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新世紀デジタル講義:立花隆共著(2000年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

「はじめに 立花隆」から抜粋


(略)

読み方は自由である。はじめから終わりまで

順に読まなければ訳がわからなくなるという本ではない。

順に読めば、必ずわかるという本でもない。

しかし、コンピュータにさわったこともなければ、

初歩的な知識も全くないという人は、はじめから

終わりまで読んでもチンプンカンプンだろう。

(略)

標準的読み方としては、序章と「情報原論」までは

順に読み(これとて、関心がなければトバシ読みしてよい)、

あとは自分の持てる知識と関心に応じて、

適宜拾い読み、トバシ読みしていくのがよい。

情報の本は読者のレベルに違いがありすぎるから、

著者の側で厳密にターゲットをしぼりきれない。

その分、読者の側で読み方を工夫して調整して

もらう他ない。

積極的に拾い読み、トバシ読みをすすめるからといって、

これは軽い本ではない。

相当の知識レベルの人でも、「ああ、そうなのか」と

思わずうなる部分が随所にあるはずである。

積極的に拾い読み、トバシ読みをすすめるのは、

それが、情報が氾濫する現代社会において、

情報リッチに生き抜いていくためにまず

身につけなければならない情報摂取の

基本ワザであるからだ。

情報摂取量は、基本的に「情報摂取に費やされる時間」と

「摂取する情報の情報密度」の積である。

情報密度とは、「単位時間の情報摂取で得られる有効情報量」

すなわち「情報の濃さ」といってもよい。

時間のほうはみんな限られた時間しか持っていない

のだから(学習時間としても、一生の持ち時間としても)

大切なのはいかにして、「摂取する情報の情報密度」を

あげるかである。そのための基本戦略は二つある。

一つは、できるだけ濃い情報を選んで摂取すること、

もう一つは、情報を摂取する過程でそれを自分で

濃縮して情報密度をあげることである。

濃い情報を選んでも、それが自分の摂取能力を超えて

濃い場合は、情報摂取の流れを遅くしてしまうので、

スループット全体(流量と濃さの積)は落ちてしまう。

後者の戦略は多少薄めの情報でも、どんどん流して、

その中から有効情報をできるだけ能率よく

拾いあげることで、スループットを上げようという

戦略である。

本の読み方でいえば、厳選された良書を精読、

熟読するのが前者の戦略。

後者は、拾い読み、トバシ読みでもよいから、

できるだけ多読、乱読するという方法である。

これまで、読書法、学習法というと、前者の戦略が

もっぱらよしとされ、後者の効用を強調する人は

あまりいなかった。

しかし私は、自分の多年にわたる経験からして、

大切なのは、前者より後者であると思っている。

そしてこれからの時代、社会の情報流通量は増える一方

(各人の情報接触量は増える一方)なのだから、

後者の重要性がますます増していくと思っている。

つまり、これからの時代、その基本ワザである。

拾い読み、トバシ読みの技術はどうしたって

身につける必要があるということである。

その要諦を一言でいえば、とにかくわかるところだけ

拾ってガンガン読んでいくということである。

わからないところはとりあえず後回しにして、

とにかく先に進めということである。

ひっかかっても、止まってはいけない。

とにかく進むことである。

場合によっては、何十ページにもわたって、

ただページをめくるだけに終わるかもしれない。

それでもとにかく最後までページを

めくってみることだ。

それが決してムダに終わらないということは

やってみればわかる。

そういう経験を経ることによって本当の

多読能力がついていくのである。


ということで紅茶を淹れる時間以外は、一気読みしてみた。


というか、おおよそ自分の読書はこれを模しているのだけど。


「情報原論」から抜粋


哲学を扱うプログラムなんて、いくらだってできます。

ここではそれを深く論じませんが、

人間の頭でやっていることは、それが論理的なことで

ある限り(ここが大事なところです)、

すべてコンピュータにやらせることができます。

要は、人間が頭の中でやっている作業を論理的に解体し、

それをコンピュータにできないのは、論理がない、

シリメツレツなことだけです(世の哲学と称するものの中には

そのたぐいのものが結構あるのは困ったことです)。

ーーーシリメツレツなことは絶対にできないのかといったら、

そうでもありません。

乱数発生回数を利用して、情報処理過程にランダムネスを入れるなど、

確立過程を導入するなどによって、シリメツレツなことを

やらせることができます。

(略)

従って、コンピュータに感情とか感性を導入することも

できます。

芸術的表現をさせることもできます。

要はプログラム次第です。

デザイン(設計)の問題です。あとは、コンピュータに

何をさせたいかという具体的個別的な応用の問題になります。


AIが感情を持つとやばい、って議論は前からあったけど。


20年前から着目してたとは。


というか、感情や哲学が持てるって話してるので


この時点で先んじてる。


私的なことだけど、昨日とある福祉系の研修の最終日、


計画の学習をしたのだけど、


講師曰く、今すでに情報を入力すれば


計画はAIで作成され始めているから


今後はそれを受けての業務になるだろう的な事を仰り


これから先、人間の仕事はどうなるのだろう、と


考えていた矢先だった。


本の話に戻すと、このあと「情報」について


「伊藤博文の情報戦略(1999年)」などから


引用しつつ、情報の定義に話は及び、最後に以下になだれ込む。


よくよく考えてみると、情報というのは不思議なものです。

それは実体があるようで、ないものです。

それはいかなる意味でも、物質ではありません。

しかしそれは確実に物質のあり方に大きな影響を

与えるものです。物質に直接の影響を与えることは

できませんが、物質に作用を及ぼすパワーを

持つ者(物)に対して、そのパワー行使のあり方に

決定的な影響を及ぼすことで、物質のあり方を

大きく変えることができるのです。

情報のパワーは、情報それ自体のパワーではなく

情報力を行使する者のパワーとして発現するのです。

この情報と物質というものの、まか不思議な関係に

思いを及ぼすとき、ぼくが思い出してしまうのは、

道元禅師「正法眼蔵」の次のくだりです。

 

 人のさとりをうる、

 水に月のやどるがごとし。

 月ぬれず、水やぶれず。

 ひろくおほきなるひかりにてあれど、

 尺寸の水にやどり、

 全月も弥天(みてん)も、

 くさの露にもやどり、

 一滴の水にもやどる。

 さとりの人をやぶらざる事、

 月の水をうがたざるごとし

 

情報とは、この「人のさとり」のようなものだと

思うのです。

それは、物質的実体がない、人の頭の中にある

情報(世界の基本的見方にかかわるパターン)に

すぎないのに、確かに、人のあり方を決定的に変えるのです。

それは水に映じた月の像のように、取り出そうとしても、

コンピュータのモニター上の光と影の

パターン(画像の記号列)としてしか取り出せないのに、

この世界の現実のあり方を変えるパワーを持つものなのです。

そういう意味で、先の引用の中にある、

「情報は物質・エネルギーと並んで自然を

構成する二大要素の一つである」

というくだりは、実に含蓄に富んだ表現だと

いうことができます。

物質とエネルギーは別々のものに見えるが、

相対論によって実は同じものであることが

証明されています。物質という視点から見るかぎり、

世界は「物質=エネルギー」という唯一の実体の

あらわれだということです。

しかし、それが世界のすべてかというと

そうではないわけです。

「物質=エネルギー」の他に、もうひとつ情報というものが

必要なのです。

世界は物質という視点から以外に、情報という視点から

見る必要があるということです。

物質のあり方を決定するのは情報だからです。

情報は「世界を構成する二大要素の一つ」というのは、

全く正しいといわざるをえません。

アリストテレスは、世界は質料と形相に

分けられるといいましたが、これを現代風に翻訳すれば、

世界は物質と情報にわけられるということでしょう。

情報とは、形相なのです。


なんか深い。何度も読みたい。


まさに「詩」みたいに思えるのは自分だけか。


そして、立花さん以外で幾人かの研究論文的な


考察を挟みつつ、この本の解説的なポジションで


締めくくられます。そこから以下抜粋。


インターネットと教育 村井純(2002年慶應大学教授)


成功の犠牲者という言葉がありますが、

最近のインターネットやコンピュータに対する

もろもろの誤解がまさにそれです。

インターネットという言葉自体は単なる固有名詞で、

本来はTCP/IPでつながったネットワークというほどの

意味しかありません。

ところが、その登場が社会に与えたインパクトが

あまりに大きかったので、例えば電子掲示板の2ちゃんねる等

だけに着目して「インターネットの世界は匿名だ」という

誤解がまかり通っています。

しかし、技術的にはインターネットの

どこにも匿名性などはない。

誤解が一人歩きしてしまっています。

サイエンスやテクノロジーに対する正しい理解が

欠如していることは、社会にとっても弊害です。

最近では住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)導入に

関する個人情報の取り扱いについての議論もありましたが、

新聞をみると社説などに「マスコミの敵だ」などと書いてある。

しかし、なぜそんな話になるのか、住基ネットとは何か、

なぜ国がやるのか、セキュリティとは何か、IDとは何か、

その原理をきちんと知っている人は少ないでしょう。

なんとその新聞の社説ですら、大間違いの科学的理解に

基づいて書かれているのも散見します。

そしてその間違いの上に議論が重ねられる。

この辺の無神経さは、近ごろますます

酷くなっているように思えます。

デジタル情報の自由な流通基盤をこの社会に造るというのが、

インターネットの本当のゴールだと私は考えています。

インターネットは、数値の情報を扱っているシステムで、

強い信念に基づいてデザインされている自律分散性の

アーキテクチャ(基本理念)があるため、地球上にいる

一人一人の力や知恵を合わせる基盤になり得る。

だからインターネットは社会にとっても重要だということが、

本来のコンセプトなのです。

ところが、本来の理念とは別のものが、

インパクトを持って社会に受け入れられてしまっているため、

かえってその印象が邪魔になり、本当のことを

伝えにくくなっている。

今は、そうした現状も考慮しつつ、デジタル技術の基本的理解を

しっかりしておくということが、ますます大事になってきます。

(略)

私はこの「新世紀デジタル講義」は、まさに

コンピュータサイエンスに対する社会の理解を

一歩進めたと思います。

そして、特筆したいのはこの本がタテ書きだということです。

これは、それだけで意味がある。普通は、デジタル技術を

解説しようと思うと、自然とヨコ書きになるもので、

私の著作もほとんどがヨコ書きです。

タテ書きの本を二冊(「インターネット」「インターネットII」)

だけ出しましたが、その時には

「お前、タテ書きの本を書くようになったら終わりだよ」

と、仲間の研究者たちから言われたものです。

というのも、この分野のタテ書きの本には、

正直言っていい加減な本が多いためです。

(略)

日本のインターネットの初期は東大や慶應などの

コンピュータサイエンティストたちの快適さえを

考えているだけで良かった。

彼らだけがユーザーだったからです。

しかし、現在は世界中の人と産業と行政の幸せを

考えることが必要です。これを政治の世界だ、

ビジネスの世界だ、と枠を作って考えてはいけない。

政治家も財界人も説得できないと、技術が現実的な

価値を持ちえないのです。


Web黎明期のことを思い出して、


こういった議論は盛んだったし


今も是正されているとは言い難いと感じた。


自分はその頃インターネット関連の仕事してたから


なんとなく掴めたところあるけれど、この本が


全くわからんってなると時代に対応していくのは


難しいって話なんだろう。


他、感想だけど


かなり専門的で、かつ質が細やかで


網羅的な内容の価値の高い情報で、


(まさに、これが立花隆さんなんだろうな)


これらの知識とか知見がはっきりではなくても


具備しているか、いないかで人類の行く末は


違ってくるのだろうな、と。


また、そう思う一方で、この本は20年以上


経過していることも事実で


テクノロジーやツールの発達が目覚ましいから


どこまで理解すれば、「具備」と言えるのかも


微妙だなあというのも感じた。


余談で僭越ですけれど、ここら周辺の人たちの知性を


配したチーム編成であって欲しい、デジタル庁。


ビジネスはもういいから、って


誰しも思っているだろうな、と。


読みながら、既得権益ってもう


時代にそぐわないと痛感した。


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