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普通の生活から感じるシンギュラリティ [’23年以前の”新旧の価値観”]

シンギュラリティが気になる昨今、


落合陽一さんのそれ関係の書も読んでみた。


 



超AI時代の生存戦略

超AI時代の生存戦略

  • 作者: 落合陽一
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2017/05/26
  • メディア: Kindle版 

主題としてシンギュラリティ「34のリスト」


ってことで6年前でこれってすごいなと思いつつ


今それは自分的にあまり気にならずに


何となく気になったものを以下に。


 


第二章 超AI時代の「働き方」


フックの付いた知識


データ量でなく特徴量を記憶に埋め込む


■人間にしかできない「おぼろげな想像力」


から抜粋


暗記するためにノートにひたすら書いたり、何回も唱え続けたりすることはないけれど、ざっくりとフックがかかっている状態、おぼろげにリンクが付いているような状態が、これからの時代に理想的な知識の持ち方だと思う。

 

これはどういう仕組みで、思いつきから実装までたどり着くことができるのか、ということさえ押さえておけば、個別の細かいところはその都度調べたりしながら作ることができるということだ。

この感覚は、これから必要な創造性にとって、もっとも重要な状態になっていると思う。

つまり、「2つのものが抽象的なイメージで合わさったら、どういう答えになるんだろう?」というように、おぼろげなものが重なることによって、人間にしかできない想像力が出てくるのだ。

 

たしか荒俣宏氏が、

「創造性というのは、忘れる能力にかなり依存する」

というようなことを言っていて、確かにそうだと思ったことがある。

問題設定が明らかならば、忘れる能力も重要だと思う。

なぜなら、問題が立っていれば、「これらを組み合わせれば、対象が解ける」ということがわかるけれど、本当の創造性というのは、「複数のものを使って問題を解く」というところより、問題自体はなんだったか、ぼんやりしたところから見つけてくる能力だからだ。


これだけコンピュータが進んでDBも整備されてくると


ご指摘のように全てを知る労力よりあれはあそこら辺に


あったな程度に知っておけば、良いという。


 


話は逸れるかもだが昔わからないことは大人に聞いたが


今は検索で済んでしまうというようなことを


仰っておられたのは所ジョージさんだった。


 


トップ・オブ・トップ


民主主義社会をハックするためのアクセス権を持つ


から抜粋


資格をとろうとする人がたくさんいるけれど、資格の最低保障のものだ。

要するに、最低限、合格だった人たちということをイメージさせるものが資格であって、最低ラインで合格だった人から中流くらいの人までの仕事は、これから先コンピュータがやっていくだろう。

重要なのは、その業界でトップレベルかということだ。

資格を取るようなレッドオーシャンの分野では、トップを目指さないと意味がなくなる。

せっかく資格を取っても、トップじゃないところにいたら意味がないので、何かしらニッチなことでもいいので、まずはトップにならないといけない。

つまり、資格を取って最低限を保障したあとは、そこから賞を取って、「トップであることを示せ」ということだ。

それを目指していかなくてはいけない。


■全員がトップになれる戦い方

こういったことが、コンピュータが労働をするようになってくると、ますます増えていくことになる。

トップ・オブ・トップにならないと意味がないのだが、それは別に99パーセントの人に「死ね」と言っているわけではなくて、100人いれば100通りのトップの取り方があるということだ。

わかりやすい例でいうと、ニッチな賞やニッチな栄誉は、探せばたくさんある。

ニッチな栄誉をもらっていれば、とりあえず居場所は確保される。

そして、「世界的に優秀な賞をもらった人」と、「日本で優秀な賞をもらった人」の違いは、大は小を兼ねる面もあるけれど、日本で賞をもらった人は、

「じゃあ、日本のローカライズなら任せてください」

と言えばいい。

これだけで十分に強い。

だから、トップを取れというのは、必ずしも無理な言い方ではない。

それは、いろいろなところで言えるだろう。


■最低保障で安心してはいけない

何らかしらの分野で一位になる、もしくは、ニッチを制するということは非常に価値がある。

文学を例にとっても、ミステリー大賞を取っている人と芥川賞を取っている人だったら、芥川賞の方が権威があって厳しそうだけど、ミステリー大賞を取っている人の方が謎解き好きには需要がある。

あるいは、「このマンガすごい!」賞の方が、もっとたくさんの読者を集められることだってある。

それがさらにニッチでもいい。

たとえば、観光マニュアルランキング1位は、芥川賞に比べてどういう価値があるのかといったら、観光マニュアルを芥川賞の人に書いてもらおうとは誰も思わない。

そういった中で、そのニッチの一位を取る方が、「一部上場企業に勤めている人」や、「弁護士資格を持っている人」と比べて生き残りやすいかもしれない。

それを意識していかないと、シンギュラリティ的には、ほとんどがコモディティ化してくるので意味がなくなってしまう。

トップ・オブ・トップを目指し、でも、トップ・オブ・トップが必ずしも難しいわけではないという世界になっていくのだから、「最低ラインを保障する戦い方はやめよう」ということだ。


エピローグーーーユビキタス社会からデジタルネイチャーへ


神が死んだ後に残った「人間性」


から抜粋


デカルトが1637年、『方法序説』の中で語ったのは、キリスト教によって規定されていた哲学のパラダイムが、17世紀初頭のコペルニクスーーガリレオ的転回によって崩れ去ったあと、人間の知性を中心として哲学を再構築する人権宣言のようなものだと思う。

その後にホッブスが『リヴァイアサン』を著したり、ジョン・ロックが社会契約説によって、自由について語ったりしたのも、神託=スコラ哲学以降の人間中心発想、そして活版印刷以降のイメージ共有型社会による発想に根差していると言えるだろう。

人間のイメージを思想として形作り共有することで成り立つ社会だ。

メディア装置は人のコミュニケーションに大きな影響を与える。


活版印刷のようなメディアの誕生、誰かの考え方を伝え共有し、その人々の頭の中のイメージとして共同幻想を持つことで社会を保とうとする時代、そんなイメージ共有社会は500年ほど続いた。

そして最後の150年は、エジソンのキネトスコープから始まる映像文化によってマスメディアが強化され、20世紀を映像の世紀にした。

そして、20世紀の大戦によって生み出されたコンピュータ技術は、21世紀をインターネットの時代に変え、イメージ共有社会からの脱却を生み出そうとしている。


この脱却はデカルト以降の最も大きな脱構築の一つだと思う。

私たちはキリスト教の後ろ盾を失った哲学のように、人間性を失った先にある次の科学・哲学を構築する時期に来ている。


人はイメージや記憶の共有によって得られる共同幻想を捨てて、どこに向かうのだろうか。

メディア論や芸術論自体も変わっていくのではないだろうか。

映像の世紀のメディア論は、人間を中心に構築されたものだった。

マーシャル・マクルーハンの「メディア論」は身体性の拡張に根差したものであったし、ジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス議論も身体や視点抜きでは語れないものだ。

しかし、現在私たちは身体を超身体化・合身体化し、「一人称的視点と向き合う自然」といった唯一知性観を脱した。

それはテクノロジーが私たちに促すテクニウム(ケヴィン・ケリーが著書で提唱したテクノロジーの「生態系」を指す造語)的な変化、デジタルネイチャー化する計算機の自然圧力でもある。


楽観的シンギュラリティ:魔法の世紀へ


から抜粋


魔法というパラダイムはさまざまなところで誤解を生みながら伝わっているところがある。

それは、科学技術とまじないの対比構造の中の魔術という意味ではなく、煌びやかで楽しそうなものという受け入れ方をされている節があるが、その言葉の印象自体は、僕は最近一周して気にいるようになった。

ブラックボックス化した科学技術社会は一見すると、コンピュータの奴隷のように振る舞うように見える。

しかし、それを魔法と捉えるか奴隷と捉えるかによってできる印象の差はかなり違うのではないだろうか。

魔法の世紀とするか、奴隷の世紀とするか。

今私たちに求められていることは、シンギュラリティへの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機自然の中で、新たな科学哲学を模索していくことである。


共存というか、良い所を引き出し合う関係、仲間に


人間とAIがなれたらってのは自分も先日ブログで


書いたばかりでございまして


僭越ながら同意する次第でございます。


 


「計算機自然」というのはなかなかに


わかりにくい概念でございますが、


何冊か落合さんの書籍を読むと何となくわかってくる。


今の時点でいうとこういう言葉ってことなんだろう。


 


「デジタルネイチャー」というのも落合さんの造語で、


いわく「デジタルネイティブ」という語はお嫌いだとか。


「デジタルネイティブ」ってどこかの広告代理店が


好んで使いそうで、若干、浅めの印象がする。


ディスっているわけじゃないすよ、代理店を。


 


「コンピュータの奴隷」というのは刺激的な言葉だけど、


AIの進化を良き方向にするためにも


一旦休憩したほうが良いってのは、多くの人が思うのでは、


というのもイーロン・マスク氏が提案してた昨日のニュース、


昨今イーロン氏は良い話がなかったが、これは良いと感じた。


 


 高度なAIの開発中断、マスク氏ら要求 慎重論の背景は? (3月30日配信)


 


余談だけど「科学」「宗教」「哲学」の仕切りが曖昧になり、


将来同義語になるといったのは


カーツワイルさんだったか、ドーキンス氏だったか、


養老先生だったか、柳澤桂子さんだったか。


まあ、普通に生活してる我々でも、そういう感覚は当然ながら


感じてきますよなあ。


自分だけなのかもしれんけど。


 


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