[改題] 柳澤先生2冊の本から科学と宗教を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
柳澤桂子さんの書籍はどれも
興味深いけれど、この本は本当に
面白いというと語弊あり
なんと表現していいかわからない。
あえていうなら、精神が
深すぎて、綺麗すぎて
「まぶしい」書籍でございます。
「宗教」から抜粋
私は、科学と宗教は相容れないとは考えていません。21世紀には、宗教も科学によって解明されると思っています。人間にとって、宗教はたいせつなものであると私は思っています。ただし、わたしが思い描いているのは、質の高い宗教です。人間性の超越へと向かう宗教です。祈りは瞑想として、すばらしいと思いますが、神に寄りかかる宗教、願い事をする祈りは次元の低い宗教です。まさに、ボンヘッファーのいう通り、「神の前に、神とともに、神なしに生きる」のです。※ディートリヒ・ボンヘッファー=ドイツの教会の牧師。キリスト教神学者。
最近、ドーキンスさんなどの
科学系の書籍を読んでいたので
改めてこの言葉に触れると
考えさせられる。
実はこの書籍は
ご紹介させていただいているのだけど
この言葉は忘れられないため
密かにメモしてて
最近読み返してみて、
これを引いておかないと手落ちだなと
思っただけという拙い動機でございます。
動機は拙いけど、
柳澤先生のこの言葉は
宇宙のように深淵です。
さらにもう一冊でございます。
エピローグから抜粋
知の女神、アルマ・マターの足元にひれ伏して、自然の驚異の一端について教えを乞うという姿勢は失われた。人間は自然を自分のしもべとしてかしずかせ、それをお金儲けに利用しようとしているのである。知を一つの文化として、芸術として、人間の精神世界の営みを守っていこうという姿勢をたもつことは困難になってきた。
DNAは地球上に生命が誕生して以来書き継がれている、地球上最古にして最新の古文書である。それには、「われわれはどこからきたのか」「われわれは何か」ということが書かれている。そのような文書を人間が地球上ではじめて読み解くということは、たいへんうれしいことである。しかも、実用面でも役にたつ。
しかし、その文書には、「われわれはどこへいくのか」ということは書かれていない。ゴーギャンが貧困と病苦の中で発したすべてには答えられないのである。さらに、この文書には、「人間はいかにあるべきか」ということも、人間存在の意味も書かれてはないない。
目先の欲に振り回されて、人間たちが自己を失ったとき、私たちは取り返しのつかない失敗をおかすであろう。今こそ、宇宙スケールで人間存在の意味を真摯に問い直さなければならない。
科学は人々に大きな恩恵をもたらしてくれるが、万能ではない。むしろ科学が苦しみをもたらすこともあるということを身をもって体験した。この体験は、私の科学に対する考え方を変化させたと感じている。
私は敗北した科学者として、科学に苦しめられたものとして、それでもなお科学を愛してやまない者として、科学と人間存在について多くの方々に真剣に考えていただきたいと強く願う者である。
柳澤先生が、幼少期から植物に興味を持ち
父親の影響で科学に強くひかれ
高校で研究、アメリカ留学でさらに追求
得難い体験をする静謐な空気が
閉じ込められている。
知の女神、アルマ・マターについて
コロンビア大学在学中に
図書館近くに鎮座していた銅像があり
ここを通るのを楽しみにされていた
逸話が出てきて、美しい感性だなあ
と思わずにいられなかった。
文章の高みに比べたら
どんな賞も見劣りしますけれどね
柳澤さんの文章ならば。