3冊の最終講義からサバイバルを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
第1章「序」
知の巨人、振り返る
から抜粋
実際に七十を迎えてみると、二十歳の人間と自分とは相当違うなところにきているな、という実感があります。
だけど、二十歳の君たちには想像もできないことだろうけど、七十歳になるということはそれはそれで面白いものです。
パッと振り返ってみると、そこに自分の七十年の人生がある。
それが一目で見渡せるんですよ。
四十、五十までは自分の人生を振り返ってみたいなんて、考えもしませんでした。
いつも、そのときどきの「今」を生きることに大忙しでした。
六十になったとき、はじめて、ああ、還暦か、もう六十年も生きてきたのかと、それだけ長く生きてきたことに大きな感慨を持ちましたが、自分の人生を振り返ってみようなどという意識は持ちませんでした。
自分の人生のいろんな年代の持っていた意味があらためて見えてきます。
20代半ばで社会に出るまでは、すべてが社会に出るまでの準備段階だったんだな、とか、社会に出ても最初の十年間は見習い期間みたいなものだったな、とか、大づかみな人生のスペクトル分析ができるわけです。
それとともに、二十代という年齢の持つ危うさが目に見えてきます。
自分自身が二十代に犯した失敗の数々も走馬灯のように目の前をよぎります。
そういう経験を踏まえた上で、今からはっきり予言できることは、君たちの相当部分が、これから数年以内に、人生最大の失敗をいくつかするだろうということです。
失敗には取り返しがつく失敗と、取り返しがつかない失敗があります。
君たちの失敗が後者でないことを祈るばかりです。
失敗とも関係があることなのですが、もうひとつ予言できることは、これから数年以内に、君たちは次から次に予期せぬ事態に巻き込まれて、充分な準備ができないうちに、大きな決断を下すことを何度も何度も迫られるということです。
二十代というのは、そういう年齢なのです。
準備万端ととのえた上で、人生の大きな曲がり角に差し掛かることができる人はほとんどいません。
準備不足は人生の常です。
ということは、必要以上に失敗を恐れることはないということでもあります。
失敗は成功のもととはよく言ったもので、適切な失敗の積み重ねがない人には、将来の成功は訪れてこないということもここで同時に言っておこうと思います。
つまるところ、大切なことは、まず問題に具体的に取り組み始めることです。
そして途中で必ず「何が適切な順序か」分からなくなるという事態に遭遇するでしょうから、そこで集中的に「考える順序の問題と先決問題の議論」に取り組むのがいいということです。
すべての問題には考えるのに適切なタイミングがあります。
早すぎても最適解に達せないし、遅すぎてもいけません。
ピッタリのタイミングで一気に、が一番ですが、現実にはたぶん早すぎたり遅すぎたりの繰り返しでしょう。
考えるタイミングの習熟にも学習が必要だということです。
こういった、正しいものの考え方に関するヒントのようなものは、七十歳になった今、僕が若い人たちに与えてやることができることのひとつかなと思うようになりました。
これから君たちが社会に出ていく際に、決めなければならない重要なことのひとつは、この社会のオモテウラ構造のどのあたりに自分が入っていくかということです。
オモテだけしか知らないナイーヴな純オモテ種族として生きていくか、オモテ社会とウラ社会の間を行き来する両生類として生きていくか、それともウラ社会に身を沈めて生きていきか(それとも全身どっぷり浸かるか半身だけにしておくか)です。
君たちの中で、ウラ社会に全身どっぷり浸かって生きていく道を選択する人はおそらくいないでしょうが、これから社会のどの部分に自分の身を置くかによって、かなりの人に社会のダークサイドと一定の関係を持たざるを得なくなる可能性が出てくるはずです。
何しろ、君たちは知らないでしょうが、日本のGDPの結構な部分が、社会のダークサイドとの交易関係の中で産み出されているのです。
いろんな試算がありますし、また「ブラック」「ダーク」の定義によっても違いますが、GDPの1割は楽に超えているはずです。
これは日本に限った話ではありません。
オモテ世界だけを見ていたのでは、世界の現実はほとんど分かりません。
実際に社会のどこかに身を置いて経済活動、社会活動を始めれば、どこかでダークサイドと接触せざるを得ないというのが世界の現実なのです。
揺れる大地を賢く生きる 京大地球科学教授の最終講義 (角川新書)
- 作者: 鎌田 浩毅
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2022/10/07
- メディア: 新書
はじめに から抜粋
日本の大学では恒例行事として、長年勤めて定年を迎えた教員が行う最後の講義を「最終講義」として一般公開する習わしがあります。
本書は2021年3月10日に、私が京都大学で行った最終講義をもとにして刊行するものです。
最終講義というと通例は、定年退職する教授や准教授が自身の研究人生を歩みをたどり、成果を振り返りながら、来し方について縷々話すことが多いようです。
ところが私の場合はまったくそうなりませんでした。
というのは冒頭で、「昔を振り返っている場合じゃないんです。これから日本列島は大変なんですからね!」と切り出してしまったからです。
今日本列島は揺れています。
東日本大震災以降、日本は地殻の変動期に入ってしまいました。
たとえば、日本列島の活火山には噴火徴候があり、富士山も「噴火スタンバイ状態」にあたるのです。
そして南海トラフ巨大地震は2035年±5年のあいだに発生するだろう、との予測もでています。
これからは、いかに巨大な被害を抑えるか、つまり「減災」の意識がいっそう大切になります。
その意識を持つことが、命を守るための行動につながるからです。
命を失わないこと
から抜粋
世の中には知らなくてもいいことは膨大にあります。
しかし、津波のように知っておかないと命に直結してしまうことが確かにあるのです。
イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561~1626)は、「知識は力なり」という言葉を残しています。
ヨーロッパに経験主義の思想をもたらし、産業革命をはじめとして科学技術が世界を変える基礎を創った学者です。
私自身の学問自体の礎も、実はそこにあります。
「なぜ学問をやっているのか」という問いかけにこう答えます。
「学問は人を幸せをもたらします」、
それを「多くの人に伝えたいのです」、
そして私が得た学問の恩恵を「皆さんにそっくり返したいのです」と。
私たち学者は国からたくさんの研究資金をいただいて、大学という自由に研究できる環境にいます。
特に京都大学には優秀な学生がたくさん集まり、とても幸せな24年間でした。
ちかぢか南海トラフ巨大地震が起きれば、西日本では6000万人が被災すると考えられています。
我が国の総人口の半分に当たるものすごい人数です。
その中には「津波に乗ってサーフィンしてみたい」と考える人もいるかもしれません。
私はそういう人たちをこそ助けたいと思うのです。
津波で命を落としてはなりません。
何があっても命を失わずに、震災後の復興のためにも力を尽くしてもらわないと、日本全体が持たないからです。
だから私の願いをひとことで言えば、「みんな死ぬなよ」なのです。
実際の最終講義では
時間の都合でカットされた
温暖化の一部を引用です。
第5章
地球温暖化は自明ではない
2010年には、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が提出したデータの確実性をめぐって、何人かの研究者が疑義を呈しています。
また、今後十数年間は寒冷化に向かうのだと、主張する地球科学者は少なからずいます。
私自身は、将来にわたって、今の勢いで地球温暖化が進むかどうかは必ずしも自明ではない、と考えています。
たとえば、大規模な火山活動が始まると、地球の平均気温を数℃下げる現象がたびたび起きてきました。
こうした現象からも、温暖化の進行が当然の成り行きではないことは理解していただけるのではないでしょうか。
人口の増大、都市化、経済活動は確かに地球環境に影響を与えてきましたが、実は地球科学の「長尺の目」で見ると、いずれ地球という大自然が吸収してくれる程度のものなのです。
人間による環境破壊には由々しきもの、目に余るものが多々ありますが、地球全体の営力から見ると小さいということも知っておいていただきたいと思います。
よって結果としては温暖化と寒冷化、双方の対策をすべきということに結論付けられるのです。
第8章
地球46億年の命をつなぐ
「長尺の目」で見る、ということ
から抜粋
ここで私たち地球科学者は、長期的にエネルギーの流れを考慮して、こう提案します。
「もう一度フローの時代に戻す必要がある」と。
フローとは、本当に必要なエネルギーだけを使い、余分なものはつくらない、という状態です。
食物にしても、食べられる量だけ生産し、都市のゴミで6割も捨てられるような無駄を出さないようにします。
同時に、世界のどこかで餓死者が生まれるような配分のアンバランスを解消して、過剰なストックから適度なフローへと転換する必要があります。
ちなみに、日本の古典文化にはフローの発想が通奏低音として流れています。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みにうかぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
鴨長明(1155~1216)は『方丈記』にこう記しました。
水も歴史も生命も時間も、すべては流れていきます。
そのような流れに乗って、人生をゆっくり生きることはとても大事なことです。
無理に流れに抵抗せず、流れを楽しむことこそ、日本的な「フロー」の完成ではないかと思っています。
「存在しないもの」からシグナルを聴き取る
から抜粋
西洋では「リベラルアーツ」と呼ぶものを東洋では「六芸(りくげい)」と呼びます。
孔子が君子の学ぶべきものにあげた6つの技芸です。
つまり、礼・楽・御・射・書・数です。
礼とは死者を祀ること、楽は音楽、御は馬を操ること、射は弓を射ること、書は字を書くこと、数は計算することです。
第一位に来るのは礼です。儀礼のことです。死者を祀る、あるいは鬼神を祀る。
「死者」というのは「もう存在しない」ものです。
しかし「存在するとは別の仕方」で生きている者たちに生々しく触れてくる。
「生物と無生物のあいだ」にわだかまっているもの、それが死者です。
手持ちの計測器では計量されないものは「存在しない」と断言する人たちは、その語のほんとうの意味での科学者ではありません。
「何かがあるような気がする」という直感を手がかりに、かすかな「ざわめき」を聞き取ろうとする人たちこそが自然科学の領域におけるフロントランナーたちなんです。
「存在しないもの」からのシグナルを聴き取ろうとすることは私たちの世界経験にとって少しも例外的なことではありません。
むしろ、わたしたちの世界を構築しているのは「存在しないもの」なんです。
音楽もそうです。
音楽とは、「もう聴こえない音」がまだ聴こえていて、「まだ聴こえない音」がもう聴かれているという経験のことです。
過去と未来に自分の感覚射程を拡げていくことなしには、音楽は存立しえない。
ある単独の時間における単独の楽音というものは存在しないからです。
メロディーもリズムも、もう聴こえなくなった過去の空気の振動がまだ現在も響き続け、まだ聴こえていないはずの未来の空気振動が先駆的に先取りされている、そういう「過去と未来」の両方に手を伸ばしていける人間だけが聴き取ることができるものです。
ですから、楽も礼と同じく、「存在しないもの」にかかわる技芸だということになります。
言葉もそうです。
僕たちはいつだって実はもう「存在しないもの」とかかわっているわけです。
「存在しないもの」とのかかわりなしに、我々は人間であることができないのです。