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伊藤嘉昭先生の2冊から”人間の業”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

沖縄やんばるの森―世界的な自然をなぜ守れないのか


沖縄やんばるの森―世界的な自然をなぜ守れないのか

  • 作者: 伊藤 嘉昭
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1995/12/12
  • メディア: 単行本

柴谷篤弘先生の書に、伊藤先生のお名前を


見つけて、手にした書が


久方ぶりの伊藤先生マインド炸裂だった。


問題の展望ーーまえがきにかえて


種の絶滅は世界の問題


から抜粋


この本で書こうとするのは、日本復帰後20年間に沖縄に起こった、ものすごい自然破壊、特に山原(やんばる)といわれる沖縄本島北部の森林破壊の実状報告と、それに対し何ができるかの考察である。

この破壊とたたかう運動は、困難のなかで草の根的に勧められているが、ここでは一生態学者の視点から、この破壊をどう見るかを書こうとした。

特別珍しい動物がいようといまいと、自然破壊は人間にとって大きな問題である。


数十、数百ヘクタールという程度でも、森林の伐採が、森という天然の貯水池を無くしてしまい、旱魃時には水不足、そして豪雨時には大洪水をひきおこした例は、日本各地にも、そして海外にも実に多いし、この大洪水は海を汚し、漁業の存立を危なくしてします。

そして人々は、憩いと健康回復の場所をなくすのである。


しかし、世界中でそこにしかいない特異な生物種のすむ場所の自然破壊は、そのような地域、島、あるいは一国の問題にとどまらず、世界にとっての大問題であり、破壊に関係した政府、自治体が各国から避難を受けることになる。

森は何十年かかけて復活しても、滅びた種は地球上にもうもどらないのだ。


私と沖縄ーーミミバエ根絶事業からこんにちまで


から抜粋


本の中では、ずいぶん沖縄の県政や沖縄の人の議論も批判した。

沖縄の人には、他県の人間による沖縄の批判を嫌がる人も多い。

また沖縄に住む他県出身者も批判を遠慮する。

しかし私は、1972年から1978年までウリミバエ、ミカンコミバエ根絶事業の初代主任昆虫学者として県職員になって沖縄に滞在していた頃から、「沖縄をほめる本土人を信用するな」と言い続けてきた。


お客として滞在している人や企業や役所の仕事で来ている人は、沖縄の人の前では沖縄をほめ、その後自分たちだけになったときは悪口を言うのである。

だがこの島に住み、真剣に島の将来を考えるなら、批判せずにはいられないことがあまりにも多い。


世界的な昆虫行動学者。系統学者の坂上昭一氏は、ハチの研究と教育で滞在したブラジルを心から愛し、自著『私のブラジルとそのハチたち』(思索社、1975年)の巻頭にブラジル語でブラジルの友への献辞まで書いたが、氏は言う。

「ブラジルの友にはいつもブラジルの悪口ばかりいっている。だがちょっとブラジルに来た日本人がブラジルの悪口をいうと、怒って反論してしまう」。

こういう人が真の友なのだと思う。


しかしウリミバエ、ミカンコミバエの根絶事業は成功し、本書で問題とするやんばるにも、かつてはつくっても本土に売ることが許されなかったマンゴーやタンカンの栽培がずいぶん増えてきた。


もちろん、20年を費やした事業には、私だけでなく、たくさんの昆虫学者が関わったのだが、基礎研究の徹底的重視と、業績を英文論文で発表し世界的な討議の中から道を見出そうという基本方針は、私が立てて以来一貫して取られてきた。

現在、沖縄県農業試験場と県ミバエ対策事業所をあわせた応用昆虫学者の学問的能力は、日本の都道府県立農業研究期間中のトップである。


ところでこの基礎工作を、私はまったく非官庁的なやりかたで進めてきた(あの仕事は官庁的なやり方では決して成功しなかったと信ずる)。

尻ぬぐいに困った上司もずいぶん多かったろう。

しかしこの仕事による滞在の期間に、私はどこからもだいたいほめられ、そして実際に、沖縄に役に立つことをやったと思う。


それに対し、今回は、私は相当多くの人から悪くいわれるだろう。

野生生物を守れなんていうのは都会人のたわごとだ、なにより予算の獲得だ、金になる事業だ、という空気は、沖縄の場合、役人ばかりでなく、「革新」といわれる人・団体の中にさえ、まだ強い。


でも本書に書いたことは、将来の沖縄にとって(そしてやんばるにとって)必ず役に立つ問題提起の第一歩だと考えている(間に合うことを切に望む)。

いまほめる人は少ないかも知れないが、この意見を残しておきたい。

本書は、いってみれば私の沖縄への遺書のようなものなのである。


あとがき から抜粋


もう繰り返すまでもあるまい。

やんばるの自然とそこにすむ固有種たち、世界の宝は、まさに危機にある。

何種かはもう遅いかも知れない。

県庁の方針の即時大転回が必要である。

いますぐすべきことを繰り返し列挙しておく。


1、絶滅危惧種・危急種の分布と個体数調査

2、天然林の皆伐の中止

3、林道の延長工事の中止

4、大国林道の通行制限。騒音、ゴミ投棄の禁止。

5、天然林改良事業による下生え完全刈り取りの中止。

6、少なくとも数百ヘクタール規模の鳥獣特別保護区の新設。

7、マングース、野猫、野犬の即時駆除。

8、タイワンスジオの即時根絶

9、学会推薦の学者・研究者たちを含むやんばるの自然を守る特別委員会の設置。


実際にいままでの県のやりかたは、全く自然破壊そのものであり、国も「県の責任」と称して(ほとんどが国税なのに)それを放置してきたのである。


じつは県庁内にこれを心配している人たちがいないのではない。

文中何回も引用したように、県立博物館学芸員、県立高校教師、県立衛生環境研究所職員の中に、勇気を持って(と私は信ずる)森林皆伐や赤土流出の害を調査し、発表してきた人たちはずいぶんいる。

県庁がそれらの人の意見を聞こうとしないのである(その主な原因は農林水産部林務課の力に比べて、レッドデータブック記載種を扱う環境保険部自然保護課と天然記念物を扱う教育庁文化課の力があまりにも弱い、すなわち知事部局に軽視されている、ということである)。


だが私は、たとえ自分の将来がかかっていようとも、あえていうべきことをいう県職員の増加を期待したい。

1970年代、塩素系農薬の残留を発表したため、私の友人の農林省試験場職員が何人も始末書をとられ、高知県、愛知県などの職員が危険をかけて発表・発言した。

彼らは自分の将来の不利を承知で動いたのである。


しかし、ついに塩素系農薬使用禁止が勝ち取られたのち、これらの人が農林省などの実際の指導スタッフになったのであった(私はメーデー事件の裁判に引っかかって休職中だったので、始末書などの危険はなかった。しかし休職がとけたとき、日本昆虫学史上最大の予算をつけてミバエ根絶事業を私にさせた幹部もいたのである)。


琉球大学にも、以前は池原貞雄氏はじめ多くの、自然保護のため県に直言するのをいとわぬ人たちがいた。

現在もいないわけではないが、県の提灯持ちのような人の発言に比して、発言は以前よりずっと少ないように思える。

何ら処分される恐れがない身分であることを考えると、残念である。


全国の応援態勢も、石垣白保空港の場合などに比べて大変弱い。

それを打破し、やんばるの貴重な自然を守る運動が日本人の責任と自覚され、本土に広まるなら、本書の目的の大半が達せられたことになる。


この書の2年後の書は写真中心で


破壊がいかに進んでしまったかが


分かるものになっている。


ゴルフ場、国道開発。


バブルも終わった頃なのにという疑問が残る。


沖縄やんばる・亜熱帯の森―この世界の宝をこわすな


沖縄やんばる・亜熱帯の森―この世界の宝をこわすな

  • 出版社/メーカー: 高文研
  • 発売日: 1997/11/01
  • メディア: 単行本


伊藤先生危惧されていた


世界遺産への登録、


2年前の2021年7月ユネスコ


世界自然遺産に登録された模様。


ということは、伊藤先生の鳴らした鐘が


響いたということなのだろうか。


環境問題(都市開発)は原発産業と


似ている構造で雇用を促進する反面、


その代償があまりにも大きくて贖えない。


ヒトはどうしても短期中心に考えるから


中長期で物事を考えられないことが多い。


個人の力ではどうにもならないと思いつつ


高い意識を個人で持つことが


まずは大事であると思うしそうありたい。


矛盾するようだけど。


これって人間の”性”、”業”みたいな


ものなのだろうか…。


だとしてもそれで片付けてしまうには


あまりにも忍びないものがあるのだけれども。


沖縄には15年くらい前に


行ったことはあるが、逆に


豊かな自然は感じたものの


この本に書かれていたことはスルーだったし


もともと、縁もゆかりもほぼない


自分がキャッチできる領域ではないのかも


知れないが、何だか沖縄だけの問題とは思えず


渋い気持ちで拝読・拝見させていただき


やはり自然は大切だよなあと痛感、


卑近な話になってしまうけれど


庭の土壌改良をしたいと思い198円で


買ってきた土をまいた休日なのでございました。


 


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柳澤桂子先生の書から”リアル”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

認められぬ病―現代医療への根源的問い (中公文庫)


認められぬ病―現代医療への根源的問い (中公文庫)

  • 作者: 柳澤 桂子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1998/02/18
  • メディア: 文庫

寝る前に、コツコツ読める本があるのは


自分にとってかなり至福の状態であり


この書もその一つではあるのだけれど


辛い、の一言であります。


何度か途中で本を伏せて天を仰がざるを得ない


現実、リアルな書だった。


10 抗コリン剤の副作用!


から抜粋


入院してから丸3ヶ月が過ぎた。

検査の結果についても説明のないまま日がたっていくことに焦りを感じはじめていた。

その頃から私は立って歩くとふらつくようになった。

日を追ってその感じは強くなっていく。


主治医の坂本にそのことを告げたが、気にしないようにとのことであった。


幾部屋か先にあるトイレまで歩くことが困難になってきた。

看護婦にも話してみたが、先生から介護の許可が出ていないので、なんとかして自分で歩くようにという。


辛かった。這って行きたかった。

となりのベッドの人のスリッパを借りて、手に履いてトイレまで這って行こうかと真剣に考えたが、パジャマを着て廊下を這っている自分の姿を思うと勇気がなかった。

廊下の壁にしがみついて歩いた。


また1ヶ月が過ぎた。

症状はひどくなる一方であった。

1分間に72前後であった脈拍は40前後に減っている。

朝起きて立ち上がった途端にめまい、腹痛、おう吐が起こるようになった。


卵巣を摘出するまで月に一度起こっていた腹痛発作と、まったくおなじである。

それが、毎日、あるいは1日おきという頻度で起こった。


新聞が目の前にあっても、それを手にとって読もうという気持ちはまったく起こらない。

大好きな読書もしなくなり、音楽も聴かなくなった。

「まるで植物みたい」

自分でつぶやいて、はっとした。

「そうだ。植物だ」

どうしてそのとき、ひらめいたのか自分でも不思議であった。

しかし、一瞬にして私には読めたのである。


動物には交感神経と副交感神経があり、そのふたつが拮抗的に働いている。

怒ると交感神経が活発になり、心臓は早く打ち、怒髪天を衝く状態になる。

副交感神経はそれと反対の作用をもっている。


副交感神経が優位になると、心は穏やかになり、逆に消化器系が活発に動きはじめる。

このような特性から、交感神経を動物神経、副交感神経を植物神経と呼ぶこともある。


私は自分の状態を、副交感神経が異常に優位にたった状態と判断した。

抗コリン剤は副交感神経の働きを抑える薬である。

それを多量に長期にわたって服用したために、副交感神経が逆にコントロールを逸脱して、異常に活発に働きはじめたのだと考えた。

生体が薬物に対してそのように反応することは、長年生物を扱ってきた私には容易に想像がついた。

「抗コリン剤の副作用!」

からだを戰りつが走った。すぐに薬を止めようと思った。

痛みくらい我慢すれば良いのだ。


念のために私は主治医の坂本にもう一度、これまでに服用した抗コリン剤の量を告げ、その副作用について聞いてみた。

坂本の答えははっきりしていた。

「こういう薬はどこの病院でも長期に投与するもので、副作用の心配は絶対にありません」

私は退院を決意した。


あとがき


から抜粋


私の医療体験の中で最も辛かったことを、ここでもう一度繰り返すと、病気の原因が精神的なものであるといわれたことではなく、精神的な原因で病気になるような人には手を貸す必要がないという態度で接せられたことである。


長年に及ぶこのような扱いの繰り返しの中で、私は自分自身が何か罪を犯した人間として責められているような気持ちにさせられていった。

このように強く感じさせるものが医療の中にあった。


この後、精神的疾患の患者を品位の低いもの


とみなすことを糺すエピソードが出てくる。


”身体”と”精神”で根本的な機構に差はない


ということがこれからはっきりしてくるだろうと


ご指摘され、40年前から比べれば柳沢先生の


言説におよそ近くなっていると感じるのは


心療内科という文字が多く目につくようになった


ただいま現在の街の病院のサインが証明している。


それにしても、この書は”告発”ではなく、


”警鐘”であるというスタンスというか態度で、


手術され卵巣摘出されても治らず


合わない薬を投与され続けていても


フィクションの形になっていたり、


闘病中に父上が肺炎で亡くなった時、


若い医療スタッフの適切な処置と思えない


対応と説明なきまま、無言の帰宅をされた


父上を囲んだ家族会議の際、


その医師や看護婦の未来を閉ざしたくない


とされる父上譲りの未来志向なポジティブさにも


桂子先生らしさが現れていると感じた。


そういうところで争うつもりはなく


医療のシステムへの”警鐘”であるという点。


それは一旦おいておいて、何度も入院されての


出会いと別れの小さなエピソードも忘れ難い。


エピソード自体は小さくても確実にあった


ヒトの人生であり、リアルであったという証か。


また、研究員だった頃の話もあり、学者さんって


こういうことを思うのだなあ、というのも印象的。


アメリカまでいき手塩にかけ育てたマウスたちが


四苦八苦ありつつやっと予定通り育ち、


いよいよ研究結果の朝4時に眠れずに


そのまま研究所に向かわれる。


1 今は手術の時期ではない


から抜粋


正常マウス由来の細胞は球状の大きなかたまりをつくっていた。

一方、異常なマウスの細胞のかたまりは小さく形も不規則である。

正常な細胞と異常な細胞では細胞間の接着性にちがいがある。

それはおそらく細胞の表面にあって細胞の接着に関与している分子にちがいがあるのであろう。

これでこのマウスのもつ異常を分子レベルで追求していく手がかりが得られたことになる。


外はすっかり明るくなっていた。

私のからだは感動に震え、静かに目をつぶった。

神様、おそらく人類として最初にこの事実を知った人間がここにいます

信仰を持たない私にも、神は感じられた。


研究とは神との対話である。

謙虚に自然に対して耳を傾けるとき、何かが語られることがある。

与えられるのである。

自分が発見したなどと考えることはできない。


研究の様もわかる貴重なエピソード類もあり


現代医療を問うという違う意味でも


興味深い、読ませる書だった。というのは


妻と子供が交代で寝込んでいたため


家族が欠けるといかに家の中が暗いかを


リアルに感じたここ半月だったからだろう。


 


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