから発展して、80年代から90年代にかけては性差別に限らず、人種やセクシャリティへの差別表現をしてはならないという動きになった。

当然の帰結として、これは「リベラル信仰」と密接に関わってきた。

日本でも、女性を表す「スチュワーデス」は「客室乗務員」「キャビン・アテンダント」といった、性別に中立な言葉に改められた。

「肌色」も、肌には色々な意味があることから、今では「うすだいだい」と呼ぶのが正しいらしい。

いかなる少数者も差別しない「リベラル信仰」のもと、アメリカではPCは厳格に適用される。

公の場での発言では、少数者を差別する、またはそう解釈されかねない言葉を使ってはいけない。

ひるがえって日本ではどうだろう。

2015年暮れ、広告最大手・電通の女性社員が、24歳の若さで自ら命を絶った。

その1年後には、彼女の死を「過労死」とする判決が下された。

彼女は上司から「女子力がない」と言われることもあったという。

2016年というこの時期は、のちのち、「日本のPC元年」と振り返られることになるかもしれない。つまり、日本においてもPCの風がぐんと強まった時期、そうなるのではないか。

実際2016年を境として「女子力」という言葉に対する風向きが変わったように思う。


たとえば、資生堂の化粧品CMの中で25歳の誕生日を迎えた女性が、友人に

「今日からあんたは女の子じゃない」、

「かわいいをアップデートできる女になるか、このままステイか」

と言われる内容が問題となり、放映中止に追い込まれた。


著者の山口さんは、5年くらい前か、「ニュース女子」という番組に出ておられた。


綺麗な若い女性たち VS ジャーナリストのおじさんたちという構図で昨今のニュースに論陣戦わすという内容。


女性陣が新しい感性で切り込むから、古いおじさんたちはなかなかうまく説明できず、でも経験と金と地位はあるんだからな、俺たち、みたいな。


そこでは山口さんは「弁護士」ってことしかわからなかったけれど、ハーバード・ロースクールを卒業(オバマ前大統領出身校)だったことでこの本をご自身が書かせたようだ。


そこでの経験や知識、感じたことがまとめられてるのだけど、特に印象に残ったのを以下に抜粋。


「LGBTQQIAAPPO2Sって何?」から抜粋


既にかなり複雑な概念である「LGBT」という言葉は、さらに難しくなっていく。

「LGBT」だけでは、豊富なセクシャリティのすべてをカバーしきれなくなったのだ。

「LGBT」に包含されない人たちからすると「LGBTの権利」自体が、自分を無視する差別表現となりうる。

それは、PCの観点から正しくないということで、最近では「LGBT QQIA」という言い方もされるらしい。LGBTの後の「Q」は、クイアを指す。「奇妙な」を意味し、もともと否定的なニュアンスで用いられていた、この言葉は、そのうち「奇妙でいいじゃん。楽しいじゃん」と「クイア」に分類された側から、積極的に用いられるようになった。

そして、「同性愛とか異性愛とか性行動で我々を分類するな、我々は普通とは違っていて、個性的で素晴らしいんだから」という人々の主張と、そう主張する人たちの総称になる。

つまり「クイア」はLGBTすべてを包括しうる。

とすると、「LGBT」だけでは拾えなかった性的指向と性自認のバラエティが、クイアで全てカバーされるのかと思いきや、それではしっくりこない人がいるらしい。

次の「Q」はクエスチョニング。

自分の性自認や性的指向が定まっておらず、疑問を持ち続けている若者を指す。

「I」はインターセックス。染色体異常などにより、生まれつき身体の性が心の性と一致しない人、日本で言うところの性同一性障害などのことだそうだ。

最後の「A」はアライ。ストレートでありながら、ゲイの権利を理解して一緒に戦う人には「同盟」を意味するアライという分類が与えられる。

 

さらにこれでも括りきれない人がいて「LGBTQQIAAP」が、より正確らしい。

付け加わった「A」はアセクシャル。異性にも同性にも恒常的な恋愛感情や性的欲求を感じることがない人のこと。「P」はパンセクシャル。

個性によって他人に魅かれるのであって性別を超越する人を意味する。バイセクシャルとかパンセクシャルの違いは、男女という性別の違いを無視しているか否かーーそもそも性別が二つなんて分類には意味がない、という境地にまで至ったら、パンセクシャルになるらしい。

さらに長い「LGBTQQIAAPPO2S」という表現まである

付け加わった「P」はポリアモロウス(二人の間に限らず、複数人との間で恋人関係を認める行動のこと)、「O」はオムニセクシャル(相手の性的指向に関わらず、その相手に対して魅力を感じてしまう人)、「2S」トゥースピリッツ(こうした様々なセクシャリティを包括する言葉)。

もう限界だ。私には耐えられそうにない。差別主義の烙印は押されたくない。

かといって延々長くなっていく言葉と、刻々と複雑になっていく概念は、私の認知の限界を超えている。

言葉の端々にまで気を配って、どんな時も決して言葉尻を捉えられないようにしなければならない。

そんな社会では、私は神経症になりそうだ。

そう、ポリティカル・コレクトネスは、日本の「言葉狩り」よりもずっとややこしい

かつ、日本よりもずっと厳密に適用される。

笑ってしまうくらい複雑なものを、狂気に満ちた誠実さで適用し続ける背景には「宗教」がある。


日米の文化の違いをまざまざと


見せつけられる内容だった。


ほとんど呪文とかパスワードにしか見えない。


LGBTQQIAAPPO2Sってなんだよー。


文字校正泣かせだよな。


それはさておき、アメリカって体系立てて


物事をまとめる「合理化の粋」っていうのか、


そういうのは尊敬に値するけれど、


行き過ぎてしまうきらいがある気がする。


それこそがアメリカであり、特定の宗教を持たない


日本人の自分には「理解不能」なのかも。


文中にも出てくるけれどアメリカで政治をやるのは、


本当に大変らしい。


政治をやる予定はないけど、いろいろな場所で


グローバル化は強まるだろうから、こういうことも


他人事ではなく「理解不能」なんて言ってたら


笑われてしまう時代かもしれない。


 


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さよなら広告さよならニッポン 天野祐吉対話集(2014年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


天野祐吉対話集─さよなら広告 さよならニッポン

天野祐吉対話集─さよなら広告 さよならニッポン

  • 作者: 天野祐吉
  • 出版社/メーカー: 芸術新聞社
  • 発売日: 2014/09/12
  • メディア: 単行本

谷川俊太郎さんと、岸田秀さんの対談から抜粋。まず谷川さん。


昔と今の戦争の違いを「槍」と「銃」と言う表現をされ、


「槍」であれば刺した人の手の感触が棒に伝わるが、


「銃」だと弾丸が銃口を離れたらただ飛んでくるだけ、


撃った人の指先の感触もなく、


マスコミから発射される言葉はこれだとおっしゃる。


非人間的であるとして、谷川さんの詩から着想され


昨今(2001年ごろ)の日本語に話は及ぶ。


谷川俊太郎(詩人)

「言葉はいつも音楽に恋している」から抜粋

■天野

谷川さんの書かれる詩には、漢字が一字もはいっていない、全部ひらがなの詩も多いですよね。

それはやはり音というものと、どこかで結びついているんでしょうか。

 

■谷川

それもあるし、日本語は変化の激しい言語だということもあると思う。

つまり、百数十年前の明治維新のときに、西洋の概念や、制度、文物が大量に入ってきたときに、言葉そのものも入ってきたわけですね。

それをどうしても日本語に翻訳しなければならなかった。けっこうみんな苦労してね。

例えばデモクラシーには民主主義、ラブには愛というように当てはめたと思うんです。

当てはめるときに、大和言葉だけなら無理な部分を、すでにこの国は中国から漢字と漢語を輸入していたから、翻訳することができた。英語と中国語の一種の抽象性が合ってたんでしょうね。

中国語も外国語だったわけだから。

 

■天野

なるほど。

 

■谷川

漢字二文字で「社会」なんて言葉が作れちゃったわけでしょう。

そのおかげで、日本語はすごくうまく機能して、植民地にならずに済んだみたいなことがあるんだけれど、そのおかげで日本語が根無し草になったという気がすごくするんですね。

入ってから百数十年経っているんだから、いいかげん根づいても良さそうなのに、いまだに、例えば「民主主義」という言葉を巡ってみなが大喧嘩している。

コンセンサスがないというか。

それは、われわれの身体や暮らしに根づいた日本独自の大和言葉を、明治のところでいったん断ち切ってしまったことがとても大きい。

 

■天野

今おっしゃったような、根っこを断ち切られた、漢語に当てはめたような言葉なら、いくらでも無責任に言えますね。

 

■谷川

大学の若い先生なんて、そういう言葉で論文を書くからいくらでも書けちゃう。

 

■天野

テレビのレポーターにも多いけど、根っこを持たない言葉が氾濫して、世の中の言葉全体が空洞化していく。

 

■谷川

普通の人がインタビューに答えるのも、決まり文句で応えますよね。

その人独自の言葉で答えないし、独自の言葉で答えると、テレビのほうは多分切りますね、異物として。

 

■天野

例えば、テレビのレポーターが「付近の住民は口々に怒りと不安の声を出しておりました」と言わずに「近所の人たちはブーブー言ってました」と言ったほうが「槍」だと思うんです。

でもそんなこと言ったら、アナウンサーは怒られてしまう。そうやってマスメディアの中では、言葉がどんどん”からだ”を失っていく

 

■谷川

西洋が「個」だとすると、日本は「場」だって河合隼雄さんなんかは言ってますけれど、一人が突出した意見を言うのを嫌う。

その場を和やかにする、平坦化するのが日本人の優しさみたいなところがあって、それがマイナスに出てしまう。

 

■天野

そういえば僕なんかも使いますね「おっしゃる意味はよくわかりますが」と言いつつ、反対のことを言ったりする。(笑)

 

■谷川

おっしゃる意味はわかります。(笑)


話は、谷川さんの作った詩に、ご家族や矢野顕子さんがつけた音楽について、音楽での歌詞や、音楽ではないあくまで詩としても言葉の持つ力に話は進む。


■谷川

僕の中では音楽が一番偉い。詩はその次と思っている。僕は言葉はいつでも音楽に恋しているという立場なんです。つまり、言葉は本当は音楽になりたい。だけど、言葉は意味を持っているから、意味の重力に引きずられて、音楽になれない。でも音楽に恋している。

 

■天野

言葉にはどこまで行っても意味の重力はついてきますね。

 

■谷川

ナンセンスな詩を書いても、どこかに意味はつきまとう。その意味を軽くしていくのは、ユーモアの力でしょうね。言葉の力ひとつとして、ユーモアはすごく大事だと思う。


2008年ごろ小さな場所で谷川さんのトークショーに行ったことがある。


谷川さんはすごく健康そうな人に見えた。


それと取り巻き連中とかお付きの人みたいのがいなくて、ふらっときてふらっと帰っていく全く身軽な印象だった。


ご自分では意識も自慢もしないだろうけど、若さの秘訣みたいなものを感じた。続いて岸田秀さん。


 岸田秀(心理学者・精神分析学者・思想家)

「肉体的体験の質を変えるテレビ」から抜粋

■天野

自分の身体を感じなくなってしまうような精神状態、からだそのものにリアリティがなくなって、記号的な世界だけで生きているために、肉体的な快感や痛みの感覚が希薄になっているような状態が今の、とくに若い人たちにあるような気がするんですが、岸田さんのご専門で、そういう状態に何か病名はあるんですか。

 

■岸田

離人病なんかはそうですね。英語でいうと、でパーソナライゼーション。

つまり、パーソンであるという感覚がなくなる、自分の肉体も含めて、全てのことに現実感がなくなるという病気ですが、昔からこれは極めて珍しい病気だった。

それが、現代においては、病気というほど深くはなく、軽い形で蔓延しているようですね。

(中略)

元々人間にとって世界とか自己とかは現実感のないものなんです。

人間の場合、現実感は後から出来上がる。社会と関わっていく中で、現実感が身について形成されるのですから、人間関係が希薄になり、社会との関係が希薄になると、形成されていた現実感はすぐにはげ落ちてしまう。

それこそおたく族じゃないけれど、現代は社会と密接な接触をしなくても食べていけるのに困らないわけで、現実感が希薄になってきたのは当然の結果なんですね。


(中略)


「巨大幻想が崩れた向こう側に」から抜粋

■天野

ある意味で、国家というのはボディでしょう。個人がたくさん集まって、一つの身体をなして、国家を作っている。将来、日本が否応なく心理的鎖国をやめなければならなくなったとき、国家でないボディを日本人はどうやって見つけていくんでしょう。

 

■岸田

どうでしょうね。ある理念によってまとまることは、日本人には特にできないし。

 

■天野

天皇をシンボルに、新しい天皇制が出てくる可能性は?

 

■岸田

天皇じゃダメだと思います。今までだって、日本人は天皇でまとまったことなんてない。

日本の近代天皇制は、キリスト教のコピーですからね。

幕末に欧米諸国の脅威にさらされた時、彼らの強さはなんだろうなと考えた。

その結果、キリスト教の唯一絶対神がそれだと気がついて、対抗するために、天皇を神聖不可侵なものとして祭り上げたんです。

おかげで、かろうじて植民地化をまぬがれたという効用はあったにせよ、近代天皇制はしょせん背伸びをした無理なものであって単なる看板に過ぎなかった。

太平洋戦争での日本軍の行動を見ても、建前としては天皇のために忠誠を尽くし。

「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいくことになっているけれど、あれは、みんな嘘ですからね。

日本兵は、そんな動機では戦っていない。

どちらかというと日本兵は、自分の所属する部隊長のために戦っているんです。

顔を知っている部隊長に恥をかかせたくないとかね。

直接知りもしない人間のためになんか、日本人は働かない。

「武士は己を知る人のために死ぬ」と言いまして、自分を知ってくれていない人のためには死なない。

日本人は理念のためには働きも死にもしませんから。

この対談だって、ひとつ島森さんのために引き受けようと思っただけで、「広告批評」の理念に共鳴したわけじゃない。(笑)


文中、島森さんってとても美しい女性で天野さんと


雑誌「広告批評」をつくっておられた方。


雑誌は、2009年に閉刊してしまったが、


自分も購入した記憶がある。


天野さんは元々、大手代理店に勤務されていたのだね。


島森さん共、鬼籍に入られてしまわれたようだ。


それにしても岸田秀さん、すごいこと言うよなー。


右翼とかそう言う方面の方、攻めてこないのかと心配になる。


それはいったん置くとして、今とあんまり変わってないよ、


上の人を恥かかせないようにっていう会社人体質。


そうしたくなくても、そうせざるを得ない


日本の社会人体質って、ほんと、なんなんだろうな。


それは戦前・戦後関係なく同じものなのだろうか。


同じ構造でも中身は違うものなのだろうか。


だとしたら、どうすれば良いのだろうか、って


簡単にはわからないよな。


余談だけど対談本読んで感じたこと。


谷川さん・岸田さん二人の対談に共通するのが、


意図せずに日本が植民地をまぬがれたと明言されてる件。


それと身体を無くしたと言うようなフレーズで。


同音異義語みたいなものなのかもしれないが、


かなり気になった。


昨日買った書籍(養老孟司・CWニコル共著)にも


似たことが書いてあったのはさらなる偶然か。


「頭」だけになってしまった人間の「身体」を


取り戻すには、自然に向き合うことだと。


そんなわけで今日、家の庭の土いじりをしてみたが、


どうだろうか。取り戻せるのか。


そもそも「頭」というほど自分、勉強できないから、


心配ご無用、という声が聞こえてきそうだけど。


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ピーター・フォーク自伝「刑事コロンボ」の素顔 :田中雅子訳(2010年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ピーター・フォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔

ピーター・フォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔

  • 出版社/メーカー: 東邦出版
  • 発売日: 2010/11/18
  • メディア: 単行本

「心を固めるまでに11年もかかった理由」から抜粋

 

なぜ役者になる決意をするまでに、こんなに長い年月がかかってしまったんだろう。

おそらく単純に「怖かったから」に違いない。失敗を恐れる気持ちと一緒さ。

その時分のわたしには「役者たるものこうでなくては」って崇高なまでにロマンティックかつバカバカしいほどに現実離れした理想があった。

そんな恐れを抱くほどの愚かしいロマンティシズムは、一体どれほどのもんだったのやら。

わたしの日中の顔は役所勤めの公務員。

予算管理の専門家のふりをして給金を稼ぎ、そして夜はアマチュア役者へと変身する。

ときは55年の冬、オシニング高校時代の友人ジミー・クローニンが、コネティカット州ニューヘブンで、レパートリー形式の冬季公演を行うという噂を耳にした。

当時そんなレパートリー劇をやった劇をやった劇団はなかったし、ましてや高校時代の同級生がそんなことを始めたなんてにわかに信じられなかった。


自分も小学生時代に鉛筆で漫画書いてたら、ある日のこと。


友達のお姉さんが漫画研究会だったのか、


絵は稚拙だったけど、ケント紙にコマ割りした漫画を


Gペンで書いていてショックを受けた記憶が蘇ってきた。


なんか知らないが「やばっ!俺もやらなきゃ」って思った。


結果的に漫画家ではなく、デザイナーになったんだけど。


陣中見舞いしようと劇場に入ってみると舞台の方から声が聞こえた。

オーケストラボックスに中で誰かが話をしている。

その中にロディ・マクドウォールの姿を見つけたわたしは、とっさに立ち止まった。

彼の話し相手の3人も共演者らしかった。初めてプロの役者と同じ空間にいる体験。

思わず「どんなことを話しているんだろう」と聞き耳を立てたよ。

プロの役者たる彼らの会話、それはわたしなんぞがそれまで聞いたことのないようなウィットやらセンス、才気にきらめいているに違いない、って思ったらそれだけで気が高ぶってきた。

(中略)

そしてお茶を終えた彼らが真横を通り過ぎていく時、はっきり耳に飛び込んできたのは、こんなことだった。

「もし不動産で金儲けしたいなら、ロスに土地を買うことさ。ボブ・ホープみたいにね」

期待したウィットなんてみじんもなかった。

大いにガッカリしたねえ。

とはいえ、彼らのこの言葉がこの世のものとは思えないきらめきを放っていると信じて、あとをつけまわしちゃ盗み聞きしようとした26歳の男は果たしてナイーブか、それともアホか。

うちのカミさんなら一言「アホよ」と即答するだろう。

だけど、そんなアホな真似をした当時の自分のバカバカしいイノセンスを、わたしはくすぐったくもかわいいヤツだと思うし、たぶんうちのカミさんだって半分は同意してくれるだろう。

 

才気溢れる会話は別として、本物の役者っていうには自分を本物だと信じられなくちゃダメさ。

ローレンス・オリヴィエなんかを想像してみるといい。

天賦の才や人を惹きつける磁石のようなものが自分には備わっていると信じることだ。

それがわたしにはなかなかできなかった。

役者になる決断をするまでに、長い時間がかかった一番の理由はそこだろうね。


役者は演技している時きらめいていればいいのであって、


誰も責めを負うようなことじゃないんだけど。


舞台を降りたらただの人間なんだから。


でも、ファンって勝手な幻想抱きがちだよね。


それと踏ん切りつかずに時が流れるってのも、


まあ、普通はそうだよね。


でも奥さんを引き合いに出すところなんて


全くコロンボそのものだよね。


「アンツィオ大作戦」から抜粋

 

1968年「アンツィオ大作戦」っていう映画の出演を打診された。

第二次世界大戦中の連合軍のイタリア上陸作戦の話で、イタリアのロケも予定されていた。

(中略)

「アンツィオ大作戦」はベストを尽くせた芝居だったとはいえないかもしれない。イタリア・ロケは楽しかったけど、そのあいだのわたしはといえば内心、自分のキャリアはもう演じることへの挑戦だけでは立ちゆかなくなってきていることをひしひしと感じていた。

「おかしなおかしなおかしな世界」「7人の愚連隊」「グレートレース」はいずれも楽しい作品だったけど、「アンツイオ大作戦」同様、キャリアを築けた作品かといえば疑問が残る。

自分自身なんとなく失速した感があったし、敷かれたレールの上を行き来してるだけのマンネリから抜け出せてないようにも思えた。

映画畑に10年近くいてオファーは定期的にあったとはいえ、クリリティヴな仕事をしたとは言い切れなかった。

自分が本当に望む役にはなかなか巡り会えず。ワンパターンぎりぎり。

現状に絶望してるわけじゃなかったけれど、方向性には真剣に疑問を抱き始めていた。

だけど、そんな迷いは長くは続かなかった。

わたしの人生を180度変えた役柄に巡り会えたから。

それが”コロンボ警部”との出会いだった。


「コロンボ事始め」から抜粋

 

コロンボの一面は自然体の自分でいればいいから、演じるのはおもしろそうだと思った。

実生活のわたし、ピーター・フォークはさしずめ街角の小僧といった感じ。

着るものだって無頓着だし、おまけに警部に負けず劣らずの変わり者だ。

たとえばおつむが現実離れし、どこか別世界に漂ってしまうところなんかも。

もちろん別世界というのは目の前にある台本の物語の中で、そこから離れてはしないんだけど。

どういうことかっていうと、台本にはコロンボが劇中、なにをどう考えて行動するか書かれてるわけだけど、読んで違和感を感じたりピンとこなかったら、どうすればもっと観るものにおもしろく、魅力的に見えるかってことばかりずっと考え続ける。

それはもう執念といっていいほどにね。

(中略)

知的さをアピールするとが逆にぎこちなくなく見えるから、凡庸な印象を与えるほうがコロンボには居心地いい。

ちょっとおマヌケな方が都合もいい。

たとえば彼がレインコートのポケットをまさぐる時、取り出すのは決定的な証拠を記したなにかと思いきや、カミさんから頼まれた買い物リストだ。


まったく、役を地でいっているような感じ。


あれは演じていたのではないのか、ってくらい。


それと、あまり主旨とは関係ないけど、


なんでこんなにウィットに富んで、


知性的なものを兼ね備えているのか。


なんてったって「はじめに」の文末に


”ミケランジェロと教皇の逸話”や


”ドガの墓石に刻まれている言葉”なんて


引用してるくらいなんで。


欧米の俳優は大体そうなんだって


言われればそれまでなんだけど。


勘だけどかなりの読書家だったとは書いてないけど、


そうだとしか思えない。


役者になる前、役所勤めしてたくらいだから、なのかな。


役者になってからなのか。


それとも経験の中から学んでいったのか。わからない。


余談だけど、この本の原題がイカしてますよ。


” JUST ONE MORE THING:PETER FALK “


日本語訳も素敵で読みやすかったけれど。


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