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ぼくの住まい論:内田樹著(2011年) [’23年以前の”新旧の価値観”]



ぼくの住まい論

ぼくの住まい論

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/07/27
  • メディア: 単行本

表4の紹介文から抜粋

神戸の一隅に著者の自宅兼道場「凱風館(がいふうかん)」が竣工した。

思想家・武道家の家づくりの哲学とはーー書斎、合気道稽古、能舞台、寺小屋学塾、安眠……住まうことは生きること、教育の奇跡を信じ、次世代への贈り物としてウチダタツルが考え抜いた「住まいの思想」。


1 土地を買う


母港としての学校 から抜粋


教師を長くやってきてわかったことの一つは「学びの場」は、そこで学んだ人たちにとって、生涯変わることのない「母港」でなければいけないということです。

いつも同じ場所にあって、船の出入りを見守っている。

学校というのはそうでなければいけない。


卒業生は転職とか結婚とか人生の節目のときに、よく大学を訪ねてきます。


いつでも帰ってこられる場所があると思っていられるのは、ずいぶん心強いことだと思うんです。

別に帰ってこなくてもいい。

「帰れるところがある」と思っている人と、そんな場所がない人では、人生の選択肢の数が違う。

当たり前ですけど、「退路のある」人の方が発想がずっと自由になれる。

ずっと冒険的になれる。


親子関係も同じじゃないかと思います。

10年ほど前に高校を卒業した娘が東京へ行くときに、ぼくが娘に言ったのは二つだけです。

「金なら貸すぞ」と「困ったらいつでも帰っておいで」。

親が子どもに向かって言ってあげられる言葉はこれに尽きるんじゃないでしょうか。

泊まるところがなかったら、いつだって君のためのご飯とベッドは用意してあるよ。

この言葉だけは親はどんなことがあっても意地でも言い続けなければいけないと思うんです。

「そんなに甘やかすと自立の妨げになる」と苦言を言う人もいますけれど、ぼくはそれは違うと思う。


「人間は弱い」というのがぼくの人間観の根本なんです。

だから、最優先の仕事はどうやってもその弱い人間を慰め、癒し、支援する場を安定的に確保するか、です。

「家」は何よりもまず「集団内でいちばん弱いメンバー」のためのものであるべきだとぼくは思います。

幼児や妊婦や病人や老人が、「そこでならほっと安心できる場所」であるように家は設計されなければいけない。


家は、メンバーのポテンシャルを高めたり、競争に勝つために鍛えたりするための場じゃない。

外に出て、傷つき、力尽き、壊れてしまったメンバーがその傷を癒してまた外へ出て行く元気を回復するための備えの場であるべきだとぼくは思っています。

「おかえり」という言葉がいつでも用意されている場であるべきだと思っています。


家族の誰かが


「おかえり」というのが


「家」で用意されている場であるべきと。


その「安心」が担保されない辛さを


感じたことのある人は


同時にその大切さも知っている


という公式は本当によくわかる。


「家」は未来永劫、安心の象徴で


あって欲しいものです。


未来永劫変わらないものなぞ、


ないんだけれど。


 


毎年GWに恒例行事として


家族同士の付き合いのある


奈良にある一家では


経済合理主義が優先され、


壊滅状態の今の日本の林業の中でも


自分たちの哲学で営まれているという


内田さんと響き合ったのだろう。


 


3 材木を得る(京都・美山篇)


5分の1以下になった材木価格


小林家の方たちとのかかわりを通じて、山を守ることがいかに大変で、その営みによって日本人全体がどれほどの恩恵を受けているか、そして、そのことのありがたさにどれほど忘恩のふるまいで報いているのかをぼくは学びました。

だから、割高かもしれないけれど、ぼくは美山の杉と美濃の檜を使って家を建てる。

そのような、「不合理な消費行動」をとる消費者が多ければ多いほど、市場における消費者のふるまいは予測しがたいものになる。

たしかに、企業側からすれば迷惑なことでしょう。

彼らからすれば、すべての消費者が斉一的(せいいつてき)に同一商品に群がることによって、「最小のコストで最大の利益」を見込めるわけですから。

でも、企業が収益を最大化する市場を作り上げることは、社会が安全になることを意味するわけでもないし、国民生活が安定することを意味するわけでもない。


むしろ、現にそうなっていない。


おのれの行動がもたらす長期的な社会的影響をまったく考えに入れずに、短期的に最も交換比率の良い買い物をするのは未熟な消費者です。

若い世代の人たちは、どうやらそのことをもう直感的にわかっているように見えます。

そのせいで若い世代はもう物欲を示さなくなった。

彼らのあまりにも「無欲」なふるまいに企業や広告代理店は困惑しています。

けれども、それは「マーケティング」とか「ターゲット」とかいう言葉でコントロールしてきた「古い」タイプの消費モデルが失効しつつあることの指標だろうとぼくは思っています。


5 職人と出会う


アンチ効率主義としての職人 から抜粋


先日、大阪大学総長を退任された鷲田清一(わしだきよかず)先生の講演を聴きに行きました。

その中で、先生は

「文明が進めば進むほど、自然の暴威によって破壊されるものが大きくなる」

という寺田寅彦の言葉を引き合いに出して、現代都市の脆弱さについて言及されていました。


そのときの鷲田先生のお話には、ぼくも深い共感を覚えました。

今の社会の基本原理は「選択と集中」「分業と効率」ですが、それは実はずいぶん危険なことではないかと思います。

「とりあえず、身の回りにある『ありもの』を使い回して、生き延びる知恵」、レヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ」の知恵と技術が今の文明社会では、ほとんど顧みられることがありません。


TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)がそのような発想の典型だと思います。

世界中の国が分業する。

それぞれに専門特化する。

金融の国、工業生産の国、労働者を送り出す国、食糧生産の国というふうに分かれる。

たしかに、うまく流通が回れば、それがいちばん便利なのかも知れません。

でも、戦争やテロや自然災害で一度ロジスティックスが止まれば、あるいは財政の失敗で外貨を失えば、あるいは国内に疫病が蔓延すれば、たちまち国民生活の基本資源が停止してしまう。

いくら手元に外貨があっても、食糧さえ手に入らない。


グローバル化というのは、そのリスクを負うことです。

仮にコストが高くついても、効率が悪くても、生産性が低くても、国民生活の必要なミニマムは国内で生産ができる。

それだけの資源があり、技術があることは、国民国家が生き延びるためにはどうしても必要な「保険」だろうとぼくは思っています。

「よそから買う方が安い」ものでも、それが手に入らない場合を考えたら、「うちで手作りできる」体制を整えておいた方がいい。


8ぼくの住まい論


貨幣は退蔵を好まない から抜粋


凱風館は基本的には皆さまからの「浄財」を積み上げて作られました。

これは公共性の高い場を立ち上げたいというぼくの願いに共感してくださった方たちから寄せられたものです。

ぼくが私的な快楽や自分の趣味の空間を作ろうとしたら、「好きにしたら」と言われるだけで、誰も財布を開いてくれなかったでしょう。

これはパブリックな機能を果たすものだからこそ出来上がった。

だから、凱風館はぼくの私物ではなくて、光嶋くんの本のタイトルのとおり「みんなの家」なのです。


自己利益ではなくて、公共の利益をはかる。これもまた逆説的ですけれど、そのような構えでいた方が、結果的に自己利益も確保できる。

そのほうが貨幣の本質にかなっているから。

貨幣というのは交換を加速するために発明された商品です。

ただし、持っていても何の役にも立たない。

洟(はな)もかめないし、メモ用紙にもならないし、トイレットペーパーの代わりにも使えない。

貨幣の唯一の商品性格は「他の商品と交換しないと、意味がない」ということだけです。

だから、「貨幣を退蔵する」というのは、貨幣の本性に反しているのです。

貨幣の本性を活かすために、手元に来たら間髪を容れずにただちに次のプレイヤーにパスをしなければなりません。


貨幣は好運動的なものです。

激しく流れ動いているところに集まりたがり、滞留しているところを嫌う。


人間の欲望には生理的な限界があります。

ひとりの人間が所有して、消費できるお金には上限がある。

どんなに美食をしようとしても、1日に3回しか食事はできない。

どれほど美服を着ようとしても、身体はひとつしかない。

どれほど、豪邸に住もうとしても、一夜に1軒でしか寝ることができない。

身体的な欲求をベースに消費していれば、いずれ「身体という限界」に行き着きます。

それを超えることはできない。

それを超えた消費をしようとしたら、もうあとは「貨幣で貨幣を買う」しかできない。

不動産を買ったり、株や債券を買ったり、ダイヤモンドや金を買ったりしている人たちがいますけれど、彼らは「金で金を買っている」にすぎません。


文庫版のためのあとがき


2014年11月 凱風館にて から抜粋


ぼくの抱いていて道場の原イメージは、寺田ヒロオの『もうれつ先生』の「もうれつ道場」なのですが、実はもう一つあります。

それは『姿三四郎』の矢野正五郎が最初に道場を借りて彼の「紘道館(こうどうかん)」を開設した隆昌寺でした。


物語の紘道館は誰かの私的所有物ではない。

誰かが専一的に管理しているわけではない。

道を求める人たちが修業できるようにつねに開放されている。

道場というのはそのようなものでなければならない、そういう刷り込みを僕は年少の頃になされたようです。

「自分の道場がほしい」というのは、僕がいてもいなくても、門人たちがそこに集まることができ、思う存分稽古ができる場を作りたいということだったと思います。

凱風館でその夢が実現しました。

道場は僕の統御を離れて、自立的に動き始めています。

すでに凱風館には固有の力学が生まれ、固有の法則が走っています。


さすが内田先生、ただの「住居論」とか


「道場竣工までの道のり」


のようなものになっておらず


思想で埋め尽くされている。


思想家だから当然か。


それにしても、設計をされた方の解説も面白かった。


 


解説


「みんなの家」に吹いた凱風が開いたもの


光嶋祐介 から抜粋


さて、凱風館が竣工すると、真新しい畳を敷き詰めた道場に続々と門人たちがやって来て、生き生きと稽古を始めました。

それを見ているうちに私は、自分も合気道がしてみたくて、いてもたってもいられなくなりました。


しかし、私が内田先生に弟子入りを志願したのは、合気道に対する好奇心からだけではありません。

自分が誠心誠意を込めて設計し、現場管理をしながらつくり上げた初めての建築である凱風館が、どのようにして生命を得ていくかをこの眼で見たかったからでもあるのです。


初めての仕事の設計士に選ぶ


内田先生もすごいけど


光嶋さんという設計士もすごい。


そういう磁場が発生しているのだろうな


人にも建物にも。


 


音楽に例えるとわかりやすいけど


良い音楽家って


良いクリエイティブチームで


創っていることって多いと思う。


ちとわかりにくいか。


 


「創造」っていうと、


違和感あるかもしれないけど


「良い仕事」っていう括りにすると


それは「良いチーム」が支えている、


という公式に自分なんかは


全身全霊で同意してしまう。


余談だけど内田先生風にいうと


満腔(まんこう)の同意となります。


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